2011年09月

2011/09/30 (金) 九月最終日


昨日の午後は、JRあわら温泉駅東側にあるJA花咲ふくいの2階会議室にて手話講習会をおこなった。婦人部対象で受講者は二十人弱。これくらいの人数が質問もでやすくちょうどいい。


手話といえば、事務所竣工に伴い手話サークルが再開されます。

駐車場整備に伴い駐車可能台数がUPしました。
これまでは、集まりのある時車が公道にはみ出して近所の顰蹙を買うこともあったが、これからはその心配もないと思います。


注 手話サークルは毎週木曜日PM7:30ーに開かれます。どなたさんも自由にご参加ください。
今朝、議会事務局に於いてやっと原稿を書き上げた。ほっこりした気分で隠れ事務所に戻り一服。
外は雨がふっている。


「さあ、又新しい仕事に挑むぞ」という充実感と「こらえきれない悲しみ」とが交互に顕在潜在するへんな気分。

2011/09/29 (木) 本日は手話講習会


9月も明日で終わりだ。
晩秋の気配が濃くなってきている。


秋を楽しむゆとりなど全くない最近のぼくだけれども、気のおけない少数のひとたちと一緒の月見の宴だけは是が非でもやりたい。
満月の夜、竹田川川原に座り、「浴衣のキミはススキのかんざし ああ風流だなんて ひとつ俳句でも」と横に座る友の耳元にささやきかけたい。友はぽっと顔を赤らめるだろう。


それはさておき
昨日は芦原中学校訪問から始まった。校長の案内で体育館をじっくり見た。ついでに6月議会で議会側からその施工報告に関してクレームのついた国旗掲揚ポールも見た。「朝夕の定時に職員が国旗の上げ下げをやっている。本当はその時に音楽を流せるといいんだけども」と校長は言う。


芦原中を出たぼくは三国土木事務所へ向かった。
竹田川堤防法面の管理についての責任の所在を問うためだ。
「確かに牧田さんの言うとおり法面の管理責任は県にあります。でも県もカネがないんですよ。ボランテイアに頼るしかない部分もあるんですよ」と担当課は言う。
ボランテイアという言葉が嫌いなぼくが反論したら、「堤防は防災のための公共財産です。みんなで守るという意識も大切です。第一県費まかせといっても所詮みなさんの税金ですよ」と言われ、劣化頭のぼくは妙に納得してしまった。


自宅隠れ事務所に戻りサンドイッチ((¥230エン)を食べ終わったら、もう一時過ぎだ。広報編集委員会が始まるので愛車に乗って市役所へ行った。委員会は3時半に終了。
市役所を出る時、某介護施設の所長とばったり。「喫茶店へでも行こうか」ということになった。その時ぼくは尻ポケットの財布に入っているカネが¥40エンであることに気がついた。
「これでは珈琲代も出せないなあ」と弱っているぼくの前を某共産党市議が通り過ぎていったので、「千円貸して」と頼んだところ、市議は万札を出してくれた。さすが共産党は困っているひとの味方だ。

2011/09/28 (水) 本日は広報編集特別委員会

昨日の午前中は、議会活性化特別委員会が開かれた。
今回は、前回来て頂いた「福井県町村議会議長会 伊藤総括参事」による助言記録を土台とした意見交換、即ち、委員会本会議のなかでの討論・自由討議のありかたについてが主軸となった感あり。


ともあれ、10月下旬に予定されている議会活性化条例先進地視察研修を経なければ、細部の文言化はむつかしいだろうというのが委員全体の意見だった。



委員会終了後に帰宅し隠れ事務所で恒例の昼寝をしていたら福井市から来た従姉妹夫妻に起こされ、「竣工間近の自宅兼事務所を見せてほしい」と言われた。・・内覧会やね。


内覧後、「外壁板張りの部分が柔らかさをかもし出している。でありながらサイデイングの白と板張りの黒のコントラストが緊迫感をみせている。まるで孝男ちゃん(ぼくのこと)の顔みたいやね」と言われた。


そこで両方の写真を撮ってみたのだが、自分ではよくわからない。




2011/09/27 (火) 昨日の一日

昨日は出ずっぱりの一日だった。
建具屋さん宅へ行っての自宅兼事務所打ち合わせで一日が始まった。そのあとあわら市文化財保護委員宅で石碑についての教えを請い、それが済んでからは某宅での木枝拾的笹岡焼却場往復。
一服してから福井市の病院にいる知人の見舞いに行った。


