熊谷五右衛門

1865~1942(慶応1~昭和17)衆議院議員、県会議長、金津町熊坂生まれ。坪江村会議員、坂井郡会議員、坪江村長、丸岡町長を努め、県会議員として1839年(明治26)から通算17年在籍、衆議院議員在職中は杉田定一系の中心として活躍、九頭竜川の改修に尽力した。衆議院では北陸本線の牛ノ谷駅・春江駅の新設に尽力、1936年(昭和11)には全院委員長となった。 


熊坂村誌から

五右衛門翁は、慶応元年六月三日、坂井郡熊坂村、熊谷家の長男に生まれた。当時は幕末激動の頃で、開国、倒幕の意見が交錯して、容易ならぬ政治情勢となっていた。周囲を山にかこまれて情報の少ない村人たちは、体力だけを頼りにして、一途に炭を焼き、山田を耕して飢えから身を守っていたのである。
熊谷家は素封家で、父祖以来郷土のために貢献し、先代は情深く、凶作の年貢を減免し、また集落を代表して藩に陳情し、村人から感謝されていた。
或る年、役人から「その方は毎年、去年よりも不作だと云っているが、今に熊坂の田からは一粒の米も取れなくなるのではないか。」と詰問されたが、「熊坂は女の頭髪でございます。梳るたびに抜けますが今だと禿げにはなりません。」と答えたので役人一同大笑いして許したとの事である。
慶応四年九月、明治元年となり新政府が発足した。明治六年に敦賀県となり、同九年には石川県となり同十四年二月七日漸く福井県が誕生したのである。
五右衛門翁は明治六年九月に父を失い同十二年八月に母を失った。
翁は十五歳で家督を相続し社会で活躍するようになった。学習小学校に丸岡藩士町原元立を招き、四書五経を学んだ。師は昼の授業に続き、夜間も青年を集めて教育に徹したので、その教化は校下に行きわたった。翁は師の薫陶を第一に受け、温厚篤実な人格を形成した。人々には礼儀正しく接したので日々信望が高くなった。
明治十三年三月、大石村(春江町)下小森、高嶋治右衛門二女さき子を妻に迎えた。恵まれた容姿に誠実と勤勉が品格を備え、翁の伴侶にふさわしかった。早朝から襷掛けで働き訪問者の接待をした。お針や作法の女子教育にも務めた。広い庭園の掃除や二男一女の養育に全力を尽くした。坂井平野に梅雨の長雨が降る日や、蕪雪が降り出す頃には、下小森の治右衛門は、遠くにかすんだ熊坂の山並みを眺めて、娘の無事を祈っていた。
翁は打ち続く米価下落で窮乏している村人に、養蚕伝習所を開き、養蚕を副業とするようにすすめた。
翁は坪江村会議員、坂井郡会議員、坪江村長、丸岡町長を努め、その間に益々人徳を高めた。明治二十四年翁は熊坂の高田門徒に諮り、真智上人のお墓を建立した。広く越前国中の末寺や門徒から浄財を募り、高さ五メートルに達する巨大な石仏は笏谷石で造られて、高田派管長・常盤井堯師の題字で、喜雲院宮真智上人と刻まれている。運搬力の乏しい時代に、福井市の南端から熊坂まではこんだ苦労が偲ばれる。明治二十六年、翁は二十八歳で福井県議会議員となり、杉田派に属して九頭竜川堤防の改修と、三国線の開設に全力を尽くした。

