16年02月日記

16年2月29日 月曜日 今回のあわら市会一般質問は三月二日です
 新しい週の始まりだ。
 ということで舘高重詩集に目を通した。

 運命

金を積んで
病が治るならば
苦面して積み上げてみると
昨日も母が泣いた

病んでいると
金より命がほしい
いつまでも死にたくないと
今日も母が泣いた

  春の花
声をそろえて
風に翻っている子供らは
まるで 花のように見える

雲に隠れた蝶々よ
子供は深紅の花だなあ

 夕暮れ
朝から  木蓮が香っている
暖かいひざしが

静かに暮れてゆくのに 木蓮は まだ香っている

母上よ
私は蝶になりたい この夕暮れをとびまわりたい

 郊外にて
アンテナの柱が
すくすくと立ち並んで
街は寂しい郊外を作っています

今日も郊外の陽だまりに座って
おだやかな気持でいれば
街のことが案じられます

 
何を書いても飯が食えない と
一昨年 親父に叱られた
なるほど うなづかれる
しかし おれだって人間だ
おれは
すてきな 針をもっている
今に見ろ
でかい 魚を釣ってみせるから

 菜種の花

砂煙をあげて
野道を歩いていると

とぼとぼ
とぼとぼ霞んだ山の下あたりまで
菜種の花々は
狐に化かされている

 夏のゆめ

白き手よ
女よ
傷つける夢よ

かってはわが心に
開きし花よ
小指かさねし
朝々の祈りも
はかなく消えて

夏の木蓮の夢よ

あゝひとり身のさびしさ

 

16年2月28日 日曜日 無題
 
 デイリップ・ヒロ著「イスラム原理主義を読み進めている。イスラム原理主義というと自爆テロなどで世界的に悪名高い組織だと、アラビア半島から遠く離れた極東の島国にすむ我々日本人には思われているけれども、原理主義の定義は「原点に戻れ」ということであって、それ自体は宗教に対する純粋で敬虔な志向であるという意味においてとやかく言われることではないだろう。44ページには、こう書かれている。「・・聖法、シャリーアはムスリムの生活を全面的に管理する。ファッキーフと呼ばれるイスラム法学者は人間の行為をすべて研究し、それらの行為をすべて研究し、それらの行為を、義務とされる、望ましい、どちらでもよい、望ましくない、禁止される、の五つに分類した。彼らはある種の義務とされる行為には深い意味があると言い始めた。信者は祈りの前に水(または砂)で沐浴しなければならないと言った預言者ムハンマドの
単純な命令が人間の体は浄いか、不浄かを論じる徹底的な討論になった。イスラム法学者は全ての身体の働きーー食べる、飲む、息をする、洗う、排尿、排便、放屁、性交、嘔吐、出血、髭を剃るなどーーを事細かに検討し、身体を「清浄」に保つことを協調して、それらのやり方を規定した。同様に社会的行為に関する法もあらゆる行為を規制した。二つの法は非常に多くのことを要求したので、この世で最も強い意思を持つ信徒でも、その全てを始終守ることは不可能だった。他方で、これらの法がイスラムを信じる人びとの生活に入り込んだことで、モーリタニアの砂漠に住もうと、インドネシアの島に住んでいようと、ムスリムの行動パターンは共通になった・・」。
 飲酒を禁じるイスラムの信者になれるべくもない私だが、清浄を保つ戒律はのぞましいと思う。

16年2月27日 土曜日 昨日の一日
 
 昨日の午前七時。快晴に恵まれていたので、湯のまち駅前の足湯めがけて、愛車
ケトラを走らせた。湯に足を入れた時点で天候が急変し雪が降り始め、窓外の芝庭はみるみるうちに真っ白になっていく。足元の熱さと窓外の降り続く雪による視覚的な冷たい気分がおりなすアンバランスが一種幻想的な空間をつくりあげる。
 事務所に戻り、味噌汁を飲んでから、福井市内のストークマンション横の鉄骨工場現場へ愛車
ケトラを走らせたのだが、道中、猛吹雪でまわりの風景がみえない。かろうじて信号の色がわかるだけだった。

 体が冷えたので、午後は、事務所に閉じこもってCADに専念。夕刻になって、ふろを沸かしゆっくりと寝る準備をしていたら、「図面できたやろか」の携帯電話が入り、あわてて仕上げて、依頼先へ持って行ったのだが、おかげさんで、「刑事コロンボ」を見ることができなかったのがとても残念だ。
 いずれにしろ、年金生活者とはいえ仕事の依頼があることで、張り合いを感じる。
 

16年2月26日 金曜日 不定時法
 
 ただ今午前五時半。少しずつ日が長くなってきた。
 ところで、江戸の時刻制度では、日の出と日没を基準とする不定時法が使われていた。
 いつだったか、とんぼさんが、この不定時法の良さを詳しく語ってくれたことがある。

 インターネット検索でも、「日没およそ30分後を暮れ六つとし、その間を昼夜それぞれ六等分して一刻(いっとき)とした。この不定時法では、一刻の長さが、昼と夜で、また季節によっての違ってくる。しかし、江戸の人々の生活にはそれで何の不便もなかった。人々はこうした時刻を、各地に設けられた時の鐘の音で知った。」と出ている。

16年2月25日 木曜日 無題
 
 逢ひ見ての のちの心にくらぶれば 
               昔はものを 思はざりけり    権中納言敦忠  

  今の心中(しんちゅう)です。

16年2月24日 水曜日 無題
   
    早春悲惨
 雪をかき分けて近付き
 幸薄かった妻と娘の
 墓石の頭を撫でて
 水ならぬ涙ばかりを注ぐ
 若き日のわが愚直さのために
 愛するものを次々と失った
 悔恨のみが胸をしめる     清水健次郎
 

22016年2月22日 新しい週の始まり
 
 昨日の午後。
 「舘高重を偲ぶ会(仮称)の出演者、スタッフ合わせて8人が生涯学習館三階和室に集まった。初顔合わせである。
 朗読、フルート演奏、ハープ演奏のプロ、ペン習字師範などの思いを聞くにつけ、自身も建築設計のプロ故か、琴線にひびくものを感じる。
 春になったら、情宣活動が盛んになるだろう。

 舘高重には、例えばこういう詩があります。
 
 
 詩を書いても飯が食えない と
 一昨年 親父に叱られた
 なるほど うなづかれる
 しかし おれだって人間だ
 おれは
 すてきな 針を持っている
 今に見ろ
 でかい 魚を釣ってみせるから
   ・
   ・ 
   ・ 
   ・
 無題

 病の苦しみもうすらぎ
 晴れた日 心も軽くなると
 しきりに父母を思い出します

 その面影を少しも知らず
 暖かい乳房の覚えもなく
 ただ生みすてられた不幸な私は
 暖かい父母の胸に
 かえりたいと思います

 苦しい病も治らなければ

 極楽浄土の蓮のうてなの
 母の住家に参りたいと思います
 そこには父も一緒でしょうから

 かれくさに
 ほとけひとりの
 ひなたかな

 絶筆
 小さいときから自分ひとりでほほえんでいた大きな理想も、今は何処えやらあとかたもなく、言い古された言葉ながら相変わらず生きています。熱さ寒さにつまづき一年の大半を寝込んでいる生活を続けて闘病四年も残り少なくなりました。
 病んでいればことさら肉親のないのは悲惨なものです。私も時には常識的反逆を感ずることもあります。
 無事に昭和六年を迎えることが出来ましたら、その日から自伝風な感想を書きたいと思っていますが、只今は安静を強いられている境遇で死線を越えたばかりです。
 近くの山々まで雪が迫ってきました。この頃はただ雨の音、風の音にわびしい明け暮れを送っています。
                   (旧制岐阜高等農林学校同窓会報より)

