2013年06月

2013/06/30 (日) 感謝


昨日、オープンカフェで夕陽を眺めていたところに、妻が大きな花束を持って現れた。


築士まきさん


「お父さん、長い間、ご苦労さんでした。これは、私やこどもたちからの贈り物です」と、言う。


直後にひとが集まってきて、麦酒・焼酎・清酒的宴会が始まり、私もにこやかに相槌を交わしていたのだが、「俺みたいな男にこんなことしてくれるなんて・・」と、心の中で涙を流し続けていた。

2013/06/29 (土) 深夜にサントリーレッドを飲みながら

日本人は道が好きで、例えば相撲道、茶道、華道、色道といろいろあるが、「何故、酒道が無いのだろうか」が私にとっては不思議である。「極めるべきは茶よりも酒」と、成年男子の誰もが思っているはずなのに・・。
 

最近、白ワインの虜となっている私には、雫が舌をころがる時の酩酊がかもし出す気品が全てだ。特にボルドーの1935年ものがいい。これをワイン道の奥義の見極めといわずして、何と言うべきか。
 

かっての私は宴会などで人としゃべりあうための道具として酒が好きだった。素敵な女性に耳元で甘くささやくための道具として酒が好きだった。勿論甘くささやかれもしたが、そういう自慢は私には不得手。事実だけを申し上げ批評は他者に委ねる。
 

かっての私と今の私とでは雲泥の差がある。今の私にとっては、ワイン自体が言葉を発する。豊穣な言葉を発する。雫に包まれた言葉が胃の淵で融け始め、横になったり飛び跳ねたりする。そこに人はいらない。気障に言うならば、グラスの淵から静謐でかつ豊穣な世界が見えてくる。酔うとはつまりそういうことなのである。


今はないけれども、昔は酒の上での失敗もあった。


ある時のある昼、私は友人宅で、一時間強でサントリーオールド一本を空けてしまった。
 

事務所に戻った私は2階への外部階段を登ったが、無茶苦茶に酔っ払っていた私に登りきることのできるはずがない。4段目でひっくり返り後頭部をしたたかに打ってしまった。どれほどの間気絶していたのかはわからないが、気がついたら青空が広がっていた。そして、胸がズキンズキンととてつもなく痛いのだ。医者に診てもらったら、肋骨二本骨折で、サラシを頑丈にまいてもらった。
 

問題は、その時が金津町議会議員選挙告示日の直前だったということ。
福祉会館の2階和室で聴衆を相手にマイクを持って立候補の弁をしゃべっていたのだが、多弁になるに連れて胸の痛みはひどくなった。耐え切れず、私は上半身を裸にした。
「金津町の行く末を考えると胸が痛んでどうしようもない。そのことで繊細な私の胸にヒビが入ってしまったのです」と苦行僧のような顔をしてしゃべった。
・・マイクを持っての弁舌など所詮人騙しではないだろうか。
全然話は変わるけれども、昭和23年の昨日、福井大震災が発生し3800人の方が亡くなった。僕は昭和24年の1月生まれだから、その時、僕はお袋の腹のなかにいた。家は崩壊し、僕は納屋で生まれたそうだ。
合掌      

2013/06/28 (金) 大森氏 おおいに語る

 昨日の朝、、広報編集特別委員会が終了して事務所に戻ると、大森氏から電話があったので昼からは御自宅へ。
 俳句の話が切り出しで、交流のあった文人たちの話へとテーマがうつっていったが、最後は予想どおり三好達治の思い出話となり「象徴詩とは何か」の講義となった。三好、井伏、宇野、杉田、白州などからの自筆の手紙が沢山あり、奥の部屋から出してこようとしたので、「いえいえ、ひとりで見るのは勿体無い。今度みんなと来ます」と答えたのだが、本当は夜の飲み会の時間が迫ってきていたためそれを口実にして御自宅を退去したのだった。
93歳とは思えない矍鑠たる語り口は、聞いていて勇気づけられる。



 夜は、芦原温泉某旅館で広報編集特別委員会の打ち上げ会。議員6人のうち議員を辞めるのは私だけ。よって慰労の意味も兼ねて、私だけが会費なしだった。


 「ただなんやから思う存分飲んで思う存分食ってやろう」と思って会に臨んだのだが、思いのほか飲食が進まない。意識下に会費をださないことに対する引け目があったためだろう。「やっぱり飲食は自腹を切らなければ駄目だ」と、私は思った。


 自宅に戻りベッドに入ったが、一匹の蝿が部屋のなかを飛び回ってうるさい。仕方なく近くのコンビニへ蚊取り線香を買いにいった。そうこうしているうちに酔いがすっかり覚めてしまって寝付けない。仕方が無いので森村誠一著「南十字星の誓い」を読み始めたらこれが滅法面白く、一気呵成に読み終えた時には既に朝だった。


 徹夜のあと、これから製図の仕事に入るのだから、私もまだまだ若いのかもしれない。議員会計の残金数万エンが手元にあるので、今晩からでも旅に出ようかなあ。 



 旅に出るためにはそれに似合ったいでたちでなければならない。
ということで、今朝は先ず靴専門店へ行き、イタリア製のカジュアルシューズを購入。次にベルト専門店へ行き国産牛革製を購入。次に若者ファッション店へ行き、デニムのブルージーンズを購入。
 買い物を終えてから最後にレストランへ入り、五目ラーメンを注文した。濃厚な塩味が僕好みだったので、レジのところで「とても美味しかったよ」と礼を言ったら、係りのお嬢さんはしばらく絶句したあと、「ありがとうございます」と微笑みながら頭を下げた。微笑返しである。キャンデーズである。
 決して商売用ではない心底からの表現だった。そこから恋が生まれるかもしれないのだから、「美味しい時には美味しい」と、はっきり言うことが必要なのではないだろうか(「不味い時には不味い」とはっきり言うことが必要かどうかはわからない)。                

2013/06/27 (木) 本日の手話サークルは休会です


本日の広報編集特別委員会が実質的に最後の公務。
そして昨日入ってきた二本の電話が「ご苦労さん会をやろうよ」の内容で、こういう飲み会にかなり飽きがきているのにも関わらず、設定していただくのはありがたいことで、特に一本目の電話の方はあの銘酒「黒龍」を持ってきてくださると思えるので、大変恐縮しております。


