堀江一族第一部 概要
1 古代の坂井郡 三尾郷(みおのさと)
男大迹(おほどの)王(おう)を輩出した三尾一族はこれまで近江国高島郡三尾郷が本貫(ほんがん)(本籍)といわれてきましたが、最近三尾一族の発祥地は越前国坂井郡三尾郷という説が浮上しました。越前国三尾郷は坪江地区から三国町雄島に至る広大な地域です。
三尾郷という地名は天平5年(733)の計帳に見える坂井郡水尾郷と同一とされています。また古代北陸道の越前最終駅(8番目)は三尾駅であることが10世紀初頭に編纂された延喜式から知られており、駅は金津町中川付近と推定されています。此の地域は古代より集落が存在し、縄文時代よりの石器・土器が数多く出土しています。※当日の講演会で、本年6月25日に中川地区で出土された石斧、縄文土器(紀元前3千年~五千年と推定)などを展示します。
男大迹王と三尾君堅楲(みおのきみかたひ)の娘との間に生まれたのが椀子(まるこの)王(おう)で、男大迹王は越前国を椀子王に託され、大和で即位されます(継体天皇)。椀子王の末裔は三尾氏を名乗っていましたが、後に三国姓に改称します。三国氏は朝廷より天皇一族と同族として処遇され真人(まひと)の姓(かばね)を与えられ、坂井郡有数の名門豪族となります。
2 藤原氏の越前進出。
藤原一族の始祖鎌足から六代後の藤原高房が越前国司に任じられ、以後藤原氏の越前進出が始まります。高房の孫・藤原利仁(としひと)が藤原武門の祖とされ、北陸での藤原武門隆盛の礎とされています。利仁の子・叙(のぶ)用(もち)が伊勢神宮の別当に任じられたことから斎藤姓を名乗りました。斎藤氏の祖です。越前での斎藤氏の勢力が強まる中、旧勢力の三国氏との対立が生じます。
永祚(えいそ)元年(989)、三国真人の長・行(ゆき)正(まさ)が京都で藤原貞(さだ)正(まさ)と為(ため)延(のぶ)(いずれも叙用の曾孫)によって暗殺されます。これ以降三国一族は衰退し、越前は藤原一族(斎藤氏)の天下となりました。
3 興福寺荘園
暗殺事件から22年後、藤原一族の氏社(うじしゃ)春日神社の分霊(ぶんれい)が坂井郡に勧請(かんじょう)され、坂北の井口神社に合祀されました。本荘郷春日神社です。その際、興福寺の観如(かんにょ)僧都(そうず)をはじめ僧侶・社官(しゃかん)・社士(しゃし)多数が神輿(しんよ)(みこし)に隋(ずい)従(じゅう)し、社領六百町歩が興福寺に寄進されました。(本荘春日神社由緒より)
※ 興福寺『大乗院(だいじょういん)寺社(じしゃ)雑事記(ぞうじき)』には康和(こうわ)年中(ねんちゅう)(1099~1104)に白河法皇が河口庄を興福寺に寄進したと記されています。興福寺の財政を支える最大の荘園、北国荘園の誕生です。河口庄十郷に春日明神が祀られ、その総社とされたのが本荘郷春日神社でした。
斎藤氏は越前に広く分布土着しましたが、坂井郡に土着した斎藤氏は河口荘の荘官として勢力を扶植していきました。
4 斎藤氏から堀江氏へ
堀江氏が史料に初出(しょしつ)するのは明徳3年(1392)の「相国寺(しょうこくじ)供養記(くようき)」です。相国寺供養に臨む足利将軍義満に供奉(ぐぶ)した諸将とその随(ずい)臣(しん)の名が記されていますが、斯波(しば)満種(みつたね)の随臣のなかに『斎藤(さいとう)石見(いわみの)守(かみ)藤(ふじ)原種用(わらたねもち)』(」)の名があります。藤原一族の斎藤石見守種用と解釈ができ、石見守は堀江宗家当主が代々名乗っており、斎藤石見守種用を斯波氏家臣である堀江石見守種用と見ることができます。
5 堀江石見(いわみの)守(かみ)利(とし)真(ざね)
堀江一族の最盛期は堀江石見守利真の代です。国人(土着領主)でありながら越前守護職斯波氏の有力被官(守護に従属する国人)として、坂井郡での権勢を誇ります。
斯波家中で当主義敏と筆頭家臣である守護代甲斐(かい)常(じょう)治(ち)との権力闘争がきっかけで内部抗争が勃発しました。斯波義敏方の大将は堀江利真、甲斐常治方の大将は一乗谷に居城を構える朝倉孝景(あさくらたかかげ)です。長禄(ちょうろく)年間のことで、長禄合戦といわれ越前を主戦場とする激しい戦いでした。合戦は朝倉方が勝利し、堀江利真をはじめ堀江方の主だった武将は悉く討ち死にし、堀江宗家は滅亡します。
朝倉孝景はやがて越前から斯波氏、甲斐氏を駆逐し、越前守護職を手中にします。堀江一族は朝倉氏に仕えることになります。

以上が講演のあらましですが、藤原氏が越前に進出し古代豪族である三国真人氏を衰退させ、一族の氏社春日明神を勧請し、広大な興福寺荘園を築いた過程、そのなかで斎藤氏(藤原氏)の支族・堀江氏が台頭していき、滅亡する過程を、時代背景を交えて説明します。