2001年01月

  2001/01/31 JR金津駅

同僚議員から、「JR芦原温泉駅」を「JR金津駅」にもどさなければならないとしきりに言われた。
駅名変更から恐らく20年以上経っているはずだ。ぼくの家は駅からの直線道路に面しているので、旅人らしきひとたちから「○○旅館はどこですか?」と聞かれることが、時々ある。勿論、金津市街地が温泉地と誤解されているからだ。
新住居表示施行の時に思ったことでもあるが、地名は人名と同じで、名称自体のなかに精霊が宿っている。駅名・金津も国鉄北陸線敷設以来連綿として続いてきたのだから同じことが言える。固有名詞はできるだけそのままにいかし、復活すべきものは復活させるのが当然だろう。


2001/01/30 誕生日だ 散髪をしなければなるまい

昨晩宴会から帰宅、酔っ払いながら「コンパニオン考」をここに書いた
のだが、今朝読んでそのあまりのくだらなさに消してしまった。
閑話休題 きょうでぼくも52才、いよいよ熟年。

●縦貫道路を走っていたらデンテイスト坂野より「お誕生日おめでとう」コール。嬉しかったね。
●議会活動をがんばろう(きょうも勉強会がある)
●子供が成人した暁には、白装束で四国を遍路しよう。
●毎日歯を磨き、掃除をしよう。寝るときには、寝巻に着替えよう。
●今年は、青春の地・沖永良部島に行ってこよう。
●天を敬い 人を愛そう


  2001/01/28 掃除

午前中の「わたしたちのまち・ネットワーク」例会を終えて帰宅したら、武生市の「市民グループ風」からコスモス通信37号がメールされていた。いろんなフォーラム企画の案内があって、講師に上野千鶴子とか山折哲雄・秋山豊といった有名人の名があがっている。丹南はこういう運動の先進地域だとよく聞くけど、本当にそうやなあと思った。
雪も融けてきたことだし、鬱屈した気持ちをかなぐり捨てて外に目を開き、こういう案内にもできるだけでていこうと思った。
きょうは日曜日だし、まず掃除から始めようと、床を掃ききよめ、書類を整理し、茶碗やコップを綺麗に洗った。不思議なことに(不思議ではないのかもしれないが)背筋が張り詰めたような気分になった。


  2001/01/27 第一人称

議員日記を読んでくれているひとからのメール。「ワシという言葉に違和感があります。広辞苑でひいてみたら、目下に対して年配男性が用いる言葉となっており、ワシを日常会話で使う人は、行動も威圧的で昔から好きになれませんでした。ワシは近世では、主として女性が用いていたとも言われていますので、この際ワチキとでも表現したらどうですか。ずっと、庶民的になるのではないかと思います。」・・ウーン、ボク言葉はあたっているとはいえ上品過ぎるのでワシ言葉に変えたのだが、一番嫌いなのが威圧人種なので、早速かえよう。しかしワチキはジョージ秋山の漫画の主人公みたいで格好よすぎるしなあ・・。ボク・ボクチン・ワチキ・ワタシ・ワタクシ・ウラ・ワイ・ミー・テマエ・ソレガシ・セッソウ・オイドン・・・いろいろあるなあ。


  2001/01/26 ラーメンは やっぱし味噌味だ

突然の電話不通で丸岡クンへのお助けコール。プロの腕による瞬時回復のあと、わしは味噌とビールをふるまった。うまい納豆味噌だ。
幼少の頃わしは近所のおんちゃん・おばちゃんから、味噌屋出店のあんちゃんと呼ばれていた。明治初頭まで苗字を持たなかったわしら庶民の屋号である。先祖の本家はせっせと味噌をつくっていたのだ。手元にある北金津大通り明治期の地図には屋号が満載されている。桶屋・米屋・こんにゃく屋・茶屋・紺屋・灰屋・油屋・綿屋・石屋・蓑屋・魚屋・馬面屋・紙屋・布目屋等々・・。うーん、個々の家がモノつくったり小商いをしていた地道な時代には、バブルもその崩壊もオウムも虚無もなくただ生きんが為に生きていたのだろうと、脳のような味噌をつっつきながらわしは思った。