夕刻に、妻及び子ども達に「ありがとうございました」の自筆書き金一封封筒を渡し、妻からは「お父さん、らくになったやろ。やっと自由の身やね。でもこれからは設計の仕事頑張らなあかんよ」と激励されて「そうや、設計コンサルの入札資格申請書を提出せねばならんのや」ということを思い出し、更には、議員年金受理のために年金機構事務所へ行ってこなければならないことに思い至り、要するにそのあたりの事務手続きがあるので、「しばらくの間、心の旅に出ることもできないかなあ」と、思っています。




それはともかく
なんというか、石川啄木は今でも生きており、今からあともずうっと生き続けていくような気がします。


呼吸すれば 胸の中にて 鳴る音あり
        木枯しよりも さびしきその音


不来方の お城の草に 寝転びて
         空に吸われし 十五の心
 


己が名を 仄かによびて涙せし
         14の春に かへるすべなし


東海の 小島の磯の 白砂に
      われ泣きぬれて 蟹とたはむる


いたく錆びし ピストル出でぬ 砂山の
     砂を指もて  掘りてありしに


たはむれに 母を背負ひて そのあまり
       軽きに泣きて 三歩あゆまず



高きより 飛びおりるごとき 心もて
      この一生を 終るすべなきか



非凡なる 人のごとくにふるまへる
     後のさびしさは 何にかたぐへむ



それもよし これもよしとて ある人の
      その気がるさを 欲しくなりたり



人といふ 人のこころに 
    一人づつ囚人がゐて うめくかなしさ



わが抱く 思想はすべて 
     金なきに因するごとし 秋の風吹く



かにかくに 渋民村 は恋しかり 
     おもひでの山 おもひでの川



石をもて 追はるるごとく ふるさとを
      出でしかなしみ 消ゆる時なし
                  


2013/06/26 (水) 謝謝

 昨日のブログに蜂の巣消滅のことを書いたが、その原因となった人が、(謝罪を意を込めてだろう)オープンカフェに植栽の鉢をそっと置いていってくださった。



 ハチ(蜂)消えて ハチ(鉢)現るる 夏の朝

このような人ばかりだと世の中はもっとよくなる、と私は思った。謝謝です。
 どうでもいいことだが
昨日電話で話しをしていた女性から「今回のあわら市議選で、私は牧田さんの名前を書きました」と言われた。無効票がやっぱりあったのだ。
 昨日の午後4時から、中央公民館で「ふるさとの川竹田川をきれいにする会総会」が開かれた。私は市議の立場でこの会の役員だったのだが、市議を辞職するので総会出席も今回が最後。
後任議員に誰がなるのかは知らないが、町の中央を流れている竹田川はまちうちの風景の原点とも言えるので、頑張って川の浄化や河川敷の活用法について積極的に提言していただきたいと思う。
 昨晩で「藤沢周平全著作集」第一巻・第二巻を読み終えたが、江戸期、裏長屋に住む市井の職人達がこの短編オムニバスの殆どの主人公で、家計維持の困難さやら女との痴情のもつれやらに陥った時、心の弱さからサイコロ賭博に手を出し、ヤクザにしめあげられ、絶望の淵にたどり着くのがエンデイングという鬱屈いっぱいの小説だが、同じく鬱屈気分蔓延の私にとって、魂救済の小説という読後感をもたらしてくれるから不思議だ。                

2013/06/25 (火) 昨日の一日

私は彼女の創りだす無(リャン)を追いかけて明けくれていた

これはドビッシーの言葉なのだけど、私も又そういう日々を送っているような気がする。





ということはともかく
いつのまにかオープンカフェの蜂の巣が消滅した。

   
   


消滅した理由は複雑なので、興味がありましたら、議会事務局で聞いてください。


それはともかく
共産党市議Y氏の電話で、昨日の朝、吉崎へ行った。
原水禁大行進が石川県から福井県に入った為だ。同席した副議長によると、あわら市内にも被爆者手帳を持っている人が二人いるとのこと。



行進隊と一緒に歩きたいと思ったが、歩行困難者の私が歩けるのはせいぜい1.5kmなので諦めた。


午後は、元金津町助役のE氏宅へ。
一昨日の「ふるさと語ろう会フィールドワーク」のレジュメを持参し、当日の内容を説明した。
途中から話題は市議選にうつり、「ああいう結果でよかったなあ」ということで、両者の意見は一致した。


ということはともかく
7月6日に「多賀谷左近三経公奉賛会設立記念講演会」があります。どなたでも、おいでください。

 
2013/06/24 (月) 新しい週の始まり

昨日は「ふるさと語ろう会・フィールドワーク」で、「雨夜塚」と「坂ノ下八幡神社界隈」を訪れた。

「雨夜塚」についての講師は、知る人ぞ知るY氏。





「坂ノ下八幡神社界隈」についての講師は、私。


私は、以下のようなことをしゃべった。


● 金津町坂ノ下八幡神社境内界隈。金津のまちうちで唯一江戸期の風景がそのままに残っている場所。

・ここ北陸道の細呂木方面に向かって左手に位置するのが八幡神社。この金津宿を発つと次にみえてくるのが細呂木宿なので、昔は細呂木口と呼ばれていた。

・坂ノ下という地名の由来は北にみえるのが友平山で西坂を降りきった場所にあるから。

・坂ノ下の地名がついたのは徳川幕藩体制成立の後である。なお江戸期、北金津には毎年7月に市がたち、坂ノ下も市は3日と12日にたった。

・奥州平泉に落ちのびる源義経や越後に流された親鸞の通り道でもあった。


●八幡神社。祭神は譽田別尊(ホンダワケノミコト15代応神天皇)および大日雲貴尊(オオヒルメムチノミコト)。

・由緒沿革。後小松天皇・應永元年(1394年)金津の地頭溝江氏が武運長久のため三州鳩の峰より勧請。その後、兵火に会い慶長年間(1596年頃)神殿再建。文化年間(1804年頃)拝殿再建。その後明治7年村社に加列。
・八幡の語源は、①大分県の旧地名に拠るとする説、②誉田別尊の誕生を多数の「のぼり」を立てて祝う祭りに拠るとする説、③大陸の帰化人である秦氏が氏神としたからとする説などがある。
・奈良時代は「ヤハタ」と呼ばれ、平安時代に入ってから「ハチマン」と呼ばれるようになった。この神社は武運長久のための神社である。


