お寺のおばあちゃん(長谷川勲)

 「お寺のおばあちゃん」 はじめに

 昭和十九年(1944)六月三十日、政府は東京、大阪、名古屋などの十三都市の国民学校初等科三年から六年までの児童のうち「縁故疎開」のできない児童を近郊農村や地方都市へ「集団疎開」させる『学童疎開促進要綱』を閣議決定した。

これにより八月に大阪府から一万五千人の学童受け入れを要請された福井県は『学童集団疎開受入要綱』を定めて検討したが、四~五千人の受入れが適当と判断し大阪府に通知した。大阪府は児童数を最低四千人に変更し、九月に第一陣として大阪府城東(じょうとう)区内の国民学校児童二八〇三人が来福した。 (福井県史・福井空襲史編の記述より)

注)最終的には三八〇四人の学童が福井県に疎開したと記録されています。

(大阪府疎開児童に関する資料より)

そのうち坂井郡へは次の通り疎開しています。

関目(せきめ)国民学校児童 百二名が丸岡町へ

榎並(えなみ)国民学校児童 六百三十五名が芦原町、金津町、三国町へ

布施第五校(現高井田東小学校) 百六十二名が坪江村へ  (福井県史より)

注)「十九年九月二十二日、疎開児童受け入れ歓迎式典開催」芦原小学校史で記述。

 芦原町には八つの旅館が児童約百六十名の疎開先となりました。しかし昭和二〇年に入り、それらの旅館が陸軍に接収され、同年三月から四月にかけて疎開児童たちは近隣の寺院に再疎開させられました。そのうち初等科四年生女子児童二十二名が波松の正賢寺さんで暮らすことになったのです。

 それから三十五年後の昭和五十五年四月十七日、当時の疎開児童たちが来芦し、波松小学校、正賢寺さんを訪ねました。お世話になった正賢寺御住職・白越曲直(まなお)氏、恩師・初馬須磨子さん(旧姓佐藤)、井沢富子さん(旧姓大久保)、親しい同級生だった波風泰男さんとの再会を果たしました。そのときの様子は福井新聞四月十九日号に掲載されています。

彼女たちは帰郷後、疎開当時の思い出や再会の感動を白越曲直氏への手紙で述べております。その内容から、正賢寺坊守・白越竹さん(曲直氏の母)の深い愛情がうかがわれるのです。竹さんは「お寺のおばあちゃん」と呼ばれ、彼女の優しさは子供たちの心に刻まれました。あの苦しい日々でさえ、長い歳月を経て懐かしさに変えていたのです。

 七十年前の疎開当時の写真、三十五年ぶりに訪れた波松小学校での写真、福井新聞記事、さらに彼女たち(疎開児童、引率教師、寮母、波松小学校教師)の手紙、その六年後に訪れた正賢寺さんでの同紙記事(昭和六十一年十月十三日掲載)を白越曲直氏の奥さま、行子(みちこ)さんのお話を交えながら紹介します。

「お寺のおばあちゃん」     正賢寺保管資料より

 昭和五十五年(1980)四月十八日、田崎和枝、川原美代子、中田幸子(いずれも仮名。四十四歳)、山口清江(仮名。六十九歳)は芦原町波松にある正賢寺(しょうけんじ)本堂へ、この寺の住職白越曲直(しらこし まなお。五十三歳)に案内された。

三十五年前、ここで寝起きし、食事をし、勉強した懐かしい本堂は少しも変わっていなかった。正面の御内陣(ごないじん)の前に進むと彼女たちは手を合わせ、

(おばあちゃん来ましたよ。おばあちゃんにお礼を言いたくて来たのですよ)と心のなかで語りかけた。本堂のあちらこちらにおばあちゃんの面影が宿り、今にも(ようきてくれたね)との声が聞こえそうで、皆堂内を見まわし、各角(かくかど)の支柱の鉄棒を眺めていた。感慨無量のあまり誰ひとりとして言葉を交わすこともなく、それぞれが正賢寺で過ごした日々を思い出しながら、優しくしてくれたおばあちゃんを偲びながら御内陣に向かって手を合わせていた。

