2005年01

2005/01/31 (月) 一月最終日

多数派シーア・少数派スンニの種別がイスラム教内部の教義の違いからくるセクト名なのかどうかはよく知らないが、スンニ派が旧フセイン政権下で支配権及び既得権益を持っていたことだけは知っている。(外国勢力によってであるにしろ)現実にその政権が倒されたのだから、今後の選択肢は選挙で仕切り直しをする以外に無いはずだ。
なんとかという反米テロ組織が投票所を襲撃して三十数人の死者を出したことは言語道断だ。投票拒否がスンニ派全体の共同意思なのかテロ組織の襲撃を恐れた結果なのかもよくわからないが、仮に恐れた結果なのであれば、スンニ派からも反米の共感を得ることなどできるはずがない。
仮に共同意思だったのであれば、スンニ国という独立国家を目指すことが自然なのではないか。インドとパキスタンという例もある。

午前6時半。
早朝の空気は凛として、駐車場の桜は真白花が咲き誇っている。
「いずれを梅と 分きて折らまし」なのだ。
うーん、今週も頑張ろうという気分になった。

ところで
最近、「男女共同参画社会」という言葉を雑誌等でよく目にする。
そこでぼくは配偶者をみんなどう呼んでいるんだろうとかとふと考えた。
例えばこのHPでぼくは配偶者のことを「妻」と書く。語源は「料理のツマにあるもので脇役・・・主役にあらず」だろう。ぼくの妻はぼくに対するご意見番なのだから、ぼくは実体を曲げて書いていることになる・・男の見栄か。
二人の間で「妻よ」とは勿論言わず「お母さん」と言う。これは、子供を主体にした呼び方で、個人主義の浸透していない日本独特のものだろう。
友達との会話では「ヨメさんがなあ」などとぼくは言う。ヨメは評判の悪い言葉だ。嫁=女へんに家と書き、家に隷属する存在というニュアンスを持つからだ。
しかし嫁の漢語読みはカであってヨメではない。つまり当て字だ。
和語「ヨメ」の語源は良女=良い(ヨ)+女(メ)だと、ものの本で読んだことがある。
それならば誉め言葉ということになる

2005/01/30 (日) 56歳・・定年なし

 「・・・これまで戦後日本を引っ張ってきた団塊の世代が、一線から退く時が近づく。だが、このままリタイアしていいのか。「団塊世代よ、生涯現役をめざそう」。同世代の民主党元代表、菅直人氏(58)と鳩山由紀夫氏(57)が、地方議員、農業、学校運営などで、団塊パワーの活用を狙っている。党内でも若手に押されがちな2人の再起もかかる「連帯」のエールは――。 「日本社会が健全に進むには、『大定年時代』に政治がしっかり対応してくれなきゃ・・・・
                           AsahiI・Com

という記事を読んで、本日56歳になった私は自身の半生を振り返ってみた。我々団塊の世代は戦後日本の経済復興を担った中核の世代だと喧伝されてはいるがそれも一般論である。
私が四年制の大学に六年間いたのも、確かに劣等生故の留年ではあったが、企業に入りゃ機械の歯車になってしまうんじゃないかそれくらいならばバイトバイトのモラトリアム人間でいたいという自己防衛本能が働いた為でもある。
さりとて食わねばならず、六年目の終わりに中堅建設会社の入社試験なるものを受けた。
試験問題は実務知識を問うものばかりだったので、「この類いの知識は、会社に入ってから覚えればいいものだと思う」とだけ書いて白紙で出した。面接での「読書傾向は?」の問いには「そりゃあなんたって<鋼鉄は如何に鍛えられたか>のパーペル・コルチャーギンでっせ」と答えたなあ。
ま、落ちるべくして落ちたのだが、人生計画に対して真面目にとりくんでいなかったことの証だ。

縁あって福井市片町(つまりネオン街のど真中)の建築設計事務所で建築設計のイロハと麻雀道を10年間学んだ。
その間、毛色のちょっと変わったひと達との交友を重ねることになる。
30歳を前にして、ひょんなことから身体障害者連合会主催の手話講習会を受けた。結婚相手とそこで知り合ったのだからエポックといえばエポックだ。

設計事務所を退社し自営業を始めた33歳ゾロメの年に結婚、新婚旅行先の沖縄及び沖永良部の海はあくまでも蒼かった。
無垢の赤ちゃんだったこども達が相応の幼児に育った頃、現在あわら市サッカー界のドンと呼ばれているS氏から「おおい、金津幼稚園のPTA会長やってくれやあ」の電話が入った。引き続き金中・金小のPTA会長をさせていただくことになり、私はだんだん人生を考えるひとになっていった。

地方議会議員になって、7年間が過ぎた。
設計とか手話が専門性を追求する作業であるのに対して、議員というのは徹底してバリアフリーの職業だ。老若男女貧富善悪いずれの壁もとりはらわれ、思いをしゃべり意見を拝聴するという相互関係の日々である。
企業人や公務員のように安定の保証を受けていない三股浮草稼業だけれども、今後も頑張りたいと思います。

2005/01/29 (土) 火

20年近く前、私は某高校ワンダーフォーゲル部の代理顧問を一年間担当した。その間、福井県内のいろんな山を歩いた。山中での昼飯は当然飯盒炊爨だ。
大きな石ころを探し野外カマドをつくらせた。枯葉や枯枝を探し火をつけさせた。その時、生徒達の火の扱いの下手さに私は驚いた。
その頃家庭は既に電化ガス化されつつあったのだ。

というようなことを、昨日教育関係者に話した時、
「今のこども達はマッチを擦ることができないですよ。仮に軸に火をつけることができてもね、直接割木に炎を近づける・・・火がつくわけないじゃん。
新聞紙に火をつけようとするとね、炎を新聞紙の上にもっていく・・・火がつくわけないじゃん」と相手が言ったのである。

柿原地区に多賀谷左近の墓がある。中世武士の墓だから禅宗五輪だ。
石塔のユニークなかたちは、下から地・水・火・風・空を顕している(と解説石碑が書いている)。日本禅宗文化の親元であった当時の中国は、「世界は五大元素で構成されている」という論文を世界にむけて発信した。
うん、火はことほどに大切なのである。

小学生中学生の頃、風呂焚きや廊下の拭き掃除がやや貧しい家庭に育った私の日課だった。
焚口に丸めた新聞紙を入れ徳用マッチで火をつける。その上に杉葉をかぶせる。炎に勢いがでてきたところで割木をリャンコにのせると焚口は赤い炎に包まれた。燃え盛る火のむこうに、その日の放課後一緒に遊んだA男くん、B男くん、C子ちゃんの笑顔が浮かびあがってきたのである。

○気分のムシャクシャになることがあったので、納屋から今はもう使われていない火鉢をだした。きれいに洗い、駐車場脇に置き、メダカを20匹入れた。ひたすら泳ぐだけが仕事のメダカを見詰めていた。人間のナリワイもおおかたこんなものだろうと思った。


2005/01/28 (金) 昨日と今日

○昨日の昼は中央公民館横の福祉センターに居た。放課後児童クラブが開かれている建物だ。現在40名を預かっていて、来年度は50名になるだろうとのこと。
8年前、この制度がスタートした時は確か20名弱だったのだから隔世の感がある。
それにしても狭い。40名の子らがおやつを食べる部屋が、小学校普通教室の半分いや半分以下の大きさである。加えて外には遊び場というものがない。アスファルト舗装の駐車場があるだけだ。一輪車などの遊び用具は倉庫で眠っている。こども達は陽光の下で遊んでこそいきいきするのである。
というようなことをしゃべりに、先程金津庁舎福祉課へ行ってきた。

