17年09月日記                                     

 西暦 17年9月29日 金曜日
新聞記事より
昨日は分刻みの忙しさだったけれども、時間を割いてちょっとだけ山口氏の陶芸展に行ってきた。場所が創作の森ロビーだけあって洒落た空間になっている。氏が生きていれば105歳だとのこと。


 西暦 17年9月28日 木曜日

あわら市内在家寺院宗派別一覧(高戸甚右衛門氏)

真言宗  高野山真言宗  安楽寺  北潟
  高野山真言宗   清光寺 重義 
  智山派  総持寺  花乃杜1丁目 
    教授院  角屋 
 曹洞宗   竜雲寺   中番
    竜沢寺  御簾尾 
    正端時  十日 
 法華宗 本門流  日源寺  瓜生 
 日蓮宗   妙隆寺  市姫2丁目 
    妙晃寺  二面 
 浄土宗 松龍寺  前谷 
    納心庵  笹岡 
 真宗 仏光寺派  称運寺  笹岡 
    智徳寺  田中々 
   三門徒派 専教寺  柿原 
  山元派  願成寺  堀江十楽 
その他は、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、真宗高田派。
  芦原  金津  計 
本願寺派   12 12  24 
 大谷派 12  21 
高田派   6  1
計   27 25  52 
       
単立 
 
旧芦原町  温泉地区  浄土真宗本願寺派  浄泉寺  二面   
    真宗大谷派  善久寺  温泉3丁目   
    真宗高田派  安養院  二面   
    単立  妙見寺  二面  4寺 
  山方里方地区  浄土真宗本願寺派  善勝寺  番田   
    浄土真宗本願寺派  長法寺  布目   
    浄土真宗本願寺派  養善寺  二面   
    真宗大谷派   円光寺 舟津   
    真宗大谷派  教善寺  田中々   
    真宗大谷派  佛言寺  田中々   
     真宗高田派 法音寺  井江葭   
    真宗仏光寺派  智徳寺  田中々   
     真宗山元派 願成寺  堀江十楽   
    高野山真言宗  清光院  重義  10寺 
   本庄地区 浄土真宗本願寺派  阿弥陀寺  上番   
    浄土真宗本願寺派  興源寺  下番   
    浄土真宗本願寺派   浄光寺 轟木   
    真宗大谷派  貫心寺  下番   
    真宗大谷派  福円寺  下番   
    曹洞宗  龍雲寺  中番   6寺
  新郷地区  浄土真宗本願寺派   善徳寺  中浜   
    真宗大谷派  寂静寺   北本堂  
    真宗大谷派   専福寺  河間  
     真言宗智山派  教授院  角屋  4寺
  北潟地区  浄土真宗本願寺派  照順寺  浜坂   
    浄土真宗本願寺派   白蓮寺  北潟  
    真宗大谷派   浄満寺  北潟   
     真宗高田派   願教寺 北潟   
     真宗高田派   顕正寺 北潟   
     真宗高田派   勝願寺 北潟   
     真宗高田派   要願寺 北潟   
    高野山真言宗   安楽寺 北潟   8寺
   波松地区 浄土真宗本願寺派  慶照寺  波松   
    浄土真宗本願寺派  正賢寺  波松  2寺 
           
旧金津町  金津地区  浄土真宗本願寺派  教順寺  市姫2丁目   
    浄土真宗本願寺派   西徳寺  大溝2丁目  
     浄土真宗本願寺派  善蓮寺 市姫2丁目   
     浄土真宗本願寺派  妙安寺 市姫2丁目   
     浄土真宗本願寺派  明善寺 花乃杜1丁目   
    真宗大谷派  永宮寺  市姫2丁目   
    真宗大谷派   永臨時 春宮3丁目   
    真宗大谷派   願泉寺 花乃杜1丁目   
    曹洞宗  正端寺  十日   
    日蓮宗  妙隆寺  市姫2丁目   
    単立  聖徳寺  稲荷山  12寺 
  伊井地区  浄土真宗本願寺派  専念寺  桑原   
    真宗大谷派  応蓮寺   伊井  
    真宗大谷派   法敬坊  矢地 3寺 
   坪江地区 浄土真宗本願寺派  乗泉寺  中川   
     清王  蓮成寺  前谷   
    真宗高田派   西光寺 中川   
    真宗仏光寺派   称運寺 笹岡   
    曹洞宗   龍澤寺 御簾尾   
    法華宗本門流   日源寺 瓜生   
    浄土宗   松龍寺 前谷   
      妙心庵  笹岡  8寺 
  細呂木地区  浄土真宗本願寺派  園超寺   蓮ヶ浦  
    浄土真宗本願寺派   善照寺  細呂木  
    真宗大谷派   浄林寺  山十楽  
    真宗大谷派   西善寺  清王  
    真宗大谷派   照厳寺  清王   
    真宗大谷派   法専寺  清王   
    真宗三門徒派   専教寺 柿原   7寺
  吉崎地区  浄土真宗本願寺派   吉崎寺  吉崎  
    浄土真宗本願寺派   吉崎別院  吉崎   
    真宗大谷派   浄覚寺  吉崎   
    真宗大谷派   願慶寺  吉崎  
    真宗大谷派   吉崎別院  吉崎  5寺 
           
         旧芦原町  34寺
        旧金津町   35寺
         計  69寺

 西暦 17年9月27日 水曜日
山口喜三太陶芸がきょうから始まるが、今朝の僕は歯医者へ行かなくてはならない。病院、医院が好きな人など何処にもいないだろうが、鬱陶しいことである。 

 西暦 17年9月26日 火曜日 やっと書いた
 高戸甚右衛門氏の手書き資料をデーター化した。
氏の手書き参考資料-1
ゾロアスター教(拝火教)
 古代に興った宗教であるが現在もインドを中心に少数信者がいる。
イラン北東部からアフガニスタンにかけて古代におこり寺院には日常生活や祭儀に欠かせない聖なる火が燃えており、それが崇拝されるので拝火教とも呼ばれる。
創始者はゾロアスターで彼の生涯は紀元前600年前後といわれ彼は30才の頃、アフラ、マズダーから啓示をうけてこの新しい宗教を広めた。古代ペルシャでは、王家をはじめ多くの人が信仰した。3世紀に興ったササン朝ペルシャでは国教となった。経典は「アヴェスタ」で善霊と悪霊の二元論でこの対立は「生命、光」と「死、闇」との戦いでそのどちらに属するかは人間の自由で、各自の行為は死後その魂が報いを受けることになる。最後の審判、終末における救世主の登場との観念はユダヤ教、キリスト教、イスラム教などにも影響を与えたとされる。シンボルマークは二頭の鷲でこれはロシア正教のシンボルマークでもある。