おばあちゃんとは曲直の母、白越竹さん。疎開児童から「お寺のおばあちゃん」と慕われてきた、その人である。

 話は昭和十九年に遡る。同年六月、マリアナ諸島が米軍に占領され大空軍基地が建設された。このことは日本のほぼ全域がB29戦略爆撃機による空爆圏内に入ったことを意味した。近づく空襲に備えて大都市の学童は縁故をたより地方へ疎開、縁故のない学童は学校単位で集団疎開することになった。

福井県は大阪府下の学童四千名余りの疎開先となった。そのうち大阪市城東区にある榎並(えなみ)国民学校の学童たちのうち百六十名余が芦原町の各旅館(開花亭 八木 つるや べにや いろは 角惣 仁泉 石塚屋)で、金津町の二つの寺院(永臨寺 明善寺)で九十名余が生活することになった。昭和十九年九月十八日のことである。

翌二十年、芦原の旅館が将校の宿泊施設として、一部が陸軍傷病兵の療養施設として接収されると、同年三月から四月にかけて児童たちは近隣の寺院(北潟の要願寺 浄満寺 勝願寺。本荘の龍雲寺、波松の正賢寺)に順次再疎開させられることになったのである。

正賢寺には四年生女子児童二十二名(九歳。後に二年生児童も加わる)が平山茂子教諭に引率され同寺に身を寄せた。子供たちは正賢寺で暮らし、波松国民学校に通うことになった。そのなかに田崎、川原、中田がいた。山口は子供たちの世話をするために大阪から同行した世話係である。

竹さんは当時四十二歳、正賢寺の坊守で夫の住職、白越清貧(せいひん)は九年前他界しており、一人息子の曲直(十八歳)とともにお寺を守ってきた。

 疎開児童は親元を離れて六ヵ月、最初の疎開先、芦原温泉の旅館での生活に別れをつげ、海辺のお寺で暮らすことになった。

環境の変化に戸惑い不安にかられる子供たちを竹さんは温かく迎え入れた。子供たちを世話したのは竹さんと山口、野田ら大阪から同行した世話係(寮母)で、地元からは沢崎が手伝った。赤十字病院のスタッフも定期的に衛生指導、診察のために訪れていた。

 高山(仮名)らの榎並学校教師は受け入れ先の各学校、寺院をまわって子供たちを見守り、勉強の進み具合や生活の様子を本校、親元に伝え、家族からの手紙を子供たちに届けたりして双方の連絡役を担っていた。

それでも子供たちは家族と別れ、見知らぬ土地で暮らすことに不安と淋しさを感じていた。疎開先は男女別、学年別であったから、兄弟、姉妹であっても別れて暮らしていたのである。なかには泣きだす子供たちもいた。竹さんは母のように接して子供たちから不安と淋しさを取り除くことに努めていた。だが生活物質が不足するなか子供たちも耐乏生活を強いられ、それを見ることは辛かった。それでも竹さんは躾には厳しかった。

子供たちの正賢寺の一日は大阪の方に向かい「お父さん、お母さんおはようございます」と挨拶することから始まり、就寝前の「お父さん、お母さんおやすみなさい」の挨拶で一日を終える。空腹に耐えていた日々もその習慣が変わることはなかった。

竹さんは村人への挨拶も欠かさぬように教えた。「正賢寺さんの子供衆はよく挨拶するのう」と村人は疎開児童の礼儀正しさに感心した。躾には厳しい竹さんだったがふだんはおおらかで笑顔を絶やさず。淋しさで泣いている子供には声をかけて励ましていた。

当時大学生だった曲直は帰省すると子供たちの良き遊び相手になっていた。勉強を見ながら休日には波松海岸、丘陵地などの散策に誘い子供たちの気を紛らわせていたのである。彼は子供たちから「お寺のお兄ちゃん」と呼ばれ慕われていた。それは三十五年過ぎた今も、その後も変わらなかった。