2016年2月21日 昨晩
 
 中学生時代の同窓生からの誘い(いざない)があって、同窓会に出かけた。
 

 ひとり静かに瞑想することだけが趣味の僕に、このような賑やかな場は苦手なのだが、老齢にさしかかっている彼ら彼女らの心境を聞くのも悪くはないと思って出かけた。
 

 私の持ち歌「港町ブルース」を聞きたいというたくさんの要望があったのでマイクを持ったのだが、口を大きく開けると入歯が抜けるので、途中でやめた。今度参加するときは、ポリナントカカントカという接着剤で入歯をしっかりと固定しておこうと思った。

 

 やっぱりひとり静かに蟹を食べていようと、自分の座に戻ったのだが、半ばオババ化しているとはいえ、昔可愛いかった女性たちは私にまとわりついてくる。

2016年2月20日 一枚の写真
 何の料理だと思いますか。


 昨晩は、6人が集まっての(うたげ)
 料理は、とんぼさんが一週間を費やし丹精込めて作った猪肉の燻製で、実に美味しかった。女性たちふたりがつくりかたを教わりながら食べていたが、つくり手と食べ手が座を同じうすることの楽しみは、ここにあるのかもしれない。
 写真で注目してほしいのは、テーブルクロス。Oさん(女性・年齢不詳)が持ってきてくれた唐草模様の風呂敷で、事務所応接コーナーがますます和の雰囲気に染まった。目指すは谷崎潤一郎「陰影礼賛」である。
 

2016年2月19日 無題

 昨晩。
 五時になったので仕事を取りやめ、焼き油ゲをつまみに缶ビールを飲みつつ「刑事コロンボ」を楽しんだ。終了し電気毛布にくるまってベッドでうとうとし始めたらドアをノックする音がする。毛布から抜け出てドアを開けたら、中学の同級生が立っていて、「下妻への旅に行かないか」と言う。冬の旅は苦手なので断った。
 再び電気毛布にくるまり、しかし目が覚めてしまったので、図書館で借りてきた本を読んでいたら、立て続けに二本の携帯電話が入ってきた。相手は「聞こえない 聞こえない」と言う。仕方なく電気毛布から抜け出し、冷気充満の屋外に出て携帯電話会話を終了した。今日はドコモへ携帯電話修理の相談に行ってこようと思う。

 どうでもいいことだが
 丸谷才一のエッセイによれば、ベッドでの楽しみは二つあるとのこと。一つは「言わずもがな」で、ひとつは「読書」だそうだ。


 印牧邦雄著「初めて万里の長城を記録に残した日本人」
     三国新保の船乗りが韃靼国へ漂流した物語

 あらすじ
 時は今を去る三七〇年前、三国の対岸新保村の船が嵐にあって日本海を隔てた対岸に漂着し、生き残った人達が数奇な運命をたどり、帰国した物語りについてお話し致しましょう。徳川三代将軍家光の晩年、寛永二十一年(一六四四年 この年十二月十六日、正保と改元)四月一日、新保村の商人竹内藤右衛門と息子藤蔵計船二艘、並びに同村の国田兵衛門は船一艘以上三艘に五十八 人が乗り込んで、松前(現北海道)に向けて出奔したところ、佐渡沖で嵐に遇い、日本海を漂流し、韃靼国すなわちマンチュリアの清国領内、今のロシア領ポシェット湾岸に漂着しました。ウラジオストックの西方に当る海岸です。現地住民が持参人参を見て、何処で商をするのも同じと、人参のある場所を教えさせて、取りに行ったところ、住民の詭計(だましの計略)にはまり、藤右衛門以下四十三人が殺害される一大惨事になりました。同年六月十七日のことでした。
 日本人を襲ったマッカツ人(女真人)で、女真語を使用し、狩猟・漁撈を生業とする傍ら農業を営んでいました。そして射(弓矢)・槍の技を得意とする連中でした。ちなみに、漂着地と想定されているポセット湾のクラスキノという町には※渤海国時代の遺跡クラスキノ土城が海岸近くにあり、当時日本国への出発港と推定されています。周辺には、その後、女真人が多く住み、その遺跡・遺物も発見されています。
 ※渤海国 七世紀末から十世紀初にかけて、満州東部・沿海州・朝鮮半島北部を支配したマッカツ人の国。初め日本に朝貢、後には貿易の利を得るため、前後三十四回来朝、日本も使節を派遣、渤海国は毛皮など輸出、絹などを輸入した。三国湊が史上に初めて現れるのは、宝亀九年(七七八)で、渤海使張仙寿、送渤海使高麗殿嗣の乗船が三国港に来着したことを告げる「続日本紀」の記事である。

 国田以下十五人の生存者は俘虜になったが、やがてこの事件を聞きつけた清国の駐在官によって保護され、七月フンチュン海岸から韃靼国首都盛京(のちの瀋陽)へ護送されました。盛京までの三十五日間は、騎馬旅行で、野宿したり食べ物を求めたり、途中、長白山脈を越えるなど苦難の旅行でした。
 盛京での裁判の結果、無罪の判決がくだり、以来衣服や食べ物が支給され優遇されました。盛京に滞在すること一カ月、北京へ再送されることになり、途中、※万里の長城を越えました。「漂流記」は次のように記しています。
一、韃靼と大明との国境に、石垣を築申候。萬里在候よし申候。高さは拾二三間ほどに見へ申候。但石にては築不申候。瓦の様成物、厚さ三寸四寸にして重ね、しっくひ詰に仕候。堅く滑に候事焼物にくすりを懸け置候ごとくにて候。事の外古く見へ候得ども、すこしもそこね不申候。道通の所は、此石垣を丸くくりぬき、其上に門矢倉立申候。此丸く候処も薬を懸け候ごとくに爪もかゝり不申候。
 ※萬里の長城 戦国時代に異民族侵入を防ぐため北辺に築いたのが起源。今日(こんにち)の長城よりはるかに北方にあった。その後南北朝時代に現在の位置に築き、明代になって蒙古防衛のため今日に見る堅固なものになった。

