17年07月日記

2017/7/24 無題
 隆慶一郎著「捨て童子 松平忠輝(全二巻(計600頁)」を読み終えた。これも再読だ。
 整形外科医から「絶対安静」を命じられていて、やれることといえば、読書だけなので、読書量がぐんぐん増えている。 

2017/7/23 江藤淳「おろしや国酔夢譚」解説
 「おろしや国酔夢譚」を読み終えた。
 巻末に昭和の評論家・江藤淳が解説をしたためている。長いが引用してみよう。

 解説
 <『いいか・みんな性根を据えて、俺の言うことを聞けよ。こんどは、人に葬式を出して貰うなどと、あまいことは考えるな。死んだ奴は、雪の上か凍土の上に棄てて行く以外仕方ねえ。むごいようだが、他にすべはねえ。人のことなど構っててみろ、自分の方が死んでしまう。いいか、お互いに葬式は出しっこなしにする。病気になろうが、凍傷になろうが、みとりっこなしにする』
 「えらいことになったもんだな」
 九右衛門が憮然とした面持で言った。光太夫は更に続けた。
 「たとえ、生命が救かっても、鼻が欠けたり、足が一本なくなっていたりしては、伊勢へは帰れめえ。・・・いいか、みんな、自分のものは自分で守れ。自分の鼻も、自分の耳も、自分の手も、自分の足も、みんな自分で守れ。自分の生命も、自分で守るんだ。十三日の出発までに、まだ幸い十日許りある。その間に自分の生命を守る準備をするんだ。きょうからみんな手分けして、長くこの地に住んでいるロシヤ人や、土着のヤクート人たちから、寒さからどう身を守る、万一凍傷になったら、どうすればいいか、吹雪の中におっぽり出されたら、自分の橇が迷子になったら、馬が倒れたら、そんな時、どうしたらいいか、そうしたことをみんな聞いてくるんだ。それから、みんな揃って、皮衣や手袋や帽子を買いに出掛ける。ひとりで出掛けて、いい加減なものを買って来るんじゃねえぞ。買物にはみんな揃って出掛けるんだ。いいな」
 光太夫の言い方が烈しかったので、機先を制せられた形で、誰も文句を言うものはなかった』(二章 上巻232-234頁)
 この一節が、おそらく『おろしや国酔夢譚』の核をなす部分である。それまでに、大黒屋光太夫の一行は、すでにさまざまな体験を重ねて来た。彼らは八カ月にのぼる不安な漂流生活を送り、見知らぬ北方の島に漂着すると間もなく船を喪った。異人や土民の間で暮すうちに、仲間を葬りもした。アムチスカ島、ユジネカチャック、ヤクートと、帰国の見通しも立たぬまま、シベリアの奥深く連れて来られもした。しかし、この瞬間まで、他の仲間は勿論光太夫といえども、いままで真の経験に値する経験をしてはいなかったのである。
 「むごいようだが、他にすべはねえ。人のことなど構ってみろ、自分の方が死んでしまう。・・・いいか、みんな、自分のものは、自分で守れ」
 これが、光太夫の経験の内容である。すべての基本的な経験と同じように、この経験もまたきわめて明快な構造を持っている。つまり、それはあまりに明快であるが故に直視しにくいという種類の自己認識であり、多くの人々は単に直視しにくいという理由から、この認識に到達することがない。だからこそ、九右衛門は、この「むごい」言葉を聴いて「憮然」とせざるを得ない。しかし、それを経験した光太夫には、もはや「憮然」としているいとますらない。彼はいま、眼からうろこが落ちるような思いで、自分のまわりに黒々とひろがっている冷たい空間を見わたし、その重味が存在の奥底に浸透して来るのを感じているからである。
 この経験は、無論人間の生の自覚にかかわる経験であるが、同時に光太夫にとっては、一種の比較文化的(cross-cultural)な経験でもある。日本にいれば、どんな深刻な人生の危機を味わったところで、彼はこれほど明晰に生の基本的な構造を見透すことができなかったにちがいない。他人に甘えたり、甘えられたりしながら、なおかつ存続している集団があるとするなら、それはよほど特殊な条件が充たされている場合だけであって、これを以って普遍妥当な例とするわけにはいかない。日本の生活には、少なくともこの条件が充たされているかのような幻想が附着している。その幻想が、にわかに光太夫の視野から消えたのである。
 そのかわりに、彼の視野に浮かび上がって来たのは、人の四肢をもぎとって行く厳寒の支配する果てしないシベリアの雪原である。このロシアの発見は、正確に彼の存在がとらえたあの黒く冷え冷えとした空間の発見と照応している。まさにその意味で、光太夫の経験はすぐれて比較文化的(cross-cultural)な経験だということができる。「伊勢には帰れない」・・・それは、自分のいる場所がロシアであって、他のどの場所でもないことを、骨身にしみて悟ることである。
 ところで、
 「それから・・・、みんな揃って、皮衣や手袋や帽子を買いに出掛ける。ひとりで出掛けて、いい加減なものを買って来るんじゃねえぞ。買物にはみんな揃って出掛けるんだ。いいな」
 という光太夫の言葉は、「みんな、自分のものは自分で守れ」という言葉と一見矛盾しているかのように聴える。しかし、この「みんな揃って」は「自分のものは自分で守れと表裏一体であって、ここではあの幻想を剥奪される経験を通過して光太夫と他の漂流民との関係が、全く新しい関係に組み替えられているのである。つまり、それはもはや甘えたり甘えられたりの関係ではない。「自分のものは自分で守」ることを心に決めた人々が、「自分を守」るために「みんな揃って」行くのである。そうしなければ、生存を維持することができないような異質の現実が、彼らの周囲にひろがっていいるからである。