 疎開児童たちは国から支給される配給物質で暮らしていたのだが、終戦間際になると配給は極端に少なくなり、食べ盛りの子供たちは空腹に耐えながら生活しなければならなかった。不憫に思った波松の人々は「疎開の子供衆にあげての」と、芋や、魚などの食べ物を正賢寺に届けてくれたのである。子供たちには終戦前後の過酷な日々であったが、海辺の寒村で周囲の人たちの優しさに包まれて半年を過ごした。

 子供たちは本堂から正面の石段を下り、塩越の雑木林に囲まれた坂道に沿って学校に通うのだが、いつも歌いながら元気を出して校舎に入った。波松国民学校は生徒数百五十二名。教職員は初馬須磨子(当時二十五歳)、沢井順子(仮名。当時二十二歳)の二人の女性教師を含めて八名。海辺の学校は皆が友達になり初馬や沢井の弾くオルガンに合わせて唱歌を歌い、勉強に励んでいた。

 昭和五十五年四月十八日、田崎、川原、中田、山口は三十五年ぶりに波松小学校を訪ねた。小学校校門前で彼女たちは「お寺のお兄ちゃん」の白越曲直、当時の恩師初馬、沢井、同級生の波風泰夫(四十四歳。愛知県在住)、校長鈴木淳の出迎えを受け、校長の案内で校舎を見て回った。波風の家は正賢寺の近くにあり、彼は疎開児童たちの最も親しい友達だった。彼女たちは音楽室に入るなり歓声をあげた。そこは三十五年前に学んだ教室で、「なつかしいわ」「あの頃と変わっていないわ」「あそこが私の席だった」と見まわしながら涙を流した。初馬、沢井が弾き、子供たちが歌ったオルガンも残っており、初馬、沢井も感慨深げに見入っていた。

 疎開児童たちは苦難の時代を家族と別れ海辺の村で暮らしていたのだが、その子供たちを励まし優しく接していたのが竹さん、曲直氏、波松小学校の教師、波松の村人だった。

昭和二十年(1945)八月十五日、敗戦という結果ではあったが、戦争は終わった。だが、子供たちが帰るべき大阪は市街地の多くが二十年三月十三日から始まり、終戦前日の

八月十四日までの八度にわたる空襲によって焼け野原になっていた。子供たちは今しばらくそれぞれの疎開先で暮らすことになる。

 芦原小学校史に「二十年十月十九日榎並小学校児童を町端まで歓送」と記載されている。

 一枚の写真がある。波松海岸を背景に、竹さん、世話係の山口、野田、教師、それに疎開児童たちの写真である。みんな笑っている。子供たちからは嬉しくて、嬉しくてという表情が見て取れる。この写真の撮影時期は不明だが、おそらく大阪に帰る数日前の記念写真だろう。過酷な疎開生活から解放されて、ようやく故郷大阪に戻れる、父さんや母さんに逢える、家族みんなが一緒に暮らせる、その喜びが笑顔から発散されている。

「よかった、よかった」と思わず子供たちに声をかけたくなる写真である。

区切りとしては十月十九日だったが、親自身が焼け出され、生活のめどさえ立たないケースもあった。そのような場合、子供たちは疎開先で暮らして家族の迎えを待っていた。最終的にすべての児童が家族のもとに戻ったのは翌年であった(月日は不明)。

子供たちは竹さん、恩師、波松の人たちに感謝しながら正賢寺、小学校、波松を去っていった。親たちもまた子供たちに愛情を注いでくれた白越家、波松の人達に感謝していた。

 昭和二十三年(1948)六月二十八日、丸岡町を震源とするM(マグニチュード)7の巨大地震が福井県嶺北地方を襲った。死者3769人、全壊、焼失家屋約4万戸、半壊家屋1万2千戸。道路は陥没、架橋は崩落し交通網はズタズタに寸断され被災地は孤立した。