●大きい石塔がふたつ並んで立っている。むかって左手・題目塔の建立は文政2年(1819年)で右手・名号塔の建立は天保12年(1841年)である。
・巳年3大飢饉というのが有名で天明5年乙己(1785年)、天保4年癸己(1833年) 明治2年己己(1869年)とあるので、題目塔が天明大飢饉の、名号塔が天保大飢饉のそれぞれの餓死者を弔うためにできたのではないか。
・お題目は、日蓮宗で唱える「南無妙法蓮華経」で、名号は菩薩の名「南無阿弥陀仏」である。


●むかって更に右手に見えるのが青楼無縁塚。建立は明治22年(1889年)3月。
・「姫川の 俤ゆかし 枯柳」(不老庵・寿山)と書いてある。姫川は竹田川を指す。

・青楼には妓楼の意味があり、すなわち金津宿にいた遊女たちの墓である。

・無縁とは、稲作農耕体制から距離を置いているひとたちあるいははじきだされていたひとたちの謂。聖・山伏・巫女・鋳物師・木地師・上人・海民・山民・クグツ・遊女等である。青楼無縁塚の無縁は、遊女を指す。
・安永2年(1773年)の記録には、旅篭60軒、揚屋20軒、遊女屋7軒、遊女61名とある。


金津八日町箒はいらぬ 揚屋小女郎の裾ではく
八日町通れば二階から招く 紅い鹿の子の振袖で

という唄が当時の人々の口端にのぼっている。金津宿の遊郭が隆盛を誇ったことのあかし


●宿場女郎が旅人の袖を引いた遊里は、北金津と言われた宿場集落にあった(稲荷神社)。

・金津領村鏡に拠ると、安永2年(1773)当時北金津は戸数411、人数1394(男728・女666)。遊女が61名も居たのだから、女性の数が多いのかと思ったら逆に52名少ない・・。

・遊理は、その北金津の三丈山を取り巻いている旧八日町一帯にあった。当時稲荷山の地には20余軒の娼婦が居って我さきにと客を呼んだ。三弦の音、太鼓のひびきやかましく稲荷山にこだましていたという。
・金津が宿場町として栄えた理由のひとつに吉崎御坊の存在があげられるだろう。

・蓮如忌が始まったのは宝歴2年(1752年)。御影が4月23日の夕方吉崎に到着し、5月2日まで、毎年とり行なわれている。


● 坂ノ下地蔵。御堂はこの坂ノ下に住む大工の中村さんによって建てかえられたが、地蔵そのものは寛政9年(1797年)7月吉日に建てられた。

・なお、寛政年間というと徳川幕府が江戸市中における男女の混 浴を禁止したときである。
・地蔵は仏の脇にたつ菩薩だが、庶民的な存在でそれぞれの地蔵 さんにあだ名のついているものが多い。それらの地蔵さんを異名 地蔵という。


●観音堂。もともとは八幡神社境内にあった。中に33体の観音像が安置されている。しかし、うち12体を京都で修理した。
・越前観音巡り33番が決定したのは、延宝6年(1678年)。金津町内で札所になっているのは御簾尾の龍沢寺、金津小学校横の総持寺、宇根の宇根観音堂の3ケ所。
・なお、それから12年たった 元禄2年(1689年)8月10日に桃青・松尾芭蕉が金津に立ち寄っている。


とまあ、こういうことをしゃべっているうち正午になった。


注:次回のフィールドワークは
金津町伊井「応蓮寺」
7月27日(土) 午前8時30分~
講師 円道昭一氏
この「ふるさと語ろう会」も3年目に入って会員が徐々に増えてきています。老若男女を問わず興味のある方は、是非、ご連絡を(→73-0863・牧田まで)。
年会費は¥3000ーです。


フィールドワークは午前中で終了し、疲れた私は昼寝に入ったが、夢にうなされた。精神分析医に「夢判断」をしてもらおうかと思ったけれども、一方で夢は秘密のもので人に内容をしゃべった瞬間、全てが胡散してしまうのではないかと思い、止めた。


起きてからは旅の準備。準備といってもきのみきのままで行くのだからなんにも準備する必要はなく、するのは「心の準備」だけだ。第一、行き先を決めていない。若い頃、大阪駅で「表が出たら東へ行こう。裏が出たら西へ行こう」と決めて10円玉を空中へ投げたことがあるが、そのようなカタチになるだろう。議員時代の予定調和的なグループ旅からの決別だ。「一寸先は闇」が人生の真実なのである。


そのあとはPCの整理だ。不要となったデータやソフトプログラムを次々と消して「ゴミ箱」に放り込んだ。残したものは、これから重要となるであろう「CADデータ」プラスアルファだけとなった。PCを身軽にしたら、心の汚れが掃除できたような気がした。若かったころの純真な牧田青年に戻ったような気がした。

2013/06/23 (日) 無題


昨日は、元原発労働者・斉藤征二さんの「講演・原発で働いて」が開かれた。夜は、6人が斉藤さんを囲んで飲食(私はビールと冷酒と横に女性)。


建屋内構造の不備を説明する斉藤さんの言質に、私は、元原発ジプシーとしての強い説得力を感じた。


そして
「私の人生は残り少ない。全ての原発を廃炉に持ち込むまで、全国を講演してまわり続けることに、余生の全てを捧げます」という彼の言葉と表情には確かに武士の気概があった。


本日は、「ふるさと語ろう会・フィールドワーク」で午前10時に金津小駐車場に集合。行き先は雨夜塚(総持寺)→坂ノ下八幡神社境内界隈。
興味のある方はお気軽にどうぞ。

2013/06/22 (土) 久しぶりの外食


昨晩は議会活性化特別委員会の打上げで、委員6人と事務局3人が某料亭に集まった。
委員6人のうち、私と同じく議員を辞職する丸谷氏が冒頭で「議員を続けられるみなさんは、引き続き頑張ってください。・・」と、委員長挨拶をしたあと、無礼講となった。


久しぶりのビールは美味しかった。竹田川から聞こえてくるせせらぎが耳に心地よいBGMとなっていたからだろう。私は飲んで心地よくなる時はいつも寡黙になる。寡黙になることによって、過去のさまざまな思い出が、鮮明に美しく浮かび上がってくるからだ。