 ロシア滞在中に、光太夫は、今一度重要な体験をしている。それは女帝エカチュリーナ二世に拝謁したことである。
 (「可哀そうなこと・・ベドニャンカ」
 女帝の口からは再び同じ声が漏れた。光太夫にとっては、一切のことが夢見心地の中に行われていた。暫くすると、執政トルッチンニノーフの大人であるソフィヤ・イワノウチが進み出て来て、
 「漂流中の苦難、死亡せし者のことなど、詳しく陛下に申し上げるよう」
 と、言った。光太夫は直立した姿勢のままで、アムチトカ島へ漂流してから今日までのことを、ゆっくりした話し方で、いささかの間違いもないように注意して話した。初めのうちは言葉が勝手に自分の口から飛び出して行くようで不安だったが、途中から自分でもそれと判るほど落ち着いて話すことができた。一通り語り終えた時、
 「死者は何人なるや」
 という女帝の声が遠くで聞えた。
 「十二人でございます」
 光太夫が答えると、
 「オホ、ジャルコ」と、低く女帝は口に出して言った。これは、この国の人々が死者を悼む時に使う言葉で、女帝は不幸にも異国に於いて他界した十二人の日本の漂流民に対して哀悼の意を表したのであった。それから、誰にともなく、
 「この国の帰国の願いはずいぶん前々からのものだと思うが、いかにして耳に入らざりしや」と、女帝は言った。誰も答える者はなかった>(六章 下巻一四四~一四六頁)
 このときまでに、凍傷で隻脚を失った庄蔵も、やはり教徒になってロシア人になってしまっていた。光太夫自身も、帰化する気持ちはないにしても、正確なロシア語を自由に使いこなせるようになっていた。つまり、彼らは、ロシアの異質な現実に適応して生きようと努めた結果、明らかに普通の日本人とは違う人間になっていたのである。
 しかし、何故彼らは「「自分のものは自分で守」るようにして、ロシアの現実に適応しようとしたのだったろうか?それはもとより、生存を維持する必要からであった。それなら、何故彼らは力を傾けて、生存を維持しようと努めたのだろうか?いうまでもなく「伊勢へ帰」りたい一心からであった。だが、ここにおいて彼らは、ひとつの背理に直面せざるを得ない。なぜなら「伊勢へ帰」りたい一心が、現実には彼らを無限に「伊勢」から遠ざける結果を生んでしまっているからである。
 そのことを、光太夫は、アダム・ラックスマンの一行とともに函館に上陸して間もなく自覚させられる。
 <・・・この夜道の暗さも、この星の輝きも、この夜空の色も、この蛙や虫の鳴き声も、もはや自分のものではない。確かに曾ては自分のものであったが、今はもう自分のものではない。前を歩いて行く四人の役人が時折交わしている短い言葉さえも、確かに懐かしい母国の言葉ではあったが、それさえももう自分のものではない。
 自分は自分を決して理解しないものにいま囲まれている。アンガラ川を、ネワ川を、アムチトカ島の氷雪を、キリル・ラックスマンを、その書斎を、教会を、教会の鏡を、見晴るかす原始林を、あの豪華な王宮を、宝石で飾られた美しく気高い女帝を(八章 下巻340~341頁)
 作者が「おろしや国酔夢譚」で描こうとしたのは、ほかならぬこの孤独と徒労の感覚であろうと思われる。大黒屋光太夫は、「伊勢へ帰る」ことすらもできなかった。彼は、ともに帰国した磯吉といっしょに番町の薬草植場内に与えられた住居で、飼い殺しの余生を送らなければならぬことになったからである。それなら、彼があれほど「守」り抜こうとした「自分のもの」とは、結局、だれに伝えようと思っても伝えられない、彼自身に固有なあの経験にほかならなかったとでもいうほかない。
 しかし、彼の努力が孤独なものであり、光太夫が「自分が決して理解しないもの」に囲まれていると感じれば感じるほど、彼の経験の重味はひしひしと読者の胸に伝わって来る。住ノ江の浦島の子のことは、しばらく問わない。だが、光太夫のあとにも、実は比較文化的な経験を味わい、それをだれにも伝えられずにいる無数の光太夫たちがいる。おそらく現代においてさえその数が減っていないことを、この「おろしや国酔夢譚」は心の深い部分に感得させる力を備えているのである。

