2018年11月日記


2018年11月18日 日曜日 無題

 昨日はあわただしい一日だった。午前中は、建築施工業者2組が来訪しての打ち合わせ。
 昼飯はおにぎりひとつを腹に入れただけで、午後一番にグランデイア芳泉へ。

 「あわら市・紹興市友好都市締結35周年記念講演」が開かれたためである。

 講演は第一部が後藤ひろみ氏による「藤野厳九朗と魯迅」で、第二部が加来耕三氏による「ニッポンの夜明けは福井から」だった。

 後藤ひろみ氏のプロフィル
 ・1969年福井市に生まれる。福井高専卒業後、東洋紡㈱勤務を経て1996年に帰郷。起業を機に2004年厚生労働省が各県に置く女性起業家メンターとなる。
 開連セミナー講師として他県を訪問の際、歴史活用事例に感銘を受ける。その後福井の歴史活性化事業に参画を始め、2010年「ふくい歴女の会」を結成。「歴史研究会会」会員。「歴史で感動!藤野先生と魯迅 海を越えた師弟の交流」の原作を担当。主著に「コミック版 日本の歴史 60 松平春嶽」など。
 ・・・10月11日高戸甚右衛門氏の御自宅で仙台医専時代の藤野・周樹人(魯迅)の交友のことは詳しく聞いたし、福井へ戻ってからの厳九朗の半生での好悪合わせての評判をもきいていたので、後藤ひろみ氏も後半生に触れてくれるものと思っていたがほとんど触れずに終わってしまった。かつ厳九朗の人柄を美化しっぱなしだったのも何となく意に沿わなかった。
 
 ・加来耕三氏のプロフィル→新聞・テレビによく顔を出すので、割愛。・・・加来耕三氏の講演が始まって15分くらいで会場を後にした。

 帰宅し、来訪した娘夫婦と来年の計画について懇談。一日はあっという間に過ぎ去った。
   
2018年11月16日 金曜日

 動画「米百票」を見ながら僕は心で泣いていた。
 長岡藩藩士・小林虎三朗を中村嘉葎雄が好演。たまたま「北越の龍・河井継之助」(岳真也著)を読んでいるところだったので、涙はより増えた。

 そうして、今朝、「北越の龍・河井継之助」(岳真也著)を読み終えた。

18年11月13日 火曜日 

 動画「米百票」を見ながら僕は心で泣いていた。
 長岡藩藩士・小林虎三朗を中村嘉葎雄が好演。たまたま「北越の龍・河井継之助」(岳真也著)を読んでいるところだったので、涙はより増えた。

18年11月11日 日曜日 

 今朝、両面テープを買うためにそとへ出たところ、山川市議の車が置いてあったので、ドアを開けた。
 中国から帰ってきたばかりなので、現代中国に対する印象がメインテーマ。
1 8年11月11日 日曜日 
 今朝、両面テープを買うためにそとへ出たところ、山川市議の車が置いてあったので、ドアを開けた。
 中国から帰ってきたばかりなので、現代中国に対する印象がメインテーマ。 

18年11月9日 金曜日 無題
 昨晩は、金達寿を読み返していた。
 彼は1997年に亡くなっているが(1919~1997)、生前、福井市文化会館に講演に来た翌日にマイクロバス(10人程度)で彼を解説者として、嶺南地方のあちこちに連れて行ってもらった。司馬遼太郎や上田正昭らとの共著も多く、「日本史とは朝鮮との関係史」であるを強力な理念としていた。
 「プロの文章家とはこんなにも頭の構造が違うのか」と驚いたのがつい昨日のことのようだ。

 以下は別の話のご案内
 

 
18年11月8日 木曜日
 
二人目の来訪客(元同僚議員)が仕事の打ち合わせを終えて夕刻に帰った。
 散歩でもしようかと外に出たらもうたそがれ時だ。西日本ではカワタレドキと呼ぶ。彼誰時すなわち「彼は誰だ?」が語源で、僕の一番好きなファジーな時間帯。しかし、この時刻に散歩をして車にはねられでもしたら、家族及び愛する女性が嘆き悲しむだろう。そう思って散歩をやめた。
 事務所に戻ってインターネット「ラジオ版学問のススメ」をスイッチオン。
 ガンに侵され陽子線治療で治ったなかにし礼のしゃべりを聴く。彼は「自分のアイデンティティは脳のなかにあって、からだ即ちボデイはその容器に過ぎない」と盛んに言う。僕にとってこの言葉は明らかに癒しの言葉だった。それ故にきょうも一日なんとか生き延びれた。

18年11月7日 水曜日 冬近し
 
 ・昨晩の集まりの時、銀杏を持ってきた人がいた。子どもの頃、銀杏拾いにいそしんでいたのでワクワクしている。フライパンで料理しようか電子レンジで料理しようか、そこが問題だ。
 
 ・図書館で借りた「小説・柳の綿」(西里えり著)が数か月行方不明になっていたのだが、深夜に本棚の整理をしていた時にひょっこり出てきた。僕はランプの灯りで本を読んだり、CADをこなしたり、ITを見たりするのが癖となっていて、つまり陰翳礼讃派なので本棚全体を見渡すことが出来ず、往々にしてこのような事態が出現する。

 ・あわら市九条の会の次の講演者は、田中々でこども食堂を運営している渡邊一幸氏に決まった。乞うご期待。

 うしろすがたの しぐれていくか    種田山頭火

18年11月7日 火曜日 災害列島日本
 
 
出久根達郎著「ぐらり!大江戸烈震録」 
 
 どーん、ときた。
 人生も、一変した。
 
 幕末の江戸を襲った
 安政大地震
 未曽有の災害と
 復興のさなか、
 商家の箱入り娘、
 竹問屋手代、
 鰯売り、飛脚人、
 船頭、コソ泥など
 江戸町人たちが
 おりなす人間模様