脳内出血の後遺症で発語はおぼつかなくなってきたが意識の流れだけは変化がない。「不思議だなあ」と、時々思う。

2013/06/21 (金) 昨晩の手話サークルで思ったこと 

昨晩の手話サークルに加賀市からやってきた男性に対して、手話を勉強したい動機を私が尋ねたところ、「左耳の軟骨が融けて、左耳は全く聞こえない。今は右耳がまだ大丈夫だが近い将来の完全失聴に備えて手話を習得したい」という答えが返ってきた。横に座っていたFさんが、「僕の場合は、左右の鼓膜が破れて、近い将来の完全失聴に備えて手話を勉強している。その意味では動機がおんなじや」と、口をそろえて言う。


手話サークルは、聾唖者と健聴者のコミュニケーションサロンだと思っていたが、実は我々健聴者も聾唖者予備軍に属していて両者に屹立したベルリンの壁などないのだと思っていた方がいい。もっと言えば全ての健常者は障害者予備軍なのである。

2013/06/20 (木) 深夜にアイス珈琲を飲みながら

二日前に新議員の伝達式があわら市庁舎正庁であり、昨日の私は議員ロッカーから諸々を撤去し、議員生活も6月30日までつまりあと10日を残すのみとなりました。


このブログを書き始めたのは2000年6月で、一回目の選挙の時のウグイス嬢の旦那さんの「これからの議員はブログを書くことが義務やぞ」という薦めがあったからで、当選して2年後くらいに書き始めたと記憶します。


議会であったことを生真面目に書いているうち段々書くことが苦痛になり、近い友人から「肩の力を抜いて書けや」と言われるようにもなりました。


生真面目一筋の私がリラックスして書くことはこれも又むつかしいことだったのですが、「内容ぐらいどうでもいい。毎日書くことだ。継続こそ力なりだ」を座右の銘として一念発起し、雨の日も風の日も雪の日も書き続けたのですが、書く場所が屋根の下だったので天候は関係ありません。


6月いっぱいで、義務としてのブログから開放されます。今までは「有権者のみなさんに向かって書く」という態度だったのですが7月からは「自分自身に向かって書きたい時だけ書く」という態度に変わります。
つまり私はになります。風のように消え風のように現れるのです。


ということはさておき
今朝薔薇の枝を眺めたら蜂の巣に住まう蜂の数がまたまた増えている。





これでは、オープンカフェ:「薔薇の館」が「蜂の館」になってしまう。かといって蜂がせっせとつくってきた巣を壊すのは、「自然との共生」という私の信条に反することになる。困ったものだ。
それはさておき
午前8時50分、サッカーのコンフェデレーションカップで日本はイタリアに3対4で敗れた。残念だが、しかしこんな面白い試合見たことがない。日本選手では、岡崎の動きに印象づけられた。さすがに岡崎と言うだけのことはある。なぜなら、岡崎とははるか昔のガールフレンドの名前であるからだ。

2013/06/19 (水) ただ今午前2時

昨晩は4人が「講演・原発で働いて」についての打合わせのために集まり、9時に散会した。


みなが帰ったあともなかなか眠れず、仕方なしに布団のなかで「藤沢周平全集」を読む。


ということはともかく
早朝に広報編集委員会提出の原稿を書き終えた僕は、とんぼさんからいただいた「五木の子守唄」を頭の中で歌っていた。


おどま  盆切り盆切り
盆から先ゃ 居らんと
盆が早よ 来りゃ 早よ戻る


おどま 非人非人
あん人達ゃ 良か衆
良か衆良か帯 良か着物


おどま 嫌嫌
泣く子の 守りらにゃ
泣くと言われて 憎まるる


おどんが 打死んちゅうて
誰が泣ゃあて 呉りゅうきゃ
裏の松山 蝉が泣く


蝉じゃ 御座んせん
妹で 御座る
妹泣くなよ 気に掛かる


おどんが 討死だなら
道端ゃ 埋けろ
通る人毎 花上ぎょう


花は 何の花
つんつん 椿
水は天から 貰い水 「五木の子守唄」



30代の頃、(今は県内では有名人になってしまった)Yくんと夜な夜な酒を飲み交わしていた時、酔うほどに彼の口から出てきたのがこの唄で、「五木(イツキ)=滅びた平家を斎く(イツク)唄だと解説してもらった。


確かに哀愁を帯びた歌詞とメロデイから、単なる子守唄でないことはわかる。

2013/06/18 (火) それは実に感動的な光景だった

それは実に感動的な光景だった。


二ヶ月ほど前から、我が家のオープンカフェの薔薇の枝に巣づくりを始めた蜂子さんが初めて蜂男くんを連れてきたのである。いや、蜂男くんが蜂子さんを連れてきたのかもしれないが、蜂の雌雄を識別できない僕にとって、それはどちらでもいいことだ。





時折、一方の蜂の頭が他方の蜂の尾っぽに擦り寄っていく。


我々人間はこれを見て、69(シックステイナイン)型性愛だと、下卑た笑いに浸ってしまうのであるが、蜂族にとってそれは違う。それは子孫を残すためのノーマルで崇高な愛のカタチなのである。


人間は性愛の四十八手などという型を考案してきた。しかしそれは欲望族(今でいうセレブか)の金持ちバカ男バカ女の肥大した欲望が追及してきた結果のバリエーションであって、我々善良な市民とは無関係のものだ。


現に僕は三つの型(上型・下型・横型)しか経験したことがない。

2013/06/17 (月) 無題

それにしても不思議な選挙戦だった。私も15年間議員をやってきて立候補者のいろいろな選挙スタイルをみてきたが、こんなのは初めてだ。


告示日の三日前に立候補の意思を固め、選挙ポスターが各地区掲示板に貼られたのは告示日を過ぎてから三日目で、選挙カーは持たず、選挙事務所もなく、支持者が立候補者のところへ激励に行こうにもどこへ行っていいのかわからないという不思議な選挙戦だった。

 



だけど、これが原点に立ち戻った本来あるべき選挙だと思えて、むしろすがすがしい気分を持てるようになった。


下の写真は当選が確定した候補者の横で祝辞を述べる私(撮影者女性・ 年齢不詳)








