照厳寺



・真宗大谷派の大寺
・寺の開基は本願寺三世覚如の直弟子行覚
・嘉歴3年(1326)越中氷見に寺を創建。
・転々として元和3年(1617)に柿原郷清王の麻畑に移り
その後、宝暦12年(1762)現在の地に寺を移した。
・「内に仏恩を忘れず、外儀則を乱す勿れ、李下自ずからみちを為す。
足るを知るは真の富貴なり」
・照厳寺跡とごんぜ屋。
・一向一揆では常に指導的立場にあり寺を焼かれた。



・広い境内に親鸞の銅像がある。親鸞は承安3年(1173)生まれの浄土真宗の開祖。。
・法然(浄土宗開祖)を師と仰いでからの生涯に渡り、真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。
独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形であった。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となって、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。
浄土真宗の立教開宗の年は、『教行信証』が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後。
・阿弥陀仏にこの世で救われて「南無阿弥陀仏」と報謝の念仏を称える(称名)身になれば、死ねば阿弥陀仏の浄土(=極楽)へ往って、阿弥陀仏と同じ仏に生まれることができる。なぜなら阿弥陀仏によって建てられた48の誓願(=四十八願)が完成されており、その第18番目の願(=本願)である第十八願に「すべての人が救われなければ、わたしは仏とはならぬ」と誓われているからである。この為、人(凡夫) が往生出来るのは阿弥陀仏の本願によってであり、この理(ことわり)を信ずること(=信心)によって、往生する事が出来る(易行道)とする。
・すべてが阿弥陀仏の働きであるとし、これを他力本願(たりきほんがん)と呼ぶ。
ここで言う人(凡夫)とは、仏のような智慧を持ち合わせない人を言う。自力で悟りを開こうとする人(難行道を選ぶ人)を否定するものではない。
・他力とは阿弥陀仏の働き(力)を指す。「他人まかせ」や「太陽の働きや雨や風や空気、そのほかの自然の働き」という意味での使用は、本来の意味の誤用から転じ一般化したものであり、敬虔な浄土真宗信者(門徒)は、後者の表現を嫌悪・忌避する。
・「悪人正機」と呼ばれる思想も親鸞独自のものとして知られている。既に親鸞の師・法然に見られる
思想であるが、これを教義的に整備したのが親鸞であるともいわれる。『歎異抄』に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人が極楽往生できるのなら、悪人ができないはずが無い)」と有るのは、上記「他力本願」とも関係する思想であるが、その意味は、<人(凡夫) は自力で善(往生の手段となる行為)を成すことは不可能である。人(凡夫)はすべて悪(往生の手段とならない行為)しか成せない。だから、悪人と自覚している人の方が、自分は善人だと思っている人より、本願により救われる道を自覚している事になる>という逆説的な表現である。大乗無我思想のひとつの到達点といえる。
阿弥陀仏に救われている私であるとして、信一念時に、死んで極楽浄土に往生出来る身に定まった現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)の身となり喜ぶことを勧めた。
この考え方は法然を超えたもので、浄土宗と浄土真宗の教義上の違いの一つである。



・京都市伏見区日野(現・法界寺、日野誕生院付近)にて、皇太后宮の大進(だいしん)・日野有範(ありのり)の長男として誕生する。母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の吉光女(きっこうにょ)とされる。
・出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏(ふだんねんぶつ)の修行をしたとされる。比叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。
・建仁元年(1201)の、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠を行う。そして95日目の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、「行者がこれまでの因縁によってたとい女犯があっても私(観音)が玉女の身となって、肉体の交わりを受けよう。一生の間、よく荘厳してその死に際して引き導いて極楽に生じさせよう」という偈句を得る。
・この夢告に従い、夜明けとともに東山の法然の草庵(現・安養寺)を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎東天王町)に草庵(現・真宗大谷派岡崎別院)を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。
・法然の「専修念仏」の教えに触れ、入門を決意する。。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる。そして、入門より5年後の元久2年(1205年)4月14日に、『選択集』の書写と、法然の肖像画の制作を許される。
法然は『選択集』の書写は、門弟の中でもごく一部の者にしか許さなかった。この頃、親鸞より法然に改名を願い出て、「善信(ぜんしん)」の名を与えられる。


・流罪、師との別れ
建永2年(1207)、興福寺の訴えにより、専修念仏の停止と、遵西など4名を死罪、法然・親鸞ら8名が流罪となった(承元の法難)。この時、法然・親鸞は僧籍を剥奪される。
法然は「藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信(ふじいよしざね)」を与えられる。
法然は、土佐国)へ、親鸞は越後国府に配流された。
親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名乗り非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。この頃に豪族・三善為則の娘、恵信尼(えしんに)と結婚した。また、配流中に子をもうけている。
流罪より5年後の建暦元年(1211年)、法然とともに罪を赦された。
法然は翌年の1月25日に、京都で80歳をもって示寂、親鸞は二度と師・法然に会う事は出来なかった。その事もあり親鸞は、京都に帰らず越後にとどまった。
●関東での布教
流罪を赦免されてから3年後の建保2年(1214年)、関東での布教活動の為、
家族や性信(しょうしん)などの門弟と共に越後を出発し、常陸に向かう。
上野国を経て、建保4年(1216年)に、「大山の草庵(茨城県城里町)」を開くのを皮切りに、
「小島の草庵(茨城県下妻市小島)」を開き、稲田郷(茨城県笠間市稲田)に「稲田の草庵」を開く。
親鸞は、ここを拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著である『教行信証』は、
稲田の草庵にて4年の歳月をかけ、草稿本を完成させたとされる。関東での布教は、約20年間及ぶ。

・妻の恵信尼は、京には同行せず稲田の草庵に残ったとされ、文久9年(1272)に、ここで没したとされる。

[●帰京
鎌倉幕府が、念仏者取締令を出す。その為、62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』が完成したとされる。
・親鸞が帰京した後の関東では、さまざまな異端が流行した。
そこで親鸞は息子の善鸞を説得のため東国に派遣した。しかし善鸞は、異端の専修賢善に傾いたともいわれ、正しい念仏者までも弾圧しようとした。建長8年(1256)手紙で、善鸞と親子の縁を切る。

・恵信尼との別れ
帰京後の約20年、親鸞と恵信尼は共に暮らす。建長6年(1254年)恵信尼は、
親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったといわれる。
帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったとされる。

●往生
弘長2年(1262)、90歳をもって往生する。
現在でも親鸞への報恩感謝の為、祥月命日には「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている。
臨終は、親鸞の弟の尋有僧都(じんうそうず)や末娘の覚信尼が見取った。
流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。