「稔るほど頭をたれる稲穂かな」明治三十二年から三十六年までは、第十七代副議長に就き、明治四十一年から四十四年までは、第二十一代議長に選任されて、県政に寄与するところ絶大であった。
当時は、日清・日露の戦没後で、県財政は貧困を極めていた。議長になった翁は、全議員を人力車に乗せて、風谷峠を越えて山中温泉に向かった。とちゅうの急坂は徒歩になり、それぞれが後押しになって、漸く刈安山の頂上に立つ事ができた。東に富士写ケ岳が眼前に迫り、奥越の山が続く。北に加賀平野を望み、南には劔ケ岳を越して福井市街がかすんで見える。九頭竜の流れは蛇行して銀色に輝き、三国の港に展開すると、遥か日本海に雄島が見えてきた。翁の開発構想の説明も終わり議員達は共感した。下りの山道も峻険を極めたが、無事、風谷集落に至る。やがて栢野の大杉を左に見て、右に大内川の瀬音を聞きながら、湯煙の立つ山中温泉に着いた。山中節でたけなわになり、時の推移も知らなかった。翁は満足であった。
県会では杉田派の中心となって活躍し、中央政界に出てからも杉太と政党を共にした。県会在任中多くの建議をしている中で、明治三十八年八月の臨時県会における「治水に関する県議」は有名である。波多野知事が九頭竜川改修事業に認識を欠き、諮問案を提出しなかった責任を問うたもので、不信任案となり、後任の関知事から提案があったので、九頭竜川改修の歴史的大事業の施行を見る事ができたのである。明治四十一年九月の県会では、日露戦没後の財界不況対策に尽力した。その後、九頭竜川川改修は竣工となったので、第二期改修の着工について奔走していた時、全国県議会議長会が東京に招集された。
会議後、明治天皇に拝謁の光栄に浴した。礼服に身を正して人力車を連ねて二重橋を渡った時、これからは国会で働こう、朝夕に宮城を拝して日本国のために、身命を捧げようと固く心に誓った。翁は長身に長髪をなびかせて、滔々たる演説をなし、衆議院議員に当選した。
翁の長男、憲政(明治二十四年三月二十一日生)は父の志を助けたいと考え、石川県立金沢第二中学校に入学し語学・文学を修め、俳句を嗜み、小高堂と号した。また、尺八の名手でもあった。月光の夜、庭石に腰をおろして吹く尺八の音色は山々に谺して、村人の無聊を慰めたのである。
大正元年八月二十一日、東洋汽船安洋丸にて横浜港を解、雄図を抱き、秘露国(ペルー)里方(リマ)に渡り、橘屋商会に勤め大を成したのであるが、不幸にも風土病に罹り、加療の効なく里方市ギスデマヨ病院で死去した。(大正三年十月二十八日没、釋武信勇往)遺髪は熊坂に遺骸は里方の墓地に葬られた。惜しみても余りある事だった。
大正十年四月、翁年来の努力で、牛の谷駅が新設された。村人たちは夢かとばかりに喜び、感謝のお祝いをした。鉄道への愛着と親しみは、いよいよ高まって若者が大勢就職することができた。翁の家から牛の谷駅までは遠い。汗ばんでくると和服の肩はだをぬいで歩いた。下金屋、畝市野々、牛の谷と合う人毎に声をかけた。駅に着くと、下り線に乗る時は金沢まで、上り線の時は敦賀までの切符を買って東京に向かうのであった。国会議員優待パスを自粛して、売上高を伸ばそうとする翁の心遣いに駅長は感激した。駅長は翁を慈父のように思って見送った。二等車の窓から手を振ると、白髯に一段と威厳が加わった。
国会ではたえず北陸本線の発展につとめた。政友会に身を置き、内田派の重鎮であった。内田信也は鉄道大臣を務めた。
大正十五年5月、春江駅を新設し、春江織物を全国に発送したので機業の町に発展したのである。翁の鉄道に対する執念は止むところを知らず、福井から足羽川に沿って大野に至り、岐阜県美濃を結ぶ越美線の新設に没頭していた時、頼りにしていた妻、さき子が倒れた。後年カンデのオババと呼ばれ村人や近在の有志に親しまれていたのだが、昭和九年二月二十五日死去した。
翁の全盛期のおける妻の葬儀は盛大であった。自動車の少ない時代に、弔問のタクシーが門前に列をなした。花輪が百を越して並んだ。香典と弔電が柳こ行李一ぱいにつまった。豆腐屋と料理屋が出張して来た。十人を超す僧侶が合する音声が厳かであった。供養が七日七夜続いて静寂がもどると、翁は東京の麹町区元園町に戻っていく。家を出る前、仏壇にお燈明を上げた。真新しい位牌は幽遂院釋勝景妙林享年七十二歳とあった。翁は深々と礼拝して読経をした。「ああ悲しきかな人の世にありて求むるところ意の如くならず。・・・」元気な時に一度東京へ連れていきたかった。東大の名医にもかけたかったと悔やみ、万感胸に迫り来て涙にむせんだ。
昭和十一年五月の第六十九回帝国議会で、全院委員長に選ばれ、勲三等瑞宝章に叙せられた。翁の白髯と和服の姿は、福井の白熊と呼ばれて有名になった。国会を代表して四大節には天皇に挨拶にいく重大な任務になった。宮中に参内するたびに初心を忘れなかった。県会議長時代に渡った二重橋の感激である。あれから二十五年は過ぎた。すでに古希も越していた。参内の帰りに戴いた菊花の菓子を郷里の友人たちに送った。足羽郡宇坂村市波の前田又兵衛にも送った。彼は越美線開設に尽力した同志である。越美線は沿線住民の熱望にもかかわらず、一部の路床と橋脚を完成させて、昭和十二年の日支事変勃発によって休止になってしまった。福井から熊坂を通って小松に至る、鉄道省営バスの開通も中止になった。村の中央にある熊坂新橋は、漸く完成した。翁は、弾丸道路で国内を結ぶといって村人を驚かせたが、今日の自動車道路の事を夢みていたのである。
支那事変は益々拡大し、北支から中支へと広がった。昭和十二年衆議院を代表して、戦線視察と将兵の慰問に出発した。国民服と戦闘帽は不似合いだったが、体力はまだ盛んであった。第一信は次のようであった。

