2010年04月

2010/04/30 (金) 昨日の一日

昨日の一日はフェニックスプラザで始まった。第81回福井県中央メーデーが開かれた為。
福井県知事始め何人かの来賓の祝辞があった。

僕は連立与党である社民党県連代表・若山樹義氏の発言に注目していた。


普天間問題についてどういう発言をするのかという意味での注目だったが、しゃべりに時間制限があったらしく触れずじまいに終わった。こういう時は後日個人的に会って聞くのがよいだろう。

終了後は県連事務所に行った。今後の方針を巡っての2区総支部会議。

午後3時からは、県職員会館で幹事会。民主党県連代表・松宮代議士の冒頭挨拶にもあったが、今、民主党に対するマスコミ等の風当たりは強い。しかし自民党政権時の負の遺産を背負っての出発だった民主党連立政権は発足後まだ一年にも達していない。情報が透明化可視化されたことも勘案すれば、産みの苦しみの時期だとも言える。

終了した時はもう夕刻だった。
帰り道が同じの坂井市議・川畑氏を乗せて送って帰宅した。

自宅で軽い晩酌をしたあと、事務所に入ってレジュメを整理していたら、ひとりの女性が来訪。昔、三国町で手話を教えていた頃の教え子だ。昔にタイムスリップして話が弾んだ。
そこへ「とんぼ」さんが来た。大きいとれとれの筍を持ってきてくださった。翌日のつまりきょうの晩酌が楽しみだ。

「人生は基本的に悲しいものだけれども、時折は心のやすらぐこともある。だから生きていることを大切にしなければならない」・・・・この言葉は、二十年近く前に(多分)自殺した友人の残したもの。

下記写真は電子タバコ


タールもニコチンもなく、煙の代わりに霧がでる人畜無害の擬似タバコだ。
これを口にくわえている僕はつまり禁煙中ということになる。

2010/04/29 (木) 雨降りの祝日

きょうは「国民の祝日」だ。だけれども雨の降る祝日となってしまった。
もともと、土曜日曜とか祝日とかとは無縁の生活を送ってきた僕にはきょうも予定が満載だ。
予定を淡々とこなしていく以外に能のない人間なので、雨降りを特に嫌だとも思わない。

「幸福論」のなかで著者・アランは「雨降りの日とは、神様が我々にお湿りを与えてくれたという意味で癒しの日である」と書いている。

2010/04/28 (水) 昨晩

昨日の夜の福井県地方は強風が吹き荒れた。サンダーバードで大阪から自宅に帰る予定だった僕は午後7時半に大阪駅へ行ったのだが、係員から「列車がいつ動くかわからない」と言われ、仕方なくホームで長時間出発を待ち続けていた。
予定時刻を一時間以上すぎてやっと動き始めたサンダーバードはしかし、幾つかの駅で臨時停車し、先行列車の出発を待つという羽目に陥った。
その間読み続けていた夢枕獏・「安部清明伝」も読み終えてしまい、あとはすることもなく席に座っているだけ。こういう時間帯というのはむなしい。

トイレに行きたくなって車両内を歩いていたら、偶然、「あわら湯の町駅前有楽荘跡地利用・ワークショップ」のメンバーふたりと会った。
ワークショップが終わってからの進捗が全然わからないのでとても心配しているようだった。
そういえば今月末には、僕の所属する常任委員会協議会で、その進捗に関する説明がなされる予定となっている。じっくり拝聴するつもりだ。

殺人犯などの時効を撤廃する法案が通ったという記事を読んで僕は思った。
身内が亡くなれば信じられないような深い悲しみに襲われる。
増してやそこに事件性があるならば遺族の気持ちが到底制御しきれないものになるのは明らかだ。
仮に僕が刑事事件による遺族だったとするならば、僕は怨霊となっても犯人を探し出し復讐をするだろう。
だけど日本は法治国家だ。
そうである限り我々は、罪に対する刑の軽重の度合いについて六法全書に従うしかない。
但し、六法全書にも、時効概念の存立基盤など書かれてはいないのだ。

2010/04/25 (日) 特別な日曜日

今朝の3時に起きた僕は、竹田河畔の畑に置いたドラム函に火を入れて焚火をしていた。
一日のうちで最も冷え込む時刻だ。
だけど赤々と燃える火をみつめていると心がなごむ。

