2011年08月

 2011/08/31 (水) 本日は議会活性化特別委員会 


昨日は、9月議会定例会を前にしての全員協議会が開かれた。
午後1時半開催で、5時に終了。
定例会の日程はあわら市ホームページで検索できます。
なお、議会活性化特別委員会の日程もあわら市ホームページに載っています。勿論、傍聴可能です。


夜は芦原温泉某旅館にて議員会主催による意見交換会(と言っても半分飲み会だけどね)。
まだ残暑の厳しいこの季節の1杯目はなんといっても冷えたジョッキーだ。「五臓六腑に染み渡る」とはこのことをいう。


そのあと、ぼくは焼酎お湯割りをひとり静かに飲んでいた。なんせ20人近くが一同に会して飲むのだから周囲はかますびしい(はずだ)。
けれども、ひとり静かに飲むぼくにはそれらが心地よいBGMとなっていた。


白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の
     酒は静かに 飲むべかりけり  若山牧水
  なのだ。


 2011/08/30 (火) 本日は全員協議会


ただ今午前10時。三国土木事務所経由でHさんのところへ行き、文学談話を拝聴して帰ってきたところだ。


ところで
今朝の9時、ぼくの携帯にメールが入ってきた。
プライベートなものなのでその内容をブログに載せはしないが、一通のメールで心がとても和らいだ。


 2011/08/29 (月) 納涼祭


八月最後の週末も終わったが、多分この週末にはいろんな地区で納涼祭が行われたことと思う。私が住んでいる坂ノ下地区でも日曜日の昼に八幡神社で納涼祭が行われた。





村社・坂ノ下八幡神社は戦(いくさ)の神を祭っている。その神社の境内で酒をあおるという行為は、時を現代にタイムスリップして考えるならば、自衛隊に対する激励を意味するものかと思ったが、隣席とワイワイガヤガヤしながら飲んでいれば、ひたすら酩酊の世界に入り込むだけだ。


ところで
参加者には若いひとが多かった。男でもわからないひとが多い。女の人ともなると他所から嫁入りして来ているので全くわからない。
納涼祭にしろ他のイベントにしろ地区の行事の意味のひとつは、老若男女のコミュニケーション促進にあるのだろう。




 2011/08/28 (日) 八月最後の日曜日


彼岸の中日が近づいている。夜明けも随分と遅くなってきたものだ。

あけぬれば るるものとは りながら
    なほうらめしき ぼらけかな   藤原道信朝臣


百人一首に収録されているこの歌は男女の恋を歌ったものらしいが、ぼくの場合はそういうことに関係なく、夜明けが早いほどいい。


朝陽を見ると気分がポジテイブになる。「さあ、きょう一日を生きよう」という気分になる。猛暑は苦手だが、猛暑の時期時も夜明けはまだほどほどの暑さなので、快適なのだ。


今朝は、本庄小学校グラウンドで行われた「あわら市総合防災訓練」に参加。



 2011/08/27 (土) 昨日の一日


昨日の午前中に、化学物質過敏症のSさんと一緒に金津町郊外でNさんがやっている無農薬菜園を訪ねた。
Nさんは、葡萄棚から実をもぎとりSさんに差し出した。
その実を口に含んだSさんは、「うん、農薬がかかってない。私が農薬がらみのものを口にすると、テキメンに口が荒れるのよ」と言う。Sさんは、ある意味センサーみたいな人だ。


11年前、私たちが住んでいる地球が21世紀に入った時(勿論これは人類史観であって地球史観ではないけどね)、時の政府は、「この21世紀は環境の世紀であります」という声明を出した。


だけれども、地球環境が整備されるまでにはまだまだ長い歳月を必要とするしその日が来ないかもわからない。いずれにしろその過程で直近では福島原発事故があった。ぼくは原発を「プロメテウスの火」だと思う。


1970年代初頭に連合赤軍浅間山荘事件・金嬉老事件・三島由紀夫自決事件などが勃発した頃、日本社会は高度経済政策の裏返しとして水俣病をはじめとする公害病に喘いでいた。
水俣病については、石牟礼道子の珠玉の文章・「苦界浄土」を読めば充分だ。


犠牲になって死んでいったひとたちにとって「生きる意味」とはなんだったんだろう。


霊魂の存在を感じてはいるけれども、無神論者であるぼくにとって、「ひとは死ねば死にきり」だ。問題は残された生者。
残された近親なりの生者は、逝ったひとたちに対して嘆き続ける。嘆きは永遠でありその意味で「死ぬも地獄生きるも地獄」ということになる。



