長瀬正枝著・「お町さん」

 この小説は現在(1986年11月現在)、カリフォルニア州サンデイエゴにあるアメリカ海軍太平洋艦隊の基地に勤務しているマサコ・デイーンが母・道官咲子の里方にあたる石川県加賀市の門出家に向かうところから始まる。そして著者・長瀬は「道官咲子碑」の前で彼女と初対面する。
 
 
 
 7月12日朝・牧田氏撮影

 昭和20年8月15日の満州・・太平洋戦争が敗戦で終わった。敗戦で肩をすぼめて歩いている大勢の日本人の中で、ただ一人背筋をしゃんと伸ばし、会う人ごとに、「日本に帰るまで、がんばりましょう」と元気よく声をかけている姿。戦争が終わったというのに、地味な着物にモンペ姿、髪は満州では珍しい束髪であった。
その時、彼女は大きな唐草模様の風呂敷包みを背負っていた。
私(著者)の問いかけに、母は「怪我をしている兵隊さんたちの包帯を作る木綿の布を集めてるんですよ」と教えてくれた。
母から、その女性がお町さんだと聞かされ、意外だった。私の家の並びにある石川酒屋に以前から出入りしていた珍しい髪型のおばさんだったからである。

 敗戦直後、お町さんはソ連兵が安東に進駐した際、恐ろしい風聞しかないソ連兵を歓迎し、接待した。
そのおかげで安東では、奉天、新京のように一般女性の被害が少ないと母たちは噂していた。小学生の私に全てが理解できた訳ではない。が、とてもいまわしく、恐ろしいことだと感じていた。そんな噂の主人公を以前から見知っていたことを誇らしく感じていた。

敗戦から一年。昭和21年秋、待ちに待った帰国列車の第一陣が安東駅を発車、日本人の顔が希望に輝いた。その時、「お町さんが銃殺されたらしい」。突如彼女についてはじめて暗い噂が安東の街を走った。

日本人を励まし、大勢の人を救いながら、なぜ銃殺されたのか。善いことをした人は幸せになる。と教えられてきた十一歳の私の胸に、疑問が残り、朝鮮の三十八度線を超え、意識の底で疑問がトゲとなって思い出された。

 お町さんの碑が福井県金津町吉崎にある。それを知ったのは、彼女が銃殺されて三十年経っていた。

私が初めて碑の前に立ったのは、昭和五十年九月十五日。
マサコ・デイーンと私を結んでいるのは、全長八尺八寸の「道官咲子碑」である。道官咲子は、マサコ・デイーンの母。そして、私は道官咲子が持つもう一つの通称「お町さん」を十余年、いや、正確に言えば
四十年間意識の底のトゲの痛みで追い続けてきた。

 墓碑の前でマサコは「何でも聞いてください。私は母が八路兵に連れ去られる時、そばにいて見てましたし・・。あまりにいろいろなことがありすぎましたから、何からお話すればいいのか・・」。

 さて、著者はお町さんの取材を金津町吉崎にある「願慶寺」の住職の案内で顕彰碑に向かう。碑には昭和三十一年四月八日之建」と刻まれていた。

 敗戦時、安東は北満から南下した開拓団の難民や瀋陽方面からきた避難民約八十万もの日本人がごった返し、その上人民政府の粛清工作が激しかったので身のおきどころもない多くの邦人は、途方にくれ道官さんをたよってきた。彼女は巧みに人民政府の目を逃れて食糧をあたえ、変装させて逃した人は数えきれないほどあったという。二十一年六月このことが人民政府にわかり、道官さんはスパイとして逮捕され、同年八月二日安東郊外の東炊子で銃殺刑となった。

著者が資料として見た彼女の戸籍謄本には、<福井県坂井郡芦原村井江葭第十九号参拾四番地、道官吉松養女「道官咲子」と入籍されている>と書いてあった。

石碑位置

 著者・長瀬はこの時点から満州・安東で咲子と交流のあった邦人たちへの聞き取りを開始する。
彼らの目に写った咲子の実像は、相手が上流中流下流であることを問わず性を問わず、無限に強く無限に優しい女だったということである。一口で言えば女丈夫というところか。