○昨晩は6人が事務所に集まった。
寄せ鍋囲んでのメインテーマは「図書館がなんで2階にあるんだろそんなんおかしいやんか」だった。
ワインを持ってきたひとがいたので気分もはずんだ。
新婚の人が居たので、私は冷やかし気分で「中央公園のできごと」という話をした。差し障りがあるので内容は省略。

○本日の昼は某小学校。
4年生を相手に一時間の簡単な手話講習にいそしんだ。うーん、こども達の笑顔というのは、まことに屈託がない。
地区の老人会総会冒頭での挨拶を終えてからその場所へ足を運んだものだからよけいにその落差を感じたよ。
真面目一筋の私でも、少しはサービス精神がある。しゃべりのどこかで笑いをとろうとする。
老人の笑いには私ら若造の未熟さを激励するほほえみがあり、これは年輪のなせるわざだ。
世代によって笑いの質が峻別されると思う。

2005/01/27 (木) 昨日の一日

①昨日の朝、某議員が事務所にひょっこり来訪。3月定例議会にむけての話をいろいろ聞いたあとは、選挙についての四方山話となった。
旧芦原町在住のそのひとによると、旧芦原地域では降りるという噂はあっても新人で出るという噂は今のところ無いそうだ。
旧金津地域と、状況がまるで逆やね。

どうせ沢山出るのならば、地域を越えてまんべんなく沢山出たほうがいい。
そのほうが当選ラインが下がり、私のような者でも当選する可能性がでてくるし、結果としてこの日記を書くというささやかな楽しみが維持できる。
それにしても女性が新たに出るという噂の無いことがとても残念だ。
6年間議会にいて、そこが男性社会であることをとてもいびつだと思っている。

②昼は、現在教師をしている小学校時代のクラスメート(女性)から頼まれた用件で市内某小学校職員室へ行った。話を終え、「まちを良くするように頑張ってくださいね」とのメッセージ受けつつ福井市の病院へ車でむかった。
運転中、バックミラーを見詰めながら
「うーん、美しい女性は歳を重ねても相変わらず美しい・・・。
私も、自分ではそう思わないけれども顔だちきりりと引き締まり美男タイプだ光源氏の末裔だとひとから言われてきたがそれは過去のことじゃないかこうやってバックミラーみると白髪増え目尻は垂れ下がりはじめ、かって応援団で鍛えた胸囲96ウエスト69(いわゆるシックステイナインやね)○○38の逆三角形の肉体は今や正三角形になってしまったぞ再びの肉体鍛錬にいそしまなければ今後の人生暗くなってしまうのではないか」
とまあ、そういうことを思っていた。

③夜は某医師宅。
親父のカラダの相談で行ったのだが、ウイスキー片手にだんだん議会の話になっていった。
昨日の国会で人口減少を憂いての与野党論戦があった。労働人口世代のいびつ化とかいろんな懸念される問題があるにしても、私は人口減少自体が悪いことだとは思わない。
ゴミの量は少なくなり、自然が復元され、飽食は適食となり、道端のお地蔵さんの顔にも微笑みが戻ってくると思うのである。
世界に冠たる日本である必要などさらさら無い。

2年程前、日本語ぺらぺらのインテリ中国人に「貴国は図体が大き過ぎる。肥満はよくない。中華思想は捨てなきゃならん。国を五つくらいに分けたらどやろか」と言ったら、「中国には5千年の悠久の歴史があります。それを踏まえないあなたの意見は横暴です。内政干渉は許しません」とひでえもんに怒られたなあ。うーん、インテリは苦手だ。
漢字で書くと「我国所有悠久歴史五千年 無知貴君意見横暴 無茶苦茶滅茶苦茶 我絶対不許可断固粉砕貴君意見」くらいになるのか。

午後9時、バイカル湖ほとり産のウイスキーで体のほてったぼくはシャンゼリゼで買ったダーバンのコートのえりをたて、家路を急いだ。
立ち止まり見上げた月がとても美しい。テームズ河畔の小さな店で買ったパイプに火をつけた。憂愁の気分が体内をかけめぐる。

「ぼくたちはこんなに醜い地球に住んでいる。こんなところにいるよりも貴女と一緒に暮らしたい。ねえ、連れていっておくれよ」と言おうと思って、しばしお月さんを見続けたのだが、かぐや姫は姿をみせてくださらなかった。
帰宅し親父の状態をお袋から聞いたあと、ぐっすり寝こんだ。

○本日午後6時10分のラジオ速報。
歌謡歌手・北原謙二が亡くなった。
ぼくは彼のヒット曲「ふるさとの話をしよう」が大好きだった。
合掌


2005/01/26 (水) 賛成一

昨日(1月25日付)の福井新聞で、ふたつの記事が目を引いた。
ひとつは2面=「武生との合併等住民投票条例制定・今立町会が議案否決」だ。
「・・・条例制定を問う上程議案は、反対・賛成討論の後、賛成一・反対十一で否決された・・・」と書いてある。賛成一という部分が目を引いたのである。

3年近く前の議会だった。
本会議の冒頭で、三町合併実現を求め有権者数の五十分の一を超え必要有効署名を集めた「坂井ぐん民会議」金津地区代表が三町合併実現を訴えた。彼に退場してもらったあとは意見討論となった。
初めに、それを否定する意見があった。
聴いていたぼくはその意見の骨子に矛盾を感じ手を挙げた。当時の議長がびっくりしたような顔で許可した(予定調和的に反対意見のみで当案件を閉じるつもりだったのかもしれない)。ぼくは賛成の旨の意見を述べた。そのあと、反対の立場からの意見が又あった。同じように矛盾を感じたぼくが再度手を挙げたら、議長から「だめえー」と言われたなあ。
討論のあとの採決は賛成一・反対十八だった。

つまり、そういう自分自身の体験から、今立町会「賛成一」さんの(恐らくは採決後の周囲からの冷ややかな目線も含めての)心情に思いをめぐらしていたのである。

別に議会のことだけじゃなくて一般社会のこととして思うのだが、
ものごとの賛否が最終的に数で決まるのは仕方ない。多数が構成員個々人の理を尽くした結果の集積としての多数であれば当然尊重しなければならない。
しかし、理以外の要素が絡み合った結果の多数つまり迎合多数であるならば、賛否の結果に異を唱えはしないとしても、尊重できない気分になる。

○もうひとつは12面=「育てるシリーズ 持続こそ武器実践 単位制高でボクシング指導」だ。
この記事の主人公・脇浜義明さんの弟の結婚披露宴が、生まれてはじめてぼくが出席した結婚披露宴で、傍にいる兄貴の実像を語る弟の語りはとてもインパクトのあるものだった。
この兄貴さんのような破天荒だけど魅力いっぱいのセンセをあわら市教育委が採用したら面白いだろうと思うのだが、まあ無理だろう。
よかったら、昨日の福井新聞記事を是非読んでください 。


2005/01/25 (火) 中学時代

昨晩寝袋のなかでうとうとしていたら、中学時代同級の教師から電話が入った。用件を聞き受話器を置いてから中学時代を想い浮かべた。

あと5日で56歳となる私にとってその時代とは40年前のはるか昔を指す。
私は、戦後復興の槌音のなかで、学年でいうと福井震災の年に生まれた世代に属する。

TV草創期の「とんま天狗」「ホームラン教室」「バス通り裏」「ひょっこりひょうたん島」は小学生時代。中学生時代は「プロレス三菱金曜アワー」「事件記者」「若い季節」「シャボン玉ホリデイ」だった。
民放「地方記者」の主人公・小山田宗徳が特に印象に残っている。