午後は議会事務局へ行き、特別委員会についての方針を打ち合わせした。
そのあと、メジャーテープとデジカメと真っ白な紙を携えて三国町へと向かった。この瞬間からぼくは「隠れた建築家」となった。


ふたつの顔を持つ男・・・格好いい。


 2011/08/26 (金) 昨晩


昨晩の午後7時から、中央公民館1階和室にて、「ふるさと語ろう会」例会が開かれた。内容は中島道子特別顧問による講演・「豊田屋哥川」。
司会進行は不肖牧田孝男。
約一時間の講演のあと活発な質疑に入り、例会は午後9時に終了した。


哥川は江戸中期に三国湊で生きた俳人だが、前半を遊女として後半を俳人として生きた。俳人としての頭角をあらわすと共に江戸、美濃等の宗匠との交流を深めたが、ことに加賀千代女との交流は有名である。


中島先生に拠れば
何故、容姿・句風共に加賀千代女以上の才能を発揮しながらも、千代女が全国版有名人となり哥川が越前ローカルであり続けているかというと、遊女と武門という出自による差及び加賀100万石と越前数十万石という文化基盤成熟度の差によるものだとのこと。
確かに、まちおこしとは歴史のほりおこし人おこしであると、ぼくは思う。


例会終了後、ぼくは唯一の若い女性参加者とひそひそ話しをしていた。
話を終えて外に出ると、しとしと雨が降っている。もう完全に秋だ。
ぼくにとって珍しく「芸術の秋、文化の秋」だった昨晩はこうして過ぎていった。



 2011/08/25 (木) 五行日記


昨晩も雨模様で、今朝は蝉の鳴き声も聞こえない。いよいよ秋到来だ。
ところで「全国こども俳句コンクール」というものが例年あるみたいで、56年前のラジオからその年の最有優秀賞が流れてきた。


天国は もう秋ですか お父さん

でぼくは胸にジンときた。


 2011/08/24 (水) きょうは定例打ち合わせ

「日本建築学会が大地震によって地盤が液状化を受けやすい地域を国民向けにわかりやすく報告文書にまとめた」という記事見出しを読んだ。


思うに
先祖代々住み続けている場所ならともかく、そうでない場合には先ず自分が住んでいる地域の地名を考えてみるといい。


あわら市の場合、旧芦原町の地名が葦原に関係していると思われる。
脱線するが、「江戸期にナンバーワン遊郭であった吉原の地はもともと葦原だった。金持ち霏霏爺さんたちが通っていた地が葦原(あしはら)では「あし」が「悪し」を連想させて都合が悪い。淋病や梅毒を想起せしめ営業成績が落ちる。そこで「葦原」を「吉原」に転化させた」という説を読んだことがある。


芦原の「堀江」や金津の「溝江」などの「江」は小さい流れを意味するし、「坪江」は扇状地に起因しているだろう。
「柿原」の語源は「欠け原」という崩壊地名であることを「地名辞典」はうたっている。


地名には地域の歴史的性状をうたっているものが沢山ある。もっと言うならば地名には地霊が宿っているのだ。


だからぼくは、十数年前の金津町・新住居表示施行には新聞でFMラジオで反対した。


 2011/08/23 (火) 涼しい夜明けに


予定表を覗くと、秋口のスケヂュールがどんどん埋められつつある。
加えて自宅兼事務所完成まで一ヶ月プラスアルファとなり、設計者兼施主のぼくはかなり忙しい。


昨日の朝には、聾唖者Aさんが来訪。「早く牧田さんの事務所が完成してほしい」と言う。この言葉には、「半年前までやっていた手話サークルが再開できる」という意味が込められている。
手話といえば、JAから手話講習の依頼があった。婦人部相手ということなので、快く引き受けた。


基本的に怠惰な性格のぼくのモットーは、「スローライフ」だった。
尾崎放哉作「咳をしても一人」のような生活にあこがれていたのだが、妻子を持ち家族を持つとそれもなかなかむつかしい。


スローライフかビジーライフかは他人様が決めることかもしれない。
一昨日の晩、ぼくは妻にこう言われた。
「おとうさん(ぼくのこと)も、いい年齢に達した。もうそろそろ我儘気儘は止めて、他人に奉仕する人間にならなくてはいけない」と言われた。
ぼくはこれを「座右の銘」とするつもりだ。


2011/08/22 (月) 新しい週の始まり


昨日の日曜日の午後、ぼくはDVDで森鴎外原作・「阿部一族」を観た。


時代は寛永年間で、既に戦乱の世の中ではなくなっていた。そういう時代を背景として熊本藩で起こった事件が題材となっている。
熊本藩54万石の藩主が亡くなる際に殉死を願い出た代官・阿部弥一右衛門はしかし藩主から認められず、生きて新藩主をしっかりと支えよとの命令が下された。
封建時代での藩主の命令は絶対だ。殉死できず悶々した思いで登城した阿部をまわりは冷ややかな眼で見る。腰抜け、とささやく。


