竹田新道碑
 
本村の人ではないが、郷土の交通上、深い関係があり、多大の恩恵を受けている先覚者渡辺茂十郎氏の事蹟について述べよう。本村の南端、東山区から川上橋へ出る三叉路に渡辺茂十郎氏の碑が建っているが、これには血のにじむような新道開発の物語が秘められている。
もと、山竹田への通路は長畝村の豊原峠を超えなければならなかったので、丸岡町からの日用品購入はもとより、竹田産の木材、薪炭の類に至るまですべて人の肩や背によって運ばれ実に困難を極めたものである。
一方、竹田川の渓流に沿うて川上区からの小路はあったけれども、これ又断崖に臨む険路で荊棘道を塞ぎ、又場所によっては右に左に川を渡ったもので、今もなお「一の瀬」「ニの瀬」「三の瀬」などと往時を偲ばせる地名も残っているほどで到底車馬の通ずる所ではなかったのである。山竹田村の渡辺茂十郎氏は夙に之を漑き、何とかしてこの険路を拓いて村人の労苦を救い広く世人の利便を図りたいものと種々思いをめぐらしていたが、決然立って街道開発の事業を起し遂にその目的を達したのである。
今から五十七年前明治三十年村内の有志と謀り寝食を忘れて県当局の了解を得て工費三千五百円で翌三十一年工事に着手した。そして一切の責任を負い、川上区の佐々源三郎に止宿して工事を督励した。然し工事は予想以上の困難を極め、人夫の雇傭も思うにまかせず、其の上工事費は遂に予算額の二倍にも及んだ。然し氏は之に屈することなく、祖先伝来の私財を投じて之にあて、同三十五年、五カ年の歳月を要して遂に工事を竣え、新道の開通を見るに至った。之が今の竹田新道である。
これによって平坦地との交通も甚だ便利になり、日に車馬数十輌往来するようになり、竹田村の産業は頓に活気を呈し、文化の移入も容易になった。その後更に改修が加えられて道巾も広くなり、一昨年からは丸岡町からバスも運行するようになり、往時の仙境山竹田へも座りながらにして往復できるようになった。又県境大内峠を越えて山中温泉へのハイキングコースとして近年県内外へも広く紹介されて行楽客で賑わい、往年の未開拓村竹田は一躍して文化村として目ざましい発展を遂げるに至った。共に山村として隣接して密接な関係にある本村民の受けている恩恵も多大なものがある。これ実に渡辺氏の多年辛苦の賜と謂わなければならない。
竣工の年十月、同村の有志等相謀って氏の功績を永遠に伝えんがために新道の入口に当たる川上区の三叉路傍に氏の功労碑を建ててその労に報いた。碑陰には元丸岡藩医合屋史仲氏の句で「竹田新道の開けしを祝して」
「いとやすく あゆみのぼるや 川ざとへ」と刻まれている。
かくて氏は五年後の明治四十年九月、四十七歳の壮齢を以て没したが、村民からいたく惜しまれ、大正八年にはその十三回忌に当たり有志等相寄り碑前にて懇ろな法要を営み氏の余沢を讃えたということである。