17年04月日記

2017/4/30

 このところ連日のように達川氏から写真入りメールが送られてくる。野菜づくり進捗状況の報告だ。農業は国の維持の根幹であり、若い人(彼は僕より数歳下)が懸命になるのはいいことだ。電話で「山羊を生育する」とも、言っていた。


2017/4/28 阪神が勝って巨人が負けた日は心が躍る

 オープンカフェに椅子を置いた。月夜に炭酸水で割ったウイスキーグラスを持って座る。真夜中であっても社会は動いていて、カフェ横の坂道を車が通り過ぎていく。カフェに植えられた樹々に茂った葉の緑が濃厚だ。
 目をつむると風のささやきが聞こえる。どこかで犬が遠吠えしている。
   

西暦 17年4月27日 木曜日

 薬と摂生生活(節煙・節酒)の甲斐あって、右眼の視力が回復してきた。まだ完全とは言えないが、お岩さん的おどろおどろしさは消え、来訪者の前で眼帯をとることができるようになった。何よりも本を普通に読めるのが嬉しい。
 

西暦 17年4月26日 水曜日

 去年、金津高校前でビラまきをした時、高校生たちが折り目正しく、内容について質問してくる子も居たのにおどろいた。
 さて
 18歳以上が有権者となった現在、今回のあわら市議選でも若い人たちが投票する。しかし連呼選挙だけでは誰に入れていいのかわからないのが実情のはずだ。
 
 誰かが音頭を取って立候補者を同じテーブルに集め、個々にあわら市の未来に対するビジョンを語らせるべきだ。勿論、立候補者のうちのどれだけが参加するかはわからないが、不参加者はビジョンの無さあるいは弁舌力の無さという烙印を押されることになる。

 佐藤愛子著「九十歳 何がめでたい」を読んでいるところへ、年増女(推定年齢七十三歳)が現われて、「あら・・私への当てつけ?」と、言う。
 「漢詩を楽しむ会をつくろうよ」と力説して帰っていった。

西暦 17年4月25日 火曜日
 
 椎名誠著「かえっていく場所」を読み終えた。息子・娘が自立してアメリカに移住し、妻が鬱病に悩むという家族状況のなかで、彼の眼の眼の先には確かに「死」がある。バカ作家としての彼を吸い込まれるように楽しんできた僕には彼の変貌が重くのしかかる。

 西暦 17年4月23日 日曜日 昨日の続き

 夕刻にじっとモルトウイスキーを眺めているところへ、とんぼさんがおすそ分けのおさえを持って来訪。当然のことながら二人でのモルト宴会となった。
 話題はY君の困難を乗り越えての真摯な生き方について。
 悲しみを胸の奥底に秘めた人にこそ人間的魅力があると思う。

 感想
 モルトスコッチウイスキーの癖のある味は、僕を一瞬に魅了した。それは妻ひとすじの僕が仮に別の女性に心を動かされた瞬間のようでもあった。
 
 高橋義夫著「佐々木小次郎」を読み終えた。小次郎の生きた時代は元和偃武からさほど遠からず戦国の遺風がまだ残っていて、各地に浪人武辺者が跋扈し切り合いを重ねるという時代だった。
 昔NHKの大河ドラマを見たせいか、宮本武蔵=正・佐々木小次郎=邪という図式が僕の頭のなかにこびりついていたが、高橋の著書では、それがまるで違う。越前国朝倉家の家臣という出自に、郷土愛という僻目もあったのかもしれない。丁寧に丁寧に一晩かけて読みつくした。

 西暦 17年4月22日 土曜日
 
 昨日の昼に東京近県からやってきた中高同級生・Y君のお土産は。高級モルトウイスキー。


西暦 17年4月21日 金曜日 無題

 昨日の朝一番で三国土木事務所へ車で行った。
 早朝で靄が立ち込めていて、眼帯人間としては視野確保のためにライトをつけて走った。打合せを終え、駐車場に戻り車のキーをまわしたが、ウンともスーとも言わない。ライトをつけたままだったのでバッテリーがきれてしまったのである。

 親切なとんぼさんに来てもらったのだが、バッテリーコードで接続してもやはりウンともスーとも言わない。仕方なく行きつけの自動車工場へ行った。「コードが断線している」と、言われた。そこで借りたコードを利用してようやく事なきを得た。

