2013年01月


2013/01/31 (木) 一月最終日

本日の朝日新聞34面に「核なき世界へ」というタイトルで歌手・加藤登紀子の談話が載っている。内容は「反核・反原発」でさして目新しいものではないのだが、私はこのひとの写真を見ているうちに、30数年前のある日を思い出した。

その日の晩、加藤は福井市文化会館でコンサートを開いた。コンサートが終わってから、彼女の個人的な友人・松浦さん(故人)の計らいで、市内大名町ロータリーにあった店・「未完成」に十数人が集まり、「彼女を囲む会」が開かれた。松浦さんからその会の司会を仰せつかった私は、緊張しつつ彼女の前に座った。1メートルの距離で総理大臣より有名な大スター・加藤登紀子と対座しているのだ!。

私は驚いた。よくしゃべる彼女は、大人の色気に加えて酒が強い。そして、もっぱらウイスキー一筋だった。確かあの頃の加藤は「シャンソンの女王」と呼ばれていたが、「ウイスキーの帝王」でもあったのだ。喋りながらさしつさされつしているうちに私は前後不覚に陥り、椅子に座りながら高いびきとなってしまった。

・・司会者が寝てしまってもそれが許されるおおらかないい時代だった。・・

私は大合唱で目が覚めた。みんなが加藤登紀子を取り囲むようにして、「黒の舟唄」を唄っていた。その光景は今でも脳裏に焼きついている。

昨晩の10時頃だったか、私は某市議の電話で起こされた。
「まきちゃん!あのなあ、福井新聞に杉田定一のことが載ってるぞー」だった。杉田定一は、昨年の「ふるさと語ろう会」でも取り上げている。

杉田定一
1851~1929年(嘉永4~昭和4)
衆議院議長、貴族院議員。旧鶉村(現福井市)の豪農、杉田仙十郎の長男に生まれ、鶉山と号した。10代の幼年期三国滝谷寺の住職、道雅の薫陶を受け、後に藩儒吉田東箒の門に入り修行した。1868年(明治1)医学修行のため6カ年の予定で上京、下谷の三崎塾に入門したが、当時の世相は静かに医学を勉強せしめるものではなく、漸次彼に政治に対する深い関心を育てさせるものがあった。彼はひと度帰郷後、再度政治家を志して1875年(明治8)上京、まず「采風新聞」の記者として活動を始め、続いて「中外評論」「草莽事情」などの反政府的言論機関に関係し、筆禍を受け
入獄することもあった。西南戦争後は土佐の板垣退助を中心とした自由民権運動に挺身、越前に自郷社(民権政社)を起し、国会開設請願運動に尽力するとともに、一方越前七郡に展開された地租改正運動の指導者として奮闘し減租を獲得するに至った。なおこの時期に彼の政論を一冊の「経世新論」にまとめ出版し、そのために3度筆禍をを受け6ケ月の禁獄に処せられた。出獄後、1882年(明治15)に南越自由党を結成、党の機関紙「北陸自由新聞」を刊行した。そして同党はいったんは越前における政治活動の拠点となったが、結局翌年活動を停止し、彼もまた上京、自由党の党務にかかわることになった。さらに翌1884年(明治17)アジアにおける国際情勢の緊迫の下に渡清して上海の東洋学館の創立に尽力したが、意のごとくならず帰国した。かくして彼は転換期を迎えつつあった政治情勢に対応すべく、また新党の期待にこたえるべく、欧米社会の現実を、特にその議会政治の実体を勉学するために1886年(明治19)7月、2年間にわたる欧米旅行に出発した。そして帰国後の彼を待っていたのは議会開設を目途とする大同団結運動のうねりであって、彼を中心に南越倶楽部の結成を見ることになった。時代は明治憲法制定、議会開設へと進んでいくのであるが、彼は第1回の総選挙に当選、以来明治の終わりまで第4回を除き、すべての総選挙に当選、有数の議会政治家の1人としてその名を残した。すなわち憲政党内閣の下で北海道長官、第1次西園寺内閣の下で1906年(明治39)衆議院議長に、またその間に立憲政友会の幹事長にと1912年(明治45)貴族院議員に勅撰されるまで、政党の第一線の重鎮として活躍した。また彼は福井の絹織物業の発展や、九頭竜川改修工事、三国鉄道の敷設などに尽力し、大正から昭和の初めにかけ政界の長老としてわが国の政治に貢献した。

きょうの朝、図書館から電話があって「「義経記」の「吹上の段」について、その出典を知りませんか?」と、問われた。

「義経記」とは読んで字のごとく、源義経の生涯の記録である。壇ノ浦で平家一門を海の藻屑と化した源氏軍の総大将・源義経は、畏怖堂々と京の都へ凱旋したのだが、百戦錬磨の後白河法王に懐柔されてしまう。怒った総大将・源頼朝は「義経追討令」を全国に発布する。

軍事の天才ではあっても政治オンチで色ボケの義経は武蔵坊弁慶と共にひたすら北陸道を北上し、平泉・中尊寺を目指す。その過程で歌舞伎・「勧進帳」のモデルとなった「安宅の関」事件が起こるのだが、実はその前に「吹上の谷」事件を彼らは経験している。

その真相を概略で言うと・・
正体を隠すために蓑傘をかぶった義経一行は北陸道・金津エリアに入り、牧田家住宅前を(牧田家住宅とは私の先祖の本家宅で、昔は庄屋をしていたらしいので、恐らく合掌して)通りすぎて行ったことだろう。千束地係に入った時、前方から約20名の侍集団が歩いてくる。
ヤバイ!と思った義経は集団一行とすれ違う時下を向いていた。
その時、道の東側の谷(小字・吹上の谷)から一陣の風が舞い上がった。当然義経の顔はあらわとなる。
しかし侍集団の棟梁・井上某は偉かった。義経を捕まえれば莫大な報奨金をもらえたはずなのに、「義経殿、ご無事にお逃げくださいまし」と囁いてそのまま去って行った。
義経は感激し、去っていく集団に向かって「井上家の家系に、7代に渡って弓馬の道の栄えあれ」と祈り合掌するのである。

2013/01/30 (水) 本日は全員協議会

きょうは誕生日。勿論、誕生祝いが欲しくて書いたのではない。

満64歳は戦前の日本人の平均寿命を既に超えているので、これからは「いつなんどき死んでも悔いはない。その覚悟で頑張っていこう」といういわば決意表明として書いていたのだが、その最中に某女性からメールが入ってきた。

その内容を書こうとした時、時計は既に午前9時を過ぎている。全員協議会が始まるのでもう出かけなければならない。

この続きは午後に書きます。


①そのメールにはこう書かれていた(個人情報保護のため前略、後略)。

おはようございます。中略・・ほんの少しお土産があるのでお会いできたらと思います。・・後略

そして僕は人目を忍んであったのだが、そのお土産は「誕生祝い」ではなく愛のお土産だった。

①「ウーン世の中、縁やなあ」と思いながら、自宅に戻ると、こういうメールが入っている。

お誕生日おめでとう~[オメデトウ]
[拍手][拍手][拍手][クラッカー][クラッカー][クラッカー]


①さらにコンテンツ「声の広場」をあけると、こういう「声」が入っている。

お誕生日 お・め・で・と・う・!

 うんと長生きしてね!

 飲みすぎ は 駄目だよ!

 薬も毒になるからね!?

 来年のお誕生日も祝いたいからね!!