  2001/01/25 コドーが倒産してしまった 

夕飯時、TVは詩人荒川洋治に触れていた。三国町は新保の産。私心はあっても詩心皆無のわしだけど、たまたまNHK福井で開かれた講演会に行ったことがある。「針原という詩集タイトルは、ハリの固さとハラの柔らかさの妙で決めた」という詩人の繊細な言葉に納得した。
10年前、わしが手話通訳をした三国町成人式で彼が講演中、新成人のガヤガヤに対して素敵に怒っていた。けどか、その後でた随筆集「ぼくのマンスリーウイーク」の俗物性で読むのを止めてしまった。 
当時のわしは、ああいう輝いている人の「文は人なり」の人の部分は純度の高さで全て仕切られていなきゃ、と思ったものだが、心の純度は対極にある自身の俗物性との緊張関係で発揮されるんやろなあと51才のわしはきょう思った。


  2001/01/23 さあえんじゅくだ

あと一週間でわしは52才だ。玉のような赤ちゃんとして生まれたのはほんの10年程前のことのように思える。学年一の美人とのありもしない噂が流れて照れた日々を送った中学生時代はつい4、5年前のことのようだ。郷里を離れた6年間のいいかげんな生活は去年か、おととしぐらいにしか感じない。よってわしの結婚や子づくりは今年にはいってからやなあ。
人生は年を経るにしたがってその流れを速く感じるというが、まっことその通りである。
ココロの傷がより即物的になってきているのも年とってきた証拠だろう。
いかに老いていくか、誕生日にじっくり考えることとしよう。


  2001/01/22 車椅子

コクヨに勤める羽根クンから役場1階のカウンターを低くする工事をしたという話しを聞いた。きょう、その現場をみてきた。
何年か前ヘルニアで腰を痛めた時、3週間ほど車椅子生活をしたことがある。どこの町でもそうなんだろうが、この金津町も屋内外を問わず公共施設が車椅子には不向きであると、わしは実感した。不向きは予想されたことだけれどそれはわしの目にとってのカルチャーショックでもあった。例えば役場に置いてあった空気の入ってない車椅子に文句いいながら廊下を動くとカウンターの先端が突出して視界に飛び込んでくる。応対する職員の顔はあごがおおきく見えそっくり返っているようだ。
1.6mの目線が1.2mになった視覚世界はとっても非日常だった。


  2001/01/21お久しぶりです

世にいう「ひきこもり」に感染し、無口の日々を送るわしにきた役場職員からのメール。大雪のなかでのマナーの悪さが除雪の障害をひきおこしているという。路上駐車・ノーマルタイヤでの運転エトセトラ・・。除雪車通ったあとの玄関先の雪を職員がスコップであけろとも言われたりするそうだが、こういうおかみ頼み意識は絶対におかしい。自分のできることは自分でし、無理な部分で近隣や地区が相互扶助精神を発揮し道路などのおおものに行政が関わるのが筋というもんだ。
話変わるが、10年程前雪の三国の交差点で追突されたことがある。自動車にまでおかまされてしまったかと興奮的詰問するわしに、「豊田市からノーマルタイヤで来ました、雪道ははじめてで」と運転者は答えた。冗談もほどほどにすべきだ。
    

  2001/01/18 ポーズは駄目だという気持ちはよくわかる

田中長野県知事が県庁内での阪神大震災に対する黙とうを中止したというニュースはさまざまのことを考えさせる。知事は黙とうはポーズだという。わしはポーズかどうかはひとりひとりの胸のうちにあるものであって、自分がなにをなすべきかを考える契機として黙とうにのぞむひともいるだろうと思う。しかしそういう真摯なひとは黙とうをしようがしまいが既に真摯であり黙とうを儀礼ととるだろう。そうすると儀礼とか儀式が是か非かという問いになる。考えてみると、わしらの生活は儀礼にみちている。戦争や震災といった大状況に対してはいろんな式典がある。私状況・例えば通夜の席での喪主に対する挨拶も儀礼言葉を超えない。
といった意味で日常言葉は儀礼にみちているはずだ。