 敗戦直前、満州に入ってきたソ連兵は対ドイツ戦線で銃弾の雨をかいくぐってきた兵たちであった。加えて囚人兵グループであったから乱暴狼藉婦女暴行し放題という予断を邦人たちは持って戦々恐々としていた。

そのソ連兵たちと咲子は五分に渡り合った。確かに乱暴なソ連兵も沢山いたが、咲子は「人間みな同じ。戦争が人間を狂気にしてしまう」という信念を持っていたのだろう。
その信念は渡満するまでの咲子の辛苦的半生によってかたちづくられていたとぼくは思う(若き日の咲子は芦原温泉の某旅館で働いていた)。

 山の手の住宅に居たソ連兵の姿が見えなくなった頃から、安東に不穏な空気が漂いはじめる。共産党八路軍を支持するソ連軍の撤退を機会に、安東から八路軍を締め出し、そのあとに国民党国府軍を迎え入れるという国民党運動が活発になる。折も折、「国民党が支配する地域では帰国が始まった」との噂が流れる。

国民党熱は高まり、十月二十四日未明、日本人会がある協和会館の屋上で志を同じくする「愛国先鋒隊」の結成式が行われる。
その後いろいろあって愛国党先鋒隊と八路軍との戦闘が始まったが、この戦闘の結果、国民党系勢力は一層され、安東市は完全に共産党八路軍の政治下に移行し、国民党系公安局も八路軍に接収された。

 安東の産業は殆ど停止。日本人が生活の糧を得る場はなくなった。ただ「安寧飯店」と「松月」が収入のある唯一の場所となった。
「安寧飯店」の営業を始めてからのお町さんの日課は、ひそかに門を叩く女性たちと会うこと。

 吉崎・願慶寺の住職和田轟一氏の弟朝倉喜祐氏は「湯池子温泉から持って来た皿、茶碗を道端で売らしてもらって、日当を差し引いた残りで米を買って日満ホテルの地下にいる人や、鎮江山の方にあったお寺にいる難民に配りました。それもお町さんからだとは絶対に言わないでくれということでした」と言う。

 通訳をしていた高松氏(広島在住)もその一人である。
「米を買って幾つかに分け、あちこちに運びました。どこへ持って行ったかと言われても覚えがないほどです。除隊兵の仲間から、どこの街のどの建物に難民がいるかを聞いて殆ど毎日順番に運びました。みんなもらっても誰からなんて聞かなかったし、聞かれてもお町さんの名前を出してはいかんということでした。どうしてでしょうかね」

なぜお町さんが名前を伏せたか、私には分かるような気がする。店は生きるために志願した女性たちで成り立っている。だが、彼女たちが肉体的、精神的な犠牲を払っていることに変わりはない。お町さんにしてもそれが、安東の被害をくい止める方法だと分かってはいても、それを、大義名分として掲げる気にはならなかった。多分、そのあたりに理由がありそうに思える。

 話を戻そう。
昭和二十年十一月五日。安東の街角に今まで見たことのない「開放新聞」が貼られ、「共産党八路軍は安東に新政府を樹立した」という大見出しが人々の目をひく。
新政府樹立が公表されると、浅葱色の木綿の綿入れの冬服に、同じ色の帽子をかぶった八路兵の姿が見られるようになった。

新政府は自らの政策を着々と進めた。先ず「開放学校」の開校。ここで共産思想を学ばせ共産党員を養成し、共産社会を確立しようとした。教員は延安で直々に毛沢東から教育を受けた日本人。捕虜になった元日本兵が配属された。定員は二百名。その殆どが元日本兵で、その中には青年将校から見習士官まで含まれていたと噂された。

 ここで除隊兵の説明をすると
敗戦後、日本からの命令は何もなされなかった。従って、正式な除隊命令はどこからも出されていない。(日本兵は進駐したソ連兵に武装解除をされたあとソ連に抑留された。その数四十万八千人「滿蒙終戦史より」)安東にいた殆どの旧日本兵は、ソ連軍の攻撃に遭って部隊を離れた者、ソ連に抑留されるところを逃げた者など脱走兵に等しい。除隊兵とは彼等が自ら名乗った名称である。