 国田らが盛京から北京へ、さらに北京から京城への旅行の途中、萬里の長城を越えております。長城の東北方の最終端、山海関でした。しかし山海関の地名も、仰ぎ見たであろう「天下第一関」の額も、「漂流記」には記されていません。
 古来、日本人で入国した者は少なくなかったでしょうし、萬里の長城を見た者もあったと思われますが、初めて記録に残したのは三国新保の人であったことが注意されます。
 国田らの北京滞在は一年にも及び、その間に北京城の偉容を見て驚いたり、清軍の騎射訓練を見て感心するなど、様々な体験をしたりしましたが、衣食住に不自由なく優遇されました。
 日本人の漂流人が特に困ったのは外国語ー韃靼語(満州語)・清国語・朝鮮語ーでした。
 盛京で裁判を受けた時、取り調べに対し、「種々にまねしてお見せしたところ、おおかた納得してもらえた」とあるように、その都度相手にいろいろな手を使って理解してもらうよう努めたわけです。しかし北京に滞在した頃には、大分解るようになっていました。
 生存者の中に「藤蔵の草履取りであった少年」がおり、韃靼語や清国語を早く覚えこみ、自由自在に使い、漂流人たちの通訳をして調法がられたと言われます。
 帰国後、その才能が認められ、侍に取り立てられ、丸岡藩主本多重能に仕え、二百石取りの侍に抜擢されたと言われます。生存者中、出世頭であったわけで、帰国後、消息の分からない人達の中で珍しい例と言えましょう。とにかく、韃靼語を我国に初めてもたらしたのは上記の漂流人であったわけです。
 国田等漂流人が北京滞在した当時の清国皇帝は世祖順治帝で、年齢は八歳と伝えられています。それで摂政がおかれ、皇帝の叔父に当る人物が任ぜられていました。
 漂流記によると、「名をキウワンスと言い、年頃は三十四・五歳に見え、痩身の人であった」といわれます。睿親王のことで、彼の風貌を伝えている貴重な記事です。この人物に対しすべての人々が畏怖心を抱いており、直接言葉をかけることすら出来なかったと伝えています。彼が町を通る時は、上下とも頭を地につけ上げようとしなかったほど、恐れられていましたが、漂流人たちに対しては、同情したのであろう御前近く度々招いて親切に言葉をかけてもらえたといわれます。
 漂流人たちの滞在が長引くにつれて、日本人たちの望郷の念が次第に強くなり、帰国を請願することになりました。半歳ぶりにそれが受け入れられ、正保二年(一六四五)十一月一日の条に朝鮮国王李倧(仁祖)に対し、日本漂流人を本国へ送還するよう勅諭を下したとあります。
 勅諭の大意を園田氏著より引用しますと、
 「今中外を統一し、四海を以て家と為す。各国人民は皆朕が赤子である。前に日本国人民十三名、海中に舟を泛べ漂到す。已に所司に勅し衣服・食料を給せるも、其の父母妻子を念ひ、遠く天涯を隔てることを憫惻し、玆に使臣に隋はしめ朝鮮に往かしむ。到着の上は船隻を備へて日本に送還し、該国君臣に朕が意を知らしめよ」
清国においては、上記の勅諭が出される前、朝鮮国王仁祖は第二子を世子と定め、清国国王に冊封を乞うていました。皇帝はこれを許し祁充格を冊封使に任じ派遣することになったのです。
 十二月十一日、冊封使祁充格らは北京を出発しました。祁充格は冊封の任務とともに日本漂流人を朝鮮に引き渡し無事帰国させる任務を兼ねていました。漂流人たちは祁充格一行に同伴し京城に向い、十二月二十八日到着すると朝鮮政府の盛大な歓迎を受けました。
 その後、正保三年(一六四六)一月釜山にあった、対馬藩の倭館に入り接待を受けました。以後、朝鮮政府の計らいにより対馬を経て同年六月十六日に大坂に安着、三国新保を出奔してより三年ぶりに越前に帰還したわけです。
 帰郷すると、幕府の命で生還者を代表して国田、宇野両名が江戸へ召喚され取り調べを受けることになりました。その時、取調に当ったのは、将軍家御側役中根○岐守であったことからみても、幕府側が韃靼漂流一件を如何に重視していたかが窺われます。
 
 竹内藤右衛門らの墓碑
 韃靼漂流の一件は史実でありますが郷里の人たちからは長い間忘れ去られていました。木藤の墓と伝えられてきた藤右衛門等の墓碑のある性海寺墓地に入り、最初に学術調査を行ったのは、京都帝大の内藤虎次郎(湖南)教授でした。案内者の福井師範学校教諭の上田三平氏は、後に「史跡を訪ねて三十余年」の中で次のように書いています。

 「頗る荒廃していたが、幸いに昔ながらの規模は少しも変更せずに保っていたので先生(内藤教授)は大いに喜ばれ、倒れた石灯篭を起こし、埋まった石碑を掘り出し終始ニコニコ顔で、写真の撮影、実測等を行なわれ、寺内に入って古記録、位牌類を調査された。」
 竹内家の墓地は、性海寺墓地の北部、藤右衛門の故郷、新保を望む最高部の好地に位置しています。同家歴代の墓(五輪塔)が矩形をなして並び北辺中央に竹内家中興の主藤右衛門夫妻を葬った五輪塔が建っています。その左方に二代藤蔵夫妻の墓(五輪塔)があります。

藤右衛門の墓には寶林慶授居士 正保元年 申甲年六月十七日の刻字があります。
 上は戒名、下は没年月日すなわち遭難日です。向って右側に海雲妙法大姉とあるのは、妻の戒名であります。
 また同家墓所の右端に韃靼漂流者の供養碑が建っています。十三回忌に当る明暦二年(一六五六)に建てられたもので表面に「上建法身下及六道四十八霊」等とあり、その左に六月十七日の刻字があります。四十八霊は、帰郷後死亡した人物の数もふくまれていると思われます。両墓碑ともに坂井市文化財に指定されています。

 藤右衛門船の航跡を追って
 島根県江津市黒松地区文書によりますと、寛永十九年(一六四二)八月三日、竹内藤右衛門所有の廻船が、越前和布港(現 福井市和布か)を出帆し、木材(秋田杉)を積んで大坂へ向かう途中、難風にあって同月十日夜、岩見国(現 島根県)黒松沖(江津市)で遭難しました。船頭は国田兵右衛門でした。
 また越前松平家の「家諶」寛永二十年(一六四三)六月十五日条に「泥原新保浦藤右衛門が出羽国秋田に商いのため出船したところ難風にあい乾亥の法(西北方)の島へ漂着した。そのときの証拠物件として女の着物のほか瓔珞(装身具)・鹿角等を持ち帰った。福井藩は飯川彦兵衛が藤右衛門を連れて幕府に出頭し、届書と持ち帰った品物を老中に提出した」とあります。
 そこで幕府側の資料を調べてみますと、「通航一覧」と前掲史料の記事と符合する記事が記載されていました。引用しますと「寛永20年6月、越前国より秋田に渡海の商船、逆風の災によって、十五、六日乾方(西北方)へ漂流し、無人島に漂着した。そこに異国の流人と思われる美麗の婦人一人が草葺小屋に住んでおり、美しい衣服を着、冠をかぶっていた。三日程してその女が死んだので、その衣冠を持ち帰り、藩主(第三代)忠昌に報告した。」とあります。「通航一覧」には越前の商船とあり船頭の名は書かれていませんが、年月の一致と「家諶」に泥原新保浦藤右衛門とありますので、この人物こそ「韃靼漂流記」の筆頭船頭竹内藤右衛門その人でありましょう。「徳川実記」の寛永二十年六月条にも、「通航一覧」と大体同様の記事が見え、越前より秋田へ赴く商船が海中で大風に遇い漂流したとあり、また正保三年八月条には越前商人が海上で颱風に遇い韃靼の地に帰国した記事が載っています。
 美しい衣服を着、頭に冠をかぶり、装身具で身を飾った美麗な女性は一体何者でありましょうか。私はシベリアに住んでいたシャーマンではないかと推測しています。住民から崇められていたであろう人物が、僅か三日程で死亡するなど死因を含めて疑わざるを得ません。年を経て起こった惨事の一因がー想像の域を脱しませんがーこの一件にあったのかも知れません。漂流記は事件当日、住民が千人も集まったと伝えていますから、事の重大性が窺われます。そして、藤右衛門が持ち帰った鹿角はシベリヤ産の鹿の角ではないかと、思われますが、惨事の原因となった人参とは何れも強精剤で高貴薬であるということです。
 ところで、寛永二十一年の漂流事件について、かって関田駒吉氏は「港湾」誌上で「私は本件(韃靼漂流)を海難に起因する漂流ではなく、予定の渡航であったとして、同じ嵐に巻き込まれた三艘の船が、同一時間に同一地点に漂着するという不自然さ」などいくつかの疑問点を指摘し、計画的渡航の見方を提示しています。一般的に漂流物語として疑問を持ちえなかった時代に、注目すべき見解を示したものであり、「実に北陸の健児が鎖国令を蹴破った冒険商業と見るのである」としています。
 とにかく佐渡沖、秋田沖から西北方へ帆走する場合、春から夏にかけて日本海を吹く南寄りの季節風を利用したと思われます。かって渤海使が帰航の際、上記の時季と季節風を利用しているということです。漂流記の記事から目的地から離れた地域に漂着した前例もあってか、佐渡沖へ舵を切り換えたとも考えられます。