  2001/01/17阪神淡路大震災

阪神淡路大震災が起こってからきょうが6年目だ。青春(美しくはなかった)の日々を神戸で送ったわしには何人かの友人がかの地にいる。数週間後、友人の、建物を調べてほしいとの依頼で被災地にいったとき見た仁川の土砂崩れ現場や阪神芦屋駅周辺住宅街の壊滅的な状態の生々しさは、依然はっきりした印象としてわしの頭のなかにある。
しかし、もっとびっくりしたのはその夜だ。3人で大阪・十三に晩飯をたべに行ったのだが、そこはネオンと喧騒にいろどられ、相変わらずの歓楽街であり続けていた。大きい川ひとつ隔てるだけでいわば別世界だ。それがどうのこうのということではないのだが、悲惨も享楽もその歴史を途絶えることなく積み重ね続けるというのが、いわば人間社会の業なんだろうなあとわしは思った。


  2001/01/16もう52になるのでぼくはわしになると決心した

男手のない家から「誰か雪かきしてくれるひと知らんけの」といわれたわしは、町役場に情報を聞きにいった。シルバー人材センターも除雪は引きうけていないそうだ(なんとなくわかる)。
除雪ボランテイアというのがあるというので、わしは社協にいった。各地区の民生委員を通じて申し込みを受け付けているという話を聞いていたとき、「議員日記みてますヨ」と若い女子職員に言われてわしは嬉しくなってしまった。  事務所に戻ると、東京にいる妻からの電話。「夕方頃新幹線で米原につくんや。そのあと北陸線うごいてたらとびのるで、長靴もって迎えに来ての」の頼みコール。3日程みていない愛妻の声はとっても新鮮に聞こえた。

〇議会事務局から、土砂採掘・空き缶ポイ捨てについての電話があった。
昨年「環境保全特別委員会」が行なった視察研修先でのテーマだ。質が良いせいか、金津町には8ケ所の土砂採掘現場がある。過度の採掘が地下水脈や資源涵養などに影響を与えることは明らかだ。それにしても金津町には、焼却場も含めて迷惑施設が多い。決して名誉なことではない。 土砂は土工事に必要だし、空き缶は自販機からでる。インフラ整備や手軽な消費社会から逃れることはもはやできないのだろうが、例えば雪降り続く冬は、こどもの頃のぼくにとって暗い土間の囲炉裏端で草鞋編む祖父さんの手伝いをする日々だった。そしてそれを貧しい日々だとは決して思わなかった。消費の増大は消費密度を薄くする。


  2001/01/15 別れ

昨晩CAD図面に向かっていたら、ラジオ文芸館が吉村昭の短編を朗読していた。
定年になった男に、妻が「きょうであなたへのお世話は終わりました、別れさせていただきます」と唐突に言い出ていってしまう。娘とふたりきりの3ケ月の生活の後、娘の結婚式の当日、新婦の両親という立場で妻と再開する。男はその日がいよいよ自分ひとりだけの生活の始まりであることを納得し、それまで抱いていた屈折した胸の内から開放されるという筋書きだ。
役割を終えた妻が夫のもとを去るというかたちは、愛情の絆の程度とは別の理由で、これからは社会現象にもなっていくんだろう。家族が共同体の核だなどという言いかたは既に風化しているのかもしれない。


  2001/01/14 この世で純白といえるのは雪だけだ

しんしんと降り続く雪のあわいに「死」がみえる。嫌な社会だと思う部分と、うまくいかない私状況のせいで、就寝時いつも自分の死を考えてしまう。こころがヤワだ。 
ぼくら団塊の世代は戦後民主主義の申し子だった。旧弊を全て断ち切った新道徳で育てられ、ものごとを考えてきたのだけれども、そのことによって、潜在する伝統的な意識との摩擦に対して無自覚な社会がつくられてしまったような気がする。時代の空虚な明るさが頻発する犯罪の背景をなしていると思う。
ぼくたちは、死と向かい合うことによって救済される部分をもつのではないか。死を考えることと死ぬことの間には、千里の径程があるし、生は死のために存在する。