震災から1週間後の七月五日、いまだ道路鉄道が部分開通のみであった波松に榎並小学校教頭とPTA会長が小学校と正賢寺に多額の見舞金をもって訪れ励まし、終戦前後の半年間、子供たちを優しく受け入れてくれた恩に報いたのである。

 白越竹さんは昭和三十四年(1959)十月十一日、五十六歳で他界したのだが、彼女が疎開児童に注いだ愛情は忘れられることなく語り継がれ、その逸話は昭和五十五年四月十七日、読売テレビの11PMで取り上げられた。田崎和枝、川原美代子、中田幸子、山口清江、波風泰男はこの番組の対談に参加するために芦原温泉を訪れた。

 地元からは「お寺のおにいちゃん」の正賢寺住職白越曲直、波松小学校の恩師初馬須磨子、沢井順子が参加した。収録は八木旅館で行われ、司会は藤本義一だった。疎開児童たちと竹さん、曲直、波松の人々たちの心温まる話は全国に紹介された。

収録の後、藤本は曲直に色紙を贈っている。

           蟻一匹 炎天下    義一

       白越曲直  様

 翌四月十八日、一行は芦原町役場に斉藤町長を表敬訪問した後、波松小学校を訪れた(前述)。波松小学校を後にした一行は、学校前の緩やかな坂を海に向かって下った。目の前には懐かしい波松の海がある。今日の海は穏やかで美しく、しばし足を止めて眺めていた。そこから右に折れる道があり、塩越(しおこし)の雑木林に沿って歩くと石段がある。石段を登ると銀杏の木が現れ、そこが懐かしい正賢寺の境内である。

 昭和二十三年の大地震はこの寺に甚大な被害をもたらした。本堂はかろうじて倒壊は免れたが、傾き屋根瓦のほとんどは落下し、庫裡(くり)、居間、離れ、蔵は全壊。残った鐘撞堂(かねつきどう)に板戸を張って母は仮住まいとしたと、曲直は説明した。

その後、倒壊した家屋は再建されたのだが、本堂は以前のままの姿を保っていた。

彼女たちは曲直に本堂に案内され、御内陣に手をあわせおばあちゃんを偲んだ。(前述)   

休憩を兼ねて曲直を囲んで歓談した後、波松海岸を歩き、波風泰夫の案内で吉崎御坊に向かった。その後、正賢寺へ戻り、坊守の白越行子から心のこもった夕食のもてなしを受けながら、疎開当時の思い出を語り合った。翌四月十九日、芦原の町を散策した後、懐かしい土地を離れたのである。

三十五年ぶりに訪れた芦原町、波松、小学校そして正賢寺での疎開生活を振り返り、彼女たちは何を感じたのであろう。その思いを曲直への手紙で語っている。

田崎和枝(仮名。疎開児童)からの手紙。 原文抜粋

 十年ひと昔と申しますが、お逢いしました瞬間なつかしさとうれしさで三十五年のへだたりさえ忘れてしまいました。
汽車にのれば三時間余りの距離におりますのにこんなにも御無沙汰してしまいました。
この度は思いもかけぬご縁でお目にかかる事が出来夢の様でございました。
長年頭の中で思い返しておりました芦原の町、波松の山や海 そして私たちが勉強した教室や正賢寺を目の前にしました時 たゞたゞ胸がいっぱいでございました。
そして今もあの感動がよみがえり、どの様に文章に表現してよいのかわかりません。
先日は突然の私たちの訪問にもかかわらず大勢の方々の歓迎を受け、大事なお時間をいただきましてありがとうございました。
 お忙しい奥様にも大変お世話を おかけ申し訳ございませんでした。おこころづくしの夕食を頂き乍らの昔の思い出話のひとつひとつもついこの間の出来事の様でございました。
あの楽しい席におばあちゃんのお姿の無かったのが淋しくお兄ちゃんのお顔におばあちゃんのお顔が重複し胸が詰まりました。