手書き参考資料-2
聖徳太子(574-622)
用明天皇の子で、叔母である推古天皇の摂政として政治の実務に携った。
儒教の思想をとりいれて、冠位十二階の制度や十七条憲法を制定した。
高句麗の僧慧慈について仏教を学び、仏教の保護に力を入れたといわれる。成果は斑鳩寺(法隆寺)、橘寺、中宮寺などの寺院造営や「三経義疏」の執筆であった。
「三経義疏」とは法華経、勝鬘経、維摩経の三経の注釈で太子の死後、太子信仰が生まれ広まった。
鎌倉時代の親鸞は仏教の日本における開祖として「和国の教主」とよんだといわれる。
仏教を学ぶ
その発生と伝播

世界の宗教
1、キリスト教文化圏
 ヨーロッパ、南北アメリカ
2、イスラム文化圏
 中東を中心に東西に広がる
3、ヒンドゥー教、仏教文化圏
 南アジア、東南アジア
4、中国、宗教文化圏
 儒教、道教、大乗仏教が深くからみ合った。(日本はここに入る)

宗教的特徴
 一神教=ユダヤ教、キリスト教、イスラム教(現世と耒世しか無い)
 多神教=東南アジアでの主流
 重層信仰=神も仏も混じりあって信仰される(霊魂不滅で生れ代る)

仏教
 古代インドにおいて、ブッダにより創始され、現在もアジアと東南アジアを中心に3億人余りの信者をもつ。

釈迦(ブッダ)の出生と生涯
 ブッダとは悟った人(覚者)の意味で、釈尊とは釈迦族の聖者という意味である。
 ブッダの伝記が文字に記されるのは没後数百年経ってからで多くの説があり、内容もかなり神格化されている。出生も南方仏教徒の統一見解では紀元前624年説であり、日本では紀元前463年説がもっとも支持されている。
北インド(現ネパール)のカピラヴァスツ城で釈迦族の王子として生れ、結婚して一子をもうけたが、29才のとき出家を決意した。(生老病死の苦を知り)苦業後ひとり静かに座って瞑想を行い35才の頃悟りを得て如来(修業を完成した意)と称された。悟りを得たブッダガヤの聖地にはインドボダイ樹(現在4代目)と座禅石が今もそのまま保存されている。
 最初の説法(初転法論)はガンジス川の聖地ベナレス近郊のサルナートで行われた。そこに苦業をともにした五人の比丘(出家修業者)がいたからという。かれらは釈迦が苦業を中止したことで袂を分っていたが、最初の説法の相手に選ばれたのはかれらであった。説法を「法論を転じる」ということから初転法論と呼ぶ。
釈迦はこの最初の弟子となったっ五人の比丘にそれぞれ独りで伝道の旅に行くように命じ自分も旅をつづけた。悟りは自分のものであり独りでゆくことが大切とした。
 各地を説法してクシナガラに於て80年の生涯をとじるが最初の説法は霊鷲山(ビハールソ州のラジギール)で法華経を説いたとされている。
 クシナガラでの入滅の姿は寝釈迦様と呼ばれ頭北面西右脇(ヅボクメンサイウキヨウガ)で死の直前までブッダにつき従った弟子は500人居たとされ五百羅漢と呼ばれる。
 ブッダは弟子たちに「遊行せよ、法を説け、同じ道を行くな」と説いていたので、弟子たちは各地をめぐって教を広めた。

ブッダの悟りの内容
 四諦八正道(シタイハッショウドウ)を悟ったというもので、これは4つの真理とそれを得るための8つの正しい道である。
 四諦の諦はあきらめるような印象を与えるが、諦は「サテイヤ」または「サッチヤ」すなわち真理という意味の漢訳である。根本的な4つの真理ということである。具体的には、苦諦、集諦、滅諦、道諦である。人生の現実は自分の思う通りにはならず、苦である(苦諦)。その苦は煩悩やもろもろの欲望から生ずる(集諦)。そのためには正しい実践を行わなければならない(道諦)。
 そしてその正しい実践が八正道である。それは正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
 人生は苦であることを悟りその苦から脱する方法。
 人生が苦に満ちている(一切皆苦)というのは仏教の基本的な教である。それは四苦八苦として示される。四苦とは愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の4つを合わせて八苦となる。愛別離苦は愛する者と別れる苦しみ、怨憎会苦は憎む者と会う苦しみ、求不得苦は求めても得ることのできない苦しみ、五陰盛苦は感覚や想念などにとらわれることによる苦しみ(失恋など)。
 三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)。

佛典の編等 
 ブッダが入滅してから数百年は文字化された教典はなかった。弟子たちは教えを暗誦して覚えた。そして正しい教えと戒律がずっと守られるようにと魔訶迦葉が王舎城外にあった。精舎で集会を開き、阿難、優婆離の二人がそれぞれ教えと律を唱え、これに合わせて参加者一同が唱えるとした。これが仏典の第一回結果で近代までくり返された。
 
アレキサンダー大王の印度支配と仏教への影響
大乗仏教の成立
 アフガニスタンとパキスタン(かってインド)の境をなすカイバル峠は、インド大陸が中央アジアに通ずる陸の門戸で五千年来インド征服の野望を抱く人達が攻防を繰り返し、勝った者が土着した処である。インダス文明を築いたシュメール人を滅ぼしたアーリア人も紀元前1,300年にここから侵入した。
アレキサンダー大王も長躯マケドニヤから馳せ苦戦の末インドを平定した(紀元前3274~325年)。
慕われた民衆に懇願されたが、カイバル峠の戦いで多数の部下を失ったことを思い断った。
その後、チャンドラ ブクタによるインド最初の大帝国マウリヤ王朝が成立。その時代アショーカ王(阿育王 愛宕王)(紀元前268~232年在位)は都をタキシラ(タクシャシラ)に置き仏教を国教として保護(佛護王と呼ばれた)した。

教派の分裂と大乗仏教の成立
 戒律を守る戒律至上主義の上座仏教と竜樹の唱える大乗仏教に分かれ厳しい戒律を守ったり修行をしなくとも阿弥陀仏の名を唱えれば極楽浄土に往生出来るとの浄土思想ととすべての衆生は等しく成仏出来るとの大乗思想を竜樹に広く学びすべてのものが他の相互依存の関係で成り立つ「空の思想」を説いて「中論」をあらわした。之を大乗仏教といい、上座部仏教を小乗仏教という。
大乗仏教は在家仏教ともいわれ誰でも仏になれ仏性を持っている。とくに密教では真言、陀羅尼を唱えるだけで災厄を払う神秘的法力が得られるとの考えが強まった。
マウリア王朝のあとメナンドロス(ミリンダ王)が表臨(紀元前163才)サカ族の移動と大月氏国の分裂後の紀元45年クシヤナ朝が興り都をカイバル峠の近くタキレラがシダーラ地方の中心ペシャワール(プルシヤブラ)に置き、第4代カニレカ王は仏教を厚く保護しインド仏教と異文化の接触のなかではじめて仏像は誕生した。これまで仏像を造ったこともなく仏足石(ブッダの足の裏)を拝むだけであったが仏典の解釈と共に釈迦の幼少の頃から説法入滅までギリシャの芸術とパンジャブ古来の文化が融合して芸術が開花し衆生が仏像を拝むようになった。

