18年06月日記

西暦 18年6月28日 木曜日 無題 
 昨夕、山川市議が久し振りに現われた。広島へ向かっての原水禁大行進で、福井県内を同行しているとのこと。

 ところで
 このところ、時間感覚が不安定だ。一分間を一時間に感じたり一時間を一分間に感じたりする。脳内出血による後遺症かもしれないし単なるボケかもしれない。それが心的抑圧になっていないのだから、理由はどちらでも構わないのだが。

 朝焼小焼だ
 大漁だ
 大羽鰯の
 大漁だ
 浜はまつりの
 ようだけど
 海のなかでは
 何万の
 鰯のとむらい
 するだろう      金子みすゞ


西暦 18年6月27日 水曜日 無題
 長谷川勲氏が今度講演をすることになって、僕はパワーポインターを受け持つことになったので、そろそろその準備に入ろう。
閑話休題
 連戦連敗の阪神タイガースのていたらくに、「今年のプロ野球とはおさばらしようか」と思っていた昨夜、タイガースは見事によみがえった。僕は反省した。例えこれからが全敗でも応援し続けよう。
 タイガースは恋人なのです。

西暦 18年6月26日 火曜日 久しぶりの遠出
 先日日曜日の午前11時、敦賀市川崎町(気比の松原のある所)で、昨年亡くなった従兄の法要が始まった。集まった面々で僕のお袋が群を抜いて年寄りだ。従兄妹も全員(4人)集まったが、僕は若いほうから二番目。
 70年間も生きてきて、僕も沢山の夜伽に参加してきたが、お経が漢語読みなので意味が殆ど分からない。仕方なくじっと聴くふりをしながら、走馬灯のように次から次へと浮かんでくる在りし日の従兄との対話をかみしめていた。

 法要が済んでから先祖代々の墓所へ。墓所の背面は、新田義貞が足利軍に対抗して立てこもった大谷吉継の居城のあった金ケ崎山だ。既に城跡はないが蝉時雨のなかに往時が映像としてよみがえってくる。
 場所を変えて小料理屋へ。飲み食いの始まりだ。孫を連れてきた従妹もいて、げに、死ぬ人間も生まれる人間もいる。
 結局、自宅へ帰った時は5時を過ぎていた。

西暦 18年6月23日 土曜日
 きょうは敦賀だ。
 仲の良かった従兄弟が亡くなってはや一年。法事で敦賀まで行ってくる。


西暦 18年6月22日 金曜日 もう週末か
 先日、県民福井の記者がこのような写真を持ってやってきた。
 福井大震災勃発二日後に撮られた写真で、遥かに竹田川が見え手前に鳥居が見えてこの近くであることはわかるのだけど特定できないとのこと。福井震災は昭和23年6月で、当時ぼくはお袋の子宮のなかにいた。言い換えればマイナス五カ月で当然のことながら写真に記憶のあるはずがない。
 記憶の可能性のある人達つまり当時20歳以上のあらかたは現存しない。せめて10年前だったら手掛かりがあったろうにと思った。

 ところで
 昨夜は一睡もせずに、とうとう、森村誠一著「忠臣蔵」を読み終えた。眠れないから徹夜したのではなくて、この本が終章に近づくに連れて元禄文化の深みを現代(昭和末期)と比定しつつえぐり出していることでの面白さ故に眠れなかったというのが正解で、今までに何人かの作家による忠臣蔵を読んだが、この人の場合は主軸に架空の人物を創造している点でエンタテーナーぶりをいかんなく発揮している。 
 読み終わり戸外に出て漆黒の闇を見つめているうち、不思議なことだが、東京オリンピック・男子マラソンが脳裏に浮かび上がった。そう・・円谷幸吉だ。アベベ、ヒートリーに次いで銅メダリストとなり後に自殺した男だ。
 
 彼は家族あてにこういう遺書を書いている↓。
 父上様母上様 三日とろろ美味しうございました
 敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました
 幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって 走れません
 幸吉は父母様の側で 暮らしとうございました


西暦 18年6月18日 月曜日 無題
 
「見る」「触る」「聞く」「嗅ぐ」つまり僕の生物としての感受機能がこのところどんどん変質して、自分がまるで夢の途中に居るような気がする。
 僕の体内の湿潤密度が低下し、松岡正剛流に云うなら「揮発性」に快を感じている。

