講演のポイント
古代の坂井郡
①  坂井郡と継体天皇
②  三尾郷と三尾駅
③  椀子王と三国氏
藤原氏の越前進出
④  藤原武門の祖・藤原利仁
⑤  斎藤叙用から越前斎藤氏(伊傳)
⑥  三国行正暗殺事件
⑦  本荘郷春日神社
⑧ 興福寺荘園
荘園の歴史
⑨  大化の改新。班田収授法 公地公民
⑩  墾田永年私財法・・荘園制度(平安時代)
⑪  荘官
⑫  武士階級の台頭。寺社勢力の衰退(鎌倉時代)
⑬  越前守護職斯波氏(室町時代)
史料に登場する堀江氏
⑭  岡部家系図
⑮  相国寺供養記 斎藤種用
堀江石見守利真
⑯  長禄合戦
 
堀江一族講演会資料(2016・8・21)配布用 
1 古代の坂井郡 三尾郷(みおのさと)(全文説明)
男大迹(をほどの)王(おうきみ)(継体(けいたい)天皇(てんのう)。450~531)の父彦(ひこ)主人(うしの)王(おう)は本貫(ほんがん)を(発祥地)近江国高島郡三尾(みおの)郷(さと)(滋賀県高島市)とするとされてきたが(日本書記)、近年彦主人王とその一族(三尾氏)の本貫は越前国坂井郡三尾郷にあり、高島郡三尾郷は別業(なりどころ)(注1)で、後年に移ったとの説が浮上している。
男大迹王と三尾君堅楲(みおのきみかたひ)の娘倭(やまと)姫(ひめ)の間に生まれたのが椀子(まろこの)皇子(みこ)(生年没年不明)で、男大迹王は越前国を椀子皇子に託され、大和へ立たれ武烈天皇の姉・手(た)白(しら)香(かの)皇女(ひめみこ)を皇后に迎え即位された。椀子王の子孫が三国一族で彼ら一族が古代の坂井郡における有力豪族だった。
※三尾氏は坂井郡三尾(みおの)郷(さと)を本貫(ほんがん)(発祥地)とする豪族。三尾郷は天平5年(733)の「山(やま)背(しろの)国(くに)愛宕(おたぎ)郡(ぐん)某(ぼう)郷(ごう)計帳(けいちょう)(注2)」に見える地名「越前国坂井郡水尾(みずお)郷(ごう)」と同一と考えられる。この郷の所在地域は、金津町坪江地区から三国町雄島地区までの地域と考えられる。背後に横山古墳群が連なる。(ちなみに水尾とは河川の流末を意味する地名)三尾氏はこの地域一帯を支配する有力豪族と考えられている。
また『延喜式』(注3)で定められた北陸道の駅名のなかに「三尾駅」が存在している。越前国に八駅が置かれ(注4)、最終駅が足羽駅と加賀の橘駅の中間に位置する三尾駅。三尾駅は足羽駅(現福井市)から加賀に向かって4里(16キロ)の位置とされ、中川地区に相当する。

注1 別業(なりどころ)・・古代貴族の別荘。別業には田畑、山林などが含まれており、所有者の政治的・経済的基盤としての要素を備えていた。
注2 山背国愛宕郡・・現在の京都市北区・左京区。計帳・・古代律令制のもとで作成された公文書の一つ。徴税台帳。
注3 延喜式・・延喜5年(905)後醍醐天皇の命により編纂がはじめられた格
式。延長5年(927)に完成。北陸道、東海道、東山道(とうさんどう)、山陽道、山陰道、南
海道、西海道(さいかいどう)を畿内七道(畿内から放射状に延びる七主要道)として定める。
注4 越前国八駅・・➀敦賀松原駅 ②敦賀鹿(か)蒜(ひる)駅(今庄駅周辺) ③今立郡
淑(しく)羅(ら)駅(越前市紫式部公園周辺) ④丹生郡丹生駅 ⑤今立郡阿味(あみ)駅(越前市
味(あじ)真野(まの)周辺)⑥丹生郡朝津(あさつ)駅(福井市浅水(あそうず)周辺) ⑦足羽郡足羽駅(福井市
九十九(つくも)橋周辺) ⑧坂井郡三尾駅(坪江地区内、金津町)

三尾氏から三国氏に変遷した経緯については諸説ある。例えば三つの国、つまり坂井・足羽と丹生もしくは大野もしくは江沼(加賀)が勢力圏であったことから三国氏を名乗ったとの説だが、定まっていない。いずれにしても三国氏は天皇一族と深い関係にある豪族とみなされ、「八色(やくさ)の姓(かばね)」(注5)の最高位の姓である「真人(まひと)」を与えられている。
注5 八色の姓・・天武天皇が天武13年(684)に新しい身分秩序をつくりだすために制定した八つの姓。真人(まひと)、朝(あ)臣(そん)、宿祢(すくね)、忌(いみ)寸(き)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の姓で真人、朝臣、宿祢は天皇一族と関係が深いとされ、そのなかでも真人の姓は筆頭とされた。三国氏は名門豪族として坂井郡に勢力を保持し続けてきた。