大乗仏教の基礎が確立
 ペシャワールの町は革新的大乗仏教の基礎が完成された処で幾多の先覚者を輩出している。この町に生れ後世ナーランダ大学の大教主として活躍したといわれる「アサンガー」(無着)は般若波羅密多の教理解釈に苦心してアユタに行きマイトレーヤ(弥勒菩薩)の指導を受けて摂大乗論を著したとか、その弟の「パスバンス」=天親(世親)菩薩であって1000巻の教典を論述したといわれ彼の晩年の無量寿教憂波提舎は有名である。また中国の雲蔦大師にこの浄土論を指導したと伝えられるボデルシイ ペシャワールの出身で彼の導きで雲蔦は天親の浄土論を中国で訳しこれが後世日本において法然、親鸞に引き継がれることとなった。

 仏教の伝播
 クシヤン王朝カニシカ王(即位西暦128年又は144年)は都をペシャワールに置き東はビハールからトルキスタン、アフガニスタン、東インド、デカン高原と広大な領地をもち仏教を保護し各地にストウパー等を残しカニシカの金貨に仏像を刻印したものも多いが幾多の戦いで部下を亡くした王は仏教だけでなくゾロアスターやヒンズー教の神殿も創建している。

 南インドのスリランカ(セイロン)へ仏教を伝えたのはアショーカの子マヒンダであるが、上座部仏教は一部の宗教エリートしか救わない小乗仏教で南方に伝わったので南伝仏教とも呼ばれ今日スリランカ、タイ、ラオス、カンボジアなどに存在する。
 一方中国を経由し東アジアに広まった流れは大乗仏教とか北伝仏教と呼ばれ中国、韓国、チベット、日本、台湾などで文化的にも大きな影響を与えた。
 インドでは、バラモン-ヒンズー教の影響で密教化されて行った。チベットでは古来のボン教と合体した密教タントラ化したラマ教となった。

 シルクロードと仏教の伝来
 西域の求法僧としては紀元前139年頃、前漢の武帝が張○を西域に派遣後73年後漢の和帝斑超を西域へ。
 399年法顕インドへ出発。412年セイロン、インドネシアを経て帰朝。401年斑摩羅付長安で訳経をはじめる。627年頃玄奘インドへ出発。645年帰朝790年吐藩が西域に進出唐の支配終了。

 密教とマンダラ
 密教はインドで次々と興った大乗仏教末期の流れである。とくにヒンズー教の影響を強く受けて成立した。
 650~700年頃、「大日経」と「金剛頂経」という密教経典が成立しそこでは密教を実践して即身成仏することが強調された。その後独自の流れの中でヒンズー教のシャークタ派(性力派)などの影響をうけいわゆるタントラ仏教となった。セックスも悟りの手段になり得るとされたこともあって堕落した仏教とされることも多い。

 密教は8世紀になって本格的に伝えられた。
 唐の時代善無畏 金剛智が来唐しそれぞれ「大日経」と「金剛頂経」を漢訳し体系的な密教経典が伝わった。
 マンダラとは本質を図示したものという意味であるが諸仏が描かれたものが多い。

 中国における仏教の展開
 紀元前後から西域の僧などによってインドの仏教経典が漢訳され中国独特の宗派が出来た。
 三論宗、天台宗、華厳宗、法相宗、律宗、浄土宗、禅宗、真言宗(密教)の八宗である。
 中でも天台宗は種々の教典を整理し理解しようとした。
 天台宗を大成したのは隋の時代の智顗(538~597年)である。彼ははじめ禅を修めさらに法華経を学んで浙江省の天台山にこもり独自の天台教義を大成した。

 日本への伝播
 仏教の伝来については551年欽明天皇13年説と538年宣化天皇三年の二説あるが、最近の研究では後者が評価されているが、渡来人の間ではそれよりも早くから信仰されていて、推古天皇の時代になると聖徳太子が登場。
 物部氏ら古くからの豪族勢力を排して、蘇我氏とともに国家的に推進するようになった。国家鎮護、除災招福即ち農民たちの五穀豊穣と病魔調伏と国家の安全を願ったのであるが、聖徳太子の功績は大きい。

 密教の展開
 最澄(766年)は東大寺で具足戒を受けた国家公認の僧であったが唐で仏法を学ぶことを願って許され804年に唐に渡った。このとき遣唐船には空海も乗船して居たが両者はまみえることが無かったという。当時中国では密教が流行して居り、最澄は天台教義と禅法とを学び、密教を授かり多くの典籍をもち帰った。806年には天皇の許しを得て天台宗が開宗された。しかし新しい宗派は南都六宗から批判を受ける。とくに天台宗が重視する法華経の一乗思想が攻撃された。
 最澄の没後比叡山に延暦寺の寺号下され、最澄に伝教大師という号が与えられた。
 空海(774年)は四国の石鎚山や奈良の金剛山などで修業に励んだ後、出家。

 日本の仏教
 日本の仏教は神道と互いに影響を及ぼしあいながら文化的伝統になってきた。
 百済第26代の聖明王が欽明天皇に経典を贈った538年が最初とされるが、それ以前からうけいれられた。仏教受容を進める蘇我氏と、それに反対するそれに反対する物部氏、中臣氏(神祇祭〇担当の氏族)との争いもあったが鎮護国家を目的として奈良仏教が推進され6世紀末には仏教興隆の詔が出された。
 聖徳太子の働きで寺院の建築や経典の注釈がなされた。奈良時代(中国では唐)に体系化された仏教が中国から伝えられ南都六宗が成立した。
① 唐で学んだ高麗の〇漢が来日して広めた三論宗
② 唐に渡った道昭たちが伝えた法相宗
③ 唐に留学した智蔵が伝えた成実宗
④ 法相宗の付属の宗として学ばれた倶舎宗
⑤ 唐から来日した鑑真が伝えた律宗
⑥ 唐で学んだ新羅の審〇が来日して伝えた華厳宗
以上を南都六宗というが現在の宗とは異なり各派の研究会派で六宗又は六衆といわれた。

 神仏習合と本地垂迹説
 古来のカミ信仰と仏教が影響しあい、神仏習合(神道と仏教が融合していくこと)が奈良時代に始まった。これは神もまた苦しき存在であり、それが仏によって救われる「神身離脱」の考えに基づいている。
 本地垂迹説とは仏や菩薩がこの世の人々を救うために仮の姿をあらわすという考えで、仏や菩薩が本地(本体)、神を垂迹(仮の姿)とする。これによって、それまで図像化されることのなかった神が神像として描かれたり神像体として祀られるようになった。