城主でなくても、愛するひとを失ってそのあとを追いたいという、いわば究極のエロスがテーマとなった作品で、みごたえがあった。


事件はこのあと波乱の展開をみせるのだが、筋を書くのが本意ではない。
阿部弥五兵衛を演じた佐藤浩市が印象に残った。そういえば浅田次郎原作の「壬生義士伝」でも、いい味を出していた。


2011/08/20 (土) 昨日の一日


昨日は平成23年度金津地区戦没者慰霊祭が挙行され、ぼくも追悼文を詠んだ。


慰霊祭が終わり、隠れ事務所に戻ってから戦争を考えた。
戦死者ではないが、フィリピンで戦い捕虜となって終戦を迎え復員し、3年前に逝った親父のことが思い出される。逝く数年前まだ歩けた時、ぼくは親父を車で県立病院へ送っていったことがある。その途中、「この家へ寄ってくれ」と言われた。
その家へ着いた時、玄関の戸が開き一人の老人が現れた。親父と老人はひしっと抱き合い人目もはばからず泣き始めた。殆ど号泣だった。
あとで聞くと、部隊最後の生き残りだとのこと。
「同じ釜の飯を食った」戦友だからこその号泣で、みていてすごく感動的だったのを覚えている。


そして昨晩、我が家で時々勃発する戦争つまり夫婦喧嘩が収まったあと、ぼくは妻に、生前の親父の隠れたエピソードのいろいろを語った。妻は「そんなこともあったの?」と眼を丸くした。
誰の人生もそうだろうが、「人生は泣き笑い」だ。


 2011/08/19 (金) もう週末か


きのうの夕刻、ぼくは旧北前船船主の家の前にたたずんだ。


勿論、今は使われていない。
しかし、構内を歩くと、屋根瓦や棟石や手水や敷石や建具や植栽やに江戸期の住文化の香りが色濃く残っている。
「腐っても鯛」とはこういうことを指すのだろう。


 2011/08/18 (木) 一行日記


昨晩からきょうにかけての雨で、秋の気配を感じています。


 2011/08/17 (水) 無題

ぼくが天下りのことを初めて知ったのは、20年ほど前。


当時、某福祉施設の所長から障害者施設の設計を依頼され、ぼくは関係者と打ち合わせを続けていた。ようやく平面図がまとまりかけた頃、その所長から電話が入って、「牧田さんすみません。この建物は国の補助事業でして、国は〇〇設計会社を使えと言うんですよ」と言われた。続けて「その会社には厚生省からの天下りがいるんです」と言う。


(自分で言うのも変だが)人格者のぼくは「いえいえ、いいんですよ。貴方のような福祉に熱心なひとと知り合えただけでぼくは幸せです」と答えて、受話器を置いた。


世の中に天下り会社がごまんとあることを知って「くだらんことだ」と始めは思ったが、考えているうちに天下り人種がかわいそうに思えてきた。
妻子に優雅な生活をさせてやりたいから天下るのだろうが、実際のところ妻子を堕落させていくことになるのではないかと思えてきた。


閑話休題
こんなことを書いているうちに昨晩がよみがえってきた。
隠れ事務所でCADと格闘していた時、ドアががらっと開いて、子犬を連れたおじさんが入ってきた。子犬おじさんは「今度、加賀の国へ行こう」と言う。「仏御前の伝説を訪ねて行こう」と言う。こういう時、ぼくはすごく嬉しくなる。歴史はロマンなのだ。


 2011/08/16 (火) チューインガムを噛みながら

10年ほど前、このブログを書き始めた時にトップページ表題を「敬天愛人」とした。
西郷隆盛が遺したこの言葉について、友人知人から、「「愛人」というところが誤解を招くぞ」と言われ、「そんなものかなあ?」と思いつつ、この表題を消した。


私の家は浄土真宗なのだけれども、格別仏教を信じているわけではない(というか信じるということがどういうことかわからない)私としては、敬う対象は「天」でしかないし、人間はみな愚かだと思っている私は「ひとを尊敬してはいけない特に皆から立派だと思われている輩(やから)こそ気をつけなくてはいけない、しかしだからこそ愛さなくてはならない」を人生訓としてきた。
その意味で私には「敬天愛人」がぴったりの標語だったので、消すことは残念だった。


あれから幾星霜、三年前に脳障害で倒れ後遺症を身近な友とすることとなり、昨年は愛するひとを失って半分狂い、今年三月の東日本大震災で山折哲雄さん言うところの「無常感」が大きくなった。