2 藤原氏の越前国進出(下線部分を説明)
藤原鎌足(かまたり)(藤原氏始祖)・・藤原不比等(ふひと)(鎌足二男)・・房前(ふさまえ)(不比等二男。藤原北家始祖)・・魚名(うおな)(房前五男。魚名流始祖)・・鷲(わし)取(とり)・・藤嗣(ふじつぐ)・・高房(たかふさ)・・時(とき)長(なが)・・利(とし)仁(ひと)
藤原高房が越前守(国司)(注6)に任じられたのは嘉承(かしょう)2年(849)。高房の四男時長が越前の豪族・秦豊国の婿養子となった。越前秦氏は坂井・丹生・足羽の越前北部を基盤とする渡来系の有力豪族である。坂井郡史に秦豊国の記述がある。
「秦氏は帰化族中富豪を以て聞こゆ。その族越前に入りしは時代明らかにせざれども、坂井郡に移住せるは最も著(あら)われり。白山豊原寺縁起によれば、醍醐天皇の頃(在位897~930)、秦豊国あり。かって本国(越前)の押領使(おうりょうし)(注7)たり。坂井郡を領し、その女(むすめ)を国司藤原時長に配し、豊国の名、四境(しきょう)(四方の国境)に聞こえたりと云う」
年代に誤記がみられるが、越前秦氏は三国一族と地盤が重なり、勢力を競っていたであろう。時長と秦豊国娘との間に生まれたのが藤原利仁(注8)。源氏、平氏と並ぶ藤原武門の象徴的な人物で、斎藤氏、後藤氏、加藤氏などの祖となった。堀江氏も利仁末裔を称している。
利仁は敦賀の豪族有(あり)仁(ひと)氏の養子となった。当時日本の最大の貿易相手国は渤(ぼっ)海(かい)(注9)で、最短距離にある敦賀は国内屈指の貿易港として繁栄した。渡来系豪族であった有仁氏は貿易で財を成し、その財力を背景に利仁は上総(かずさ)(国府千葉県市原市)、下総(しもふさ)(国府千葉県市川市)、武蔵(むさし)(国府東京都府中市)、下野(しもつけ)(国府栃木県栃木市)の国司を歴任した。特に下野国高蔵山で蜂起した民衆(蝦夷(えみし)注10)数千を鎮圧した勇猛さは都人に称賛された。(蓋寺(がいじ)縁起(えんぎ) 注11より)
利仁は鎮守府将軍(注12)の称号を与えられる。利仁の二男が藤原叙(のぶ)用(もち)。叙用は斎宮寮(伊勢神宮)の長官を任じられたことから斎藤姓を名乗ったとされている。
藤原利仁・・斎藤叙(のぶ)用(もち)・・斎藤吉(よし)信(のぶ)・・斎藤伊傳(これすけ)
伊傳(これすけ)の子、為(ため)延(のぶ)が疋(ひき)田(た)斎藤(さいとう)氏(し)の祖となり、曾孫の助宗(すけむね)が河合斎藤氏の祖となった。(資料⓵参照)
疋田・河合斎藤氏が越前斎藤氏である。疋田斎藤氏の勢力圏は金津の北疋田・南疋田、丸岡の里竹田・北千田・千田・宇田、今立郡の方上(かたかみ)。
河合斎藤氏の勢力圏は足羽郡河合郷(九頭竜川と日野川合流点北東地域)、坂(さか)南本郷(なんほんごう)(坂井町本郷)、福井市八幡町から一王子町一帯。(資料③参照) 系図では斎藤伊傳(これすけ)が越前斎藤氏の祖となっている。
あわら市本荘春日神社は興福寺の荘園である河口庄内の十郷(注13)にあった春日神社の総社であったが、神社由緒には斎藤(さいとう)伊傳(これすけ)が勧請(かんじょう)に係(かかわ)ったと記(しる)している
「人(じん)皇(こう)(代々の天皇)六十六代一条天皇の御宇(ぎょう)(986~1011)、鎮守府(ちんじゅふ)将軍(しょうぐん)藤原(ふじわら)利(とし)仁(ひと)4代の苗裔(びょうえい)(末裔)、当国の押領使(おうりょうし)従(じゅう)五位(ごい)斎藤民部(みんぶ)少輔(しょう)伊傳(これすけ)朝(あ)臣(そん)の勧請に係れり。社記(しゃき)に曰(いわ)く伊傳その元祖春日明神に信仰厚く曽(かつ)て当社の住人徳丸の男美(み)佐崎(さき)なる者を使いとして神(じん)供(く)(供物)百石の料を以て南都の春日神社に献じ本国にその分霊(ぶんれい)を勧請せんと欲す。以下略)」
尚、春日神社境内に式内社(しきないしゃ)『井口神社』がある。というより先に井口神社が存在し、後に春日神社が合祀された。式内社とは延長(えんちょう)5年(927)『延喜式(えんぎしき)神名帳(じんめいちょう)』に記載されている神社をいう。井口神社の御祭神は男大迹(をほどの)命(みこと)(継体天皇)とされている。
井口神社由緒之(ゆいしょの)碑(ひ)にはこのように記(しる)されている。
「第27代継体(けいたい)天皇(てんのう)は即位前、男大迹(をほどの)命(みこと)と称しておられた。その頃、当国坂中(さかな)井(い)、高向(たかむく)、三国及び所々に御在住しておられた。国中の水利の不便を憂い給い、当国三大河川の九頭竜川、日野川、足羽川および坂井港を開かれ国中の治水を行われた。
その時一ノ岡に行宮(あんぐう)(仮宮(かりみや))を構えることになり、この地を名付けて河口之庄(かわぐちのしょう)本庄(ほんじょう)と呼ばれた。そして継体天皇の崩御(ほうぎょ)の後、この地に社殿を造営し、祭神として勧請(かんじょう)し郷中(ごうちゅう)一統(いちとう)(郷中を統一する)の総社として崇敬(すうけい)し奉(たてまつ)り、延喜(えんぎ)帝(てい)(醍醐天皇。在位897~930)の時、式内に列せられた」
由緒之碑は式内井口神社(創祀(そうし)年代不明)の祭神を男大迹(をほどの)命(みこと)としているのだが、福井県史では式内社の社名については次のように記述している。
「式内社の原祭神(げんさいじん)を探求することには大きな限界がある。この点を考慮するには、むしろ式内社の社名に留意するほうがより有効なように思う」とし、主なものとして次を挙げている。
➀ 自然信仰にかかわる社名・・例 雷(いかちず)神社〈越前市〉
② 地名にかかわる社名・・例 大湊(おおみなと)神社(三国町)
③ 部(べ)民制(みんせい)(大和王権への従属・奉仕の体制、朝廷への仕事分掌(ぶんしょう)・・役割)にかかわる社名・・例 日置(ひき)神社(高浜町)
※日置氏は神事や祭祀にかかわる一族。 
④ 人名、神名にかかわる社名 例 苅田(かりた)比(ひ)古(こ)神社(大飯町)
※苅田比古大神は稲穀の神霊。
この説に従えば井口神社は④にかかわる社名で「御井(みいの)神(かみ)」が起源と考えられる。(御井神は古事記に登場する水利を司る神)
余談だが藤原利仁の流れを汲む姓(かばね)に井口姓がある。(資料➀参照)
源平盛衰記での記述。
「先祖利仁将軍三人の男を生む。嫡男越前にあり斎藤と云ふ、次男加賀にあり富樫と云ふ、三男越中にあり井口と云ふ、彼ら子孫繁昌して、国中互いに相親しむ、されば三箇国の宗徒の者共、内戚(ないしゃく)(父方の親戚)・外戚(げしゃく)(母方の親戚)に付て、親類一門ならざる者なし」
記述は正確ではないが、源平盛衰記が誕生した時代(1162~1183)には井口氏は藤原利仁の末裔とされていた。
※井口氏祖は奈良時代の越中国首長・利波(となみの)臣(おみ)志留(しる)志(し)氏との説もある。いずれにしても井口氏は水利を統治する役割を担うことから、姓を賜ったと考えられる。井口神社も井口氏との係りを探るべきだろう。
神社由緒では斎藤伊傳(さいとうこれすけ)が本荘春日神社を勧請したとされているが、伊傳、彼の兄弟である忠頼(ただより)、重光(しげみつ)さらには父である吉(よし)信(のぶ)の名前や活動を記す確かな史料は存在しない。系譜(資料➀)の真偽を確かめることができないのである。その意味で本荘春日神社と斎藤伊傳の接点は(史料からは)見当たらない。
いわゆる藤原武門の北陸での(越前では斎藤氏)台頭を確認できるのは忠頼、重光、伊傳の次世代である(資料➀)。10世紀後半から11世紀前半に記録を確認できる(980~1040)。

