16年04月日記


16年4月30日 土曜日

 パソコンが立ち上がらなくなり、大手パソコン代理店へ行ったら、「パソコン本体が壊れています。直すのに数万円かかります。加えてゴーデンウィーク前なので数週間かかるでしょう」と、言われた。
 CADデータを取り出せない私は、パニックになりながらも36時間不眠不休で働き、なんとか初期設定に戻した。そのあとコンコンと十数時間眠ってから他のパソコン代理店へ行ったら、「このボタンを押せばいいんですよ」と、言われ故障はたちどころに直った。勿論無料だ.
 俺は先の専門店係員が憎らしくなった。専門家であることで、素人をばかにしている。素人をだまして一円でも儲けようとしている輩がいる。でも、なかには素人に味方してくれる奴もいる。そういうことを俺は学んだ。

16年4月28日 木曜日 昨日の一日

 昨日の夕刻、仕事に疲れた私は、いっぷくのうるおいの為、森の中にたたずむ行きつけの某喫茶店へと、車を走らせた。
 店に入ると、出迎えたマスターが「おや? 牧田さん・・・いつもご同伴の美しい女性ときょうは一緒じゃないのですね」と、怪訝な顔をする。
 言われた私の頬は恥ずかしさのあまり桜色に染まってしまった。

16年4月27日 水曜日

 
昨日午前中の来訪者に、「最近のまきさんのブログは短くて暗い」と、言われた。自分でもそう思う。
16年4月26日 火曜日

 四月もそろそろ終わりだ。年度始めのこの一カ月は、あっという間だったような気がする。

6年4月25日 月曜日 無題 

 人と会うことも、どこへ出かけることもなくなり、CADと読書と野球テレビ観戦だけが楽しみとなった人生で、昨日は、古川薫著「神風特攻竜虎隊 君死に給うことなかれ」を読み終えた。
 文中に出てくる「歴史は美化されてはならない」が心に残る。
 
6年4月24日 日曜日 昨晩も明け方にこわい夢をみてしまった 

 昨晩は、生涯学習館三階に十数人が集まってのパネルディスカッション。戦争に従事した兵士体験者がこれからの数年でほぼゼロになるであろう現状下で、何故、体験の内容を若い世代に語ろうとしないのかということに関して、パネラー(72歳男性)は、①思い出すのが嫌、②生き続けているのが死んだ戦友に申し訳ない、の二点を挙げていた。
 聞いている僕は、20歳代の初めに淡路島の国民宿舎で、某老人から聞いた言葉を思い出した。
 彼は非常に温厚な紳士だったが、「わしが日中戦争に従軍していた時、捕まえたチャンコロ四人の首を青龍刀で試し切りした」と、言う。
 ③を付け加えるならば、戦場は全ての人間を狂気にさせるから・・だろう。
 
16年4月23日 土曜日 番茶を飲みながら  
 
 高田宏著「われ山に帰る」の出だしを引用すると
 ・・・大正三年夏にはじまった第一次世界大戦で、銅も鉄も増産につぐ増産だった。海外からの輸入がとまり、それだけでも生産が間に合わない上に、逆に海外交戦国への輸出が増えていった。もちろん価格は上昇する。他産業に増しての戦争景気だった。しかし、鉱山に働く者には、それは労働強化でしかなかった。飯場場頭が荒くれどもを使って鉱夫たちの尻をたたく。疲れはてて、棟割長屋にもどっても、女房子供に口をきくのがおっくうになる。労賃を上げてくれるなら我慢しようが、そんな気配もない。吐け口のない不満がゆっくりと、大量にたまっていった。
 鉱山労働はきつい。採鉱夫、支柱夫、雑役夫、どの仕事もからだを酷使する。佐渡金山の水替無宿たちは罪もないのに捕えられ、江戸から佐渡まで唐九龍で送られて、強制労働のうちに若くして死んでいった。明治になって機械化されたとはいっても、しょせん穴の中のことだ、機械が人間を楽にしてくれるわけではない。事故の危険がなくなったわけでもない。「鉱夫六年、溶鉱八年、(かかあ)ばかりが五十年」は冗談ではなかった。
 明治四十年、足尾銅山で大争議があった。その前の年あたりからうたわれた歌がある。