 そういうことで昨日の僕は貸衣装店に行って、モーニングの丈の打合せをしていた。
 このモーニングを着る日までは、自分に甘えず歩行訓練に精を出そう。ロコモ体操をこなしていこう。
 節目の日がすんだらケセラセラだ。

西暦 18年6月17日 日曜日
 
 みじか夜や 百の夢路を かちはたし 萱野三平


西暦 18年6月15日 金曜日 無題
 
 昨晩は、立正佼成会あわら支部で、明社理事会が開かれ、9時に帰宅。
 テレビをつけた。阪神が負け巨人が勝つという最悪の結果に憮然とした僕はテレビを消し、森村誠一著「忠臣蔵」を開いた。
 森村というと、日中戦争当時、731部隊の足跡を暴いた「悪魔の飽食」の作者で、人体実験という行為のおぞましさに辟易としながら、一晩で読み切ってしまったのを覚えている。
 ということで
 今はユーチューブでNHKクローズアップ現代・731部隊を見ている

西暦 18年6月14日 木曜日 またまた忠臣蔵
 
 すっかり「忠臣蔵」にはまり込んでしまった。今度は森村誠一の忠臣蔵(上下)。彼の単行本でこの本だけは読んでいなかったのも幸いだ。
 元和偃武から時を経て、武断政治が遠のき文治政治が支配的となった元禄期に起こった刃傷松の廊下事件は、貨幣経済の発達により贈賄汚職がお上の身辺に常態化していたことに根を持つ。
 僕が若かったころ(田中角栄が首相だった頃か)昭和元禄という言葉をよく耳にしたが、なんと現代と似通っていることか。

暦 18年6月13日 水曜日 ふと思ったこと
 
 昨晩は5人が来訪。藤田良二郎氏講演についての打合せが議論のテーマとなった。
 最近僕は思うのだが、講演会などの案内チラシを知人宅に持って行くと、「行きたいけど用事があっていけないわ」の返事が半数近くあって、ならばビデオ撮りが必要なんじゃないか。新聞のコマーシャル欄には一万円くらいで動画撮影機が売られている。それくらいならなんとか購入したい。酒煙草をしばらくだけがまんすれば可能なのである。

西暦 18年6月12日 火曜日 無題 
 昨日の午前中は、あわら市議会一般質問を傍聴。
 質問者側にも、答える側にも「???」を感じた。議員時代に戻ったような錯覚を起こし、思わず手をあげそうになった。
 さて
 鳥屋の酒 酔うてはさめて 面白し   柏翠
 
 「伊藤柏翠自伝」読了。第四章で森田愛子のことが詳しく出てくる。私は数年前に森田愛子の生家の改修設計をしているので、とてもなつかしかった。三国「永正寺」のすぐ近くです。
 

西暦 18年6月11日 月曜日 「新・忠臣蔵」全巻を読み読了
 「新・忠臣蔵」全巻を読み終えた。
 
 将軍綱吉の死と共に新将軍が登場。
 犬並びに生類の憐みを廃止。政府重役の更迭も断行され、柳沢一党は屏息、新井白石、間部詮房の時代に移る。ついで白石が大赦の建白をし、第一回の特音が下った。
 その中に、赤穂義士関係の遺族が入っていたことは、云うまでもない。遠島申渡しを受けながら、幼年の故を以て、執行猶予中の遺子も、この際、、全員無罪となった。・・・大石はじめ一党は、このときまさに蘇った。やがて人気は沸騰し、忠魂大勇の典型となる。江戸の市民が、日本橋の高札を引っこ抜いて、河中へ擲ったのに端を発したとは云え、その当時とは朝も野を、まったく一変したのである。

 左京の局が帰ってから、瑶泉院は長矩の位牌をまつる仏間に座って、一夜を明かした。
 遠い昔の、城と海と岬のある朝ぼらけが彼女の目に浮かんできた。
 「阿久利・・阿久利」
 と呼ぶ長矩の声がきこえるようだった。
 年は七つ違い。が、まだ幕府から縁組許可の下りない筒井筒の頃で・・・・。
 仰ぐと、朝焼けの空に、萌黄に煙る鷹取峠が聳えている。
 若い日のことを思うと、余りの美しさに、自分がまるで、その頃の阿久利になったような気がするものだ。
 彼女はひとり、香煙の中で、それからそれと、あの恋しかった頃の思い出の絵巻を、ひろげていった。
                                    (完)


