2013/03/05 (火) 観月観世

曽野綾子著「観月観世」を読み終えた。サブタイトルが「或る世紀末の物語」とあるが、まさにその通りで、深夜に薄暗がりの部屋で読むのに最適の本だった。


あとがきで、著者はこういうことを書いている。
「前略・・この五十年来の土地は、西に向かって眺めが開けていて、有名な相模湾の夕陽が見られる。私は昔から夕陽と月を観るのが好きだった。陽を見るのが好き、という嗜好を行動に移すのはきわめてむずかしいから、人は月を眺めるほかはないのだが、夕陽と月はいささかその人の心理に関係がある。
私は昔から、というより、子どもの時からずっと死を想う性格だった。毎日死を想わない日はない。「死を想え(メメント・モリ)」という言葉は普通のキリスト教徒の日常にも生きていて、信仰を深く生きている人なら、三度の食事後と、朝と就寝前、少なくとも五度は、死を想いつつ祈るはずだ。しかし私は始終祈りをさぼっているから、折り目正しく死を想っているのではない。
夕陽も月も一日として同じ姿を見せることはない。私は夕食にてんぷらを揚げかけているような時刻でも、ほんとうに陽が落ちるのが見える日には、てんぷらの揚がり具合を犠牲にしても落日を眺めに立つことがあった。この夕陽の輝き、この月の趣は二度と見られないのだから、食事の支度などどうでもいいと思うのである。
その時、私はいつも同時に自分の死を想っている。世の中の作家には、生に向かうタイプと死に向かうタイプとがある。というが、私は明らかに死を対象にものごとを見て来た作家だと想う。
死だの海だのを見ていると、次第次第に現世の評価と大きな誤差を生じる。いわゆる型通りの人間の執念の対象になるような世の中の姿勢から、大きく離れてくる。その代わり・・何か秘密の世界が生じる。大したものではないが、世間では通じにくい。・・・後略」