 西暦 17年4月20日 木曜日 一行日記

 きょうはすごく忙しくなりそう。


 西暦 17年4月19日 水曜日

 日野啓三著「天池」を読み終えた。

 男は水際の砂漠に立っていた。
風はないのに水際にはひっそりと
漣が寄せている。
異常なほど透明な水。
だが湖の表面は
両側の山陰部分だけを除いて
一面赤っぽい黄色に
ほとんど金色に染まっている。
その光のきらめきの中に
女は後姿だけ見せていた。
肩の広い長身の後姿が、
影絵のように水から浮き出している。

 女がいまここに
連れてきてくれたことよりも、
前もって何も話さなかったことに、
そしていまも黙って離れていることに、
男は女の配慮を、
彼女もこの世のものならぬこの光景を
大切に思っていることを感じた。
魂が不意に真空に晒される思いだ。

 知覚だけが異様に冴えて、
感情の領域より一段下、
普段は静まり返っている体の芯に近い
暗い領域がひとりでに輝いて
自然に体が内側から開いてくる。  (本文から)


西暦 17年4月18日 火曜日 無題


 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 
      衣干すてふ  天の香具山   持統天皇


 春の雨はせつない。
 長い冬も終焉を迎え草花が芽吹き始めて何となく生暖かくなってきたころの季節。まだ空が低く、抜けるような青空が突然広がるこの季節が一番好きだった。
 就寝前と起床後の数時間を読書時間に充てている自分だが、読書を苦痛と感じることが頻回にある。脳の老化によって文脈をたどる力が衰えていることもあるのだが、それよりも視力の衰えていることが主な原因だと僕は考える。本を読めなくなることは人生の生き甲斐をなくすことなので、眼科へ受診に行ってこよう。
 「ハメマラ」・・古人はうまいこと言ったものだ。

 ということで.眼科受診から帰ってきた。「右眼が眼底出血している。そして、視力検査で右眼の視力が出てこない」と、言われた。
 昨晩にユーチューブで「伊達政宗の一生」をみていたので、そうすると俺も独眼竜となるやもしれぬ。もしそうなったら、ジーンズファッションで黒い眼帯をして歩こう。あわら市内の女性のあいだで噂となること必至だ。それも又格好いいだろう。


 西暦 17年4月17日 月曜日
 
 読んだことのなかった山田風太郎(1992年-2001年)の著書「室町少年倶楽部」も終わりに近づいている。
 エログロナンセンスを含めて守備範囲の広いこの作家は、晩年に「毎日ウイスキーボトルの1/3を飲んでいるからアル中ハイマーや」と語っているが、「であるとするなら1/2の僕は濃縮アル中ではないか、脳内バランスが崩れるのも仕方ないではないか」と、悲嘆するのである。
 「米国精神医学会「精神科医が自ら診察していない公的人物の精神状態について意見を述べるのは非倫理的だ」とする規定を設けている。しかし、この投書の後、「危険性について認識しながら、沈黙しているのは逆に倫理に反する」として多くの精神医療の専門家(精神科医、臨床心理学者、ソーシャルワーカーなどを含む)が立ち上がり、トランプ大統領の解任を求める運動に加わっている。彼らが口を揃えて指摘するのは、「現実と空想の区別がつかない妄想症で、サイコパス(反社会性人格障害)の人物が核のボタンを握っていることの怖さ」である。」との記事をインターネットで読んだ時、脳裏をかすめたのは、足利八代将軍・義政である。
 
 天下の悪妻と噂された日野富子を妻に持った彼は政治に嫌気がさし、さっさと将軍職を投げうち隠遁したあと、東山文化の育成に天賦の才を発揮。銀閣寺、枯山水、茶道、連歌など伝統的日本文化の(いしずえ)をつくったと言える。要するに「餅は餅屋」だろう。

西暦 17年4月16日 日曜日 


 きょうは春爛漫の日曜日で、いろんなところから「参加してほしい」との依頼を受けているが、身はひとつしかなく、どこかへ行けばどこかへ行けないということになる。こういう場合、結論を出すのがむつかしい。