拝啓
御見送下さり、有難う存じ候う 二日東京発 三日午後一時門司にて、長城丸に乗り込みたるも海上大荒れ、四日朝八時出帆の玄界灘 波高く、苦痛、四、五回絶食する。漸く天気回復、始めて日光を拝して蘇生の思い、今朝、大着、○○に上陸、汽車にて只今天津着、御安心下され候う。
○○
殿        敬具

大陸渡航者の大半は玄界灘で音を上げる。出征兵士も輸送船で苦しんだ難所である。翁もまた苦しんだ。
司令部から派遣された渋谷中佐や野村軍医の案内で戦線視察をしていた時、移動中の舞台があった。ふと目をやると三人の兵士が捧げ銃の敬礼をした。杉田であります、辻橋であます、わたなべであります。きびきびしい軍隊口調である。「何ゾ図ラン、在所の若者達。元気ジャッタカ。」駆けよって武装した兵士の肩をなでた。北支の風は冷たい。早く毛皮の外套を送りたいと思った。恩賜の煙草と金兵糖を渡して激励した。黄砂の風を受けて乗用車は出発したが、三人はまた敬礼した。軍律きびしい中で多くは語れなかったが、無事凱旋してほしいと祈った。部隊本部で捕獲兵器を見た。チェッコ銃や米国製の火器はすぐれていると説明された。宿舎の北京飯店は豪華であったが、外の寒気は厳しくなった。国会報告の草稿も出来上がり、十二月下旬帰国した。熊谷家には淳二郎夫妻と五人の孫がいた。二女の恵美子は、右足が不自由だったり活発で剽軽であった。犬と遊んだり鶏に餌を与えたり、石畳で縄とびをして、おじさんの帰りを待っていた。好物の卵が箱に一ぱいたまっていた。おじさんは帰って来ると、家の大屋根から鶏小屋まで見まわして安泰を確かめてから、少し前かがみになって石段を上がって来る。孫達に「お帰りなさい」と言われるのが何よりも慰めになった。だが、今日は恵美子の姿は見えなかった。大きな玄関の敷台に腰をおろして、「エミーやー」と呼んだ。守弘がエミーは病気だと告げた。島崎の医者がオートバイで駆けつけた。体温は四十度になり呼吸も熱も早かった。医者は肺のあたりを聴診していたが、声を落として急性肺炎だと云った。山から雪を取って来て全力を上げて冷やし続けた。一週間が峠だと云ったが病勢は進む一方だった。今日か明日かの夜中、ふと目を開けて「ミンナニオセワニナリアリガトウ」と云って目を閉じた。お礼を云って世を去ったのである。
妻を亡くしてから四年目の翁は、孫達を愛した。足の不自由なエミーには、目をかけた。小学校三年生のあどけない少女を納棺した後で、「エミーはナンナサマの子にしてもろうた。」と云って涙をぬぐった。初七日を過ぎた頃、一人の婦人が熊谷家を訪れ、釋妙善、享年十歳、昭和十三年一月二十三日没と書かれた位牌に合掌していた。「私は十二月の初め霰の降る寒い道で、下駄の鼻緒が切れて困っていました。学校帰りの恵美子さんは、ハンカチをさいて直して下さいました。一目でで熊谷さんのお孫さんだとわかりました。」と云って涙を流した。
戦線なき支那事変は、泥沼に落ち込んでいった。昭和十五年皇紀二千六百年、翁は勲二等瑞宝章に叙せられた。奉祝行事が全国津々浦々でくり拡げられた。「金鵄輝く日本の、栄えある光り身にうけて、今日こそ祝えこの朝」と歌いながら旗行列が続いた。国会の政党政治は大政翼賛政治に変り、近衛首相が国民の人気を集めていた。各政党は解散になり、非常時の掛声のもと戦争一条に進んでいった。