かっては「笑顔がセクシー」と言われた私だが、人に顔を向けることができなくなり、陰気だけが体内を走りまわっていた。信じられるのはチューインガムだけという日々が続いた。


ところが
本日の夜明けに歯を磨きながら(身近な友人は信じないかもしれないが最近は毎日歯を磨くのだ)東の空を眺めていた時に、三国の坊さんから送られてきた葉書の文句が突然頭に浮かんだ。
その葉書には「喜びは 悲しみの底に」と書かれていた。


笑顔で元気に余生を送らねば、と今思う。


 2011/08/15 (月) 


坂ノ下地区の区有地には三頭の牛が放牧されている。



毎年この場所の草刈りが大変で、真夏の半日を区民が総出で草刈り作業に従事していた。
それで一昨年、県の事業としての牛放牧を坂ノ下区は三顧の礼で迎え入れた。それによって区民は草刈り作業から開放され、又牛糞によって土地が肥沃化されるという二重の益を獲得したのである。


そういえば、ぼくの中学生時代のあだ名は「牛(ぎゅう)さん」だった。本名を呼ばれるよりもあだ名を呼ばれるほうがずっと多かった。




「牛」       高村 光太郎

 牛はのろのろと歩く

 牛は野でも山でも道でも川でも

 自分の行きたいところへは

 まつすぐに行く

 牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない

 がちり、がちりと

 牛は砂を堀り土を掘り石をはねとばし

 やっぱり牛はのろのろと歩く

 牛は急ぐ事をしない

 牛は力一ぱいに地面を頼つて行く

 自分を載せている自然の力を信じ切って行く

 ひと足、ひと足、牛は自分の道を味って行く

 ふみ出す足は必然だ

 うわの空の事ではない

 是でも非でも

 出さないではいられない足を出す

 牛だ

 出したが最後

 牛は後へはかえらない

 足が地面へめり込んでもかえらない

 そしてやっぱり牛はのろのろと歩く

 牛はがむしゃらではない

 けれどもかなりがむしゃらだ

 邪魔なものは二本の角にひっかける

 牛は非道をしない

 牛はただ為たい事をする

 自然に為たくなる事をする

 牛は判断をしない

 けれども牛は正直だ

 牛は為たくなって為た事に後悔をしない

 牛の為た事は牛の自信を強くする

 それでもやっぱり牛はのろのろと歩く

 何処までも歩く

 自然を信じ切って

 自然に身を任して

 がちりがちりと自然につっ込み食い込んで

 遅れても、先になっても

 自分の道を自分で行く

 雲にものらない

 雨をも呼ばない

 水の上をも泳がない

 堅い大地に蹄をつけて

 牛は平凡な大地を行く

 やくざな架空の地面にだまされない

 ひとをうらやましいとも思わない

 牛は自分の孤独をちやんと知っている

 牛は喰べたものを又喰べ乍ら

 ぢっと淋しさをふんごたえ

 さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいって行く

 牛はもうと啼いて

 その時自然によびかける

 自然はやっぱりもうとこたへる

 牛はそれにあやされる

 そしてやっぱり牛はのろのろと歩く

 牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ

 思い立ってもやるまでが大変だ

 やりはじめてもきびきびとは行かない

 けれども牛は馬鹿に敏感だ

 三里さきのけだものの声をききわける

 最善最美を直覚する

 未来を明らかに予感する

 見よ

 牛の眼は叡智にかがやく

 その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく

 形のおもちゃを喜ばない

 魂の影に魅せられない

 うるおいのあるやさしい牛の眼

 まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼

 永遠の日常によび生かす牛の眼

 牛の眼は聖者の眼だ

 牛は自然をその通りにぢっと見る

 見つめる

 きょろきょろときょろつかない

 眼に角も立てない

 牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ

 外を見ると一緒に内が見え

 内を見ると一緒に外が見える

 これは牛にとっての努力ぢゃない

 牛にとっての当然だ

 そしてやっぱり牛はのろのろと歩く

 牛は随分強情だ

 けれどもむやみとは争わない

 争わなければならない時しか争わない

 ふだんはすべてをただ聞いている

 そして自分の仕事をしている

 生命をくだいて力を出す

 牛の力は強い

 しかし牛の力は潜力だ

 弾機ではない

 ねぢだ

 坂に車を引き上げるねぢの力だ

 牛が邪魔物をつっかけてはねとばす時は