この女性達は、僕の潜在的愛人候補に違いはなかろう。そう思うと、「よおし、一日でも長く生きよう」と、珍しくアップビートの気分になった。
誕生日でさえこうなのだから、バレンタインデイはどうなるのだろうか。

2013/01/29 (火) もうすぐ2月

昨晩の来訪者との話で、私は自分としては珍しく最初から最後まで真面目だった。
来訪者帰ったあと、外に出て一服。夜空を見上げながら、私は人生を短く振り返ってみた。

典型的な団塊の世代の私は、戦後の混乱のなかで生を受けた。馬車馬のように寡黙に働きづくめる両親の背中を見て育った私は、後年(こうねん)、親父にもお袋にも戦時にすごい秘話のあったことを知る。

小学生時代、家にはラジオがあっただけで、遊びは勿論野外。当時、自宅周辺は森が鬱蒼と茂り、竹田川はまだ護岸化されていなかった。そういうところへ友人たちと遊びに行くということは、神秘を求めて八百万神を探して探検することにほかならなかった。今のこどもたちとはまるで違う遊びの舞台。

確か小5の年に当時の社会党委員長・浅沼稲次郎が、演説中に、17歳の少年・山口二矢に刺殺され、中1の年に当時のアメリカ大統領・ジョンFケネデイが銃撃され亡くなった。何故そういうことが起こるのか全くわからなかったけれども、テロリズムに対する漠然とではあっても恐怖感を初めて持ったのがこの時だった。

その後、日本は高度経済成長からバブルへと突き進んでいくのだが、この間水俣病を初めとする公害が頻発し、おおきな社会問題となった。三国のお寺本堂で砂田明さんの一人芝居を観た時の印象は、「ひとの命をむしばむことが経済の成長の基礎にあるのではないか」という思いだった。

70年代の政治の季節終了とともに経済は発展し、しかし80年代の日本では、既に買い替え需要しか望めなくなっていた。ものが行き渡った先では、欲望を刺激するしかない。だから、必要ではないにもかかわらず、あたかもそれがないと暮らせないようにあおった。

結果として到来したのが現在のような乾いた社会で、僕は段々と「人生、死ぬまでの暇つぶし」と感じるようになってきた。

2013/01/28 (月) 久しぶり(でもないか)の宴会

昨晩は、6人が集まっての勉強会的宴会。各自が持ち込んだアルコールは
ビールの他に

 新発田酒造の濁り酒「五郎八」
 
 久保田酒造の清酒「コウノトリ物語」
 
 SICILIA産の白ワイン「ARANCIO」
 

こういう上質の酒が揃うと、ここは桃源郷。周囲の会話は耳に入らなくなり、僕は既に沈黙の世界にいる。寄り添う美女たちが白魚(しらうお)のような手でグラスに液体を注いでくれることで至福の瞬間が訪れる。


本日の福井新聞1面に「ふくい世間遺産 橋本昭三さん(敦賀)の墨書」が出ている。


「陸の孤島その不便なこと」と題した農漁村に道路がつながり「最新式の原子炉」が建設され、生活が変わる様子が克明に記されている。敦賀半島の北西端、敦賀市白木の橋本昭三さん(84)は1950年に墨書「日本のあゆみ」を書き始め、63年間で3万7700枚を超えた。和紙に整然と並ぶ文字は圧倒されるほどの量。敦賀半島の暮らしと原発の記録である。
区長、市議を長年勤めた橋本さんは漁師だった。20歳のころ、隣区との境界をめぐり記録の不備で不利益を覆せないことを知り、将来のために日本の記録を残す」と筆を執った。「漁師がものを書く必要はない」と父親らに反対されたが、「辛抱していつか日本のために花を咲かす」との思いで書き続けた。
〃橋本日記〃には魚介類の水揚げ高、電話開通などの出来事が記され、50年代はのどか。隣の美浜町丹生に関西電力原発の建設が進んだ60年代は白木-丹生の道路が良くなり、観光客が増えたことや「区の若い人は美浜発電所工事作業に出る」との記述もある。
70年2月11日、動力炉・核燃料事業団(当時)の関係者が日本を訪れ、高速増殖炉「もんじゅ」の建設を打診。「開村以来の重大な問題であり、あらゆる角度から区民一同、総会を開くなどして検討してみたが、当区内周辺での建設は無理であるとの結論に達した」と記した。その後、集落から少し北側に離れた棚田で計画は進んだ。
95年12月8日のナトリウム漏れ事故では、就寝中に電話で一報があり、説明を受けるなど眠れなかったと書いた。立地の苦悩、不安と地域振興の期待が交錯する地元の記録。「福島の事故で原発の状況が変わってきた。5万枚を目標に書き続ける」と橋本さんの意欲は衰えない。
・・ここまでが新聞紙面だ。

僕が、歴史家・金達寿氏ガイドのマイクロバスで白木地区を訪れたのは、ナトリウム漏れ事故以前だったと記憶する。橋本氏は膨大な白木地区資料を下に、離村の苦しみを語っていた。

金氏は、「「白木」の語源は「新羅」でありつまり渡来集落を意味する」と、村独特の風習を引き合いにして語っていたが、「プロの歴史家とはこんなにも博覧強記なのか」と、僕はびっくりしてしまった。

2013/01/27 (日) 無題

昨日午後来訪のN氏は一升瓶を携えての来訪でこれはこれで素晴らしいことだ。



清酒「立山」を飲みながら大きいハンペンをつまみにしての話題のひとつは、「何故牧田さんは6月のあわら市議選に出ないのか」で、これは幾つかの公式の場でマイクを持って既にしゃべったことでもあり、僕にはもうどうでもいいことで、それよか、「いでよ夢おおき若いひと!」である。

というようなことを喋っていたら、某氏が現れた。「牧田くんも初めて町議になった頃は輝いていた。今と全然違っていた」というブツクサを皮切りに話が延々と続いて、そのうち夜になってしまった。
「無為な生活者」・・これが最近の自分であるような気がして仕方ない。新しい生活スタイルを確立しなければ、と思う。
ということで
今朝早く駐車場雪かきのために外へでた。空は晴れているのに空気は冷たく、指先が凍りそうだ。

 
  県道の融雪も作動していない。バーバリーのコートを着て歩いたにもかかわらず路面がバリバリで、歩いていて冷や汗が出た。
 
  金魚鉢には厚い氷が貼られている。しかし鉢のなかの黒メダカは悠々と泳いでいる。
これが不思議だ。
ここで思い出したのが西武百貨店社長・堤清二の30年ほど前のエッセイ。

入社試験に、「氷が溶けたらなにになりますか?」という設問を出したところ、「水になる」という答えが圧倒的に多いなかで「春になる」という答えがあって、その人を優先的に採用したとのこと。既成概念にとらわれないココロが大切、と彼は言っていた。
 
  牧田家住宅もすっかり冷気に包まれている。

2013/01/26 (土) もう週末か

文藝春秋・新年特別号に新・百人一首(近現代短歌ベスト100)が載っていて、選者は岡井隆、馬場あき子他の4人。
眺めていると不良中年の俺でも知っている歌がある。

・われ男の子 意気の子名の子 つるぎの子
    詩の子恋の子 あゝもだえの子 与謝野鉄幹

弟子の山川登美子(福井県小浜市出身)は同じく弟子だった鳳晶子との鉄幹争奪戦に敗れ、失意のひととなる。それはともかく、こういう歌をつくる男こそが女性にもてるんだろう。

・遺棄死体 数百といひ数千といふ 
   いのちをふたつ もちしものなし 土岐善麿

日中戦争拡大のなかで、土岐は新聞記者として定年を迎えた。多分、反戦歌に入る。


・白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 
  酒はしづかに 飲むべかりけれ 若山牧水

一番よくわかる。議会親睦会の時は賑やかに飲まざるを得ないが、コンパニオンと酒を酌み交わさざるを得ないが、今年6月からは自分自身と対話しながら静かに飲むのである。

・この空に いかなる太陽のかがやかば
   我が眼にひらく 花々ならむ 明石海人

ハンセン病者の作品。ハンセン病者の小説というと北條民雄の「いのちの初夜」を思い出す。

・たちまちに 君の姿を霧とざし
   或る楽章を われは思いき 近藤芳美

不思議と心に残る。

・マッチ擦る つかのま海に霧ふかし
     身捨つるほどの 祖国はありや 寺山修司

寺山17歳の時の作品というから驚く。1983年に47歳で夭折した。今生きていれば77歳か。長生きして斜めに構えた歌をどしどし世に出してほしかった。

「寒いね」と 話しかければ「寒いね」と
     答える人の いるあたたかさ 俵万智

「焼酎を缶に入れてはいけない」が信条の僕は、このひとのデビュー作「缶チュウハイ」が嫌いだった。
それはともかく、このひとが通学していた藤島高校は、福井市田原町に在る。だから「俵万智」は「田原町」をもじったペンネームだと、長年思っていた。

・かなしみは 明るさゆゑにきたりけり
     一本の樹の  翳らひにけり 前登志夫

大正15年生まれで、平成20年に亡くなった。僕はこのひとを縄文歌人として記憶しているが、深い森とその中の木もれ陽の対比がかなしみと明るさの対比であるような気がして、名歌だと思う。

仁多見くんへ。
手持ちのノートパソコンをインターネットに接続させたところ、やっと君のブログに入り込むことができました。難解な文章ですが、数ヶ月ぶりにじっくりと読ませていただきます。

2013/01/25 (木) 昨晩と今朝

昨晩の手話サ-クルは4人だけという寂しいものだった。ま、1月・2月という極寒の時期にはよくあることだ。

こういう時は、勉強会というよりも座談会になってしまう。

そして座談のテーマとなったものは
①あわら市内の山里に出没する猪退治について
①外需に頼る日本経済を内需主導型に
①第二次世界大戦後、次々と独立した国々の親日派と反日派について
①居酒屋「おまき」はいつオープンするのか
等々で
これらのテーマに沿って激しい論戦が交わされた。