歌謡界では橋幸夫・西郷輝彦・舟木一夫の御三家が活躍していた。

旧ソ連の宇宙飛行士ガガーリンやテレシコワが地球の外側を回り、JFケネデイ暗殺の模様が日米衛星放送初中継で入ってきた。力道山が右翼・村田勝清に刺され、38豪雪で自衛隊が金津中学校校舎に駐屯した。
その校舎はまだ木造だった。
友人の少ない孤独な私は、放課後の誰もいない3階教室に忍び入り、落ちる赤い夕陽を眺め、ひとりため息をついていた。

東京オリンピック開催に伴う東海道新幹線開通を目前に控えたあの頃の日本は、理工学的人種を増やすことにより経済面での大東亜共栄圏盟主の座獲得に向けて胎動し始めた頃であり、その数年後に来る「日本列島改造論」依拠の土木国家実現への布石をつくっていた頃であるともいえる。
トーダイ卒の面々をけとばし、庶民からやんやの喝采を浴び宰相として登場した下駄履・錦鯉好きの田中角栄は今太閤と呼ばれ、一世を風靡した。
彼の重点施策・土木は勿論本来国の施策の根幹に位置付けられるものであり、都市部と雛との生活格差を是正する為にも不可欠な事業である。
その姿勢は例えば現在の小泉総理に対する抵抗勢力の筆頭としての亀井静香に受け継がれているように私には思える。

しかし、「金が天から降ってくるのではない」という財源問題から離れて考えても、土木事業には功罪がある。
例えば、日本列島海岸線至る所の護岸化で近海の生態系が変わってしまった。
昔、女子高校生たちと海岸で深夜のキャンプ焚き火を楽しんでいたら、拉致防御見廻組のおっさんが近づいて来て「あやしい者をみかけなかった?・・・中略・・・昔護岸されてなかった頃のここは年に何回か来る大波が山肌の植栽根元の養分を海岸へ引き込んだ。それを狙って小魚が来る。それを狙って大魚が来たもんだよ」と言ったのである。宮城県漁業組合が「森は海の恋人だ」と現況を嘆く理由もそこにある。

だけれども、今回のインド洋大津波の大被害のあとの識者の解説記事で「日本のように海岸線が護岸化された国では同様の被害までを懸念する必要はない」という意見を読んでその功罪をどう読み取るべきか迷ってしまうのである。

2005/01/24 (月) 月夜

午前一時起床。大寒なのに底冷えはない。
熱々珈琲の入ったカップを片手に外へ出て歩いた。
月夜なので、まわりが明るい。星もところどころに見える。

真砂なす 数無き星の その中に
         我に向ひて 光る星あり     確か正岡子規だ

新聞は、自民党森派の政治資金収支報告書に数億円不記載の可能性があると言っている。そういえば、ここ福井県選出の国会議員は皆森村に住んでいると囁かれている。やだねえ。

とりあえず、さあ今週も頑張ろう

○昨日の朝は区の婦人会総会が開かれた。会長の了解を得て、冒頭に挨拶をさせていただいた。
女性ばかりの会合というのは独特の雰囲気がある。男社会で生きてきた私だ。女性に慣れていないので、気持ちがややかたくなる。
挨拶なので簡単に終えるつもりだったけれども、しゃべるうちに具体的なこと(横垣地係産廃処理施設異臭のこと、旧金津芦原両町を結ぶアクセス道路のこと、幼稚園-保育園の関係、中学校建設問題、中高一環教育の是非エトセトラ)が口端に登ってきた。ちょっと長くなってしまったかなと、反省。 


2005/01/23 (日) 昨晩のTV  

テレ番欄などを見たことがない私に、友人から「今晩の9時からのTVで、椎名誠のでっかい旅が入りますよ」というメールが入った。
そこで9時ジャストTVの前に座り、冷酒片手に2時間をじっくりと楽しんだ。
南米大陸ラプラタ川の源流を遡る旅で、その川を命の糧として暮らす人たち・動物たちをウオッチングする番組だった。
消費立国に住んでいる私たちのような生活だけが普通の生活ではなく、化粧されていない素のままの心と体で日々の糧を求める生活が世界にはあることいやそれが普通なのかもしれないことを教えてくれる番組だった。


それにしても椎名というひとには男の色気がある。
しゃばには、日々をああいう旅に費やし、毎日が非日常の生活で生涯を終えるうらやましい人種が沢山いるんだろうなあ。
勿論、例えば文章力やカメラテクニックや胃袋の丈夫さや体力やらをブラッシュアップしてそれぞれの専門家としてたてていることが、それを可能ならしめているのだろうけれども・・・。

とりあえず私もあと数年して、生活に時間的なゆとりがでてきたら、文章修行をして半生を回顧したい。
「淡路島の離島で暮らしたふた夏の経験」とか「夜な夜な地下足袋で歩いた沖永良部島のサンゴ礁」とか「赤倉スキー場、アフタースキーのできごと及び野沢菜について」とか「加賀の海の潮騒がいつも俺を呼んでいる」とか「妻との出会い」とか「不潔だった下宿人の頃」とか「地蔵と向き合う静謐の日々」とか「真冬の聴山渓温泉で追いかけたキタキツネ」とか「シドニー湾一周豪華客船甲板で絶叫した港町ブルース」とか「残雪のトロント上空をコンドルが飛んでいた・・エルコンドラパサ」とか「気比の松原とコウノトリと私」とか「深夜の岡山で強盗と間違われケーサツに逮捕されそうになった私」とか「四国架橋近くの飯屋でスリランカの人と間違われた私」とか「南九州海岸・寝袋の旅」とか
うーん、題材はいろいろあるような気がする。


2005/01/22 (土) 昼下がりの読書 

土曜の午後の昼下がり、下の部分を読みながらぼくは自分の子育てを振り返っていた。

・・・・・母と子は同じ方向をむき、会話もまた肩越しに交わされる。
又子供の方も母の肩越しに見える前方の光景を、母の目を通じて眺めている。たとえ子供はまどろんでいても、母の目によって夢のなかで前方を見る。ほぼ同じことが<だっこ>にもいえるのかもしれない。母の肘にのせられうしろからやさしく抱かれるときの快さは不思議に忘れない。それは母の胸にかじりつくことも含めて、対面ではなく、同じ側に立つことの快感につらぬかれているからだ。まるで母が黒子のようにして自分を支えてくれるのだ。ある一時期こどもたちはたしかに母親を自分の側にしか立たない存在と信じている時期を過ごす。この秘められた事情は本来<むかいあい>の関係であるはずの対話においても無意識に示される。たとえば、個人主義の発達した西洋ならば、母親は子にむかいYouだとかDuだとかいう第二人称をもって呼びかけることだろう。でも日本の母親はちがうのだ。
「ぼく、どうしたの?」「ひろちゃんは、おなかすいたのかな?」というようにごく自然に第一人称を使って語りかける。この場合<ひろちゃん>などという名前の使用は一見すると二人称的にみえるが、じつは一人称の変形にすぎない。なぜなら、日本の子はいつも自分のことを<ひろちゃん、おなかすいたよ>などというふうに表現するからだ。
こうして母親は、ある一時期の子供たちにとって、<他者>ではあり得ない。彼女は、自分の意識の、眼の、耳の、意思の、また希望の延長なのだ。それだけに母親は、自分自身に対して行い得るすべての行為を、子供たちに実行することが許される。たとえその子を叩いても、叱っても、それは自分を叩き、叱ることと同じなのだ。そしてこのとき、子供には本当の意味で個としての<自分>なぞ存在しないに決まっている。ぼくたち日本の少年の大部分は、そうやって母の下で育つ。母が子を叱り、たとえ死に至らしめたとしても、それはたとえばスパルタ教師のしごきやいたずらな友達のいじめによる死とは、根本的に異なるものなのかもしれない。なぜなら、子は単に<外へ出てきた胎児>にほかならず、母体が死ねば必然的に胎児も衰死するという関係になっているからだ。とすれば、このふたりは、いやでも同じ側に立たざるを得ないことになるだろう。・・・・・
                荒俣宏「日本仰天起源」より