それはともかく
心の旅が近づいてくるにつけ、思い出すのが高橋三千綱著「九月の空」で、この小説のなかで高橋は次のような二行詩を書いている


空 凍る
空 溶ける


私が知る限り最短の詩だ。私の空が溶けるのがいつなのかはわからないし、溶けるまでに死んでしまうだろうが、それはそれでいい。

2013/06/16 (日) 立候補者のみなさん 選挙戦、ご苦労さんでした

昨日の朝、頼まれたCADにいそしんでいた時、越前市在住のひとから電話が入り、「あわら市議選立候補者一覧を福井新聞で見たが、牧田さんの名前がない。今からでも遅くはない、立候補すべきや」と諭された。そのひとはどうやら、本日が投票日ではなくて告示日だと勘違いしていたらしい。


その間違いを指摘し、出なかった理由を説明した私はついでに今後のつまり余生の送り方についての方向性をしゃべった。先方は「そーか、それなら旅の人となるべきやね。一年間ほど行ってきたらいい」と言うが、勿論妻子ある身にそれは不可能で、コマギレ旅の人が関の山である。

2013/06/15 (土) ある回想

歩く某候補者のうしろを愛車・トウデイに乗ってついて回ったが、場所場所で面識の無い御中年、御老人から、「牧田さん、今回は何で出ないんや?期待してたんだぞ」と頻回に声をかけられた。体や精神の不調のこと、充分ながい間やったことなどを理由として挙げつつ、「ありがたいことです。申し訳ありませんでした」と深く頭を下げたのだが、じっくり考えてみると・・


前回、私に入れてくださった方をカウントしようとしたが、頭に浮かぶのはせいぜい40名で、50名を超えることは、まずない。
つまり殆どは知らない方ということになり、じゃあ相手方は何故私を知っているのかという疑問が残る。


中学校二校問題が始まるまでは、A4裏表ペーパー「菜の花通信」を数ヶ月に一度ずつ配信していたが、それも自分の足で歩ける近隣区限定のもの。しかし、始まってからは情勢がめまぐるしく変わるので、ペーパー書き込み配信を止めてしまった。


ケーブルテレビでの議会放映などがある程度浸透してきているからかもしれないし、議会報告会がある程度浸透してきているからかもしれない。であるならば、議員をやっていた15年間が人生のなかでプラスだったかというとそれはわからない。やっていて良かったと思う面も、やらなきゃよかったと思う面も双方あるわけで、結局はプラスマイナスゼロということだろう。人生そのものがプラスマイナスゼロであることを考えると、当然なのかもしれないがね。


いずれにしても、ご支援してくださった皆さん、「クソ このバカ!」と思ってくださった皆さん、15年間どうもありがとうございました。謹んで御礼申し上げます。                   

2013/06/14 (金) 市議選は後半戦

三国土木事務所での打合わせを終えた帰り、「創作の森」へ行った。
コトノハで珈琲を飲むためだが、この店の主人兼店員=Kくんとは30年来の付き合いだ。「ブログに書いているうみぼうずもいいけど、たまにはここへも来てや」と言われた。





私が喫茶店へ行く時は「ガールフレンドと一緒(その都度違う女性)」を原則としてきた。市議なのでそれを見られるのがヤバイと思い、あわら市内というか越前国を避け、加賀国片野海岸へのドライブを定番としてきた。


しかし7月からその懸念はなくなる。自由の身となるのだからこの店へもちょくちょく来れる、と私は思った。


話のテーマは「わちらの会」のことに移った。その第1回目は「三国未来館」での「スノー・フレイク」。・・あの頃は楽しかった。「又、時々やろうや」「やろうやろう」ということでコトノハをあとにした私は、ブランドショップへ行った。ジーンズシャツ購入のためだ。


ということはともかく
今回の市議選で縦貫道路沿い(例えばユース前例えばビッグマート前)での立候補者による辻立ちの風景が見られないのが不思議である。通勤の車でラッシュになる時間帯には辻立ちでマイクを持って手を振った方がいいと思うのだ。どうせドライバーには聞こえないのだから「アイウエオ・・」と発声練習していたって構わない。芦原地区と違って金津地区(特にまちうち)は立候補者が乱立しているのだから、パフォーマンスも必要じゃないかなあ。
誰かが「今回の選挙は盛り上がらんなあ」と言っていたけど。焦点の無さに加えて辻立ち風景の無さも要因として挙げられよう。


ということはともかく
きのうは暑かった。今年最高の暑さではなかったろうか。
こういう時、思い出す詩が高見順・「炎天」で


空に演説会がある
真昼の正午
人間には聞こえない声を
万物がしーんと聴いている
どこかで
石が
音を立てて乾いている
   


「石が音を立てて乾いている」という文字表現で、読み手の私の体が干烏賊になったような気分になる。


そして、この詩から私は芭蕉の次の句を連想する。


閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 


石も岩もそんなに違いはあるまいに、高見順の石は硬質、反発的で芭蕉の岩は軟質、吸収的だ。


思うに昭和期の日本人と元禄期の日本人との美意識の差に拠るものだろう。芭蕉の岩は苔むしていたに違いない。苔むしていれば、蝉の声は苔によって吸収されていく。

2013/06/13 (木) 市議選折り返し日

前にも書いたけれど、私が住む地区は草刈り場となっているので、選挙カーがひっきりなしに通る。だから、個別の立候補者から今回の選挙に対する思いを直接聞くことがよくある。


昨日の昼に立ち寄った立候補者が、「今回の選挙は盛り上がらないなあ。前回は二校問題があって激しかったけれども、今回の選挙は焦点がないのが理由のひとつだ。・・それと、芦原地区5名、金津地区15名という異常さも大きな理由だ」と言っていた。聞いている私は、「付け加えるならば、地区推薦選挙ばかりなのも理由のひとつだろう」と思った。


昨日の朝に我が家の畑がある場所で某男性(インテリ・推定年齢64歳)と推薦の話になった。
「各地区に推薦依頼に来るのは、立候補者の自由だ。けれども推薦するかどうかは理事だけで決められているのが実情だ。地区推薦というからには、地区の総会を開いた上での決議を経るのが当然ではないか」と、言う。この手の話は以前にも何回か聞いたことがあるので、私は大きく頷いた。

2013/06/12 (水) 市議選四日目

このところ毎晩藤沢周平全集を読み返している。「海坂藩シリーズ」や「彫師伊之助捕物覚え」などが好きで50代前半に読みふけったものだが、文章の背後に深い鬱屈が感じられるような気がして、それが陰気を基本とする私の性格に合うからだろう。