明けて今朝は、坂ノ下区区民館へ。
坂ノ下神明会(老人会)の平成25年度初寄り総会が開かれたので挨拶に行ったのだが、マイクを持ってしゃべっていると気分がとても和む。
聴衆はみな、私が紅顔の少年だったはるか昔から、「孝男ちゃん、孝男ちゃん」と可愛がってくれた人たちばかりだからだ。
挨拶を「これからのみなさんのご健勝をお祈り致します」で結んだ。
これまでこの文句を単なる美辞麗句として使ってきたが、今朝の挨拶でのこの文句は、偽らざる心情の吐露だった。


挨拶を終えた私は、車を日本海へ走らせた。越前松島周辺は寒風凄まじく、海面は落ちてくる粉雪の全てを呑み込んでいく。

その情景を目にしながら
読み終えた重松清著:「とんび」のなかの和尚の台詞 「雪は悲しみじゃ。悲しいことがこげんして次から次に降っとるんじゃ。そげん想像してみい。地面にはどんどん悲しいことが積もっていく。色も真っ白に変わる。雪が溶けたあとには、地面はぐしゃぐしゃになってしまう。おまえは地面になったらいけん。海じゃ。なんぼ雪が降っても、それを黙って、知らん顔して呑み込んでいく海にならんといけん」を思い出していた。

ひとり腕を組んで佇む私の前を横切る和服姿の女性がいた(参考・サンセットラブ)。

私は思い切って声をかけ、写真撮影を依頼した。

2013/01/24 (木) 世間虚仮

ちょっと前に何かの新聞で目にしたのが、概略つぎのような記事だった。

テレビのニュースを見て、心が重苦しくなることがしばしばある。
このような政治状況のなかで、ふと思い出すのが、聖徳太子の言葉として伝えられている「世間虚仮」。ここでいう「虚仮」とは、文字どおり「空しくて、仮のもの」という意味である。世間では金や名誉・権力などを狩り立てられるかのように追い求めているが、それらは本当に心に平安をもたらすものであろうか。究極的な心のよりどころを与えてくれるのは、争いや陰謀、最終的にたどり着いた心境を世間虚仮と見ることだ。もちろん世間に埋没している限り、世間が虚仮であることは分からない。やや逆説的にいえば、虚仮を越えた真実の世界と照らし合わせて始めて、世間虚仮が実感されるのである。


問題は、「真実の世界とは何か」だが、3・11を経た日本の若者たちの意識が大きく変わりつつあると聞く。経済成長よりも大事な何かを求める「こころの時代」が来つつあると聞く。

この流れは地方政治に対しても影響を与えてしかるべきで、今年6月のあわら市議選に、多くの若者たちが立候補するかどうかが、将来のあわら市に光を与えるかどうかの分岐点となるだろう。
本日の午後1時半から、広域連合2階で、介護保険運営協議会が開かれた。
協議事項は
(1)第44回広域連合議会定例会予算議案について
(2)第2回第5期介護サービス拠点整備・運営事業者選定結果について
だった。

平成25年度の介護保険特別会計当初予算概要は99億9千万エンである。これに補正予算を加味すれば100億エンを超えるだろう。その理由のひとつに団塊の世代が保険者となることが挙げられる。我々団塊の世代は西欧世界からエコノミックアニマルと嘲られながら社会の為に必死に働き(但し私は例外だった)、今、又、介護保険料吊り上げの世代と見なされれ揶揄される。

しかしそれでいいのだ。生きているうちにあがめられるひとの殆どは人間として似非だと私は思う。死んでのちにそのひとの本当の価値がわかるのだと思う。

2013/01/23 (水) ふるさと語ろう会

一昨日、昨日と「ふるさと語ろう会」の会員が来訪。

①一昨日来訪の会員は、「暖かくなったらみんなで滋賀県の高島市へ行こう。市内興聖寺には国指定重文の釈迦如来坐像や縛り不動明王がある」という。彼によれば、滋賀県は全国都道府県中、重文が3番目に多いところだとのこと。

記憶で言うのだが、司馬遼太郎著:「街道を行く」の第一回目が滋賀県ではなかったか。著者が「あわあわとした近江」と呼んで愛した土地である。
僕自身にとっては、高島市隣の長浜市高月町の雨森芳洲記念館を二十数年前に十数人のメンバーで訪れ一緒に見聞した経験が生涯に何度もない楽しい思い出となっている。

付け加えるならば
万葉集に入っているあの有名な相聞歌も舞台は近江・蒲生野だ。

あかねさす 紫野行き 票野行き
     野守は見ずや 君が袖振る  額田王


むらさきの におえるいもを にくくあらば
     ひとづまゆえに あれこいめやも  大海人皇子


いいですねえ・・額田王の恥じらいと大海人皇子(のちの天武天皇)の積極果敢な態度がセットになっている。

②昨日来訪の会員は、「暖かくなったら、みんなで笛資料館へ青葉の笛を見に行こう。現在、伊井地区の応蓮寺に秘蔵されている畑時能ゆかりの鉄笛をあわら市民に知ってもらう方法の参考にもなる」と言う。

僕は二年ほど前にこの鉄笛を実際に手に持ったことがあるが、楠木正成→新田義貞→脇谷儀助→畑時能という順番で鉄笛が手渡された時代つまり700年前の南北朝の争いの時代を、自らの手で味わったような気がした。

歴史はいいですねえ。歴史はロマンです。
本を読んで涙ぐむことなど絶えてない私だったが、昨晩読み始めた重松清著:「とんび」の90頁あたりから、涙ぐんでしまった。

高度経済成長期に備後市で荷物集配の運転手をしていたヤスさんは美佐子さんと結婚し、長男(ヤスさんは、熱狂的な小林旭ファンだったからアキラと名付けた)を授かる。アキラ3歳の頃のある日曜日、ヤスさんは、アキラと美沙子さんを仕事場に連れていく。仕事場に積み重ねられた膨大な荷物が突然崩れ、アキラと美佐子さんを襲う。美沙子さんはアキラの防波堤となって即死。
悔恨と喪失感だけの日々となったヤスさんは、にもかかわらずアキラを男手ひとつで必死に育てていくのだが、アキラ小学生になる頃、母替わりのできない自分の煩悶を幼馴染の和尚に打ち明ける。和尚、車でふたりを雪ふりしきる瀬戸内の浜へと連れていく。

和尚  「おまえは海になれ、海になるんじゃ、海にならんといけん」
ヤスさん  「・・・ようわからんよ。和尚さん」
和尚  「雪は悲しみじゃ。悲しいことがこげんして次から次に降っとるんじゃ。そげん想像してみい。地面にはどんどん悲しいことが積もっていく。色も真っ白に変わる。雪が溶けたあとには、地面はぐしゃぐしゃになってしまう。おまえは地面になったらいけん。海じゃ。なんぼ雪が降っても、それを黙って、知らん顔して呑み込んでいく海にならんといけん」

ヤスさん、黙って海を見つめる。眉間に力を込めて、にらむようなまなざしになった。

和尚  「アキラが悲しいときにおまえまで一緒に悲しんどったらいけん。アキラが泣いとったら、おまえは笑え。泣きたいときでも笑え。二人しかおらん家族が、二人で一緒に泣いたら、どげんするな。慰めたり励ましたりしてくれる者はだーれもおらんのじゃ」 

2013/01/22 (火) 暗い国境線

昨晩、逢坂剛著:「暗い国境線」を読み終えた。

第二次世界大戦下のヨーロッパが舞台の物語だ。著者はあと書きで「本作品の背景は史実をもとに描かれており、一部、歴史上実在の人物も登場しますが、内容はあくまでもフィクションです。」と書いている。

618頁の長編であり、登場人物の国籍が多岐にわたっての横文字だらけなので頭に入りにくくストーリーの展開を把握するのが私にはなかなか困難だったが、にもかかわらずとても面白かった。

戦争小説というと戦場が舞台になるのが常だけれども、一方で、暗躍するスパイあるいは二重スパイたちの優劣が勝敗の帰趨を決めることもある、ということを改めて思ったし、こういう本との遭遇を考えると、60数年の人生のなかでもっとたくさん本を読んでおけばよかったという悔恨が読後に残る。
話は突然変わるが、
一昨日の日曜日、NHK・BSの「火野正平・こころの旅」は、鹿児島県・沖永良部島を紹介していた。40年前、僕が数十日間牛小屋の2階で生活していた島である。和泊の街並みや、アダン・パパイヤ・サトウキビ・ブーゲンビリヤなどの映像を目にした時、涙がでるほど懐かしかった。泡盛焼酎を飲みながら毎晩唄っていた永良部百合の花を思い出す。
二度といくことはあるまいと思っていたが、死ぬまでにもう一度訪れたくなった。

