継体天皇

 ゆかりの地である越前はかつて湿原が広がり農耕や居住に適さない土地であった。男大迹王(おおとのみこ、のちの継体天皇)はこの地を治めると、まず足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀りこの地の守護神とした。これが現在の足羽神社である。

次に地形を調査のうえ、大規模な治水を行い九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を造ることで湿原の干拓に成功した。このため越前平野は実り豊かな土地となり人々が定住できるようになった。続いて港を開き水運を発展させ稲作、養蚕、採石、製紙など様々な産業を発達させた。

天皇即位のため越前を離れることになると、この地を案じて自らの御生霊を足羽神社に鎮めて御子の馬来田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主としてあとを託したという。このような伝承から越前開闢の御祖神とされている。


 我々「ふるさと語ろう会」のメンバー十数人は足羽山の中腹にある足羽神社の宮司・馬来田(マクタ)氏の講演「継体天皇を尋ねて」を聴いていた。

 パンフには
「男大迹王は、58歳にて第26代天皇(継体天皇)に即位。ここ越前国を離れるに当たり、自らの御生霊を此の宮に鎮め、御子・馬来田皇女を斎主として後を託した」と書いてある。

 馬来田氏は「ですから、馬来田の姓は今から1500年前に登場。継体天皇から数えて私で60代目に当たります」と言うではないか。
 講演のあと、馬来田氏の引率で足羽山頂にある継体天皇像の前まで歩いた。
別れ際、会員たちが「牧田さん、会長としてお礼の挨拶をしろよ」と口々に言うので、私は襟を正して一歩進み出た。そしてこう言った。
 「本日はいろいろ勉強させていただき、ありがとうございました。マクタとマキタは一字違いで発音がよく似ています。宮司の端正な横顔は確かに高貴な血筋を感じさせますし、私の横顔も地元・あわら市では貴種の血をうかがわせるとささやかれています。いわゆる貴種流浪譚というやつで、継体天皇の同じ末裔どおし、親近感を味わわせていただきました」を挨拶の結びとした。