 昭和三十年の九月か十月だったと思います。
おばあちゃんが大阪に来ているとの連絡を受け、母と今里のお宅へお伺いし 私の結婚のきまった事を報告しましたら、とても喜んで下さり手をにぎり乍ら「旦那さんを大切にして幸せになりなさいよ」とおっしゃって下さったお言葉を今も忘れません。
あの時が最後のお別れになりましたが、後にお兄ちゃんの婚礼の写真を送って頂きましたのでアルバムを開く度にあの時のお顔を思い出しております。 (後略) 

追伸

 私達の為にいろいろお心づかい下さいました町長様や校長先生をはじめ皆さまによろしくお伝え下さいます様お願い致します。 (後略)

 
山口清江(仮名。疎開児童の世話係)からの手紙。 原文抜粋

 先日は と言っても四月十七、十八、十九日と有難う御座いました。思いがけなくテレビを通じて久々に懐かしい皆様にお逢い出来ましてほんとうに嬉しく思いました。

八木旅館での最初の感激の対面、正賢寺の御住職さまを始め、佐藤先生(初馬の旧姓)、大久保先生(沢井の旧姓)、同級生の波風さん、三十五年ぶりの出会い、すっかり興奮しまして積もる話に花が咲き夜更けまで語り合いましたね・・・。

 あくる日は波松の学校を訪れ、当時のままの教室オルガンなど変わらぬ思い出に感動し乍ら美しい海、静かな風景、あの道この道、石段を上って懐かしいお寺、三十五年前半年過ごしたお寺だ! しばし呆然と胸がいっぱいの思い出に今も昔のままの本堂の太鼓を見まして ご新様の面影を偲んで涙がこみ上げました。

 お寺で休息し乍ら御住職を囲みて先生方や新聞社の方、波風さん、私たち一行うちとけて、又もやありし日の思い出話、とても楽しく話が盛り上がって尽きる事なく、今になって又新しい思い出となりました。(中略)

 大阪に帰ってから此の二、三日思わぬ人からテレビを見て尋ねて下さる人が時々あります。本当に行ってよかったと、こんな風に再会出来まして感謝致しております。一生忘れません。(中略)
末筆ながらご家族ご一同様のお幸せをお祈りいたします。
地元の方にも宜しくお伝えくださいませ。
テレビ放映を見て訪ねてくる人たちもいた。高山敏子(仮名。引率教師)もその一人だった。   

高山敏子からの手紙。 原文抜粋

 葉桜の美しい頃となりました。
その后 皆様にはお変わりなくおすごしの事と存じます。
昨日はたくさんな写真をありがとうございました。夕べは家族と写真を囲み乍ら当時の楽しかった事、悲しかった事、又先日の再会の感激など話し、なごやかなひと時をすごしました。昔そのままの本堂は何度見ましても涙がこぼれます。子供たちにも是非見せてやりたいと思っております。
おばあちゃんのご年忌にはお参りさせていただきたいと思いますのでお知らせ下さいます様お願い致します。 (後略)

中田幸子(仮名。疎開児童)からの手紙。 原文抜粋

 新緑が目にしみる位濃くさわやかな日々でございます。
お手紙うれしく拝見いたしました。こちらからお礼状を差しあげるべきを 私のいたらなさからつい遅くなってしまい反省しております。
波松に出向きました折々には主人共々一方ならぬお世話をいただき本当に有難うございました。三十五年振りと云う長い年月の空間を少しも変わる事なく昔のまゝの本堂や、
お兄ちゃんの温かい御親切 身にあまる程うれしゅうございました。
たゞ皆様と元気にお逢い出来た事や 芦原の方々の御親切 放送関係の皆様のご配慮は本当に正賢寺があったればこそで、すべて亡くなったおばあちゃんやお兄ちゃん、奥様の
お陰と感謝しております。
 奥様にはお忙しい中を私たちのために色々お気遣いをいたゞき、つい甘えるような気持ちで御迷惑をおかけしてしまいました。
どうぞ宜しくお伝え下さいませ。子供心に刻み込まれていた波松の風景は三十五年後の今も昔と変わる事なく平和で静かな波松でした。                                    そしてそちらに住んで居られる人々も当時疎開していた頃とまったく同じだった様な気が致します。

