2011年03月

 
 
2011/03/31 (木) 暫時休憩


久しぶりに「市政掲示板」をみたら昔のことが書いてありました。
確かに昔は体力・気力があって書き込みを続けてまいりましたが、ここ三年程の間は(私的なことですが)いろんなことがあって、あっという間に頭は浦島太郎的白髪となり、耄碌は加速度的に進み、右手右足は震え、色欲もなくなり、体重は16kgも減ってしまい、お迎えがくるのをひたすら待つという日々でありました。
唯一の楽しみは、就寝(午後6時半)前の「一杯のお湯割り焼酎」だけという、いわばマリリン・モンローの「酒と薔薇の日々」のような生活であったわけです。


けれどここ半月の間に私は変わりました。少しだけがんばるぞという気になりました。この思いを説明するだけの文章力がないので省きます。


本日、郵便局へ行って、市政掲示板のバージョン・アップをしてきます。
動画挿入のことも考えていますし、近いうちに専用放送室をつくりたいと思っています。


ばいざうえい
掲示板の管理人は、私ではなくて、友人X氏です。
   「相変わらず黒く不気味な感じを受ける此処の管理人(・・笑・・)」より
 2011/03/30 (水) 海


昨日の広報編集委員会が終了してから、僕は加賀国へ行った。
ラーメン屋でタンタンメンセット(880エン)を食べてから、車で海岸線を走った。日本海は静かで陽光にきらめいていた。


限りなく美しいのが海で、限りなく恐ろしいのも海だ。


中古品店でミニコンポを購入したのだが、AMループアンテナがついていなかった。ジャンク商品(3150エン)だったので仕方ない。5mのビニール皮膜電線を端子に差し込んだらバーブラ・ストラサンドの「追憶」が流れ始めた。音質がすこぶるいい。


僕は昔に観た映画・「追憶」でロバート・レッドフォードを初めて知った。ハンサムな男はみな嫌いだが、彼だけは許せると思った。


 2011/03/29 (火) 無題


本日は午前9時半から、広報編集委員会が開かれ午前中に終了。
僕の担当のひとつに「編集後記」があった。3月11日は、ちょうど厚生経済常任委員会が開かれていて暫時休憩の午後2時半、控室でテレビを見ていた時に東日本大震災が勃発した。大津波が陸に入り込み民家や車両を次々に飲み込んでいく様はとてもこの世のものとは思えず夢をみている気分だった。書いた「編集後記」はそのことのみに触れている。


だけどそれから数日してからの「被災地のみなさん、がんばって!」の大合唱に対しては何かしら違和感を覚えるようになった。


子を亡くし家族を亡くしたひとたちに対してのこのメッセージはむごい。彼らはただただ生きなければならないと思いがんばっているのだ。生活が多少回復した時に考えるゆとりができてきた時にこみあげてくる寂寥感・孤独感は想像するにあまりある。


安易に共生を言うのは、僕らが被災者ではないことからくる同情だと思えてしまう。同情は「自分がそうでなくてよかった」という思いの裏返しじゃなかろうか。
誤解を恐れずに言えば、僕は被災者たちから勇気づけられている。

 2011/03/28 (月) 野菜ジュースを飲みながら


きょうの甲子園高校野球第一試合に東北高校が出る。相手は岐阜代表の大垣日大高校だ。高校野球ファンの多くはどうしても東北高校に肩入れしてしまう。双方共に生涯一度の桧舞台というのに、大垣日大高校は損な役回りを課せられてしまった。


ずっと昔の話だが、沖縄のチームが初めて甲子園に出場した時の相手校が敦賀商業だった。球場内外が沖縄チームを応援したそうで、沖縄の置かれた特殊な立場への感傷的な思いがファンの贔屓を決めたというところだろう。


スポーツが元気を養う薬になることがママあるとしても、相手チームがちょっとかわいそうだという気がする。



 2011/03/27 (日) 日曜日の朝に


起きると、家並が雪で真っ白だ。白山連邦から昇る朝陽が屋根雪に輝いてこの世のものと思えないほど美しい。
ラジオは被災地の朝の情景を「この世のものとは思えないほどの地獄です」と解説していたが、天国や地獄は来世にあるのではなくて、まさにこの世にある。