 金銀銅鉄石炭を
 もしも掘る人世になくば
 文明社会は闇となる
 鉱夫の値打ちはここにある
 これほど尊い労働者を
 豚の住む様な家に入れ
 南京米でこき使い
 果ては解雇かあほらしい
 何の因果か我々は 
 日本に生れて支那の米
 暗き所で働きて
 それでも借金増えてくる
 ドベラが落ちて惨死して
 妻と子供で四人連れ
 二十五円の涙金
 人の命は安いもの

16年4月22日 金曜日 もう週末か 
 
 昨日の朝は市役所で設計入札があり、入札には負けたけれども、「負けるが勝ちが人生だ」と思いつつ、消防署へ。頼まれている某建物の用途変更工事の消防法に関する打合せを終えて外へでると、雨が降っている。
 熊本県は大雨だそうで、頻発地震で建物の耐震性が脆弱になってきているところへ、地滑りの危険性がでてくるとなると、住民の不安感の増大は避けられない。

 消防署から近くの保育所へ車を走らせ、所長としばし会談。外へでると雨は本降りになっている。事務所に戻りテンカスとネギをたっぷり入れた熱々うどんで胃を堪能させたあとは、高田宏著「われ山に帰る」を読み進める。
 一時の時報とともに、某建設業者が来訪。スプリンクラー設置についての諸々を受講した。
 
16年4月21日 木曜日 さらば中古
 
 中古品はダメだ。中古のパソコンから、おさらばすることにした。
 
 それはともかく 参加者募集中

16年4月20日 水曜日 無題

 
きょうの朝、三国土木での打合せを終え事務所の戻り、テレビを点けたら、「徹子の部屋」に、野坂夫人・陽子さんが出てしゃべっている。
 野坂が亡くなって既に五カ月が経過しているが、僕が小説の面白さを知ったのは、彼の著作「エロ事師たち」だった。福井の人は意外と知らないが、人名字典によれば野坂姓は福井に本願があり、彼自身も昭和二十年八月十五日を春江で迎えている。
 大変にシャイな人だったらしく、彼が陽子さんと共に丸谷才一宅へ結婚の媒酌人を頼みに訪れた時のエピソードが丸谷のエッセイに書かれていた。丸谷が「日本一のプレイボーイを自認する貴方が何故結婚をするのか」と問うた時の野坂の答えは「僕は離婚というものをしていない。離婚するためには、結婚せねばならんのです」だったと、いう。

6年4月19日 火曜日 無題

 日々、このブログに書きたいことがたくさんあったのが数年前までの定番だったけれども、近年は明らかに変わってきて、パソコンの前に座っても何にもアタマに浮かんでこない。
 以前より過密なスケヂュールに追い回されているのだから、書くことに不足はないはずなのに、どうしてこうなるんだろう。しばらく考えているうちにわかった(ような気がした)。
 無心がわかってきたのである。五月のゴールデンウイークには永平寺へ行って二泊の参禅を体験し、無心の境地を体得するつもりです。
 舘高重の詩を朗読しあるいはビゼーのアルルの女・「メヌエット」 を中央公民館で練習する若い女性たち。
 

16年4月18日 月曜日 新しい週の始まり
 
 堺屋太一 著「活断層」を二年ほど前に読み終えている。2006年発行の未来予測小説で、舞台は沖縄西南端、人口1万2千人の小島で時代はバブル絶頂期。。この島にCTS(セントラル・タンク・ステーション)建設の使命を帯びた大手商社社員・桐野陽一がやってくる。
 桐野はこの巨大事業で島民が潤うことを信じつつ東奔西走する。初めは三顧の礼で桐野を迎えた村長・村議長はじめ島民たちだったが、徐々に歓迎ムードが変化して、最後には「島の生活と命を守る」CTS反対大決起集会となり、大手マスコミも全国へ報道発信する。

 このうねりをつくったのは、島に流れ着いて生活していた「生態分布調査員・牧」で、実はこの牧は全国の反対運動を暗闇でオルガナイズするプロだったのである。通産省官僚だった著者・堺屋が沖縄に赴任していた時の実話をもとにした小説で、「桐野も牧も、勿論モデルがいる」とあとがきに書いている。

 体制側の(確か、経済企画庁長官をしていたのではないかな?)書いた本だから桐野に好意的ではあるのだが、だからと言って牧を突き放してはいない。牧の「経済成長による利便と引換に人間はかけがえの無い自然と生活することへの尊厳を失っていく」という末尾近くの独白は、今日(こんにち)こそ我々が座右の銘としなければならないのではないか。