○この日記をどなたが読んでくださっているのかは全くわかりません。
但し、アクセス時間帯あるいは機械種別等だけはわかります。
例えば昨日(01/21)の場合のデータ(抜粋)を読んで
・ああ、ふたりの方が、初訪問してくださったのか。
・昼間に訪問してくださる方が意外と多いんだなあ。
・ふーん、XPより98が多いのか。
・「お気に入り」に入れてくださっている方が多い。ありがたいことだなあ。
・お客様は神様や。うーん、駄文だけど、休まずに書いていこう。
             というようなことを思うわけです。

以下、昨日(01/21)データ抜粋
表示回数: 97 回
初訪問者数: 2 人 (訪問者のうち、初訪問の数を示します。

■時間別 -
0:00 - 0:59 2
1:00 - 1:59 0
2:00 - 2:59 0
3:00 - 3:59 0
4:00 - 4:59 0
5:00 - 5:59 0
6:00 - 6:59 5
7:00 - 7:59 3
8:00 - 8:59 13
9:00 - 9:59 6
10:00 - 10:59 9
11:00 - 11:59 1
12:00 - 12:59 6
13:00 - 13:59 10
14:00 - 14:59 3
15:00 - 15:59 4
16:00 - 16:59 5
17:00 - 17:59 4
18:00 - 18:59 6
19:00 - 19:59 1
20:00 - 20:59 2
21:00 - 21:59 9
22:00 - 22:59 5
23:00 - 23:59 3

■訪問回数別(ユニークビジターのみ)
301~500回 29
201~300回 6
101~200回 5
51~100回 4
501~1000回 3
はじめて 2
31~50回 2
1000回以上 1
2~3回 1
4~5回 1
11~15回 1


ブラウザ別(ユニークビジターのみ)
InternetExplorer 6.x 52
InternetExplorer 5.x 2
Safari 1

■OS別(ユニークビジターのみ)
Windows 98 24
Windows XP 21
Windows Me 6
Windows 2000 3
Macintosh 1

■スクリーン別(ユニークビジターのみ)
1024x768 47
1280x1024 4
800x600 2
1024x480 1
1280x768 1

■アクセス元別
[直接アクセス(お気に入り)] 88 (61/49)

http://search.yahoo.co.jp/bin/query 2 (2/2)
http://www.google.co.jp/search 1 (1/1)
http://ekubo.jp/yahoo/ 1 (0/0)



[ Yahoo! - この語で検索] まきさんの議員
[ Google - この語で検索] http--www.big-c.or.jp~makichan
[ Yahoo! - この語で検索] 議員 日記


2005/01/21 (金) やっぱり臭った

昨日の午後7時。
晩酌のあとしばらく仮眠し、起床後外へでた。
突然雷鳴が轟き大粒の霰が降り始めた。大寒なのだ。
路上がみるみる真っ白になっていく。景色が一変するさまを眺めていたら、何故か気分が凛とした。

夜は友人ふたり来訪しての熱々珈琲四方山話。散会後、愛用の寝袋に入った。「朝倉義景のすべて」を読み始めたのだが、どうも学者の文章はかたい。そこで本を椎名誠著「からいはうまい」に取り替え、数十分後眠りについた。
嫌な夢をみることもない熟睡で6時に起床。8時間眠ったことになる。
朝食に雑煮を食べたあとの一服で、家のことを想う。
(一国の宰相風に言うと)内外共に困難を背負う2005年の幕があけたが、自然体で一歩ずつ歩んで行こうそれしかないと、改めて思った。
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○先日、例の異臭発生源産廃処理施設「アグリ伸輝」の責任者と長時間話す機会があった。
「勿論完全とは言えないですけれども、昨年からいろいろ努力して臭いは大分収まったと思います。作業場敷地内部に居る我々自身がそう感じます。怖いのは現在の臭気状態云々よりも、昨年夏における強烈な異臭が近隣住民のみなさんの記憶に刷りこまれていることです。例えわずかな臭いでも当時の記憶とリンクされるのが心配です」とまあ、そういう意味のことを聞いた。
気になったので、帰宅してから近隣「宮王」地区の知人に電話して現状を聞いた。相手の「そういえば、臭いのことをすっかり忘れていた」という答えで、事実収まっているのかと思ったが、しかし今は冬だ。
温度の下がっている冬は、仮に臭いがあったとしても地表に停滞しがちだ。
問題は、春先になり気流が上昇する頃になおかつ大丈夫かどうかである。

そんなことを思いながら、本日金津庁舎へ。
担当課へ行って「最近臭いが小さくなったみたいやね」と言ったら、ふたりの担当職員異口同音の「そんなことないですよ。今まで現場にいたけれども、ひどく臭ってましたよ。きょうは風が強かったので臭気が近隣にまで飛んでいると思います」の答えが返ってきた。確かにその会話の時点で入ってきた向ケ丘のひとからのメールは「今、ひどく臭っています」が文面だ。
当該業者への、県による改善命令、あるいはそれにもとづく対策計画書の提出等々、年末から年始にかけての行政指導の流れを詳しく聞いてから事務所に戻った。
紙面を改めて詳述するつもりですが、我々住民は監視と提言を徹底していかなければならないと思う。
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○本日の午後は、CADにいそしんでいた。
ラジオから、小泉首相の第162回議会国会施政表明演説が流れてきた。
市議会の冒頭に市長が行政報告をするようなものであり、総花的で面白くもなんともないのだが、「・・・IT戦略で知の総合国家をめざす云々・・・」の部分を聴いていて、思い出したことがある。
このひとは情報集積=知の総合性確立と思っているわけで、これは勿論定義上のオロカな間違いだが、それはおくとして・・・。
先日読んでいた雑誌に、中国のIT戦略昨今事情が載っていた。
華僑の国・中国だ。全世界でその種の頭脳が活躍している。そのエリート達を本国へ呼び戻し、欧米に追いつけ追い越せを至上命題とさせるようになってきた。
それは構わないのだが、その人達の現時点での平均寿命が50数歳なのだそうである。


2005/01/20 (木) ぶつぶつ

あるひとの家に、6月市議選に立候補する予定のひと(誰だか知らない)が来て「頼んます」と言った。
「私は牧田さんを推してますから」という婉曲の拒否に、候補のひとは「だって彼はもう出ないそうですよ」と答えたそうだ。当の本人(つまり私)がびっくりしてしまうような会話である。
こういうことを言う感性が私にはどうしてもわからないなあ。

有権者が肯定的にしろ否定的にしろ「あいつはどうのこうの」との評価をするのは当然であって一向に構わない。私なんぞこの6年間で実にさまざまのことを言われた。
例えば
・しゃべりが多すぎる。脱線したらいかん。
・もすこし身ぎれいに。
・愛想がよくない、もっとニコニコしろ。
・顔が悪い。黒い。
・話が抽象的になってはいかん。具体的に。
・アンテナが鋭敏じゃない、もっと全体のことを考えろ。
等々で、勿論誉め言葉も幾つかあったのだが、それは忘れたし、言われるということは真実とてもありがたいことなのである。

しかし、立候補しようとするひとが、虚偽のことを他人に言うのは言語道断でまことに品がない。器量が伺える。少なくとも本人(つまり私)に会って真意を確かめることが必要だったはずだ。
選挙運動をどういうかたちでやるのかは全く本人の自由だが、つまるところ自分のよさ(と信じているもの)を具体的にアピールすること以外何もないはずで、他のひととの相対化に身を置くのはお門違いというものだ。