 きれ離れのいい手際だが

 牛の力はねばりっこい

 邪悪な闘牛物の卑劣な刃にかかる時でも

 十本二十本の槍を総身に立てられて

 よろけながらもつっかける

 つっかける

 牛の力はこうも悲壮だ

 牛の力はこうも偉大だ

 それでもやっぱり牛はのろのろと歩く

 何処までも歩く

 歩き乍ら草を喰う

 大地から生えている草を喰う

 そして大きな身体を肥す

 利口でやさしい眼と

 なつこい舌と

 かたい爪と

 厳粛な二本の角と

 愛情に満ちた啼声と

 すばらしい筋肉と

 正直な涎を持った大きな牛

 牛はのろのろと歩く

 牛は大地をふみしめて歩く

 牛は平凡な大地を歩く




金津中学校の同級生の皆さん。
こういう素晴らしいあだ名を与えてくださってありがとうございました。


 2011/08/14 (日) きょうからお盆 


一週間程前に、思い切って小型録音機を購入した。
例えば対談の時など、右手指の神経に残ったマヒのために、鉛筆で思うようにメモがとれなくなったためだ。大型電気店へ行ったらテープレコーダーではなくてICレコーダーというのがずらっと並んでいる。何故テープが入っていなくて録音ができるのか訳がわからずに買ったのだが、これがすごい。
軽量・小型で、録音時間70時間と書いてある。


ためしにレコーダーを一日中胸ポケットに入れておいた。
翌日再生して聴いたのだが、実に沢山のひとと会話している。改めて思ったのだが、ぼくのしゃべりはあっちいったりこっちきたりでとりとめがない。もう少しきちっとしなければならないと思った。

 2011/08/13 (土) もう週末か


昨日の午前中は、坂井地区介護保険広域連合に居た。
前日に運営協議会が開かれたのだが、同じ時間帯に議会活性化特別委員会が開かれた為、運協に出席できなかったので話の中身を事務局から聞いていた。


資料①は「第5期介護保険計画に関る現状報告」
項目としては
「あわら市及び坂井市における高齢者を取り巻く現状」
1 総人口と高齢化率の意味
2 構成市の高齢者人口比
3 サービスの利用状況
4 保険給付費の動向


そのほか
「平成22年度二次予防事業実地状況」
1 二次予防事業における対象者把握事業
2 通所型介護予防事業
3 訪問型予防事業
4 二次予防事業の対象者の経過


資料②は
「介護サービスの基盤強化のための介護保険法等の一部を改正する法律の概要」
「地域包括ケアシステムについて」
「介護保険事業(支援)計画の策定」
「24時間対応の定期巡回・随時対応サービスの創設(イメージ)」
「複合型サービスの創設」
「介護予防・日常生活支援総合事業について(イメージ)」
「介護療養病床の取り扱いについて」
「サービス付き高齢者住宅と介護保険の連携イメージ」
「認知症対策の推進について」
「地域ニーズに応じた事業者の指定(イメージ)」
「保険者による主体的な取組の推進」
「保険料の上昇の緩和」  ざっとこれだけのことについて説明をもらった。


あわら市も高齢化率が進み、それに応じて給付額が上がらざるを得ないだろうが、「団塊の世代=昭和22年、23年、24年生まれつまりぼくらの世代」が消滅すれば高齢化率は下がる。


団塊の世代は太平洋戦争の終結によって登場したが、ピンピンコロリとはなかなかいかず、やはり人生のたそがれを病いや障害とつきあうことが定めと考えざるを得ない。


しかし、自分たちが死ねば新しい世の中になると思うことは、死に肯定的な意味が付与されるという一点で、魂の浄化となるのである。
久しぶりにこのブログのカウント数を見たら、60万カウントが射程に入ってきた。ま、カウント数なんてどうでもいいことで、このブログを書くのは友人・知人へのパソコン通信みたいなものだと基本的には思っているし敢えて読者を意識するとしたらそれは女性読者一般なのだけれども、読後感を毎日のように電話してくるおじさんも実は居る。


そこでカウント数が60万を超える日を予想したら、自宅完成日とドッコイドッコイなのだ。
数年前、50万カウント達成記念飲み会を企画したら、特選焼酎、銘酒、ビールを頂いたにも関らず、当日の朝脳内出血で倒れ、あの世とこの世を往還してしまった。往還とは臨死体験のことなんだけれども、あの日以来ぼくは死後の世界と現世とのあいだに屹立した壁など無いと思うようになった。後日、立花隆著・「臨死体験」を読んでその意を強くした。


ぼくは何を言おうとしているのだろう。
そうだ、諸行無常なのだ。山折さんも、「日本人の根底には「無常観」があると言っていたんだぜ。


 2011/08/12 (金)  朝陽を浴びながら

昨日の午後は、第二回議会活性化特別委員会が開かれた。


討議内容は
①第2章 議会・議員の活動原則(議会の活動原則)(議員の活動範囲)
②第3章 市民と議会との関係(市民参加及び市民との連携)