 結果としてどこへも出かけずに、TVで阪神vs広島を見ていた。2:1で阪神が勝ったのできょうはいい一日だった。

西暦 17年4月15日 土曜日 阪神タイガース調子良しだけど今日は負けた

 6月のあわら市議選を目前にして、山川知一郎現職市議の選挙事務所が、偶然にも僕の自宅前にできあがった。僕は今回の選挙において、旧金津町在住の新人女性立候補予定者を応援していて、山川氏を応援はしないが、理詰めでしゃべれる数少ない現職市議の彼にも、是非当選してほしいと思う者である。

 しかしながら今回の選挙では、旧芦原町が無風地区であるのに対して、旧金津町の町内(まちうち)が4名程オーバーになるだろうと噂されている。要するに私の自宅周辺も草刈り場になる様相だ。これでいい。地区推薦ではなく、出たい人が自分の信条をメッセージするその力量を競うことが選挙の原点だ。

 というようなことを、先程来訪した80歳老人が持って来た清酒を飲みながら考えている。

 西暦 17年4月14日 金曜日 無題

 「千葉県我孫子市で小学3年の少女の遺体が見つかった事件で、死体遺棄容疑で逮捕された男は、少女が通っていた保護者会の会長だったことが14日、周辺の住民への取材でわかった」とのニュースが午前中に流れた。

 僕も20年近く前に会長をやっていたが、異性としての眼はお母さん方に注がれこそすれ、子供たちに向うということは断じて無かったがなあ。

西暦 17年4月13日 木曜日 
 室積光著「記念試合」を読み終えた。
 きょうの午後一番に、注文していたハズキルーペが届いた。これは老眼鏡ではなく、眼鏡型のルーペである。早速近くをドライブしたのだが、今まで不鮮明だった外界が不思議なほどにはっきりと見える。余生の友となるだろう。
西暦 17年4月12日 水曜日
 昨日の蕎麦は美味かった
 
 昨晩は、事務所に5人が集まった。精神障害に関する質疑応答の会議で、ひなた工房所長のT氏がしゃべりの中心となった。
 若い人の間に精神障害者が増えているという。僕には、昔から障害者と正常者の境界がよくわからないのだが、それはともかく随分増えているという。
 考えさせられる会議だった。
 きのうは午前11時から午後2時までとても充実した時間帯だった。
 

西暦 17年4月11日 火曜日 無題
 何を言っているのか僕には殆ど全然わからない。ただ眺めるだけだが、眺め続けていると神秘の世界に入っていくようで刺激的。
 
 ホーキング宇宙を語る
 境界が存在しないことは、虚時間においては、物理法則が宇宙の状態を一つに決めることを意味する。
 だがもし虚時間における宇宙の状態がわかれば依然として一種のビッグバン特異点が存在すると予想される。
 実時間においては依然として始まりがあることになる。だが、宇宙がどうやって始まったかについて、宇宙の外の何者かの助けを借りる必要はない。どうやって宇宙がビッグバンから始まったかは虚時間における宇宙の状態により決定されるのだ。したがって宇宙は完全に自己完結した系になる。
 伝統的な世界像では、物質は明確な唯一の経路を運動し、歴史を持っており時間の瞬間、瞬間に於いて正確な位置が決まっていることになっている。確かに、このような考えは日常の生活に十分うまく合致しているが、1920年代に、この『古典的な』描像では原子やそれより小さなミクロの世界で起こっている奇妙なふるまいをうまく説明できないことが分かった。代わりに、量子物理学と呼ばれる異なった枠組みを採用することが必要だった。
 量子論はきわめて正確に、ミクロの世界を記述できることが分かった。
 デモクリトスは物質をどんどん小さく切っていったらどうなるかを考えた。彼は、細かくしていくプロセスを無限に続けることはできないはずだと考えた。そして、すべての生物を含むあらゆるものはそれ以上分解できないような基本的な粒子から構成されているはずだという仮設を唱えた。
 エピクロス(BC341~270)は、「自然哲学者の運命の奴隷となるよりは神話に従ったほうがましだ」という考えをもとに、原子論に反対した。アリストテレスもまた、人間が魂のない無生物的な物質でできていることを受け入れられなかったため、原子の概念を否定した。宇宙は人間中心ではないというイオニアの考え方は見捨てられ、しばらくはとりあげられることもなく、一般にも受け入れられなかった。その考えが再度注目されたのは、20世紀後のガリレオ・ガリレイ(1564~1642)の登場後のことである。
 アリストテレス「物体は休息できる本来の位置に近づくにつれてより歓喜して進む、すなわち加速する」
 アレキサンダー・ホープ
自然と自然の法則は夜の闇によこたわっていた神は言い給うた、「ニュートンあれ!」
 そしてすべては光の中に現れた。