昨日の来訪者に、ビールやサイコロステーキをふるまったが、何故かファンヒーターが作動しなかった。電気店に修理を依頼しようかと思ったが、被災地の寒さとくらべればなんてことないと思い直し、依頼をやめた。


きょうも忙しくなりそうだ。アタマを使う仕事が半日、カラダを使う仕事が半日の一日となりそうだ。


少数の友人たちに、「四月に入ったら、俺は東北地方へボランテイア活動に行くつもりだ。」と語っていたのだが、昨晩妻から制止されてしまった。
「おとうさん(僕のこと)、あなたはまがりなりにも議員です。あなたの言ったことはまわりまわって私の耳に入ってくる。私に隠しごとはできないんや。あなたがそのカラダで東北へ行ったとしても足手まといになるだけや。ひどい迷惑だけを押し付けに行っていいのか。」と激しく制止されてしまった。
僕は、ここあわら市に居て何ができるかを再考すべき時期に入った。

東大原子力学教授たちをはじめとした全国の御用学者たちがインターネットでさんざんにたたかれているが、勿論これは今に始まったことではない。1960年代後半、全共闘運動が高揚するなかで、「産学協同粉砕!」が叫ばれていた。連合赤軍の登場で運動は収束していき、今は既に死語となっているスローガンだが、この視点が大衆による支持を得ていたならば、福島原発の事故は防げたと思う。

被災地・被災者に向けての「がんばれ!」という標語をみるたびに僕は気が狂いそうになる。子を亡くし家族を亡くしたひとたちに向かって、「がんばれ!」というのは酷だ。
僕たちが生きるモチベーションは、子や家族の無病息災にある。それを断ち切られたひとたちが再び生きる希望を見出すまでには、ながい歳月を必要とする。
僕たちは被災地復旧に向かって、黙々と行動すべきじゃなかろうか。

 2011/03/26 (土) もう週末か


昨晩は大震災以後、初めての外出。
小説家・中島道子さんとの第二回内輪的座談会・「歴史小説について」が開かれた。出席者は16名。



座談会のあと、「僕は郷土史家・故山口喜三太先生の弟子なんです」と申し上げたら、「先生は女性たちにとてももてたのよ」という答えが返ってきた。「弟子というものは、そういう部分をも受け継いでいくのか」というのが正直な感想。



「市政掲示板」への画像アップロードが、数日以内に可能となります。
ある人のブログにロシア人主婦の投稿が載っていた。
「日本の東北地方沿岸がこういう状態になってきているのだから、ロシアは北方領土4島を即刻日本に返還すべきだ。ロシアに比べて格段に狭い日本の領土の一部が原発で汚染されたことによってますます狭くなったことをロシアは勘案して返還すべきだ」と書いている。


この思いを敷衍するならば
グローバリズムは、小松左京が言っていたような世界政府の建設につながる。
そこにはアメリカもロシアも中国もイスラム諸国もなく白人も黒人も黄色人もない。あるのは哺乳類としての人類だけだ。


 2011/03/25 (金) 無題


昨年、我々広報編集委員会委員は、意見交換のために福島県広野町へ一泊二日の視察研修に行った。


広野町役場は眼下に太平洋を見下ろす場所にあった。東北には知人もいないし新聞やテレビラジオでも被害の詳細情報がよくわからないが、被害の程度に関らず、この季節、春の花が咲き始めているはずだ。


自然は悠久。
考えてみると、東日本太平洋岸に人間が住んでいなかったとしたら、今回発生した大地震も単なる自然現象でしかなかったことになる。

若かった頃、福井市のムソービルに集まっていた仲間のひとり、夜な夜な焼酎を飲み交わした原発に詳しい友人の山崎隆敏さんが今度の県議選に出ると仄聞した。注目したい。

 2011/03/24 (木) メンデルスゾーンを聴きながら


議会最終日には東日本大震災への救援を含めた議案が上程され可決した。その日の晩に何人かの議員と話し合って、やっと気持ちが普通に戻ってきたような気がする。萎えた気分が少し回復してきたというところか。


