2009年06月

09/06/30 (火) 私が若かった時


さて
きょうで本年度の上半期が終了する。病気とのタタカイに始まり、選挙で終わった半年間だった。私の半生で最も印象に残る半年間だった。
冬場には、学生時代の友人6人が阪神地方から私の見舞いにかけつけてくれた。中華料理店・〇〇軒ではみんなで青春時代の歌を歌った。宿泊所となった〇〇館では思い出話しに花が咲いた。思い出話しは深夜にまで及び、寡黙な私は黙って聞いているだけでシアワセだった。


6人の中には、青春時代に沖永良部島で数十日を共にした友もいた。


その島では牛小屋の二階で生活をした。電気も水道もなく、飲み水や調理水は壷にたまった雨水だった。カエルやイモリの死骸をさけて取水した。


ある日の早朝には珊瑚礁の沖合いを鯨が悠々と泳いでいるのを見た。牛小屋の所有者・平(たいら)のおじさんに「あの鯨から幾つの缶詰がつくれるのか?」と聞いたら、「5000個か10000個」という答えが返ってきた。鯨一頭で億万長者になれるのである。
その沖合いには戦艦「大和」が沈んでいると聞かされた。太平洋戦争の悲劇をいろいろ聞かされた。



ひとりで住み始めた牛小屋だが、徐々にひとが増え始めた。島内で知り合ったワケアリの男たちだった。私は牢名主のような存在となっていった(笑)。しかし男ばかりではいかにも寂しい。
近くのビーチで本土からきたギャルたちが泳ぐのをよだれをたらして見るだけだった私は、名案を実践した。
牛小屋二階を模様替えして喫茶室としたのである。「喫茶おまき・・珈琲200円、但し女性は無料」の貼り紙をはったのだが、しかし誰ひとりこなかった。


月夜には地下足袋を履きカンテラを左手にヤスを右手に持ち、珊瑚礁を歩いた。沢山のエンゼルフィッシュや蛸やハリセンボンが収穫物だった。


というふうに話しはつきないのだが
私は、依頼された原稿をはやく書き上げなければならない。     再見

 09/06/29 (月)  新しい週が始まった


魑魅魍魎の跋扈する世界が議会であることは過去三期で充分承知していたが、今回の市議選で選挙そのものに魑魅魍魎の跋扈を見て、憂鬱は更に深まった。


けれど、挨拶廻りに歩く昨今、清涼剤も感じる。例えば昨日の場合、それは僧侶・A氏とのながい会話だった。
浄土真宗の始祖・親鸞は歎異抄のなかで、「親鸞は父母の孝養のためとて一返にても念仏申したることいまだ候はず」と言っているが、この言葉は生きとし生けるもの全てに対しての連帯表明だ、と私は思うのである。


A氏は、黒人奴隷と聖書の話を引き合いにして私に宗教を語ったが、確かに宗教がセクトを超えて連帯しない限り、我々に明日はない。


私は昨年秋に大病を経験した。三途の川を渡りきり、閻魔大王の手下たちが待ち構える向こう岸に上陸する寸前、この世に引き戻された。

その後の闘病生活を含めた経験の全体で、私の人生観は根底からくつがえされた。
ヒトであれモノであれ目に入るもの全てがいとおしくてたまらないのである。


そういえば、きょうは又、別の僧侶・B氏と会う。


僧侶たちは弁舌の徒である。彼らを冠婚葬祭の場で見るだけの存在にさせてはいかにももったいない。車座のしゃべり手にどんどん引っぱり出したい。


きょうの早朝に「堀江公番田館跡」の原稿を書きあげ、メール送信を終えた私は、友人ふたりと共に清王・照厳寺を訪れ、住職から寺の沿革などを聞いていた。本来の北陸道の位置という「義経記」を思い出させる興味あるテーマにさしかかった時、某坂井市義から携帯電話が入った。
「教組の関係で、本荘小学校へ来てほしい」と言う。
友人のうちのひとりに事務所まで送ってもらい、本荘小学校へと車を走らせた。
「党生活者」となった私は、忙しいのである(笑)。

09/06/28 (日)  自分の感受性くらい


本日は千客万来で日記を書く時間がありません。
奥の手として、インターフォンを取り付けました。これで、来客のプリチェックが可能となりました。私の仕事もはかどります。
とこで私は原点に戻って考えようと思う
           