帰りがてら、近所の男性から携帯電話が入り、「竹田川堤防法面の管理について行政に聞いてほしい」と言われたのであわら市庁舎へ。


所用をこなして隠れ事務所に戻ると、立て続けに来訪者3人。
うちひとりの方から、「本格芋焼酎・霧島」をいただいた。



これが一番嬉しかった。ぼくもいろんなリハビリを続けてきたが、適度な飲酒こそが最高のリハビリだと実感している。



2011/09/26 (月) 新しい週の始まり


昨日の夕刻
事務所竣工が迫ってきて何かと忙しいなか、合間を縫って三国の某喫茶店へ行った。




この喫茶店2階の目と鼻の先に眼鏡橋が見える。眼鏡橋を潜り抜けて出てくるえち鉄電車を眼下に見下ろすのはなかなか楽しい。


なんでもそうだけれども、我々の目と目に映るモノとは相対的な関係にある。アングルが変わればモノ自体も変わってくるのだ。熱々珈琲を飲みながらじっと見つめているとファンタジステイックな気分になって、同行したふたりの美しい(?)女性の存在が脳裏から消えてしまった。

2011/09/25 (日) 昨日の福祉大会

昨日の午前中、文化会館に於いてあわら市福祉大会が開かれた。
手話通訳のひとりは森瀬さん。今は認定手話通訳士として活躍なさっているが、昔は同じ釜の飯を食った仲間だ。
ぼくも議員にならずにいたら、今頃は同じように舞台の上でスポットライトを浴びる日常を送っていたかもしれない。
と思うとちょっと残念。





余談だが、手話通訳設置がほぼ福祉大会だけに限定されているのはおかしい。手話通訳者は聾唖者にとって耳であり、福祉関係以外諸々の情報を得たいはずなのだ。早い話、議会の傍聴なども保障されなければならないし、現に加賀の国では保障されている。


式典では、同じく手話通訳に励んでいるTさんが表彰されていた。
「デジカメで撮った顔写真をブログに出すぞ」と言ったら、「やめてよ個人情報よ」と拒絶されてしまった。


記念講演の演題は「減災の考え方と地域での協働」で講師は室崎益輝さん。二点、ミスリード言質も感じられたが、学者にしてはかたくなく、退屈しないで聞くことができた。

2011/09/24 (土) 本日は福祉大会

昨晩はDVDで「スパイ・ゾルゲ」を観た。篠田正宏監督の映画。
ゾルゲはロシア人の母とドイツ人の父の間に生まれ、ドイツ国籍を持ちながらソ連のスパイとして、第二次世界大戦前夜に、上海、東京で暗躍するが、その過程で元朝日新聞記者・尾崎秀実と知り合う。ふたりを引き合わせたのはあのアグレス・スメドレーだった。近衛内閣の重要ブレーンとなっていた尾崎から日本軍部の情報を入手し、それが独ソのモスクワ前面の攻防戦でのソ連勝利に結びつく。
特高はゾルゲグループの内偵を開始し、’41にゾルゲをそして尾崎を逮捕。ふたりは第二次世界大戦終結の7カ月前に死刑を執行された。


ゾルゲ事件のことは、20歳過ぎのころ、尾崎秀実の弟秀樹が出版した本によってうっすらと知ってはいたが、昨晩観たDVDによってそのデイテールが垣間見えたような気がする。尾崎がユダとも呼ばれていた理由もわかった。
しかし、上海で中国人が欧米列強から過酷な搾取を受ける現実を直視し、共産主義運動に死を賭して身を投じたという意味で殉教者である。


余談だが
尾崎秀実に扮した本木雅弘がなかなかの味を出していたと、ぼくは思う。

2011/09/22 (木) 昨日の議会


昨日は議会定例会最終日。
午前9時半から全員協議会。本会議は午後1時半から始まった。


議案第63号 平成23年度あわら市一般会計補正予算(第2号)
議案第64号 平成23年度あわら市国民健康保険特別会計補正予算(第1号)
議案第65号 平成23年度あわら市後期高齢者医療険特別会計補正予算(第1号) 
議案第66号  平成23年度あわら市水道事業特別会計補正予算(第1号)
議案第67号  あわら市暴力団排除条例の制定について
議案第68号  あわら温泉湯のまち広場条例の制定について
議案第69号 あわら市防犯隊設置条例の全部を改定する条例の制定について
議案第70号  あわら市条例等の一部を改正する条例の制定について 
議案第71号 あわら市小中学校施設の利用に関する条例等の一部を改定する条例の制定について
議案第72号 字の区域及び名称の変更について
発議第3号 地方財政の充実・強化を求める意見書
発議第4号 安心・・安全な地域づくりと農業の発展に向けた意見書