2013/01/21 (月) ちょっと思ったこと

新聞を読むとおぞましい気分になってどうしようもない。
アルジェリアの天然ガス関連施設で起きた人質事件もそうだ。理不尽なテロ行為によって突然命を奪われる側の恐怖などその最たるもので、偶然助かった人も、これからの人生、悪夢に悩ませ続けられることになる。
自爆を覚悟するくらいだから、テロリストの側にも正義感はある。新聞報道ではよくわからない国際社会の複雑な関係が事件の引き金になっているのだろう。

だけど、自分の周囲を見回した場合に感じることがひとつあって、正義を標榜するタイプの人は大抵くだらなく見えてしまう。人間は生きている限り煩悩具足の身でしかないはずなのに、ことさら正義を口にすることは煩悩具足に背理するのではないかと思ってしまう。
 
2013/01/20 (日) 昨晩の新年会

突然の話だったが、昨晩は金小PTA時代の役員6人による新年会となった。
酒は「和」(昨年のノーベル医学賞を受賞したなんとかという人が、謝意を込めて友人知人に配った焼酎)。それと「日航のアテンダントをやっている娘のお土産よ」と某女性が持って来た持ってきた「琉球泡盛・残波」。





このブログにもらった酒の写真を出すと、競って誰かが異色の酒を持ってくださる。「まきちゃんのところへはいろんな人が集まるみたいなので、これをみんなで味わってください」と異口同音に言う。これは私にとってとても嬉しいことだ。

もしかしたらこのブログを警察関係者(例えばあわら警察署)も読んでいるのもしれないのでこの際はっきり宣言しておきますが、私の事務所での宴会終了後に参加者は決して車のハンドルを握らない。彼ら彼女らは、タクシーで帰るか、代行運転で帰るか、泊まっていくかだ。

それはともかく
昨晩の新年会集まりの中心人物はT氏だった。いつものことだが、T氏の話を聴いていると、「この人が語る熱い言辞のエネルギーはどこから出てくるのだろう」と思う。

新年会は12時前に終了し、酩酊した私は今朝の9時まで熟睡。

2013/01/19 (土) カラス退治大作戦

私の住む坂ノ下区八幡神社・鎮守の森はカラスのネグラとなっており、夕方になると大群が電線に止り、体を休める。必然的に糞公害が発生する。また、周囲の畑作物をかすめとる。つまり人間にとっては害鳥だ。

ということで、昨日の午後4時からカラス退治作戦が実行された。実行部隊は、あわら市が大阪から呼んだ専門業者で、その業者名は「バード・ストッパー」。

   
①大阪から到着したカラス退治のプロ集団   ②プロの車両の上には隼
     
   
③隼の鳴き声にパニックとなるカラス群   ④そして逃げ惑うカラスたち

写真②でわかるようにカラスの一番の天敵は隼だ。降下時の速度は時速390kmの記録を持つ。隼(勿論模型)の嘴から鋭い金切り声が発せられると、パニックになったカラス群は逃げ惑う(しかしよく見ると、全く動じない肝が座ったというか感受性の鈍いカラスもいる)。

写真③と④はアルフレッド・ヒッチコックの「鳥」を彷彿とさせた。

きょうの朝日新聞19面に小説・「恋文」を書いた連城三紀彦の回顧談が載っていた。
私がまだ若く美しく(これだけは今もか)、そして火傷しそうな感受性の持ち主だった頃に読んだ恋愛小説で、強く印象に残っているもののひとつだが、執筆当時の連城の生活環境の厳しさに驚いた。

2013/01/18 (金) 新聞を読んで(2)

 震災遺族の支援を続ける俳優・堀内正美さんの話。

「傷ついた人とは「向き合う」よりも「寄り添う」ことが大事だとわかった。
遺族支援を通じ「世の中は不条理で、人生は喪失と悲嘆の繰り返し」と知った。立ち直りかけた矢先に別の家族を病や事故で亡くす人。酒に溺れ仕事を失う人。子の死後、離婚する夫婦。だが・・・。「絶望の中でもいつか光が見えてくる。灯りの周りにあなたに寄り添う人がいる」」

 神戸市長田区に住んでいた女性の話。

「自宅1階が押しつぶされ、16歳だった長女、依子を亡くしました。圧死でした。火がすぐそこまで追ってきて、それだけは止めたかった。水はなかったので近くの公園からかき集めてきた砂をまいて、必死で止めました。今も鮮明に覚えています。
娘を失った悲しみは、言葉にしたところでわかってもらえない。ずっとそんな葛藤を抱えてきましたが、18年たち、ようやく、震災を受け止められるようになってきました。・・後略。」

私が長男を亡くした時、同じような経験をした人からかけられた多くの言葉が「20年間は、喪失感と悲嘆が続きます」だった。そうすると、阪神淡路大震災で子を亡くした親の多くは、喪失感と悲嘆からのがれられないうちに生を閉じたことになる。
話は突然変わるが

昨日の晩酌中、某女性から入ってきたメールが下記の文章。

こんばんは!今日は、久しぶりにお会いできて、さあ、少し、お話できるかな?と思ったのに、お客様が来てしまい~〓残念でした〓・・後略


冷静に考えてみると、(それが良いのか良くないのかはわからないけれども)私のカラダは異性を惹きつけるフェロモンを常時発散し続けているのだろう。
又話は変わりますが
本日の夕刻4時過ぎから、坂ノ下区にあるゲンキー駐車場付近でカラス退治の実験が予定されています。騒音が多少耳障りになるかもわかりませんが悪しからず。

2013/01/17 (木) 阪神淡路大震災から18年

阪神淡路大震災から今日で18年が経過した。神戸は学生時代を過ごした街である。大火の発生地・長田区は、(二ヶ月間だけど)僕がクラシックバレエをならっていた所だ。

中古住宅購入の仮契約をすませたばかりの友人から、「住宅の被害状況を調査してほしい」との依頼を受け、震災勃発一ヶ月後に現地へ入った。

報道の映像ではわからないものひとつに、匂いがあった。震災の匂いというものだ。芦屋の或る地区では全戸が倒壊し、そのあわいのあちこちに立てられた線香の匂いが悲しみの全てを表現していた。

調査を終えた日の晩、友人二人とともに夕食のために十三へ出かけたのだが、通りの賑わいに変化はなく淀川をはさんでの彼岸と此岸でこんなにも違うものかと驚いた。

先日、大震災で逝ったこども達の家族を追うボランテイアをやっている人の新聞談話を読んだ。「自分のこどもはその年のそのままのかたちで宝石箱に入っています」という声が多かったそうだ。その気持ちはよくわかる。

きょうの午前中にあわら市庁舎で打合せの最中、元市議Y氏から携帯電話が入った。内容は、「おおーい、月遅れの文藝春秋を事務所の玄関先に置いとくぞー」だった。
事務所に戻ってからその本をめくっていると、下の短歌が目に入った。

濁流だ濁流 だと叫び流れゆく
      末は泥土か 夜明けか知らぬ 斎藤史(ふみ)

解説はこう書いている。
「作者は明治42年東京生まれ。「短歌作品」「短歌人」創刊に参加。歌集「魚歌」「ひたくれなゐ」など。平成14年没。時代の激流を「濁流」に託して詠っている。父の斎藤濁が連座し、幼馴染の軍人も処刑された二・二六事件が背景にあり、強烈な歌の魅力と共に短歌史上の意味は重い。濁音の多用に加えて、カテゴリーに微妙なズレのある「泥土」と「夜明け」を二者択一の形にしたことが衝撃力を生んだ。」

2013/01/16 (水) 新聞を読んで

本日の福井新聞18面の寄稿欄に「敦賀の名称1300年㊤」が載っている。
お袋が敦賀の出身なので、僕にとって敦賀は第二のふるさと(ついでに言うと第三のふるさとは沖永良部島)だ。

この文章を紹介。

江戸時代には北前船の中継基地として、戦前には「東洋の波止場」として、古来、国内各地域は無論のこと、アジア大陸を結ぶ公益拠点として殷賑を極めた敦賀港。昨年は、敦賀・長浜間に日本海の鉄道が開通して130年など、三つのアニバーサリーが同時に到来した。そして今年、「敦賀」と名付けられて1300年を迎える。名の変遷を探った。