午後2時に始まり4時半に終了したこの委員会は、目的が「議会基本条例の制定」を目指してのものであるだけに、いろんな意見が続出した。


そういうなかにいると、活性化していない自分も活性化してくるような気分になるから不思議だ。


この委員会、次回は8月31日の午前9時半からです。


ところで
昨晩のぼくのアタマをぐるぐるまわっていたのは
「なにしようぞくすんで 一期は夢よただ狂え」という言葉だった。確か閑吟集に載っていた言葉じゃないだろうか。


この言葉を呪文のように唱えているとほっとする。


ぼくは婆娑羅大名ではなく、単なる一市民でしかないけれども、たまには婆娑羅気分を味わいたい。


ということで風になって束の間消える時が近づいてきたようだ。


 2011/08/11 (木) 本日は議会活性化特別委員会


昨日の午後は、自宅の定例打ち合わせ会議に追われた。
商売柄、設計監理には慣れているけれども、今回の場合施主の立場も兼ねているので、従来とはいささか勝手が違う。


外構工事で、スロープ取付けの話になった時、妻は「おばあちゃんのために、なおかつおとうさん(ぼくのこと)のためにも」と言うのを聞いて、「ほんとやなあ」と思った。


ひとは歳をとるに従い足腰が弱り動きが鈍くなり段差を超えにくくなっていく。この場合、「歳をとるに従い」はあくまでも原則であって、ぼくのように大病を患った人間にとって障害者化はスピーデイなのだ。同世代をはるかに超えるのだ。


カラダやアタマの衰え阻止のためのリハビリにいそしむのは当然であるけれども、反面、衰えていく自分を虚心に見つめることも大切だと思う。


「元気な人間」というのは「元気でない人間」がいてこそ形容される言葉。
正義は悪があってこそ、光は闇があってこそ、陽は陰があってこそ生彩を放つのである。


というようなことを踏まえて、きょうも元気に頑張ろう。


 2011/08/10 (水) 舞妓について


冷房の効かなくなったマイカーに乗っているとわかることがある。
例えば昨日はほぼ一日じゅう所用であちこちを走り回っていたのだけれども、すれ違う車で窓の開いているものは、一台もみかけなかった。確かに炎天下の走行で、窓をあけるぐらいでは汗ダラダラがとまらない。


しかし午後4時半を過ぎると、つまり陽射しが弱くなってくると、窓外から入ってくる風も涼風に変わってきて、カラダの感度は良好となる。この「感度良好」は、冷房機では得ることのできないものだ。


高田松原の松を薪として「五山送り火」で燃やす計画が、京都市民の反対で中止になったというニュースを読んで思ったこと。


この薪が検査で放射能汚染されていないことが確かめられていたにも関らず中止となったということは、風評被害に屈したということでありもっと言うなら風評被害を促進したということになる。


京都人は「千年の都」ということでことさらに自分のところを聖化しているのではないだろうか。神社の境内のように「清浄にして清浄」と思っているのではないだろうか。だからぼくは京都人が嫌いである。とは言っても京都人をひとりしか知らないが・・。
しかしその男は妻と離縁し祇園舞妓と再婚してしまった。


祇園舞妓のあでやかさにのぼせあがってしまったのだろう。
だからぼくは京都人が嫌いである。

 2011/08/09 (火) 夜明けに熱々珈琲を飲みなが

昨晩は金津中学校の会議室にいた。「金津中学校同窓会総会」が開かれたためである。


終了後、自宅に戻り遅い晩飯を食って一服していると、妻が「工事中の自宅を見に行こう」というので、一緒に現場へ入った。
ペンライトを持っていても足元がおぼつかない。内部階段の設置がまだなので、2階へ上がるのが困難だ。大工さんからは、「今週中に設置予定」と聞いている。


完成は10月初旬になるとのことだが、はやく10月になってほしい。3帖半の隠れ事務所では来訪客の応対が無理だ。昨日も三人の来訪客があったが、いずれの場合も場所を変えざるを得なかった。


ところで
5月まで使っていたプレファブの事務所が場所を変えて再び地上に姿を現した。モノの再利用が実現して、ぼくは嬉しい。


 2011/08/08 (月) 新しい1週の始まり

昨日の午後1時半から、あわら市文化会館で、戦没者追悼式が挙行された。


人間や国の運命を決定的に変えてしまうのが戦争の本質であることは明らかだ。
フィリピンから復員した親父と、敦賀生まれのお袋が戦後すぐに結婚してぼくは生まれた。つまりぼくたち団塊の世代は、戦争を直接は知らないのだけれども、戦後の荒廃を人生の出発点としており、ものごころつく頃から戦争の影を両親の背中に感じつつ育ってきた。