見上げれば満天の星空だ。はやくあの星々をめざしたいという衝動が時折浮かぶ。けれども妻子と一緒に頑張っていかなければならないという思いが、衝動を否定する。アタマがパニックになってくる。
結局、裂帛の気合で日々を生きていくこと以外に選択肢のないこれからだ。
昨日の夕刻に事務所を来訪した友人は、夫婦で里親をやっている。里親制度のことはまだまだ世間に認知されていず、経済的にも大変みたいだ。

2010/04/24 (土) 忙しくなりそうな週末

僕が新聞やテレビを眺めることがなくなったはいつごろからだろう。マスコミは所詮商業主義だから、興味本位に記事をしたてあげる。裏に働く力も見え隠れする。
情報社会というのは実は情報操作社会のことであって、その裏を見ようとするならばインターネット検索によるべきだ。
明日が四十九日の法事なので、妹が東京から帰宅してきた。
三国町の喫茶店へ一緒に行き極上の熱々珈琲を飲んだ。久しぶりなので、来し方をいろいろ振り返り、話は非常にはずんだ。たった一人の妹なので末ながく付き合っていきたい。

喫茶店を出たところで「ラーバンの森」の御主人とばったり。
そういえば「ラーバンの森動物病院」の建前が先日終わったばかりだ。後世に名建築と評価されるであろうこの建築物の設計者は某あわら市議だそうです。


2010/04/23 (金) もう週末か

山崎直子さんが、宇宙から無事に生還した。

かなり昔の話だが向井千秋さんという宇宙飛行士が、宇宙で産卵させたメダカつまり宇宙メダカの子孫を僕は飼っていた時期がある。
当時名古屋に住んでいた妹から「宇宙メダカの孫を要らないか?」という電話が入り、早速僕は小さな水槽を車の後部シートに置いて、名古屋までを往復した。
容貌も泳ぎ方も普通のメダカと変わらない。しかし「なにかが違うのだろう」と思ったものだ。

違うといえば
立花隆が宇宙からの沢山の生還者たちをインタビューした記録本・「生還」を読んだことがある。興味の尽きない本だったが、一番驚いたのは生還者たちのその後の人生で神父あるいは牧師への道を選択したひとが多いということだった。
宇宙で青く透き通った地球を見る自分の目を、神の目と比定したのかもしれない。

三国の某牧場へ来たことのある日本人飛行士・秋山さんは、宇宙からオーストラリア上空のオゾン層破壊の状況を見て、今は東北地方で有機農業を営んでいると間接的に聞いた。

科学の最先端の延長にあるものは、昔の伝統的生活なんだろうなあ。

2010/04/22 (木) 雨降りの夜明け

昨日の朝は来客3名。郷土の話に終始した。市庁舎へ行って調べなければいけないことが、段々増えてきた。人生こんなもんだ。

午後は、CADと向かい合い時折手抜きをしながら、朝日新聞テーマ談話室編・「血と涙で綴った証言ー戦争」を読んだ。
太平洋戦争時の戦地、国内での体験を公募したもので沢山のひとの手記で埋められている。昭和62年発行と書いてあるから手記を寄せられたひとのかなりの方は逝ってしまったと思われる。
①戦地であたら若い命を無慈悲に落とされた戦友を思う時、今自分が生きていることに後ろめたさを禁じ得ない。
②同僚の断末魔の叫び声が40数年のちの今日(こんにち)でも耳にこびりついて眠れない。
③広島・長崎の被爆は、天皇制維持のために時の政府が奔走していた結果の所産である。
④銃後の兵士として、女性たちがなめた辛酸は計り知れない。
ざっとこういうものが沢山の手記を通底する主軸だった。

昭和24年生まれの僕は典型的な団塊の世代だ。団塊の世代は、アメリカ製民主主義教育の申し子とも言える。昭和20年8月15日時点では、まだ受精もしていなかった僕たちは、大岡昇平の戦記ものや、五味川純平原作の映画・「人間の条件」や、中原ひとみが主演した原爆映画や、同じ高峰秀子主演映画・「二十四の瞳」などで反戦の思いをつくっていった。