2017/7/21
 今朝早く携帯電話が鳴って、高校時代に仲の良かった友人が亡くなったことを知った。クラシック音楽一筋の数奇な運命をたどった男だが、最後の13年間は寝たきりの生活だった。

2017/7/20 きょうは時間との闘いになりそう
 井上靖著「おろしや国酔夢譚」を読み始めた。10数年前に読んでいるから再読だ。
 序章の冒頭
 江戸末期ロシアに渡って、日本に帰って来た伊勢漂民大黒屋光太夫のことを「おろしや国酔夢譚」なる題名のもとに一篇の小説に綴ろうかと思うのであるが、物語に入るまでに、それ以前に漂流してアレウト列島あるいはカムチャッカ半島に上がり、シベリアからロシアにはいり、再び日本の土を踏むことのなかった不幸な漂流日本人たちのことに一応序章として触れておきたいた思う。

2017/7/19 ヤケド
 
 世に俺ほどバカな男は居ない。胸に大ヤケドどを負ってしまったのである。
 うん、ヤケドを負うくらい珍しいことではないが、俺の場合は熱々珈琲をつくっていてのヤケドだ。カップに珈琲粉末を入れ、仰向けに寝ながらカップにケトルからの熱湯を注ぎこみ口に入れようとした瞬間、カップが手から滑り落ち、熱湯が胸にシャワーとなって注ぎこまれたのである。
 息が詰まり我を失った。地獄(又は天国)への三丁目に居るのかと思った。それほどの衝撃だった。覚醒したら胸が痛くてたまらない。鏡で局部を見ると、皮膚が黒ずんでいる。病院に行こうかとも思ったが、痛くてたまらず当然動けない。絶対安静の姿勢で痛さと格闘する二時間半が過ぎて、やっと痛みが沈静化した。指で局所に触れるとドロドロだ。リバテープを何枚も貼って局所を覆い隠した。当分の間、風呂には入れないだろう。
 それにしても、金津祭りの日にはよく飲んだ。6人が来訪。私も久しぶりにあばさけた。美しい女性が同座するとココロが躍るのは、私の宿瘂と言っていいだろう。