たとえば、活動中の脳の手術を受けている患者の症例では、脳の適切な領域に電気刺激を与えることによって、患者に手足を動かしたり、あるいは口を動かして話をしたいという欲求を生み出せたりすることが分かっている。
 人間の行動は実際には自然法則によって決められていると認める一方で、その結果は非常に複雑な方法で決められ、そして多くの変数を含むため、現実的には未来を予言することなど不可能である、と結論づけるのが妥当である。
 というのも、人間の行動を予言するには、人体にある10の27乗もの分子の初期条件をおく必要があり、さらにそれと同等数程度の方程式を解かなくてはならないからである。
 数年前、イタリアの都市モンツアの市議会はペットショップの店主に対し、金魚を丸い金魚鉢に入れて飼うことを禁止した。
 その議案を提出した市議は、その根拠として、金魚鉢に入った金魚には外の世界がゆがんだものに映ってしまうので、金魚にとって残酷である、という点を挙げました。
 しかし、私達は、眼に映る世界がゆがめられたものでないということをどうやって知り得るのでしょうか?私達は大きな金魚鉢のようなものの中にいるのかもしれませんし、巨大なレンズが私達の見るものをゆがめているかもしれません。金魚が見ている世界は私達が見ている世界とは違いますが、その世界が私達のものより現実的ではないと断言できるのでしょうか?
 金魚の見ている世界は私達の見ている世界と同じではありません。しかし金魚だって、金魚鉢の外で動いている物体を観察することで、物理法則を組み立てることはできるでしょう。もちろん、金魚鉢のゆがみのせいで、私達から見れば直線に沿って動いている物体も、金魚から見れば曲線に沿って動いているように見えるでしょう。それでも金魚は、それをもとに金魚鉢の外にある物体の運動を予測でき、常に正しい物理法則を彼らのゆがめられた視点から組み立てることができます。彼らの物理法則は私達の物理法則より複雑なものになるでしょうが、単純か複雑かは感覚の問題です。仮に、ある金魚がそのような理論を組み立てたとしたら、その金魚の視点が現実を正しく反映したものであることを私達は認めなければなりません。
現実を異なった視点から見ている例としては、プトレマイオス(85~165年)によって 150年頃に提唱された、天体の運動を記述するモデルが有名です。彼のモデルは「アルマゲスト」というアラビア語の標題で知られた、13編の論文にまとめられています。アルマゲストは、地球が宇宙の中心に位置する動かない球体で、その大きさは天上界までの距離と比べて非常に小さいと考えられる根拠を述べるところから始まります。この説は、アリスタルコスによって太陽を中心と考える説と違って、少なくともアリストテレスの時代から、多くの教養のあるギリシャ人に支持されてきました。アリストテレスも、その根拠は不可解なものでしたが、地球は宇宙の中心にあるべきだという考えを持っていました。

西暦 17年4月10日 月曜日 無題

 
 近所の満開桜

西暦 17年4月8日 土曜日 休日突入

 今朝、墓参の帰りに高台から金津市街地を見下ろすと桜が満開だ。一日にして風景が一変した。そういえば、明日は八幡神社境内で八幡会の花見の宴が予定されている。
 姜尚中著「悩む力」読了。
 在日故の被差別のなかで育ったこの男に興味を持つのは、僕自身の友人知人に在日が多いせいでしかし彼等は言葉が断片的で、やっぱし姜のようなインテリ政治学者の出版本の字面に魂の奥底を読むしかないと思ったからである。
 彼はこの本で、夏目漱石とマックス・ウエーバーを引き合いに出しながら近代人の苦悩を克明に描いていた。
 

西暦 17年4月7日 金曜日 もう週末か

 
雨の日の朝の散歩。足元を水滴が流れていく。

一家
(ひとつや)
に 遊女もねたり 萩と月

五月雨を 集て涼し 最上川
むざんやな 冑の下の きりぎりす
百年の 景色を庭の 落ち葉かな
山路来て なにやらゆかし すみれ草
塚も動け 我が泣く声は 秋の風
月さびよ 明智が妻の 話せん
名月や 座に美しき 顔もなし  芭蕉