いずれにしても日本はいままでの価値観を総ざらいして、新生日本を目指さなければならないし、直近の統一地方選挙での争点は当然そこにいくだろう。


偶々昨日のテレビで耐震解説を見ていて思ったことだが、日本の建築基準法の耐震規制は普通の建物の場合、横揺れの加速度200ガルをベースとしている。昭和56年の新耐震基準で、その上に相関変形角と偏芯率の概念が加わった。
けれどそれに伴って世に出た構造計算ソフトには直下型地震(つまり立揺れ)に対する対応は考慮されていない。昨日の午後、三国土木事務所の建築主事と話をしていた際、主事は「一定程度以上の片持スラブに対しての立揺れに対する検討は告示されている」と言っていたが、しかしそれもフレーム全体に対する対応ではない(だろう)。
つまり我々構造技術者がいくら法に対する忠実なしもべであったとしても、法の「想定外」が起こればどうしようもない。


言いたいことは
我々は「想定外」という言葉は受認すべきではない。むしろ「想定能力の無さ」と言い換えるべきだ。
 2011/03/22 (火) 三月議会終了


3月11日に東日本太平洋岸大震災が発生して以来、頭の中が半ばパニックになっているうちに、昨日、三月議会が終了。夜は熟睡した。


今朝は事務所で熱々珈琲を飲みながら、重低音ステレオFMで、「モーツアルト変ロ短調作品22」を聴いている。
当然なのかもしれないが、今の僕にとってどのクラシック作品も全て鎮魂曲にきこえてくる。


巨人の滝鼻オーナーが、セリーグの開幕延期を要望する声に対して「お上のいらぬおせっかいだ」と難色を示しているという。
この発言でアンチ巨人の層がもっと増えるだろう。
僕はプロ野球開幕は延期すべきだと思うし、逆に甲子園大会は予定どおりやるべきだと思う。甲子園大会に出場する高校球児たちにとっては、一生に一度の晴れ舞台なのだから、グラウンドを無心にはしりまわってほしい。


被災地での統一地方選が延期されたのは当然として、全国の地方選もそうするべきではないか。節電しなければならない時に、立候補車や後続車がマイクがんがん鳴らしながら走り回る姿は有権者の感情を逆なでするに決まっている。
これからは、選挙のかたちそのものも、立候補者どうしの公開討論会程度にとどめるべきだろう。
ところで僕はどうやら躁鬱の落差の激しい人間のようだ。
数日前から鬱期に入っていて、そういう時はコミュニケーションの一切を遮断する。固定電話であれ携帯電話であれコール音が鳴ってもでない(かけてくださった皆さん、ごめんなさいね)。
例外は例えば昨晩の芋焼酎飲み会の時のダベリとか、少数の信頼する友人からの電話とかあるいは妻をはじめとした家族からの電話とか多数のGFたちからの電話とかに限られる。そして不思議なことにそういう時はメチャクチャハイになる。
社会生活を営む上で、これは不幸なことかもしれない。
ま、いいか。

 2011/03/21 (月) 無題


本日の朝日新聞18面の記事を読んだ。筆者は阪神大震災で実家が被災し末妹を亡くした。母は、「なぜ、娘が死んだのに私が生き延びているのか」と自分を責め縊死してしまった。
その心情を酌み取れず「がんばって、残された孫をそだてましょうよ」と励ました筆者はいまもそのことを悔やんでいる、と書いてあった。

子を亡くした親の気持ちの複雑さなど、誰に伝えることもできない。

本日の午後は千客万来だった。
疲れた。早めに寝よう。
 2011/03/20 (日) 繁忙の日々


昨晩、用事を終えて帰宅しテレビをつけると、東北地方の避難所から脱出するひとたちの映像が流されている。その映像を見ていた傍らの妻が、「あわら市にも来るやろうけど、個別家庭での対応はいろんな意味でむつかしい。こういう時こそ、区民館を開放したらいいんじゃないか。公共の大型施設は気分的にも寒すぎる。けれど区民館にお互い旧知の数世帯が住むのはアットホームな雰囲気も維持できていいんじゃないかなあ」と言う。聞きながら「一理ある」と僕は思った。