16年4月17日 日曜日

 昨晩は、風のうなりが窓外に聞こえ続け、本に集中できなかった。
 益城町を中心とした熊本県の人たちの不安は、これの比ではなかったはずで、熊本県では、今回の一連の地震での死者が40人を超えているという。

16年4月16日 土曜日 もう週末か

 自分が嫌になる。
 携帯電話が作動しなくなったので、ドコモへ持って行った。
 「水にやられたかなにかで、データが破壊されています」と、言われた。要するに、自分の電話帳がなくなったのだ。でも、交遊の幅が狭まったので、その方がいいのかもしれない。

 夕刻に中年女性が現れた。今度、舘高重の詩を朗読する女性のうちのひとり。
 声質に情感をのせて朗読し始めた。僕は目を閉じて聴いていた。
 一生懸命であるということは、いいことだ。
 きょうの午前七時半。
 僕は長畝の某氏宅に居た。約一時間の打合せをすませて外に出た時に、区民館風の建物が目についた。
 玄関脇の看板には「長畝西道場」と書かれている。
 
  
 帰宅し珈琲を飲んでいたところにとんぼさんがやってきて、道場の名の由来を、浅学菲才の僕に詳しく説明してくれた。「今から印牧先生のところへ行ってくる」の言葉を残して、そそくさと出て行った。忙しい人だ。

16年4月15日 金曜日 無題

 高橋・巨人が負け金村・阪神が勝ったのをスポーツニュースで確認し、安堵してから眠りについたのだが、しばらくして就寝前の焼酎ガブ飲みのせいか喉に渇きを覚えた。ベッドから立ち上がり、冷蔵庫から取り出した冷たい牛乳を飲んでいた時に、熊本震度7地震発生を知った。
 テレビ画面では、被災者が「今まで生きてきて大地震の恐ろしさは対岸の火事だとおもっていたが、まさに自分自身のことであることがよくわかった」と、身体を震わせながら話している。
 災害列島に暮らす我々共通の宿命といえる。
 夜明けに変な夢をみた。
 知人に誘われて、アドルフ・ヒトラーの講演会に行った夢だ。彼がナチスの親衛隊に守られながら演台に登場した時点で夢から覚めた。
 冷静になって考えてみるに、エヴァ・ブラウンと共に地下壕で自殺したヒトラーが生きているはずもなく、これは夜更けまで読んでいた逢坂剛の小説の影響に拠るものだろう。

 近頃は、現実と非現実の境目の壁が低くなってきた。当然、生と死が境目で浸潤し合ってきている。

16年4月14日 木曜日 きょうは公民館まわり

 一昨日午後の来訪者・N氏は片手に高級清酒を抱えていた。彼は十年来この季節にこういうスタイルで現われる。初めは何故かわからなかったのだが、後に気が付いた。
 10数年前に彼の自宅を設計した時、建設資金一部銀行借り入れの際の連帯保証人になった。僕としては、建築設計料入手のための承諾にすぎなかったのだが、彼はそれに恩義を感じ、借金完済後も持ってきてくれているのだ。
 彼が帰ったあと、その酒瓶を眺めてから、Kさん(女性)に電話した。やってきたKさんに「高級清酒を預かっていてほしい」と頼んだ。
 高級清酒は、とんぼさんの手料理で、Kさん及びその他有象無象(うぞうむぞう)つまりみんなで一緒に飲むから楽しいのである。
 ところで
 きょうの未明に、不思議な幻覚が僕を襲った。
 第二次世界大戦勃発前夜のヨーロッパでの裏情報取得合戦をコミカルタッチで描いた逢坂剛著「イベリアの雷鳴」を読んでいて、自分がマドリード在住の日本側スパイのような気分に感情移入していたとき、急に、活字が三色に分かれた。カタカナの固有名詞が赤色、年号月日などの数字が青色に変色して見えたのである。それは奇妙に美しい体験だったのだが、近いうちに精神分析を受けたほうがいいのかもしれない。