注6 国司・・古代から中世にかけて地方の行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で四等官である守(かみ)(長官(かみ))、介(すけ)(次官(すけ))、掾(じょう)(判官(じょう))、目(さかん)(主(さ)典(かん))を指す。序列は守、介、掾、目。
注7 押領使・・国司や郡司(ぐんじ)(国司の下で郡を治める長官)の中でも武芸の長け
た者が兼任し、武力を以て国内の治安維持にあたった。
注8 藤原利仁・・芥川龍之介の小説「芋粥」で剛毅で羽振りが良い武人として
描かれている。今昔物語巻26第17「利仁将軍若き時、京より敦賀に五位を従
いて行く物語」より。
注9 渤海・・中国東北部(満州)から朝鮮半島北部、ロシア沿岸地方にツング
ース系の韃靼(だったん)族(タタール人)によって樹立(698~926)された国家。日本を
含む周辺国家との交易で栄えた。
注10 蝦夷・・近世では北方先住民族のアイヌ民族を指すが、それ以前は中央
政権から見て日本列島の東方(関東・東北地方)や北海道地方に住む人々を異
端視、異属視した呼称であった。
注11 鞍馬蓋寺縁起・・鞍馬寺(くらまでら)の草創(そうそう)縁起(えんぎ)を伝えており、なかに藤原利仁の逸
話も含まれている。以下は記述。
「利仁鎮守府将軍たり。ここに下野(しもつけの)国(くに)(栃木県)高蔵山(たかくらやま)の群盗、蟻のごとくに集まりて、千人党(せんにんとう)を結べり。国の蠱害(こがい)(害毒)ただ以てこれにあり。これによって公家忽(たちま)ち其(そ)の人を撰ばれる。天下の推す所はひとえに利仁にあり。異類(いるい)(異なる人種。蝦夷)を討伐すべき由(よし)、糸綸(しりん)(朝命)をこうむる。当山に参籠(さんろう)し、立願(りつがん)祈願(きがん)するところなり。すなわち示現(じげん)(神仏が霊験(れいけん)を示し現す)ありて、鞭(むち)を揚(あ)げて首途(かどで)し、下野国高蔵(たかくら)山麓(さんろく)に至(し)着(ちゃく)(到着)す。利仁勝ちに乗じ逃げるを逐(お)う。一人(いちにん)当千(とうせん)し(少数で多数に当たる)遂(つい)に兇徒(きょうと)を斬りて、刵(きりみみ)(削(そ)いだ耳)万(よろず)ばかりを献す。これを以て天下を振るい(驚かせ)、武略(ぶりゃく)海内(かいだい)に喧(かまびす)し(武勇は天下にひろまる)」

注12 鎮守府将軍・・奈良時代から平安時代にかけて陸奥(むつの)国(くに)(東北地方)に置かれた鎮守府(軍政府)の長官。
注13 十郷名と推定所在地。(資料②参照)
本庄(ほんじょう)郷(ごう)・・竹田川南岸の馬場から西今市(にしいまいち)付近までに広がる細長い地域と考えられる。現あわら町中番の春日神社は河口庄の総社といわれ、その付近には公文(くもん)堀江氏の館跡の所在が確認されている。河口庄全体の中心という意味に由来する郷名と思われる。
新郷(しんごう)・・史料に地名は残るが、河口庄のどのあたりかは不明。
王味(おうみ)(大味)郷・・竹田川と兵庫川に囲まれた平野部の中央に位置し、現坂井町大味(おおみ)あたりと考えられる。 
兵庫(ひょうご)郷(ごう)・・兵庫川中流域の.現坂井町上兵庫、下兵庫、清水、島の一帯に比定(ひてい)(推定)。兵庫川沿いの東西に長い区域にあたると考えられる。
新庄(しんじょう)郷(ごう)・・兵庫川中流の右岸に位置。郷内の村々は未詳だが、郷域は慶長(けいちょう)国(くに)絵図(えず)(慶長年間に作成)の記載から江戸期の上新庄(かみしんじょう)村、下新庄(しもしんじょう)村、若宮(わかみや)村一帯と考えられる。
関(せき)郷(ごう)・・現坂井町上関(かみぜき)、島田(しまだ)、下関(しもぜき)、金津町河原井(かわらい)出(で)一帯が考えられる。
溝江(みぞえ)郷(ごう)・・古代から中世は現金津町南金津から清間(せいま)付近に至る一帯と考えられる。 中世後期には金津の南半分が当郷に含まれ、判然とはしないが、現金津町南金津、稲越(いなごえ)一帯が比定される。
大口(おおくち)郷(ごう)・・現在の坂井町東、西、蔵(くら)垣内(がいち)、五本(ごほん)の一帯が考えられる。
荒居(あらい)郷(ごう)・・兵庫川中流に位置。現坂井町東荒井を中心に、あわら町轟(とどろ)木(き)付近までの地域だったと考えられる。
細呂宜(ほそろぎ)郷(ごう)・・北潟湖東岸に位置し、観(かん)音川(のんがわ)に沿う現金津町西部に南北に連なる広い区域であった。