 大陸派兵の問題
 杉山清彦氏が「満族史研究」第三号の中で紹介されている小宮木代良氏の研究論文中に引用されている史料、土佐山内家御手許文書「山内忠豊被露状」(八月十四日付)に「越前新保売買舟、申ノ年佐土へ相渡候トシテ大風に逢、韃靼国へ被流、北京ヨリ送、当六月ニ御当地へ到着様子、御老中迄申上候書付、別紙に進上仕候、御覧可被為成候」とあり、また「山内一唯書状」に、「髄而三年以前ニ越前クニモノ松前ヘ商売ニ渡中候刻、風吹被落、韃靼ヘ渡着仕候、命助申候者、此比帰朝仕候付而、前後之様子・以書付達上覧ニ申写拝見仕候間、珍布奉存、則書付進上仕候」とあります。国田・宇野両名に対する事情聴取が行われた翌日には、早くもその事実と、レポートの存在が知られていたのです。
 当時、明国を救うためには大陸派兵の問題が検討されていたといわれます。ただし小宮氏は家光政権は当初から派兵の意思をもっていなかったとの見解をとっています。鄒芝龍の請援使来到の知らせが届いたのは、漂流人に対する事情聴取が行われてから、わずか一カ月後の九月二十日のことです。それは拒否されましたが、結局幕府は、福州(明朝最後の首都)陥落の報を受けて大陸不出兵を諸大名に公表することになります。

 園田一亀氏が「韃靼漂流記の研究」の中で指摘されたように、幕府が国田・宇野両名から事情聴取を行ったのは、将軍家光のお側役中根壱岐守正盛(五千石の旗本)であり、しかも中根の自邸で聴取が行われたのです。それをまとめたのが漂流記で、成書は正保三年(一六四六)八月十三日でした。そうした緊迫した状況下での将軍家光側近者による事情聴取が、不出兵に何等かの影響を与えたものと思われます。  終わり
               (日中友好協会福井県支部主催講演会)
 
 

2016年2月18日 本日はCAD三昧
  
 
梅原猛が数十人の高校生を相手に講義した記録・「道徳」を読み終えた。 
 僕が「隠された十字架 法隆寺論」や「水底の歌 柿本人麿論」などを面白く読んでいたのが40年程前で、その数年前に、学生会館で彼のアジテーションを聞いた覚えがある。三方町の縄文博物館館長をしていたくらいの縄文好きで、古代宗教にまつわる著作も多いが、その彼も今や八十九歳つまり僕のお袋と同い年だ。ここ数年、僕は年寄りの言葉が気になって仕方ない。

 最後の講義で彼は「近代は人間の欲望を神とした」と述べる。
 「・・自然破壊で動植物の種が激減し、里山の崩壊が進行している云々・・その先兵が京都議定書を認めずに離脱した大国アメリカの経済優先主義である。このように近代の考え方は、人間を絶対化し、進歩を信じるものである」と述べる。
 「しかし、我々人間の歴史をさかのぼって考えれば。約六、七百万年前といわれる人間の起源はチンパンジーの仲間から分かれたことによるものであり、さらにさかのぼれば哺乳類の起源にいたる。哺乳類は哺乳類的爬虫類という爬虫類の一種から進化したといわれている。約六千五百万年に巨大な隕石の衝突によって地球におそるべき環境変化が起こり、恐竜がほぼ全滅したといわれている。それ以前の一億六千万年はどは恐竜に代表される爬虫類の全盛時代だった。その爬虫類をさらにさかのぼれば、両生類にいたる。両生類は陸に生育する最初の脊椎動物だが、それは明らかに魚類から進化したものだ。とすれば、魚類は最初の脊椎動物だ。そのような脊椎動物が海に出現するには一億年以上の年月が必要だったろう。最初の動物はクラゲのようなものだったといわれる。このように考えると、私の生命は五億年とか六億年という、ほとんど永遠といってもいいような途方もない長い時間をかけた生物の進化の結果としてうまれたものであることがわかる。人間がこのような進化の結果生まれたものであることは、胎児がこのような原生動物から魚類、両生類、爬虫類、哺乳類の形を次々に取っていくことによって明らかだ」と述べる。
 そして、「こう考えると、自己のなかにすでに永遠が存在する」と述べていた。

2016年2月17日 無題  
  
 今朝は、雪かきを終えてから湯のまち駅前の足湯へ出かけた。タダだから行った。除雪中で、駐車場から足湯への足元がふらついたが、我慢して行った。

 屋内には誰も居ず、清掃中の年増がひとり居ただけ。いろいろと話しかけてくるのだが、僕はしゃべらずにうなずくだけだった。勿論、若くて美しい女性だったら逆だった。積極的に話しかけていた。
 それはともかく、42.5℃の温泉でカラダを温めながら、降り積もった新雪を窓外に眺めるのも、たまにはいいもんだ。精気がみなぎってくる。未来というものがあるような気になってくる。

2016年2月16日 打合せから始まる火曜日 
  
 今朝は午前二時に目が覚めたのだが、外へ出ると、雪がしんしんと降っている。
 そこで、午前四時に完全防備のいでたちで駐車場敷地の除雪を開始した。夜が明ける頃、妻子の車が支障なく出ていくのを見たいのだ。ひ弱になってしまったカラダでも、少しは家族のために役立つことのあることを確認することが無上のヨロコビなのである。