たゞなつかしく昨日の出来事の様でございます。残念なのは、おばあちゃんが元気でいらっしゃって、お顔を拝見したかったのに・・・。どんなにかお喜びだったのではないのでしょうか。

本当に色々と御心配いたゞきまして、現在のこの幸せに胸が熱くなる位感激して居ります。有難うございました。

波松小学校への細道は私達が通るのを待っていてくれた様にそのまま残っていた事がとても印象的でした。  お寺にお世話になった時は、何もかも本堂も、道も大きく目に映ったものでした。なつかしさがいっぱいで、この感激をお逢い出来なかった皆様にもぜひ分けてあげたいですね。
いずれ再びお目もじしの日を楽しみにこれからも元気で仕事に精を出していく積りです。 (後略)

 その六年後の昭和六十一年(1986)十月十一日、その日は白越竹の二十五回忌法要で田崎和枝、川原美代子、山口清江、初馬須磨子、沢井順子、波風泰夫が正賢寺を訪れた。

だが、再会を約束した中田幸子の姿はそこにはなかった。

中田は急逝したのである。中田の姉、川崎良子(仮名)が白越家に手紙を寄こしている。

川崎良子(伊豆在住)からの手紙。 原文抜粋

正賢寺 白越御一同 様

 師走の候と相成りまして何かしら気ぜわしいこの頃でございますが、その後はいかがでいらっしゃいますか。御地方はさぞかしお寒いことでございませう。

皆様越年の支度に大童(おおわらわ)のことと拝察申し上げて居ります。(中略)

早いもので妹が他界致しましてからもう三年が経ちました。今でもまだ信じられなくて、声がどこからか聞こえる様な気がする時がまゝございます。(中略)

元気で歩けるうちに一度波松の幸子の思い出の残る場所に行ってみたいものと心算りはして居るのでございますが・・・。実現出来る日を夢み乍ら出来る丈元気ですごしたいものと思って居ります。

どうぞ白越様にも御壮健で一度は当地へもぜひぜひお出かけ下さいます様心からお待ち申し上げて居ります。(後略)



翌年の川崎良子の手紙。原文抜粋

 残暑なほきびしい折から如何がとお伺い申し上げます。当地もあれほどの夏のにぎわいも どこかの様にひっそりとさみしくなってしまいました。

この度はおいもを送って下さいましてありがとうございました。早速荷を開き、ふかして仏前にお供え致しました。

「お寺のお兄ちゃんからおイモが送られて来ましたよ」と灯りをともし お線香をあげ乍ら、ずっと遠い日の あの学童疎開の頃 その幼い日のさみしさを御親切にしていただいたお寺の奥様とお兄ちゃんの事をいつも聞いて居りましたので 我がことの様に当時が偲ばれて胸がいっぱいになりました。

 また先年福井放送のお骨折りでの再会もどんなにか嬉しかった事だったでありましょう。

早いものであれから四年が参ります。今なほ亡くなったとは思われないのでございます。

どうぞお出かけくださいませんか。お忙しい事とは存じますが ぜひ御来駕(らいが)の程をお待ち申し上げて居ります。

呉ゞも                                               

御自愛下さいまして御健勝でいらっしゃいます様はるかにお祈り申し上げて居ります。 

下村倫子(仮名。引率教師)からの手紙。 原文抜粋 

木寺は芦原、福井の自然と、越前の陶芸に魅了された。

去る七月十八日、十九日そちらに参りました折には御住職様を始め奥様、不朝様(ふちょう。曲直氏長男 陶芸家)にいろいろとお世話になりました。北潟湖をはじめ福井山村の静かなたゝずまい、宮崎村の越前焼など、それぞれの美しさを味わえたことはこの上ない喜びです。

 今は不朝様の作品・塩越窯茶器、花瓶などをながめ、その良さを感じております。その節撮らせていただきました写真が出来ましたのでお送り致します。お納め下さい。いずれ不朝様の写真と作品を持って出品展のことについて高山さんと話に行きたいと思っています。(後略)