16年4月13日 水曜日 死ぬまでにもいちど行きたい沖永良部

 一色次郎「青幻記」
「恩田陸の「図書室の海」という短編集の中に「ある映画の記録」という小説がある。この小説の中で、小説のモチーフになっている、ある映画の1場面が切り出されている。 潮が満ちてくる海浜の岩場。そこに取り残された母親と幼い息子。 母親は(病魔に襲われているため)苦しそうに岩にしがみつき、陸に向かって歩いて行くよう子供を説き伏せている。 決して後ろを振り向かずに行けという母親の言葉に従い、子供は迫りくる波から逃れるようにして陸へと歩を進める。ふと後ろを振り返ると、母親のいた岩場は既に白い波で覆われようとしている。そのような情景である。この映画は、一色次郎の小説「青幻記」を原作とする、同名の映画である。この場面に至る背景やその後の顛末が知りたくなり、原作の「青幻記」を探してみたが、残念ながら古本しかないようである。仕方なくネットの古本屋で比較的安価なものを手に入れた。ちなみに、映画の方は見ていないが、DVDはなくて、ビデのみのようである。これも早晩入手困難になるだろう。(もっとも、再生に必要な肝心のビデオデッキがなくなりつつあるが・・・)
青幻記は、沖永良部島を舞台に、幼い時に死別した母親の記憶を辿りながら、今は50歳代であろう主人公が、40年ぶりに、一人故郷の島を訪れる話である。 追憶の旅を行く主人。公の思いと、記憶の底から蘇る幼少期の記憶とが、交錯しながら物語が展開されていく。 主人公も、その母親も、貧しい悲惨な生活をおくっていた。 悲惨な生活の情景が綴られているのだが、決して暗いだけの陰鬱なトーンではない。 作者の筆が淡々としていることと、舞台が南国の海に囲まれた珊瑚礁の島であるせいか、透き通った青色の情景と灰色のトーンの対比が、鮮やかに目に浮かんでくる。既に肺病を病み死期を感じている母親と、その息子が島で過ごしたのは僅か半年であるが、この時期が母親の人生の中で最も幸福な時期であったことが判明する。 感傷に陥りがちなストーリーであるが、作者は感情を抑えた淡々とした筆で物語を展開しており、亡き母親への静かな鎮魂歌になっている。
良い作品だと思うのだが、商業ベースで考えると部数が出ないので廃刊になったものと思われる。流行を先取りするように次々と新刊本が書店に並べられていく中で、(この本に限らず)良書が無くなっていくのは残念なことである。

 と、誰かが評論している一色次郎「青幻記」だが、沖永良部島で暮らしていた時期に僕はこの小説の映画ロケ(監督・高木陽一)を見ている。後年(こうねん)、映画館に足を運び、主人公(田村 高廣)が亡き母(山岡久乃)を回想するシーンは島を囲む青い海やアダン・ガジュマロの熱帯林などの風景とあいまって幻想性が豊かで、早速、原作を求めて図書館へ行ったのだが、確かになかった。
 ところで、皆さんのご来場をお待ちしております
「戦時の父を思う」 

16年4月12日 火曜日 無題
 
 きのうの私の事務所(はなしの館と改名)は千客万来だったが、特に三番目の来訪者には疲れた。個人情報保護の観点から某氏(68歳男性)としておくが、なんせ、午後2時にやってきて7時までの5時間、近現代史についてのしゃべりづくめで帰っていった。話は確かに面白く、考えさせられる諸々があったが、しかし、「雄弁は沈黙のなかにあり」を座右の銘としている私とは気質が明らかに違い、私は「この男では、女性にもてないだろう」と、思った。

16年4月11日 月曜日 今週は雨で始まった
 
 午前5時にCADを終えた。締め切りに間に合ってよかった。図面を持って外にでると、雨が降っている。すごく寒い。天気予報によると、昨日よりも10℃ほど気温が下がるそうで、外出着を新調して正解だ。
16年4月10日 日曜日 葉桜を見上げながら
 
 昨晩、区民館で、「坂ノ下農地環境保全会総会」が開かれ、総会のあとは親睦飲み会となった。
 隣席向い席の面々が、「牧田は変わった。言葉使いが丁寧になり、風貌がおだやかになった」と、くちぐちに言う。残念なのは、自分が一番わからないのが自分自身のことだということ。
 それにしても
 昨晩に引き続いて、きょうの昼も坂ノ下八幡神社境内で飲み会が予定されており、僕は盃で唇を湿らすにとどめるつもりです。
 との決意を持って、神社境内 へ行ったのだが、いざ、酒をすすめられると断ることができない。結局、へべれけになって家路についた。
 