◆角鹿郡の誕生◆
7世紀の後半、日本は中国・唐の法律体系である律令を取り入れた。律は罪人を罰する法律であり、令は政治上の掟のことである。律令にもとづいた中央集権的な政治体制である律令制のもと、地方の行政は、国・郡・里(715年からは郷)となる。これらは現在の県・市あるいは県・郡・町(村)という組織にあたる。
日本の律令制は701(大宝元)年に作られた大宝律令によって完成したとされる。大宝律令の施行によってそれまでの越前国角鹿評が、角鹿郡として、律令制にもとづく地方行政区画に編成されることになった。
大宝律令の運用は、645(大化元)年に始まる大化改新と呼ばれる一連の政治改革を通して、半世紀に渡り模索されてきた中央集権的な国家の青写真が完成したことを示す。「律令の興り、けだし大宝に始まる」と回顧されるのは、大宝律令の歴史的意義を端的に表現している。

◆記紀に登場◆
ところで、角鹿が含まれる越前国はいつ成立したのであろうか。越前国を史料に初見するのは692年、「日本書紀」の持統天皇6年条においてである。これは越(北陸)地方で、まず越前国が置かれたことを示し、その後、越後国や越中国が置かれたと考えられる。
大宝律令が発布されて9年後の710(和銅3)年、元明天皇の時、藤原京から平城京へ遷都される。「咲く花のにおうがごとく」と歌われた日本初の本格的な首都の誕生である。2010(平成22)年は、「平城遷都1300年祭」が奈良を中心に展開された。
また昨年は、現代に伝わる日本最古の歴史書「古事記」が完成して1300年の節目であった。そして、日本最古の正史でもある「日本書紀」は7年後の2020年に完成1300年を迎える。
二つは合わせて「記紀」と呼ばれ、記述対象時期や記述法などに違いはあるが、ともに国生みから、有名な岩屋戸、稲羽の素兎、ヤマトタケルの熊蘇退治など、豊かな表現で描かれている。現在の敦賀や福井県とゆかりのある人物や事象も語られている。

◆角のある人◆
「この蟹や 何処の蟹 百伝ふ 角鹿の蟹 横去らふ・・・」
「古事記」に登場するこの歌は、15代応神天皇が美しい姫を見初めた喜びを表した歌である。角鹿つまり敦賀の蟹と言えば、今では「越前蟹」というブランド品。カニをキーワードに古代と現代がつながっている。
「古事記」仲哀天皇の段に、角鹿の仮宮にいた太子(応神天皇)に気比大神が奉ったイルカの血が臭かったために血浦といい、それが「都奴賀」になったとある。
「日本書紀」垂仁天皇二年の条には、崇神天皇の時「意富加羅国」(朝鮮半島)の王子「都怒我阿羅斯等」が越国の笥飯浦に来着したが、額に角があったので、この地を角鹿と称したと記す。
越国というのは、越前・越中・越後に分かれる前の北陸地方のことであり、笥飯浦は気比神宮のあたりの海岸である。角がある人にちなんで角鹿というようになったーこれこそ、ツヌガの地名起源説話と言われるものだ。

著者が福井県議の糀谷さんであることにびっくりした。糀谷さんとはいろんな会合でご一緒するが、「気比史学会」会長であることなどついぞ知らなかった。

ふるさとの歴史を知ることが、ふるさとを愛することの土台となる。その意味で、今年6月のあわら市議選には、その方面に造詣の深い人がひとりぐらいは出て欲しいと思う。

2013/01/15 (火) 整理・整頓

春を待つ花々たち


昨日は事務所の整理・整頓で一日を過ごしたが、整理・整頓をしているうちに改めて不要物の多いことを実感。

書類はPDFデータにすれば、その時点でゴミ箱行きとなる。昔買った小説の類(たぐい)も、辞書以外は読み返すことがないのでゴミ箱行き。そうなると、幾つかの収納ボックスも不要で作業スペースはゆったりとしたものとなり、スペースがゆったりすると、身軽な気分になる。

伝統的日本建築の和室には余分なものは何も置かれていなかった。鎌倉武家政権になった時、侍たちの合言葉は、「いざ鎌倉へ!」だったという。それは源頼朝殿に異変があったならば、すぐに鎌倉へかけつけるという気概の現れだ。そのためには住まいの調度を必要最低限として後顧の憂いをなくしておく必要があった、とものの本で読んだことがある。

ということで
今日からの私はCAD三昧の予定です。

2013/01/14 (月) 昨日の日曜日

昨日は、隣区・下八日区の初寄り総会会場で区長の了解を得て、挨拶をさせていただいた。

「今年6月にはあわら市の市議会議員選挙が控えています。私は、みなさんのご支援で金津町議2期、あわら市議2期の計4期を勤めさせていただきました。しかしながら、今年6月で辞めたいと思います。これは随分前から考えていたことです。理由は幾つかあります。・・中略・・議員を辞めてからも末長いお付き合い、よろしくお願い致します」と結んだ。

妄想したり妄想的文章を書いたりするのは好きだけれども、人前で喋るのが大の苦手の私によく十数年間もの長いあいだ議員を勤めることができたものだと思う。

たまたま総会に同席したS議員(多分あわら市で一番有名な長老議員)と共に外に出た。総会会場は下八日毘沙門神社境内にあり、昨日は左義長をやっていた。その左義長の火を見遣りながら、ふたりは過ぎし日のいろんなことを語り合った。老人と熟年(私のこと)が広い境内の一隅で静かに語り合う姿は恐らくいっぷくの美しい絵になっていたことだろう。

ともあれ、今年の6月から私の生活は大幅に変わり再び沈思黙考型の人となる。或るときは旅の人、或るときはアーテイスト、そして或るときはドンファン・・・といろいろ考えてしまいます。
昨日今日とパソコン復旧に関して何人かの方のお世話になりました。
先ずは、壊れていたアクセスカウンターの復旧。毎日百数十人の方がこのブログをみてくださるので、カウント数をみることも、私の楽しみになっています。

次にフェースブック。
以前、友人に作っていただいたのですが、操作方法のわからない私はそのまま放置するしかなかったのです。しかし、昨晩、某女性に来ていただいて懇切丁寧な説明を受けました。

「某女性とは誰か」
という電話質問があったのだけれども、これを公開することは個人情報保護法案に抵触します。

それはともかく、おかげで少しはわかりました。指導してくださったみなさん、ありがとうございました。

2013/01/13 (日) ヨイトマケの唄を聴きながら

堺屋太一の「活断層」を読み終えた。2006年発行の未来予測小説で、舞台は沖縄西南端、人口1万2千人の小島で時代はバブル絶頂期。。この島にCTS(セントラル・タンク・ステーション)建設の使命を帯びた大手商社社員・桐野陽一がやってくる。

誠実な桐野はこの巨大事業で島民が潤うことを信じつつ東奔西走する。初めは三顧の礼で桐野を迎えた村長・村議長はじめ島民たちだったが、徐々に歓迎ムードが変化して、最後には「島の生活と命を守る」CTS反対大決起集会となり、大手マスコミも全国へ報道発信する。

このうねりをつくったのは、島に流れ着いて生活していた「生態分布調査員・牧」で、実はこの牧は全国の反対運動を暗闇でオルガナイズするプロだったのである。

通産省官僚だった著者・堺屋が沖縄に赴任していた時の実話をもとにした小説で、「桐野も牧も、勿論モデルがいる」とあとがきに書いている。

体制側の(確か、経済企画庁長官をしていたのではないかな?)書いた本だから桐野に好意的ではあるのだが、だからと言って牧を突き放してはいない。牧の「経済成長による利便と引換に人間はかけがえの無い自然と生活することへの尊厳を失っていく」という末尾近くの独白は、今日(こんにち)こそ我々が座右の銘としなければならないのではないか。


たかだか16%の支持で復帰した自民党政権が所詮古い自民党でしかないという実態を露呈するのに、そんなに時間はかからないと、私は思う。
一昨日の朝、高級酒を持ってきてくれた人がいた。私は横文字が読めないので、これがウイスキーなのかブランデーなのかワインなのかシャンパンなのかわからない。でもなんであろうと構わない。
「酒と女性を差別しない」が私の生き方の基本だ。


