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杉田定一 

 

 
1851~1929年(嘉永4~昭和4)
衆議院議長、貴族院議員。旧鶉村(現福井市)の豪農、杉田仙十郎の長男に生まれ、鶉山と号した。10代の幼年期三国滝谷寺の住職、道雅の薫陶を受け、後に藩儒吉田東箒の門に入り修行した。1868年(明治1)医学修行のため6カ年の予定で上京、下谷の三崎塾に入門したが、当時の世相は静かに医学を勉強せしめるものではなく、漸次彼に政治に対する深い関心を育てさせるものがあった。彼はひと度帰郷後、再度政治家を志して1875年(明治8)上京、まず「采風新聞」の記者として活動を始め、続いて「中外評論」「草莽事情」などの反政府的言論機関に関係し、筆禍を受け
入獄することもあった。西南戦争後は土佐の板垣退助を中心とした自由民権運動に挺身、越前に自郷社(民権政社)を起し、国会開設請願運動に尽力するとともに、一方越前七郡に展開された地租改正運動の指導者として奮闘し減租を獲得するに至った。なおこの時期に彼の政論を一冊の「経世新論」にまとめ出版し、そのために3度筆禍をを受け6ケ月の禁獄に処せられた。出獄後、1882年(明治15)に南越自由党を結成、党の機関紙「北陸自由新聞」を刊行した。そして同党はいったんは越前における政治活動の拠点となったが、結局翌年活動を停止し、彼もまた上京、自由党の党務にかかわることになった。さらに翌1884年(明治17)アジアにおける国際情勢の緊迫の下に渡清して上海の東洋学館の創立に尽力したが、意のごとくならず帰国した。かくして彼は転換期を迎えつつあった政治情勢に対応すべく、また新党の期待にこたえるべく、欧米社会の現実を、特にその議会政治の実体を勉学するために1886年(明治19)7月、2年間にわたる欧米旅行に出発した。そして帰国後の彼を待っていたのは議会開設を目途とする大同団結運動のうねりであって、彼を中心に南越倶楽部の結成を見ることになった。時代は明治憲法制定、議会開設へと進んでいくのであるが、彼は第1回の総選挙に当選、以来明治の終わりまで第4回を除き、すべての総選挙に当選、有数の議会政治家の1人としてその名を残した。すなわち憲政党内閣の下で北海道長官、第1次西園寺内閣の下で1906年(明治39)衆議院議長に、またその間に立憲政友会の幹事長にと1912年(明治45)貴族院議員に勅撰されるまで、政党の第一線の重鎮として活躍した。また彼は福井の絹織物業の発展や、九頭竜川改修工事、三国鉄道の敷設などに尽力し、大正から昭和の初めにかけ政界の長老としてわが国の政治に貢献した。