  16年4月9日 土曜日 阪神ついに首位
 
 巨人が負け、阪神がサヨナラ逆転勝ちした翌日つまりきょうのような日は、庭の隅のオープンカフェに置いたチェアに座って、朝の太陽を眺めていれば、その時こそ無心になれて、十分にしあわせである。
 土曜日の午前中は暇なので、社長がペンキ塗り真っ最中のタツカワ古町工場へ行って談笑。
 
 帰ってテレビを点けると、大リーグ・トロントvsレッドソックスの試合をやっている。アナウンサーが、「トロント球場は大リーグで一番早くできたドーム球場」と、言う。
  聞いていて、30年ほど前の春を思い出した。
 カナダ・トロントシテイで、僕は妻と一緒にホームステイを楽しんでいた。ある日、ステイ先のミセスヘイズに誘われてトロント球場へ行った。トロントブルージェイズはスプリングキャンプの真っ最中で、僕の数メートル先を、下駄のような体格の大男たちがのっしのっしと歩いている。
 「日本が太平洋戦争でアメリカに負けたのも仕方ないなあ。マッカーサーが日本の有名女優を囲い者にしたという噂がでたのも仕方ないなあ」と、思ったものだ。
 
 16年4月8日 金曜日 無題
 
 一本の樹にも
流れている血がある
樹の中では血は立ったまま眠っている

どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことはできないだろう

世界が眠ると 言葉が目をさます
あなたに 書物のなかに海がある
心はいつも航海をゆるされる

書物のなかに草原がある
心はいつも旅情を確かめる

書物のなかに町がある
心はいつも出会いを持っている

人生はしばしば
書物の外ですばらしいひびきをたてて
くずれるだろう

だがもう一度
やり直すために
書物の中の家路を帰る

書物は家なき子の旅     
 寺山修司
 きょうの夕刻、舘高重の生家へ赴き、若いころの写真を入手した。
 見たらわかるように
 物憂げで、知的で、それでいて甘い顔立ちは、私の若い頃を彷彿とさせる。
 本番当日には、畳大に拡大したものを、ステージ背面に貼って、来場者に見てもらうつもりです。
16年4月7日 木曜日 今朝は三国土木事務所行きから始まる
 
 四月は人事異動の季節だ。僕は10年間、企業勤めをしていたが、企業は10数人の零細であり、人事異動の経験もないので興味もない。ただ、上司の良し悪しによって部下の士気が上下することをよく聞くので、そのあたり人事担当者は注意していただきたい。
 
 さて、四月一日から、三国土木事務所が、坂井合同庁舎に移った。これはとてもありがたい。家から近くなったし、とんぼさん宅の近くにもなったので、建築法規の内容と歴史の話を時間差なしで聞けるようになったからだ。
 三国土木事務所から帰ってきて一服していたら、ドアがノックされた。
 「また女か・・」と思いきや、現れたのは絵かきの毛利先生。「もう登り坂を歩けんようになってなあ。アトリエまで送ってくれや」と、言う。
 彼は今年で95歳だ。一日一善と思いつつ、オブコースと答えて愛車ケトラの助手席に乗せた。
 「アトリエにちょっと入れや」と、言われるままに入った。
 
 絵心の話を聞かされた。年寄りの話は、くどいけれども面白い。私たち新参年寄りの使命は、古参年寄りの言葉を後世に伝えることだと、思った。 
 
 16年4月6日 水曜日 舘高重略年譜

・1904年(明治37年)10月17日 福井県坂井郡金津町六日区9号五十八番地に舘卯之助の四男として生れる。本名 孝重。家業は肥料雑貨販売・農業。既に二兄は亡く、翌年の六月には生母を亡くす。

・1911年(明治44年)四月 金津尋常高等小学校に入学。

・1913年(大正2年)七月 継母を迎える。

・1915年(大正4年)   長兄を亡くす。

・1919年(大正8年)三月 金津尋常高等小学校高等科を卒業。
            四月 福井県立福井農林学校に入学。

・1922年(大正11年)二月 文芸雑誌「ひとむれ」創刊に同人として参加。
                自らペンネームを「宵月」と号する。

・1923年(大正12年)一月 父を亡くす。
            三月 福井農林学校を卒業。同校助手として勤務。
            五月 北陸詩人協会主催「詩と音楽の夕べ」に参加。
            六月 文芸雑誌「フリジア」創刊に同人として参加。