 そして「清算運動」がはじまる。
「清算運動」とは、不当な手段で手に入れた財産を中国人の一般民衆に搬出すること。つまり、「日本人が持っているものは、偽満州国を侵略し現地人を酷使して得た財産で、資本主義が搾取した物だ。ただちに中国民衆に返還せよ」というのが根本理念だった。
官吏、警察、特務機関、憲兵、軍属、資本家の検挙が済むと一般民間人の逮捕がはじまる。
 逮捕の人選に活躍したのは新省政府八路軍に協力するために中国人で組織された人民自衛軍の兵士たちだった。彼らは敗戦まで方々の会社、商社などの使用人で、比較的軽視された中国人たち。敗戦まで、日本人の横暴をまともにかぶる生活を送っていた。そんな中国人が人民自衛軍兵士の権威を持った。新省政府は、彼らの情報で動く。八路軍の取り調べ機関は、呂司令部、公安局、東カン(土ヘン+欠)子監獄の三箇所であった。

 司令部は事情聴取の後、罪状によって銃殺刑を執行する。が、身代金を支払えば釈放になる場合もあった。公安局は取り調べが主で重罪の判定を下すと司令部か東カン(土ヘン+欠)子監獄に身柄が引き渡される。東カン(土ヘン+欠)子監獄は八路軍からは、共産思想を理解させる教育機関だと説明があった。だが、釈放されることは稀で、二度と姿を見ることができなかった人は何百人か、つかむことが困難である。後には「片道切符の東カン(土ヘン+欠)子監獄」と言われ、日本人には恐ろしい存在となる。
安東での逮捕者は二千五百名、そのうち、三百名が処刑と記録にある。

前述の「安寧飯店」
平服の中国人たちは客のいない頃を見計らったように現れ女性たちに酒を振る舞い、世間話をしながら後から入ってくる平服の中国人と背中合わせに座って、さりげなく言葉を交わす。
店に来る八路兵もやはり油断できない相手といえた。正規の共産党教育を受けた八路兵は酒とか女に手を出すような兵隊ではない。だから、店に出入りする八路兵は服装は同じでも自衛軍の兵士としか考えられなかった。

 ソ連兵撤退のあと、安東に入ってきたのは国民党ではなく八路兵だっだ。昭和二十一年十二月中旬、渡辺蘭治安東省次長は八路軍により、鴨緑江岸で民衆裁判に伏され、戦犯として市中をひきまわされたうえ、銃剣で虐殺された。
「滿蒙終戦史」にこの項を書いた金沢辰夫は、渡辺省次長の遺体を八路軍と交渉して引き取ってきた一人だった。
「酷かった。膝、肩、額の貫通銃創、そのほか全身に銃弾のカスリ傷がありました。最初致命傷を与えない程度にしておいて、最後に背中から胸に刺し通された傷で命を落とされたのでしょう。とにかく、惨殺に近い処刑でした。」そう話す。

渡辺省次長が力を入れたのは、省次長としての任務の一つ、紅匪の討伐である。敗戦と同時に紅匪は毛沢東を主席とする共産党八路軍を編成、「封建主義打倒」「農民開放」をスローガンとして中国の大地を掌握してきた。彼等は貧困にあえぐ中国民衆を救うために、赤旗の下、信念にもとづいて行動した。
渡辺省次長もまた、日本の政策に従って、未開の地に文明の光をあてることに意義を感じそれを正したいと信じて任務を遂行したのだ。だが、日本は戦いに敗れ、国家の責めを負って八路軍に処刑された。まさに、血を血で賠う結果となる。

 「民衆裁判」
 この言葉が日本人たちの心を暗くする。
「民衆裁判」は各会社、各工場の職工組合の中国人が参加して行う。この裁判には通訳がつけられないのが常であった。
対象となる日本人が観衆の前に引き出される。何人かの中国人が、被告の経歴と罪状を声高らかに読み上げる。それに対する証人が幾人か民衆に向かって訴える「訴苦(スーク)」。長い長い糾弾が続き、聴衆が早くどちらかに決まってほしいと思いはじめる頃、裁判長とおぼしき人物が姿を現し、「死刑」か「釈放」かと民衆に問いかける。判決は二つのうちどちらか。執行猶予はない。
 群衆のなかに、あらかじめ幾人かの指導者が紛れ込み、裁判長の呼びかけに≪殺!≫と叫ぶ。それにつられて≪殺!≫≪打殺!≫の声が湧き上がる。死刑を望むシュピレヒコールが会場を埋めつくすと、それが判決になる。
「民衆裁判」は、いわば群集心理を利用し、被告を死刑にする「死の裁判」ともいえる。刑場は錦江山の坂を下りた所の競馬場。六道溝側にある満鉄の敷地で、駅近くの線路脇の広場などがあてられていた。銃弾に倒れた官民有力者の中には、かって湯池子温泉旅館の客だった人も多勢いた。その頃戦犯と知人であることさえ、はばかられる時期で、国民党運動をしている人とつきあいがあるだけで連行される。そんな中でお町さんは店を営業していた。