        自分の感受性くらい


                           茨木のりこ

        ぱさぱさに乾いてゆく心を
        ひとのせいにはするな
        みずから水やりを怠っておいて

        気難しくなってきたのを
        友人のせいにはするな
        しなやかさを失ったのはどちらなのか

        苛立つのを
        近親のせいにするな
        なにもかも下手だったのはわたくし

        初心消えかかるのを
        暮らしのせいにはするな
        そもそもが ひよわな志にすぎなかった

        駄目なことの一切を
        時代のせいにはするな
        わずかに光る尊厳の放棄

        自分の感受性ぐらい
        自分で守れ
        ばかものよ

09/06/27 (土) 土曜日の朝


早朝に旧芦原町庁舎へ行った。旧芦原町庁舎の利活用については、1階に南北幼児園の統合体が入り、2階にシルバーセンターが入るなどの方向性が出てきている。
勿論、今は休館状態だ。



敷地内に入ると空缶が散乱している。活用されていないからほうっておいていい、というものではないだろう。むしろ人の目に触れないところこそ、きれいでなければならない。
私はシャツやズボンにはバーゲンものを身につけ、下着はブランドものをはいているが、それこそがダンデイな人間の美意識だ。
ナイロン袋を車から取り出し、先把を手に持って拾い集め始めた。内向的な性格の私は、散歩の人がきわを通り過ぎる毎に樹木の陰に隠れた。おかげで時間がようけかかった。


挨拶まわりが続いている。まだまだ続く。あせらずに一歩ずつやっていこうと思っている。
ところで
昨年の米大統領選で圧倒的に勝利したオバマのキャッチフレーズは「チェンジ!」だった。
そのせいか、最近の自治体選挙では「変える!」を口にする立候補者が多いそうだ。


だけど、例えば今回のあわら市議選において、より大事なのは選挙戦を変えることだ、と思っていた。地区割り協定選挙をなくすことだと思っていた。締め付けとお涙頂戴が実体の地区割り協定選挙でとる得票数がどれだけ多くても、勿論、そのことになんの意味もない。
しかし結果を見て、この構造は永久に変わらないだろうなあ、と思った。
前途には憂鬱だけが見える。
それでも元気を出してやっていこう。


私たちの北潟湖。一度会って聞いてきます





「元衆議院議員・辻一彦氏を偲ぶ会」への案内状を眺めているうち、30年以上昔を思い出した。
福井市職で組合の活動家だった友人Hさんが結婚することになり、私が披露宴の司会をおおせつかった。媒酌人は、現在民主党県議の野田富久氏御夫妻。辻きぬさん(一彦氏の奥さん)のお祝いスピーチをはっきりと覚えている。
あの頃の私はとにかく若かった。


若かったといえば
その数年後の深夜、私は福井市内の路地の焼肉屋にK子と居た。温和な私には珍しいことだが、当時の私には、憎くて憎くてたまらないひとりの男がいて、K子に私の心情をせつせつと訴えていた。
もうもうと煙るその店の柱時計が「ボオオーン」と午前一時をうった時、私はやおら立ちあがった。
「じゃあK子、俺は行く。握手しようぜ」と言って、私はK子に右手をさしだした。
私の右手を振り払ったK子は
「嫌!・・牧田くん。私と握手しようとしたその右手で、あなたはあの男を刺すのでしょ!・・そして自分も死ぬつもりでしょ!・・・嫌よ!嫌!嫌!・・行かないで!」と私を必死にひきとめる彼女の目からしたたり落ちる涙は、真珠よりも美しかった。
抱き止める彼女の両腕を、無言のままに振り解いて、私は店を出た。


いつの間にか雪がふっていた。愛用のダーバンコートにぼたん雪が降りかかる。
「人生とは別れなのだ」とつぶやく私は哀愁そのものだった。


路地には高倉健の♪「唐獅子牡丹」が流れ始めた。
焼肉屋の店先で去り行く私の後ろ姿を見つめるK子をふり返ることのできない私は、前だけを見つめて、K子の視界から消えていった。


09/06/26 (金) もう週末か


私は毎朝縦貫道路沿いに立ってお礼をしている。それは、今回の選挙で支援してくださった方々へのお礼であることは勿論だが、加えて、坂ノ下地区の(中学校問題でもし統合中学校となったら)地権者となった方々への謝罪の意味もある。


