雷電 爲右エ門(為右衛門) |
197cm |
172kg |
44.32 |
浦風部屋 |
突っ張り、寄り |
成績 |
引退 |
西大関 |
254勝10敗2分14預5無41休 (35場所) |
優勝相当成績28回 |
データ |
1789年7月場所(大坂)
1790年11月場所(江戸・関脇付出) |
1811年2月場所 |
雷電 爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん、明和4年(1767年)1月 - 文政8年2月11日(1825年3月30日)は、信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市)出身の元大相撲力士。
現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10・勝率.962で、大相撲史上未曾有の最強力士とされている。
1767年に信濃国の豪農関家に生まれた。幼名を太郎吉(または樽吉)という。幼少期から巨体・怪力にまつわる様々な伝説が残り、例えばある時碓氷峠を荷馬を引いて歩いていた時に正面から大名行列がやってきたが、道が狭いために避けたり戻ることが出来なかったため、やむを得ず荷馬を担ぎ上げて大名行列を通したという。やがて、相撲好きだった隣村の上原源吾右衛門の目にとまり、上原の私塾で相撲のほか読み書き・算盤の指導を受けた。
1784年に地元・信濃国に巡業として来ていた浦風林右エ門に見出され、浦風とともに江戸へ向かう。江戸では当時の第一人者だった谷風梶之助の預り弟子となり、初土俵までの6年間を谷風の元で過ごす。この間に将来の有望性を見込まれ、松江藩藩主松平治郷の抱え力士となる。初土俵前から士分への抱え上げは異例だった。初期の禄は「切米8石3人扶持」と伝わる。
「雷電」はもともと雲州ゆかりの名前で、雲州力士の先達としては雷電爲五郎が存在する。
雷電が本場所に登場したのは、大坂相撲が1789年7月場所(全休)、江戸相撲では1790年11月場所で、江戸相撲ではいきなり西方関脇付け出しで初土俵を踏んだ。松平家の影響力とされているが、同じ雲州抱え力士の柏戸勘太夫(小結)より上位に置かれたことを考えれば、雷電に対する期待度の高さが伺える。
江戸相撲では小野川喜三郎と熱戦を繰り広げて預かりとなる[1]など強者ぶりを発揮し、この場所では8勝2預(優勝相当成績)の好成績を記録した。これ以降、三都で桁外れの強さを見せ、対戦力士を圧倒した。
江戸相撲では、1793年11月場所から約7年に渡って出場した11場所全てで優勝相当成績を記録するなど、無類の強さを発揮した。その後も引退までに出場した場所で7連続・9連続で優勝相当成績を記録し、通算では28回を数える。年2場所制の当時でこの記録を上回る者はついに現れず、年6場所制となった2015年7月現在でも白鵬翔(37回・現役)、大鵬幸喜(32回)と千代の富士貢(31回)の3人が上回っただけである。全勝7回は年2場所制で双葉山定次(8回)、年6場所制の2013年現在でも大鵬幸喜(8回)と白鵬翔(11回・現役)が上回っただけで、北の湖敏満と千代の富士貢(ともに7回)も追い付いたものの抜くことは出来なかった。連覇記録は朝青龍明徳と白鵬翔(現役)の7連覇をも上回っている。
雷電が現役時代に喫した黒星は僅かに10、他に上覧相撲での1敗がある。その詳細を以下に記す。
勝利力士 |
場所 |
勝利力士の
当時の番付 |
勝利力士の
最高位 |
対雷電戦
通算成績 |
備考 |
陣幕嶋之助 |
1791年6月(上覧相撲) |
東関脇 |
大関 |
(1勝)6敗1預 |
同年4月場所を中断しての上覧相撲
(当時は本場所以上の「公式戦」だった) |
梶ヶ濱力右エ門 |
1791年4月場所5日目 |
東前頭4枚目 |
前頭4枚目 |
1勝1敗 |
4月場所は雨天順延と上覧相撲による中断で、7月まで日程がずれた。
雷電の本場所初黒星だが、時期的には陣幕に次ぐものとなった。 |
市野上浅右エ門 |
1793年3月場所8日目 |
東二段目筆頭 |
大関 |
2勝3敗1預 |
四股名は常山五郎吉
二段目筆頭は現在なら十両、当時の幕内人数の少なさと完全東西制を思えば、幕内中位に相当する。 |
1797年3月場所7日目 |
東前頭2枚目 |
同上 |
同上 |
四股名は花頂山五郎吉、雷電に唯一連勝した力士。 |
鯱和三郎 |
1800年10月場所初日 |
東二段目3枚目 |
前頭3枚目 |
1勝3敗 |
二段目3枚目は現在なら十両、雷電の最多連勝を44で止める。 |
柏戸宗五郎 |
1804年10月場所5日目 |
東小結 |
大関 |
1勝5敗1分2預3無 |
|
春日山鹿右衛門 |
1805年10月場所6日目 |
東前頭筆頭 |
小結 |
1勝10敗 |
前名を大綱、その名で8連敗の後、春日山に改名して破る。 |
音羽山峰右エ門 |
1806年2月場所4日目 |
東前頭4枚目 |
前頭3枚目 |
1勝6敗 |
|
鏡岩濱之助 |
1808年10月場所4日目 |
東前頭3枚目 |
小結 |
1勝9敗 |
雷電最後の皆勤場所で最後の白星を献上。 |
立神盤右エ門 |
1809年10月場所3日目 |
東前頭7枚目 |
関脇 |
1勝1敗 |
|
江戸ヶ崎源弥 |
1810年10月場所5日目 |
東前頭筆頭 |
関脇 |
1勝11敗2預 |
|
雷電に勝利した力士はそれだけでも大相撲史に名を残したと言えるが、陣幕・市野上・柏戸の名が高い。上覧相撲での陣幕は立ち合いから一気の喉輪攻めだったと伝わり、記録に残る限りでは雷電をそこまで正攻法で破った力士は他にいない。初土俵から2場所目での上覧相撲で雷電に緊張があったのではないかとの意見も強いが、平幕や幕下力士相手への取り零しではなく、三役同士での敗戦は柏戸と陣幕だけである。
柏戸は雷電との対戦が12回、よく渡り合って好敵手の筆頭として挙げられる。この雷電 - 柏戸の取組は江戸庶民にも大変な人気を博し、何を質に入れても見物に行くとまで言われたほどである。雷電最後の土俵では、雷電に二つしかない「分」(もう一つは勢見山兵右エ門)も記録している。雷電と優勝同点も記録、違う時代なら横綱昇進の可能性もあった実力派大関の一人である。
常山・花頂山と名乗っていた時代に勝利した市野上も、幕下時代の初顔合わせだけなら大番狂わせの主役で終わっていたが、のちに入幕して雷電に連勝した唯一の力士となる。見方を変えれば、寛政3年冬場所から同12年春場所まで9年間、雷電は彼にしか負けていない。彼への2敗を挟んで雷電は19連勝、43連勝、44連勝を記録。
ニュース速報
今入った情報によると、東山地区在住のY氏があわら市議選に名乗りを上げたとのこと。