うーん、選挙云々というよりも、我々が社会生活を営む上での常識論かもしれないなあ。

ひとのことをどこでどう言おうと全く構わない 
    けれども  本人の目の前で言えないことは 他でも言わない
            私の目標(できているかどうかは別として)


2005/01/19 (水) 深夜の餅ラーメン

一月も中旬を過ぎたが、毎朝餅を食べている。そして私はラーメンが好きだ。この世で一番好きな和風料理が餅で、一番好きな中華料理がラーメンである。ということで、ラーメンに餅を具として入れてとろ火で煮ると、ねばりけが出てうまい。
以下、私の餅ラーメン調理法

・水道水使用でも構わないが、出来たら旧金津町三大銘水(滝・笹岡・熊坂)のいずれかを使うと、より健康になったような気分を味わえる。

・器をいろいろ試してみたが、志野焼風の淡白な色合いが味を一番引き立てる。

・麺は太めが合う。餅はサイコロのように細かく割って鍋に入れるのがコツだ。経験でいうと一寸四分角がベスト。サイコロ状の餅を、事前にサラダ油で炒めておくとなお良い。焼餅にすると出汁の浸潤が無いので逆効果となる。 

・白餅・昆布餅OK、豆餅ややOK。ラーメンの出汁は味噌味OK、塩味・醤油味ややOK。

・餅がどろっとしているので、塗箸は不向きだ。割箸がいいけれども、勿体無いと思うならば、外へ出よう。庭木の細枝を二本折って使うと、きみはナチュラリストだ。但し目竹は節から節の間で滑ってしまうので駄目である。
私の経験では、桜のやや曲がった枯細枝に一番の風情があった。

・餅ラーメンは正当な料理ではないので、深夜にひとりでこっそりと食べるのがマナーだ。
前菜としてキムチを用意しウオッカを飲みながら食べると、環日本海食文化交流促進事業に参加しているような気分になる。


2005/01/18 (火) 読書

最近、本を読むのが面白くなってきた。
ということで、昨晩は毛利俊彦著「大久保利通」を読んでいた。 
坂本竜馬や高杉晋作あるいは西郷隆盛のような革命ロマンチストではないが故にさしたるエピソードを持たない実利政治家・大久保利通はしかし頓死する志士達の屍を乗り越えて、維新後の空気を吸うことができたのである。

若い日の大久保は、薩摩藩内でいろんな方策をこうじながら藩主島津久光に1歩1歩近づいていき、最終的には全面的な信頼を得る。権力へのすりよりが体質としてあるのだが、あくまでも国士であり決して権力志向者ではなかったというその複雑さがすごい。
結果として、維新後の明治という時代はかれを最高権力者にのしあげたのだが、利権に近寄らず、暗殺された後に残したものが数千円の借金であったというのが又すごい。

すごいと言えば西郷隆盛が心酔していた薩摩藩前藩主島津斉彬も、幕末四賢人のひとりとしてその開明思想において抜きんでいたとひといわれている。つまり、他藩にさきがけて殖産興業・富国強兵を推し進めたリーダーなのだが、じゃあそれを可能ならしめた豊富な藩財源がどこにあったかが問題だ。
島津家が支配していた琉球列島諸島の地場産業なかんずく砂糖きび生産に対する苛斂誅求的重税取り立てにあったのである。

巷に喧伝されている「百姓と菜種油はしぼればしぼる程よくでる」の謂いは、「士農工商」という徳川幕藩体制がつくった身分制度の裏の真意をよくあらわしている。
先祖を4代たどれば何やってたか皆目わからない牧田家は、まず水呑百姓であったとみて間違いない。そうすると、越前藩がなんだ、幕末四賢人のひとりと呼ばれた松平慶永がなんだ、やっぱり慶永に乞われながらも仕官を拒否した九十九橋たもとの貧窮歌人・橘曙がえらいひとだったと思ってしまうのである。
権力者より庶民が偉い。


2005/01/16 (日) 老後を考える  

配偶者を亡くしたり、家族と別れ孤独になった初老のひとたちが、中山間地にコミュニテイタウン(ヴィレッジか)をつくったり、山間僻地の大きな廃屋に集まり共同生活を営むといったかたちが、全国で少しずつ増えているそうだ。

もう10年程前になる。森のなかに9棟のコテイジ群を管理するひとが「新しいひとたちを集めて管理しませんか」と言ってきた。上屋建物は無料譲渡、土地借代だけをみんなで払ってほしい、という。それぞれが自在鉤や露天岩風呂をもつコテイジを1棟ごとに複数で借りるならば、ローコストでの維持が可能という、とても魅力的な話だった。早速現況配置図をつくり知人たちに呼びかけたところ、日を経ずして満杯となった。

名づけて「美しき村」。
幹部鳩首会談で村長(ペンネームは実篤にすべきか)が決定した。
白山遥拝神社を手作りし神主は○○になってもらおう、外務大臣は○○になってもらい迎賓館をつくるがコンパニオンは置かないでおこう、もと自衛隊の○○が防衛庁長官になるべきだ、池には鮒やメダカが泳いでいるのだから環境庁を強力なものにしなあかん、幸い医師も複数いるから厚生省運営に心配はないぞ、文部大臣は45歳で教職にさよならした○○に任せるべきだ等々、話がどんどん進行した。
うーん、村というより国である。
私は、確か鍵束持っての管理人の役目を仰せつかったはずだ。
どんどんふくらんでいったその村実現は、しかし思いもよらないよこやりの事情で頓挫してしまった。
あれから幾星霜。人生七転び八起きだ。ネバーギブアップだ。念ずれば花ひらくだ。
いつか実現できたらなあ、と思っている。

○午前中、迷いごとがあったので某寺院へ。坊守といろんなことを話したあと玄関をでたら、腹痛だ。
「うーん、どっかに便所はないか」と見渡せば、金津庁舎。
かけ込んだら、一階窓口で知り合いの福祉部女子職員が日直だ。老人問題で聞きたいことがあったので、ちょうどよかった。こういうのを、偶然の縁というのかもしれない。
○最近続いているうつの気分は何なんだろうかと考えていて、きょうその理由がわかった。
議員になる前、同好の志数人が一回/一ケ月のペースでこなしていた金津町史跡・石仏めぐりが中断されていることによるのだった。
議会というのは民度がそのまま反映される、いい意味でも悪い意味でも、典型的な俗世界なのですね。
しかし道端の地蔵を見詰めていると。
涅槃がアタマに浮かび、死と生の関係を思い、己の狭量さを反省する反俗の世界がそこにあります。
「俗にいて反俗を想い、反俗にいて俗を想う」・・うーん、我ながらいい言葉です。
早速、もとの同好の志に電話をしたら「いいですねえ。暖かくなる前にフィールドワークを始めましょう」という答えが返ってきたので、私は嬉しくなってしまったのであります。


2005/01/15 (土) 無題

いろいろしんどいことがあると、逆にあばさけたことをしゃべったり書いたりしたくなるのが私の悪い癖でありまして、反省し、昨晩の戯歌はデリートしました。
ところで
土曜日の午後だということで、寝袋に入って、文庫本・「昭和史の謎・檄文に秘められた真実」を読みふけっていた。
「檄文」は、例えば劇画・ゴルゴサーテーンみたいなものだ。
言葉が野太く、思い入れ過剰で、文章の骨格がはっきりとわかる。柔構造社会となった昨今、決してトレンデイな文体ではない。しかしながら、じっくり読んでいると血が沸き立つ。
うーん、私も自分自身に対する「檄文」をつくることができないだろうかと、思案していたところに、A氏が来訪。四方山話をする。
6月に予定されている市議選に新人立候補を声明したひとだ。今回の選挙は定数削減にも関わらず、どうやら乱立気味になりそうです。