戦争体験が風化していくなかで強く思うのは、某詩人が言った「生きるも地獄、死ぬも地獄」という言葉だ。
先のみえた僕はしかしまだ広島の原爆ドームを訪れていない。死ぬまでに行こう。
この近くにも坂井市丸岡町に「福井大空襲の記録」が展示されている場所がある。詳しくは日本共産党あわら市議・山川知一郎さんまでどうぞ。
注 「原爆ドーム」を設計したのは、あの丹下健三だ。そして「福井大空襲の記録展示館」を改修設計したのは某あわら市議だとのことです。

昨日は49日。
そしてきょう市庁舎へ行った時、某女性職員から「毎日ホームページ日記を見ていますけど、辛くて読めません」と言われた。
忌明けなのだから、悲しみは胸のなかにしまいこんでおこう。「♪顔で笑って 腹で泣く~」ようなフーテンの寅さん的二重人格人生を送っていこう、と決意した。

2010/04/21 (水) 耐震診断

昨日は、建築耐震診断専門家のF君と僕の事務所で会った。昔同じ事務所にいた同僚だ。久しぶりの再開なので話がはずんだ。
僕のような変遷的人生ではなく、技術者としての道を真実一路的に歩んでいる彼の言葉からは確固たる信念が伺える。
余談だが
僕も技術者一途を貫いていたならば、今頃は「あわら市のフランク・ロイド・ライト」と市民から囁かれていたかもしれない。(注:ライトは生涯に7度結婚したそうだ。施主夫妻の前で寡黙にデザインスケッチするライトの横顔に奥様たちが惚れてしまうのだ。色恋沙汰をおこしてしまうのだ)。
閑話休題
F君によれば、耐震診断には一次診断と二次診断がある。一次診断と二次診断の違いはいろいろあるが、これに評定を加えての必要性は建物用途によって差別化されている。

本日の福井新聞に「蓮如上人御影道中」が福井県入りしたとの記事があった。
この御影は、あわら市の坂ノ下八幡神社境内で休息する。坂ノ下神明会(老人会)のひとたちが、茶菓子をだして労をねぎらう。

2010/04/20 (火) ネクスト ステップ

昨日の午後は全協(全員協議会)が開かれた。全協終了後は、議員会研修会の講演があった。
講師は福井県町村議会議長会・総括参事の伊藤浩氏で、演題は「地方議会の活性化に向けて~議会改革の事例に学ぶ~」だった。


インターネットを検索すると、放送禁止用語一覧というものがある。
これを眺めていると、筒井康隆が何故筆を折ったかがよくわかる。

僕は若い頃、「オカマに強姦されそうになったこと」があるが、これを一覧に照らし合わせて書くならば「僕はおかまに暴行されそうになったこと」があるとなる。これではその時の僕の恐怖感が全く伝わらないだろう。

「障害者」を「障がい者」と言い変える書き変えるのは、存在自体に害はないという思いの強調だろう。けれどもそれでは、害しているのは我々健常者であるというニュアンスが隠れてしまう。

「芸人」を「芸能人」と変えた場合、テレビでわけのわからないことをわめいてバカ笑いしている兄ちゃん姉ちゃんたちが能力を持つ者たちと曲解されてしまう。

きょうの夜明けに僕はすごい光景を目にした。路上で三羽のカラスが喧嘩をしているのだ。5Mほど離れたところで喧嘩を凝視する僕の存在に全く気がつかない。見ているうち二羽対一羽のバトルであることがわかった。二羽が一羽をあおむけに押さえつけ鋭いくちばしでつつきまくっている。みるみるうち路上はむしりとられた羽の散乱だ。変則タッグとはいえ、レフリーもいない文字どおり生死をかけた戦いだった。
自然界のおきては過酷だ。
しかし高等生物であるはずの人間界の喧嘩つまり戦争は、なまじ正義という言葉をふりかざすぶん、巧妙で悲惨度も級数的にスケールアップする。人間が知力を持った為に、「人類史は戦争史である」ともいえる状態をつくりだしてしまった。愚かなことだ。

2010/04/19 (月) 本日は全員協議会

昨日は、坂井市議選の開票日だった。同じ民主党議員の辻氏・川畑氏両名の当選は一緒に汗を流してきた仲間なのでとても嬉しい。

今年の夏には参院選が予定されている。そして来年は統一地方選挙の年だ。

既存メデイアにとどまらない情報網の拡大で、世のなかの動きは瞬時に我々に伝わるようになってきた。しかし、政治にできることとできないことがあるとしても、政治の動きをチェックするのに、選挙権の行使と被選挙権の行使は欠かせない。国民の権利と呼ばれる所以である。