付託された議案に対する質疑内容に関しては
総務文教常任委員会の三上委員長と厚生経済常任委員会の山田委員長が報告した。


ここに書こうと一端は思ったのだけれども、字数が膨大になるのでギブアップ。議会だよりを御覧になるなりケーブルテレビを御覧になるなり両委員長にお会いになるなりしてください。


余談ですが、現在議会活性化委員会での討論が続いています。
まとまり条例化された暁には議員団が各地区へでかけ報告することになるでしょう(これは議員個人個人が各地区でマイク持つのとは別)。


上記の議案に対する採決では
議案第63号、議案第71号及び発議第4号が賛成多数で可決され、その他の議案が賛成全員で可決されました。


議会終了後、喫煙室に入ったらそこへ某公明党市議が入ってきた。ぼくは創価学会が好きではないが、「今の選挙のありようはダメだ」という意見ではお互いが一致した。


隠れ事務所に戻ると来訪客二名。
三帖のプレファブでは、来訪客二名の応対が精一杯である。やっぱり「方丈記」を書いた鴨長明のようにはなれないなあと思った。



2011/09/22 (木) 本日は議会定例会最終日

国会議員の歳費は年額約2200万円(手当てを含めた総額は約4200万円)これに秘書3人分の給与が2000万円を楽に超える。

議員数削減よりもこの額削減が大切だ。議員数削減では官僚が喜ぶだけだ。議員数を削減するよりもこれらの待遇を削ればいい。それが嫌なら議員にならなければいいのだ。それでもなおかつ議員として国民のために働きたいという人間だけが議員になればいい。議員数を減らすことで喜ぶのは官僚で行政に対する力が弱まる。


国会議員は国の為に働く。働く場は国会だ。今は平時ではないのだから年中国会を開いていればいい。それだけの歳費を充分与えられている。選挙区でのリップサービスなど次の選挙を考えることは二の次だ。


2011/09/21 (水) 再び深夜パト

市政掲示板no320「日本海の夕景色」(素人さん)の写真がとても綺麗だ。ダブルクリックすると、ますますそう思う。どこで何をしていても、夕陽が目に入るとついつい見とれてしまう性質(たち)のぼくはすぐにシャッターを切るのだが、これほど魅惑的な写真を撮れたことがない。


夕陽を眺めながら、過去の日記に夕陽恋を書いたこともあるぼくは、7月28日に山折哲雄さんが、日本海の夕陽と偉人たちをテーマに講演したことを思い出した。
雨脚が激しくなってきた午前3時半、ぼくは昨夜に引き続き深夜パトロールに出かけた。あわら市庁舎を通り過ぎる時灯りが点いていたので中に入った。市職員が二名居た。
防災的観点での市民からの通報を想定して待機しているとのことだった。


4時を過ぎた頃から、新聞配達が目に入るようになった。夜中に活動している人も沢山いて、それがしゃばというものだろう。




注 上写真は自宅裏竹田河畔(午前8時撮影)





注 上写真は観音川細呂木橋附近(午前11時撮影)


2011/09/20 (火) 深夜パト

深夜に雨音で目が覚めた。寝所の樋が破損しているので屋根面から落ちる雨滴の路面を叩きつける音がやかましい。


311以後、防災に関してナーバスになっているぼくは、車に乗って先ず竹田川堤防沿いを走った。



次に宮谷川沿い、黒谷川沿い、観音川沿いを走った。豪雨とまではいかないので、幸い水面高の危険ラインまでには充分余裕がある。


しかし・・
昨日のあわら市は非常に不安定な天候で、午前中は黒雲の下、雨が降り続いていた。午後になると雨は上がり見事な秋晴れとなったのだが、夕刻から再び雨模様となった。当然、地下は冷やされ暖められが繰り返される。このような時は要注意だ。


大地震のあとの繰り返される余震が建物を疲労させ脆性破壊を起こしやすくさせるのと同じように、大型台風で脆弱となった山間部の法面地盤がその後の雨風によってダメージが与えられるのと同じように、怖いのは波状攻撃である。ボクシングでいうところのボデーブローである。


