地理学的エピローグ

2016年 1月 20日更新

◎放置しすぎてすみませんでした
  最近、少し自分の時間が取れるようになりました。ところが、どこを見渡してもそうですが、地理学を取り巻く状況は非常に厳しいものがあります。特に、人文・社会系統の研究や実績が社会生活に直結した効果が見られないという風潮が強くなり、これらの基礎的研究が軽視される傾向にあります。
  かく言う秀樹クン自身もなんだか自信がなくなってきました。勉強会に参加するメンバーも限られてきたり、少なくなってきているのが実情です。この閉塞的状況(どこも同じですが)何とかなりませんかねぇ〜。

◎福井豪雨から10周年

  今年の7月で福井豪雨から10年を迎えます。おかげさまで、水害からは早く復旧し、今は災害の爪跡を残すものは殆どなくなりました。月刊「地理」にもあれこれ書かせていただきました。「地理=防災」という図式もできあがったようで、地形上のことや、避難経路、まちづくりなど地理学がかかわっていかなければならない課題も多く見受けられます。まちづくりと合わせて、隣近所のコミュニティも密にしていかなければなりません。
 地区の役員活動などを通じて、秀樹クンも近所では「知らないオジサン」で通すことができなくなりました。ま、生まれ育った地域は大切にせよということですかね。水害の復旧から地区の景観は随分変わりましたが、やはり、時間の経過とともに少しずつ愛着がわいてきます。春日公園には「破堤地」の記念碑ができました。近くの地蔵尊にも新しい祠が出来上がり、毎年8月にはお祭りがあります。毎日の通勤には必ず通るところで、勤務先の同僚・先輩職員はもちろん、幼馴染とであうこともあります。地蔵さまが繋いでくださった「ご縁」大切にしたいですね。
 パソコンを入れ替えて、OSおよびホームページソフトの著しいバージョンアップ。対応がわからなくなり放置状態の「ホームページ」。こちらも少しずつ復旧していきます。ちいさな地理の情報をお伝えしますので、お暇な折には見てください。

◎蜜柑がたくさんできました

  秀樹クンの実家には樹齢45年ほどの蜜柑(温州みかん)の木があります。北陸地方では蜜柑栽培が困難なのですが、父親が雪囲いをしたり収穫後にはたくさんの肥料を施したりと世話に余念がありません。だいたい一定量の収穫があるのですが、それでも年によってばらつきがあります。今年はたくさんの収穫がありました。実のたくさんできる年は大雪になるとか。そういえば急激に寒くなりました。お風邪など召しませぬよう、お身体の方ご自愛ください。
 以前、月刊「地理」でも書きましたが、秀樹説では福井県あたりは蜜柑栽培の北限と考えています。通常では収穫が困難です。福井県内でも敦賀市、福井市(越廼地区)では観光ミカン園が現在もあります。米作困難な所、急傾斜地がミカン栽培の地に選ばれているようです。福井県でも近年の果樹栽培は三方五湖付近や南越前町(旧河野村)などウメが多くなっています。このほか、あわら市・坂井市では柿・ナシの栽培が盛んです。もう少し資料があって、自分の調査力があれば「地理」にいいレポートが書けたのですが、今後の課題ですね。
 話をもとに戻して、福井県はミカン栽培の北限、その逆にリンゴ栽培の南限と考えてもよいのではないでしょうか。地理学的には境界線上は収穫量は落ちますが、採れたときは味は抜群とのこと。福井県内ではリンゴ栽培はないと思いますが、石川県、富山県、兵庫県豊岡市ではリンゴ農家があります。北緯36度線上、リンゴ栽培の南限とでも言えましょうか。
 いま、実家のミカンの木にはいくつかの実を残してあります。日没が早いこのごろ、黄色い実が映えますね。「地理の会」で以前巡検した神奈川県秦野市もだいたい北緯36度線上。こちらにも崖地や急傾斜地にミカン(夏ミカンか?)の実が冬の日差しに映えていました。丸い大きな実を見ていると何だか心安らぎますね。

我が家のミカンの木です 敦賀市内の観光ミカン園前にて。
急傾斜地にミカンの木があります。
神奈川県秦野市内で
我が家と同じ
家庭内の樹木として育っています


◎福井豪雨

  7月18日未明にはものすごい雨で目が覚めました。外を見ると下水の水が溢れています。嫌な予感がしましたが、10時頃には雨も上がって晴れてきました。秀樹くんの実家(目と鼻の先ですが)冠水していないか心配で、見に行きました。案の定、一面水浸しで、4人がかりで車庫に貯まった水を掻き出しました。
  お昼近くになって、ようやく水が引いてきました。やれ一休みといったところでしょうか。「素麺でもゆでて食べましょう」と母の声、有難いですね。一食浮きました。さて食べましょうと箸を付けるやいなや、「足羽川が氾濫しそうです。避難してください」と消防の宣伝車が巡回してきました。昼食も途中で避難の準備をしに家に帰りました。ところが、近所の人が「もう、堤防が切れた」とわめき散らしています。聞くと、一本木地蔵尊の所とか、セーレン体育館だとかいろんな情報が入り交じってどれが本当か分かりません。自宅から数100M先が決壊場所であることは間違いありません。瞬間的に多くの準備はできません。僅かの現金と着替え、タオル類をもって避難所に向かいました。歩いていると、どこからともなく濁流が押し寄せてきます。腰まで水に浸かって避難所に行くこともできず、結局、近くの中学校で一市職員として避難所の世話をしました。