現在福島原発の建屋内部で電源復旧にとりくんでいる技術者たち、あるいは近接した場所で放水作業を続けているひとたちは、世界のひとたちから注目されている。
「死を賭けて挑む」行為は文句なく美しいが、その行為のモチベーションである犠牲愛が、原発事故を対岸の問題と捕らえていないことにあることは確かだろう。
大地震で死んだひとたち助かったひとたちを思っての悲喜こもごもは、「人類はひとつの共同体」と捕らえるならば(捕らえるべきだが)、まさしく自分自身の問題である。


建屋内部での電源復旧作業にいそしむ技術者たちの様子は、誰の目からも隠れている。その「黙々とした姿勢」は、安全地帯からの饒舌をはるかに凌駕する。そもそも比較できるものではない。

 2011/03/19 (土)  連休どころじゃない


昔から原発に対する恐怖が強くて、反原発のデモや集会や講演会に参加してきた。小浜・明通寺住職の語りにひどく感銘を受けもした。
十数年前に高速増殖炉「文殊」を訪れた。何度も衣類を脱ぎ変え、ナトリウム漏れ事故の現場に入った時、その思いは頂点に達したと記憶する。あの時にも若い関電社員が(情報隠蔽のためだろう)飛び降り自殺をしている。


時が過ぎ、民主党鳩山政権が「日本の原発システムを海外に売りにだす」政策を発表した時、「こういう政党の党員でいる俺はなんやろか?」とうろたえた。ま、民主党不信の始まりといえる。


今回の福島原発の事故まで、原発賛成派は、「原発はクリーンエネルギーだ」とか「原発がないと新幹線が動かない」とか言っていたが、少なくとも安全神話は完全に崩れ去った。



ということで僕は数日前の夜、某所で三人密談会に参加した。密談・・・いい言葉です。言葉を飾る必要のない本音トークの場所です。


 2011/03/18 (金) 寒い夜明け

阪神大震災や三国沖重油流失の現場へボランテイアとして行ったけれども、そういうものとはまるで違った状況を東北地方太平洋沖地震被災地が呈していることを、僕の遠方の友も彼自身のブログで書いている。



☆ボランテイア情報


あわら市HPからのリンク
東北地方太平洋沖地震に関する総合窓口を開設しました (2011年03月17日:総務課)
東北地方太平洋沖地震義援金の受付について (2011年03月15日:福祉課)
東北地方太平洋沖地震義援物資の受入れ (2011年03月14日:福祉課)
東北地方太平洋沖地震に伴う災害ボランティア登録のお願い(ふくい県民活動センター) (2011年03月14日:総務課)
僕にはテレビを見る癖がないので、大震災の情報の殆どをラジオに頼っている。
全国の視聴者からの被災者にむけての「頑張って・・。希望をうしなわないで・・」の声が何度も何度も発信されているが、喪失感に陥っている被災者に対しての声としては不適切だ・・と、一年前から個人的な事情だが喪失感に陥っている僕は思う。
善意はウエルカムだけれども、アンテナの働いていない善意はノーウエルカムだ。
 2011/03/14 (月) 「鬼ころし」を飲みながら


この未曾有の国家危機のさなか、変わらぬ日常を送っている自分が不思議でしょうがない。


深夜ラジオが、統一地方選の延期のことを言っていたが、当然だろう。
選挙どころではないはずだ。


地球の歴史は50億年だが、人類の歴史はせいぜい数十万年に過ぎない。
日本人にとってあるいは人類にとっては未曾有でも、50億年というスパンでは、何度も何度も繰り返された天変地異のひとこまなのかもしれない。


天変地異とのみ言えるかどうかは、産業革命以後の人類にとって検証しなければならない課題だ。科学主義を相対化する科学哲学主義(そういう叡智の先人の何人かを我々日本人は持っているのだが・・)を育てていかなければならない。


愛するひとが濁流に飲み込まれていくさまを見たひとのその後の人生はどうなるのだろうか。生きる意味ってなんだろう。。
2011/03/13 (日) 無題


東日本巨大震災の惨状が明らかになるにつれて(というか、惨状がおよそ掴みきれない現状を前にして)、呆然とするばかりです。


こみあげてくる感情を説明することもできない。



福島原発3号機冷却装置停止にマスコミの目線が移っている。


チェルノブイリ原発事故が発生した時、僕の妻の胎内に息子がいた。妻は妊婦であった間、ずうっと事故の影響を心配し続けていた。僕も又銃後の兵士として心配し続けていた。
その時、原発問題を生涯の課題としている友人から電話が入った。
「チェルノブイリへ行く。廃炉に入るので、コンクリート強度のことを教えてほしい」というものだった。