2017/7/16 ジョン・マン
 
  山本一力著「ジョン・マン」
 時代は天保年間。
 漁船に乗り、防風雨で難破し流れ着いた鳥島で万次郎ら五人は飢えをしのぎながら島を横切る船が現われるのをひたすら待つ。
 百数十日後、ついに現れたのが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号。世界の捕鯨船が鯨漁場を大西洋から太平洋のジャパン近海に移りつつあるなかでのジョン・ハウランド号と五人の遭遇だ。五人を救い出した船長は、彼らをジャパンへ連れ帰してやろうとも思ったのだが、当時のジャパンは「サコク」の国であり、彼らが死罪となることを懸念してジョン・ハウランド号に乗せたまま南氷洋を駆け巡ることになる。
 そして、ここから、ジョン・マン(万次郎)の壮大浪漫的人生が始まるのである。

2017/7/12 右足の痛みが消えつつある
 舟橋聖一著「新忠臣蔵全四巻」1800頁を読み終えた。この齢になってもまだ長編を読む気力のある自分を自分で褒めたい。と同時に大石蔵之助というつかみどころのない人物像に自分が感情移入し、自分の先祖は元禄の頃、武士であったという信念をますます強くした。女人に対する扱い、武士階級としての矜持、書斎に置かれた本の殆どを捨て「いざ鎌倉」の姿勢を維持し、「孝たらずんば忠たらず忠たらずんば孝たらず」と煩悶するわたくし・・こういうわたくしを武士と言わずしてなんと言う。
 
 そしてきのうから山本一力著「ジョン・マン(全五巻)」を読み始めた。これも1700頁の長編だ。正直言って、足が動かなくなっても手が動かなくなってもそれはそれで仕方ない。だけど死ぬまで視力は健全でありたい。臨終の枕元の右手に本を持っていたい。

2017/7/11 昨日の一日
 一昨日晩の「Y共産党市議を囲む飲み会」に出席したのだが、場所(連絡事務所)が和室だったのに閉口した。痛む右足を引きずっている僕が畳部屋で座るのは至難の業なのである。樽酒、焼酎、紹興酒などを飲んで痛みをまぎらそうとしたが無理で、早々に連絡事務所をあとにした。

2017/7/9 昨日の一日
 朝一番で整形外科へ。僕は電気治療、牽引、ウオーターベッドのリハビリを欠かしたことがない。事務所に戻ってからは安静療法。安静といっても、本くらいは読めるので、舟橋聖一著「新忠臣蔵第4巻」に挑んでいた。
 昼一番で某住宅へ。完成検査のためだ。ほぼ四カ月の仕事を終えて、大きな解放感を味わった。
 夕刻にS歯科医師が来訪。「まきちゃんの羨ましいところは髪がふさふさしていてりっぱなこと」と言う。聞いて悪い気はしない。
 入れ替わるようにして、某VIPが来訪。右手と左手には美味しそうなものが添えられていた。

2017/7/8 広島が強すぎる
 舟橋聖一著「新忠臣蔵(4巻)」を、3巻まで読み終えた。いろんな忠臣蔵を読んだが、これほどに資料を駆使した本は初めてで、討ち入り浪士それぞれの家族や同志への往復書簡を(なま)のままで載せ、そのことによって浪士たちの懊悩を中心とした喜怒哀楽が克明に炙り出されていて、果たしてこの本を小説とよべるかどうか。

 潜伏先の京都で、色町通いを続けた大石内蔵助は、家老在職中に昼行燈と噂されていた。その大石が色町通いを続けたのは、幕府あるいは吉良側に、吉良家討ち入りの意思がないことをメッセージする擬態だったのだろうが、しかし色町でのバカ遊びが元々好きだったこともあろう。

