2013年07月

 2013/07/31(水) 七月最終日 
 
今年は第六十二回伊勢神宮「式年遷宮」ということで、僕は三日ほど前に奉祝御衣裳を某氏からいただいた。

昨日の夕刻に突然来訪したKさんに写真を撮ってもらったのだが、似合っているだろうか。



というよりも
現世を超越しつつある僕のことだから、似合っているに違いない。

それはともかく
彼らが帰ったあとに、DVDで「山本五十六」を見た。日独伊三国同盟に反対していた山本が、連合艦隊司令長官として心ならずも日本海軍を引っ張り、戦場の露と消えるまでの苦悩を描いた映画。
太平洋戦争で失われた300万の命のうちの90%は山本長官死後のものだという。
早期講和を誰よりも願っていた山本は、草葉の陰でこの事実をどういう思いでみつめていただろうか。

心は二つ 身は一つ   山本五十六


2013/07/30 (火) 七月ももう終わりか


7月からは、仕事と旅の日々となるので市庁舎へ行くことなどほぼ皆無だろうと思っていたが、現実は全く違って、日参している。それがいいのか悪いのかはわからない。そういう人生なのだろうと思うだけだ。


昨日午前中の来訪客3人との間でのテーマは「金津・歴史カルタをつくろうよ」。
話はおおいに弾んだが、なぜならばみんな童心に返った気分になったからだろう。げに「大人は子どもの夕暮れ」である。


市庁舎から戻った夕刻に、先日の参院選で民主党から立候補した藤野さんが関係者と共に来訪。そういえば、僕は開票日の三日前に藤野さんの奥さんを連れてあわら市内をまわった。


原発銀座と言われている福井県で、原発反対を明確に言いにくかったのは、支持母体である連合のなかの電力労組の反対が強かったため、と彼は言っていたが、原発内作業の連続で若死にした友人を持っている僕としては複雑な気分。そもそも原発依存経済の基礎を作ったのは、自民党中曽根内閣の時である。


沖縄県で基地問題が焦点となったように、福井県では原発問題での論議が焦点となってしかるべき、と思ったのだが・・。


2013/07/29 (月) 夜明けにトリスウイスキーを飲みながら


昨日は生涯学習館において 明社(あわら市明るい社会づくり推進協議会)通常総会が開かれた。


議事が終わってからの記念行事は
①在宅ケア紙芝居(DVD)
「ひとりでも住み慣れた自宅での生活を望んでいるAさん」
①講演会「坂井地区における在宅医療の取り組み」
講師 北川ひで子先生
(坂井地区在宅ケアネット在宅医療コーデイネーター)





僕が昨年、突然指名を受けて会長になって、殆ど何もわからないままに、一年間が経過してしまった。しかしながら、「明社・つまり明るい社会とはどういう社会であるのか」ということをずっと考え続けてはいた。


ということで本年度から、何かしら新機軸を打ち出せたらいいなあ、と思っている。


2013/07/28 (日) 応蓮寺


昨日の午前8時半に「ふるさと語ろう会」のメンバーが伊井・応蓮寺に集まり、旧金津町元助役Eさんによる講話が始まった。





演題は「畑時能と応蓮寺」。以下、Eさんの話の抜粋を紹介。


畑時能は、武蔵野国に生まれ南北朝時代に南朝方の新田義貞、脇屋義助の側近として活躍した武将であった。新田義貞の死後、鷹巣城(福井市高須町)で足利の北朝方と奮戦したが敵わず鷹巣城を抜け出し平泉寺と豊原寺の中間地点にあたる北郷町伊知地(勝山市)の鷲が岳に立てこもり戦うも興国二年(1341年)一〇月二五日南朝方最後の武将として壮烈な戦死を遂げた。享年四一歳にして終始楠木正成、新田義貞、脇屋義助等と共に南朝忠臣としての生涯を終えた。
畑時能の一子惟能は、勤皇の志深く藤原藤房に随行して大義名分を唱えた。遺子の惟能は、父の菩提を弔うため豊原華蔵寺に入って僧となり玉泉坊道教と号した。その後、平泉寺に行き父の遺形である守本尊と楠木正成公から新田義貞、脇屋義助を経て授かった鉄笛を受け取った。戦乱が治まった後、鷹巣城址に赴き、一小庵を建て応蓮庵道教と称え、父時能及び藤原藤房公の菩提を弔っていた。
興国五年(1344年)伊伎村(伊井村)の神明神社の別当職に選ばれ、高須の応蓮庵を閉じ、父の遺形を持って伊伎村(伊井村)に移った。
正平十年(1355年)伊井村字堂の森という所に一閣を建立し、高須山応蓮庵と号し、同時に畑家の墳墓とした。
その後、時が経って慶長元年(1596年)東本願寺の末寺に加わり、「高須山応蓮寺」と申請し許可を得ると共に玉泉坊道教の開基、高須山応蓮寺は、畑時能の菩提寺として今日にいたっている。


ここで南北朝時代の複雑な時代背景についての説明があって・・

延元二年(1337年)一月足利軍は、敦賀・金ケ崎城をとりまき攻めかかる。

三月六日足利軍の総攻撃により金ケ崎城は落城し、尊良親王と新田義顕は自害し、恒良親王は小舟で河野村の海岸に着くが捕らえられ京に送られて毒殺される。


というふうに講話は延々と続き、眼前にある新田義貞ゆかりの鉄笛にたどりつくまでにはまだまだ時間がかかる・・・というより書き疲れました。詳しくはEさんに聞いてください。なお、Eさんとは円道昭一さんのことです。