○S先生、本日のサポート、ありがとうございました 。


2005/01/14 (金) 人道的ということ

昨晩は、数人の来訪者と四方山話。教師がふたり居たので、教職は聖職か労働者かが話題となった。9時半に散会した後、すぐに就寝。
起きたら6時だ。8時間半寝ていたことになる。久しぶりの熟睡で気分もいい。

熱々珈琲を飲みながら新聞を眺めると
「インドネシア政府、スマトラ沖地震の外国人救援活動制限」の見出し記事がある。
アチェ州がGAM掃討のための非常事態宣言下であり外国人の活動を制限している為だそうだが、GAM側は「我々は救援活動の妨害をしない」と反論しているそうだ。
この場合の活動というのは、例えば医療活動を考えると、戦乱の彼我を超えた赤十字活動のようなものだと思うのだが・・。
例え多少のリスクがあるとしても、政府が外国人活動を排除するならば、人道的という誰もが是とする声が無視されてしまうことになるのではないか。

10年近く前、飛行機で上空からかの国を眼下にしたことがあるだけで、政府とGAMの緊張関係の細部などなんにもわからない私が遠くの地で感じることなんだけれども、基本的にそう思う。

○ただ今、午後八時。きょうは、なんかとても疲れた一日だった。
早朝から某設計事務所よりの催促に追われ、区のひとから案内文書をワードでうってくれと頼まれ、家族人としては妻やお袋との鳩首相談で時間が過ぎていき、金津庁舎と芦原庁舎の往復を終えて事務所に戻った。
一服していた時に、知人から「某神社の名前の由来知ってますか?」という電話が入ったので、図書館へ。ついでに本をどっさりこんと借りてきた。
週末は、読書三昧で過ごそうと思っている。偶にはそうでもしなきゃなあ。


2005/01/13 (木) 1月も もう中旬か

年末年始の間にこなしておく予定だった仕事が、まだこなせていない。さぼっていたわけではないのだけれども、雑用が多く入ってきたことや、気分がどうしてもだれ気味になったことが原因だ。仕事は気をいれてこそ進むものやね。

○山古志村の積雪量が例年の2倍となり、建物倒壊の恐れのでてきたことを、TVニュースで知った。過酷な自然が追い討ちをかけている。

木造住宅につきものの雪降ろしは重労働である。
担い手として適者の若者は都市部に出ていて、その都市部は雪が少ない。
雪の沢山降る山間僻地は老人社会となっているのが一般的であり、過密と過疎の表裏関係がこういうところにも現れている。

便利で映画館や劇場や飲食街のふんだんにある消費地としての都市部が若者たちにとっての魅力なのだろうが、本当にそうなんだろうか。
なんにも無いところにこそ、実は無限のものがあるのではないかと、ぼくは思う。
日本全国寒村暮らしのひと達が、生活の不便さにも関わらず村を出ようとしないのは、単なる郷土愛だけではなくて、優しさも怖さも熟知した自然に対する畏敬の念が根底にあり、それにひきずられているからではないかと思うのである。

○午前中は福井市役所に居た。打ち合わせ終えての帰途、久しぶりに芦原街道を車で走った。福井市周辺の風景が雪景色であるのに対して、旧芦原町地係に入ると田圃の雪は殆ど姿を消している。
青空の下、道端には咲き誇る草花も見えた


2005/01/12 (水) 菜の花

深夜ラジオがブラザース・フォーのフォークソング「7つの水仙」を流している。
ぼくは貴女が好きなんや。指輪かなんかをプレゼントしたい。けどか、ぼくは貧しくて金がない。だから野に咲いていた7つの水仙をプレゼントする。好きな気持ちだけは誰にも負けない。わかってくれよ。
と、まあこういう意味の歌詞(らしい)。

この唄がはやった35年前、ぼくは成人になりたての頃で、リンクHPの友人と同じ下宿で暮らしていた。彼もぼくも常にスカンピーだった。ただし、彼はいつもいろんな可愛い女の子からプレゼントをもらい、誰にも相手にされないぼくはいつもその分け前をもらっていた。
「7つの水仙」なんて嘘や、青春なんて惨めなだけや、この世は差別に満ちている、今にリッチになったるぜ」がその頃のぼくの心情だった。
月日は流れたが、相変わらずリッチにはなれない。

という訳で水仙はそんなに好きではない。しかし、ぼくは同じ野の花の菜の花を次第に愛するようになっていった。
前回の町議選。町内あちこちまわりの際、道端にみつけた菜の花数本を胸ポケットに入れて街頭演説に精出した。


選挙期間中のある日、「きょうの菜の花がとても素敵でしたわ」のメールが入った。不明の差出人は恐らく美しい人妻で、「菜の花が」は「菜の花を胸にした牧田さんが」の省略だろうと思った。
そういうことがあって、ぼくは自分の出すミニ新聞の名前を「菜の花通信」と名づけた。


2005/01/11 (火) 大相撲

連休最後ということで、昨夕は熱燗飲みつつ大相撲のTV観戦。腰落ち着けてのTV観戦は、ほぼ一年ぶりだ。
ロシア・モンゴル・ブルガリア等いろんな国籍の外国人力士の番付上位確保で、国技大相撲は大変に国際的になってきている。
がぶりよつが姿勢としては美しいねえ。
かって吉本隆明だったかが「傍目には力を抜いているようにみえるが、実はお互いに力を出し合っての静止ががぶりよつであって、これは我々の人生と同じである」と言っていた。
その頃たまたま読んだのが、週間ポストの「八百長告発シリーズ」にあった誰某の手記だ。桟敷で土俵を見詰める誰某の隣席に居た二子山親方(先代若乃花・土俵の鬼と呼ばれたひと)が「あのやろう力いれとらん。注射(八百長)しやがって。わしには、尻の筋肉のはりでわかるわい」とつぶやいたという。

ひとりひとりの人生は、何の起伏もない地味なものに見える。しかしその内側には喜怒哀楽を含んださまざまの歴史がある。達人の眼には、それが見える。
そういうことなんだろう。

○ということで、昨晩のぼくは自分自身の来し方を振り返り、嫌な男のことを考え、配偶者に多少甘え、年をとってきた両親の行く末を想い、3人の子の表情を探索し、つまり家族のことだけに思いをめぐらす夜を送った。


2005/01/10 (月) 成人式

昨日の午後は、成人式式典に出席した。合併したので、新成人は大変に多い。
ぼくが金津幼稚園のPTA会長をしていた時の学年なので、保護者席には知っている顔もちらほらだったが、新成人の顔を識別することは、勿論できない。歳月幾星霜なのである。
来賓祝辞のさなか、最前席がちょっと騒いだ。それを見てぼくは昔を思い出した。
十数年前、三国町社協から電話があり、成人式記念講演の手話通訳を頼まれた。講演者を尋ねると、新保出身の有名詩人・荒川洋治だという。詩人の頭脳だ、一筋縄のしゃべりではないだろうと思い、本人に電話した。
「なにをしゃべりなさるんやろか」と聞くと「全然考えていません」が答えだった。このあたりが詩人らしいところだ。
当日。
彼は寺山修司を語り始めた。対応能力を持たないぼくの手はなかなか動かない。文芸に興味のある新成人は喜んで聴いていたんだろうが、そうでない新成人は私語に走る。会場全体が騒々しくなったところで、彼は顔をいかつくして「やかましい奴は会場を出ろ。帰れ。」と叫んだのである。
今振り返って考えてみるに、そういう場面は当然想定できたはずで、荒川さんは「怒るおじさん」というのを新成人にみせたかったのではないか。なんかそういう気がする。