その日の晩に来訪した客人2人にこれを振舞おうと思ったのだけれども、既にカラオケで酔っ払ってしまっていたので出すのを忘れた。

今宵ひとりでじっくり味わうつもりです。

2013/01/12 (土) 出初式

本日は坂井市三国町で嶺北消防組合の「消防出初式が開かれた。前半は屋内式典。
県会議員の斎藤新緑氏が来賓祝辞で「かって寺田寅彦は、≪災害は忘れた頃にやってくる≫と言ったが最近は≪災害は忘れる前にやってくる≫であります。」と挨拶した。
・・県議ともなると味わい深く挨拶する。



後半は屋外で太鼓演奏、分列行進に続いて越前三国鳶による演技披露(下の写真)。
命綱無しでの高所演技はすさまじい。見ている私の局所が縮こまったほどだ。
ともあれ、私にとって今年が見納めとなる。・・・と思うと昨晩の2時まで続いた深酒による頭のマヒも(一瞬だが)消えてしまった。

2013/01/11 (金) 新聞から

本日の福井新聞16面に、見出し「宗教文化で誘客を」が載っていた。

記事を模写すると
「福井、石川県の宗教文化を連携させて観光振興を目指す「越前加賀宗教文化街道」構想。その提唱者である石川県加賀市の寺前秀一市長が、このほど出版した著書で、首都圏の団塊世代をターゲットにした誘客戦略を披露している。
寺前市長は1949年加賀市に生まれ、運輸省、国道交通省、日本観光協会理事長、高崎経済大学教授などを経て、2009年から現職。観光学博士で、観光に関する著書も多い。
「越前加賀宗教文化街道~祈りの道~」は、あわら、坂井、勝山市、永平寺町と加賀市の4市1町が、11年に推進協議会を創設。吉崎御坊や永平寺、平泉寺白山神社などを生かした観光ルートの商品化を目指している。
寺前市長は新刊で、死が身近になる団塊の世代が興味を引く「死生観」に着目。14年年度の北陸新幹線の金沢開業を見据え、越前・加賀に存在する白山信仰や一向一揆、禅といった宗教文化をつなぐ物語をつくり、共同観光プロモーションを展開すべきとしている。
モデルとするのは南ドイツを縦断するロマンチック街道で、同街道のようなネーミングが成功の鍵と指摘。ルターの宗教改革のように、中世、中世日本の宗教文化を主要テーマに据えれば世界にアピールできると述べている。
また、団塊の世代は全共闘世代である点に注目。一向一揆が大名の介在を防ぎ「百姓の持ちたる国」を築いたというイメージを観光資源として利用すべきと提案する。報恩講や精進料理といったヘルシーな食文化もセールスポイントに挙げている。
寺前市長は「新幹線開業に向け、首都圏の成熟世代に照準を合わせ、ルート化を図りたい。越前と加賀がお互いに補い合い、宿泊にまで結びつくビジネスモデルをつくる必要がある」と話している。
新刊は「観光学博士の市長実践記~クール加賀三百万人構想~」のタイトルで、システムオリジン(静岡市)の発行。2800円。」
別に新刊の宣伝をするために模写したわけではないし、私は読む本の全てを図書館に頼っているので、機会があったら借りてこようと思う。

寺前市長の肉声を聞いたのは2年ほど前。蓮如上人記念館にあわら、坂井、勝山市、永平寺町と加賀市の4市1町の市長等が集まった時のパネラーのひとりがこの人だった。1949年生まれというから、私と同い年で、文中にあるように「団塊の世代で全共闘世代」であることも共通する。

もしかしたら生き方よりも死に方のほうにより強く惹かれているのかもしれないし、だとしたらウマが合うかもしれないと思った。
付記
確かに、越前金津の領主だった溝江氏は、加賀から攻めてきた一向一揆の手によって滅んだ。そして一揆の本陣が、自宅の近所の総持寺であることも、歴史の栄枯盛衰を私に強く感じさせる。

参考文献(福井新聞より)
妙隆寺住職 児玉常聖(あわら市)
一族の子々孫々 全国に
武将たちの鎮魂

 関ケ原で領地を没収された溝江氏四代目、長晴(ながはる)の浪人生活は28年にも及びました。しかし、寛永5(1628)年、彦根藩主二代目、井伊直孝の時代に仕官が許され、禄(ろく)五百石で藩士となります。46歳(推定)になってようやく、安住の地を得たのです。
 井伊家は、「安政の大獄」で有名な井伊直弼(なおすけ)をはじめ、幕末まで大老職を5人も出すなど「常溜(つねどまり)」と呼ばれた特別な大名で、参勤交代を免除されるなど幕閣の中でも名門中の名門です。初代藩主、井伊直政と溝江三代、長氏(ながうじ)が縁があったことから、長晴は生活に窮しながらも「井伊家こそが頼みの綱」と己の立ち位置を敏感にかぎ取っていたのかも知れません。

戦国溝江四代を主とした資料集

溝江氏の子孫たちでつくる「全国溝江氏々族会」が10年前に刊行した戦国溝江四代を主とした資料集

 正保3(1646)年、長晴は彦根で亡くなりました。しかし、晩年、彦根藩士として生き延びたことは、溝江一族にとっては大変意義深いことでした。
 なぜなら…長晴の子や孫らは、現代にまで末裔(まつえい)を多く残すことになったからです。その系統は、彦根藩の本家をはじめ津軽弘前藩、仙台伊達藩、福井藩本多家中、播州龍野藩、出雲松江藩、四国宇和島藩、久留米藩と全国に広がり、一族の血は嫡流、分家と絶えることなく幕末、明治、そして現代と受け継がれたのです。
 平成6年5月、東京に住む彦根溝江の子孫の溝江伸康さん(89)の呼び掛けで結成された溝江一族の会「全国溝江氏々族会」の会員30人余りが、溝江発祥の地、金津を訪れました。一行は溝江館跡などを見学し、芦原温泉で親交を温めたのです。さらに、先祖の歴史を埋もれさせてはいけない-と一族の史料集を刊行しました。
 思えば、私は昭和47(1972)年11月に、溝江初代景逸(かげやす)と二代長逸(ながやす)の墓前祭にかかわったことから、妙隆寺の住職を継いだわけですが、当時は、長氏や長晴に関する史料が全く無く、私は自分の祈り事に迷いを感じていました。
 それが、子孫の方々とかかわりを持つことで、数多くの史料や品々が彦根に残されていたことを知りました。それらの存在によって、戦国の溝江四代が、いかに乱世をくぐり抜けてきたか、浮沈(まるでジェットコースターのような)を繰り返してきたか-を知ることになりました。つまり、菩提(ぼだい)寺住職として、鎮魂の対象をしっかりとつかむことができたわけです。
 金津の町の礎を築いた溝江氏の歴史は、私の寺院にとってだけでなく、越前福井の歴史にとっても貴重なものです。さらに溝江一族が、水路開削、導水の優れた職能集団であったことが証明されれば、継体天皇の“越前王権”の研究にも大きく貢献するやも知れません。
 私は歴史の専門家ではありませんが、地元金津町の郷土研究、歴史家の諸先輩の思いに導かれ、こうして溝江氏の歴史の一端を記すことができたことは、望外の喜びであります。(溝江家菩提寺、妙隆寺住職)    =おわり=
  ×  ×  ×
 なお、この連載執筆に当たり、以下の文献を参考にさせていただきました。「越前金津城主溝江家」「金津ふる里の手帖」「越前金津の史話と伝説」「古代の製鉄遺跡」「越前朝倉氏の研究」「越前朝倉一族」


2013/01/10 (木) 昨晩

昨夕は、ホテルフジタで連合福井の旗開き。


終了後、直ちに事務所へ戻った。
夜、事務所で開かれた「原発を考える会・打合せ会」に、Nさんが壺井明さんの大作「無主物」のコピーを持って来た。

・「無主物」というタイトルについての作者の弁
昨年8月、二本松市の「サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部」が、東京電力に芝生に付着した放射性物質を除去するよう求めた訴えがあった。東電側の弁護士が「それはもう自分たちのもとから離れて芝生にくっついちゃっているから、それは自分たちのものではなく≪無主物≫である」と言った。だけどその汚染は福島第一原発の爆発がなければ無かったものだから、ものすごく無責任だと思った。そのことに怒りを覚え、この絵を描き始めた。

・作品についての作者の弁
三枚の絵でひとつの作品になっている。右は、3月11日の事故以前からずっと続いている、被爆労働をする従業員の方々とそこから得る利益を独占している人々の關係を描いている。中央と左は、3月11日の事故以後、被爆してしまったさまざまな人や動物に対してそうしたらいいのか、疎開についてどうしたらいいのか思案する中、「こうあってほしい」という願いのようなものも含めて描いた。