2011/09/19 (月) 昨日の日曜日

昨日は、金津小学校のグラウンドにいた。運動会が開かれた為だ。
鉢巻を締めてショートパンツを履いた子どもたちは元気溌剌で、ぼくがこの小学校のPTA会長をやっていた十数年前とその風景は全く変わらない。不易流行だ。


PTA時代はぼくの半生の思い出として濃厚なもののひとつだ。あの頃のぼくは挨拶おじさんだった。副会長たちと牧田事務所2階で開いた宴の数々が忘れられない。





運動会プログラムの四番目は、来賓が出場する「宝つり」だった。釣針でしとめた獲物の包装紙を開けると、それはフロッピーデイスク入れボックスだった。恐らく百金ショップで買ったものだろう。
何にせよありがたく頂戴せねばとは思うが、今はUSB全盛の時代だ。誰も使わないだろう。



五十嵐財務副大臣が、「国と地方自治体の借金の総額が、国内の個人の金融純資産額を初めて上回る可能性がある」としゃべったそうだ。
「ついにきたか」という感じ。


運動会に行く前、TVカメラに映し出される北朝鮮の生活の実態を見ていたのだが、一緒に見ていた妻が「北朝鮮の子供たちを貧とし日本の子どもたちを富とする見方は表層的。日本のこどもたちのひとりひとりが生きる充実感を味わえる社会となっているか」と言う。
聴いていたぼくは、小説家の村上龍が以前さかんに言っていた「ファーストプライオリテイ」という言葉を思い出した。


2011/09/18 (日) 未明にチーズバーガーを食べながら

ぼくは建設中自宅兼事務所の現場を覗きにいくのを日課としている。本日も夜明けの薄明のなかで建物内部を歩いた。


生活の容器である住宅は、雨風や地震に対するシェルターの役目を一義的には担っている。加えて(特に木造住宅は)外部との親和関係を大事にする。純和風建物によく見られる縁側などがその典型だ。
内部であるような外部であるような空間。この空間は内外部を結びつけあるいは遮断するという意味で「結界」と呼ぶのがふさわしい。
しかし資金にゆとりのない牧田邸の場合、縁側を造ることはできなかった。


建物に自然光がどう入ってくるのかを考えるのは楽しいし有意義でもある。薄明を歩くと自然光の微妙な変化が心身に伝わってくる。電気照明は自然光に対する黒子と考えたほうがいいだろう。
照明の本来の役割は、光をあてるというよりも影をつくることにあるのではないか。このことについては谷崎潤一郎が随筆・「陰影礼賛」で詳しく書いている。


建物を出たところで近所のひとに呼び止められ、新聞記事になった給食センターのことを聞かれた。「総務文教常任委員会」を傍聴した時、これのテーマで喧々諤々があったが、そういえば新聞記者が傍聴に来ていた。新聞の影響力は大きい。
「ペンは剣より強し」だが、ペンの矛先が邪悪では話にならない。
今の新聞そうではないと言い切れるか?


2011/09/17 (土) 深夜に雨音を聞きながら

仏も昔は 人なりき 我等も終には 仏なり
三身仏性 具せる身と 知らざりけるこそ あはれなれ

仏御前は、梁塵秘抄に収録されているこの今様を捨て台詞にして、寵愛を一身に集めた平清盛のもとを去り、尼僧となって嵯峨野の往生院に入り、その後ふるさと加賀国に戻った。

昨日の午後二時から「加賀国めぐり仏御前ツアー」が計画されていたのだけれども(といっても友人どおし4人だけの乗用車ツアーなのだが)、「厚生経済常任委員会」が午後に延びていったので、私はこのツアーに参加することができなかった。

古来、「英雄の陰に女あり」とよく言う。凡夫の私でさえ誤解ではあるけれども「陰に女あり」と噂されているらしいのだから、「英雄の陰に女あり」が人口に膾炙しているのは当然だ。

きらびやかな白拍子であった仏御前の光と陰は、男女の憎愛の物語として、「平家物語」で詳しく語られている。
語り物としての「平家物語」は、漢語満載なので読みやすい。リズミカルだ。
もうひとつの長編「源氏物語」は光源氏と源氏をとりまく高貴な女性たちとの男女の機微を描いた作品らしいが文体が和語なので、凡夫の私にはさっぱりわからなかった。だから私にとっての古典とは「平家物語」オンリーだ。