3 藤原氏(斎藤氏)の台頭と三国氏の衰退(下線部分説明)
 (藤原貞(さだ)正(まさ)・為(ため)延(のぶ)の三国行(ゆき)正(まさ)暗殺事件)
尊卑(そんぴ)文脈(ぶんみゃく)(注14)によれば重光(しげみつ)の嫡男に藤原貞(さだ)正(まさ)の名がある(資料
➀)。彼は滝口武者である。滝口武者は天皇最身辺(さいしんぺん)で祇候(しこう)した(仕え
た)蔵人(秘書)のうち、とくに「武勇に秀でた者」が選抜された
武者で殊に弓の名手である。貞正が滝口武者に推挙されたのが寛(かん)正(しょう)
元年(985)とあるから、花山(かざん)天皇の警護役を務めたのであろう。
伊傳(これすけ)の四男為(ため)延(のぶ)(資料➀)は帯刀(たてわき)である。帯刀は東宮(皇太子)
警護の武官である。時の東宮は居(おき)貞(さだ)親王(しんのう)(即位して三条(さんじょう)天皇)。
貞正と為延は父が兄弟の従兄弟(いとこ)である。その二人が共謀して永(えい)祚(そ)元
年7月21日(989年8月29日)、京都東山粟(あわ)田口(たぐち)で越前豪族三国
真人(まひと)一族の長(おさ)である行(ゆき)正(まさ)を射殺した。(藤原実資(ふじわらのさねすけ)の小右記(おうき)より)
三国真人一族は継体天皇の皇子椀子(まるこの)王(おう)を始祖とする古代よりの名族
で坂井郡の大領(だいりょう)(注15)を務める一族である。三国氏の地盤に藤原氏
(斎藤氏)が進出し対立が生じていたのである。朝廷は検非違使(けびいし)(注
16)に武者を加えて貞正、為延の捕縛を命じたのだが捕らえられず、
逆に彼らの武名が広まり、末裔が繁栄することになる(注17)。
当主を殺害された三国一族は衰退し、坂井郡での藤原氏の勢いが増
した。暗殺事件の22年後、藤原一族の氏社(うじしゃ)春日社の分(ぶん)霊(れい)が坂井郡に
遷された。
「寛弘8年(1011)に興福寺に神(じん)供(く)百石を献上し、春日明神を
越前に迎えこれを祀ろうとした。井口神社の境内に神殿を設け、
同年10月神霊(しんれい)を遷(うつ)し迎えた。別当興福寺衆徒観如(かんにょ)僧都(そうず)をはじめ
僧侶80余人、社官(しゃかん)伊(い)与法(よほう)眼(がん)入道、明神の大連社官(だいれんしゃかん)伊予(いよの)守(かみ)藤原(ふじわら)国(くに)
等(ひと?)が神輿(しんよ)随従(ずいじゅう)し、相従う社士(しゃし)は480人、ここに宝(ほう)輿(よ)を社(しゃ)檀(だん)に
安置し、社領六百町歩を寄付された」
坂井郡内における藤原氏の隆盛が本荘郷春日神社由緒に記され
ている。
(※興福寺の塔頭(たっちゅう)寺院(じいん)(注18)大乗院(だいじょういん)門跡(もんぜき)(注19)・尋(じん)尊大(そんだい)僧正(そうじょう)の
日記『大乗院寺(だいじょういんじ)社(しゃ)雑事記(ぞうじき)』(注20)には河口庄は康和(こうわ)年中(1099~1104)
に白河(しらかわ)法皇(ほうおう)が寄進したとある)
ところで北陸に進出した藤原氏だが、彼らの居住地は都であった。滝口武者、帯刀の舎人(注21)として皇族身辺の警護にあたるのは最高の名誉であったが、公(く)卿(ぎょう)にも接近し武人として仕えた。地方出身の彼らにとって最も必要としていたのは都での地位、権力者との繋がりであった。
貞正、為延が三国行正暗殺後、捕縛されなかったのも彼らを庇護する権力者が存在していたからであろう。
彼らは在地で得た財物を権力者に献上し、見返りに地位・名誉、情報・便宜を与えられた。それらは領国支配にも利用された。後に彼らは領国に土着し国人領主(注22)となった。
注14 尊卑文脈・・日本の初期の系図集。編者は洞院(とういん)公定(きんさだ)で永(えい)和(わ)3年(1377)から応永2年(1395)にかけて編纂(へんさん)された。姓(せい)氏(し)調査の基本図書の一つ。現存する部分は源氏、平氏、橘氏、藤原氏で、うち源氏、平氏について詳しい。諸家(しょか)大系図(だいけいず)とも呼ばれる。
注15 大領・・律令制(りつりょうせい)における職名のひとつ。中央から派遣された国司の下
で郡を治める長官の最高の地位。終身制。※律令制は一(いっ)君(くん)万民(ばんみん)思想(後述)
に基づく中央集権体制を推進するための法令による統治制度で、日本の律令制
は7世紀後期から10世紀頃まで実施された。
注16 検非違使・・元々の意味は「非法・違法を検察する天皇の使者」治安の
維持、犯罪者の捕縛が役割であったが、後に司法(裁判権)、行政執行権にまで
権限が及ぶようになる。  
注17 藤原貞正は多田源氏の祖・源満仲に仕え、孫の景(けい)道(みち)は 加賀介に任じら
れたことから加藤氏を名乗った(加藤氏の祖)。景道は子・景(かげ)季(すえ)とともに源頼
義に仕えた。斎藤為延の子・為(ため)輔(すけ)は進藤氏の祖となり、為兼(ためかね)は疋田氏の祖と
なり為頼(ためより)は疋田斎藤氏の祖となった。さらに疋田斎藤氏から美濃斎藤氏、石黒
氏が出ている。
注18 塔頭寺院・・祖師や門徒高僧の死後、その弟子が師の徳を慕い、大寺・
名刹に寄り添って建てた塔や庵などの小院。
注19 大乗院門跡・・大乗院は興福寺塔頭寺院の一つ。門跡は皇族・公家が住
職を務める特定の寺院。あるいはその住職。
注20 大乗院寺社雑事記・・興福寺大乗院で室町時代に門跡を務めた尋尊・正
覚・経尋が三代にわたって記した日記。重要文化財。特に尋尊の書いた部分は
『尋尊大僧正記』と呼ばれ、応仁の乱前後の根本史料として評価が高い。
注21 舎人・・皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者。律令制
の任官制度では、舎人に任じられた者は一定期間の後に選考が行われ官人とし
て登用された。殊に地方出身者は帰国後に在庁官人(ざいちょうかんにん)(地方官僚)、郡司(ぐんじ)に任
じられるという利点があった。
注22 国人・・土着領主。中央に居住し、間接的に領国支配する守護大名(注
23)に対して、領民を直接支配していた階層。彼らは元々荘園領主(東大寺、興
福寺など)の被官(ひかん)(管理を請け負う武士、有力者)であったが、荘園領主の弱
体化にともない守護大名の支配下に入り、軍事力となった。
注23 守護・・鎌倉幕府・室町幕府が定めた武家の職制で、国単位で設置され
た軍事指揮官・行政官。室町時代、足利一族である斯波氏・畠山氏・細川氏・
今川氏や南北朝合戦で北朝方についた有力武将山名氏・大内氏・赤松氏らは複
数の国の守護を兼ねていた。