 彼は、世事すべてに対する旺盛な興味を失わない。堀部安兵衛のような剛直一本槍ではたくさんの討ち入り志願浪士の心の内面を掌握しまとめ上げることができない。昼行燈が持つ負のイメージは、実は人を的確に見極める力の奥深さの形容となったのである。

2017/7/7 阪神タイガース快勝
昨晩は、あわら市明社理事会が開かれた。本年度の事業計画がメインテーマとなったが、副会長に就任した達川氏の口から、A型事業所のこと山羊育てのことについての問題点が波状的に提出され、いつものように独演会となった。 

木曜日, 7月 06, 2017
 整形外科の主治医から安静を言い渡されているのだけれども、きょうばかりはそうもいかない。行かざるを得ないところが幾つかあるためで、仕方ない。
 朝倉喜祐 知られざる抑留八年の記(前編、続編)
眠気がでてくるまで、朝倉喜祐著「知られざる抑留八年の記録」を読んでいた。
著者はお町さんに再三出てくる人で、私が15年前に金津町議会議員選挙に出た時、お世話になった人でもあるが、数年前に亡くなられた。
 
初めてお会いした時、「ふつうの人ではないな」とは思ったが、この本を読み進めるうち、「このような波乱の過去があったのか」と驚いた。
けれどもよく考えてみると、ふつうの平穏な一生を終えたようにみえる人にも それぞれに波乱の過去があるはずなのである。ただ、本を出せるほどの文筆力があるかないかだけの話だ。そういう意味で、世の中は不公平だと思う

朝倉喜祐著「知られざる抑留八年の記」を読み終えたが、涙を抑えることのできない部分が所々にあり、著者あとがきをここに添えておきます。

 戦後八年の抑留記は、昭和二十八年四月帰国した際、中京軍後方病院の雑役として、中国内戦、中華人民共和国の建国、ついでその後、満州各地を転々と移動して歩いた町々で見たこと、聞いたこと、体験したことを、記憶のうすれぬままに書き綴ったものである。
 筆をとってみると、当時の生々しい苦難の日々の生活が、日がたつに従って美化され、しかも拙文ときているので、他界寸前に戦後史の一資料として図書館へ寄贈しようと思い、残していた。
ところが昨年の暮れ、ひょっとしたことから近藤さんの目につき、戦後満州での日本人の足跡の一片として、第一集だけでも活字にしてみたらと勧められその気になった。
見方、考え方の雑な私のことゆえ、当時のことを表面的に、しかも主観的にとらえている点も多くあろうし、誤りもあると思う。その点は御容赦いただきたい。
 また、お世話になった方々の記述については実名を使わせていただいたこともあわせてお許し願いたい。
 尚、この第一集の出版にあたって、力をおかしくださった大阪の近藤正旦氏、千葉の谷口泰子さんに心からお礼申しあげてあとがきとする。
                 平成四年初春
                 福井県坂井郡金津町吉崎 筆者 朝倉喜祐
                                     
要するに昭和20年8月15日の終戦勅諭を察知した関東軍上層部はいち早く家族を内地に返し 自らも内地へ逃げる。そして帝国陸軍軍人たちへの解散命令は発せられないままだった。つまり彼等は除隊兵となってしまったのである。これが終戦一週間前にスターリンにより宣戦布告された結果の大量シベリア抑留へとつながるのであるが、シベリア抑留とまでいかなくても、朝倉氏やお町さんなどの孤軍奮闘が四面楚歌の家族たちを助ける力となる。
「知られざる抑留八年の記」と「お町さん」を読み比べてみると、朝倉氏と女侠客・お町さんあるいは芦田伸介との連携は終戦後に濃密になったようで、日頃温厚な朝倉先生に接していてこのような過去があったとは、ついぞ知らなかった。「知らなかったのが残念」とは思ったが、地獄絵図は人に語れないのが人間の真実でもあろうし、かつ、死期が近づくにつれ文章に書き残したい思ってくるのも人間の真実であろう。