2011/09/16 (金) もう週末か

この二枚の写真をじっと見ていただきたい。そして上側の写真をダブルクリックしていただきたい。


稀な高級大吟醸をぼくは昨日の午後5時からひとりちびりちびりと飲んでいた。
あまりにも美味しい酒は散文で形容のしようがない。

大吟醸 それは音楽
大吟醸 それは詩
大吟醸 それは絶世の美女

ああ!そうだ。
こんなことを書くのがきょうのブログの目的ではなかった。

昨日は午前9時半から、「厚生経済常任委員会」が開かれました。
所管は、市民福祉課・福祉課・子育て支援課・健康長寿課。

予算書外で質疑に多くの時間が割かれたのは「平成24年度からの地域公共交通について」でした。
今までのコミュニテイバス方式をデマンド交通方式とする案をめぐってのもの。
その他いろいろありましたが、議会最終日(22日)の本会議で、厚生経済常任委員会委員長が詳しく述べるはずです。議会傍聴あるいはケーブルテレビを御覧ください。

夜は宇都宮高栄氏による講演会・「金津とたたら」
「まちの活性化は歴史の掘り起こしから」を信条としているぼくには、格好のテーマで秋の夜の二時間を気分よくすごすことができました。
市政掲示板に、とんぼさんも詳しく書いています。

2011/09/15 (木) 昨日の一日

昨日は、「総務文教常任委員会」を傍聴した。所管は教育委員会。
第63号議案・「平成23年度 あわら市一般会計補正予算(第2号)」のなかの所管に関する説明のあと、委員側からの質問。
今から冬場に向かっての各小中校の暖房整備に関する説明のあと、両山川委員からの意見が相次いだ。聴いているぼくの思いは両山川氏とは違うのだが、それにしても教育委員会の答弁は、ちょっとピントはずれの感あり。

ぼくが本当に聴きたかった給食センターに関する質疑は午後に持ち越されてしまった。(私的なことだが)トラック運転笹岡焼却場数回往復の予定が入っていたぼくは、後ろ髪の引かれる思いで帰宅。

焼却場往復が済んだあと、妻と一緒に創作の森へいった。先日友人がここで喫茶店を開いたので、珈琲を味わいに行ったのだ。
友人は陶芸を教えているので、師の大森さんともどもの陶芸作品がコーナーに飾られている。勿論、買いはしなかったが、たまにはこういう雰囲気を味わうのも悪くはない。

あ!そうだ。
本日は講演・「金津とたたら」があります。興味のある方は是非ご来場ください。場所はIR芦原温泉駅前のアンテナショップ「あわらてな」。行けば、すぐわかります。

2011/09/14 (水) 未明におにぎりを食べながら

「♪右をむいても左をみても 真っ暗闇じゃあ ございませんか・・(鶴田浩二)」のこの日本で、唯一ぼくの心をなごませていたのが、つい一週間ほど前までの
阪神タイガースの頑張りだったが、また負けはじめ昨夜の対ドラゴンズ敗戦で終に4連敗となり、優勝旗ははるかに遠のいてしまった。
「♪上をむいても下をみても 真っ暗闇じゃあ ございませんか・・(牧田孝男)」である。
この気分でタイガース戦TV中継を見るのは体に悪い。シーズン最終盤には甲子園球場へ行こうと思っていたのだが、それも止めた。

ということで、本日は午前9時半から「総務文教常任委員会」。
ぼくはこの委員会の委員ではないのだけれども、傍聴に行こうと思う。
昨晩も寝付かれなかったぼくは、「パニック障害に悩むあなたへ(みわ著)」を読んでいた。(注:著者のみわを漢字変換できない)

パニック障害という聞きなれない名の障害治療が日本で始まったのは、1994年頃からだそうだが、殆どの人にとって無縁である。
ぼくには、繊維筋痛症化学物質過敏症の知人がいるが、これらの症状も難病であって病院関係者以外、世間的には全く認知されていないと言っていいだろう。認知されていないことは、予断と偏見を受けるもととなる。
その意味で当事者はその症状を少しでも多くの人に知って欲しいのだ。

政治の本来の仕事はマイナーな部分に光を当てること。


2011/09/13 (火) 沖永良部島 
 
寝付かれない午前2時。
自宅後ろの竹田川べりを歩くと、空には中秋の名月が浮かんでいる。秋の虫の音がBGMとなって、「♪・・ああ風流だなんて ひとつ俳句でも・・」という気分になるが、句心のないぼくにそれは不可能だ。