昨日事務所を来訪したふたりの木造住宅工務店主と木造住宅土台について、話し合った。
「10年ほど前から、土台と柱を緊結する亜鉛ドボ漬け金具が普及している。勿論、木造フレームの浮き上がりを阻止するためのものだ。津波による浮力の前には金具の効力は無かったのだろうか」と彼らは言う。


今後のこととして
軽度障害者の僕は、ボランテイアとして現地へ入ることはできない。足手まといになるだけだ。
できることは、理科系的建築設計専門家としての意見を発信することだけだろう。



2011/03/12 (土) 東日本大震災


昨日の午後、厚生経済常任委員会が開かれている時に勃発した東日本大震災。
暫時休憩の間に議員控え室のテレビで見た、大津波が湾内の船舶、沿岸の自動車や民家の全てを飲み込んでいく実況映像は、小松左京・「日本沈没」を彷彿とさせるものだった。


常任委員会は議案が多く、定時を過ぎても延々と続いた。
東京在住の妹へ暫時休憩の間に電話をかけても、全くつながらない。午後10時にやっと妹と連絡がつきほっとした。


きょうのラジオ・テレビは地震情報一色となるだろう。
しかし気になるのは、情報の発信機能だ。
阪神淡路大震災の時に、手話通訳ボランテイアとして神戸に出向いた知人が、「聾唖者に対しては、情報がラジオやテレビつまり音声では伝わらない。一部の数少ない情報だけで、ただただ混乱するばかりです」と僕に語っていた。
2011/03/11 (金) 未明に熱々珈琲を飲みながら


数日前、忙しい合間をぬって「宮沢賢治その愛」(新藤兼人 脚本・監督)をみていた。
賢治は最愛の妹・とし子を肺結核でなくす。


けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨(いんざん)な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる



かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じようとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする



それらひとのせかいのゆめはうすれ
あかつきの薔薇いろをそらにかんじ
あたらしくさはやかな感官をかんじ
日光のなかのけむりのやうな羅(うすもの)をかんじ
かがやいてほのかにわらひながら
はなやかな雲やつめたいにほひのあひだを
交錯するひかりの棒を過ぎり
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた



ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ



一年前のその日も冷たい風が吹いていた。
僕は空ばかり眺めていた。
その日から世界が一変した。
2011/03/10 (木) 深夜に熱々珈琲を飲みながら


きのうは来訪客が多かった。
マスコミも来て生臭い話もあったが、印象に残ったのは別れの挨拶に来たひとたち。
春は人事異動の季節なのである。
僕のような自由業者にとっての春は四季のうちのひとつという感覚しかないが、大手の月給とりや公務員にとっての春は「出会いと別れ」の季節なのである。


そういえば、もうすぐ小中校の卒業式だ。
振り返ると、自分自身の学校生活は総じて暗かった。しかし、小学5・6年の生活だけは別だった。いわゆるゴールデンエイジというやつだ。


この時の楽しい思い出は、いくらでも書けそうな気がする。でも、担任の清水先生は若くして死んでしまった。30代だったと記憶する。
日本人の仏教感からくるものだろうが、死んでいった知人の思い出はみな美しい。
しかし、しぶとく長生きしている知人たちはみな美醜ないまぜだ。
2011/03/09 (水) 無題


「右足のむくみに対しては、リハビリとサポーターが必要」と妻から言われ、サポーターを購入した。
なるほど、腿から膝までが安定した。歩くことの自信が少しだけよみがえってきたような気がする。勿論万全とはいえないが、ひとむかし前だったら既に隠居老人となっているはずの年齢に達しているので、完全復活は望まない。