 30年程前、(いにしえ)の歌や句を眺めるのが好きだった時期が数年間あって、その時に自分も句をつくろうと思いたち、墨汁と筆を買ってきた。しかし一句もつくることができなかった。どうやらこれには天賦の才が必要だ。
 しかし、年を取って物忘れがひどくなってきても、覚えこんだ句や歌を忘れることは決してない。日本古来の短詩には凝縮の力があるのだろう。

西暦 17年4月6日 木曜日 無題

 藤沢周平著「密謀」読了。
 上杉藩主・景勝と名参謀・直江兼続の関ケ原前後の動きを描いた525頁の長編で、これだけ厚い本になるとベッドに寝転んで読むには重すぎて手が痛くなる。よって、机の上の書見台に本を乗せて読破した。正しい姿勢で読んだことで気分が凛とした。

 今朝早く、福井市の語り部・Yさんから電話がかかってきて、「大岡信が亡くなりましたね」と言う。私は朝日新聞の「折々の歌」で故人の文章に親しんできたが、思い出すのは他のところにある。

西暦 17年4月5日 水曜日 38cm


 30年程前、横浜伊勢佐木町の某ビルにカンヅメとなって「可能力開発講座」なるものを受けたことがある。鬱気味妄想気味など脳内バランスに異常が出ている男女が集まり、6人一組でフリートークを重ねるというものだった。
 僕らのグループ紅一点は旭川在住の女性で、彼女は「動物園でシマウマを見て、シマが黒をさすのか黄をさすのかどっちかしら?の疑問が出てから安眠できなくなり、鬱状態に陥ったのよ」と言っていたが、彼女のその後の消息はわからない。
 そう言えば、某ゴルフ場社長の用心棒もいて(身長190cmの巨漢)、893との抗争を語ってくれた。多少の誇張はあったのだろうが、充分に面白かった。
 僕も負けじと、福井駅前中央公園での真夏の夜のできごとを、身振りたっぷりにしゃべってやんやの喝采を浴びたのである。
 
 今頃、みんなどこで何をしてるんだろう。


西暦 17年4月4日 火曜日


 DVDで見た半藤一利編「日本の一番長い夏」

 昭和38年の夏、文芸春秋社主催で、昭和20年8月に政府の要職に就いていた者、戦争の最前線で命を賭して戦っていた者、特攻を志願した者、銃後の兵士だった者エトセトラ総計38人が集まった。そして、彼ら彼女らの肉声は私の耳を撃った。

 当時の書記官長・迫水久常によれば昭和20年7月26日に英・米・中の首脳がポツダムに集まり、いわゆるポツダム宣言(日本の無条件降伏勧告)が発せられた。それまで、佐藤尚武ソ連駐在大使を通してソ連を仲介とする和解工作を模索していた日本首脳にとってこれは寝耳に水。そしてこの情報は国民の誰一人にも知らされることがなかった。

 時の戦争指導者会議のメンバーは6人。米内、東郷、鈴木の三人が宣言受諾を主張したが、阿南、梅津、豊田つまり軍人側の3人が天皇制護持を目指し本土決戦を主張。会議は混乱に混乱を重ねた。8月14日の御前会議による昭和天皇の御聖断まで受諾はずるずるっと延びてしまい、その間に広島、長崎へ原爆が投下されたのである。

 8月7日(だったかな?)、佐藤ソ連駐在大使は外相モロトフに呼び出され、宣戦布告書を手渡される。そして8月9日にソ連軍が満州へ侵攻してきたのである。ぼくはソ連国民をナターシャ以外誰も知らないが、国家としてのソ連はどうしようもないと思う。

 いろんな発言のなかで印象に残ったもののひとつが、沖縄戦で白梅部隊にいた楠さんの証言。
米軍の砲火攻勢が強まった昭和20年6月。彼女が所属していた部隊の長から「もうあかん。わしら帝国陸軍兵士は既に玉砕を心に決めたが、おまえら看護兵は家へ帰れ。生き残って結婚して立派な日本人を産んでくれ」と言われ、彼女は親友とふたりで部隊をあとにする。沖縄南部の地で米軍砲火をかいくぐりながら逃げ惑うふたりの前に陸軍兵士5人が突然現われる。