  2001/01/13 観音さま 

夕方4時、依頼された墓所面積測量のことで六日区・教順寺にいた。ぼくも死んだらこの寺のお世話になる予定。坊守さんは、お寺を開かれたものにしたいという。模様替えした部屋を、例えば絵の常設展示場にしたいという。
ぼくたちが子供の頃、お寺・神社の境内は格好の遊び場だった。
柳田国男の「遠野物語」が観音さまに触れている。子供たちが境内で、壊れた観音さまの頭をけとばして遊んでいた。信心深い男、これを見とがめ「ばちあたりめが!」と子供たちをけちらした。夜、その男の就寝中、枕元に観音さまが現われた。「せっかく子供たちとなかよう遊んでたのになんで邪魔したんや!」。男は三日三晩高熱にさいなまされたという。   
ぼくは、こういう話しが大好きだ。


  2001/01/12 地震 

朝起きると、お袋が「地震があった」という。TVは「震源地は鳥取県北部」というテロップを流している。横揺れではなく上下動だったので、寝ているぼくには気がつかなかったみたいだ。そういえば、もうすぐ阪神淡路大震災の日がやってくる。
当時手話通訳ボランテイアとして神戸に行ったひとの話しを聞いたことがあった。TVやラジオがどれだけ被災情報を流そうと、ろうあのひとたちの耳には届かない。被災地にいて情報が遮断されることほど怖いことはないそうだ。とってもよくわかる。
日常生活でもしかりだ。民放の芸能娯楽番組が芸人のはなしを時折文字でトレースしているが、あんな馬鹿やってる暇があったら、きっちりとした文字多重放送にすべきだ。


  2001/01/11出初式 

午前9時30分、中央公民館。嶺北消防署の出初式に出席していた。
功労者に対する表彰・来賓の挨拶などの式典が終わると、次は町役場での点検式・大通りでのパレードだ。竹田川河畔に全ての消防車が集まり放水のデモンストレーションで最後を締めくくった。
滅多に起こらない火事のために日々見張り台にたち、機類を点検し、消火の訓練にいそしむという仕事は地味である。しかし、ぼくたちが夜安心して眠ることができるのも消防署・団のひとたちのおかげだ。署の近くに住んでいるぼくは、時折消防車出動のサイレン音を聞くがその都度「ご苦労さんです」とつぶやいている。  
ところで火事の映画といえばなんといっても昔観た「タワーリング・インフェルノ」だ。ステイーブ・マックイーンがポール・ニューマンを完全にくっていた。

  2001/01/10 情報処理電算機室

役場に行ったおり、電算機室をみてきた。ずらっとコンピューターが並んでいる。IT事業が始動したという雰囲気やね。
ランで各課を結んだり、本庁と出先を結んだりといった行政内部のネットワーク促進の展望について説明してもらったが、こういうことは大手企業あたりでは既にやっていることであって目新しいことではない。
行政に、より多く要求される課題は住民とのネットワーク形成だ。
今年の春あたりから町内全ての公民館でパソコン教室を開く計画が進められているそうだが、若いひとより年とったひとが沢山受講すると面白いなあ。
それにしても役場HPの掲示板に、行政側からの発信がなんにもないのが不思議だ。まア、ぼくのHPもそうやからひとのことは言えんけど・・。


  2001/01/09 総会あとの懇親会 

ただ今午前3時30分、外は真っ暗闇。先週の日曜日は区の総会だった。議事が終了したあと懇親会にうつった。腰を落ち着けてひとりひとりと話しをしていると側溝、街路樹、信号のことといった区内の行政に対する要望も、市町村合併、ITといったことに対する意見も拝聴することになる。
議会制民主主義というのは、例えばぼくなども議員のひとりとして住民のいろんな意見を行政に宅配するという間接のかたちになる。けどか、側溝や信号の要望などは別として、住民のなかの意見が多様な方向を持つのが一般的だ。
選挙で支持してくださったひとたちの多様な声を、多様な声として尊重するのか、ぼく自身の思いを先行させるのか、いつもとまどうのだが、現実的な選択肢はその中間になるんだろうなあ。