 付記
 特にあわら市職員に知ってほしいのですが、お町さん(道官咲子)は、今、教育委員会にいる道官氏の先祖です。

後編
こうして私は故郷吉崎の地に戻った。その後、先輩友人、寺の門徒衆の温かい力添えで福井県で教職につくことができた。昭和三十一年、新聞の満州よりの引揚ニュースをみて、私たちの仲介毛利夫妻が帰国されることを知った。本名大塚有章氏(山口県出身)で共産党員 昭和七年の大森銀行襲撃事件の首謀者で、網走カンゴクで刑を終えて満州映画に勤務されていた。帰国を知って思想の相違は問題外、私たちの仲介でお世話になった方だったので舞鶴まで 出迎えにいき、?山でのお礼と帰国の喜びを申し上げた。その時、立命館大の総長をしておられた末川博氏がきておられたと思う。その後も上阪するとお宅へお伺いしたが、夫妻は常に笑顔でむかえ、幸せに暮らしていることを喜んでくださった。大塚夫妻は、私たちとの話合いの中で、河上肇博士が義弟であり、末川博博士が義兄であり、難波大助が従兄弟であることも、現在なさっている活動についても何一つ語ったことがなかった。
ただ「未完の旅路」(三一書房出版)・大塚有章著を送本していただいて、はじめて主義に生き抜いた仲介夫妻の生きざまを知ることができ、頭がさがる思いがしたものだった。
私は、昭和五十三年、県教育功労者としての表彰を受け、昭和五十五年定年退職した。
思えば昭和二十年八月の終戦満州国の崩壊で、一度は死を覚悟した身でありながらこの年まで、私をとりまく方々の友情に支えられて、何とか生きさせていただいた事をつくづく有難いと思うこの頃である。抑留八年間、共に働き、共に苦しみ、共に励ましあい、共に祖国の土を踏むまではなんとしても生き抜いていこうと誓いあった友の内、その望みを果たせず大陸に骨を埋めた仲間の霊に対し、心より冥福を祈りこの文をとじる事とする。

今宵また 追憶の旅や 夢枕   喜祐

水曜日, 7月 05, 2017 パソコンやっと復旧
 昨日の午後三時、坂井ケーブルテレビ社員がやって来て、インターネット接続不可能となっていた原因であるモデムを最新式のものへ取り替え、接続が可能となった。やはり餅屋は餅屋で素人がいくらバタバタしても始まらない。

 昨晩は「あわら市九条の会」例会ということで、四人が来訪。議題は、先日の「小野寺夫妻講演」についての反省会。続いて次回は誰に頼むかが議題となり、議論百出の結果、組頭五十夫氏に頼むという方向になった。交渉役として人格者がよかろうということで私が指名された。早速きょうにでも彼の家へ行ってこよう。
 三国町の寿司屋で、数年ぶりに寿司というものを食べたが、食べた海鮮寿司はたまらなく美味しかった。

土曜日, 7月 01, 2017 今日から7月
 山本周五郎 長い坂
主人公・阿部小三郎の父・小左衛門は〇〇藩で20石どりの組頭つまり下級役人だ。
父・小左衛門は「なにごとにつけ御身大切。不正があっても眼をつむり大過なく日々を過ごすこと」を信条とする典型的な公務員で、小三郎は幼少時から「これが俺の本当の父親か。本当の父親は他にいるのではないか」との疑念を抱くようになりそのまま成長する。

この城下には藩校が二つある。一つは尚功館といって、中以上の家格の子弟のために設けられたものであり、学問の技術も武術の師範も、第一級の人が選ばれている。他の一つは藤明塾といい、これには中以下の侍の子弟や、町屋の者も入学することができる。
8歳の小三郎は身分の制限故に藤明塾に入ったが、学術武術に群を抜いていた彼は藤明塾塾員でいることに飽き足らず、周囲の反対を押し切って尚功館へ転入する。