追伸 奥様からいただきました草花、うまく育つかわかりませんが、とにかく大阪の地に根をおろした様です。初馬さまにもよろしくお伝え下さいませ。

 白越曲直は平成十九年九月一日、七十九歳で亡くなった。その後も白越家と疎開児童たちとの交流は続いている。

川原美代子(仮名疎開児童)の夫直輔(仮名)も妻と正賢寺を訪れて長年にわたり家族ぐるみの交流を続けている。リハビリに励んでいる彼からの便り。千代乃の代筆であろうか。

川原直輔からの葉書。原文

お芋さん届きました。何時もありがとうございます。
好物の肉じゃがを頂くことにします。退院後今月で一年になります。リハビリの効あってか、体が動くようになり、マヒしている左手、腕もお茶碗が持てるようになりました。

足はまだまだ不自由で、でも杖で少しずつ歩けるようになってきました。
あせらず、毎日毎日少しの動きを積重ねて行くよう努力しております。
まずはお礼まで。

平成二十四年、戦後も六十七年を過ぎた。疎開児童たちも七十七歳になろうとしている。当時二十二歳だった沢井順子は八十九歳になった。

沢井は旧姓大久保で金津の生まれで現在は福井市在住。波松国民学校に奉職した頃は正賢寺に下宿していた。竹さんは沢井を親身になって世話していた。その沢井が平成二十四年十月、白越家に便りをだしている。その手紙を紹介して結びとしたい。

井沢富子(波松国民学校の教師)からの手紙。原文抜粋

暑い暑いとこぼしてきましたこの夏も秋の虫の声と共に涼しくなりました。
おかげ様にて私もどうやら この夏を過ごす事が出来ました。ありがとうございます。
御前様始め皆々様お元気でございますか。お詣りもせず横着させて頂くばかりで申訳ございません。

秋のみのり、なしの実美味しく頂かせていただきました。暑い夏のためか本当に甘く甘く、美味しく頂き、その上 又本日はなつかしい波松のおいも沢山お送り下さいまして   心よりお礼を申し上げます。

重ね重ねのお心に深く深く感謝し涙が出て来ました。ありがとうございます。

 涼しくなったら波松に連れていってよと友達に言っていますが、もう駄目です。すっかり八十九歳ともなりますと足も身体も思う様にはうごきません。家に居るのが一番の幸せでコツコツと好きな事をして有難く過ごさせて頂いております。
今は海も静かな波松でしょうね。

心から美しい海の景色、そしてあのお寺様の奥さまの事を思い乍ら、心よりお礼申し上げます。

                                    合掌

                                    沢井順子

                了

              

参考資料

 芦原小学校史 金津小学校史 波松小学校史 芦原町史 福井県史

 大阪市榎並小学校沿革(インターネットより)

 大阪府疎開児童の記録(インターネットより)

 福井新聞昭和五十五年四月十九日記事 同六十一年十月十三日記事

(しおこしざん そうしょうかく しょうけんじ)

 塩越山雙松閣正賢寺    保管資料

 本文中 敬称は省かせていただきました。尚、手紙を資料としたことにより、

仮名を一部使用しました。

あとがき     

 あわら市内の寺院を訪ね疎開児童についてお尋ねしたのですが、正賢寺さんを除いて文書、写真は残っておらず、お世話された方も故人となられており、詳細を知ることはできませんでした。七十年前のことであり当然と言えば当然のことです。

それでも各寺院の御住職、坊守さんは取材に協力的で、先代、先々代からの話を語ってくれました。金津花乃杜の明善寺さんでは疎開児童からの平成二十四年の年賀状を見せていただきました。京都府精華町の三隅勝弥さんと、大阪府箕面市(みのおし)の山田元造さんからで、三隅さんの年賀状には「孫も七人となり最年長は高一となりました。私も喜寿を過ぎ八十近くになりました」と書かれていました。