先日来訪した某氏から、「もともと中学校問題なんてなかった。あるのは土地問題だけだった」と言われたが、それは、今回の選挙戦まわりで、我々二校派議員にだけ知らされていなかった裏側を知りあるいは感じたこととも充分に附合する。


地権者が金をほしがるのは、考えてみれば当たり前の話だ。二校存続を訴え続けてきた私が地権者から恨まれるのも当たり前だ。責任は、候補地が正式決定される前の段階で空手形を発行した、当時の行政にある。


中学校問題が長びいた原因もそこにあるのだが、もう、この日記での詳述はやめる。
しかし市民には真実を知っていただきたいので、今、その原稿を毎日書いている。
なんらかのカタチで、世に問うつもりでいる。


蛇足だが
先日の来訪者が、「牧田さん、今、まちでヘンな噂が流れていますよ。みんなが言っていますよ」と、私に言う。その噂はヘンでもなんでもないのだが、いずれもっともっと大きくなっていくだろう。



昨日の来訪者から、講演を頼まれた。
議員にとって議会活動と並んで大切なのは、市民とのコミュニケーションだ。
快く受諾した。

 09/06/25 (木) さあ きょうも忙しいぞ


選挙戦が済んでからは、挨拶まわりが続いている。
開票日翌日の夜は地元を夫婦で廻ったのだが、生憎、ものすごい雨となりズボンはもとよりパンツまでびしょ濡れになってしまった。
一昨日と昨日は組合まわり。途中、携帯コールが何本か入ったが、出る時間もとれなかった。
名組合での相手方の短い応対コメントに、「うーん、なるほど」を感じた。新しい関係の構築だ。
人生は、出会いと別れの繰り返しである。


途中10分間程の時間的余白ができたので、縦貫道路沿いの本屋に入った。月刊誌を一冊購入。これからも忙しさは続くだろうが、本に目をむけるくらいの精神的ゆとりは出てきている。


幾つかの意味で無謀とも思える立候補だった。自分もそう思ったし選対のひとたちもそう思っただろう。しかし、出ることのモチベーションを自分では確かに持っていたつもりである。昨日の日記にも書いたが、覇気があれば自分を見失うことはない。


自分を支えてくださった全てのみなさん、本当にありがとうございました。



今朝の4時半、私は北潟湖にたたずんでいた。



昨年の秋に九死に一生の体験をした私にとって、水面に映える朝陽の眩さは、単なる風景美ではない。
選挙期間中にもしゃべったが、
ふるさとの自然を再び見ることができるのは、今現在、生きているからだ。
見ている主体である私自身と客体との関係の総体がいとおしくてならない。



ここはトリムパーク。



昨日の朝、同僚市議から電話が入った。某氏がここに自分の銅像を建て始めたという。その経緯を知らないかと言われたが、なんせ他のことでてんてこまいだったので、とりあえず自分のルートで経緯調査を依頼した。夜にある場所で同僚市議と会った時、トリムパークに対して工事中止を要請した旨を聞いた。
トリムパークは県の施設である。だから許認可権は県にある。しかし管理運営はあわら市が行なっている。つまり、双方が、建てられることの是非についての経緯を知っていなければならない。
ま、経緯は序々に明らかになるだろうが・・・。

 09/06/24 (水) 昨日の一日


昨日の午後は、友人三人と共にあいさつまわり。午後6時過ぎに疲れて事務所に戻ってきた。
しばらくあとに、女性友人が来訪。
「ごめんねー」と言う。いや、あくまでも選挙のことであって痴話ではありません(笑)。


そのあと、某場所へ車を走らせた。今度は大勢のひとを前にしてマイクを持っての挨拶だ。
適度に笑いをとれて、「うーん、わしの心根は陰気でも、頑張ればユーモアを交えることもできるのだ」と自己満足しつつ挨拶を終えて座ったら、「要求がひとつあります」という声があがった。
「牧田さんは、日頃やっていることをもっともっとみんなにアピールすべきです。」と言われた。
言おうとしていることはわかるのだが、シャイなこの性格は直しようがない。