軽度の障害者としてのこれからの人生は
①スローライフの実践
①少しだけ頑張る
①歴史と自然を愛する
 
①酒はたしなむ程度     を目標としてやっていきたい。

2011/03/08 (火) 夜明けに思ったこと


政治の世界も泥仕合で,、政権の中枢にいるひとたちの辞任が続いている。
アガサ・クリステイじゃないけれども、「そして誰もいなくなった」という日が近いのかもしれない。鈴木宗男のような、マスコミから袋叩きにあいながら不屈のメンタリテイを発揮してきたひとも今じゃ塀の中だ。


前外相・前原氏の辞任で同じく脛に傷持つ身としてヒヤヒヤしていた国会議員も大勢いたことだろう。
だからと言って我々庶民はどうすることもできない。ただじっと眺めているしか能がない。しかしひとつだけできることは、ひとを偉いとおもわないことだ。例外的に本当に偉いひとは、死んでから初めてその中身のすごさがわかる。


新聞の社会面を眺めれば悲劇満載だし、テレビのスイッチをオンにすればバカ騒ぎの連続だ。
情報過多の世界は我々から安逸を奪っていく。我々は、昔の日本人が持っていた花鳥風月を愛でる世界に再び戻っていこうではないか。
自然は自然であること自体に充足している。それ以上でもそれ以下でもない。
そのなかでのみ、心の平安を取り戻すことができると思うのだ。

きょうの夕刻、僕は頼まれてラブレターの代筆をしていた。これはなかなか楽しいもんだ。わくわくする。
三十年ほど前にもおなじことをやったことがある。代筆の頼み手は某建設会社社員で、某証券会社女子社員にぞっこんだった。僕は代筆したのみならず、その女子社員に手紙を渡す役目まで負わされた。
手紙を渡した時の彼女の顔が忘れたれない。嬉しいような悲しいような顔だった。
「これが牧田さんからの手紙だったら・・」とつぶやいた時の顔が忘れられない


2011/03/07 (月) 静かな夜更け


本日は一般質問が行われた。質問者は6人。
質問者が少なかったせいで、午後3時には終了。そのあとの広報編集委員会を経て、4時に事務所へ戻った。


なんとなく鬱気分の一日だったので、気分転換のためにバッグを買いに行った。僕としては¥3980エンの高い買い物だったが、今から毎日使うものだしそれを考えれば気分転換の効用もあって安いものだと思った。

帰宅し、缶ビール一個で喉をうるほしたあと、布団に横たわったが寝付かれない。
6時前に眠ろうとするのが、どだい無謀なのかもしれない。

仕方がないので、再び事務所に戻りCADにとりかかった。
しかし持ち味の集中力を発揮できず、ついついぼおっとしてしまう。そして、アタマのなかを一昨日のPTA仲間との飲み会がかけめぐる。何年ぶりかで会ったひともいたのに、顔をみた瞬間、時間的な断絶はすぐにとけた。
私の事務所2階において、あの仲間で何十回何百回飲食パーテイを開いたことだろう。
それを思い出しているうち、一昨日の楽しさに別の理由のあることに気づいた。

あの晩僕は散財したのだ。
僕はひとにおごられることを拒否しないがおごったことなど絶えてなかった。つまりケチなのだ。
しかしあの晩僕は散財した。犠牲的精神でおごったわけでもなんでもなく、たまたまだった。
そのことで、内心僕は喜んだ。この心は考えてみるとインド仏教における「喜捨」の精神に通じるのかもしれない。俗っぽく言えば、高みにたった目線つまり優越感の享受なのかもしれない。

ということで
今からの僕は、(時々だが)友人諸君におごろうと思う。




2011/03/06 (日) きょうは頑張るぞ


昨晩は、金津小学校PTA時代の仲間たち7人が事務所に集まった。
真打のしゃべり手の来訪が少し遅れたので、それまでの代行として主に僕がしゃべったが、当時を偲んでの昔話に花が咲いてまたたく間にごぜんさまとなってしまった。
「友あり近方よりきたる(?・・遠方がふたりか) また楽しからずや」である。


ところで、僕の性格はすっかり変わった。
けさ、事務所に入ると、缶ビール、芋焼酎瓶、刺身皿などがテーブルの上に散乱している。以前の僕だったらなんにも気にせずその横でCADにいそしんでいた。