 「兵隊さん、私たちを連れて行ってください」と懇願し、計7人は行動を共にするのだが、行く手に米軍部隊が現われた。5人は四散し、亜熱帯のジャングルに逃げ込む。しかし彼女らふたりは女の身なので、逃げ足が遅い。しかたなく手榴弾を手にして自決を図るのだが、起爆操作がうまくいかないちに米軍に捕まってしまう(正確には、捕虜となった)。彼女たちが米軍トラックに乗せられようとしたその刹那、陸軍兵士5人が日本刀を抜いて切り込んできた。そして彼ら5人は彼女達の数メートル目の前で米軍火器により、頭を飛ばされ、胴体を分かたれ、全身血だるまとなって息絶える。

 要するに5人の兵士は、拉致されようとする彼女らを救おうとして、身を粉にしたのだった


西暦 17年4月3日 月曜日 無題

 きょうこそ、三国土木事務所へ行ってこよう。
 と思っているのだが、書類整理が煩雑でなかなか進捗しない。ま、これが人生というものだろう。
西暦 17年4月2日 日曜日 わやわやの日曜日  
ええっと・・
 昔からそうだが、阪神が負けて巨人が勝った翌日は、疲労感が募って頭がからっぽになってしまうのだ。 こういう時、僕は日本のもうひとつの国技・大相撲に思いを馳せる。
 
 栃若時代から大相撲ファンになったが、僕の心酔する力士は
 
雷電爲右エ門 『ウィキペディア』より抜粋
雷電 爲右エ門(為右衛門)
197cm
172kg
44.32
浦風部屋
突っ張り、寄り
成績
引退
西大関
254勝10敗2分14預5無41休 (35場所)
優勝相当成績28回
データ
1789年7月場所(大坂)
1790年11月場所(江戸・関脇付出)
1811年2月場所

雷電 爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん、明和4年(1767年)1月 - 文政8年2月11日(1825年3月30日)は、信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市)出身の元大相撲力士。

現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10・勝率.962で、大相撲史上未曾有の最強力士とされている。

1767年に信濃国の豪農関家に生まれた。幼名を太郎吉(または樽吉)という。幼少期から巨体・怪力にまつわる様々な伝説が残り、例えばある時碓氷峠を荷馬を引いて歩いていた時に正面から大名行列がやってきたが、道が狭いために避けたり戻ることが出来なかったため、やむを得ず荷馬を担ぎ上げて大名行列を通したという。やがて、相撲好きだった隣村の上原源吾右衛門の目にとまり、上原の私塾で相撲のほか読み書き・算盤の指導を受けた。

1784年に地元・信濃国に巡業として来ていた浦風林右エ門に見出され、浦風とともに江戸へ向かう。江戸では当時の第一人者だった谷風梶之助の預り弟子となり、初土俵までの6年間を谷風の元で過ごす。この間に将来の有望性を見込まれ、松江藩藩主松平治郷の抱え力士となる。初土俵前から士分への抱え上げは異例だった。初期の禄は「切米8石3人扶持」と伝わる。

「雷電」はもともと雲州ゆかりの名前で、雲州力士の先達としては雷電爲五郎が存在する。

雷電が本場所に登場したのは、大坂相撲が1789年7月場所(全休)、江戸相撲では1790年11月場所で、江戸相撲ではいきなり西方関脇付け出しで初土俵を踏んだ。松平家の影響力とされているが、同じ雲州抱え力士の柏戸勘太夫(小結)より上位に置かれたことを考えれば、雷電に対する期待度の高さが伺える。

江戸相撲では小野川喜三郎と熱戦を繰り広げて預かりとなる[1]など強者ぶりを発揮し、この場所では8勝2預(優勝相当成績)の好成績を記録した。これ以降、三都で桁外れの強さを見せ、対戦力士を圧倒した。

江戸相撲では、1793年11月場所から約7年に渡って出場した11場所全てで優勝相当成績を記録するなど、無類の強さを発揮した。その後も引退までに出場した場所で7連続・9連続で優勝相当成績を記録し、通算では28回を数える。年2場所制の当時でこの記録を上回る者はついに現れず、年6場所制となった2015年7月現在でも白鵬翔(37回・現役)、大鵬幸喜(32回)と千代の富士貢(31回)の3人が上回っただけである。全勝7回は年2場所制で双葉山定次(8回)、年6場所制の2013年現在でも大鵬幸喜(8回)と白鵬翔(11回・現役)が上回っただけで、北の湖敏満と千代の富士貢(ともに7回)も追い付いたものの抜くことは出来なかった。連覇記録は朝青龍明徳と白鵬翔(現役)の7連覇をも上回っている