戦没者遺族の悲しみを思う時、よみがえってくる詩のひとつが、竹内浩三・「骨のうたう」だ。


骨のうたう(1942年

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰ってはきましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった

ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまう
その心や


 2011/08/07 (日) 消防訓練

昨日の甲子園。聖光学院vs日南学園は実に面白い試合だった。
ぼくの隠れ事務所にはラジオはあっても、テレビがない。そこで音声をラジオから流し、映像をワンセグで楽しんでいた時、へんなことに気がついた。
音声と比較して映像がワンテンポ遅いのだ。
映像に写る打者への投球の結果が既にわかってしまうのだ。自分が予言者になったような気分。 


今朝の6時から、坂井市丸岡町八ケ郷の「いきいきプラザ霞の郷及びその周辺」で、嶺北消防署主催・「平成23年度消防総合訓練」が行われた。



訓練を見れたのはよかったが、「?」と思ったことがある。それは来賓の挨拶が多くてながかったこと。
「挨拶」はもともと禅用語で、「挨」が「押す」を意味し、「拶」が「引く」を意味する。つまり、「やあ、こんにちは」「じゃあさよなら」くらいの意味だ。
確かに挨拶をするのはVIPばかりなので、ながくしゃべりたがるのは仕方ない。しかし聞く方は、同じことばかり聞かされるとしんどい。
ぼくの隣にいた市議は「たまらんなあ」とつぶやいていた。


 2011/08/06 (土) もう週末か


昨日の午後3時から教育センターで開かれた福井県教職員組合・政策懇談会に参加した。
全体会で県教組の運動方針についての報告を受けたあと、地区ブロックごとの協議に入った。ぼくの義姉が教員をやっているので、日頃聞かされてはいたのだけれども、全国学定で各教科に於いて上位を占める教育県としての評価とは裏腹の暗部の詳細を聞いて、「教育とは誰のためのものか。勿論こども自身のためのものである」という原点へのフィードバックが欠かせないと、ぼくは思った。


そのあとの懇親会を経ての車での帰路、汗が流れてくる。冷房が壊れて効かないからだ。直せばいいのだけれども、天から「節電、節電」という声が聞こえてくる。結局は、直さないままに、今年の夏を終えるのだろう。

今朝、ラジオで広島平和記念式典での菅直人首相の挨拶を聞いていた。
原爆投下による悲惨は、井伏鱒二著・「黒い雨」の小説をはじめとしてさまざまなひとが語っているが、ぼく個人は画家・丸木伊里さんの個展を思い出す。


20数年前、福井県立美術館地下階で丸木さんの個展が開かれた時、ぼくはパネルデイスカッションの司会を仰せつかった。
テーマが「こどもたちに原爆の悲惨な絵をみせることの是非」だったので、事前にぼくは幼児教育のプロたちに意見を聴いたが、「こどもたちには原爆の意味がわからず恐怖感だけが残りトラウマとなる」との理由で否定的意見が多かった。しかしデイスカッションでは「積極的に見せるべきだ」との多かったように思う。ぼく個人はどちらの言い分もそれなりにあると思いどちらだと言えないような気がした。

 2011/08/05 (金) 真夜中のできごと

今朝は、3時過ぎに消防車の拡声器で目が覚めた。消防車が家の前の道路を走って行った。拡声器は「火災報知器が作動し、現在、確認を急いでいます」を繰り返す。窓を開けて拡声器に聞き入る近所のひとたちもいれば道路を足早に歩いていくひともいる。


しかし、周囲を見渡しても火の手は見えない。多分火災報知器の誤作動なのだろうとぼくは思った。そのうち静かになったので嶺北消防署(0776-51-2000)へ電話した。

応答録音テープは、「3時2分に花乃杜一丁目附近で発生した火災活動は4時5分に終了しました」を繰り返していたが、よくわからない日本語だ。


花乃杜一丁目といっても広いのだ。建物名を具体的に伝えなければ、聞く立場の者には不安感が増幅されるだけだ。
火災活動とは何か。
誤作動確認を言っているのか。それとも実際に火の手があがっての消火活動を意味しているのか。
そもそも火災活動などという日本語があるのか。ぼくは聞いたことがない。