事務所に戻り、気になっていた人に電話をしていた時、友人ふたりがたて続けに来訪。
私は買ってきたばかりのインスタント珈琲「ゴールドブレンド」でふたりを接待した。
来訪者のうちのひとりから「私もいろいろな選挙を手伝ってきたけど、候補者の牧田さんは文化遺産みたいなひとやねえ」と言われた。この言葉の意味を説明するとながくなるので割愛します。


ふたりが帰ったあと私も自宅に帰り、サザエのつぼ焼きをつまみにして、お湯割り焼酎をあおった。
「うーん、これからの私の人間関係はすごく変わるだろうなあ」という予感がアタマを駆け巡るうち、眠たくなってきた。
寝室に行き布団に入ったのだが、何故か寝付かれない。そのうちに妻が帰ってきた。
人生の師でもある妻だ。開票の最後に雲隠れしてしまった妻だ。
そのことに大変な申訳なさを感じている私は、きょうのできごとを報告し、感想をいただいたあと、就寝。

しかしやっぱり寝付かれないので、枕元のエッセイ集をひろげた。
大山倍達の警句が目についた。若いひとは知らないだろうが、極真空手の大山倍達は、戦後の日本においてあの力道山と双璧をなした格闘技界の巨匠である。


金を失うことは小さなことである
信を失うことは大きなことである
覇気を失うことは自己を失うことである 大山倍達



確かにそうだと思うし、これからは私の座右の銘にしようと思う。  

09/06/23 (火) 連帯を求めて孤立を恐れず


★さて
いつも思うことだが、選挙戦と言ってもタタカイはまちうちだけのタタカイである。
郡部はいくつもの地区が地区協定を結び選挙をするものだから、はじめから大量得票が約束されている。選挙は個人が自分の自由意志に基づいて投票すべきであるという基本理念が根付くのは、まだまだ先の話だろう。
郡部の何人かのひとたちから「地区割りのそういう選挙が嫌で嫌でたまらない」という苦情を聞いたが、私にそう言われても仕方がない。そして(これが肝心なのだが)、そういう意識を持った若いひとたちがこれからは立候補すべきである。


★もう触れるのが嫌なのだが
昨日の来訪者から「実は学校問題なんてなかった。あるのは土地問題だけだった」と言われて坂ノ下地区に住んでいる人間としていろいろ納得した。今回の選挙戦で、約束手形のあっとこともはっきりわかった。
我々庶民は金がほしい。大金ならばなおさらそうである(私だってそうだ)。
だけど金は市民の金から出る。市税はあわら市全域からである。
そのことがいろいろ考える上での原点だ。


★地区推薦選挙の様相は相変わらずだった。小さな地区に住んでいてそこからの推薦もなかった私の場合、当然近隣地区からのサポートもなく、困難は想像以上だった。
結果としての最下位当選に、しかし、私は大きな誇りを持っている。本当の同志が入れてくださった票だと思うからだ。
議会は仲良しクラブではない。市民のなかの同志との連帯を強めていくことが、私に課せられた課題だと思っている。


09/06/22 (月) 外はどしゃ降り


昨日は投票日。なんとか、当選させていただきました。支援者の皆さん、どうも、ありがとうございました。
だけれども
告示期間のこの一週間、私はいろんな裏情報を耳にしました。選挙というのは、ひとを、人間不信にさせる部分のあることを痛切に感じました。
妻からは、「おとうさん、ひとが好いだけでは絶対に選挙に勝てんよ。もっと狡猾にふるまわにゃいかん。おとうさんは、もっとも選挙に向いていない人間や」と、連日連夜言われました(笑)。


しかし、昨年の10月に脳内出血で倒れ、療養中に他の候補者が既に動き始めていたことを考えると、自分で自分を誉めてあげたい気分にもなります。


きょうの午後は、医大で私の主治医であった医師と四方山話しをしてまいりました。「本来ならば大きな後遺症が残るはずの牧田さんのカラダは全面復活や。これからは、無理をせずに、しかし地についた議員活動にいそしんでください」と、励まされました。


ところで、これからの私の議員生活は、今までとは様相を異にするようになると、思います。

09/06/11 (木) 梅雨入り


★昨日は雨が一日中降っていた。気象庁は福井の梅雨入りを宣言したらしいので、そうであれば雨が続く毎日となる。
湿り気のある日々も又いいものだが、今の季節、活動がにぶるのはちょっと困る。