 印牧邦雄著「初めて万里の長城を記録に残した日本人」
     三国新保の船乗りが韃靼国へ漂流した物語
 続き(4)
 藤右衛門の墓には寶林慶授居士 正保元年 申甲年六月十七日の刻字があります。
 上は戒名、下は没年月日すなわち遭難日です。向って右側に海雲妙法大姉とあるのは、妻の戒名であります。
 また同家墓所の右端に韃靼漂流者の供養碑が建っています。十三回忌に当る明暦二年(一六五六)に建てられたもので表面に「上建法身下及六道四十八霊」等とあり、その左に六月十七日の刻字があります。四十八霊は、帰郷後死亡した人物の数もふくまれていると思われます。両墓碑ともに坂井市文化財に指定されています。

 藤右衛門船の航跡を追って
 島根県江津市黒松地区文書によりますと、寛永十九年(一六四二)八月三日、竹内藤右衛門所有の廻船が、越前和布港(現 福井市和布か)を出帆し、木材(秋田杉)を積んで大坂へ向かう途中、難風にあって同月十日夜、岩見国(現 島根県)黒松沖(江津市)で遭難しました。船頭は国田兵右衛門でした。
 また越前松平家の「家諶」寛永二十年(一六四三)六月十五日条に「泥原新保浦藤右衛門が出羽国秋田に商いのため出船したところ難風にあい乾亥の法(西北方)の島へ漂着した。そのときの証拠物件として女の着物のほか瓔珞(装身具)・鹿角等を持ち帰った。福井藩は飯川彦兵衛が藤右衛門を連れて幕府に出頭し、届書と持ち帰った品物を老中に提出した」とあります。
 そこで幕府側の資料を調べてみますと、「通航一覧」と前掲史料の記事と符合する記事が記載されていました。引用しますと「寛永20年6月、越前国より秋田に渡海の商船、逆風の災によって、十五、六日乾方(西北方)へ漂流し、無人島に漂着した。そこに異国の流人と思われる美麗の婦人一人が草葺小屋に住んでおり、美しい衣服を着、冠をかぶっていた。三日程してその女が死んだので、その衣冠を持ち帰り、藩主(第三代)忠昌に報告した。」とあります。「通航一覧」には越前の商船とあり船頭の名は書かれていませんが、年月の一致と「家諶」に泥原新保浦藤右衛門とありますので、この人物こそ「韃靼漂流記」の筆頭船頭竹内藤右衛門その人でありましょう。「徳川実記」の寛永二十年六月条にも、「通航一覧」と大体同様の記事が見え、越前より秋田へ赴く商船が海中で大風に遇い漂流したとあり、また正保三年八月条には越前商人が海上で颱風に遇い韃靼の地に帰国した記事が載っています。
 美しい衣服を着、頭に冠をかぶり、装身具で身を飾った美麗な女性は一体何者でありましょうか。私はシベリアに住んでいたシャーマンではないかと推測しています。住民から崇められていたであろう人物が、僅か三日程で死亡するなど死因を含めて疑わざるを得ません。年を経て起こった惨事の一因がー想像の域を脱しませんがーこの一件にあったのかも知れません。漂流記は事件当日、住民が千人も集まったと伝えていますから、事の重大性が窺われます。そして、藤右衛門が持ち帰った鹿角はシベリヤ産の鹿の角ではないかと、思われますが、惨事の原因となった人参とは何れも強精剤で高貴薬であるということです。
 ところで、寛永二十一年の漂流事件について、かって関田駒吉氏は「港湾」誌上で「私は本件(韃靼漂流)を海難に起因する漂流ではなく、予定の渡航であったとして、同じ嵐に巻き込まれた三艘の船が、同一時間に同一地点に漂着するという不自然さ」などいくつかの疑問点を指摘し、計画的渡航の見方を提示しています。一般的に漂流物語として疑問を持ちえなかった時代に、注目すべき見解を示したものであり、「実に北陸の健児が鎖国令を蹴破った冒険商業と見るのである」としています。
 とにかく佐渡沖、秋田沖から西北方へ帆走する場合、春から夏にかけて日本海を吹く南寄りの季節風を利用したと思われます。かって渤海使が帰航の際、上記の時季と季節風を利用しているということです。漂流記の記事から目的地から離れた地域に漂着した前例もあってか、佐渡沖へ舵を切り換えたとも考えられます。

 大陸派兵の問題
 杉山清彦氏が「満族史研究」第三号の中で紹介されている小宮木代良氏の研究論文中に引用されている史料、土佐山内家御手許文書「山内忠豊被露状」(八月十四日付)に「越前新保売買舟、申ノ年佐土へ相渡候トシテ大風に逢、韃靼国へ被流、北京ヨリ送、当六月ニ御当地へ到着様子、御老中迄申上候書付、別紙に進上仕候、御覧可被為成候」とあり、また「山内一唯書状」に、「髄而三年以前ニ越前クニモノ松前ヘ商売ニ渡中候刻、風吹被落、韃靼ヘ渡着仕候、命助申候者、此比帰朝仕候付而、前後之様子・以書付達上覧ニ申写拝見仕候間、珍布奉存、則書付進上仕候」とあります。国田・宇野両名に対する事情聴取が行われた翌日には、早くもその事実と、レポートの存在が知られていたのです。
 当時、明国を救うためには大陸派兵の問題が検討されていたといわれます。ただし小宮氏は家光政権は当初から派兵の意思をもっていなかったとの見解をとっています。鄒芝龍の請援使来到の知らせが届いたのは、漂流人に対する事情聴取が行われてから、わずか一カ月後の九月二十日のことです。それは拒否されましたが、結局幕府は、福州(明朝最後の首都)陥落の報を受けて大陸不出兵を諸大名に公表することになります。

 園田一亀氏が「韃靼漂流記の研究」の中で指摘されたように、幕府が国田・宇野両名から事情聴取を行ったのは、将軍家光のお側役中根壱岐守正盛(五千石の旗本)であり、しかも中根の自邸で聴取が行われたのです。それをまとめたのが漂流記で、成書は正保三年(一六四六)八月十三日でした。そうした緊迫した状況下での将軍家光側近者による事情聴取が、不出兵に何等かの影響を与えたものと思われます。  終わり
               (日中友好協会福井県支部主催講演会)
 

2016年2月15日 生きること
  
 
昨日の午前中は、吉崎に居た。「あわら消防団第3分団詰所開所式」があった為である。


 ブログをご覧の女性の皆様。私(向かって一番左)も下の写真のようにフォーマルな服装に身を包むことがあるのですよ。

 
 そして午後は生涯学習館へ。
 あわら市下番にある福円寺の住職・藤兼衆氏の話を聞いた。以下レジュメを列記。

 「平和への願いを形に」(あわら九条の会しゃべり場)
 1、寺に生まれたこと
 学生時代と教団問題
 東京大谷専修学院(師友との出会い)
 大師堂爆破未遂事件・部落差別問題糾弾会・靖国神社国家護持法案
 2、福円寺に入寺して
 真宗寺院と真宗の教え
 社会問題との関わり
 人と遇うこと
 3、親鸞聖人の教えと東日本大震災
 3・11の前と後
 ボランティアと念仏
 願いから動きへ
 4、いかなる社会(国土)を願うのか
 日本という国に生きる
 国家を超える視点
 憲法と本願
 念仏者としての生き方
 願心を荘厳する