尚功館でも発揮された小三郎の類い稀な文武の才能は藩主・昌治の眼に留まり、彼は昌治の側近となる。
しかしそれは彼の本意ではなかった。彼は「武士の道は民百姓をいかにして苛斂誅求から守るか民百姓をいかに幸せにするか」の一点にあり、えらいさんなんか関係ねえよだった。要するに、後年、福澤諭吉がとなえた「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず」の文言を数十年前にとなえていたのだった。

彼は藩主の命により、新田開発のために藩内を流れる大川の堰堤づくりに着手する。他の堰堤の資料を調べ水面高を測量し木杭を調達し、雪の降るなかでの作業はまことに厳しいものだった。(一昨年に「ふるさと語ろう会」で九頭竜川堰堤を見学に行き、係員から堰堤づくりの経過を聞いていたのでその困難さはよくわかる)。

又、江戸詰めの反藩主勢力により度々の妨害も受ける。藩主と小三郎が堰堤を視察していた時、5人の武士が突然現われて二人に切りかかった。この時、小三郎は少しもあわてず、5人の武士全てを心臓一突きで殺してしまった。まさに妖刀使いの小三郎。

・・・兵部はまた、樹が呼吸することに気づいた。陽が昇ってから森へはいると、檜も杉も、その幹や枝葉から香気を放つが、その匂いかたには波があり、匂わなくなったり、急にまた匂いはじめるのである。里では桃が咲き、桜も咲き出していたようだ。大平からの遠望だからよくはわからないが、もう三月にはいって、春もたけなわであり高いこの山の上にも春がうごきだし、杉も檜も眠りからさめたのであろう。樹幹の発する香気が一定ではなく、弱くなり強くなるのは、それらの樹が明らかに呼吸していることを示している。 「まるで人間のように」と兵部は太い杉の幹に手を当てながら呟いた。「おまえはくちもきけず動くこともできない。百年でも五百年でも、同じ立ったままで生き続けなければならない。けれども人間や毛物と同じように、生きていることは事実だし、このとおり呼吸さえしている。ことによると、われわれのじたばたしている姿を見て、羨んだり嘲笑したりするだけの感情さえあるのではないか」

「阿部小三郎でもなく、三浦主水生であってもならないとおれは思ったことがある。」・・おれはこの新畠ではもとという名の人足だ。ななえも小三郎もおれ自身とは関係がない。根本的にはべつの世界の人間なのだ。おれは小三郎の昔から独りだった。いまも独りだしこれからも独りだ、なにかする男はいつも独りでなければならない」
老人だからといって、独りで涙をながすようなことがないわけではない、という米村青淵の言葉が思いうかんだ。
老いて気力を喪失した滝沢主殿。酒びたりで怠け放題に怠け、しかも死ぬときには、草臥れはてた、と云ったという宗厳寺の和尚。みんな独りだった。谷宗岳先生も、妻子がありながらこんな田舎に招かれて来て、若い側女に子を産ませ、つつましやかに寺子屋のような仕事に背をかがめているという。
だが実際にはその側女にも、側女の産んだ子にも心はつながっていないに相違ない。女には家があり子供がある。女には自分の巣がある、けれども男に巣はない、男はいつも独りだ。
「独りだからこそ、男には仕事ができる」と主水生は声に出して呟いた。「特にいまのおれは、恩愛にも友情にもとらわれてはならない、男にもほかの生きかたはある。男としての人間らしい生きかたは数かぎりなくあるだろうが、おれだけはそうあってはならない。おれには男として人間らしい生きかたをするまえに、侍としてはたすべき責任、飛騨守の殿がそう思い立たれたように、侍としてなすべきことをしなければならない、そしてこれはおれ自身の選んだ道だ」
こういう三浦主水生のヒューマニテイあふれる独白を読んだ時、「翻って私の人生はなんだったのだろうか」と考えた。
た。