★今朝も本降りだ。雨音を聴きながら私はしばらくの間、妻と語り合っていた。これまでの活動を語り合っていた。
あと三日間で告示となる選挙運動は、いうならば人を巻き込む運動である。今まで一緒にやってきた同僚議員も、今からはライバルとなる。そしてそこに様々な矛盾・葛藤も生じてくる。
妻と語り合ったあと、私が思ったことはただひとつ。
選挙戦は人を味方とみる、あるいは敵とみる行為だが、しかし本当の敵は自分自身のなかにいるということだった

 09/06/10 (水) あわら市議選は6月14日告示、21日投票


★事務所に備品が入り人の出入りも頻繁となり、6月14日の事務所開きを待つだけとなった。
今が日常だとすると14日から21日までの告示期間は非日常的世界となる。そして、その時こそいろんなことが突発的に起こる。つまりこのホームページ日記の題材に事欠かないのだが、現在の公職選挙法は書込みを禁止しているのである。
私には禁止の理由がはっきりとは理解できないのだけれども、法は法だ。遵守しなければならぬ。


★午前中は某会場にて演説。
既に幾つかの場所でしゃべってきたためかそれ程緊張もせず、自然体でしゃべることができた。
4日後は告示だ。しゃべってしゃべっての選挙運動になるだろう。


★看板屋さんが来て、看板を設置してくれた。13日までは非表示としなければならない。



選挙戦の度に思うのだがこういう状態になってくると、アドレナリンが出てくる。気分が高揚する。

 09/06/09 (火) 深夜に熱々珈琲を飲みながら


★この議員日記を更新できるのもあと数日となってまいりました(公職選挙法)。
今回のあわら市議選は6月14日告示の6月21日投票と予定されています。
左側に事務所電話番号を書いておきました。


さて、最近は「書く」ということがめっきり少なくなって、「しゃべる」ばかりである。書くこともしゃべることも、自分の思いを相手に伝える為の手段であり、故・江藤淳の言い方を借りれば
「書く」はインクの染み利用の言語伝達で、「しゃべる」は空気の振動利用の言語伝達だ。更に、はるか古代の音声言語成立以前には、ボデイランゲージという視覚使用の伝達手段があって、これが手話への系譜となっている。

09/06/08 (月) 昨日の一日


★昨日の午前中は、坂井市丸岡町山竹田にいた。全国植樹祭が福井県で開催され、山竹田地区が第二会場となったためである。久し振りの山竹田地区だった。
背後に屹立した山々は白い霞でおおわれ、中国の山水画を見ている気分だった。
開会式終了後しばらくして事務所に戻り、午後は雑用に励んだ。


夜は旧芦原町で「牧田孝男が語る会」が開かれた。
矢つぎばやに沢山の質問がでた。市政レベルでは答えることのできない質問も出て困惑したけれども、生活者には本来、市政も県政も国政もないのだろうと思った。


午後10時前に帰宅。
半合の焼酎を熱い湯で割って口をつけた。おいしい・・・天国だ。



09/06/07 (日)


★今朝は霧雨が降っている。
歌謡曲で雨の歌といえば、橋幸夫の「雨の中の二人}を先ずは思い出す。


♪雨が小粒の真珠なら
恋はピンクのバラの花
・・・   というやつやね。


ところで、橋幸夫には「愛する二人」というヒット曲もある。


♪炎のように燃えようよ
恋をするなら
愛するならば
・・・   というやつだ。
この歌がヒットした当時、私は中学生だったと思うが、ラジオから流れてくるこの歌のでだし、炎=ホノオが、私には、お能=オノウとしか聞こえなかった。
そしてお能は「能面のような表情」など冷たさを表す形容句として使われるものだから、「燃える」にリンクしているのがとても不思議だった。
後年、歌詞を目で読んだ時、「アッ!」と思ったものだ。


というようなことを思いながら、霧雨の好きな私は早朝歩き(ポステイング)にでかけた。


★一昨日の早朝に轟新田地区で見かけた風変わりな建物。



09/06/06 (土) ほっとした昨日


★私は、もともと乾いた気質(たち)の人間だ。
でも昨晩は涙がでそうになってしまった。


昨晩、地元地区で私の「語る会」が開かれた。ま、いろんなことがあって、誰も来てくださらないのではないかと心配していたのです。
でも開会になり参加者の顔ぶれを見た時、坂ノ下地区のおんちゃん・おばちゃんたちの顔顔顔を見た時、胸がつまってしまいました。
この数年間胸中にかかえてきたとまどいや苦しみが、いっぺんでふっとびました。
ありがとうございました。