2005/01/09 (日) 雨の日曜日

ぼくは、もともとが内省的で遠慮がちな性格だ。
こういう性格は、ひとからいろいろ言われやすい。そしておおかたは批判である。
「耳ざわりのいい言葉でひとは堕落し、耳ざわりの悪い言葉でひとは覚醒する」という格言を思い浮かべるならば、得な性格なのかもしれない。

昨晩は、知人宅でアルコール交えての歓談。
「牧田はんは、本来真面目なひとなんやから、しゃべるにしろ書くにしろ、もっと直線的であってほしい。」という相手の言葉に、思い当たるところが多かった。


2005/01/08 (土) ため池でため息

先日の昼、有志議員が喫茶店に集まった。
リーダー格議員の、「今年の6月には市議選がある。誰某・誰某立候補等の噂もかますびしい。きょう集まったなかには、出るひともいるし、出ないひともいる。出て通るひともいるし出て落ちるひともいる。しかし、そんなことは関係なく我々は任期をきっちりとまっとうしなければならん。それが住民から附託された議員の一番の義務や」で、四方山話が始まった。
うーん、2期(というより1期半か)の実績を生かすためにも出たいと思いつつしかし落ちるやろうと言われているわたしだが、少なくとも今任期中の研鑚・努力・質問・発言は、このHP書き込みも含めて続けていかなくてはと、改めて思った次第です。
次回の定例議会は3月に予定されている。
旧芦原町と旧金津町をつなぐアクセス道路のこと、(統合をも視野に入れた)中学校建設のことなどが主たるテーマになるだろう。
中学校建設に関しては、財政だけで語れることではなく、教育理念が平行して語られるべきだと思う。
うーん、教育といえば幼保一元化の推移が気になる。先日も教育長室で話をしたのだが、どうも思いのかみあわない部分のあることを感じた。

○清滝のため池に寄った。
昔、3人のこども達が小さかった頃、妻と共に5人でここに来て、おにぎりほおばりつつ休日の昼下がりを楽しんだものだ。
周りには棚田があり、こども達はそこでおたまじゃくしを見つけ、レンゲ畑にごろ寝し、赤とんぼを追いかけ、池から顔をだしたどじょう達にこんにちわと挨拶し、ぼくはといえば摘み取ったクローバの葉で「愛してる・愛してない」の恋占いをしてため息をついていたものだ。
つまり日本の正しい春・日本の正しい夏・日本の正しい秋を味わっていたのである(冬は寒いので来なかった)。
あの頃のぼくは、未来に可能性があると思っていた。
げに、生きていくということは、可能性のひとつひとつを削り取っていくことに他ならない。


2005/01/07 (金) 外はしとしと雨

昨日の朝日新聞4面に塩野七生のインタビュー記事がでていた。
塩野は政治家のありうべき姿を語っている。ぼくら末端市議が政治家といえるかどうかは別として、語りの内容が興味深い。
「・・・政治家も、話す前に頭のなかで考えをまとめるという努力はしない方がいいし、しても無駄です。それよりも「話すことで考える」を習得してほしい。そうでないと「苦し紛れ」と言い換えてもいい、パフォーマンスなるものに逃げるようになり、そうなればなったで、なおさら墓穴を掘る結果につながってしまう恐れがあります。・・・」


なかなか示唆的だと思った。
商売柄、いろんなひとの話を聴くことが多いが、立て板に水のしゃべりをするひとというのは、考えずにしゃべるひとなのかもしれない。
「話すことで考える」ならば、例えば合間に沈黙もでるし、話の枝葉が錯綜しもする。そして実はそういう時の表情が印象に残る。
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○本日はひがな一日エクセルと格闘している。区の理事会で書記を担当していて、明後日までに「区規約改正案」を書き込まなければならないからだ。
CADで線をひくのと勝手が違って疲れる。
事務的文書は情感不要で類型的であることを免れることができない。しかし、淡々と書き続けなければならない。
仕事とは本来そういうものなのだと思う

2005/01/05 (水) 真っ白な校庭

年があけてから知ったのだが、今年のえとはトリだそうである。
そういえば「羽ばたく」の言葉が、新春TV画面を飛び交った。
ひるがえって私は昭和24年つまり丑年生まれだ。そして例えば高村光太郎の詩「牛はのろのろ歩く・・」のように、牛は鳥の対極だ。
ということで、地道に「一歩ずつ・・」を座右の銘としてきたのだけれども、実は一歩ずつ歩こうとする方向がどこであるのかよくわからない。今日の新聞社会面は天変地異・戦争・詐欺・誘拐・殺人事件などが満載で、それらにいつ巻き込まれても不思議ではない。いきおい、歩くよりもたちどまることが多くなる。立ちどまれば、退がっているような気分になる。
そこで水前寺清子の唄「三歩進んで二歩退がる・・」のように考えれば、暗中模索の現代においても3-2=1で、とりあえず一歩ずつ進んでいることになるのではないかと楽観的に構えて、今年を生きていきたいと、思っています。

○某小学校の校長サンを訪ねた。駐車場脇の校庭が真っ白なのをみて、今冬休み中であることに気がついた。
自営業には長期休暇も短期休暇も土日もウイークデイも関係ないのである。


2005/01/04 (火) 生まれ出ずる悩み

正月三日間くらいは日常の悩みを離れ、飲んだくれながら例えば山之口獏の詩集でも読みふけっていようと思っていたが、そうは問屋がおろさなかった。
身辺の悩みを忘れることはむつかしいのである。根が真面目すぎるという生来の性格のなせるワザかもしれないが、しかし「人間は悩みを愛する動物である」という有名な格言もある。やっぱり自然体でいくしかない。

○年末に東京から帰省していた隣家の女性が、大晦日に東京へ戻っていった。元旦からインドへ行くとのこと。外務省勤務の夫はインドネシアの領事館に居るので、今とても大変なはずだ。
そういえばその人は、何年か前、日本の飛行機が東南アジアのどこだったかの島に墜落した時、密林のなかの背丈もある草木をかきわけかきわけ遺体累々の現場に入ったそうだ。
みんな頑張っている。

2005/01/03 (月) 未明に珈琲を飲みながら

昨日の昼は、知人と教育談義。夜は福井市内で、現役と教育談義。
教育と福祉は、長期的な視野で公が取り組まなければならないことだと思っているので、いつも談義は長くなる。
けれども、根詰めて考えれば考える程、教育って何なのかわからない。
もともとが、教育界という限定された枠のなかだけで人間が教育されるわけではないし、立派な人間をつくるのが教育の目的だとうたったところで、立派な人間という定義の中身がわからない。
少なくとも、制度だけで語られる対象ではないと思う。

○去年の12月議会で、旧芦原町系某議員に対する問責決議案が可決された(ぼくも賛成起立した)。
いつだったかの全協で、A議員から「区長が議員を兼ねていたこと自体に問題がある。そこを峻別する為に、政治倫理規制条例をつくらなければならないのではないか」という意見が出た。それを聞いていたぼくは、昔を思い出した。
6年前、町議に当選した時、あるひとが「牧田はん、区長と議員は行って帰るほど違う。区長は十手持ちで、議員は博打打やぞ」とぼくに言った。これはつまり、区長が行政から委嘱状をもらうのに対して、議員は行政監視者としての資質を有権者に問われ、選挙で通ったり落ちたりするということである。

その意味でぼくはA議員の意見を納得したのだが、B議員から反対意見がでた。「それはモラルの問題や。条例化はいかん。だって、大きな区だったら峻別可能であるとしても、小さい区にはひとがいないんや。峻別は無理だぞ」という内容だった。うーん、いろんな見方がある