2013/01/09 (水)  比較的暖かい日が続いている

いろんなことがあって、ここ数年間、人と顔を合わせるのが嫌になり人前でしゃべるのが嫌になりとにかく人を遠ざけたい生活が続いた。

だけど、 咳をしても一人(尾崎放哉)のような生き方は所詮我々凡人には無理であることもわかっているし、強い意志力の人であってこそ、孤独の極限を句にすることができるのだろう。

今年下半期からの生活がどうなるのか、ある程度目標を持ってはいるが、可能かどうかやってみなければわからない。言えることは、できるだけ「悔いのないものにせねば」である。
午前中、三国土木事務所へ行った帰りにN氏宅へ寄った。N氏は僕が金津中学校PTA会長だった時の校長で、その20年前の話で盛り上がり、時間はどんどん過ぎていった。しかし歳月とは恐ろしいもので、今は少し耳が遠くなっているそうだ。
「僕も体のあちこちがおかしくなって・・」と申し上げたら、「牧田さんは、私より13歳も若いんだからまだまだこれからですよ」と、励まされてしまった。

2013/01/08 (火)  無題

「声の広場・NO450」を読んで恐縮しています。

本日は、福井2区の市議5人がそろって新年の挨拶のために連合福井本部へ。別れ際に会長から、「牧田さん、お体を大切に・・」と言われ、「私の体を心配してくれるのは、女性達だけではなかったのだ」と認識した。

そして、それがとても嬉しかった。

2013/01/07 (月)  新しい週の始まり

ザ・タイガースが再結成されるそうだ!

はるか昔の友達にKさんがいた。この女性は日本共産党前中央委員会議長・不破哲三とザ・タイガースリードボーカル沢田研二(愛称ジュリー)の熱烈なファンで、二人に対していわゆる「追っかけ」をやっていた。その彼女が京都市内のジュリー宅を訪ねた時の思い出を、ある時僕に語った。

「ねえ、牧田くん。ジュリーの魅力は単にアイドルだからじゃない。彼は私たち三人を応接間に招いて障害者の妹を紹介し、こう言ったのよ。
・・俺はスターだからプライバシーをどうあばかれようと構わない。だけど妹のことはそっとしておいてほしい・・。そう言った時の彼の横顔は誰よりも誰よりも素敵だったわ」と、語った。

昨日は坂ノ下区の総会が開かれ、その総会の席で僕は挨拶をさせていただいた。

「今年の6月にはあわら市の市議会議員選挙が控えています。私は、みなさんの御支援で金津町議2期、あわら市議2期の計4期を勤めさせていただきました。しかしながら、今年6月で辞めたいと思います。
これは随分前から考えていたことで、理由は幾つかあります。」等々をしゃべった。

そして
「議員在職中は、本当に長いあいだ、どうもありがとうございました。今後ともお付き合いのほど、よろしくお願い致します。」と結んだ。

下の写真は総会後の親睦飲み会の風景


金粉入りの清酒はさすがに美味しい。

2013/01/06 (日) 今年初の日曜日

「半死半生」を辞書で引くと「半ば死に、半ば生きている状態。死にかかっていること。生死の境にいること。」と書いてあるが、僕の場合はちょっと違って、そういう体の問題ではなくて、なんというか、人生観を表す言葉だと理解している。

体が健康であろうが衰弱していようが、ある瞬間に死の影をみることがあるのが普通の人間だ。勿論これは数年前に幽体離脱を経験したからより強く思うのだろうが、その経験の有無は相対的な差にすぎず、だって、例えば一神教の宗教の場合、現世を神との契約の下に生きている。そして神との契約が生きる規範・つまりは道徳となっている。

10数年前、我が家にホームステイした女性は、「ソ連が共産主義国家であった時代にも、宗教は(この場合はロシア正教か)半ば隠れる形で続いていた」と、言っていた。

僕は何かの宗教を強く信じているわけではない(というよりも信じるということがどういう心的状態を指すのかよくわからない)が、霊魂の不滅を経験的に信じているので、一応、宗教的人間の範疇に入ると思う。

形見とて何か残さん 春は花
     山ほととぎす 秋はもみじ葉
  良寛

2013/01/05 (土) 尖閣諸島について

私に次の文章がファックスされてきた。発信先は「サポートN」・・どういう団体か知らないが井沢元彦の文章の要約なので、紙データを電子データに変換してブログに取り上げた。

「1970年以前に中華人民共和国で教育を受けた方は、自分が学校で受けた地理の教科書、あるいは「世界地図帳」(北京市地図出版社発行)をご覧になってください。実は中国政府は、今これを次々と処分しています。

しかし学校生活の思い出として今でも保有している方は、恐らく数千万人いるでしょう。全部が処分できるものではありいません。それをご覧になってください。

その地図は島名が「魚釣島」と表記され日本領に区分されています。中国名の「魚釣島」ではありません。少なくとも1970年代に入るまで、中国政府は国家が作った教科書で尖閣諸島は日本の領域内だと認めていたのです。証拠は他にもあります。

例えば1953年1月8日付の人民日報です。人民日報とはもちろん中国共産党の機関紙です。その機関紙の表現にきちんと「日本国尖閣諸島」とあそんなります。それなのに中国はなぜ自分の国の物だと主張するのでしょうか。それは膨大な石油資源が見つかったからなのです。

中国のいうことは全くのでたらめであり、真相は中国の方が後から自分のものと言い出したのです。かって尖閣諸島のうち、魚釣島、久場島、南小島(行政区分では古賀村と称した)には鰹節工場があり、1907年には99個、248人の日本人が住んでいました。

その鰹節工場の採算が取れなくなったため、島民である日本人は一時撤収、誰も住まなくなりましたが、ずっと保有はしていたのです。

共産党一党独裁制の中国では政府の見解に逆らうことは公の放送や新聞では口にできません。2011年7月23日の中国新幹線の大事故を想い出してください。まだ犠牲者が中にいるかもしれない車両を人々の見ている前で土の中に埋めてしまいました。

先進国ではこんなことは絶対にありません。これをとっても政府が国民に対して本当のことを言っていると思われません。すべてがでたらめではないのですが、この尖閣諸島に関する報道は全てでたらめと言っていいでしょう。

中国の発表は嘘で、実は中国共産党も尖閣諸島は日本領だと認めていたとの証拠が中国全土に溢れている。調べればすぐにわかるような嘘をついて人を誘導しようとする人間はその人を馬鹿にしていることになります。そんなことはばれないと高をくっているいうことですから中国政府および中国共産党こそ世界で一番中国人民を馬鹿にしている組織です。

この9月18日は満州事変の81年目の記念日でした。確かに過去の日本の侵略行為というものは、中国に対する大悪行です。これは日本人の一人として私はきちんと認めます。それ以後日中平和条約を結び、過去のことを結び、過去のことを反省し膨大なODA援助を中国に与えているのです。

中国の主な空港、港湾、駅などで日本のODA資金が使われています。しかし中国共産党は歴史上一番多くの中国人を殺したのは毛沢東でしょう。大躍進政策の失敗で数千万人、文化大革命で数百万人。このことも中国国内の歴史教育では教えられていないが中国以外の国家では世界史の常識です。

しかもこの毛沢東主義(マオイズム)は世界に輸出され、カンボジアでは共産党によって総人口800万人のうち、200万人が殺されました。にもかかわらず天安門広場には彼の肖像画がまだ飾られている。

有史以来、中国人民を一番多く虐殺したのは、中国共産党なのです。普通そうした政権は革命によって滅ぼされ、新しい民主主義が力を握ります。しかしながら、かって自国数千万人を殺した政党と同じ政党が未だに権力を握り続けているのは、人類史上中国だけなのです。

もし本当に、中国人の貴方方が自分たちの国を世界に誇る一流国家にしたいのなら、まずここを改革すべきではありませんか?現にあの反日デモの中で、毛沢東の肖像を掲げた若者は、数千万人が彼によって殺され、それを上回る中国人民が下僕という奴隷労働の苦しみにあったことを知ってやっているのでしょうか。

恐らく知らないと思います。それは大変恐ろしいことではありませんか。以上です。堂々と自分の意見を述べる井沢氏には感服します。」
きょうの午前中に友人・A氏が来訪。私のFacebookをつくってくれました。暇な折に覗いてください。

2013/01/04 (金) 本日は広報編集特別委員会
昨日の晩、僕はテレビで「ニチボウ貝塚・東京五輪でのソ連との死闘」を見ていた。

1964年10月、僕が高一の時に東京五輪が開かれた。
僕は、男子マラソンのアベベや円谷、男子100mのヘイズ、女子80m障害の依田郁子、男子体操の遠藤、女子砲丸投げのタマラ・プレス、水泳男子自由形のドン・ショランダー、女子体操のチャスラフスカらの活躍に熱狂したが、不思議と女子バレーには興味がなくて中継を見なかった。