09/06/05 (金)  ちょっと思ったこと


★私は就寝前に一ページでも構わないけれども本を読まないと眠ることのできない気質だ。就寝用の本が途絶えたので、昨日は図書館に行き、9冊を借りてきた。
昨晩、布団に入ってそのうちの一冊を開いた。著者は高名な思想家・評論家である。死に関する哲学的考察エッセーなのだが、私にとって大変に難解でたちまち眠気が襲ってきた。すぐ眠ることができ、結果として熟睡となった。
深夜を楽しむことができるのも本だし、眠れない夜に眠り薬となってくれるのも本である。


★今朝は午前5時に起床。熟睡したからか、爽快だ。
四年前の今頃は何を書いていたのだろうかと思い、日記を開いてみた。
5月1日から5月11までをなつかしく読んだ


★今朝の6時、何故か私は後山地区を歩いていた。



後山や東山、清滝は里山地帯である。私は里山を考え直すことが、自治体のひいては日本の将来に於いて大きな意味を持つと思っている。
後山地区の知人宅に寄ったら、「どうぞお上がりください」と言われた。
奥さんが、熱々珈琲とパンをだしてくれた。政治談議を交わしながら考えた。


私は特別パンが好きという男ではない。しかし珈琲とパンは合う。とてもおいしい。私は今メタボ対策にとりくんでいるので、これからの朝食をパンにしようと思った。



 09/06/04 (木) 今朝の早朝に


★本日から♪を勝利を我らにに変えます。いや、別に深い意味はございません。


★今朝の5時半、何故か私は温泉地区を歩いていた。偶然だが、ある家の前に立ち表札名を見て、心に衝撃が走った。
去年の秋、その家の奥さんと私は某大病院で一緒にリハビリに励んでいた。しかし、今年の冬に私よりも20才若い彼女は他界してしまった。
思い出し涙ぐんだ私は表札に向かって合掌した。気がつくと牛乳屋のお兄さんが離れたところで怪訝な顔で私を見つめていた。


小説家の宮本輝はなにかのエッセイで、「人生は永遠のなかの一瞬である」と書いている。何歳の人生であれ、それは相対的なものに過ぎない、ということなのだろう。


★今朝の6時、何故か私は市姫地区を歩いていた。金津中学校の前に立ち、カメラのシャッターを切った。



「金津中学校が残って、本当に良かった」と思った。

09/06/03 (水) 明日は臨時議会


★明日は臨時議会が開かれる。
付議事項は次の通りです。


★早朝に轟地区で見た大屋根。じっと見詰めるうち、昔の建築設計三昧の日々の気分に戻った。



見事なむくり屋根である。直線屋根に対してふくれを作るのをむくりと言う。例えば「もっこり」という言葉なども転じてできたものだろう。逆をそり屋根という。そして「むくり」と「そり」のミックスされたものを唐破風という。その代表的なものが金沢・兼六園にある加賀前田家の奥方御殿・成巽閣だ。

09/06/02 (火) 古事記世界から


★書く時間が無く、日記を休んでしまった昨日、「体の調子が悪いのか?」という電話が入ってきた。体調はすこぶるグッドですが、ご心配をかけて申し訳ない。
「継続は力なり」です。日記を休まないように気を付けます。


★今朝の6時頃、中番地区を歩いていてみかけたもの。



白い注連縄を結界とした木屋根の内部には、小さな石の社(やしろ)が祭られている。
旧金津町の郷土史家で名誉町民だった故・坂本豊先生から、「これを影向(ようごう・呉音読み)と言うんです」と言われたことがある。


石の前面には丸と三日月が彫り抜かれている。
丸は天照大神、三日月は月読みの命をあらわし、いづれもイザナギから生まれた。
天照大神は伊勢神宮に祭られる太陽神で、昼を支配する神。月読みの命は形の如く夜を支配する神である。
つまり我々の24時間はこの両神によって支配されているのである(そうな)。