最近は熟睡が続き夢をみることがなくなった。眠っている間全く意識がないのだから、眠りは「短い死」といえる。そう考えるときょうの僕と昨日の僕は別人ということになる。記憶そのものは確かに連続しているのだが、記憶に対する情緒が変化していることで別人であることを自覚する。

2010/04/18 (日) 無題

昨晩は長い時間、妻と話しこんでいた。
その甲斐あって今朝の起床時刻は5時半。普通に近くなってきた。

きょうの午前中、僕は某会社の社長と会っていた。僕の尊敬するひとのひとりなんだけど、話に飾り気のないひとは会っていてほっとする。
生理学的に言うと、話は聴覚から入ってくる。つまり鼓膜で聞くものだ。だけど魅力的なひとの言説は鼓膜で終わらない。鼓膜を通り越して胃の淵に沈殿する。
日々のルーテイーンのなかで聞いた言葉のほとんどが淡雪のように消えていくものであるとしても胃の淵に沈殿した言葉は、折に触れて脳裏をかすめる。

2010/04/17 (土) 昨晩は熟睡

昨日は東京・永田町の衆議院第二議員会館にいた。
会場には、北信越の国会議員がずらっと並んでいる。


予定が終わってから、最寄の地下鉄駅へ行った。時間が充分にあったので東京の街を散策しようと思ったのだ。
けれども
地下鉄路線マップを眺めていたら、息子が6年間を過ごした街の名のいくつかが目に飛び込んでくる。僕にとって東京は全く不案内の街だが、息子にとっては青春を謳歌した街。そう思うと涙がでた。歩くのがためらわれた。

地下鉄の駅を出て、東京駅周辺を歩いた。歩道を歩く若い女性たちを見て「東京の女性たちよりあわら市の女性たちのほうが数段美しい」と思った。

首都高速高架下の飲み屋に入り、白身フライとキャベツをサカナに芋焼酎をあおった。
若い頃、僕は南海の孤島・沖永良部島にいた。南海汽船「すずらん丸」の三等船室で知り合った平(たいら)のおじさんおばさんの世話になり、島最北端の牛小屋の2階に住みついた。


雨水を飲み、流木で火をおこし、エンゼルフィッシュ.ハリセンボン.エラブウナギなどを捕って食べるという孤高の生活を始めたわけだが、世の中には変わり者がそれなりにいる。道ですれ違う眼光鋭い男から、一宿一飯を請われるたびに僕はその男たちを僕の庵に案内した。
男達は、剣道家であったり考古学者であったり医者の卵であったり北海道の畑正憲牧場で働いていた男であったりした。
最盛期には7人の同居生活となったが、美女はなかなか現れない。
仕方なく、神戸から美女を呼んだ。3名だったと思う。
我々にとっての風呂はガジュマロの樹の横に設置した野外五右衛門風呂だった。僕は「♪信州 佐久の鯉太郎(注 橋幸夫)」と歌いながら五右衛門風呂に入った。五右衛門風呂から手の届くところにあるバナナを食べた。

連夜、漁師のおじさんたちとアダンの樹の下で芋焼酎を酌み交わしていた。ツマミは生きている蛸と珊瑚礁沖合いから聞こえてくる潮騒だった。蛸は動いている足をちぎりながら食うのが一番うまい。
漁師のおじさんたちからは「牧田はんは琉球語を覚えるのがとても遅い」といつもからかわれていた。一番印象に残っているのは、殺人経験のある前科7犯のおじさんだった。今は亡くなっているであろうおじさんたちの赤ら顔が琉球芋焼酎の濃厚な味とともによみがえってくる。

新幹線「ひかり」に乗り込み、養老猛司著・「運のつき」を開いた。この解剖学者の本の諸々は僕にとってエポックメーキングで、悩む自分をけちらしてくれるという意味で惹かれる。
とにかく、三月四日を境に僕は違う人間になった。