西暦 18年6月10日 日曜日 久しぶりの同窓会
 昨日は金津中学校時代の同窓会で、約70人がG芳泉に集まった。来賓として3年5組担任の森川先生がご来場。八つのクラスの担任のうち、御存命は二人だけとのこと。
 そして
 来場者のうち、杖を必要とするのは森川先生と私の二人だけだった。
 
 
 更に飲み会が盛り上がってくると、私は、杖に頼っても立っていることが出来ず、車椅子姿となった。
 はやいはなし、私は肉体劣化の先頭を走っているのである。
 悲しいことだと思われるかもしれないが、さにあらず。皆が率先して車椅子を押してくれる。と云ってもほとんどが女性だったが、昔の美形は今も美形であることがよくわかった。
 それはともかく、私は王様になったような気分。王様と私ユル・ブリンナーだ。

西暦 18年6月9日 土曜日  日本語
  昨夕は疲れを感じていつもより早めにベッドに潜り込んで入眠。
  ドアをノックする音で目が覚めた。時計を見ると5時半だ。「こんなに朝早くから(どいつ)が来たんや?」と思いながらドアをあけたら、30代の女性・Aさん(美形)が立っている。
 私:「こんなに朝早く?」
 Aさん:「今、夕方の5時半よ」  ・・・そうなのだ。夕方を早朝と間違ったのである。上半身裸の私は、とても恥ずかしかった。

西暦 18年6月7日 木曜日 無題
五色をまじえた色彩は人の目をくらませる  
五音をまじえた音楽は人の耳をだめにする  
五味をまじえた料理は人の味覚をそこなう  
乗馬や狩猟の歓楽は人の心を狂わせる  
手に入りにくい珍品は人の行動を誤まらせる 老子 

 ということで
 きょうもシンプルに生きていこう。節酒、節煙を維持しよう。

西暦 18年6月6日 水曜日 ふと考えたこと

 昨晩は我が事務所に5人が集まっての会議。  藤田良二郎氏講演会御案内

 さて
 舟橋聖一著「新忠臣蔵」も、いよいよ最終巻に入った。最終巻は赤穂浪士の吉良邸討ち入り前夜から始まる。
 それにしても、昔の物書きは一つの物語を作り上げるために膨大な資料を読み漁っていたことがよくわかる。冥土へ旅立つ前にこの本を読むことが出来て僕は幸せだ。
 
 刃傷松の廊下事件は、従来気短かであとさきを考えない短慮・浅野内匠頭故と言われてきたが、その認識は大きく変わった。彼の思考は現代人そのものであるが、生存の時が徳川封建体制・なかんづく5代綱吉の時代で柳沢吉保や荻生徂徠などの側近に支えられた時代であったことが、そしてなによりも議院内閣制が成立していなかったというところに松の廊下事件処理の背景がある。

 討入りした赤穂浪士47人あるいは直前に脱党した浪士たちの懊悩を家老・大石内蔵助は充分に認識していた。昼行燈と呼ばれていた彼の見書台の傍らには常に兼好法師の「徒然草」があった。  この本で先人(せんじん)の英知を学んでいたのである。
 

 平清盛の次男・重盛は父・清盛と後白河法皇のあいだの板挟みに会い「忠たらむと欲すれば孝たらず。孝たらむと欲すれば忠たらず」との悩みのなかで自死した。
 赤穂義士のそれぞれの脳裏に重盛の心が宿っていたのは疑いない。彼等が討入りせずに自死していたとしたら、敢言するならばそれは幸福な死であったと言えよう。 



西暦 18年6月5日 火曜日 無題
 
 日曜日に開かれた明社定期総会の模様です。


 ↓染色画家・加藤さんは若々しくて、81歳とは思えない。美術への情熱が人を若くさせるのだろう。


 ひるがえって、聴いている皆さんのほうが年寄りに見える。

 
  余談だが、挨拶をする私の車椅子姿も貫禄があって悪くない。


 またまた余談だが、この日の私は7時間禁煙を実行できた。人間死ぬ気になりゃできるのだ。私は私自身を褒めてあげたい。帰宅してから吸ったメンソール煙草(別名インポ煙草)のうまかったこと。

西暦 18年6月4日 月曜日 きのうは疲れた

 ここ数日車椅子のお世話になっている。杖では、倒れるのではないかという不安感をどうしても払拭できないのに対して、車椅子だとその心配は全然ない。
 きのうの「平成30年度あわら市明社定期総会」がその総決算で、車椅子に座ってのマイク挨拶は人生で初めてだし、もう人前に顔を出すことなどないだろう。
 さようなら皆さん、こんにちは車椅子さん。
                     