翁は熊坂の自宅に居た。七十六歳という年令も実感するようになった。日米開戦には反対だが、翼賛政治では方途がなかった。墓地を整理したり、庭を整えたり、孫達の質問に答えたりしながら日本の行く末を心配していた。毎朝早起きで午前様をとりに台所に来る。仏前では正信や文書や阿弥陀経等何れも音声は僧に劣らなかった。ラジオ体操を孫に習って行い、鎮守様に参拝した。歩きながら体力の衰えを感じた。長い政治生命を守って下さった春日神社の鎮守様に、心からの感謝の誠を捧げようと決心した。
大鳥居を奉納したいと村役に願い出た。翁の真心と信心を知る村人は心から感謝して、その作業に協力した。旬日を経て三国の小森石材店から花崗岩の大鳥居が来た。樹齢二百年の椎の大木と調和して神々しかった。矢地の志田、笹岡の三上、両神官が祝詞を上げた。楽人の奏でる雅楽が春日山に響いた。二人の童女が鈴を振って浦安の舞を納めた。
昭和十六年七月七日翁は最良の日であった。モーニング姿は珍しいが、勲二等の瑞宝章は首から下がって胸のあたりでサファイヤ色に輝いた。初めて見る勲章に、老若男女一斉に拍手して褒め称えた。
昭和十六年十二月八日、日米開戦の臨時ニュースが全国に流されると、終日ラジオに聞き入っていた。一日遅れの新聞、官報、政府刊行物、戦地からの便り、同僚議員・要人からの手紙を丹念に読み、返事を何通も書いて郵便さんに渡した。時々巡査が護衛といって訪問した。余計な冊子は自分で焼却した。戦のニュースは、軍艦マーチで始まる、明るく張りのある平出大佐の報道に国民は一喜一憂していた。昭和十七年六月、ミッドウエー海戦で帝国海軍は大敗を喫した。主力空母赤城をはじめ四隻のの空母と多数の艦隊が沈没し優秀な零戦パイロットを失った。以来戦局は悪化の一途をたどった。翁は海軍の東郷元帥や岡田外相との親交が篤かったので、艦隊の実情に精通していた。極秘に敗戦を知って大きく落胆した。日本は負けるかも知れないと思った。国会議員を辞したいと思うようになった。間もなく、親交のあった酒井利夫(丸岡町楽間)を後継者として推薦した。
翁が政治の道に入って五十有余年「金を失う事は小さな損失、名誉を失う事は大きな損失、信頼を失う事は政治家にあらず」と信じて、熊坂小学校へ来るたびに、町原先生の碑の前にひれ伏していた。明治、大正、昭和の三代を師の教訓を信条として、社会に尽くしてきた翁には、小学生にも立ち止まって深くお辞儀をした。どんな者にも答礼して、いたわりの言葉をかけた。体力も気力も使い果たした翁は、秋風の吹き立つ九月一日未明七十七歳の天寿を全うした。生前号を高洞と称したが、高洞山は四季それぞれに美しい装いを見せている。
十月の初め、篤善院釋智念浄真の村葬が熊坂小学校で行われた。
その日から三十六年の歳月を過して、時の金津町長、天野秋夫は翁の功績を長く後世に伝えたいと願い、昭和五十三年十月、金津町役場庁舎南側に翁を顕彰する胸像を建立した。
碑文には、熊谷五右衛門翁の遺徳を偲ぶと題して、次のように記されている。

翁は慶応元年金津町熊坂に生まれる。青年に至りて政治を志し、独学独歩して二十八歳にして福井県会議員となる。爾来坪江村長に就任し、明治四十七年四十三歳で福井県議会議長となり、県会議員として十七年間活躍された。その後明治四十五年、四十七歳で衆議院議員に当選して以来、大正、昭和と実に通算二十一年六ヶ月間、国会の要職につき、この間、丸岡町長に就任し、昭和十七年九月、七十七歳の天寿を全うされた。翁は特に九頭竜川改修に力を注がれ、耕地整理事業の推進をはじめ、三国線の敷設、北陸本線牛の谷駅、春江駅の新設、福井県繊維産業の興隆に貢献された。翁の遺徳を後世に残すため、ここに胸像を建立し顕彰する。
正面の題字は前内閣総理大臣、三木武夫の揮毫である。
昭和五十三年十月  福井県知事 中川平太夫