 明治政府の神道重視政策
 王政復古をスローガンとした維新政府は太政官と並べて神祇官を置き宗教問題を国が直接扱おうとした。特に国家の宗〇を行う神社を決めその地域の神社の氏子で神社への崇敬は国民当然の義務であるとの考えが強まった。また神社神道を中心的な宗教とするため明治政府は神仏分離を行い、神社と寺院、神職と僧侶を区別、一部の地域では仏教を排斥する廃仏毀釈の運動を展開し、地方によっては貴重な仏像や仏具が破壊された。
 維新政府は仏教よりも神社神道との結びつきを強め、それまでの天皇家と仏教の深い結びつきを弱める方針を出し13宗56派が公認された。即ち法相宗、華厳宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、臨済宗、真宗、曹洞宗、時宗、黄檗宗である(成立順)。

 主な宗派の成立
 「天台宗」 最澄が唐より帰国し桓武天皇の厚い保護をうけ比叡山に延暦寺を建立。法華経にすべての宗教が統一されることを説いた(中国天台宗を説いた智顗の教え)。小乗式の法相宗と対立した。朝に題目夕べに念仏といわれる。朝は般若心経を唱え夕の勧業は阿弥陀経を唱える。天皇家は天台宗である。

 「真言宗」
空海によって唐、長安の清竜寺の恵果から直伝された真言密教は大日経、金剛頂経という密教の正統的経典にのっとった由緒正しいものであった。
空海は大日如来を第一その他祖とする真言宗の相承で恵果の次に位置づけられている真言宗は京都の東寺、高野山などを中心に貴族社会に広まり一般庶民にまで浸透していった。覚鑁(興教大師(1095~1143年))は密教と浄土信仰とを習合させ大日如来と阿弥陀如来同一と説き紀州の根来寺に隠遁したが焼かれて京都東山に移り新義真言宗の祖と呼ばれている。

 「臨済宗」
栄西(1200~1215)は備中吉備津神社の神職賀陽氏の出であるが比叡山で密教を学んだ1168年と1187年の二回宋に渡り臨済宗黄龍派の禅を学び日本に伝えた。
京都に建仁寺を建て臨済宗を開いた。現在妙心寺派など14派の教団が主流。
京都五山 天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺
鎌倉五山 建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺
各五山が置かれたが南禅寺はこの十寺の上位に置かれた。

 「曹洞宗」
道元(1200~1253年)
内大臣久我通親の子として生れたが幼くして両親をうしない、13才のときから比叡山で学んだ。1223年宋に渡り天童山で如浄の弟子となり、帰国後しばらく建仁寺などに滞在したが1243年越前に向かい永平寺を建てた。「正法眼蔵」を撰述し弟子を養成した。ひたすら座禅する「只管打坐」という言葉に表現されている。禅を釈迦直伝の唯一の正法と位置づけ出家を重視した。禅は武士層に各地に禅寺が建立された。

 「浄土宗」
法然によって1175年に開かれた。唐の雲蔦、道〇、善導、そして日本の源信へとつづく教えであるが、なかでも善導の思想から決定的な影響をうけている。
浄土はもともと仏の住む場所をさすが阿弥陀仏の住む西のかなたの極楽浄土が有名である。阿弥陀とは無量の寿(年齢)無量の光を意味する。極楽浄土の思想はクシャ王朝時代のインドで100年頃に成立したといわれる。
主要経典は「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」の浄土三部経である。
唐ではサンスクリット(梵語)やインドの学問を学び、密教の伝授を受けて真言密教の第8視を継承した。806年に帰国し膨大な密教の典籍、仏像、マンダラなどをもたらした。高野山を道場とすることが嵯峨天皇から許され819年から寺院の建立に着手した。空海は医学や科学など多様な分野で活躍し人々から尊崇を受け奇跡的な内容の伝説も全国に多く伝えられる様になった。空海には弘法大師の号が贈られた。

 「浄土真宗」(一向宗)
親鸞(1173~1262年)は9才にして比叡山で学び念仏を行したが、得心がいかず1201年に京都の六角堂にこもり百か日の祈願をかけた。その95日法然に問えとの示しがありただちに法然を訪ねた。やがて親鸞は法然に絶対の信頼を置くようになる。
1207年法然が四国へ流罪、親鸞は越後に流された。その地で恵信尼と結婚した。僧の肉食妻帯を認める在家宗教としての特質がこのとき生まれた。
親鸞の曽孫覚如(1270~1351年)が親鸞の墓所を寺院化して本願寺と号した。
親鸞は1211年流罪を許されるが晩年まで京都に帰らず東国で伝道をはじめ常陸国に移り住んだ。
8代目蓮如は越前吉崎にて布教。大乗の門徒集団を育て、教義拡大と財政確保で斜陽の本願寺を再興した。
本願寺は山科、石山(大阪城の地)などに移転を繰り返したが、十一世の顕如が豊臣秀吉から現在の西本願寺が寄進された。ところが、顕如の長子教如が徳川家康から土地の寄進を受けて1602年に分立し、末寺も二分された。それを東本願寺といい、西本願寺にたいする。西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山、東本願寺は真宗大谷派の本山である。

 「日蓮宗」
日蓮によって1253年に開かれた宗派。日蓮(1222~1282年)は安房国に生まれ清澄寺と比叡山で学び奈良や高野山などをめぐったが1253年清澄寺に帰り「南無妙法蓮華経」と唱えて法華経の伝道を宣言した。法華経に帰依しなければ内乱や他国からの侵略が起こるとして「立正安国論」をあらわした。
はじめ法華宗と称したが、天台宗から異議が出たので、天台法華宗と区別し日蓮宗とした。法華宗の解釈のちがいから多くの分派が生じた。日蓮は他宗批判や過激発言で有名。
伊豆の流罪を経て各地で布教池上で没す(のちの本門寺)

「黄檗宗」(臨済宗楊岐派)
中国では1644年に明が滅亡し清朝に代った。そのため長崎には福建省を中心に多くの亡命者が渡航し、寺院を建立して先祖のまつりを行った。かれらが福建省の黄檗宗万福寺から招いたのが隠元(1592~1673年)である。隠元は多くの弟子や工人を連れて1654年に来日。江戸幕府にも歓迎されて宇治に寺地を与えられ、万福寺を開いて黄檗宗の祖となった。持ち込んだ作法、建築、料理など日本文化に大きな影響を興えた。
 西暦 17年9月25日 月曜日 ゆったり気分の日曜日
 昨日は日曜日ということで、午前中に岳真也著「幕末外交官」を読了。
 幕末ものはそれなりに読んできたつもりだが幕府方藩士に岩瀬忠震のような硬骨漢がいたことは全然知らなかった。

 午前12時からは坂ノ下地区・八幡会のレクレーションで、三国の国民休暇村へ。レクレーションと言っても、単に飲み食いに行っただけだが、若狭牛と生ビールが美味かった。久しぶりの外食。

 帰ってからは大相撲千秋楽をテレビ観戦。豪栄道のあっけない敗退に気が抜けてしまった。
西暦 17年9月24日 日曜日 
 一昨日の午後は、あわら市河間の高戸甚右衛門氏宅。