 金津小学校史のなかで明善寺さんの御新造さんは次のように述べられています。

「昭和十九年九月に、四十五名の学童を迎え、お寺は一時に大所帯になりました。保母さんといいますか、先生と言いますか、面倒をみていました。

食事は始めそれほど不足していなく、配給米も定期的に入ってきました。しかし時がたつにつれて食糧が不足し、子供たちは腹をすかせていたようです。

ある子供は、お寺のいろりの所に来て、先生に見つからないようにイモをねだったり、おもちをねだったりしていました。ある子供は、御堂の前にある銀杏の木にのぼりかぶれることを知りながらも、ぎんなんを食べていました。

また、シラミ退治も大変でした。せっけんが不足し、先生や母が子供たちの下着や洋服をぬがせ大きなたらいの中に灰とともに入れ、灰のあくでシラミ退治をしました。日毎にその回数がましたようです。

また定期的に御父兄が五人一組ぐらいで大阪から慰問にくるのですが、食糧事情も悪く、帰って行くときには、弁当箱にご飯をつめてあげたようです。

 秋の運動会には私たちの家族が応援に行きました。疎開者に対してはつめたく、応援する人もなく、私たちの応援のみでした。こうして一年一ヶ月の月日をこのお寺で過ごし故郷にもどって行きました。

それ以後、子供達から便りが毎年のように届き、十八年目に芦原の開花亭でクラス会を開いてくれたほどです」

三隅さんと山田さんは年賀状を六十八年前にお世話になった方のお孫さんに出されていたのです。

  北潟の浄満寺さんでは御祖母・関梅尾さんにお逢いして話を伺いました。

「疎開の子供たちが暮らしていたのはたしかですが・・・。古いことであまり覚えていないのです」と言われ、その時はくわしい話を伺うことはできませんでした。

数日後、関さんからお手紙をいただきました。その内容の一部を紹介します。

 

秋冷えの侯となりました。

先日は御山下さいまして有難うございました。

当時私たち長男夫婦は静岡の師範学校に勤めておりまして静岡で生活しておりました。
大東亜戦争が始まってすぐに主人はビルマの方に行ってしましました。
 家の方は弟夫婦が小学校の先生をしながら寺を守っておりました。(中略)春になった頃、大阪から生徒五十名ほど、女先生一名、保母さん二名と来宅し、御堂の方で生活する様になりました。
御堂座敷の方は弟夫婦と坊やが生活していました。寺の庭先に池があり、ながしになっておりました。そこで子供たちは洗濯、洗いものをしていた様です。風呂の方は家に大きな風呂場があり、そこを使用していました。炊事やトイレは境内に作ってあったようです。
時々男先生が廻って来られて連絡されていたようです。後ろが山で庭も広いので子供たちは自由に遊んでいたようでした。

 子供たちは朝起きた時、休む前に縁側に並んで、大きな声で村の方に向かって挨拶をしておりました。当時写した写真に子供たちと私、弟さんの赤ちゃんが写っており、その頃の様子を思い出しました。(中略)当時の写真や文書が有ればよいのですが今の所見つかりません。世話をした人達も亡くなり細かいことはわかりません。

くわしい事はわかりませんが、これで失礼致します。
                                                

今回の取材で白越行子さんに大変お世話になりました。心よりお礼申し上げます。

大阪には正賢寺疎開児童の集まりもあるそうです。彼女たちと白越家には交流がありました。行子さんは地元の人たちと大阪に行き、旧交を温めたいと話されています。
また昭和二十三年六月二十八日の大地震直後、交通手段が困難にもかかわらず見舞いに来られた榎並小学校に対してもお礼を述べたいとおっしゃっておられました。

平成二十六年(2014)、集団疎開の昭和十九年(1944)から七十年を迎えました。

その節目の年に、白越行子さんの思いが実現されることを願っております。

「先人の穏やかな憶い(おもい)を甘受し伝えていく事が 今 生かされている者のつとめと思います。 

親の背中をみて歩む小さな尊い場をいただけたことをしあわせと思っております」

                  完
               

平成二十六年一月          あわら市二面  長谷川 勲