 下谷広小路の仏具商
 「甲子屋」の一人娘、おようは
 安政大地震で
 家族の消息を失った。
 父母や祖母、座敷牢に入っていた
 叔父に至るまでである。
 負傷したおようは
 救護所の寺で竹問屋の手代、
 千三郎に松葉杖を作ってもらう。
 お茶すら自分で淹れたことのない
 お嬢様のおように、
 震災後はさらなる
 運命の転機をもたらす・・・。

 はてさて、僕の場合はどうすればいいか。最終避難所へ行くにしても、走ることはおろか歩ける歩数はせいぜいが二百歩だ。
 自然の摂理で命がなくなること。それを天の声として甘受することに迷いはない。但し、できるならば痛みを感じずに微笑みながら現生からオサラバしたい。
18年11月5日 月曜日 無題

 昨晩は、五人が集合して刺身パーティー。飲み物は日本で一番品がいいという噂の宮崎産瓶焼酎。充分堪能した。

18年11月4日 日曜日 データを整理して

 新しいパソコンを買った際に、復旧出来なかったデータがたくさんあった。そのうちのひとつに読後簡単メモがある。暇な折に復旧再トライで出てきたメモにしたのようなものがあって、テレビが「第二回東京五輪近し!」と騒いでいる時局なので、あげてみた。

 高杉良  東京に オリンピックを呼んだ男 201312
 主人公は、ロサンゼルス在住日系二世フレッド・和田勇。
 昭和24年8月つまり私が生後七ヶ月でまだヨチヨチ歩きもできない可愛い赤ちゃんだった頃に、日本水泳選手団が全米水泳選手権に出場するために渡米した。そして和田が日本選手団に、9日間 の宿泊先としてサウス・バンネスの邸宅を無償で提供した。
 選手権で日本チームは自由形六種目中五種目に優勝、九つの世界新記録を樹立した。特に古橋廣之進の活躍はめざましく、全米マスコミは彼のことを「フジヤマのトビウオ」と呼んで賞賛した。
 まだ米軍統治下だった日本本土からマッカーサー元帥による祝電も打電された。日本中が戦後の混乱期のなかで疲弊していた時に勇気と希望を与える出来事となったわけである。
 さて
 和田が単に戦後の米社会で順風漫歩に成功しただけの男だったとしたら、この物語の魅力は半減するのだが事実はそうではない。彼の一家は生地・和歌山県で食い詰め戦前に米本土に移住した。そこでいろんな仕事に手をだし失敗し要するに七転び八起きの人生を繰り返しているうちに両親はなくなった。そしてその時に米国と祖国日本との間で太平洋戦争が勃発したのである。
 彼は強制収用所入りを拒否し、仲間と共にユタ州キートリーに移り住む。日系人は軍需などの工業製品づくりに従事することができないので、荒地を腕一本で開墾し農産物を出荷して生計をつないだ。
 周囲からは「中国人をいじめるジャップ、帰れ!」と嘲られた。
 米国籍をとってはいたものの、祖国が日本であるとの思いでアイデンテイテイのギャップに苦しんだことが、戦後になってから東京オリンピック招致に米国籍でありながら陰で活躍する伏線となったのは間違いない。

 それはともかく
 昨晩六時半からは、日本シリーズ・広島vsソフトバンクということで、焼酎コップ片手(僕にとって焼酎は良薬)にテレビの前に座り込んだ。
 一戦から五戦まで見てきて思うのは、ソフトバンクのきめの細かさだ。キャッチャーを筆頭とした守備力の差だ。投手力と打力には差がないだけに、ソフトバンクの慎重さと広島の大胆ではあるけどもそれ故の無謀さが明暗を分けた。 これは監督・コーチの能力の差と言える。
 第六戦もその延長にあった。広島はランナーを得点圏におきながら無謀な攻めで得点を逸し、ソフトバンクは同じようなシチュエーションで慎重な攻めで(内川のバントなどその典型)得点した。
 中盤になんとかというキューバ人のホームランでソフトバンクが加点した時点で試合の帰趨が決まったと確信した僕はテレビのスイッチをオフにした。

 来年の日本シリーズが同じチームどおしの戦いになるとしても結果はおなじだろう。これではセリーグが凋落する。
 そうさせない力は、僕が(女性の次に愛する)阪神タイガースの活躍にのみある。NLBは阪神タイガース、MLBはトロントブルージェイズなのだ(注 25年ほど前にトロント球場でこのチームのスプリングキャンプをなまで見て以来、熱狂的なファンとなった)。

 18年11月2日 金曜日 無題

 あわら市議・坪田正武さんの死はあまりにも突然だった。6月議会一般質問を傍聴に行ったときには、元気な笑顔を見せていたのに。
 葬儀の最中ずっと、生前の会話や立ち居振る舞いを思い出していた。
 電工の専門家であった彼が亡くなったことにより、技術者出身のあわら市議は誰もいなくなったことになる。 
                                                      合掌

 今朝、僕は、某音楽家(推定年齢75歳)の御自宅に行った。音楽家が招き入れてくれた応接室には、昭和40年代にセットされた大音響機器によるモーツアルトの音楽(記憶では僕が若い時に短期留学したウイーンのハイデルベルグ音楽院で学んだロ短調ハ-4など)が流れていた。