「敦賀の遊郭について  杉原 永綏」

 「はじめに」

 遊郭は世界いたるところに存在していた。古代ローマ帝国の時代にも存在し、コンスタンチヌス帝(二八〇ごろ~三三七)は、財政難から遊女にまで税をかけたとの事である。また、国家が許可したいわゆる公娼なるものも日本だけではなくて、欧米各国に存在していたのである。かの有名なヂュマ・フェスの小説「椿姫」の女主人公マルグリッド・ゴーチェは、フランスにいた実在の公娼をモデルにしたものである。
 ところで、日本の遊女は古く万葉の時代にも存在し、
 里人の見る目はづかし。左夫流児に惑はす君が宮出後ぶり。
 と歌われている。その意味は、里人の見る目が恥ずかしい。左夫流児に迷っておられるキミの出勤する後姿は。この左夫流児とは遊行女婦遊女の名である。(武田祐吉、万葉集全注釈十二)更に平安時代から鎌倉時代には妓王・妓女・仏御前・白拍子などの名で、義経の愛妾静御前も白拍子、つまり遊女であった。
 ついで室町時代にも、白拍子・傀儡子などの遊女がいた。足利十二代将軍義春の大永八年(一五二八)、幕府は傾城局という役所を設けて京都のこれらの遊女から、年間十五貫の税を徴収して幕府の財源にあてたということである。(一九八〇・四)江戸時代になると幕府の厳しい統制の下に、江戸の吉原、京都の嶋原、大坂のといった三大遊郭が栄え、遊女にも様々な階級が生まれ、大名・豪商の大尽遊びから、ささやかな庶民の享楽まで、世界にかって類をみない一大歓楽境が出現したのである。そぢてこれはまた地方の小都市敦賀にも影響を与え、敦賀港の繁栄と共に、敦賀遊郭も亦殷賑を極めたのである。その敦賀遊郭が姿を消してから三十数年がたった。戦災・復興・都市計画・町名変更、これらは昔の敦賀を一変した。天神さんは元のところに復興鎮座ましますものの、新町はどこかへ消え失せてしまった。今、限られた資料と記憶をもとに、かって栄え敦賀遊郭の歴史の一端を述べてみたいと思うものである。

 「一」
 敦賀の遊女のことが、はじめて文献に見えるのは「太平記」ではなかろうか。「太平記」(岩波古典文学大系)巻第十七、金崎船遊事付白魚入船事の中に「春宮盃ヲ傾サセ給ケル時、嶋寺の袖ト云ケル遊君御酌ニ立テリケルガ・・・」とある遊君が遊女のことで、嶋寺とは戦前の町名では大嶋、今の元町である。南北朝動乱の時代、既に敦賀の嶋寺に遊女がいたのである。敦賀郡誌によれば疋田記に「慶長十年(一六〇五)頃、遊女町嶋寺町より三ツ屋六間町に移る」とあり、江戸初期に戦前の川東の遊郭が出来たようである。(この疋田記の所在は明らかでない。)
 ついで、近松門左衛門(一六五三~一七二四)の浄瑠璃「けいせい反魂香」に絵師狩野元信(一四七八~一五五九)が名木「武隈の松」を描きたいと思うくだりがある。それは近江国の守護佐佐木源氏の嫡流六角左京ノ大夫頼賢が、足利将軍の命をうけて、日本中の松の名木の絵を集めることになった。絵師狩野元信は、名前だけは残っているが今はわからない奥州の「武隈の松」(注1)を描きたいと天満天神に祈る。即ち「・・・然るに奥州武隈の松と云ふ名木は。いにしへ能因法師さへ跡なくなりしと読みたれば。(注2)名のみ残って知る人なし我是を書きあらはし。誉を得させ給はれと天満天神を祈りし所に。武隈の松の絵を見んと思はゞ。敦賀気比の浜辺に行くべしと・・・」
 (注1)奥州の武隈の松は宮城県岩沼市の城館。武隈館にあったと言われる二株の姿よき老松で、既に平安中期にはなくなっていたという。
 (注2)御拾遺集十八、能因法師(平安中期の歌人)の歌に、「武隈の 松はこのたびあともなし 千歳を経てやわれは来つらむ」 
ということで、狩野元信は敦賀へやって来て武隈の松を訪ねるが、誰れも知らない。ところが”天神さんのお告げで武隈の松を探しているのだ・・・”と言うと、相手は遊女町の天神さんを思い出し、それなら敦賀の郭に名高い遊女「松」(遊女の最上位太夫を松とも呼んだ)がいるというわけで、狩野元信は遊女の「松」に会うのだが、この遊女「松」は実は絵師の大家、土佐光信の娘で、光信が天皇の勘気に触れて浪人の身となり、娘も遊里に身を沈め、諸国を転々として敦賀へ流れつき、「遠山」と名乗る者であることがわかる。そして武隈の松はの図は土佐家の秘伝の絵で、誰れにも漏らしてはならないことになっているのだが、「松」即ち遠山も夕べ不思議な夢を見た。それは天神が現われ「狩野という絵師下るべし。武隈の松を伝授せよ父が出世の種ならんと。」ということであった。そこへ狩野元信が訪ねて来たのだから不思議な夢は正夢であったと、狩野元信にいろんな立ち姿を示して武隈の松を伝授するのだが、これが縁で二人は結ばれ、狩野元信は土佐光信の女婿となり、絵所の預かりになるという筋である。