藤沢周平原作の映画に「武士の一分」(主演・木村拓哉)がある。何年か前に議員視察研修で大阪へ行った帰りのバスのなかで、このDVDを見た。


映画が終わったあと誰からともなく、「あわら市議会でもこの映画をつくろうではないか」という声が出た。私は眠ったふりをしてみんなの意見を聴いていた。


「主演のキムタク役は牧田しかいないだろう」とみんなが言う・・当然だ。


「キムタクの妻役は女性議員がひとりしかいないから、それで決まりや」・・年をとっているけれども仕方ない。


「悪代官役は容貌の点で〇〇議員や」・・はまってる。


というふうにバスのなかの会話は続いた。結局、資金繰りができそうもなく、映画づくりは幻に終わったが、議会を去るに当っての心残りはこの一点につきる。


今朝、某男性(推定年齢70歳)から電話が入ってきて
「『立候補者達は素早く駆け寄ってきてかたく握手し深々と頭をさげる。しかし彼らが当選してからの4年間、その謙虚な気持ちを持ち続けているかというと、非常に疑わしい。謙虚な姿勢を忘れないでほしい』とブログに書いてくれ」と、言われた。


確かに有権者の多くはそう思っている。だから私の評判もどんどん悪くなっていったのだろう。

2013/06/11 (火) 市議選三日目

今回、私の住むところからは立候補者が出ていない。つまり草刈り場になっているからだろうが、街宣カーがよく通る。そこで、CADの合間の一服を玄関脇の野外チェアですることにした。こうすれば、立候補者たちに、遅れず手を振ることができる。前回の選挙戦までまで街宣カーに乗っていて、手を振ってもらうことの嬉しさを十分わかっているからである。


野外チェアに座っていて、街宣カーの声が聞こえてくると、金津祭りの中日(なかび)にいるような錯覚に襲われる。街宣カーが祭りの山車(だし)に思えてくるからだ。


古代において政は政と祭を併せ持っていたとよく言われる。つまり祭政一致というやつで、卑弥呼の政治などその典型だろう。であるならば、候補者は各地区の本陣前で車を降りて、パフォーマンスでもなんでもいいから思いをしゃべったらいい。有権者が誰に入れるかは、その立候補者の肉声の叫びで判断すべきなのだ。ついでながら、聴衆にマイクを向け、質問に答えることが、立候補者のひととないをより鮮明にする。


ということはともかく
昨日の昼、元市議のYさんが来訪。「昼飯を食べにいこう。おごるぜ」と言われた。恐縮しつつ私はYさんの車(ベンツ)の助手席に乗り込んだ。某レストランに入り、私はメニューを見て平均的な品を注文した。Yさんは「あかんあかん・・ビンボーな牧田はんが日頃口に入らないものを食すべきや」と言って、最高級の品を注文し直した。この一点において、私はこういう人を尊敬するのである。

2013/06/09 (日) 本日は市議選告示日

1週間の選挙戦が始まりました。立候補者の皆さん、頑張ってください。
健闘を祈ります。

2013/06/08 (土) 無題

昨日が市議選立候補の供託金を納める締切日だったので、これで立候補者数20名が確定したことになる。


20名のうちの現職16名はよく知っている人たちであり、新人のうちの2人については出馬宣言ビラを読ませてもらったし、かつ、そのうちのひとりとは直接会って話を聞いたし、他の新人もひとりを除いてよく知っているひとばかりだ。


「パブロフの犬」よろしくスピーカーがなりたての騒音から逃れるために告示日をはさんでの沖永良部・心の旅を計画していたのだが、仕事の依頼が重なってこれを延期せざるを得なくなり、近場の海辺に移動事務所(愛車トウデイ)を動かしてのノートパソコンCAD三昧となるだろう。



それはさておき、今朝起床時に読んでいた「松平春嶽のすべて」(三上一夫・舟澤茂樹編)で、私は橋本佐内のことを考えた。


大老井伊直弼によって処分された春嶽が家督を支藩糸魚川の松平茂昭に譲らなければならなくなった時、左内は責任を感じ、自殺を考えた。
春嶽は左内を呼び出して、「家臣に罪が及ばなかったのは幸いであった。いよいよ任務は重いのだから、愕然のあまり卒爾のふるまいがあってはならないぞ」と諭した。佐内は涙の溢れるのを覚えた。


その左内は村田氏寿あての手紙において
「もっとも御上書は十のうち九まで御自身でお書きになり何度も推敲なさいました。当日になって私が少しくご添削申し上げました。定めて福井のご家老衆の中には、どうかと思われるようなこともあろうかと存じます。
殿様には、その辺のご勇断は十分おありになりますが、天下の奸雄豪傑を篭絡遊ばすご手段には乏しいように見受けられます。ただご誠心一辺倒で、撥乱のご器量ではないかのようで、そこが物足らなく存じます。しかし海外のことについてはいろいろお考えで、近頃は私の意見もご賢判、ご取捨下さいます」と書いている。


要するに身分制の厳しいあの時代において堂々と春嶽批判をやっているわけで、もしも凡庸な殿様だったら首をはねられても仕方ないところだ。
春嶽や左内を筆頭に人材を多く輩出したのが、幕末の福井藩だったのである。

2013/06/07 (金) 本日は図面締め切り日

名前にさわる
名前ともののばからしい隙間にさわる
さわることの不安にさわる
さわることの不安からくる興奮にさわる
興奮がけっして知覚のたしかさを
保証しない不安にさわる  大岡信「さわる」


昔からこの詩が好きで、だけど言おうとすることがちゃんとわかっているわけではなく、むしろ「わからないから好き」が正直な感想で、第一、名前にさわることなどできるはずがない。
好き嫌いに理屈はないのだということを、15年ほど前にFM福井のスタジオでしゃべった記憶がある。


このことは私の専門の建築設計でも言えるような気がする。
私は40代の終わりまで(つまり議員になる前まで)設計活動に専念してきたが設計した建物のうち最も好きなもののひとつが、事務所を開いてから初めてのこの「橋本小児科クリニック」(越前市帆山町)だった。





これも何故好きなのか、理由はよくわからない。わからないから好きなのだ。


とは言え、私をよく知る数人のひとたちは私のことを「愛の狩人」と呼ぶ。容貌からだけでそう呼ぶのではなく、はやい話、酒を飲んだら女の話ばかりするからそう呼ばれるのだが、下世話な話のなかにも時折、真実のきらめきがあるのだそうだ。
例えば、昨晩の手話サークルでの話のテーマは、「老人ホームのなかでの性」だった。