ところで、僕はどうやらフォーカスされたようだ。
本日の夕刻、僕は「とんぼ」さんと共に坂井市三国町の妙海寺を訪ねた。
豊田屋河川の墓がそのお寺にある。





2010/04/14 (水) 首の痛みと戦いながら

階段昇降機の設置に関して以前からその手続きを頼まれていたことでもあるのだけれど、一昨日にそのひとの自宅にお伺いした。
足腰の障害による日常生活のさしさわりをご本人の口から直接聞いていると、「健康長寿」という言葉が絵空事のように感じられる。日頃、健康教室などに通って足腰を鍛え体の衰えを予防することは確かに大切なのだろうが、それとて老化の到来を先延ばしすることであって、やはり体の各部位の衰えは必ずやってくる。いわば避けられない宿命だ。

悲しいことだけれども、悲しみを共有するという作業が僕たちに必要なのではないだろうか。
喜びを共有することで喜びが増幅され、悲しみを共有することで悲しみが軽減される
・・・ような気がする。

2010/04/13 (火) 無題

昨日の夜は、北方謙三の「独り群れせず」を夢中になって読んでいた。幕末期に旗本武士の身分を捨てて料理人になった光武利之という男が主人公のストーリー。
幕末というと例えば坂本龍馬のような志士たちとその対極にいた佐幕の新撰組などがもてはやされるのが昨今だ。
けれども、経済都市大阪に居て天下の御政道の方向に惑わされず民心の安定のために励んだ与力・同心たちがいた。流通の経路で一儲けしようと企んだ商人たちに死を賭して戦いを挑んだ与力・同心たちがいたのだ。
これは今日(こんにち)の自治体の長についてもありうべき姿としてあてはまる。
NHKの大河ドラマでこういうひとたちがとりあげられるとはユメユメ思わないが、こういうひとたちこそが歴史の担い手というべきだろう。

士農工商という江戸期の身分制度のなかで、武士のみがあぐらをかいていたかというと決してそうではない。数年前、藤原正彦が文芸春秋などで武士の心を説いていたが、そのモチベーションがすっきり頭のなかに入ったような気がした。

きょうの夕刻に僕は金津中学校の校長室に行った。校長は僕が金小PTA会長だった時に教頭だったひとで気心は知れている。
話題がDNAのことになった。僕はDNAというのは血そのものだと思っていたが、校長は「空間のDNA」という言葉を口に出した。不思議な言葉である。
僕は建築設計を生業としていたにも関わらず、空間を馬鹿にする癖がある。目に見える一切合切はいずれ消え行くものという思いがある。

2010/04/11 (日) 雨の日曜日

昨日の午後は、福井パレスホテルで開かれた「民主党北信越ブロック・地方自治体議員フォーラム2010」に参加した。
記念講演は
①「新幹線等の交通の整備について」(国土交通省政務官 三日月大造

②「エネルギーを通しての成長戦略」(民主党副幹事長 吉田治衆議院議員


①については新幹線云々よりも、「交通基本法」についての話が興味深かった。これについては地方自治体の議員でも入っていける。

②の話の軸。
欠かせない成長戦略としてモノを個別で輸出するのではなくてシステムそれ自体をト-タルパッケージとして輸出することの重要性を説いていた。
今朝、消防訓練視察から帰ってラジオのスイッチを入れると「井上ひさし氏死亡」のニュースが飛び込んできた。
僕はデビュー作「手鎖心中」で直木賞を受けたこのひとの本ばかり読んでいた時期がある。
隠居の年齢になってから全国を歩いて日本地図を作成した伊能忠敬を描いた「四千万歩の男」が一番印象深いが、思い入れのあるひとがどんどん亡くなっていく。

 2010/04/09 (金) もう週末か

このところ空いた時間を利用して、事務所内部の不用品整理に励んでいる。過去のものを捨てるたびに気持ちが軽くなるのを感じる。

昨日の晩酌時に妻が語りかけてきた。
「今までの私は、『生きることの意味』というようなタイトルの本を読むのが好きだった。けれども今は違う、全く読む気がしない。一日一日生きていりゃそれで充分と思うようになった」という。

僕も同感だ。気を紛らわすために本を乱読しているが、そのような系統の本は一切読んでいない。

 2010/04/08 (木) 無題

昨日、一通の手紙がきた。数行だけの手紙だ。
プライベートな手紙なのでここにUPすることはできない。
思ったが
飾らない言葉だけが、時として胸をうつ。記憶に残る。
中国政府が麻薬密輸の罪状でひとりの日本人を死刑に処した。日本の法律だとせいぜい6、7年の懲役刑だというからその落差に驚く。哀悼の意がわきあがってくる。