7月18日午後5時30分頃
福井市木田1丁目付近。
まだ7,80センチの水位が
あります。下水とガソリンの
入り交じった臭いが辺り一面
たちこめています。
福井市明倫中学校から
避難先の中学校の一階が
水没したので二階に
上がりました。
福井市明倫中学校から
二階から遠望すると、日赤病院の屋上ヘリポートに次々と
救助者が運ばれてきます。
7月18日午後6時頃
福井市春日3丁目付近。
写真奥が堤防決壊現場。
これより先は、立ち入りが禁止されていた。

  避難所の中学校では、そのうち停電、断水。外からの情報が全くない中、「水はないか」「炊き出しはまだか」とか、やれ割り箸だとか(何に使うのでしょう)、絆創膏はあるかに至るまで、市民にドやされていました。傷口を消毒したり、年寄りの愚痴を聞いたり、6時頃には水もずいぶん引いたので、物資で学校にないものは我が家から持ち出したりと、引っ張りだこはいいんだけど、秀樹くん少々バテます。といっても他に何もすることがないので、我が家との往復の折りにデジカメを持ち出して辺りの状況を写真に収めたのが上の4枚。ようやく7時に炊きだしの配布。8時から10時に救援物資(毛布、衣類など)配布。10時30分頃、NHK職員によるテレビ取り付けでようやく付近の情報を得る…といった状況。
  11時頃、市長・助役・総務部長、知事・内務省の方、保健婦の巡回。体調に異常をきたした方はいないようで、まずは一安心(ドやすエネルギーあるんだもの、みなさん元気! 元気!!…ここだけの話)。  

◎京福電車は?

  今年7月20日にえちぜん鉄道として第三セクター方式により運転を再開しました。「えち鉄」という人もいます。何だか変です。永平寺口(東古市)−勝山間は設備の点検上運転を再開していませんが、福井−三国港、福井−永平寺口は30分ごとのダイヤで運転されています。軌道の交通手段の定時性改めて見直されたのではないでしょうか。長らく続いていたてバスによる代行輸送も終わりました。京阪や京都バス、名鉄から借りてきたと思われる塗装もそのままの車両も殆ど目にすることがなくなりました。関西や中京方面からきた塗装のバスが走っていて、ちょっとした異国情緒があふれていたフェニックス通り(大名町通り)も今は元の風情に戻りました。塗装のみならず、「石山自動車学校」なんて釣り広告もあったりして、あれはきっと京阪の営業所から来たバスなんでしょう。
  下の4枚の写真も現在では併行するJR北陸線の高架工事がずいぶん進んで、同じ場所でも景観が変わってきました。足羽川にも新しい鉄橋ができて福井の大動脈ももうしばらくで世代交代のようです。最近撮影のものと見較べてみてください。
  

福井口駅。勝山方面の越前本線と、三国・芦原方面の三芦線との分岐点です。朝夕は乗り換えの高校生で狭いホームが混み合います。1両編成の電車は利用者にとっては不便ですね。車両基地がそばにあって、たくさんの電車を見ることができます。 新福井駅横の観音町踏切にて。正式には宝永踏切といいます。JRと京福の複々線区間で電車の往来がたくさんあります。幼少の頃は電車を見に父に連れられてよくここまで来ました。子供にとっては踏切は楽しいのですが、通行人にとっては「開かずの踏切」です。2分30秒ごとに電車が通るという統計まであります。 新福井は京福福井駅の次の駅です。かつては立派な駅舎があってホームには金魚の泳ぐ池もありました。のどかな時代もあったのですが、現在はなんとも無味乾燥なたたずまい。 自家用車のなかった我が家では海水浴に行くのは京福電車を利用していました。海水浴のシーズンには駅で名物「酒まんじゅう」の販売もありました。あのころと変わらぬ駅舎で、ただ変わったのは利用者が少ないこと。それでもここから先の安島・崎の集落へ、何人かの高校生が帰っていく姿を見かけました。
福井口駅(平成13年11月撮影)
駅舎はひっそりとしています。
左中央に少し高架の橋桁を見るこ
とができます。
同じく新福井駅。高架の橋桁が
よく分かります。
高架下は工事の人たちの事務所
となっています。
福井駅仮駅舎。下が京福電車の
乗り場。(JRとの乗り換えが不便)
以前は京福マートやパン屋さん
などがあって、結構賑やかでした。