・1924年(大正13年)四月 岐阜高等農林学校経済科に入学。雑誌部委員となる。
                北寮十九号室に寄宿。のち新加納の青物問屋二階六畳(岐阜市外那珂村新加納 今尾徳三郎方)に下宿。
              蔵書で一杯の書架ふたつあり、許嫁・北島萩子の写真を飾る。寄宿舎で消灯後、蝋燭をつけ読書や勉学に励み「ロウベン」の愛称がつく。この頃尺八を習う。
啄木の影響を受け自作歌集を編むが未刊。

・1925年(大正14年)七月 金津で創刊された文芸雑誌「群集人間」の同人となる。
              岐阜の詩誌や福井の詩誌「果樹園」の同人となる。
              自作詩パンフレット「雪晴」「風と畑」等を発行。

・1926年(大正15年)一月 「群集人間」第七号より編集を担当する。
            六月 詩の家福井支社主催主催「詩展」に出展参加。
                詩誌「點心」(のち「果樹園」と改題)に寄稿。
            七月 卒業論文の資料収集と研究、執筆にとりかかる。   
               この年「群集人間」が二回にわたり発禁処分となる。
・1927年(昭和2年)三月 岐阜高等農林学校経済科を卒業。在岐四年間に地元新聞や文芸誌、校友会誌にかなり多くの作品を発表する。
               第一詩集「感情原形質」を卒業記念と亡父の霊に捧げて出版。B6版/50頁/詩四十編収録/果樹園社発行/序文・馬来田清秋/跋文・多賀圭三郎。
          四月 岐阜高等農林学校経済科助手として約半年間勤務。農業経済学の研究室で主として「土地制度」を研究。
              岐阜市内で、詩集「感情原形質」の出版記念会が開かれる。
         七月 肋膜炎を患う。

・1928年(昭和3年)一月 肋膜炎が快癒。「日本詩選集」(B6版/二一〇頁/箱入/改革詩壇社発行)に萩原朔太郎、北川冬彦、草野心平ら詩人の作品とともに詩三篇が掲載される。
          三月 「群集人間」を詩誌「詩美学」と改題し主宰する。
          四月 北島萩子と結婚するが、同年七月に病気で亡くす。
          十月 第二詩集「爪を眺める」を亡妻に捧げて出版。B6版/三六頁/詩二十七編/詩美学社発行/序文/庄山何堂/跋文/・庄山慎一郎。
          十二月 六日夜「爪を眺める」出版祝賀会/主催・金津詩話会/会場・
               正端寺客間/自作詩の何篇かを朗読する。
               十五日 自宅を会場に親交ある詩歌人の協力を得て「全国詩歌人短冊色紙展」(九百点)を開催。
               城越健次郎詩集「欠伸と涙」を詩美学社より発行。
               この年、笠松一夫の個人誌「瓦版」等に作品を寄稿。
               マッチのラベル千枚収集を思いつき友人に依頼する。
・1929年(昭和4年)一月 詩集「欠伸と涙」出版祝賀会が芦原温泉であり出席。
           二月  病気小康を得て上京、「全詩人連合」に出席。
           三月  俄に症状が悪化し病床につく。加賀温泉で転地療養。
           四月 病気小康を得て各方面に旅行する。
               第三詩集の発刊を計画し「詩美学」三十二号の編集後記に「菊版二00頁位で第一、第二、第三部に分けて愛妻詩編、感情原形質以前、病気以後に区別し全精神をぶちこんだものを作る」と記す。ただし未刊となった。
           五月 また症状が悪化し病床に臥す。夏から秋にかけ転地療養。
           十二月 「詩美学」を「蟲」と改題。通巻三十七号で休刊。

・1930年(昭和5年)     この年、殆ど自宅の病床で詩作、九月より絶対安静

・1931年(昭和6年) 二月 十三日午後七時頃より病状悪化し危篤状態となる。
              翌十四日午前五時五十分に永眠。十六日に仏式で葬儀。享年二十七歳。法名 釈 栄報。教順寺に弔う。
           六月 「舘高重追悼号」が遺影、遺稿九編、追悼記二十七編を掲載して発行される。A5版/三六頁/あしはら詩話会刊/編集代表・城越健次郎。
           七月 舘高重追悼座談会を友人の永井善太郎ら十数名で開催。
 16年4月5日 火曜日 昨日の一日