2005/01/02 (日) 深夜に思ったこと

例えばソ連邦が解体したり、ベルリンの壁が無くなったりした当時、「冷戦終了や。あとは38度線だけや。世界平和の灯がみえてきたぞ」と思ったぼくはいかにも単純あさはかで、世界はその後、地域紛争繚乱の時代となる。
資本主義vs共産主義という世界構図の(多分、共産主義の持っていた硬直官僚主義八方塞故の)崩壊は、軍事的優先権を確立させた米国の、(恣意的にか好むと好まざるとかはわからないが)警察国家化を促進させ、文化宗教といった微妙な問題をからませつつイスラム諸国の反発を増幅させた。
その結果として、9.11世界貿易センター爆破テロが起きるのだけれども、世界はここで決定的に変わったのではないだろうか。「テロ」という言葉の持っていた一種の悲哀めいた湿り気あるニュアンスは消え、非人道的で乾いた憎悪をさし示す言葉になりさがったと思う。この時点で米国は悪くなく、世論の後押しをうけての米軍アフガン侵攻は当然といえば当然だ。但し、あらゆる戦闘は必ず無垢の民を巻き込み累々とした屍を積み重ねる。非戦闘員にとっての世界も、大統領にとっての世界・兵士にとっての世界と同じだ。かけがえのない一回きりの世界を理不尽に終わらせてしまうことが人道上許されないことは当然である。

動機の肯定される戦闘は確かにあると思うけれども、現実の戦闘が兵士間のものに限定されないというギャップをどう考えたらいいんだろう。
はやい話が、今年60年目となる広島・長崎への原爆投下だ。「日本の領土内での犠牲者を最小限に押さえる為のやむを得ない措置だった」という当時の米国の主張を被爆国の我々が納得できるはずがない。

核やミサイルの脅威はある。自衛隊の専守防衛路線で脅威を払拭できない、と先日会った国家の役人が話していた。それならば専守をはずすこと、つまり自衛隊を軍隊として公に認めなければならないという国際状況下に我々がいるということになるのではないか。
戦後の日本は、疲弊した経済たてなおしの為、「平和宣言国家・町人国家」として世界に対して振舞ってきた。経済が復興し60年安保が改定され70年の自動継続承認を受けて日米同盟が強化された結果、米文化がどしどし流入し、日本社会は米の属州の様相を呈している。
「平和国家」を合言葉にして、世界に何の提言もせず、平和に暮らせるならばこんなにいいことはない。いや、それを理念として世界に訴えるというのも選択肢だ。問題はそれが現実的でないという答えを最近の国際緊張が強いていることではないか。
自衛隊の在り様については、さまざまに論議されるべき時期にきている。ただし、他人事として論じるのはいけないことだ。同胞が家族がその構成員であるという前提で論じられるべきだろう。


2005/01/01 (土) 新年の挨拶

あけまして おめでとうございます
      本年も よろしく お願いいたします


年越蕎麦を食べたあと、プライドをTV観戦しているうちに眠くなり就寝。目が覚めたら11時45分でした。キーボードをたたいていて、聞こえてくるのは除夜の鐘です。

2005年は、しとしと雨で始まりました。
HP表紙を見ると総カウント数=11万が近づいています。
2000年2月にこの議員日記を書き始めてから、いろんなことがありました。
日記なのだから、インターネットに載せず自分のノートに万年筆で書いていりゃそれでいいんじゃないかと思ったり、面倒くさいからやめてしまおうかと思ったことも何度かありました。
けれども、街で出会った知人に「久しぶりやなあ」と声をかけると「全然。だって牧田さんのHP、時々覗いているもん」と言われたことがありそれが大きな励みになったりして、書き込みが今日まで続いてきたのだと思います。
誰も言わないので、ぼくは有森風に「自分で自分を誉めてやりたい」と思っています。
「議員日記」なので、政治・社会・道徳を論文風に料理したいつまり世界を相対化したいという思いがこの日記を書く動機だったのですが、書き始めてすぐ、自分にそれに見合う文章力の無いことがわかりました。おのれを知ったのです。
爾来、この日記は、出不精の私がせいぜい半径3km以内で経験したこと感じたことをメモする程度の身辺雑記となってしまい、「何書いてんねん、あんたは。期待を裏切ったぞ」と正義派正当派紳士派の面々からご叱責をうけることも度々でした。
しかし
昨日、中川地区のある人から「牧田さんは、メガネかけてるけど、メガネでものを言わないのがいい。自分の本音をさらけだしてる。その姿勢を絶対に変えないでね」と言われたのであります。
ひとは何を書こうが、どうしゃべろうが必ず賛否あいなかばする、みんなから好かれるひとはどうでもいいひとである、善人なほもて往生を遂ぐいわんや悪人をやである、にこにこ顔には気をつけろというのが、議会生活7年間でぼくが身につけた親鸞上人風座右の銘であります。


議会といえば、今年6月には市議選があります。議会生活6年間の実績が問われる勝負の年です。
頑張りますので、私に投票してくださるかたも、他の人に投票なさるかたも、時々はこのHPを覗きに来てください。
              かしこ
雑煮を食い、ビールを飲みながら読む年賀状に添えてあるコメントの幾つかをピックアップしてみた。

・あわら市になり何かなじめない一年でした。
(女性・同年配) ⇒文学型
・あんまり面白くない世の中だけど、元気出してボチボチ参りますか (男性・同年配)⇒半分世捨人型
・手話ではお世話になりました
(女性・40代)⇒生徒手紙型
・市議選頑張ってください
(女性・同年配)⇒支援型
・各方面でご活躍の程新聞で拝見しております
(男性・60代)⇒遠くからのまなざし型
・「金津」を過去のものにしないよう頑張って下さい
(男性・60代)⇒2町合併懸念型
・いつも児童教育のことを心配していただき感謝しております
(男性・目上のひと)⇒篤実教育志向型
・「自分を生かせるか」 今年はギュウさんの力のみせどころ
(男性・50代)⇒激励型
・手話でご活躍のこと紙上で知りました。
  いよいよのご活躍ご発展をお祈り申し上げます
(男性・目上のひと)⇒遠くからのまなざし型
・牧さん 声も出して 顔も出してよ
(男性・同年配)⇒旧交回復志向型
・なんていったらよいか分からないけど、まあ頑張ってください。
     清潔に関して、もっと理解を深めたら・・
(男性・同年配)⇒世話女房型
・新年会楽しみにしています
         (女性・40代)⇒宴会志向型
・新しい市制は如何ですか。
     あわら市になって金津も随分と変わったのでは?
          (男性・同年配)⇒金津脱出型
・今年もお話しができるのを楽しみにしています
           (女性・30代)⇒ファン型
・団塊の世代の代表としてご活躍をお祈り致します
          (男性・同年配)⇒同級生型
・昨年は合併のことでいろいろと大変だったでしょうね。
      今年も市議としてがんばってください
           (女性・40代)⇒保母型
・今年は大事な年 頑張って下さい
        (男性・目上のひと)⇒支援型
・ダメなものはダメで進む
          (男性・目上のひと)⇒硬骨型
・近くに居るのになかなか一杯飲む機械がないネ 久しぶりに飲もうよ。連絡して下さい
         (男性・同年配)⇒酒好型
・いつも日記楽しませてもらってます。時々メール下さいな
         (男性・同年配)⇒HP日々訪問型
・今年も牧ポン会全開です
         (女性・40代)⇒宴会志向型
・ホームページは毎日みております。
     議員のひととなりが良く理解できます
         (男性・目上のひと)⇒うーん、照れるなあ型
・「みちしるべ」入会お待ちしております
       (男性・同年輩)⇒入会催促型
・なんだかたいへんな一年でした。・・そして今年こそ○○とたたかいます!-と思っています。いろいろ教えて下さいね
         (女性・40代)⇒不屈型