あれから幾星霜、10年くらい前だったか議員の視察研修地として大阪府南部にある貝塚市を訪れ、「東洋の魔女たちは、この地で回転レシーブに励んでいたのか・・」と思った時、彼女たちに対する敬愛の念が初めて湧き上がった。そして、一昨日晩のテレビの一部始終を、改めて感激のおももちで見ていた。

ところで・・
彼女たちを率いた「鬼の大松」は57歳でこの世を旅立った。「偉業を成し遂げたひとは早世する」という警句がこの場合もあてはまっている。
「市政掲示板」no448に、とんぼさんからの以下のような書き込みがありました。
448.歳月人を待たず。  
名前:とんぼ    日付:12月31日(月) 11時41分
年齢を重ねるごとに一年々が短くなる。若くはない身、のんびりと過ごしたいと思うのだが、無論許されるはずはない。生きるためには来年もあくせくと働かねばならない。

 同時に夢を成就させたい。それは小説を書きあげること。笑われるかもしれないが、賞にも戦する、それが夢。歳月人を待たず、残された時間は多くはないだろう。夢に専念したい。

 というわけで、掲示板から退場することを決めました。長い間ありがとうございました。

 来年はみなさんにとって良い年でありますように。
 

そこで、表紙のスタイルを変更します。

元旦午前零時に金津神社で初参りをした時、参道の両脇に設置された篝火に僕は魅せられた。



懸命に光っているせいぜい数時間の篝火は美しくそして物悲しい。人間の生の賛歌であると同時に生きていることの悲しみを表現していると思った。

2013/01/03 (木) 松の内気分ははや抜けて

昨夕はO氏宅へ行き、清酒と油揚げと蒲鉾を御馳走になりながら、今年一年を展望した。今年一年といっても世界経済の動向や尖閣竹島問題やイラン・イスラエル問題についての床屋談義ではなくて、今年6月に予定されているあわら市議選についての話だった。いまのところ一応市議をしているので、私もこの話へのコミットは可能。

市長と議員の双方は市内有権者によって選挙で選ばれる。
有権者は市長に行政執行権を託し、議員に執行の監視権を託す。「行政と議会は車の両輪」と呼ばれる所以だ。

しかし時折行政と議会が専門的な分野で紛糾することがある。専門的な分野とは、例えば理工学的な分野を指すのだが、議員は所詮素人集団であって話がかみあわないことがある。これは是正されなければならない。

O氏から、「議員に誰がなろうとなりたい人がなればそれで構わないが、議員をサポートする専門家を嘱託として議員会計で雇う。そうすべきじゃないか」と言われたが、一理あると思う。

個人的な思いを付け加えるならば
昨年は、議会報告会が12会場で2回開かれた。そして一部の会場では、試験的にではあるが、手話通訳がついた。聴力障害者も納税者であるのだから、通訳が保証されるのは当然だ。

昔加賀市の手話通訳者と話をしていた時、「加賀市は、議会に手話通訳をつけるなどして全て通訳を保証している」と言われて私は驚いた。

その何年か前に、米国人セッド・チャップマンさんから「私の故郷カリフォルニアではハンデキャップトパーソンという言葉は既に死語です」と言われて私はもっと驚いた。

私たちおじさん種族はもうどうでもいいのだが
若者たちよ、広く世界に出ていってほしい。ツアーではなくて個人で出て行ってほしい。その時に経験する摩擦こそが大事なのだと思う。

2013/01/02 (水) 無題

きのうは、終日ベッドに寝転んでテレビを眺めながら過ごしていた。家族以外と顔を合わせることもなく、携帯電話的会話の相手は女性一人、男性二人のみだった。

男性のうちの一人は、いつも僕のブログを広島の地で読んでくれているみたいだ。
彼から「牧田くんの文章の背後にはちょっとエッチな描写が見え隠れする」と言われたが、当然のことながら全ては創作だ。

12年前にこのブログを書き始めてから二年間ほどは生真面目文章を遮二無二書き続けた。しかしこれでは疲れがたまるだけで、もう少し精神を弛緩させることが必要なのではとの思いが出てきて、エンタメ風脚色を取り入れた。

「こういうことがあったら素敵だろうなあ」的潜在欲望が「こういうことがあった」的結果報告にすり変わる時、我々庶民はささやかな幸せを感じるのである。
これを妄想として退けるのは簡単だが

小説家・木卓も
人はおそらく人生の大部分を妄想に費やして生きているはずである。妄想こそ意識だというべきだし生活だといっていい。ただ人は恥ずかしがって口を噤んでいるだけだ。

と、 「馭者の秋」で書いているのである。

それはともかく、広島在住のMくんと携帯電話で話していて、僕は無性に広島へ行きたくなった。
広島球場で東出のプレーを、野村監督の采配を見たい。厳島神社へ行って平清盛を偲びたい。何よりも広島の牡蠣を食べたい。その時は、Mくんに一宿一飯の負担をかけることになるだろうが、どうぞよろしく。
ところで
福井新聞1月1日号の28面、29面に高橋源一郎vs赤坂憲雄の対談が載っていて、そこに日本のこれからが暗示されているような気がした。

高橋・・一番奥の田んぼで米を作っているおじいさんに聞いたら「いつかみんな原野に戻る。それでいいじゃないか」と。つまりゆっくり階段を下りている。小さい共同体だからそこそこ仲も良くて、一軒の家で世間話をしたりテレビを見たりで孤老がいない。みんな静かに下っていく暮らしです。威厳があってヒューマンです。いいなと思った。
で、これは一体何だろうと考えた時に、自分たちの運命を自分たちでコントロールしている自信の表れじゃないかと思いました。・・・

赤坂・・そうなんです。で、どうするか。人口が爆発的に増えていた明治29(1896)年、昭和8(1933)年の津波の時と違うことだけは確か。当時のような「復旧」はあり得ないんです。

高橋・・そもそも旧に復するの復興は、高度成長から続いた右肩上がりの延長を想定したものです。でも、日本の近代化が地方を切り捨てて中央が繁栄し、余った物を地方に分け与える形で成立していた以上、経済のパイが縮小して分配が困難な今の時代は、原理的に不可能です。なのに大半の政治家は3・11から2年近くたっても「できる」と言う。恐ろしいことです。

赤坂・・もう一つ。明治以来の人口急増に伴う食料対策として、全国の「裏」や「潟」を埋め立てた歴史があります。そうして生まれた水田や、水田をつぶしてつくった新興住宅街が丸ごと流され水没してしまった。海の怖さを知る漁村と違い、建てちゃいけない海辺の低地に家を建て、街をつくっていた。これも日本の近代化の一つの顔です。

高橋・・親鸞の「往還回向」のように行きと帰りに例えると、日本の近代はずっと往相、行きだった。今は還相、帰りで文明の規模が縮小してゆく。本来それは悪いことじゃないはずです。確かに、ずっと上がってきた人が坂を下るのは恐怖でしょう。でも人間の一生だって上がって下りていく。これが恐怖なら、生きることが怖いということになってしまう。上がってきた過去を振り返りつつ、後からくる世代を「今度は君たちの番だね」と見やる。これが社会というものじゃないか。これからの時代、下りていくイメージを持って世の中を考える必要があるし、実際そうなっていくだろう。そこで鍵になるのはコミュニテイづくりだと思います。・・

というふうに、対論は続いていた。

2013/01/01 (火) 新しい年のスタート

写真ではよくわからないだろうが、私の左手はパンパンに膨れ上がっている。



大晦日の前の日の深夜、私は風雪のなかをひとり歩いていた。考え事をしながら歩いていた時、突風に押されて路上に転倒した。転倒の際、左手を出して体全体の衝撃を吸収しようとした結果、衝撃がそこに集まり手の甲・指はしたたかに打ちのめされてしまったのである。
あれから一昼夜を経過したのだが、腫れは引かず熱を持ったままだ。

寝正月を決め込んでいるので生活に支障はないのだが、好事魔多しというところか。
缶ビールを飲みながら年賀状を眺めていると、ケーブルテレビやインターネット配信で私の議会一般質問を見ている女性が何人かいらっしゃることにちょっと驚いた。
私が「あわら市議会のアラン・ドロン」と噂されたのは過去のことであり、現在の私には往年の美貌は既になくテレビ写りも平均レベルでしかないと謙遜を込めて言うのだが、それにしてもこういう賀状をいただくのは嬉しいことである。
頑張らねば、と思う。