 我々来訪者10人は、氏(94歳)から世界宗教の話を聞いていた。
 氏は百姓で、当然のことながら専門家として五穀薬種の探索の為に世界を放浪し、余技として各地の宗教に触れただけとのこと。

氏の手書き参考資料-1
ゾロアスター教(拝火教)
 古代に興った宗教であるが現在もインドを中心に少数信者がいる。
イラン北東部からアフガニスタンにかけて古代におこり寺院には日常生活や祭儀に欠かせない聖なる火が燃えており、それが崇拝されるので拝火教とも呼ばれる。
創始者はゾロアスターで彼の生涯は紀元前600年前後といわれ彼は30才の頃、アフラ、マズダーから啓示をうけてこの新しい宗教を広めた。古代ペルシャでは、王家をはじめ多くの人が信仰した。3世紀に興ったササン朝ペルシャでは国教となった。経典は「アヴェスタ」で善霊と悪霊の二元論でこの対立は「生命、光」と「死、闇」との戦いでそのどちらに属するかは人間の自由で、各自の行為はは死後その魂が報いを受けることになる。最後の審判、終末における救世主の登場との観念はユダヤ教、キリスト教、イスラム教などにも影響を与えたとされる。シンボルマークは二頭の鷲でこれはロシア正教のシンボルマークでもある。

手書き参考資料-2
聖徳太子(574-622)
用明天皇の子で、叔母である推古天皇の摂政として政治の実務に携った。
儒教の思想をとりいれて、冠位十二階の制度や十七条憲法を制定した。
高句麗の僧慧慈について仏教を学び、仏教の保護に力を入れたといわれる。成果は斑鳩寺(法隆寺)、橘寺、中宮寺などの寺院造営や「三経義疏」の執筆であった。
「三経義疏」とは法華経、勝鬘経、維摩経の三経の注釈で太子の死後、太子信仰が生まれ広まった。
鎌倉時代の親鸞は仏教の日本における開祖として「和国の教主」とよんだといわれる。
仏教を学ぶ
-その発生と伝播-

世界の宗教
1、キリスト教文化圏
 ヨーロッパ、南北アメリカ
2、イスラム文化圏
 中東を中心に東西に広がる
3、ヒンドゥー教、仏教文化圏
 南アジア、東南アジア
4、中国、宗教文化圏
 儒教、道教、大乗仏教が深くからみ合った。(日本はここに入る)

宗教的特徴
 一神教=ユダヤ教、キリスト教、イスラム教(現世と耒世しか無い)
 多神教=東南アジアでの主流
 重層信仰=神も仏も混じりあって信仰される(霊魂不滅で生れ代る)

仏教
 古代インドにおいて、ブッダにより創始され、現在もアジアと東南アジアを中心に3億人余りの信者をもつ。

釈迦(ブッダ)の出生と生涯
 ブッダとは悟った人(覚者)の意味で、釈尊とは釈迦族の聖者という意味である。
 ブッダの伝記が文字に記されるのは没後数百年経ってからで多くの説があり、内容もかなり神格化されている。出生も南方仏教徒の統一見解では紀元前624年説であり、日本では紀元前463年説がもっとも支持されている。
北インド(現ネパール)のカピラヴァスツ城で釈迦族の王子として生れ、結婚して一子もうけたが、29才のとき出家を決意した。(生老病死の苦を知り)苦業後ひとり静かに座って瞑想を行い35才の頃悟りを得て如来(修業を完成した意)と称された。悟りを得たブッダガヤの聖地にはインドボダイ樹(現在4代目)と座禅石が今もそのまま保存されている。
 最初の説法(初転法論)はガンジス川の聖地ベナレス近郊のサルナートで行われた。そこに苦業をともにした五人の比丘(出家修業者)がいたからという。かれらは釈迦が苦業を中止したことで袂を分っていたが、最初の説法の相手に選ばれたのはかれらであった。説法を「法論を転じる」ということから初転法論と呼ぶ。
釈迦はこの最初の弟子となったっ五人の比丘にそれぞれ独りで伝道の旅に行くように命じ自分も旅をつづけた。悟りは自分のものであり独りでゆくことが大切とした。
 各地を説法してクシナガラに於て80年の生涯をとじるが最初の説法は霊鷲山(ビハールソ州のラジギール)で法華経を説いたとされている。
 クシナガラでの入滅の姿は寝釈迦様と呼ばれ頭北面西右脇(ヅボクメンサイウキヨウガ)で死の直前までブッダにつき従った弟子は500人居たとされ五百羅漢と呼ばれる。
 ブッダは弟子たちに「遊行せよ、法を説け、同じ道を行くな」と説いていたので、弟子たちは各地をめぐって教を広めた。

ブッダの悟りの内容
 四諦八正道(シタイハッショウドウ)を悟ったというもので、これは4つの真理とそれを得るための8つの正しい道である。
 四諦の諦はあきらめるような印象を与えるが、諦は「サテイヤ」または「サッチヤ」すなわち真理という意味の漢訳である。根本的な4つの真理ということである。具体的には、苦諦、集諦、滅諦、道諦である。人生の現実は自分の思う通りにはならず、苦である(苦諦)。その苦は煩悩やもろもろの欲望から生ずる(集諦)。そのためには正しい実践を行わなければならない(道諦)。
 そしてその正しい実践が八正道である。それは正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
 人生は苦であることを悟りその苦から脱する方法。
 人生が苦に満ちている(一切皆苦)というのは仏教の基本的な教である。それは四苦八苦として示される。四苦とは愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の4つを合わせて八苦となる。愛別離苦は愛する者と別れる苦しみ、怨憎会苦は憎む者と会う苦しみ、求不得苦は求めても得ることのできない苦しみ、五陰盛苦は感覚や想念などにとらわれることによる苦しみ(失恋など)。
 三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)。

佛典の編等 
 ブッダが入滅してから数百年は文字化された教典はなかった。弟子たちは教えを暗誦して覚えた。そして正しい教えと戒律がずっと守られるようにと魔訶迦葉が王舎城外にあった。精舎で集会を開き、阿難、優婆離の二人がそれぞれ教えと律を唱え、これに合わせて参加者一同が唱えるとした。これが仏典の第一回結果で近代までくり返された。
 
アレキサンダー大王の印度支配と仏教への影響
大乗仏教の成立
 アフガニスタンとパキスタン(かってインド)の境をなすカイバル峠は、インド大陸が中央アジアに通ずる陸の門戸で五千年来インド征服の野望を抱く人達が攻防を繰り返し、勝った者が土着した処である。インダス文明を築いたシュメール人はを滅ぼしたアーリア人も紀元前1,300年にここから侵入した。
アレキサンダー大王も長躯マケドニヤから馳せ苦戦の末インドを平定した(紀元前3274~325年)。
慕われた民衆に懇願されたが、カイバル峠の戦いで多数の部下を失ったことを思い断った。
その後、チャンドラ ブクタによるインド最初の大帝国マウリヤ王朝が成立。その時代アショーカ王(阿育王 愛宕王)(紀元前268~232年在位)は都をタキシラ(タクシャシラ)に置き仏教を国教として保護(佛護王と呼ばれた)した。