徳川綱吉のブレーン・新井白石は、ある冬の晩、火鉢をはさんで母親と対座した。白石が「母上、女性の性欲は何歳くらいまであるのでございましょうか?」と問うたところ、母親は顔をあからめながら火鉢の箸で灰を指した。勿論、「灰になるまで」の謂である。


ということで老人ホームや介護施設での男女間のもめごとは絶えないそうだ。介護施設への入居が近い将来となってきた私は、そのようなもめごとに巻き込まれるのが嫌なので、介護女性が南金津の某女性となってさえくれれば望外の喜びというものである。

ということはともかく
ウーン・・二人オーバーか。立候補者が増えるのはとても良いことだが、又金津で、金津15人、芦原5人という構図になる。芦原の人は一体どうしたんだろうね。

2013/06/06 (木) 昨日の朝

昨日は大野・朝市への旅を予定していたのだが、先方の都合で急遽キャンセルとなった。そこで私は某氏宅へ行き長時間の懇談を楽しんでいた。


「今、あわら市は生涯学習館の開館を前にして歴史の道づくりなどで盛り上がっているがそれはまちうちだけの話であって、相対的に郡部は置き去りにされている。しかし郷土のあちこちに歴史はあるのだ。牧田くん、歴史を点のままでおいてはならない。線へとバージョンアップすることで全体像が見えてくるのだぞ」と先方は言う。そういえば安政の大獄で井伊直弼に殺られた吉田松陰は、「歴史は地理だ。若者よ旅をせよ」と書いていた。
・・我が意を得たりと思いながら帰宅したら、妻がひとりで朝飯を食べていた。


私が某氏の上述の話をしたら、妻は「おとうさんはもともといいかげんな議員やと思っていたが、少しは成長したのかも知れない。小学校3年生程度の常識を身に着けたことを誉めてあげる。そして・・議員を辞めたらおとうさんの事務所へはますます変人が集まるでしょう。それはいっこうに構わないのだけど、我が家は新築で借金をした。議員報酬がなくなるのだから、これからのおとうさんは、まず建築設計の仕事を一生懸命することよ。それが家族に対する配慮というものなのよ」と言うのであった。



ということはともかく
本日の昼はCADの合間にDVDで「あかね空」(山本一力原作)を見ていた。数年前に原作は読んでいたのだが、映画でもう一度あの時の読後感を味わいたかったのだ。


時代背景は江戸期、そして舞台は江戸。
豆腐職人・清兵衛(石橋蓮司)は永代橋で、息子・正吉を見失う。それから20年の歳月が流れ、清兵衛は病魔に襲われ、臨終の場で、正吉を見失ったことを妻・おしの(岩下志麻)に謝る。20年間片時も忘れなかった思いを妻に打ち明けて死んでいく。私はこの場面でスイッチを切るしかなかった。

・・・
しかしその2時間後、私は又DVDのスイッチを、点けてしまった。
清兵衛の息子・栄吉は不慮の事故で死に、悪党・平田屋がこれ幸いと清兵衛の店を乗っ取ろうと画策するのだ。そこに現れたのが、傳蔵親分(内野聖陽)でこの男、博打場を仕切ったりする悪党なのだが、悪党としてのけじめはちゃんと持っている。傳蔵親分には眉毛がなく恐ろしいほどにいかつい男だ(そういえば私の右眉毛も円形脱毛症で消えつつある。両側眉毛なしと、片側眉毛なしとでどちらがより恐ろしいのだろうか・・よくわからない)。
エンデイングでの傳蔵親分の活躍がすばらしい。傳蔵親分は、殆どしゃべらない。しゃべらないかわりに眼力がすごい。


DVDを見終えた私は、「男はだまってサッポロビール」なのだと、キリンビールを飲みながら思った。

2013/06/05 (水) 昨日の一日

昨晩、福井市二の宮での住宅改修設計の討ち合わせを終えて帰宅し、缶ビール片手にテレビのスイッチを入れたら、画面はサッカーワールドカップ予選・日本vsオーストラリア戦で、本田がPKを成功させた瞬間だった。当然応援席は歓喜の渦で、こういう時には歓喜が日本国じゅうを駆け巡る。右翼も左翼もノンポリも、つまり自民党も民主党も共産党もはたまた私のようなノンポリも一瞬、愛国主義者となるのである。


しかし
昔、雑誌を読んでいたら、そこにはサッカーの起源が書かれていた。国家間の戦争があって、戦勝国(確かイギリス)の兵士が相手国の兵士の生首を戦利品として自国に持ち帰りけとばして遊んでいるうちに遊びがルール化されたというものである。・・随分、なまなましい。そう考えるとサッカーボールが可愛そうに思えてくる。
ということはともかく
昨日も何件かの今回選挙の立候補者のひととなりについての問い合わせが入ってきた。そして、ここからが重要なのだが、男性達からは音声電話で、女性達からはメールで入ってきた。これは男性と女性の気質の差を物語っていると思った。


もうひとつ感じたことは、個別立候補者に対する市民一般が持っている印象と議会内にいた例えば私が持っている印象とでは大きな落差があるということ。
勿論、事なかれ主義の私は、「みなさんいい人たちですよ」と心とは裏腹に答えたが、これは事なかれ主義に加えて「去るものは黙して語らず」の精神が働いているからなのかもしれない。

このブログをご覧のみなさん。金津・柿原地区にある」「多賀谷三経公墓所」をご存知ですか?
7月6日に「多賀谷左近奉賛会設立記念講演会」があります。是非、ご来場ください。
ところで
今朝、私はお袋をJR芦原温泉駅まで車で送った。敦賀高女の同窓会があるためだが、助手席でお袋が「腰は曲がったし足は痛いし駅の階段登るのえろうてかなわんわ」と言う。私は「だけど、駅にもうすぐエレベーターが設置されるらしいんや」と言った。


お袋は「そんなもん、どうでもええわ。私ら年寄りはどうせ家んなかにこもってるだけやで」と言う。


お袋がよぼよぼ後期高齢者で、息子の私が脳内出血の後遺症に悩んでいるよぼよぼ前期高齢者という構図は近未来日本の縮図だ。


元長野県知事・田中の「ピンピンコロリで健康長寿社会を目指そう」というキャッチに私は違和を感じる。長寿も短寿も宇宙の歴史のなかで言うと「永遠のなかの一瞬」でしかないのだから、いい頃合に死んでいくのが、人類社会にとってはベターじゃないのかなあ。