4 荘園の歴史(大化の改新~平安時代)(下線部分を説明)
斎藤氏は土着し、荘官(荘園管理者)になった。多くの国人がそうであるように荘官の地位を得て、勢力を拡大した。ここからは荘園の歴史と並行させて斎藤氏及び支族である堀江氏の台頭を記述したい。
大化の改新(646)により日本は律令制国家となった。律令制は「王
だけが君臨し、王の前では誰もが平等」とする一(いっ)君(くん)万民(ばんみん)思想からな
るもので、豪族の私地(しち)私(し)民(みん)を否定し「土地と人民は天皇の支配に服
属する」(王土(おうど)王(おう)民(みん)思想)という理念を実現する体制であった。
律令制の根幹をなすのが「班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)」であった。これは天皇が
自らの支配する土地を、自らが支配する人民へ直接分け与える
(班給(はんきゅう))という制度で人民は班給の代償として納税と兵役の義務が
課せられた。班給は一代限りでその者が死ねば国家に返還しなけれ
ばならなかった。そのための戸籍(こせき)(個別人身支配のための戸籍)と
計帳(けいちょう)(課税を徴収するための基本台帳)が整えられた。
それらを管理する地方行政制度が国郡里制(こくぐんりせい)で、まず中央から国司が
派遣され、郡を治める地方官の長である郡司(ぐんじ)が置かれた。郡司の下
に班給・課税・徴兵の実務を担当する役人が配置された。
しかし土地の私有を認めない班田収受法では墾(こん)田(でん)意欲は低下、人口
増にもかかわらず農業生産は低迷、国家財政はひっ迫した。
奈良時代初期は、律令に基づいて中央政府による土地・人民支配が
実施されていたが、人口や財政需要の増加に伴い、国家収入を増や
すため723年に開墾推進政策の一環として三世(さんせい)一身法(いっしんほう)(注24)が発布
され、期限付きではあるが、開墾農地(墾田)の私有が認められた。
しかし、期限が到来するとせっかくの墾田も収(しゅう)公(こう)(没収)されてし
まうため開墾は下火となった。
そこで政府は新たな推進策として墾(こん)田(でん)永年(えいねん)私財法(しざいほう)(注25.)を発布した。同法は墾田の永年私有を認めるものだったため、資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪(かっての豪族層)は活発に開墾を行い、大規模な土地私有が出現することとなった。
大規模な私有土地を経営するため、現地に管理事務所・倉庫がおかれたが、これを『荘』と称した。そして荘の管理区域を『荘園』と呼称した。
墾田は私有することができたが輸(ゆ)租(そ)田(でん)(注26)であり、収穫の中から
田(でん)租(そ)(注27)を納入する必要があった。また当時は直接荘園を管理し
ていたため、人的・経済的な負担も大きかった。これらの理由によ
り初期荘園は10世紀までに衰退した。
11世紀ごろから、中央政府の有力者へ田地を寄進する動きが見られ始める。特に畿内では有力寺社へ田地を寄進する動きが活発となった。いずれも租税免除を目的とした動きであり、不輸権(注28)だけでなく、不入権(田地調査のため中央から派遣される検田使(注31)の立ち入りを認めない権利)を得る荘園も出現した。
田(た)堵(と)(富裕農民層)は免田を中心に開発し、領域的な土地支配を進
めた。こうした田堵は開発(かいほつ)領主(りょうしゅ)に含まれる。開発領主は中央の有
力者や有力寺社へ田地を寄進し、寄進を受けた荘園領主は領家(りょうけ)と称
した。
さらに領家から、皇族や摂関家(せっかんけ)(注35)などのより有力な貴族へ寄進
されることもあり、最上級の荘園領主を本家(ほんけ)といった。
本家と領家のうち、荘園を実効支配する領主を本所(ほんじょ)と呼んだ。この
ように、寄進により重層的な所有関係を伴う荘園を寄進地(きしんち)系(けい)荘園(しょうえん)と
いい、領域的(注42)な広がりを持っていた。
開発領主たちは、国司の寄人(よりゅうど)として在庁官人(ざいちょうかんじん)(注36)となって、地方行政へ進出するとともに、本所から下司(げす)・公文(くもん)(注37)などといった荘官(荘園管理者)に任じられ、所領に関する権利の確保に努めた。開発領主の中には、地方へ国司として下向して土着した下級貴族も多くいた。武士身分の下級貴族が多数、開発領主として土着化し、所領の争いを武力により解決することも少なくはなかったが、次第に武士団を形成して結束を固めていき、領国支配に向かった。
※下級貴族であった斎藤氏(堀江氏)は越前に下向し土着した。一族は(開墾した)田地を興福寺に寄進して荘官に任じられた。

注24 三世一身法・・開墾者から三世代までの墾田私有を認めた法令。
注25 墾田永年私財法・・墾田の永年私財を認める法令。
注26 輸租田・・田租を国家へ治めることが定められた田。
注27 田租・・律令制で田の面積に応じて課せられた基本的税目。
注28 不輸田・・律令制において、租税を免除された田。
注29 太政官・・律令制における司法・行政・立法を司る最高国家機関。
注30 民部省・・財政・租税一般を管轄する省。
注31 検田・・律令時代において田地の面積、地目(ちもく)(用途による区分)、田主(所
有者)などを調査すること。
注32 国衙領・・平安時代中期以降の公領を、荘園に対して呼ぶ歴史学用語。
国衙は国の役所の意味。
注33 国司免判・・荘園領主が領内の田畑の官物(かんもつ)(田租)免除を申請した文書
の奥または袖に、国司が加えた許可の証判(承認・確認などの意を表す文言と
署名・花押)をいう。
注34 官物と雑役・・官物とは租税として朝廷及び令制(りょうせい)国(こく)(地方行政区)に
納入された貢(こう)納物(のうぶつ)のこと。米・雑穀・海産物・絹・布など。雑役とは雑(ぞう)公事(くじ)・
夫役(ふやく)・臨時(りんじ)雑役(ぞうやく)などの労役(ろうえき)のこと。
注35 摂関家・・摂政・関白に任ぜられる家柄。藤原北家が独占していた、鎌
倉時代には近衛・九条・二条・一条・鷹司の五摂家に分かれた。
注36 在庁官人・・国衙行政の実務に従事した地方官僚の総称。
注37 下司・・荘園領主が上司で、現地で実務に当たっていた職員を下司と呼
んだ。「げし」ともいう。 公文・・帳簿や文書を扱う職員。

5 荘園の歴史(鎌倉~室町時代)(下線部分を説明)
初期の鎌倉幕府は御家人(棟梁(とうりょう)と主従関係を結ぶ武士)の中から荘
園・公領の徴税事務や管理・警察権を司る地頭を任命していった。
これにより御家人の在地領主としての地位は本来の荘園領主である
本所ではなく幕府によって保全されることとなった。当然、本所側
は反発し、中央政府(朝廷)と幕府の調整の結果、地頭の設置は平
氏没官領と謀反人領のみに限定された。しかし幕府は義経謀反(1185)
を契機に、諸国の荘園・公領に地頭を任じる権利を得ることとなっ
た。
承久(じょうきゅう)3年(1221)の承久(じょうきゅう)の乱(らん)(注38)の結果、後鳥羽上皇を中心
とする朝廷勢力が幕府に敗れる事態となり、上皇方についた貴族・
武士の所領はすべて没収された。これらの所領地に御家人たちが恩
賞として地頭に任命された。
地頭たちは任地で勧農に励み、自らの影響力を拡大していったため、
荘園領主との紛争が多発した。荘園領主はこうした事案について訴
訟を起こしたが、地頭は紛争を武力で解決しようとする、傾向が強
く、荘園領主はやむを得ず、一定額の年賀納入を請け負わせる代わ
りに荘園の管理を委ねる地頭請(じとううけ)を行うことがあった。
このような経緯を経て、次第に地頭が荘園・公領の支配を強めてい
くこととなった。
※鎌倉幕府樹立、承久(じょうきゅう)の乱(らん)を経て、朝廷・公家・大寺社など旧勢
力の威光に陰(かげ)りが見え、地頭がそれらの権益を侵すようになった。
紛争は荘園領主と地頭の間だけではなく、荘官との間でも発生して
いる。
堀江氏も荘園領主である興福寺の塔頭(たっちゅう)寺院(じいん)の各寺と年貢納入(未
納)、土地の権利を巡って争っている。

注38 承久の乱・・承久3年に鎌倉(かまくら)執権(しっけん)である北条(ほうじょう)義(よし)時(とき)に討伐の院宣(いんぜん)を発し、後鳥羽上皇が挙兵を促したが敗れた。以後、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに干渉するようになる。
注39 名田・・荘園・公領制における支配・徴税の基礎単位。