教派の分裂と大乗仏教の成立
 戒律を守る戒律至上主義の上座仏教と竜樹の唱える大乗仏教に分かれ厳しい戒律を守ったり修行をしなくとも阿弥陀仏の名を唱えれば極楽浄土に往生出来るとの浄土思想ととすべての衆生は等しく成仏出来るとの大乗思想を竜樹に広く学びすべてのものが他の相互依存の関係で成り立つ「空の思想」を説いて「中論」をあらわした。之を大乗仏教といい、上座部仏教を小乗仏教という。
大乗仏教は在家仏教ともいわれ誰でも仏になれ仏性を持っている。とくに密教では真言、陀羅尼を唱えるだけで災厄を払う神秘的法力が得られるとの考えが強まった。
マウリア王朝のあとメナンドロス(ミリンダ王)が表臨(紀元前163才)サカ族の移動と大月氏国の分裂後の紀元45年クシヤナ朝が興り都をカイバル峠の近くタキレラがシダーラ地方の中心ペシャワール(プルシヤブラ)に置き、第4代カニレカ王は仏教を厚く保護しインド仏教と異文化の接触のなかではじめて仏像は誕生した。これまで仏像を造ったこともなく仏足石(ブッダの足の裏)を拝むだけであったが仏典の解釈と共に釈迦の幼少の頃から説法入滅までギリシャの芸術とパンジャブ古来の文化が融合して芸術が開花し衆生が仏像を拝むようになった。

大乗仏教の基礎が確立
 ペシャワールの町は革新的大乗仏教の基礎が完成された処で幾多の先覚者を輩出している。この町に生れ後世ナーランダ大学の大教主として活躍したといわれる「アサンガー」(無着)は般若波羅密多の教理解釈に苦心してアユタに行きマイトレーヤ(弥勒菩薩)の指導を受けて摂大乗論を著したとか、その弟の「パスバンス」=天親(世親)菩薩であって1000巻の教典を論述したといわれ彼の晩年の無量寿教憂波提舎は有名である。また中国の雲蔦大師にこの浄土論を指導したと伝えられるボデルシイ ペシャワールの出身で彼の導きで雲蔦は天親の浄土論を中国で訳しこれが後世日本において法然、親鸞に引き継がれることとなった。

 仏教の伝播
 クシヤン王朝カニシカ王(即位西暦128年又は144年)は都をペシャワールに置き東はビハールからトルキスタン、アフガニスタン、東インド、デカン高原と広大な領地をもち仏教を保護し各地にストウパー等を残しカニシカの金貨に仏像を刻印したものも多いが幾多の戦いで部下を亡くした王は仏教だけでなくゾロアスターやヒンズー教の神殿も創建している。

 南インドのスリランカ(セイロン)へ仏教を伝えたのはアショーカの子マヒンダであるが、上座部仏教は一部の宗教エリートしか救わない小乗仏教で南方に伝わったので南伝仏教とも呼ばれ今日スリランカ、タイ、ラオス、カンボジアなどに存在する。
 一方中国を経由し東アジアに広まった流れは大乗仏教とか北伝仏教と呼ばれ中国、韓国、チベット、日本、台湾などで文化的にも大きな影響を与えた。
 インドでは、バラモン-ヒンズー教の影響で密教化されて行った。チベットでは古来のボン教と合体した密教タントラ化したラマ教となった。

 シルクロードと仏教の伝来
 西域の求法僧としては紀元前139年頃、前漢の武帝が張○を西域に派遣後73年後漢の和帝斑超を西域へ。
 399年法顕インドへ出発。412年セイロン、インドネシアを経て帰朝。401年斑摩羅付長安で訳経をはじめる。627年頃玄〇インドへ出発。645年帰朝790年吐藩が西域に進出唐の支配終了。

 密教とマンダラ
 密教はインドで次々と興った大乗仏教末期の流れである。とくにヒンズー教の影響を強く受けて成立した。
 650~700年頃、「大日経」と「金剛頂経」という密教経典が成立しそこでは密教を実践して即身成仏することが強調された。その後独自の流れの中でヒンズー教のシャークタ派(性力派)などの影響をうけいわゆるタントラ仏教となった。セックスも悟りの手段になり得るとされたこともあって堕落した仏教とされることも多い。

 密教は8世紀になって本格的に伝えられた。
 唐の時代善無畏 金剛智が来唐しそれぞれ「大日経」と「金剛頂経」を漢訳し体系的な密教経典が伝わった。
 マンダラとは本質を図示したものという意味であるが諸仏が描かれたものが多い。

 中国における仏教の展開
 紀元前後から西域の僧などによってインドの仏教経典が漢訳され中国独特の宗派が出来た。
 三論宗、天台宗、華厳宗、法相宗、律宗、浄土宗、禅宗、真言宗(密教)の八宗である。
 中でも天台宗は種々の教典を整理し理解しようとした。
 天台宗を大成したのは隋の時代の智顗(538~597)である。彼ははじめ禅を修めさらに法華経を学んで浙江省の天台山にこもり独自の天台教義を大成した。

 日本への伝播
 仏教の伝来については551年欽明天皇13年説と538年宣化天皇三年の二説あるが、最近の研究では後者が評価されているが、渡来人の間ではそれよりも早くから信仰されていて、推古天皇の時代になると聖徳太子が登場。
 物部氏ら古くからの豪族勢力を排して、蘇我氏とともに国家的に推進するようになった。国家鎮護、除災招福即ち農民たちの五穀豊穣と病魔調伏と国家の安全を願ったのであるが、聖徳太子の功績は大きい。

 密教の展開
 最澄(766)は東大寺で具足戒を受けた国家公認の僧であったが唐で仏法を学ぶことを願って許され804年に唐に渡った。このとき遣唐船には空海も乗船して居たが両者はまみえることが無かったという。当時中国では密教が流行して居り、最澄は天台教義と禅法とを学び、密教を授かり多くの典籍をもち帰った。806年には天皇の許しを得て天台宗が開宗された。しかし新しい宗派は南都六宗から批判を受ける。とくに天台宗が重視する法華経の一乗思想が攻撃された。
 最澄の没後比叡山に延暦寺の寺号下され、最澄に伝教大師という号が与えられた。
 空海(774年)は四国の石鎚山や奈良の金剛山などで修業に励んだ後、出家。

 日本の仏教
 日本の仏教は神道と互いに影響を及ぼしあいながら文化的伝統になってきた。
 百済第26代の聖明王が欽明天皇に経典を贈った538年が最初とされるが、それ以前からうけいれられた。仏教受容を進める蘇我氏と、それに反対するそれに反対する物部氏、中臣氏(神祇祭〇担当の氏族)との争いもあったが鎮護国家を目的として奈良仏教がが推進され6世紀末には仏教興隆の詔が出された。
 聖徳太子の働きで寺院の建築や経典の注釈がなされた。奈良時代(中国では唐)に体系化された仏教が中国から伝えられ南都六宗が成立した。