2013/06/04 (火) 昨晩の憩い

昨日の夜は、某カラオケ喫茶。




持ち歌の「港町ブルース」を歌ったが、歳のせいで声量に陰りが出始め、恐らくは昨晩の「港町ブルース」がこの世での最後の披露となったことであろう。


次にウオッカをぐいっとあおったあと
私は布施明の「そっとおやすみ」を歌った。この歌ならば声が弱弱しくても、いや、弱弱しいからこそ哀愁を帯びたバラードとなるのだ。私の歌を聴く聴衆(と言っても3人だけだけど)は、スーツの袖でブラウスの袖で涙をふいていた。


ところでカラオケ三昧に入る前の政治談議で、「今度の市議選で牧田さんは誰を推すのですか?」と問われて答えに窮したよ。
「地区推薦を受けない人がいればその人を推すけど、まずいないだろうなあ」とだけ答えるにとどめた。
聞こえてくる声で大きいもののひとつが「何故、金津地区から女性が立候補しないのか。立派な人材が沢山居るのに・・」というものであって、これには同感で出れば当然推したいが、そもそも立派な人材=議員という構図など無いのではないかなあ。

2013/06/03 (月) 新しい週の始まり

昨日は日曜日だったので散髪に行った。
帰宅し熱い風呂に入り、湯上りの顔を鏡で見た。円形脱毛症による右眉毛の禿げが相変わらず目立つ。このままではますます人に逢うのが億劫になると思った私は主治医に携帯コールをかけ、「顔のよさが生命線の私にとって危機的状況だ。「禿げ科」を持つ病院はあるのだろうか?」と問うたところ、「もともと恐ろしい顔なので、眉毛の有無などどうでもいいんじゃないか。しかし心配なら行くべきところは総合病院の「皮膚科」だろう。」との答えが返ってきた。


一服してからオープンカフェに出た。白薔薇の枝に巣作り中の蜂が一番先に目に入る。




相変わらずせわしなく動き回っている。私はその蜂がたまらなくいとおしくなった。


目を転じると、隣の鉢木に蓑虫がぶら下がり始めている。




そのまわりを一匹のありが歩きまわっている。私はそのありを「あり子」と名づけようと思ったが、損害保険の会社を思い出させるので嫌になり、やめた。


ということはともかく
いろんな予定が入ってきて、沖永良部への旅は無理になったような気がする。しかし、3圏内(越前・加賀・近江)の近場の旅ならできるのだ。近江の国なら、先ずは琵琶湖湖畔だ。


. 近江海 夕波千鳥 汝が鳴けば
            心もしのに いにしへ思ほゆ   柿本人麻呂



人麻呂は夕暮れ時琵琶湖の西側湖畔に立って、群れをなす千鳥を見ている。見ながら、かってあった近江の都の繁栄を思い、全てが滅び去った現在との落差に身をふるわせるのである。
とまあ、これが日本史的解釈なのだが、おなじような気分が私の人生史とも重なり、ヨヨヨと涙が胸の中を流れる。

2013/06/02 (日) 昨日の一日

既に「仕事の鬼」となっている私は昨日もCADに追われていたが、合間をみて「金津創作の森」へ直行。そこでは「森のコンサート」が開かれていた。


入居作家の山口さんは海外生活がながかった(主にボストンだったかな?・・ニューヨークのカーネギーホールにも出たという噂を聞いたが本当ならば素晴らしい)。


だから西欧風クラシックになるのだろうと思って出かけたのだが、オープニングでは会場が真暗となり舞台のあちこちから蝋燭の灯りが揺らぎ始め、私は「ウーン・・蝋燭ショーになるのか」と期待したがそれは違った。


御輪塔をチーンチーンと鳴らしながらの演奏が始まったので、「これは御詠歌ソングだ。海外で西欧風クラシックに慣れ親しんでも、年をとると、アーチストの心のなかで日本回帰が始まるのだ。例えば川端康成がそうであったように・・」と、私は思った。
しかしそう感じたのは、私の単細胞アタマのせいだった。


バストロンボーン、パーカッション、フルート、ピッコロ、琴エトセトラの楽器が奏でる旋律に、しっかりと破調を聴いた。破調・・これがアートなのだと私は、思う。


5番目の作品・「夏は夜」。
冒頭でスキンヘッドの作曲者(山口さんの友人)がマイクを持って、作品の成立過程をしゃべった。清少納言著・枕草子」にヒントを得たらしい。


夜な夜な白ワイン片手にオープンカフェに出る私には、これがよくわかる。星空もいいが、闇夜が最高にいい。漆黒の闇に視力が閉ざされた時、私は全身聴覚となる。白日の下では決して聴こえない音が聴こえてくるのだ。「サウンド オブ サイレンス」なのだ。
それはともかく
夕刻にウイスキーを飲みながら人生を考えていたら、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、初めて会う御婦人だ。招き入れたら、「独身です」と自己紹介された。


何年も何十年も、独身女性との会話などしたことにない私は、ドギマギしてしまった。
仕方なく、私が独身だった頃の(このブログに書き込めないような)経験談を、酔いに任せてしゃべった。
相手女性は「すごく面白いですわ。牧田さん、その経験を小説
に書いたらどうですか?」と言われて、それがお世辞だとわかっていても、少し嬉しかった。

 2013/06/01 (土) 6月初日

橋下大阪市長に対する問責決議案を否決したことの経過を考えると、大阪市議会は大阪市民どころか全国民を呆れさせたに違いないが、その自己保身性は議員報酬の額の大きさ故のものかもしれない。大阪市議ならば、福井県議以上の報酬をもらっていると推測されるからである。ついでながら、公明党は党名を日和見党に変えた方がいい。



それはともかく
一昨日の晩の来訪者(男性)からこんな話を聞いた。


十数年前のある晩、彼の奥さんは大阪市内の雀荘にいた。勿論、麻雀をしていたのだが、トイメンに座っていたのは、山口組組員。白熱したタタカイの最中に、突然組員の携帯電話が鳴った。
話し終えた彼は、「アニキがやられた。すまんが中座する」とつぶやき、懐から出した万札の束を麻雀台の上に置き、そして(ここからがすごい)・・・シャツの上に防弾チョッキを覆ってからスーツを着て出て行ったそうだ。まるで高倉健の世界である。