満月を見て思い出すのは沖永良部島
若い頃の60日間をこの島北端の牛小屋2階で過ごした。はじめは一人で住んでいたのだが、最後にはワケアリでこの島に流れ着いた若者たち6人での共同生活の場となっていた。

満月の夜には地下足袋を履き左手にカンテラ右手にヤスという完全武装のいでたちでサンゴ礁を歩いた。
サンゴ礁のあわいに眠っている熱帯魚が面白いほど獲れた。
星砂の上にしつらえた大鍋に獲物を放り込み、黒砂糖焼酎のつまみとした。

わかったことは、エンゼルフィッシュなど美しい魚の味はまずいということ。
逆に美味しかったのはハリセンボンとかエラブウナギなど奇怪な姿をしていた。
人間も又同じで、例外はあるとしても、表面の美醜と内面のそれとは逆なのじゃなかろうか。

♪永良部百合の花



 2011/09/12 (月) 無題


本日は一般質問で、質問者は6人
その模様は今議会終了後、ケーブルテレビ29チャンネルで放映されますので、興味のある方は是非御覧ください。


一般質問終了後は広報編集特別委員会。新しいメンバーによる第一回目の委員会だった。


終了後、隠れ事務所に戻ってからは、蒸し暑いので缶ビール片手にひたすら読書。最近のぼくは山折哲雄に凝っているので、彼の著書・「涙と日本人」を読みながら、「無常観」について考えていた。
 2011/09/11 (日) 9月11日


昨晩、ぼくは「本格いも焼酎」をひとり静かに飲んでいた。というのは嘘でひとり酔っ払っていた。天空の満月がゆらゆら動いて見えた。





酒のつまみは、野坂昭如著・「この国のなくしもの」。



福井県に縁の深いこの小説家のデビュー作は「エロ事師たち」で、20歳の頃に4帖半下宿でこの小説を読んで、そのハチャメチャぶりに腹をかかえて笑い転げた。その後小説は一冊も読んでいないが、週刊誌で彼の雑文をよく目にしてきた。


著者は現在、脳梗塞後のリハビリに余念がないはずだが、この本は1997年発行とあるから倒れる前の著書であり、13年後の今日(こんにち)を予言したかのように、世の乱れをうれいている。それくらい嗅覚の鋭いひとだ。
 2011/09/10 (土) 佼成議員会

昨日の午前中は武生商工会館に居た。福井県佼成議員協議会定期総会が開かれた為である。





冒頭挨拶のなかで、立正佼成会福井教会長・佐藤氏が「無縁社会」のことを述べていたのが印象的だった。


このテーマについては9歳年下の妻が晩酌時に、「おとうさん(ぼくのこと)ら団塊の世代が悪いんや。理屈好きで個ばっかりを主張した世代や。団塊の世代は敗戦後に生まれた世代や。考えてみれば、敗戦国になるということは悲しいことや」と、いつも言う。
ぼくらは、次世代に悪影響を与えているのだ。立脚基盤を「自己否定」とすることが、生きる道かもしれない。


総会終了後の昼食時に隣席の坂井市議から、あわら市議会初日での副市長再任議決の騒動を聞かれた。「人事案件でもめるのはイヤなことや」とぼくは答えたが、答えながら「でも俺も4、5年前に議長不信任決議案を提出して議会でしゃべったなあ」という思いが脳裏を走った。


隣席市議から、「牧田さんは市長派・反市長派の構図を超えて第三の派をつくったらいいのではないか」と言われ、しかし「最近は、歴史と宗教への思い入れが強いんですわ」とぼくは答えた。


家に帰って、「政治とは何か、歴史とは何か、宗教とは何か」というコウショウなテーマに思いをめぐらせていた時、某共産党市議から電話が入った。
「まきちゃん、こないだの座談会で中島道子さんがとりあげていた哥川の句ってどんなんやったけな?」と言う。


おく底の しれぬ寒さや 海の音  である。
まるで今のぼくだ。
 2011/09/09 (金) 議会活性化特別委員会


昨日の議会活性化特別委員会は、アドバイザーとして福井県町村議会議長会事務局の伊藤氏を招いた。
即ち、今までの数回にわたる委員会で出てきた把握のむつかしい文言を二時間半に渡って解説してもらったのである。