西暦 17年9月21日 木曜日 雨上がり 
 昨日の午後は「創作の森」へ行った。土砂降りとなったので森の中の喫茶店へ入り雨宿り。雨が上がったので、「そろそろ帰ろうか」とそとに出たら薄もやがかかっている。ファンタジックなので、通りすがりの若い女性に「写真を撮ってください」と頼んだ。
 
 被写体(僕)も、最近はジーンズファッションに身を固めているので素敵と言える。

 西暦 17年9月20日 水曜日 酔った酔った 
 昨晩は9人がY市議事務所宅に集まっての大宴会。
 Y市議事務所は僕の事務所の真向かいにあり、これくらいなら苦労なく歩いていける。
 料理は長谷川さんの手になるもので、刺身とオヤキ。あとで某VIPがもってきたタコ焼きが加わった。
 皆が明るく語り合っている喧噪をよそに、僕は左甚五郎のことを、沈思黙考していた。清酒ですっかり酩酊した僕はわが事務所へ帰り(徒歩20秒)、ベッドに倒れ込み熟睡。

西暦 17年9月19日 火曜日 左甚五郎 
 赤瀬川隼著「甚五郎異聞」を読み終えた。この10日間に読んだ本で一番面白かった。左甚五郎はたかだか戦国末期から徳川初期の人間であるにも関わらず実体のよくわからない男で、講談や浪花節でだけとりあげられてきた。
 著者は「あとがき」でこう書いている。
 「左甚五郎とは誰だったのか。実在したのか、しなかったのか。それほど大昔の人物ではなく、江戸時代初期の話だが、その出自や足跡を確実に証すに足る史料はない。また、左甚五郎の作と言い伝えられる彫刻が各地に少なからず存在するが、これらにも一つとしてそれと立証できるものはない。
 にもかかわらず、あるいはそれゆえと言うべきか、この人物は大衆娯楽の演目に主役としてたびたび登場してきた。歌舞伎、講談、落語などである。史家の研究対象にはまず上がっていない。
 芸術家と職人をどう区別するかは、今では本人と周囲の主観に左右されることが多く、流動的だが、昔は職人は職人であり、一つの身分だった。彫刻家というような「家」を付けて呼ばれる存在はなく、彫り師がいた。寺社建築では堂宮大工の棟梁に従属する位置に宮彫り師がいた。名工といえども身分は低かった。
 左甚五郎の実在が曖昧で奇譚伝説ばかりが伝わってきたのは、一つにはこの「職人の無名性」ゆえであろう。しかし、その実在の曖昧さは当時の物語作者を刺激した。奇譚やファンタジーを自由に創作する幅が加わる。主人公は武士でも豪商でもなく、庶民階級の異能の彫り師である。奇譚は奇譚を生み、庶民の英雄像となった。
 僕も少年時代から、左甚五郎の名や、彫刻にまつわる伝説のいくつかは耳にしてきた。彫った鷹に眼を入れた途端に飛び始めたとか、寛永寺の鐘楼の柱に彫った龍が夜中に不忍池に水を飲みに行くとか、鴨居に彫った虎や鶴が畑を荒らすといったたぐいである。そういう法螺話は僕も嫌いではない。しかし自分が書くとどうか。
 結局今までに左甚五郎について語られてきた多くの手法とは反対に、いわばリアリズムの文体による創作に徹することに決めた。
 初めに書いたように、左甚五郎の出自や足跡を証明できる史料はない。所説ある中で僕は、出自と少年時代の生い立ちは、昔講談で読んだ記憶と、左光拳氏の著作を参考にさせていただくことにした。
 繰り返すようだが、左甚五郎について今に伝わる話は、すべてが奇譚であり伝説であり異聞であると言ってよい。そういう中で僕がリアリズムの文体による創作を意図したのは、この伝説上の人物を、僕の中で何とかして実在させたい、リアリテイを持たせたいと思ったからだ。そして、今までに出来上がった数々のイメージに照らせば、こっちの甚五郎伝のほうが異聞の位置を占めるという気持ちを、逆説的に本の題名に籠めたつもりである。
 小説が動き出し、わが左甚五郎が動き出すと、その時代に生きた何人かの歴史上著名な人物との出会いが生まれた。そういう多くの人物の影響を受け、感化されながら、僕の中の甚五郎は、どうしてもこの小説の結末のような道を選ばざるを得なかったのである。
 新聞連載中は、三友社の御園徹氏、寺田弘氏に、また出版に当たってNHK出版の藤野健一氏、河野逸人氏に数々の示唆と教示をいただいた。この場を借りてお礼申し上げる。
      2004年4月        赤瀬川隼

西暦 17年9月18日 月曜日 やだなあ月曜日だ 
 井沢元彦著「覇者」(全三巻)をやっと読み終えた一昨日の夕刻、歯科医のS氏が来訪。そこへ山川市議から「飲んでいる。来ないか」の電話が入り、行った我々は量り売りの焼酎と肉汁野菜炒めでもてなされた。一人住まいの彼の料理の腕は当然ハイレベルだ。
 記憶せよ 十二月八日
 この日 世界の歴史あらたまる

 アングロサクソンの主権
 この日 東亜の陸と海に否定さる

 否定するものは彼等のジャパン
 眇たる 東海の国にして
 また神の国たる日本たり   高村幸太郎
西暦 17年9月17日 日曜日
 昨日の午後は組頭五十夫氏による講演会「北潟湖の自然と環境を考える」が開かれた。
 
 我々に配布されたレジュメに沿って講演は進んだ。
 西暦 17年9月15日 金曜日 昨日の一日

 朝一番で、工務店社長の来訪により目が覚めた。

 午前中は市役所で入札が二件あったのだが、いずれも敗退。僕に依頼の回らないあわら市の公共建築物の水準は低下していくだろう。
 
 その足で伊井工業団地へ。達川氏の明社役員相手の「障害者をとりまく社会状況」についての意見を拝聴。僕も聾者との付き合いがながかったので、思いの重なるところ多々あり。
 そのあと、山羊さんとご対面。しばらく見ないうちに大きくなっている、
 
 山羊の寿命は15年くらい。白黒の彼らは七歳というからもう熟年だ。

 午後は福井土木事務所へ。打合せの上図面訂正。

西暦 17年9月12日 火曜日 甘海老刺身とおやきの宴会 
 
 仕事一途ではバランスのとれた成長ができないのではないかと思い、一昨日の晩は「甘海老刺身とおやき」での長谷川・山川・牧田三人年寄り宴会。料理は勿論必殺料理人・長谷川氏の手作りだ。楽しかった。
 
