鋸坂



橋屋村落をすぎると 鋸坂にさしかかる。加賀橘へのこの道は、鎌倉時代初期に開かれたが、草木茂る山道であった。特に鋸坂は、鴫谷山のけわしい山裾を鋸の歯のように曲がりくねった難道だったので鋸坂と呼ばれるようになったようだ。鎌倉時代建永二年二月二十八日、親鸞は越後国の国府への流罪の宣下が下され京より追い出された。親鸞は越後への道中、この鋸坂で越前門徒との別れを惜しみ、
音にきく のこぎり坂を ひきわかれ
     身の行く末は こころ細呂木
の詠歌を残したと伝えられている。



蓮ケ浦より細呂木への小峠に建てられている「親鸞上人旧跡 詠歌碑」はここに建てられなければならなかったのだ。
室町時代、本願寺八世蓮如も幾度もこの道を通り、文明三年七月二十七日吉崎坊へ入られた。
江戸時代になると、細呂木以北の大名・参勤交代の大名道となる。