青楼無縁塚



・「姫川の 俤ゆかし 枯柳」(不老庵・寿山)と書いてある。姫川は竹田川を指す。

・青楼には妓楼の意味があり、すなわち金津宿にいた遊女たちの墓である。

・無縁とは、稲作農耕体制から距離を置いているひとたちあるいははじきだされていたひとたちの謂。聖・山伏・巫女・鋳物師・木地師・上人・海民・山民・クグツ・遊女等である。青楼無縁塚の無縁は、遊女を指す。
・安永2年(1773年)の記録には、旅篭60軒、揚屋20軒、遊女屋7軒、遊女61名とある。


金津八日町箒はいらぬ 揚屋小女郎の裾ではく
八日町通れば二階から招く 紅い鹿の子の振袖で

という唄が当時の人々の口端にのぼっている。金津宿の遊郭が隆盛を誇ったことのあかし

・宿場女郎が旅人の袖を引いた遊里は、北金津と言われた宿場集落にあった(稲荷神社)。

・金津領村鏡に拠ると、安永2年(1773)当時北金津は戸数411、人数1394(男728・女666)。遊女が61名も居たのだから、女性の数が多いのかと思ったら逆に52名少ない・・。

・遊理は、その北金津の三丈山を取り巻いている旧八日町一帯にあった。当時稲荷山の地には20余軒の娼婦が居って我さきにと客を呼んだ。三弦の音、太鼓のひびきやかましく稲荷山にこだましていたという。
・金津が宿場町として栄えた理由のひとつに吉崎御坊の存在があげられるだろう。

・蓮如忌が始まったのは宝歴2年(1752年)。御影が4月23日の夕方吉崎に到着し、5月2日まで、毎年とり行なわれている。