 お町さんと近しかった浜崎氏の話。
「そんな寒い夜でした。逮捕された人たちのことが話題になったのは。≪司令部や東カン(土ヘン+欠)子は寒いだろうね。防寒用のもの、差し入れできないだろうか、突然言い出しました。≪日本の警察ならあったけど八路軍に通用するかどうか・・・≫と言うと、≪やってみなくちゃわからないでしょ。ついでに面会も頼んでみるわ≫
お町さん、簡単に言うんですよ。僕は正直言って不安でした。逮捕される時理由がわからないまま連行される場合が殆どだし・・。浜崎専務とお町さんが日本人会でつながりのあったこともか分かってる。浜崎さんは八路から追われている。もし、差し入れに行った相手が国民党運動員だったりするとこっちの命取りになりかねないのでね。
だが、お町さんは、「あたしなら一応女だから引っぱられることはないでしょ。ソ連接待の実績もあるし、店をやってるから、その関係で頼まれたといえば、つながりをごまかすこともできるわよ。とにかく行ってみるわ。」と後へは引かない。お町さんは女だから大丈夫と思いこんでいるが、反動分子に性別はない。それに、八路の目を逃れ、さすらいの旅をしている人たちに宿を提供している。頼まれたら断ることができないお町さん。考えれば他にも禁止令を犯しているかもしれない。

 「あたしは、差し入れに挑戦するからね。明日から準備にかかってよ」とお町さんは言う。

 安寧飯店は、ソ連軍撤退後、客足がかなり減る。が、開店当初に取り決めた通りの線で営業を続け、運営資金に余裕がでると、米を買い、市内に点在する難民の所に配った。
けれども余裕がなくなり、殆どそのすべを見出しかねていた時に、「白米、餅、味噌、醤油等々、それも少なからぬ量を荷車で持ってきてくれたグループの引率者が、現在の映画俳優・芦田伸介。その縁で、お町さん石碑の除幕式には芦田伸介も出席している。

 昭和二十一年に入ると八路軍による国民党排斥運動はエスカレートする。邦人たちは「八路に協力するなら国民党びいきの人の名前を言え」と迫られ助かりたい一心で適当に名前を言う。密告は横行し、いつ引っぱられるかわからない不安な雲が安東を覆い、日本人同士でも信用できなくなる。安東の人たちの口は重くなり、情報も失われていく。お町さんにしてみれば、日本人でありながら、難民の救済は何一つせず、八路軍の手先になっている日僑工作隊の手先になっている連中に協力する気にはなれなかったのだろう。

 「滿蒙終戦史」の記録より
 「国民党地下組織と協力する旧日本軍除隊兵の一団が日本人密集地区である安東市五番通りで、昭和二十一年一月十八日午後二時、中共軍(八路軍)の劉日僑工作班長を銃殺した。司令部は非常に憤慨して、報復措置として、五番通り在住の500家族、約二千名の即時立ち退きを強行に要求し、全員をひとまず協和会館に収容し、その後安東競馬場に移し、四日間監禁した。ちょうど酷寒期であったので、収容中の幼児の死亡者二十五名を出した。

 目撃者の話では
 日本人たちが連行されたあと、八路兵が住宅をくまなく捜索し、家具や家財を没収してトラックで運びさった。
それを待ち構えていた中国人が無人の家になだれこみ、残らず品物を持ち出したという。建物は、新政府に願い出た中国人に払い下げになった。