 先週の土曜日にパソコン(ウインドウズ10)が動かなくなって苦労したので、データーバックアップの必要性を感じ、午前中にパソコンの店へUSBメモリーを買いに行った。36ギガのUSBメモリーが¥1800エンで売られている。以前には考えられなかったほどの信じられない安さだ。私のパソコンのデーターすべてがこれ一本に入ってしまうのだ。

 午後は、とんぼさんと一緒に福井新聞社坂井支局へ。
 「舘 高重を偲ぶ会」の企画意図を詳しく説明した。記者から、「牧田さんの言うとは、やわらかい言葉で言うと、どうなりますか?」と、突然聞かれたので、ドギマギして答えられなかった。
 
 愛
・・・
 いろんな愛がある。人類愛、異性愛、同性愛、家族愛、政治愛、宗教愛、自己愛エトセトラで、これらが微妙に入り混じって個人個人の脳髄に定着しているのだろう。
 
16年4月4日 月曜日  きょうから入歯ポリグリップの生活

 昨晩、テレビのスイッチを点けたら、友川カズキの特集をやっている。

 40年ほど前の冬にフォークシンガー青年(今は故人)から、「うちに越前蟹を食いにこないか」という電話があり、何千円かを持って彼の家へ行ったら、蟹のお膳が六つ用意されていた。座った面々の自己紹介が始まり、1人が「友川です」とぼそっと言う。「うーん、彼が魂の叫びで有名なあの友川か」と、僕は感動し歌ってくれることを期待したのだが、「越前ガニ美味しいです」と呟くのにとどまった。
 その時「意外とシャイなんや」と、思ったものだが、昨晩、テレビをみていて、ちょっと違うことがわかった。
 秋田なまりが強いので、グラス五杯くらい飲まないとしゃべれないし歌えないらしい。げに、酒は文化発展の土台なのである。
 山本一力の「菜の花かんざし」を夜明け前に嗚咽をこらえながら読み終えた。
 剣法指南役の武士・晋作は、町屋の娘・柚木乃を妻に迎え、真之介、かえでの二人の子を設けた。家族四人は幸せに暮らしていたが、突然、お家騒動が持ち上がり、晋作は、家存続のために四人が従容として死に着くことを言い含める。しかし、柚木乃は夜叉のようになって、「こどもを死なせるわけにはいかない」と、晋作をなじる。 結局、晋作は三人を逃がす決意に至るのだが、柚木乃は別れの際に自分自身の心の底にあるものに気づくのである。
 生産性を持たない武家社会のなかで生きることの矛盾がちりばめられている小説だ。
 それに感動する私の中にも、もしかしたら武士の血が流れているのかもしれない。
   
6年4月3日 日曜日 桜
 ノートパソコンが動かなくなってしまって、今朝は福井市のパソコン代理店まで出張。係員に苦情を訴えて、二時間の(のち)、やっと復旧した。
 帰途、伊井工業団地に寄った。満開の桜並木を見たかったからだ。
 
 ついでに「タツカワ」社長に会おうと思い電話を掛けたら、「今、古町にいてペンキを塗っている」という。古町へ行くと、彼の体はペンキだらけになっていた。

 6年4月2日 土曜日 きょうは土曜日
 きょうは朝一番で、山口峰雄氏宅へ。
 彼は元あわら市議で、名前はご存知の方もいるだろう。実は、彼の奥さんの実家が舘家の末裔なのであ
6年4月1日 金曜日 無題

 昨日の朝は、アクシデントに見舞われた。
 調べたいことがあって愛車ケトラを宇根観音堂へ走らせたのだが、さらに山奥に入り込み、Uターンを試みたところ、車下部のガソリンタンクが丸太の上に乗り上げ動かなくなってしまった。同乗者と二人で丸太を引き抜こうとしたのだが、私の手足はマヒ気味だし、同乗者は80歳前の老人なので、とてもおぼつかない。山中(さんちゅう)は人っ子一人見えず、時折、傍らの藪がガサガサと動く。
 次第に不安がこみあげてきた。勿論、熊だ。冬眠から目を覚ました空腹熊が目の前に現われたらどうしよう、との恐怖におののいていた。

 途方に暮れていたところへ二台の軽トラが現われ、ジャッキを使いバルを使っての4人共同作業でなんとか窮地を脱したが、畝市野々地区の人たちの優しさに感謝感激。