しかし、今はちがう。すぐに後片付けをする。テーブルの上を床を丹念に拭く。そうせずにはいられないのだ。人間は歳をとるにつれ、神経質になっていくのだろうか。


深夜に北野武主演の「アキレスと亀」をみた。最近みた映画の中ではベストスリーに入る。この映画は売れない絵描きの一代記なんだけど、ところどころで涙がでて仕方なかった。


僕も、知る人ぞ知る売れない芸術家である。アーキテクトである。
芸術家は、世間の規範とは無縁である。
芸術家は善人であってはいけない。
芸術家は、(誰もがもっている)内面の狂気の発露をためらってはいけない。
芸術家は、長生きしてはいけない。

2011/03/05 (土) 「高機能消防指令センター」開所式


本日の午前中は、嶺北消防組合「高機能消防指令センター」開所式に出席した。
指令系統が電算化されて、より迅速な救急体制が担保されることになったのは喜ばしいことだ。


だけど・・と私は思ってしまう。
今までの体制で間に合わずに命を落としていった人たちの存在が、これからの体制をつくったことになる。そうするとその人たちの犠牲は、例えば武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎などこころざし半ばで倒れた土佐藩の志士たちが薩長明治政府にとっての肥やしとなったようなものだ。


来賓代表のひとりとして、県議の斉藤新緑さんが挨拶した。
「挨拶(あいさつ)」は本来、禅用語だ。「挨(あい)」は「押す」を、「拶(さつ)」は「引く」を意味する。つまりは簡潔短文であるべきということだろう。


文芸好きの斉藤さんは、そのあたりを踏まえつつしゃれたしゃべりをしていた。

2011/03/04 (金) サントリーウイスキーを飲みながら


本日、久しぶりに現世へ戻ってきました。冥界に居る間、日記どころではありませんでしたが、なかなかに貴重な体験ができたと思います。


本日は早朝から千客万来で息つく暇もありませんでしたが、午後8時にやっと全てから開放され、サントリーウイスキーをお湯割りで飲みつつDVD「ローマの休日」を見ているところです。


それにしても、オードリー・ヘプバーンの可愛さは妖精そのものだ。
ヘプバーン扮するアン王女が、挨拶伺いをする伯爵らの陳腐言葉に辟易し、顔は真面目なのにロングスカートの奥で靴を脱いで、両足の裏をすり合わせるという茶目っ気シーンにはまいった。


僕は考えた。
映画・「ローマの休日」をあわら市民でつくるとしたらどういう配役がベストとなるのだろう。
監督・・・こんなん誰でもいい。
ヘプバーンの相手役つまりアメリ人新聞記者=グレゴリー・ペック・・・これは不肖
牧田孝男で異論はでまい。自分でもそう思う。


悩むのは、ヘプバーン役だ。
彼女に近いあわら市民美女の何人かを僕は知っているが、彼女に匹敵する美女となると話は別だ。
今晩の僕は人選をめぐって眠れないかもしれない。


しかし、どうであれこうであれ明日の晩は事務所で飲み会だ。

2011/03/02 (水) コンソメスープを飲みながら


昨日の午後。
事務所でCADに励んでいたら某共産党市議が来訪。話題は共通の知人のこととなった。個人情報なのでデイテールをここに書き込むことはできないが、知人は(いろいろあって)、現在、東京新宿の地下道でホームレス的に過ごしているとのこと。


世情が不安定になればこういう層が増えていくのだろうし、政治が最低限やらなければならないこともこういう層に対する扶助にある。
と、高齢者に仲間入りしつつある団塊の世代の一員としての僕は思うのです。



 2011/02/26 (土) 無題


禁煙を決意してから何ヶ月も経った。微妙な言い回しだが、禁煙してからではなく禁煙を決意してからであって、稀に密かに喫う時がある。
つくづく意思の薄弱な男だと思う。


10数年前に、京福武生駅の便所に入った。
小便器の前に立った時、洗い流しのボタンスイッチの横に貼られてある白い紙が目に入った。そこには、こう書かれていた。
「あたしを 捨てないでね・・・たば子


これは、「小便器に吸殻をなげすててはいけない」という程の意味だったのだが、今、再考してみるに、「完全禁煙は煙草メーカーとして寂しい」という意味にもとれる。