  「二」
 さて、この「遠山」のいた遊郭が天神さんを中心とした(注3)六軒町・新町・三ツ屋・森屋敷で、総称して四町街といゞ、四町で青楼二百余軒も軒を並べていたらしい。
 (注3)慶長十年(一六〇五)頃、嶋寺から天神さんを中心とした地域へ遊郭が移ったので、近松門左衛門は時代的には矛盾するが狩野元信(一四七八~一五五九)をこの天神の遊郭に登場さしたのであろう。尚この天神さんの本殿西横に戦災で焼けるまで幹が二本に分れ、松葉も他の松と違い細かく優雅な姿の「武隈の松」(樹齢凡そ五〇〇年位)があり、石碑が立てられていた。近松の頃は樹齢三〇〇年位であったろう。けいせい反魂香をもとに姿よき松であったので、いつの頃かこの松を武隈の松と名付けたのであろうか。 
 天和二年(一六八二)に敦賀で書かれた「遠目鏡」によると、見っや「三っ屋」町のあげ屋やくつわ、六軒町のくつわ等、それぞれ廓の名前と遊女の数も記している。そして見つや町と六軒町で遊女の数は〆て上女郎三十五人、下女郎四十二人おり、その他梟町(森屋敷町(注4)の延長で、戦前の浪花町、石田呉服店横の辻子を入った通り)に女七十人余、出村(松栄)に女五十八人余、浜出(蓬莱の浜町か?)に女百人余と記されていて、これらの女も売女(遊女)であったらしい。
 (注4)森屋敷とは、江戸時代の天神さんの神官森氏(後に管森と改む)の屋敷のあったところで、戦前の常盤町の中心部にあった。
 敦賀は港町であるため、敦賀遊郭の名は日本中に知られていたらしく、畠山箕山が延宝六年(一六七八)頃著した江戸時代の遊里案内書「色道大鏡」にも「敦賀の遊郭は六軒町といふ。挙屋の居る所をみつやといふ。傾国の遊料十六匁、次は十匁宛なり、端女は六匁宛。」とその料金も記している。ところで「遠目鏡」や「色道大鏡」に見える六軒町とは六間町とも書かれるが、その名の通り六軒の廓があったところである。戦前は天神さんの前から港へぬける通りを正面」町、天神さんの並びの通りをおもて町といゝ、六軒町はおもて町を天神さんを右手に金ケ崎の方へ少し進んで最初の辻子を右へ入ったところである。また、みつやとは三ッ屋とも、見つやとも書き、天神さんの裏の鳥居(今はこの鳥居のすぐ横に風呂屋があり、昔の面影は全くなくなっている)の前を西の方へ梟町と交差した通りである。挙げ屋(揚げ屋)は客が遊女屋から太夫・天神・格子などの高級な遊女(上女郎)を呼んで遊んだ店のことであり、くつわとは遊女を抱えておく家で、遊女屋のことである。江戸時代にはこのみつや町に西側に揚げ屋、くつわが軒を並べていたようである。
 宝暦年間(一七五一~一七六三)の末頃までは、敦賀遊郭に青楼太夫という遊女の最上位のものがいたようである。この青楼太夫が遠山即ち松であろう。上方や江戸では最上位の遊女を太夫或いは花魁といゝ、太夫の次を天神といった。花魁とはおいらの姉女郎がおいらんとなったということである。
 天神とは揚代(遊び料)が二十五匁であったので、天神さんの縁日の二十五日と揚代二十五匁とを結びつけて天神といったらしい。しかし「色道大鏡」では、敦賀遊廓の遊び料の最高が十六匁だから、二十五匁の天神は敦賀にはいなかったのではなかろうか。格子とは天神の次で、遊女屋には出格子がはまっていて、そこに顔を並べていた遊女をかく言ったのである。それ以下の遊女は下女郎で、店の前で客引きをしたようである。
 敦賀の遊女は別名干瓢といわれた。干瓢はむかし夕顔(注5)といったことから遊女は夜、人間に顔をさらしたもので、つまり下女郎のことであろう。
 (注5)久隅守景筆「夕顔棚納涼図屏風」を見ると、夕顔とは干瓢のことで、棚から大きな干瓢の実が下がり、その下で農家の夫婦が子供と夕涼みしている。この実を薄く紐状にむいて乾燥したものが、すし等に用いる干瓢で、花を観賞する朝顔の一種の夕顔とは別物である。