6 荘園の歴史(室町時代)(下線部分を説明)
元弘(げんこう)3年(1333)、鎌倉幕府滅亡から建武の新政(1333~36)、室町時代初期までの間は、全国的に戦乱が相次ぎ、荘園の所有関係も流動化した。このため、鎌倉期以前の荘園では、住居がまばらに点在する散村が通常であったが、室町期に入ると民衆が自己防衛のため村落単位で団結する傾向が強まり、武装する例もあった。
新たに発足(ほっそく)した室町幕府では戦乱を抑えることを目的として在地武士を組織するため国単位におかれる守護(注23参照)の権限を強化した。貞和(じょうわ)2年(1346)、幕府は守護に対して苅田(かりた)狼藉(ろうぜき)(注40)の取締と使節遵(しせつじゅん)行(ぎょう)(注41)の権限を付与した。さらに観応(かんのう)3年(1352)、守護が軍費調達名目で荘園・公領からの年貢の半分を徴発(強制的に取り立てる)する半済(はんぜい)を近江・美濃・尾張三国に限定して認めた。半済はあくまで限定的かつ臨時に認められていたが、次第に適用地域がひろがっていき、かつ定常的に行われるようになった。
こうして守護には強力な権限が集中することとなった。守護が荘園領主から年貢徴収を請け負う守護請(しゅごうけ)も活発に行われ始め、守護による荘園支配が強まった。守護は一国全体の領域的な支配(注41)を確立したのである。室町時代の守護を守護大名という。
鎌倉幕府滅亡後(1333)の建武(けんむ)新政(しんせい)で越前守護職は足利一門の斯波(しば)高経(たかつね)となった。建武政権は足利尊氏の離反により瓦解(1336)。越前国藤島(灯明寺)合戦で斯波高経は南朝方の総大将新田義貞を敗死させた(1338)。越前合戦で戦功を立てた但馬(たじまの)国(くに)養父郡(やぶぐん)朝倉庄(あさくらのしょう)(兵庫県養父市八鹿(ようか)町(ちょう)朝倉)の国人(土着豪族)朝倉広景(あさくらひろかげ)が高経より黒丸城(福井市黒丸町)を与えられた。後に朝倉氏は一乗谷に居城を移し、越前に土着して斯波家臣団のなかで重きをなす。
一方、越前の有力国人であり、興福寺荘官でもある斎藤氏(堀江氏)は斯波氏の被官(注46)となり、坂井郡での興福寺荘官としての影響力を利用し家臣団の中で台頭してゆく。
後年、朝倉氏と堀江氏は越前国での覇権をめぐり争うようになる。

注40 苅田狼藉・・中世日本において土地の知行権(支配権)などを主張する
ために田の稲を刈り取った実力行使をいう。
注41 使節遵行・・中世日本において所領をめぐる訴訟に対し、幕府が発した
裁定を執行するための現地手続きをいう。
注42 領域的な支配・・権限・能力などの及ぶ支配区域。
注43 惣村・・中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による村落形態。
注44 郷村・・中世から近世にかけての村落共同体。
注45 地下請・・中世日本の村落が荘園・公領の年貢徴収を領主から請け負っていた制度。
注46 被官・・守護に従属する国人領主。

7 史料に登場する堀江氏(下線部分を説明) 
(この項 福井県史『国人領主堀江氏』『堀江氏の在地支配』より引用)
堀江氏は加賀の富樫(とがし)氏や林氏などと同族で、鎮守府(ちんじゅふ)将軍(しょうぐん)藤原利(とし)仁(ひと)の末裔と称する。堀江氏の子孫が伝えた系図(岡部家系図)(注47)によれば利仁将軍の八代後の実(さね)澄(すみ)の子実嗣(さねつぐ)が建(けん)久(きゅう)年間(1190~99)に河口(かわぐち)庄(しょう)堀江(ほりえ)郷(ごう)に住み、郷名を以て.堀江氏と名乗るようになったと伝えられている。これらの点を事実として確かめることはできないが、少なくても室町期において堀江氏は先祖が利仁将軍であり、鎌倉幕府の成立した建久年間以来、この地に土着していたことを主張するようになっていた。

すなわち、応(おう)永(えい)25年(1418)に河口庄の本荘郷満丸名(みつまるみょう)(現在地名不明)と新郷(しんごう)鴨(かも)池(いけ)(現在地名不明)の支配権を興福寺福(ふく)智院(ちいん)(注48)栄(えい)瞬(しゅん)と争った堀江道(どう)賢(けん)は、その申状(もうしじょう)のなかで鴨池は先祖利仁将軍以来の由緒の地であるとし、満丸名は建久以来の将軍・門跡(注19参照)の数通の補任状(ぶにんじょう)(注49)を得ていることを挙げ、自らの支配権の正当性を主張している(福智院家文書七号)。建久以来の補任状の存在は疑わしいが、確立した室町幕府体制のもとで強められてくる守護(斯波氏)の支配に対応して、堀江氏は加賀の国人(こくじん)(在地(ざいち)領主(りょうしゅ))たちと同じく利仁将軍伝承を拠(よ)り所とする土着性の伝統を主張したものと考えられる。
堀江氏が初めて史料に現れてくるのは応永3年(1396)の堀江賢光(けんこう?)(道賢の父)である。この年、興福寺大乗院(だいじょういん)門跡(もんぜき)は坪(つぼ)江(え)下郷(しもごう)出来島(できしま)(九頭竜川河口の中州)について、三国湊からの違(い)乱(らん)(秩序を乱す違法行為)を排除し、同郷阿(あ)古江(こえ)に属し支配すべきことを堀江賢光に命じていることが『坪江郷奉行引付(ひきつけ)』(注50)に記されている。
『私要鈔(しようしょう)』(」)(注51)など興福寺関係文書の記載によれば賢光は河口荘のいくつかの名(みょう)(注52)の名主(みょうしゅ)(注53)であり、荘園領主の興福寺から三国湊や細呂宜(ほそろぎ)郷(ごう)の代官を任じられている。
『寺門事条々聞書(じもんのことじょうじょうききがき)』(」)(注54)には本庄(ほんじょう)郷(ごう)公文(くもん)(注55)・細呂宜郷政所(まんどころ)(注56)の堀江石見(いわみの)守(かみ)入道(にゅうどう)、細呂宜郷上方(かみがた)代官の堀江越中守景(えっちゅうのかみかげ)用(もち)、細呂宜郷公文・同郷下方(しもかた)政所の堀江帯刀(たてわき)、荒居(あらい)郷(ごう)政所の堀江三郎(さぶろう)左(さ)衛門(えもん)らの名が見える。

注47 岡部家系図・・岡部家系図の成立は安土桃山~江戸幕府初期。藤原利仁
から実澄までの系図は尊卑(そんぴ)文脈(ぶんみゃく)と同じだが、実澄の子で堀江氏の祖とされる実(さね)
嗣(つぐ)(尊卑文脈では実澄の子は実(さね)副(そえ)。岡部家系図では実(さね)副(そえ)と実嗣は同一人物とす
る)からが堀江氏独自の系譜となる。寛政(かんせい)5年(1793)、堀江家当主直(なお)教(のり)が三河
国松平西尾藩に仕えた際、岡部氏と改姓した。西尾藩は明和(めいわ)元年(1764)に越
前丹生郡、南条郡、坂井郡にあわせて3万7千石の領地(飛地)を与えられた。
陣屋は丹生郡天王(てんのう)村(朝日町を経て現越前町)
注48 福智院・・福智院は大乗院門跡の坊官(ぼうかん)(事務を扱う在俗僧)四家の一つ。
注49 補任状・・中世、将軍、諸大名、荘園領主などが、守護、地頭、荘官、
名主等の諸職を任ずるときに下す文書。
注50 引付・・鎌倉・室町幕府に置かれた訴訟審理機関。所領に関する訴訟を
扱い、判決文を作成した。
注51 私要鈔・・興福寺大乗院(だいじょういん)経(きょう)覚(かく)の日記
注52 名・・名田。注39参照。
注53 名主・・領主から名田の経営を請け負った有力者。
注54 寺門事条々聞書・・興福寺関係の記録文書
注55 公文・・荘園などに設置された文書管理・政務・財政徴収・訴訟などを
扱う機関。
注56 政所・・荘園政所。荘園経営のための政務を取り扱う役所。