 山口喜三太陶芸展のお知らせ
西暦 17年9月10日 日曜日 きょうは日曜日 
 今、かろうじて広島カープと対等に戦えるのは阪神タイガースだけであるにも関わらず、先日のカープVSタイガース三連戦で接戦ながらもカープ三連勝となり、タイガースがセリーグの覇者となる僕の夢は潰えてしまった。
 
 そこで、昨日の土曜日は、井沢元彦著「覇者」(全三巻)を読み進めていた。
 「覇者」は戦国末期の、武田信玄VS織田信長VS足利義昭のバトルロワイアルで、今日(こんにち)のカープVSタイガースを接戦の連続と呼ぶならば、四百数十年前のこのバトルを手に汗握る大接戦と呼ぶことができるだろう。それは、信玄の頭脳・源五郎VS信長の頭脳・誠之助VS義昭の使僧・真海のバトルであったとも言える。
 
西暦 17年9月8日 金曜日 仕事一途

 昨晩は、手話講習会。
 いつもとは趣向を変えて、僕は手話の発生から現在までの歴史的な流れについての諸々を語ることに終始した。
 語っていて思い出したのが、(僕が議員を辞めたあとだから)数年前のあわら市議会最終日。日本聾唖連盟が議会に提出した案=「手話は日本語である」が市議大多数の賛同を得て成立した瞬間で、傍聴席には沢山の聾唖者が居た。

 このことを説明していた時、受講者(=稲田朋美の秘書)の手が上がり、彼女は「鳥取県では県全体の市町村で法制化されていますよ}と言う。さすが、国会議員秘書の耳ははやい。
 
西暦 17年9月7日 木曜日 無題

 
 
 十数年間、飽きもせずに駄文ブログを愚直に書き続けてきて、唯一「面白かった」メールが入ってきたもの=。あの頃の私は、夢ばかりみていた。

三国土木事務所での打合わせ終え、海岸に出た。
落ちる夕陽に染まる水平線からの風は冷たい。

パリで買ったダーバンのコートのえりをたててのくわえ煙草。憂愁の気分で岩畳にたたずむ私を横ぎろうとするひとつの影がある。
年の頃は42,3か。利休ねずみの鼻緒の草履、浅黄色の地に濃紺紋様の西陣、白いうなじ、島田髪の和服女性は、軽く私に会釈し去って行く。

遠ざかる彼女の細い背中は夕陽の逆光でシルエットと化した。
岩畳を散策する足取りおぼつかなく、不意の波しぶきよけようとした彼女の体が反転しよろけた。
かけつけ、「大丈夫ですか、奥さん」と声かける私に「おおきに、大丈夫どす。それにうち、今は奥さんあらしません」と彼女は言う。

うちとけ、肩並べつつ砂浜を歩いた。いつの間にかふたりの指はからみあっている。
彼女の胸の激しい鼓動が聞こえてくる。抱きしめ口づけを、と思わないでもなかったが議員なので我慢した。
別れた亭主のこと、今彼女にいいよっている幾人かの嫌な男たちのこと、そのうちのひとりが某市の議員だということ、にも関わらず自立し孤高に生きていこうとする思いききつつ、「この人にしろ私にしろ、美男美女の人生につきまとうのは、やはり悲しみと憂いなのか、それが宿命というものなのか」と私はココロでつぶやいた。

気がついたら辺りは既に闇だ。
それでは、と背をむけた私を「りりしいおかた・・・たくましいおかた。うち、貴男様のお名前まだ聞いてしません。今晩のお宿どこですの?教えてくださいな。うち、行ってもかましませんでしょ?ねえ、かましませんでしょ?」と彼女の涙声の懇願が追う。
私は「奥さん、いやもと奥さん。私は名のるほどのものではございません。貴女は私をいとしく思っているのかもしれないが、それは本当の私・裏の私を知らないからだ。どんな男でも、私よりましなのです。恋に恋してはならない。恋に恋したところでなにものも生まれはしない。貴女はいつの日か必ず真実の男性にめぐり合います。ここでさようならすることだけが、お互いを幸せにする道なのです」と答え、歩きはじめた。
背中見続けているであろう彼女の視線に耐えきれず、私はゆっくりと、しかし止まることなく歩き続けた・・・・。

こんなことを岩畳の上で夢想したのだが、こんなシチュエーション、52年のわしの人生に一度もなかったなあ。悔しいなあ。
 今晩は、「組頭氏講演についての準備打合せ会議。

西暦 17年9月6日 水曜日 無題
昨日の午前中は永平寺町に居た。某建物建設予定地のトランシット測量ということで工大な敷地を歩き廻り、ようやく腰の痛みがなえてきたとはほとほとに疲れて帰宅。
 事務所前ではN君が待っていて、手には高級焼酎。余はすこぶる満足だった。

西暦 17年9月4日 月曜日 昨晩のこと


 昨夕の5時頃に、向いの家の長谷川さんがやって来て「美味しい料理をつくった。飲もう」と言う。勿論、飲み会の誘いを僕は断ったことがない。
 同じく向かいにあるY市議連絡事務所・和室での年寄り三人飲み会となった。(ついでながら「年寄り」とは江戸幕府政治家用語で、年を経て人生の機微を観ることのできるようになった人のことをいう。)

 実は僕は畳の部屋が苦手だ。腰痛で正座は勿論胡坐(あぐら)もかけない。椅子を出されたが、目線の高さの違いに違和を感じて、手作り料理に舌鼓をうちつつなおかつそこでの世界政治を論じる真摯さに凝縮された時間を感じつつも早めにその場を中座し事務所に戻り熟睡。
 さて・・ 深夜の何時頃だったろうか、(つれあい)が「大変!」との嬌声で事務所に飛び込んできた。「台所の壁にヤモリが居るのよ、怖いわ!」と言う。

 先祖がサムライだった(わたくし)は、「落ち着きなされよ」と言いつつ、ヤモリを白タオルでつまみ野外に出した。
 昔は家にヤモリは勿論、青大将もいたし鼠もいたしこおろぎなどの昆虫も沢山居て、言うならば人間と動物との共生社会がそこにあった。
 理由の一つは、野外と屋内のあいだの結界としての縁側の存在だと、僕は思う。
 

 西暦 17年9月3日 日曜日 昨日のこと

 昨日の午前中は、義兄の一周忌ということで福井市二ノ宮に居た。僧侶の読経時に、僕は仏壇の横に置かれたたくさんの酒瓶、徳利を眺めていた。義兄は酒と朝鮮史が好きで、死後に朝鮮史関係の書物及び自らのメモを好事家に譲るためにダンボール200箱が必要だったとのこと。
 去年の6月にホスピスへ彼を訪ねたことが、昨日のことのように思い出される。


 西暦 17年9月2日 土曜日
 ここ数年来会ったことがなかった友人・某氏の死を聞いて複雑な思いにとらわれる。
 某氏は僕より10歳近く若くつまり男盛りのなかでの死でありそれはそれで仕方ないのだが、気になるのは死が自死(自殺)であったことだ。