 2011/08/04 (木) 無題


昨晩は懇親会・・E気持ちで自宅に戻り布団になだれこんで熟睡した。
ぼくの寝室にはクーラーがないので、寝姿はパンツ一枚だ。


ぼくは見えないところに金をかける主義なので、パンツはE生地のEカラーデザインのものしか穿かない。寝姿をデジタルカメラで撮影し、この日記にアップロードしたい誘惑にかられることが時折あるが、誰が見るかわからないので誘惑を封印している。


そして、今朝は4時半に目が覚め、隠れ事務所に入り、仕事の準備を始めた。
遠くから蝉時雨が聞こえてくる。
蝉くんたちは長い間を幼虫として地面のなかですごし、成虫としてこの世に存在するのはわずか7日間だけだという。しかし、人生(というか蝉生)に長いも短いもないのだ。樹にしがみついて甘い樹液を吸いながら蝉時雨をかなでてほしい。しっかりと生を謳歌してほしい。


ところで
「蝉時雨」といえば藤沢周平だ。藤沢周平といえば「武士の一分」だ。
数年前に議員視察研修で大阪へ行った時、帰りのバスのなかでこのDVDを観た。観終わってから、「議員たちでこの映画をつくったらいいんじゃないか」という声があがった。


「主人公(木村拓哉役)は牧田以外にはいないだろう」とみなが言う。
「主人公の妻役は女性議員がひとりだから自然と決まり」とみなが言う。
「悪代官役は形相の点からM議員で決まり」とみなが言う。


映画制作は金がかかるのでスポンサー探しが大変だ。実現の可能性は極めて低い。

・お知らせ
この日記を御覧の独身女性で、有名人と結婚したい方がおられましたら、メールでご一報ください。


 2011/08/03 (水) 二行日記


いつの間にか8月だ。一年のうち最も暑い季節だ。
きょうも暑さにめげず頑張ろう。

 2011/08/02 (火) 忙しくなりそうな火曜日しかし夜には楽しみが待っている


7月27日に聞いた山折さんの講演を時々思い出す。「私は無神論者だけれども、霊魂の存在を信じる」という彼の言葉を思い出す。
何故なら霊魂の存在を信じざるを得ないような体験を、去年、ぼくもしているからだ。


ただし、山折さんのような学者ではないぼくはその体験の内容をひとに語ったことはないし今後も語ることはない。
語ることによって、思いが風化されてしまうことを恐れるからだ。


江藤淳のエッセイで、「日本人にとって、言葉は思いを運ぶ単なる容器ではなくて、言霊が葉のようにひらひら舞うさま。だから言葉は、発してはならない様々の禁忌を持つ」という意味の文章を読んだことがあるが、我々の言語体系のなかには他の言語に翻訳できない部分があり、それが言語の独自性あるいは立居振舞の独自性ということになるんだろう。


ついにカーナビを手に入れた。しめて¥15,800エン。今までのぼくはカーナビを不必要な贅沢品だと思っていた。人間の五感を堕落させるものだと思っていた。はやい話、助手席がカーナビの役目を担ってくれていた。
しかしひとに頼るのはもう止めようと思い、カーナビを購入した。
今から一時間の間に説明書を読み込まなければならない。

 2011/08/01 (月) 昨日の一日


案内状が届いていたので、昨夕、「金津中学校サマーコンサート」に出かけた。冒頭でPTA会長の挨拶があった。



ぼくも15年ほど前にこの学校のPTA会長をしていたのでよくわかるが、PTA会長の仕事は挨拶をすること。年間を通して「挨拶おじさん」となることだ。
あの頃は、殆ど毎日中学校へ出かけていたのを思い出す。


近くの席にぼくの前代の会長・Oさんがいたので、休憩時間は四方山話に興じた。
「牧田くん、こどもたちはこんなに純粋で溌剌なのに大人たちが社会を混沌とさせている。嘆かわしいことや」とOさんは言う。


自分の中学生時代を振り返ってみると、教師というのがみんな嫌いだったし、そのことでものごとを斜に構えてみる癖がついてしまった。とても純粋だったとはいえない。


加えてここ数年の間の個人的な体験が胸を去来してなんというかアタマがパニックになってしまった。


おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな 
と詠んだ芭蕉の気持ちがわかる。


帰宅し晩酌を終えてから、妻と人生を語り合い、9時に就寝。


・お願い
江戸時代の金津町は宿場町として有名で、「金津八日町に箒はいらぬ 揚屋小女郎の 裾で掃く」とうたわれたほどに遊女が多くいた町です。
加えて地場産業としては「鋏、毛抜き」の生産で有名でもあったのです。
今回、「金津町製鉄の歴史の展示」という企画が浮上しています。
このブログを御覧の善男・善女のみなさん。ご家庭の片隅に江戸時代製作の鋏・毛抜きがございましたら、メールでご一報ください。お願いします。