 マサコ・デイーンが語る夜明けの急襲
 「二階の戸を叩く音には余りきがつきませんでした。逃げることになっていた竹富さんもその暇がないくらいでしたから。私の部屋に男の人たちが上がりこんでくるとすぐ母が来てくれました。≪この子は私の娘です≫
母があたしの前に立つと、拳銃が母を囲みました。母は私に≪あんたは廊下に出なさい≫命令調で言いました。でも、拳銃をつきつけられている母を残して部屋を出るのも気がかりで、それに、急に起こされて、拳銃を見たものだから、動けなくて。
母は、びくともしていませんでした。ふだん着に着替えていましたし。いつもの通りでした。二回位言われて廊下に出ていきました。それでも、母が気になるので、部屋の外に立ってました。男の人たちが、竹富さんのことを母に尋ねてました。母は何も答えませんでした。そしたら、≪あの男の証人としてお前も一緒に来い!≫と言ってるのが聞こえました。
 部屋を出る母を見送ろうと思ってついていこうとしたら、母が黙って、振り返ると、≪来てはいけない≫というふうに首を横にふりました。母の目がうるんでいるのを見て≪はっ≫としました。でも、母はすぐ帰ってくると信じてましたから。
 ソ連兵が来た時だって、≪私のことは忘れてくれ≫と言われたけど、無事に帰ってきましたもの。
・・・
 私のことより、他人の世話ばかりする母を見てきましたから、そんな母がそれっきりになるとは夢にも思いません。
 だから、私、母に何も言わずに・・・。
 ふすまを開けたら八路兵が待ってましてね。母は拳銃に囲まれ出て行きました。階段のあたりで、≪わたし、連れて行かれますからね。あとのことは頼みましたよ・・・。≫足音の中から大声が聞こえました。それが、母の声を聞いた最後。
・・・
その後、芦田伸介に連絡をとると、「お町さん、東カン(土ヘン+欠)子監獄に入れられたそうです」とのこと。

 一緒に東カン(土ヘン+欠)子に連行されていた若い板前の証言
「実は女将さん(お町さんのこと)、多分、殺されたと思います。二、三日前です。僕が門のそばの馬小屋で掃除をしていたら、女将さんが門の方に歩いてきます。釈放になるんだなとうらやましくなりました。自分はいつ帰してもらえるのだろうと思って女将さんを見送っていたら・・・。門を出た所で、八路兵が両方から現れて女将さんの腕をつかみました。それで、持ってた風呂敷包みが地面に落ちました。兵隊は風呂敷包みはそのままにして、女将さんは門から左のほうに連れていかれました。
まっ直か、右なら、安東の方になるんですが・・・。
 荷物を拾いに行きたかったのですが、門をほんの少々出たところなので、それもできずどうしようかと思っていたら、銃声が二発聞こえました」

 それ以後お町さんの消息は安東の街から消える。彼女の場合も遺体は発見されていない。
 お町さんこと道官咲子。享年四十三歳。
戒名「寂道院釈尼ショウ(女ヘン+少)咲」
朝倉喜祐氏が贈る。

お町さん、浜崎巌氏、両者とも、証言によると処刑されたのは、はからずも≪東カン(土ヘン+欠)子監獄裏付近。戦犯で銃殺された人たちでも遺体が払い下げられた例は幾つもある。しかし、二人とも、遺体は払い下げられなかったばかりか多くの人たちの探索にもかかわらず発見されなかった。二人は激戦地で戦死した兵士のように、遺体を残していない。お町さん、浜崎巌さんは、共に日本人のために働き、敗戦が残した戦争の処理に尽力し、その渦中で命を落とした。やはり太平洋戦争の犠牲者と私(著者)は見る。そして、二人は壮烈な戦死を遂げた戦友であったと。

 著者について
 長瀬正枝(ながせ・まさえ)
 一九三四年四月満州大連に生まれる。
 二年後安東市に転居。
 一九四五年八月十五日安東小学校五年一学期で敗戦。
 翌年十月二十三日朝鮮経由で引揚、博多港上陸。
 大牟田私立白川小学校、私立不知火女子中学・高校、県立大牟田北高、熊本女子大学国文科卒。名古屋市立猪子中学校教諭。
 同人雑誌「裸形」同人。
 作品
 NHKラジオドラマ「密告」「逃げ水」「風紋のさざめき」「ある日曼荼羅寺」「もやい船」「婚期」「「美しき漂い」NHKテレビ「中学生日記」