例えば、基本条例の文言は懇切丁寧がいいか簡潔がいいか?
例えば、「会議を定刻に開催」など当然の文言を入れる必要性は?
例えば、全員協議会の公開に関するエトセトラ
例えば、「傍聴者の求めに応じて資料を提供する」とあるが、全ての資料公
     開か?
例えば、提出議案のホームページなどでの公開時期は?
例えば、市長の反問権の範囲は?   等々だった。


二時間半に渡る伊藤氏と委員のみなさんとのやりとりを、この日記で忠実に再現する筆力など、当然のことながらぼくにはない。
それができるとしたら、プロの文章家だけだろう。
だからこそか、委員会へのTVカメラの導入もこれからの会議如何で選択肢として入ってくるかもしれない。


伊藤氏は、「あわら市の住民3万人が皆議員であればいいんです。けれどもそれが物理的に不可能だから、議員代表制となっているんです」と言っていた。
確かにそうであり、だからこそ議会や委員会の公開性は大事なのである。


次回の委員会は9月27日午前9時半からです。


特別委員会終了後、ぼくは中学時代の同級生Yくんが経営する蕎麦屋へ行った。おろし蕎麦を食べているぼくにYくんは「牧田、3年前に倒れた時、死ななくてよかったなあ。手足や脳のマヒなどドンマイや。同級生の誰某彼某など死んでしまったぜ」という。


あの時死んでいたら、ぼくは鷺草となってこの世を見つめ続けていただろう。とにかく生きている限り死はやってこないし、死んだら死は意識されない。だからドンマイだ淡々と生きていくだけだ。
 2011/09/08 (木) 昨日の一日


昨日は、大型台風の影響で順延となっていた金津中学校の体育祭が開催され、ぼくもしばらくの間会場に居た。生徒たちは元気溌剌だ。
個人的な感想を言わせてもらうならば、今の女子生徒たちが履いている青いショートパンツよりも、昔の女子生徒たちが履いていた黒いちょうちんブルマーのほうがいい。


閑話休題
台風一過の抜けるような青空には雲ひとつ浮かんでいない。
と同時にこの青空のつながる先には、100名以上の死者行方不明者を出した和歌山地方の爪あとが見えてくる。


途中で会場を抜け出し、市庁舎での「環境調査特別委員会」に臨んだ、
委員会は午前中に終了し、ぼくは駆け足で建設中の自宅工事現場に戻った。


妻や現場監督、電気工事業者、内装業者との定例打ち合わせだ。
続いていた定例打ち合わせも今回がほぼ最後。あとは竣工が待っているだけ。自宅にはぼくの事務所も割り与えられている。
何の事務所かよくわからないが、とにかくそこは人生の再出発かつ終焉の場所となる。少数の気のおけないひとたちとの、なんやかんやを語り合う場としたい。


打ち合わせが終わってから、鷺草(写真右)に水遣りをした。白い花弁にはいつもひきつけられる。これで押し花をつくれないかとも思う。
市政掲示板・NO312・・とんぼさんの世田谷の民話「鷺草(さぎそう)を是非御覧ください。


鷺草水遣りのあとは、モンステラ(写真左)水遣りだ。持ってきてくださったひとのことを想いながら。

本日は、午前9時半から、「議会活性化特別委員会」があります。
 2011/09/07 (水) ホームページ復旧


この三日間、ホームページ作製ソフトのプロバイダー接続が不可能となっていたので、パソコン専門店で診てもらったところ、本日やっと復旧し接続可能となりました。復旧費は500エンで東日本大震災復旧費と比べれば随分と安いものですが、最終的に頼りになるのはやはり専門店です。


この三日間の間に9月議会定例会が始まり、議会初日の副市長再任人事案件では6名の議員の反対があったり、環境調査特別委員会がひらかれたり、考えさせられる携帯電話がいろいろ入ったりとあわただしかったのですが、リアルタイムでお伝えすることができず、ちょっと残念です。


北方謙三著・「血涙」上下二巻を読み終えました。9世紀の中国・「宋」と「遼」との戦いでの英雄伝物語ですが、ハードボイルド派に属するこの小説家は、「命をかけた戦いに挑まない男の人生はただ腐っていくだけだ」と言っています。
 2011/09/04 (日) 鷺草撮影を終えて


台風の接近は、週末の生活にいろんな影響をもたらしている。
昨日東京から帰省する予定だった妹は北陸線の特急が運休ということで、帰省を断念した。金津中・芦原中の体育祭は順延を余儀なくされた。