2016年2月14日 忙しくなりそうな日曜日
  
 印牧邦雄著「初めて万里の長城を記録に残した日本人」
     三国新保の船乗りが韃靼国へ漂流した物語
 続き(3)
 清国においては、上記の勅諭が出される前、朝鮮国王仁祖は第二子を世子と定め、清国国王に冊封を乞うていました。皇帝はこれを許し祁充格を冊封使に任じ派遣することになったのです。
 十二月十一日、冊封使祁充格らは北京を出発しました。祁充格は冊封の任務とともに日本漂流人を朝鮮に引き渡し無事帰国させる任務を兼ねていました。漂流人たちは祁充格一行に同伴し京城に向い、十二月二十八日到着すると朝鮮政府の盛大な歓迎を受けました。
 その後、正保三年(一六四六)一月釜山にあった、対馬藩の倭館に入り接待を受けました。以後、朝鮮政府の計らいにより対馬を経て同年六月十六日に大坂に安着、三国新保を出奔してより三年ぶりに越前に帰還したわけです。
 帰郷すると、幕府の命で生還者を代表して国田、宇野両名が江戸へ召喚され取り調べを受けることになりました。その時、取調に当ったのは、将軍家御側役中根○岐守であったことからみても、幕府側が韃靼漂流一件を如何に重視していたかが窺われます。
 
 竹内藤右衛門らの墓碑
 韃靼漂流の一件は史実でありますが郷里の人たちからは長い間忘れ去られていました。木藤の墓と伝えられてきた藤右衛門等の墓碑のある性海寺墓地に入り、最初に学術調査を行ったのは、京都帝大の内藤虎次郎(湖南)教授でした。案内者の福井師範学校教諭の上田三平氏は、後に「史跡を訪ねて三十余年」の中で次のように書いています。

 「頗る荒廃していたが、幸いに昔ながらの規模は少しも変更せずに保っていたので先生(内藤教授)は大いに喜ばれ、倒れた石灯篭を起こし、埋まった石碑を掘り出し終始ニコニコ顔で、写真の撮影、実測等を行なわれ、寺内に入って古記録、位牌類を調査された。」
 竹内家の墓地は、性海寺墓地の北部、藤右衛門の故郷、新保を望む最高部の好地に位置しています。同家歴代の墓(五輪塔)が矩形をなして並び北辺中央に竹内家中興の主藤右衛門夫妻を葬った五輪塔が建っています。その左方に二代藤蔵夫妻の墓(五輪塔)があります。
 
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 平和への願いを形に

2016年2月13日 無題
  
印牧邦雄著「初めて万里の長城を記録に残した日本人」
     三国新保の船乗りが韃靼国へ漂流した物語
 続き(2)
 一、韃靼と大明との国境に、石垣を築申候。萬里在候よし申候。高さは拾二三間ほどに見へ申候。但石にては築不申候。瓦の様成物、厚さ三寸四寸にして重ね、しっくひ詰に仕候。堅く滑に候事焼物にくすりを懸け置候ごとくにて候。事の外古く見へ候得ども、すこしもそこね不申候。道通の所は、此石垣を丸くくりぬき、其上に門矢倉立申候。此丸く候処も薬を懸け候ごとくに爪もかゝり不申候。
 ※萬里の長城 戦国時代に異民族侵入を防ぐため北辺に築いたのが起源。今日(こんにち)の長城よりはるかに北方にあった。その後南北朝時代に現在の位置に築き、明代になって蒙古防衛のため今日に見る堅固なものになった。

 国田らが盛京から北京へ、さらに北京から京城への旅行の途中、萬里の長城を越えております。長城の東北方の最終端、山海関でした。しかし山海関の地名も、仰ぎ見たであろう「天下第一関」の額も、「漂流記」には記されていません。
 古来、日本人で入国した者は少なくなかったでしょうし、萬里の長城を見た者もあったと思われますが、初めて記録に残したのは三国新保の人であったことが注意されます。
 国田らの北京滞在は一年にも及び、その間に北京城の偉容を見て驚いたり、清軍の騎射訓練を見て感心するなど、様々な体験をしたりしましたが、衣食住に不自由なく優遇されました。
 日本人の漂流人が特に困ったのは外国語ー韃靼語(満州語)・清国語・朝鮮語ーでした。
 盛京で裁判を受けた時、取り調べに対し、「種々にまねしてお見せしたところ、おおかた納得してもらえた」とあるように、その都度相手にいろいろな手を使って理解してもらうよう努めたわけです。しかし北京に滞在した頃には、大分解るようになっていました。
 生存者の中に「藤蔵の草履取りであった少年」がおり、韃靼語や清国語を早く覚えこみ、自由自在に使い、漂流人たちの通訳をして調法がられたと言われます。
 帰国後、その才能が認められ、侍に取り立てられ、丸岡藩主本多重能に仕え、二百石取りの侍に抜擢されたと言われます。生存者中、出世頭であったわけで、帰国後、消息の分からない人達の中で珍しい例と言えましょう。とにかく、韃靼語を我国に初めてもたらしたのは上記の漂流人であったわけです。
 国田等漂流人が北京滞在した当時の清国皇帝は世祖順治帝で、年齢は八歳と伝えられています。それで摂政がおかれ、皇帝の叔父に当る人物が任ぜられていました。
 漂流記によると、「名をキウワンスと言い、年頃は三十四・五歳に見え、痩身の人であった」といわれます。睿親王のことで、彼の風貌を伝えている貴重な記事です。この人物に対しすべての人々が畏怖心を抱いており、直接言葉をかけることすら出来なかったと伝えています。彼が町を通る時は、上下とも頭を地につけ上げようとしなかったほど、恐れられていましたが、漂流人たちに対しては、同情したのであろう御前近く度々招いて親切に言葉をかけてもらえたといわれます。
 漂流人たちの滞在が長引くにつれて、日本人たちの望郷の念が次第に強くなり、帰国を請願することになりました。半歳ぶりにそれが受け入れられ、正保二年(一六四五)十一月一日の条に朝鮮国王李倧(仁祖)に対し、日本漂流人を本国へ送還するよう勅諭を下したとあります。
 勅諭の大意を園田氏著より引用しますと、
 「今中外を統一し、四海を以て家と為す。各国人民は皆朕が赤子である。前に日本国人民十三名、海中に舟を泛べ漂到す。已に所司に勅し衣服・食料を給せるも、其の父母妻子を念ひ、遠く天涯を隔てることを憫惻し、玆に使臣に隋はしめ朝鮮に往かしむ。到着の上は船隻を備へて日本に送還し、該国君臣に朕が意を知らしめよ」