8 斎藤氏から堀江氏へ(下線部分を説明)
史料から堀江氏のルーツを探ることは極めて困難である。
岡部家系図に藤原氏~斎藤氏~堀江氏の系譜が記されているが、信
憑性は低い。(岡部家系図での)実嗣と実副が同一人物とするのは無
理がある。
それはともかく斎藤氏(藤原氏)と堀江氏との接点は皆無だろうか。
郷土史家の松原信之(のぶゆき)氏が藤原氏(斎藤氏)と堀江氏の接点について
次のように述べられている。紹介したい。
「ところで、堀江氏が確実な史料に初めて現れるのは、明徳3年
(1392)8月28日、相国寺(しょうこくじ)供養(くよう)(注57)に臨む(のぞむ)将軍義(よし)満(みつ)に供奉(ぐぶ)(お
供)した諸将やその随(ずい)臣(しん)(警備の武官)を記した『相国寺(しょうこくじ)供養記(くようき)』(」)で
ある。これには、後陣一番を勤めた越前守護家の斯波(しば)義(よし)重(しげ)の弟満(みつ)種(たね)の
随臣12名が名を連ねているが、堀江氏の名はない。但し、堀江氏
の本姓が藤原流斎藤氏であることを考えれば、斯波満種の3番目に
列記された随臣の『斎藤(さいとう)石見(いわみの)守(かみ)藤原(ふじわら)種用(たねもち)』(注58)が堀江氏であるこ
とは明白であり、斯波満種が.斯波氏の庶子家(しょしけ)(注59)ながら、堀江氏
はすでに守護斯波氏の被官化(注60)していたことが知られる」
松原信之氏論文『越前国人衆の堀江氏から朝倉国衆へ』より
斎藤石見守種用が堀江宗家に連なることは多くの研究者の一致する
ところではあるが、史料に明らかな堀江利(とし)真(ざね)(生年不明。没年1459
年)(注61)までの系譜が不明である。
その堀江石見守利真は長禄(ちょうろく)3年(1459)8月11日、足羽郡和田
庄の戦で甲斐常治・朝倉孝景(たかかげ)(注62)勢に敗れ(長禄合戦 注63)利
真以下主だった武将は討ち死に、堀江宗家は滅亡した。
戦いは甲斐方が勝利した。敗れた斯波氏の衰退は当然だが、勝利した甲斐氏にも暗雲が漂い始めた。病床にあった総帥甲斐常治が勝利の翌日(8月12日)京都で死去した。子の敏光(としみつ)が跡を継いだ。
朝倉孝景は、朝倉一族も一枚岩ではなかった。朝倉将景(まさかげ)(叔父)、
その子景(かげ)正(まさ)、朝倉掃部(かもん)、同新蔵人(しんくろうど)ら一門の反孝景派は堀江利真陣営
に走った。彼らは討ち死、反孝景派は壊滅、孝景は一族を掌握する
ことになる。
応仁の乱(注67)で孝景は甲斐敏光と袂を分かち、越前守護の座を得
て名実ともに越前の支配者となった。
堀江一族も本庄堀江氏、細呂宜堀江氏らは利真に離反し、孝景に
与した。利真方であったが加賀に逃れた者もいた。長禄合戦後、朝
倉氏は甲斐氏、加賀の一向宗と争うようになるのだが、坂北郡の情
勢に詳しい堀江一族を家臣に組み入れ、戦いの先陣に立たせた。