福島原発事故と違って、台風は天災だ。仮に結果として甚大な被害をもたらしたとしても、我々は天を見上げているしかない。昔、柳田邦男編・「伊勢湾台風の記録」を読んだ時、背筋が凍りついたのを覚えている。


我々は生を担保されて日々を送っているのではなくて、生死を分かつ塀の上を歩いていると思うべきだろう。死を考えることが、生を逆照射すると思うべきだろう。


高校時代の古文で、台風の古語が「野分」であることを知った。そのせいで、台風が来たり強風が吹いたりすると、脳裏に、山すそのススキなどが激しく揺れるさまを思い浮かべる。


そうだ。今年の秋は時間にゆとりができた時、山すそを歩きまわろう。
 2011/09/03 (土)) 曇天模様の土曜日


私が、15年間、設計事務所として使っていたプレファブ事務所が場所を変え、農業倉庫としてこの世に再び姿を現した。





この建物は金津中学校同窓会会長・Oさんの依頼によって建てたものだ。
即ち、「金津中学校創立50周年記念事業」の事務局に2階が充てられ、ぼくと妻は1階に逼塞していた。しかしちゃんと家賃を頂いていたからそれでいいのである。
夜な夜な沢山のひとが来て会議をやっていたなあ。
「三九会」や「まきぽん会」の溜まり場になっていたこともある。
思い出すのは、中学校統合or二校維持問題華やかなりし頃、二校派の溜まり場になっていたこと。
しかし、それらは表面に見えることであって、実態は「酒と薔薇の日々(マリリン・モンロー)」だった。何十回何百回おでん焼肉焼きうどん宴会を開いたことだろう。今の私からは想像できない自堕落な日々の容器だったのだ。
加えて言うならば(あまり大きな声では言えないが)、私のGFたちが来る場所でもあった。


あれから幾星霜。
新しい自宅兼事務所が10月に完成する。



プレファブ事務所の嫁ぎ先となってくださったOさん、ありがとう。
 2011/09/01 (木)  昨日の一日

ボクシング・清水選手勝利で書くのを忘れてしまったのだが、一昨日の議会活性化特別委員会での論議で焦点になったもののひとつが、「議会・委員会での市長の反問権の扱い」だった。例えば一般質問で、市長が質問者に対して逆に聞くことは現在の時点では認められていない。しかし質問の趣旨が不明確な場合、趣旨確認の為に市長が反問したくなるシチェーションは確かに想像できる。ただ、反問の範囲が広がってしまえば一般質問の体(テイ)がややもすると崩れてしまうのではないか。
等々の議論となった。
条例文章確定までには、まだまだ時間がかかるだろう。
次回の議会活性化特別委員会は、9月8日御前9時半からです。



明けて昨日の午前中は中島道子さん以下5名が伊井地区の応蓮寺にいた。南北朝時代の武将・畑時能ゆかりの鉄笛及び関連文書を見るためだ。

 

小説家は83歳という高齢にも関らず矍鑠としたもんだ。我々一般人には想像できない程言語は明晰だ。


午後は芦原温泉某旅館において「FーTOP21&連合福井 政策・制度学習会」が開かれた。
学習会の講師は、連合本部・副事務局長の逢見直人氏。
連合という組織の性格上、話は多岐に渡り、よく言えば広範悪く言えば総花的。いろいろ勉強になったのは確かだが、アタマにしみ込むまでには時間がかかるだろうと思った。

午後1時に始まって終了したのは5時・・疲れました。

 2011/09/01 (木)  きょうから九月


きょうの福井新聞には「ボクシング・清水選手勝利!」の記事がでかでかと出ている。なんせ福井県初の世界チャンピオン誕生だ。
妻の後輩でもあり息子の先輩でもあるから「よかったよかった」なのだ。


亀田の対極とも言うべきあの端正顔がいい。端正な顔は相手のパンチをかわす技量の卓越さをあらわしている。


ボクシングといえば、二年前に逝った親父もボクシングをやっていて、その裏話をいろいろ聞いたことがある。やばい話もあるのでそれらは省くとして
「わしはピストン堀口の高弟と戦って一ラウンドもった」と自慢げに語ったのを覚えている。
「一ラウンドもった」ということは「二ラウンドもたなかった」ということであって、それが何故自慢になるのだろうかとも思うが、ピストン堀口は空手界の異端児・大山倍達とお互いに尊敬しあっていたそうで、ま、伝説的存在の高弟とグラブを交えることができただけでも、嬉しかったのだろう。