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 平和への願いを形に

 2016年2月12日 もう週末か
 
 一昨日のブログに書いた大黒屋 光太夫漂流よりも、さらに百七十年前に、こういうことがありました。

 印牧邦雄著「初めて万里の長城を記録に残した日本人」
     三国新保の船乗りが韃靼国へ漂流した物語

 あらすじ
 時は今を去る三七〇年前、三国の対岸新保村の船が嵐にあって日本海を隔てた対岸に漂着し、生き残った人達が数奇な運命をたどり、帰国した物語りについてお話し致しましょう。徳川三代将軍家光の晩年、寛永二十一年(一六四四年 この年十二月十六日、正保と改元)四月一日、新保村の商人竹内藤右衛門と息子藤蔵計船二艘、並びに同村の国田兵衛門は船一艘以上三艘に五十八 人が乗り込んで、松前(現北海道)に向けて出奔したところ、佐渡沖で嵐に遇い、日本海を漂流し、韃靼国すなわちマンチュリアの清国領内、今のロシア領ポシェット湾岸に漂着しました。ウラジオストックの西方に当る海岸です。現地住民が持参人参を見て、何処で商をするのも同じと、人参のある場所を教えさせて、取りに行ったところ、住民の詭計(だましの計略)にはまり、藤右衛門以下四十三人が殺害される一大惨事になりました。同年六月十七日のことでした。
 日本人を襲ったマッカツ人(女真人)で、女真語を使用し、狩猟・漁撈を生業とする傍ら農業を営んでいました。そして射(弓矢)・槍の技を得意とする連中でした。ちなみに、漂着地と想定されているポセット湾のクラスキノという町には※渤海国時代の遺跡クラスキノ土城が海岸近くにあり、当時日本国への出発港と推定されています。周辺には、その後、女真人が多く住み、その遺跡・遺物も発見されています。
 ※渤海国 七世紀末から十世紀初にかけて、満州東部・沿海州・朝鮮半島北部を支配したマッカツ人の国。初め日本に朝貢、後には貿易の利を得るため、前後三十四回来朝、日本も使節を派遣、渤海国は毛皮など輸出、絹などを輸入した。三国湊が史上に初めて現れるのは、宝亀九年(七七八)で、渤海使張仙寿、送渤海使高麗殿嗣の乗船が三国港に来着したことを告げる「続日本紀」の記事である。

 国田以下十五人の生存者は俘虜になったが、やがてこの事件を聞きつけた清国の駐在官によって保護され、七月フンチュン海岸から韃靼国首都盛京(のちの瀋陽)へ護送されました。盛京までの三十五日間は、騎馬旅行で、野宿したり食べ物を求めたり、途中、長白山脈を越えるなど苦難の旅行でした。
 盛京での裁判の結果、無罪の判決がくだり、以来衣服や食べ物が支給され優遇されました。盛京に滞在すること一カ月、北京へ再送されることになり、途中、※万里の長城を越えました。「漂流記」は次のように記しています。

 お知らせ
 平和への願いを形に

 2016年2月11日 祭日だ ぼんやりしていよう
 
  一昨日の晩に、 椎名誠の「シベリヤ大紀行」の動画を見て久し振りに彼の本を読みたくなり、昨晩は「ハマボウフウの花や風」を読んでいた。
 この人は世界中を旅していて、その一つの到達点が「シベリヤ大紀行」であったと言える。
 
 天明2年に江戸を目指して伊勢国白子浦を出た大黒屋 光太夫を船頭とする回船は暴風雨に襲われ難破する。太平洋上での8ケ月の漂流の末、アリューシャン列島の小島に漂着するのだが、そこから根室港に帰国するまでの10年間の苦難の旅は実に過酷なもので、井上靖著「おろしや国酔夢譚」を読んだ時、江戸後期にこのような不屈の魂を持った日本人が居たことに落涙したものである。

 ひるがえって、今の日本の政治家は、業者の要請OKの見返りに多額をインマイポケットしたり、後任が市民に向かって「金目云々」の暴言を吐いたり、歯舞を読むことのできない担当閣僚がいたりと、「国民の為の政治家」ではなく「政治家のための国民」を座右の銘としている(やから)が多いに違いない。

 「♪右を向いても左をみても馬鹿と阿呆のからみ合い どこに男の夢がある・・」のである。
 

 2016年2月10日 無題
 
 先週の日曜日に、印牧先生のお宅を四人で訪れた折り、印牧邦男著「五大講話集」を頂きました。
 
 
 下の通りの構成です。

 一 初めて万里の長城を記録に残した日本人
   三国新保の船乗りが韃靼国へ漂流した物語

 二 三国にある現代文学碑について
   高見順文学碑
   三好達治文学碑
   虚子・栢翠・愛子文学碑
   清水健次郎文学碑

 三 三国湊の三大豪商について
   森田本家と三国(森)家と内田本家の盛衰
   森田本家
   三国(森)家
   内田本家

 四 杉田鶉山と芦原温泉

 五 中世の港と市と道
   三国湊
   金津宿
   北陸道
 私は、三・森田本家の項を特に熱心に読んだ。25年ほど前に森田家の次男宅を設計したからだ。設計のさなか、「物置に置いてあるピアノを要らないか?」と言われた。行ってみるとすごく豪華だ。鍵盤はすべて象牙製、燭台がくっついている。明治期に敦賀の総領事が所有していたものだとのこと。すごく重くて運搬費が高くつきそうだったので諦めたが、あの時所有していれば、今頃は左団扇の生活をしていただろう。酒池肉林を経験できたかもしれない。

 2016年2月9日 無題
  台湾の台南市で発生した、地震による高層マンション崩壊についての報道をみるにつけ唖然とする。RC(鉄筋コンクリート製)梁の部分に多数の一斗缶が意図的に埋められていたことなど、建設業者及び設計者の共同正犯だと思うが、検査済証を発行した行政当局の痴呆性も看過するわけにはいかない。

 二十数年前に発生した阪神淡路大震災のおり、西宮市へ行って高層マンション崩壊の現場を目の当たりにしたことを思い出す。どちらも一階がピロテイになっていて、上階に比べて壁が少なくかつ柱の本数が少ない。ということは、地震時に柱一本あたりに加わる軸力・曲げモーメント・剪断力が大変に大きくなり危険度が増すのだが、そこのところで手抜き工事が行われていたのだから、検察側は、「未必の故意」的罪名を起訴時に述べることになるだろう。
 リービ英雄著「国民のうた」を読み進めている。
 「星条旗の聞こえない部屋」と、題名は忘れたが天安門事件をあつかった小説というか考察本が印象に残っている。アメリカ人の彼が、母語ではないところの日本語をつかって書くことでいろんな摩擦が出てくるだろうし、そこに日本人である我々が日頃意識しないことを感じて惹かれるのではないだろうか。

 2016年2月6日 もう週末か
 
 昨夕、老女が事務所にやってきた。老女と言っても実年齢は72だからそう呼ぶのは失礼で、熟女と呼べばいいか。
 目が悪くなっただの記憶力がなくなっただのいろいろぼやいていたが、医者ではない僕には返答のしようがなく、ただ「そうですか、そうですか」と、頷くだけだった。元教師で教える側に立った人生を送ってきた彼女にはそれゆえの焦りが強いのだろう。

 勿論、僕にもそういう兆候は十分にあるのだけれど、例えば目が悪くなったことで、醜く汚いものがそうはみえずに普通にみえるようになった。記憶力がなくなったことによって、悲しい過去を思い出す頻度が小さくなった。つまり人生が豊かになったのだと思う。

 2016年2月5日 二行日記
  昼過ぎに、依頼された図面をやっと書き終えて、ソファーに横になり、テレビをつけた。
 今のテレビニュースは、全てエンターテインメント番組となっていて、あくびが出るだけだ。