  2001/01/08 久し振りの酒席

おとついの晩は東山・川崎さん宅で大変御馳走になってしまった。男性4人・女性3人のパーテイだ。といっても、特殊なパーテイではない。普通の飲み会だ。
ずうっと誰にも会わない日々を送っていたからだろう。緊張から開放されて、ぼくの顔はほんのりと桜色になってしまった。あんまりしないシモネタの話も少しだけしてしまった。まア、まだ正月あけすぐだから許してもらえると思う。下の息子が中学で野球部に入っていて、同じ保護者のお母さんがいなさったことも話がはずんだ理由である。
しかし酒席のたび、ぼくはなんとかのひとつ覚えみたいにこの歌を思い出すんだなあ。
白玉の 歯にしみとおる 秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりける
                     牧水

〇新聞を読んだ。面識もない患者を筋弛緩剤で殺そうとするなんてどう考えても信じられない。病院に対する不満があったと言っているが、それなら病院という体制に不満をぶつければいいだけの話だろう。
21世紀初頭に起こったこの事件は、いろんな道徳の崩壊を予感させる。この世紀は人類終末の世紀になるんじゃなかろうか。
そこへいくと、畠山みどりは偉い。週刊誌によると株損失による借金が25億円あるとのこと。しかし、自己破産もせずに日々数ステージずつこなしているそうだ。借金をなせるかどうかじゃなくて、なそうとし続けることが人生になっている。でも偶においしいそばなど食べたときに、小さな幸せを感じているはずだと思う。


  2001/01/07 成人式

午後1時半、中央公民館。成人式の場にいた。今年の新成人はぼくが金津中学校のPTA会長をしていたときの3年生。知った顔もいくつかあった。女性は着物が圧倒的だ。着物女性はとっても素敵だけれど、集団で座っていると全体がひとつのデコレーションみたいだ。個性が消えてしまう。表情がみえて余白があってこその伝統美じゃないかなあ。

控え室では行政・議会関係のひとたちと年賀の挨拶を交わした。「挨拶」はもともと禅言葉で、挨は押すことを意味し、拶は押し返すことを意味すると誰かが言っていた。挨拶って大切なんやね。


  2001/01/06 カリン酒

家族以外、ひとと顔をあわせない生活が正月からずうっと続いている。たみ子さんから頂いたカリン酒をチビリチビリと舐めながら設計製図にいそしんでいるのだ。
疲れたら煙草を吸う。雑誌をめくる。鏡をみる。
日本のコトワザ「きょうできることは、あすにまわすなかれ」と、トルコのコトワザ「あすできることは、きょうするな」が交互に頭の中を去来する。
誰とも会わないと、誰それと会っている自分を次々と想像するので、楽しいやね。相手が眼前にいないので、日頃とちがって自分がすきなようにしゃべることができる。旅行が楽しいのは、出発までだとよくいうけどおなじことだ。
しかし、どうやらきょうが解禁になりそうだ。

〇ニュースは東北・北陸が雪や雪やと騒いでいるけれど、どうもピンとこない。道路が融雪されていることもあるのだろうが、うっすらと積もっている程度に思える。
雪で思い出すのはなんといっても、38豪雪だ。学校(中学生だった)は長期休校になるし、確か陸上自衛隊が除雪の為、中学校に駐屯していたはずだ。当時北陸高速道路はまだできていなかった。物流も途絶えて大人達は大変な思いをしたと思う。ぼくたちはくる日もくる日も雪かきに追われていた。
余談だけど、建物(鉄筋・鉄骨)の構造計算をする場合、当然積雪荷重を考慮しなければならない。福井県嶺北の場合、海岸線を除けば積雪2m地域が大半だ。根雪1cm3kg/㎡として600kg/㎡つまり大人10人/㎡がねんがらねんじゅう屋根の上に立っているということになる。