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ウイキペデイアより抜粋
使用者として、身体障害者の内でも下肢障害者が思い浮かべられるが、脳性まひなどによる不随意運動やパーキンソン病などによる振戦により身体の動作がうまくいかない場合や、内部疾患(心臓や呼吸器)により中長距離の歩行が困難な者、加齢による筋力低下、怪我(骨折など)による一時的使用者など、幅広く使われており、そのため、普段は使わない人でも、中長距離歩行に不安の有るものが移動の時には使用しており、これらの方々の利用に供する為、公共施設や病院には備え付けのものが常備されていたり、自治体などでは貸し出しのシステムが備えられている場合がある。

歴史

椅子と車輪という発明が存在した地域から、自然発生的に生まれたと考えられており、その歴史はかなり古い。有名なところでは、障害者ではないが諸葛亮が三国志演義の中で、車輪のついた椅子に乗っている描写がある。三国志演義はの時代に書かれており、この時代の中国には、車椅子という発想が存在していたことを示している。

自走式タイプが初めて考案されたのは、1650年、ステファン・ファルファという人物によって(ファーフラーとも。自身が下肢に障害があった模様で、自走といっても今のような後輪を直接回すのではなく、前輪をギヤ駆動のクランクで回す形式であった)。これらは、障害者も利用したが、障害者でない者も利用しており、当時は「車椅子は障害者の乗り物」という現代人の常識とは異なっていたようである。ヨーロッパでは、18世紀のはじめ頃から車椅子が商業的に製造されていたと考えられている]

日本では、中世・近世には疾病などで歩行が困難な者が使用する「土車」「いざり車」と呼ばれる車椅子の原型と呼べるものが存在していた。箱もしくは板に四つの車輪(両方とも製)の付いたもので、使用者はあぐらなどで座り、手に持った地面を突いて、もしくは取り付けた縄や手押し部分で介助者が動かした。これに乗って寺院巡礼などの長期旅行をする者もいて、記録(浄瑠璃作品や浮世絵など)が散見され、また実物が各地の寺院に残っている。明治以降では大正初期からアメリカやイギリスから輸入された記録がある。また、1920年頃につくられた「廻転自動車」と呼ばれた物が日本国内で最初に開発された西洋式の原型とされている。ただし、これは文献には残っているものの、正確な製造者や製造年は分かっていない。日本で製造したとはっきり認められるのは、同じく1920年頃、北島藤次郎(北島商会(現、株式会社ケイアイ)創設者)により作られたもので、製であった。これらは戦傷で障害を負った軍人や入院患者のために、一部の病院で用いられたようである。

第二次世界大戦では、多くの軍人や民間人が負傷した。戦後は義肢などとともにその需要が急激に高まっていたが、当時はあらゆる物資が不足しており、これらの障害者になかなか行き渡らなかった。1951年に制定された身体障害者福祉法により、徐々に普及が進んだ。

1964年に行われた東京パラリンピックで欧米製の優秀さを目の当たりにし、これをきっかけに日本でも性能が急激に上がることとなる

1990年以降、「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」(通称「ハートビル法」)などの制定により社会のバリアフリーが推進され、ノーマライゼーションの観点から車いすを用いての利用、移動を考慮して面のフラット化(段差解消)、ゆるやかなスロープ、車いすの幅を考慮した開口部の広いドアなどを設備した施設が増えている。



西暦 18年6月3日 日曜日 無題

  行く春や 知らざるひまに 頬の髯     漱石

 ということで、是非お越しください(無料)。
                講演会日程

西暦 18年6月2日 土曜日 無題
 年増女性A来訪。県民福井に乗った記事を持参。
 Aが帰ったら、入れ替わりのように年増女性Bが来訪。
 「創作の森の珈琲ただ券があるのよ」と言う。早速連れていってもらった。美味い珈琲だった。

暦 18年6月1日 金曜日 きょうから6月
 きのうはイコッサへ三階大ホール点検に行ったあと、一階図書館へ。開架図書に並べられた背表紙を眺める場合、腰をかがめることのできない僕には下段の背表紙を眺めることがどうしても無理である。仕方なく車椅子に乗って、舟橋聖一著「新忠臣蔵三巻・四巻」を借りてきた。
 土日の間に読んでしまいたい。