注57 相国寺供養・・相国寺は足利義(よし)満(みつ)が開基(かいき)(創立者)夢(む)窓(そう)疎(そ)石(せき)が開山(かいざん)(初
代住職)の足利将軍家ゆかりの寺。明徳3年、三世空(くう)谷明応(こくみょうおう)のもとで盛大な慶讃(きょうさん)
大法会(だいほうえ)が営(いとな)まれた。
注58 石見守・・堀江宗家の当主は代々石見守の称号を用いたことから、松原
氏は斎藤種用を堀江種用とした。
注59 庶子家・・.庶子家は宗家より別れた一族のことをいう。鎌倉時代から江戸時代にかけて武家に見られた血族集団。
注60 被官・・守護に従属する国人領主。
注61 堀江石見守利真・・堀江宗家当主。越前守護職斯波(しば)義(よし)敏(とし)と守護代甲斐(かい)常(じょう)
治(ち)が争った長禄合戦では斯波義敏に与(くみ)し、大将として参戦した。長禄3年(1459)
8月11日、越前国足羽郡和田荘(足羽川北岸の現福井市和田中町~西方一丁目
に及ぶ区域と比定される)で、守甲斐常治方の大将・朝倉孝景との合戦で敗れ
討ち死、堀江宗家は滅亡した。妻は朝倉孝景の姉。
注62 朝倉孝景・・越前朝倉氏七代当主。敏景(としかげ)と表記することもある。長禄合
戦では守護代甲斐常治の大将格として参戦。和田合戦後、堀江宗家は滅亡、守
護職斯波氏は衰退、勝者の甲斐常治は合戦の翌日(8月12日)死去。総帥(そうすい)を喪(うしな)
った甲斐氏も衰退した。唯一勝者となった孝景は越前の覇者となり、斯波氏よ
り守護職を奪う。
注63 長禄合戦・・越前守護職・斯波義敏と守護代・甲斐常治の対立から長禄
2年(1458)7月から翌年8月11日までの越前を舞台に展開された合戦。斯
波氏は越前・尾張(愛知県)・遠江(とおとうみ)(静岡県西部)の守護を世襲し、細川氏・
畠山氏と交代で管領(かんれい)(注64)に任じられる名門の家柄で、当主は在京し中央の
政務に当たっていた。当主に代わって領国の管理をおこなっていたのが守護代
の甲斐氏であった。
対立のきっかけは先代に遡(さかのぼ)る。先々代の宗家当主・斯波義(よし)郷(さと)(義郷と常治は従兄弟(いとこ))が27歳で夭折(ようせつ)し、わずか2歳の義(よし)健(たけ)が当主となった。幼い当主に代わって政務を執ったのが一門の長老斯波持(もち)種(たね)(先に記述した相国寺供養で斎藤種用が供奉した斯波満種の嫡男)と筆頭家臣で叔父の甲斐常治であった。持種と常治は不仲で、両者の主導権争いから斯波一門と家臣団は対立していた。義健も18歳で嗣子(しし)(跡継ぎ)がないまま死去した。宗家の家督を持種の嫡男である義敏(18歳。満種の孫)が相続したため、不満を抱いた甲斐常治と持種・義敏親子の関係は極度に悪化した。
長禄元年(1457)に斯波義敏と甲斐常治双方の家臣が騒乱を起こし、家中は混
乱状態にあった。翌年2月、将軍足利義政、管領細川勝元の仲裁により両者は
和解した。しかし越前では甲斐常治に反発する堀江利真を始めとする国人衆
(在地領主)と甲斐方である朝倉孝景、常治の子・敏光(としみつ)が抗争を繰り返してい
た。越前国人衆が甲斐氏に反発するのは甲斐氏が越前支配に野心を燃やし、
国人衆の既得権益を侵しためといわれる。局地的な抗争の繰り返しが7月には
本格的な合戦に発展した。長禄合戦である。
緒戦は堀江利真の活躍で斯波方の勝利が続いた。だが足利将軍義政は甲斐常治に肩入れした。(義政は守護の勢力を削ぐ将軍専制政治を指向しており、甲斐常治はその支持者であり、将軍義政より重用されていた)
長禄合戦の最中(さなか)、幕府は斯波氏、甲斐氏へ関東出兵を命じた。
(以下は番外であるが、『応仁の乱』とともに戦国時代突入のきっかけとなる『享徳の乱』であり、触れておきたい)
「関東で騒乱が勃発した。鎌倉公方(注65)5代・足利成(しげ)氏(うじ)が補佐役である関東(かんとう)管領(かんれい)(注66)上杉憲(のり)忠(ただ)を謀殺(ぼうさつ)したのである。成氏の憲忠殺害には伏線があった。成氏の父持(もち)氏(うじ)(4代鎌倉公方)と足利6代将軍義教(よしのり)(義(ぎ)円(えん))は対立していた(持氏と義円は6代将軍の座を争った)。その対立を解消しょうとしたのが、時の関東管領上杉憲(のり)実(ざね)(憲忠の父)であった。しかし持氏は諫言(かんげん)を受け入れず、逆に憲実に討伐軍を差し向けた。
鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実との戦となり、将軍義教は憲実に援軍をおくった。永(えい)享(きょう)の乱(らん)である。合戦は関東管領・幕府側の勝利となり憲実に追い詰められた持氏と嫡男義(よし)久(ひさ)は自害した(1439)。翌年、持氏重臣結城(ゆうき)氏(うじ)朝(とも)らが持氏の遺児春(しゅん)王(おう)丸(まる)(次男)、安王(やすおう)丸(まる)(三男)、万(まん)寿(じゅ)丸(まる)を立てて幕府に反旗を翻したが(結城合戦)失敗、氏朝と嫡男持(もち)朝(とも)は討ち死、春王丸、安王丸は捕らえられ処刑された。唯一生き残ったのが万寿丸(元服して成氏)であった。
永享の乱の結果、鎌倉公方は廃止されたが、後に復活し、成氏が5代鎌倉公方
に就任した。
成氏は父、兄を自害に追い込んだ上杉憲実・憲忠親子を憎悪しており、ことに
関東管領の憲忠とは犬猿の仲であった。
享(きょう)徳(とく)3年(1454)、足利成氏は結城(ゆうき)成(しげ)朝(とも)(氏朝の末子)家臣の多賀谷(たがや)氏家(うじいえ)・高経(たかつね)兄弟に命じて憲忠を殺害したのである。
幕府は足利成氏討伐軍を派遣したが、成氏は鎌倉を放棄し下総(しもふさ)古河(こが)(現茨城県
古河市)に逃れた。以後、成氏は古河を拠点として政務を執った。(古河公方)
関東は古河公方、関東管領、幕府、関東の守護、国人を巻き込んで混沌とした
情勢になった。享徳3年の憲忠謀殺事件から始まった一連の騒動は『享徳の乱』
といわれ、関東戦国時代の幕開けとなった」
関東の騒乱を放置すれば幕府の権威が失墜する。すでにその兆候が表れていた。弱肉強食の国盗り合戦の兆候が表れ始めたのである。反旗を翻した古河公方を屈服させ、幕府主導の秩序を回復させねばならない。
幕府は交戦中の斯波氏、甲斐氏へ関東派兵を命じたのである。だが両軍は近江に布陣したまま、幕府の関東出兵命令に応じなかった。
長禄3年2月(1459)、幕府は調停に乗り出したが、守護(斯波氏)方の国人衆の反対により失敗。これを機に将軍義政はいっそう甲斐方に肩入れをした。
将軍義政の名をもって、越前国人、若狭・能登・近江の守護に甲斐方への救援を命じた。追い詰められた義敏は幕府の関東出兵命令を無視して甲斐方の金ヶ崎(かながさき)城(じょう)を攻めたが、大敗した。この事態に義政は激怒し義敏に隠居を命じた。
(斯波氏家督は義敏の子・松王丸3歳(後の義(よし)寛(ひろ))が継承)
義敏は周防(すおう)(山口県)の大内教(のり)弘(ひろ)(周防(すおう)・長門(ながと)・筑前(ちくぜん)・豊前(ぶぜん)・肥前(ひぜん)の守護)のもとに亡命した。
越前では堀江利真が国人衆を結集し、甲斐敏光・朝倉孝景に決戦を挑んだ。
長禄3年8月11日(1459年9月7日)、越前国足羽郡和田荘(福井市和田)の戦い、長禄合戦最後の戦いである。
注64 管領・・室町幕府における将軍に次ぐ役職。将軍を補佐して幕政を統括。
注65 鎌倉公方・・室町幕府の征夷代将軍(足利将軍)が.関東10ヵ国(相模(さがみ)・
武蔵(むさし)・安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもふさ)・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・伊豆(いず)・甲斐(かい))における出先機関と
して設置した鎌倉府の長官。関東管領を補佐役として関東10ヵ国を支配した。
将軍家と身分差が少なく、幕府を脅かす存在であった。
注66 関東管領・・鎌倉公方を補佐するために設置された役職名。しかし任命
権は鎌倉公方ではなく、将軍家にあった。
注67 応仁の乱・・斯波氏内紛、足利8代将軍義政の後継問題、管領畠山家の
家督騒動など一連の騒動から応仁元年(1467)から文明9年(1477)に渡っ
て継続した内乱。管領細川(ほそかわ)勝元(かつもと)(東軍)と有力守護大名山名宗(やまなそう)全(ぜん)(西軍)が両
軍の主将となり全国の守護大名、国人を巻き込んで戦った。10年にわたる内乱
で国土は焦土化し民衆が疲弊した。
応仁の乱は幕府、守護大名を弱体化させ新興勢力の台頭もあって、戦国時代に
突入する。
朝倉孝景は当初甲斐敏光らとともに西軍武将として活躍したが、文明3年(1471)
将軍義政、細川勝元から「越前守護権限行使」の密約をもらって東軍に寝返る。

堀江一族 第一部 了。