 2016年2月4日 無題 
 
 昨日の午後は、事務所製図コーナーの再編成に汗を流していた。本棚の資料のひとつひとつをみてゆくとすでに不要となったものの多いことを実感する。私は、そういう諸々を軽トラに積み込み、我が家の畑地に置いてあるドラム缶に入れて火をつけた。
 事務所に戻ると、製図コーナーはすっきりしている。そして、かって私が愛した某女性からのプレゼントがひとり際立つ。手作りのその品に彼女の白い指先が影のように映ってみえる。
 というようなどうでもいいことはともかく、とは言っても、いつもどうでもいいことしか書けないのだけれども、私が言いたかったのは、「人間、捨てることが肝心」ということである。
 きょうの朝一番で坂井市役所に行った。玄関ロビーに入る時、風除室のマットの上に、コインが落ちているのを見つけた。風除室内は私一人で誰もいなかったが、迷うことなく100円玉を拾い上げ、受付の女子職員に渡した。一日一善である。
 しかしあのコインが500円玉だったらどうするか→無論、職員に渡す。
 千円札だったらどうするか→迷ったあげく職員に渡す。
 五千円札だったらどうするか→迷い続ける。
 一万円札だったらどうするか→迷わない。
 
 一日一善の可否は、金額によるのかもしれない。
 

 2016年2月3日 無題 
 
 米大統領選、民主党共和党の候補者争いが始まった。
 ソ連の書記長がゴルバチョフからエルツインに変わった頃だったかな、米ロスアンジェルスから、若い女性が、我が家へホームステイにやってきた。ある朝、私が彼女と一緒に竹田川河畔を散歩していた時、彼女は言い始めた。 「私の国アメリカでは大統領予備選挙のまっさいちゅうです。私はクリントンを一生懸命応援しています。私の両親は離婚し、私は母親の手ひとつで育てられました。母親の苦労をみるにつけアメリカがもっといい社会になってほしいと思うのです」と言う。
 「私の娘が持って帰ってきた通知簿にこういうチェック欄がありました。
 両親は?・・
 ①トウゲザー(同居)
 ②セパレート(別居)
 ③デイボースト(離婚)」と言うのだった。

 2016年2月2日 春がきた
 
 2月に入った。
 プロ野球春季キャンプが始まり、センバツ高校野球出場チームも発表され、福井県からは北信越代表として敦賀気比と福井工大福井の二校出場が決まった。気比の松原で天女の羽衣(はごろも)に包まれた赤子として発見されたと噂されている私としては、気比高校を応援するものであるが、福井高校にもちょっとした縁があるので、両校に頑張ってもらいたい。とにかく春がきたのである。

 ところで
 百人一首で春の歌といえば、次のものが挙げられるだろう。

 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ  天の香具山  持統天皇

 君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ  光孝天皇

 ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ  紀友則

 春の夜 の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそをしけれ  周防内侍

 現代文ではないので、意味も7割程度しかわからないのだが、このなかでは、持統天皇の歌がなつかしい。30年ほど前に男女6人が乗ったレンタカーで桜吹雪の奈良を一泊で訪れ、サントリーオールド片手に香久山を仰ぎ見た。「・・衣干すてふ」と、伝聞調になっているのだから、天皇は昔を忍んでいたのである。
 きょうの朝一番で、妻にひどく叱られた。「幼稚だ」と、叱られた。あとで冷静になって考えてみると、確かに自分が悪い。結婚生活三十数年、全く進歩しない私。
 私の辞書に「進歩」という言葉はないのである。

 

 2016年2月1日 きょうから二月
 
 きょうから二月。残雪はあるものの気候は日一日と暖かく変化し、Sくんと約束した旅立ちが可能となってきている。しかし、心配な点がひとつあって、それは腰痛だ。
 昨晩の就寝時も痛みがひどかった。痛みを和らげるために大型枕を腰の下に敷いた。痛み止めの薬も一粒飲んだ。しかし、効果がない。仕方なく、サントリーレッドをお湯割りにしコップ二杯飲んで、ようやく眠ることができた。
 涙でもため息でもなく、酒は神様である。この人生で、何度酒に助けられたことだろう。素面(しらふ)では言えそうもないキザなせりふも酒の力で言うことができた。
 付け加えれば
 戦場の兵士たちは酔っぱらっているがよい。酩酊で戦意を喪失し故郷を思い出し平和愛好者となる。そして世界に平和が訪れる。

 キリスト教では酒の神をバッカスと呼ぶ。我が家は浄土真宗だが、実のところ、俺はバッカス教信者である。

高戸甚右エ門著「インダスの流れ」201406

著者・発刊に際して

 「私たちは、今恵まれた窮めて便利な生活をしている反面、おもいやりの心がすたれて、

「自分さえ良ければいい」という風潮がみなぎっているが、これは人間社会の貧困そのものではないだろうか。

戦後日本は立派な製品を安い価格で世界に売り出し、めざましい発展をとげているにもかかわらず、「国民そのものに欠陥がある」と米国ハーバード大学のエズラヴォーゲル教授が指摘された通り、日本的考えがどこでも通用するような錯覚が目立つのではないだろうか。毎年沢山の人が海外旅行すると聞くが、海外へ行くにはパスポートが必要でありこれには外務大臣が相手国に対して行路の安全を依頼する文面がついている。ところが日本人であるとの国家意識を持たず、そのような教育を受けず、国策を無視した言論が横行し外国のジャパンパッシングに同調するなど国益を考えない人々が大手を振って歩いている国から出ていくから冷や汗ものであり、一国の繁栄だけを願うものではなく、世界の平和と繁栄を願い、地球の保全と人類の進歩を考えるとき他国の事情を知り、理解することが大切である。

どの民族にも歴史と伝統があり、風俗、習慣、言語が異なるも、それぞれその環境で英知を重ねて生活がなされているのである。

  海外での生活を通して今改めて「豊かさ」とは何なのかと考えさせられるのである。

  二カ年のパキスタンでの生活と歴史の歴史を書きとどめたのは、帰国した昭和三十五年(一九八八)の暮れである。その後、会社に勤務し昭和六三年(一九八八)定年退職しても農業の傍ら公務を持ち多忙のため原稿を死蔵していたが七五才を迎え老人の郷愁から整理をすることにした。

 

  日進月歩は世の常。すでに四〇年を経て、かってのパキスタンは印パ戦争のあと一九七二年一月東パキスタンはバングラデシュとして分離独立し

今日に至っている。パキスタンに於いても首都が「カラチ」から「イスラマバード」に移り、パキスタンも近代国家として繁栄、進歩をしていることであろう。

 一九五九年「チッタゴン(東パ)」からカルカッタに入り領事館で聞いた「ダライラマ亡命」のビッグニュースも昨日のことのように思われ、カルカッタのハウラー駅からブツダガヤ、アグラ、デリー、アムリツアー(インド領)、ラホール(4パキスタン領)への汽車の旅もなつかしい。

ボンベイ、マドラス、スリランカのコロンボやベラデニヤ等も、TVで報道を聞く度に現地での思い出が四〇年前にタイムスリップして、脳裏をかすめる昨今である。  

平成一二年三月