雷電が現役時代に喫した黒星は僅かに10、他に上覧相撲での1敗がある。その詳細を以下に記す。

勝利力士 場所 勝利力士の
当時の番付
勝利力士の
最高位
対雷電戦
通算成績
備考
陣幕嶋之助 1791年6月(上覧相撲) 東関脇 大関 (1勝)6敗1預 同年4月場所を中断しての上覧相撲
(当時は本場所以上の「公式戦」だった)
梶ヶ濱力右エ門 1791年4月場所5日目 東前頭4枚目 前頭4枚目 1勝1敗 4月場所は雨天順延と上覧相撲による中断で、7月まで日程がずれた。
雷電の本場所初黒星だが、時期的には陣幕に次ぐものとなった。
市野上浅右エ門 1793年3月場所8日目 東二段目筆頭 大関 2勝3敗1預 四股名は常山五郎吉
二段目筆頭は現在なら十両、当時の幕内人数の少なさと完全東西制を思えば、幕内中位に相当する。
1797年3月場所7日目 東前頭2枚目 同上 同上 四股名は花頂山五郎吉、雷電に唯一連勝した力士。
鯱和三郎 1800年10月場所初日 東二段目3枚目 前頭3枚目 1勝3敗 二段目3枚目は現在なら十両、雷電の最多連勝を44で止める。
柏戸宗五郎 1804年10月場所5日目 東小結 大関 1勝5敗1分2預3無
春日山鹿右衛門 1805年10月場所6日目 東前頭筆頭 小結 1勝10敗 前名を大綱、その名で8連敗の後、春日山に改名して破る。
音羽山峰右エ門 1806年2月場所4日目 東前頭4枚目 前頭3枚目 1勝6敗
鏡岩濱之助 1808年10月場所4日目 東前頭3枚目 小結 1勝9敗 雷電最後の皆勤場所で最後の白星を献上。
立神盤右エ門 1809年10月場所3日目 東前頭7枚目 関脇 1勝1敗
江戸ヶ崎源弥 1810年10月場所5日目 東前頭筆頭 関脇 1勝11敗2預

雷電に勝利した力士はそれだけでも大相撲史に名を残したと言えるが、陣幕・市野上・柏戸の名が高い。上覧相撲での陣幕は立ち合いから一気の喉輪攻めだったと伝わり、記録に残る限りでは雷電をそこまで正攻法で破った力士は他にいない。初土俵から2場所目での上覧相撲で雷電に緊張があったのではないかとの意見も強いが、平幕や幕下力士相手への取り零しではなく、三役同士での敗戦は柏戸と陣幕だけである。

柏戸は雷電との対戦が12回、よく渡り合って好敵手の筆頭として挙げられる。この雷電 - 柏戸の取組は江戸庶民にも大変な人気を博し、何を質に入れても見物に行くとまで言われたほどである。雷電最後の土俵では、雷電に二つしかない「分」(もう一つは勢見山兵右エ門)も記録している。雷電と優勝同点も記録、違う時代なら横綱昇進の可能性もあった実力派大関の一人である。

常山・花頂山と名乗っていた時代に勝利した市野上も、幕下時代の初顔合わせだけなら大番狂わせの主役で終わっていたが、のちに入幕して雷電に連勝した唯一の力士となる。見方を変えれば、寛政3年冬場所から同12年春場所まで9年間、雷電は彼にしか負けていない。彼への2敗を挟んで雷電は19連勝、43連勝、44連勝を記録。


 ニュース速報
 今入った情報によると、東山地区在住のY氏があわら市議選に名乗りを上げたとのこと。
西暦 17年4月1日 土曜日 無題   
 
  日本プロ野球開幕の昨晩、TV中継は日ハムvs西武と巨人vs中日のみで、愛する阪神の試合は放映されていない。仕方なく、巨人vs中日のTV観戦で各球場経過報告情報を入手。
 阪神は、ミスもあったが、打撃戦で広島に快勝。きょうの朝刊・スポーツ欄を眺めるのは楽しかった。去年までのぼくは、阪神が負けた翌日の新聞を読まなかった。
 
 しかし、今年は心を広くして、勝ち負けに関わらず読もうと思う。
過去日記