  2001/01/05 宇宙

昨晩、仕事にとりかかる前NHKTVで宇宙特集を観ていた。宇宙の果ては150億光年向こうにあるそうだ。銀河系が宇宙には1000億くらいあるそうだ。広大な宇宙のなかで太陽系なんて点にすぎないとすると地球というのは点の中の点ということになる。
昔読んだホーキンスの「宇宙入門」の巻末に「あと300億年すると宇宙は消滅する。そして時間も消滅する」と書いてあった。なんのことか全然わからないのだが、とにかくすごいことなのだ。そう考えると、うつになっていたって仕方がないのだ。ぼくらは所詮、永遠のなかの一瞬を生きるにすぎない。だからどうなんだといわれてもよくわからないが、とにかく元気でやっていくほうがいいと思った。


  2001/01/04 うつ 

松の内があけたからという訳でもないのだがうつの気分。腹のなかがどんよりしている。
一年に何回かこういうときがあるし、しばらくは続く。自分が自分であることがすごく嫌になる。目に見える景色は生彩を欠くし、ラジオの声は単なる音だ。ひとと顔を合わせるのがおっくうだ。
「ひきこもり」のことは社会現象としてよくきくし、いろんな理由があるんだろうけれども、理由のない「ひきこもり」も絶対あると思う。こういう気分が昂じてくると、人間ってなんで生きているんやろかという素朴な疑問がわいてくるんだろう。まア、生理=男の場合・オンスみたいなもんか。 
それで思い出したんだけど、先日若い女性と話していたら、メンスという言葉を知らないという。最近は使われないみたいだ。

  2001/01/03 さあ、がんばるぞ 

午前5時、福井市二の宮から寒風吹きすさぶ縦貫道路を戻ってきたところ。昨晩は、二の宮の義兄宅でたらば蟹、かずのこ、しゃぶしゃぶやなんやかんやをたらふく食べ、熱燗をどびどび飲んでいた。そして、ぼくの正月は終わった。
正月は殆どコンピューターに向き合っていた。ワードで議会通信を書き、エクセルで住所録やスケデュールを管理し、キャドのためのフリーソフトをインストールし、つまり2001年のスタンバイをしていた。

暗闇からあられが窓をたたき、強風が窓をゆすっている。これでこそ正月だ。穏やかな日々を待つ季節こそが冬なのだ。


  2001/01/02 去っていった20世紀

1月1日くらいは仕事を休もうと、熱燗飲みつつ年賀状を眺めていた。Kくんは「視聴者が選んだ20世紀十大事件」を載せている。太平洋戦争・広島長崎への原爆投下など確かに人類が続く限り永遠に記憶される、記憶されなければならない事件ばかりである。
ひるがえってぼく個人にとっての事件とはなにやったのやろうか。どうも童貞喪失などは大事件でなかったような気がする。いろんな記憶に残ることがあったけれど、結局はいろんなひとたちとの出会いがあったということか。そのなかでぼくがひとつだけ確信したことがある。
シャバでステータスを得ているひとが、魅力的なひとかというと、そこには相関関係が殆どないということやね。人間裸になったらみんないっしょや。

  2001/01/01 初詣で 

大野の米村俊太郎さんからの年賀状に、今年の目標=「10kgの減量と週三日休肝日」とあった。ぼくはここ1,2年休肝日がないのだけど、米村さん、頑張ってください。
恒例の三国・成田山詣でに誘った子供三人の答えは一律「行かん」。
もう半分大人になったんや、仕方ないので妻と二人だけででかけた初詣での帰り、車中での妻の言葉。
「おとうさん(ぼくのこと)はのほほんとし過ぎてる。もっと周囲に対して気配りせんとあかんよ。議員の仕事は町民全体に尽くすことや。好きなことばっかし言ってたら、枠つくるだけや。いろんなひとと交わってこそ義務を遂行できるんやないの」
ウーンあたってる、今年はいろんなひとと交わろう。