土屋豊孝家
土屋家は、同家所蔵「永記」によると、朝倉氏と関りがあったと伝え、当主は代々次(二)朗左衛門または権右衛門を名乗った。早くから村庄屋を務め、元禄七年(1694)から宝永二年(1705)までは幕府領組頭(大庄屋)として近隣に重きをなした。その後も庄屋役や廻米の納庄屋を務め、さらに明治期に入っても戸長役場や村の区長職に就くなど、近世から近代昭和期に至るまで村にあって重要な役割を果たした。