 「三」
 戦前、敦賀遊郭を総称して新町といっていた。しかし新町とは敦賀郡誌によると、六軒町裏の塩入田を寛文元年(一六六一)から埋め立て、寛文十年(一六七〇)に一町をつくって新町と名付けたと記している。いわゆる戦前の新町には、挙げ屋とかくつわという名称はなくなり、また太夫・天神・格子の身分もなく、芸者屋と女郎屋に別れていた。芸者屋は芸者(芸子ともいう)を抱え、芸者は芸を磨き、お座敷へ呼ばれて芸を売るのが商売であり、芸者をお座敷へ斡旋する事務所、即ち見番(検番ともかく)もあった。しかし女郎屋は売られてきた女を女郎(娼妓ともいう)として抱え、その家で女郎たちに公然と売春をさせるのが商売であった。芸者屋も女郎屋も入口にその家の家紋と屋号入りののれんが下がっていたが、特に女郎屋には、のれんをくぐると壁に女郎たちの額入り写真が飾られていて、その下に女郎の源氏名(呼び名)が書き込まれていた。女郎たちの部屋は大概二階で、階下中の間辺りに女将が夏でも長火鉢の前に座っていて、女郎たちに采配をふるっていたようである。
 女郎はこの女将を「おかあさん」と呼んでいた。大きな女郎屋には七~八名の女郎が、普通の女郎屋で五~六名の女郎を抱えていたが、小さいのは一人の女郎で営業しているところもあった。女郎たちは性病に冒され、客にも感染させる恐れがあったので、女郎たちの性病を定期的に検診する常盤病院や、女郎だけが入浴する銭湯もあり、芸者や一般人と区別されていた。更に女郎は不浄者とされ、付け馬(客についてその家まで行って遊興費の不足分を取り立てる)の時など神社の境内は通れず、天神さんの横に女郎の通る不浄道まで作られてあった。
 戦前の敦賀遊廓には芸者屋として、六軒町の藤村・松葉屋・新町の品の家・増田・増来・金八・辻福・みつや町の鈴花・金菊・友の家・増光・松林亭などが有名であり、女郎屋としては、新町の新月楼・案房楼・石見楼・吉寿楼・森屋敷町の立石楼、みつや町の安田楼など、楼のつく家が多かったようである。そしてこの敦賀遊廓には、回り舞台を備えた「敦賀座」、また講談や浪花節(浪曲)・万歳などのいわゆる寄席専門の「楽席」、射的屋やビリヤード(玉突)、カフェー、料理屋など、多種多様な飲食店も軒を並べ、まさに港つるがの歓楽境であったのである。

 「あとがき」
 いつも堅いと言われている私が、遊郭をとりあげたので驚かれた方もあると思うが、もともと遊郭との係わりは、わが先祖の三国町下真砂、永正寺以来のことである。永正寺は三国町下真砂、即ち出村の一角にある寺で、出村といえば三国遊郭のあったところである。三国小女郎として有名な俳人豊田屋哥川(安永五年(一七七六)七月六十一歳で死)の俳句の師は、わが先祖永正寺十七代住職杉原永言、俳号夕陽
巴浪(はろう)である。哥川は
 奥そこの 知れぬ寒さや 海の音
 稲妻や 開ける妻戸に 見失ひ
 の名句を残している。この出村の永正寺で私は、旧制三国中学校時代の五年間を過ごし、いつも遊郭の中を通って通学したものである。また敦賀の家は、父永存が天神さんの神主をしていて、遊郭に氏子総代や世話役がいたので、子供の頃よく手紙や回章をもって使いに行かされたものである。そのようなことから、一度も遊びに行ったこともない遊郭ののれんの中や遊女の写真、女将の長火鉢に座っていた様子などが、子供心にいろいろと植えつけられていったのである。どうして三国でも敦賀でも遊郭と関係が深かったのか、父も不思議がっていた。
 敦賀の遊郭を書いて見て、芸者の揚代や女郎の遊び料が、ショートと泊まりで異なるが、いくらであったのか、また女郎はどこから売られて来た者が多かったのか、いくらで買ったのか、どの家に芸者が何人、女郎が何人いたのかなど、これらを聞こうにも知る人もなく、ただほんの敦賀遊廓の歴史の一部を紹介したに終わったことを残念に思う。
 尚、このような標題のものを学校の研究収録に発表するのは如何とも考えたが、あくまでもこれは日本の世相史の一部門であり、純粋な学問であるので敢えて発表することにした。
 最後に、地図作成に当り、当時遊郭に住んでおられた二・三の方からいろいろとご教示をいただいた。これらの方々には厚く感謝申し上げる次第である。
 遊郭が消滅して三十数年を経過した今、記憶をもとに昭和期の遊郭の地図を再現することは至難のわざであることを痛感した。或る人はA楼が新町の北側にあったといゝ、或る人は南側といゝ、また或る人はとんでもない方角にあったといゝ、また、どこの隣りであったかについては甚だあいまいで、人の記憶は余り当てにならないものである。だがこの地図は出来得る限り正確を期したつもりであるが、まだ幾らか間違いがあろうかとも思う。間違いに気がつかれた方はお知らせいただきたい。またの機会に訂正したいと念じている。
 
注:敦賀遊廓地図