清国末期は英帝国主義のアヘン政策に疲弊していた。現代中国が麻薬取締りに厳罰をもって処するのはその意味でわかる。
高杉晋作は上海に渡航した折、清国に対する西欧列強の愚民政策的支配を大いなる脅威と感じ、国防の必要を解いた。奇兵隊をたちあげた。高杉をはじめとした志士たちの私心を捨てた行動が明治新政府樹立につながったのは言うまでもない。

僕は死刑廃止論者ではない。
もしも身内になにかあったとしたら、僕はマサカリをもって刑務所の塀を乗り越えるだろう。裂帛の思いを持って犯罪者に復讐するだろう。
但し、罪刑の程度を勘案してのことだ。
ちょっと体を動かすだけで息が止まる程の激痛が走るので、N整形外科に行きレントゲンを撮ってもらった。首のヘルニアだとのこと。
若い頃から悩みを愛し続けてきた結果のヘルニアだろうと思う。
これからは無心になって生きていくつもりだ。外界の刺激を無心で受け止める為にはカラダも又柔軟でなくてはならない。柳のような人間になることを目指したい。

 2010/04/07 (水) 新聞配達

首に負荷を与えてはならないと思い、昨晩の6時過ぎには布団に潜り込んだ。眠りかけたところで携帯電話が入り、四方山話。
話で目がすっかり覚めたので、再び事務所に戻りCADと格闘した。これが結果的によく、今朝は午前3時の起床となった。早すぎず遅すぎずの起床である。

洗顔・歯磨きを終え、外に出た。小雨が降っている。
僕の脇をアノラックに身を包んだ女性が小走りに駆け抜けていった。新聞配達の女性だ。
僕は「おはようございます」と背に声をかけた。「おはようございます」という大きな声が返ってきた。

社会はさまざまな仕事で構成されている。そして、昼仕事にはスポットがあたりやすい。だけど、昼仕事は夜仕事によって支えられているのだ。

昔、新聞配達をしたいと思っていた時期があった。だけど番犬が怖くてできなかった。うなり声に足がすくむのだ。相手が人間なら「話せばわかる」と言えるけれども、犬と話はできない。

この世でこれ以上やりたいことはひとつのことを除いてはなにもないが、強いていえば新聞配達をできなかったことが心のこりかな?。

柿原グラウンド使用についてのクレームの電話が入った。。
ということで現地を見にいくと桜が満開だ。



世の中に 絶へて桜のなかりせば
       いかにこの世は 楽しからまし
 
この歌を詠んだのは誰だったろう。作者は桜が好きで好きでたまらなかったからこそ、あっけなく散る桜を見るにしのびない。だからこういう歌を詠んだのだ。その気持ちが充分にわかる。

 2010/04/06 (火) 無題

ここ数日、左首が痛くて大変だった。寝違いなのか頚部症候群なのかわからないけれども、すごい痛みが走る。会議にでても、パソコンに向かっても憂鬱が続く。医者や整体にいくのは億劫なので、ツボもみや呼吸法に励んだ。焼酎で痛みを抑えた。松本清張の「信玄戦旗」を読んで、「白刃に倒れていく戦国武将の今わの際の痛みに比べれば、これくらいの痛みなど何ほどのものか」と自らを慰めた。
つまり自力更生療法にかけたのだが、甲斐あって今朝は痛みが幾分やすらいだ。
『裂帛の気合』を持てば、恐れるものはなにもない。
金津幼稚園入園式風景

きょうは、金津幼稚園、金津小学校、金津中学校の入学式に出席した。どちらの校長も、僕が15年程前に金津中学校、金津小学校のPTA会長をしていた時以来の知己のひとだ。
歳月の流れを感じる。

 2010/04/05 (月) 本日は広報編集委員会

なにがあっても『陽はまた昇り陽は又沈む』のだけれども


昨日の朝陽は出色だった。

  2010/04/04 (日) 熱々珈琲を飲みながら

昨日の日曜日は、福井商工会議所において蓮舫参議院議員の時局講演会が開かれた。


メデイアであれだけとりあげられただけあって、語りには印象深いものがあった。カリスマ性の感じられるものだった。  

福井商工会議所への車での往復、僕は同乗者のHさんと差別のことについて語り合っていた。
歴史の文献を紐解けば、古来より人間が人間を差別し続けてきたことがわかる。差別がガス抜きとして機能し、社会の安定化を果たす役割を担ってきたともいえる。
柔構造社会となった今日(こんにち)においても、基本は同じだろう。 

ただ今午前4時半。一日でもっとも寒い時刻だ。
半月が夜空にくっきりと浮かんでいる。夜明け前だが、路面は月に照らされて明るい。
昔から『静寂の世界』が好きだったが、今はその感がより一層強い。
きょうは息子の命日だ。
この一ヶ月間、ぼくは彼の死をどう受け止めたらいいのか、悩みながら徹底的に考え続けてきた。涙のなかで総括らしきものがアタマに浮かび始めてきている。勿論整理整頓されたものではないのだけれども、ひとつだけはっきりいえることがある。それは、三月四日以前のぼくと三月四日以後のぼくとはまるっきり違う人間だということ。 

  2010/04/03 (土) 昨日の一日

午前中は、故人となった知人の葬儀に参列。
三年前の学校問題をめぐって前倒しとなった市長選挙での我々の陣営で話し合ったいろいろを思い出しながらの参列だった。
葬儀終了後、故人のお兄さんと話したが、突然の死だったとのこと。あっけないこと・・これが死の特徴であるのかもしれない。

午後一番で坂井市役所へ。
所用をこなし市役所を出ようとしたところで、知人に呼び止められた。知人の兄弟の若い頃の死の模様を聞かされた。
周囲に同様な経験を持つひとたちが随分多いことを改めて思う。

坂井市役所から三国町の坂井市議選立候補者事務所へ。一緒に幾つかの場所をまわった。途中、携帯電話が鳴った。「ふるさとを語る会」のことについての相談だった。
ぼくの内面はすっかり変わってしまったけれども、外面はもとの通りになりつつある。生きるとはこういうことなのだと思う。

調べたいことがあったので、夕刻にあわら市庁舎へ。
担当課の職員は忙しく動きまわっていた。考えてみると、今は異動直後の時期だ。日をおいてこようと思った。
向ケ丘背地で、きょうの夜明けを迎えた。


冷気が強く、手がかじかむ。足元に目を転じると雑草が真っ白だ。霜が降りているのである。
けれどもというかだからというか峻厳な気持ちになった。

  2010/04/02 (金) 無題

人間は環境が変われば考え方や感じ方が変わる。これは事実だろう。しかし個人は持続する。そこに人格の断絶はない。
というのが従来の僕の人間認識だった。

今の僕はどうやらそうとは思わない。喜怒哀楽のベクトルの方向が根元から変わるということは別の人格に転換することそのものじゃないかと思うようになってきた。

昨日の夕方6時に知人の御通夜に参加した。喪主に挨拶した時、逆に励まされもした。
通夜の場が悲しすぎたがこれは仕方のないことだ。   合掌

夕刻に同僚市議来訪。坂井市議選が話題となる。選挙の勝敗は公示までに決まるというのが通り相場だ。
当然のことながら僕は民主党議員として、同じ民主党候補二人の当選を信じている。
それにしても、四月に入ったというのに連日雨模様だ。まるで梅雨空だ。

  2010/04/01 (木) きょうから四月

昨日の晩に、寺の住職が読経のために自宅へ来た。僕は市庁舎で打合せがあったので少し遅れて帰宅したのだが、改めて遺影の場に座るのが本当はとても辛い。小さい写真一枚を財布に収めておくだけで充分だ。
遺影は特定の時期のある瞬間のショットで、それを濃厚に思い出させるのみだ。
しかし僕の心にはあのひとの記憶の全体がある。二人三脚で歩いている。記憶はこれから先デフォルメされていくだろう。万物流転なのだから、それでいいと思う。
写真や使っていた諸々を目にすることがたまらない。

ぼくは、新しい生活のカタチを志向しているが、勿論心のなかのあのひとと相談しながらやっていく。
ということでてはじめに写真を整理していたら、こんな写真が出てきた。
ざっと40年前の写真で僕のなんと若々しいことか。
右上は現在のあわら市の少年サッカーのドン。
すらっとした長い脚をみせているのは、当時の金津警察署署長の息子。左端の座姿が誰かわからない。知っている方がおられましたら、是非ご一報を。