2013/07/27 (土) きょうは伊井応蓮寺
 
「参院選惨敗の責任を取って辞任する細野幹事長の後任に、大畠章宏代表代行が選ばれた」という記事を読んで、7年程前を思い出した。


芦原温泉で民主党関係の政経立食パーテイが開かれ、僕はウイスキーグラス片手に、大畠さんと確か郵政民営化反対の話をしていた。
その時、ストレートウイスキーで既にへべれけとなっていた僕は、彼が右手に大事そうに持っていた革張りマル秘事項記入の手帳の上にウイスキーをひっくり返してしまった。


へべれけになっても節度を見失わない僕は、多いに恐縮して謝ったのだが、その時の大畠さんの態度は実に見事だったなあ。


彼は少しも騒がず笑みを絶やさずスーツのポケットからハンカチーフをとりだし手帳の濡れた部分をぬぐいながら、「気にしないでください、こんなもの単なる紙ですよ」と、言ったのだ。


相手はえらい国会議員のセンセだ。昔なら、磔獄門or石責めの刑を命じられても仕方の無いところだった。


その時から大畠さんのファンになったのは、言うまでもない。

2013/07/26 (金) 蚊帳について

「起きて見つ 寝て見つ蚊帳の 広さかな」は加賀千代女の句で、江戸中期に千代女の名声が上がるに連れて、「お千代さん 蚊帳が広けりゃ 入ろうか」という江戸川柳が中央で流行ったそうだが、こういうの、私は大好きだ。


それはともかく、昭和30年代の頃、蚊帳は夏の風物詩だった。座敷8帖に蚊帳を吊り、縁側の戸を開けっ放しにして横になり、庭の草むらから聞こえてくる虫の声をBGMとして夜を送っていた。


昭和50年代に流行った日活ロマンポルノに「濡れた欲情」という映画があり、この作品のなかで小道具として使われた蚊帳が効果テキメンだった。


しかし、平成の世となった今日(こんにち)、蚊帳を知っている若い人は皆無だろう。現在はリアルタイムで過去となっていくのである。

2013/07/24 (水) 宇宙

ひとりオープンカフェに出て白ワイン片手に夜空を眺めるのが日課となってから数年が経過した。その間に宇宙への興味が少しずつ増してきて、昨晩も「宇宙人類の誕生 火星へのはるかな旅」を読みながら、火星での生命存在の可能性を思っていた。


宇宙本で思い出すのが、立花隆著「宇宙からの生還」で、これは宇宙へ飛び立った人たちに対するインタビュー記録、及びNASAの技術陣に対するインタビュー記録。


印象に残ったことが二点あった。


①宇宙から地球を見て、いろんなことを感じたのだろうが、体験者の殆どが生還したのち、宗教に接近しあるいは宗教家になっている。


①有人宇宙船の場合排泄が大きな問題で、男性飛行士の場合はコンドームに排尿する。NASAはそれぞれの飛行士のコンドームサイズを自己申告させるのだが、自己申告では殆どがLサイズなのだけれども、実際に測ってみると、殆どがMまたはSサイズだった。
男は見栄っ張りなのだろう。


オクロス7月1日・・宗教家の思い 

2013/07/23 (火) 歴史カルタ

昨日午前中の来訪者・Uさんが、「『歴史カルタ』をつくりたい」と言う。「旧芦原町には歴史カルタがあるけれども旧金津町にはそれがないんや」と、立派な芦原町版を僕に見せながら言う。「足元の歴史を子ども達に知ってもらえたら、どんなにすばらしいやろう」と、続けて言う。


こういう企画は確かに悪いことではないが、作業自体は辛気くさいものであり、「いい加減に生きる」を座右の銘としている僕には苦手だ。そこで地道な作業を得手とするSさんにコール。早速来ていただいたSさんとUさんの間で話は盛り上がっていた。


馬鹿馬鹿しい選挙がやっと終わったが、これにどれだけの税金が費やされたことだろう。税金と言えば、政党交付金を受け取らないのは日本共産党だけで、赤旗購読料や会費だけで運営しているのだからそこは評価すべきだ。
自民党が嫌いな僕だがだからといって共産党好きでもないのだけれども、そこは評価すべきだ。  

2013/07/22 (月) 氷海の幻日

明け方に西木正明著「氷海の幻日」を読み終えたが、恐らく西木の実体験小説だと思われる。


主人公・榎はふとしたことが機縁で、1970年になけなしの金をはたいてアラスカへ渡り、そこで、ユーコン川一帯に野草薬を売り歩くイヌイット=ジャック・カムロを知る。榎がジャックの薬行商を手伝ううち、二人の間に信頼関係が生まれる。その頃、ジャックが実は日本人なのだという噂を榎はたびたび耳にする。


その後、いろんなことがあって榎は日本に帰り、マスコミ関係の記者としてその日暮らしに追われていたのだが、20数年後の新聞記事でジャックが事故死したことを知り、再びアラスカを訪れる。


ジャックが日本人であったかどうかを知るため東奔西走し、ついに当時FBI職員だったオコーナーの口から真相を聞く。


ジャックは2600名の玉砕を報じられたアッツ島から上官の命令により脱出し、当時米にとって重要な戦略基地となっていたアラスカへ潜り込み、極秘裏にスパイ活動を行っていたのである。


職務とはいえ、ジャックを厳しく監視していたオコーナーの胸に同時並行的に彼に対する尊敬の念が増幅されていった。


榎に対するオコーナーの最後の言葉は、「君はまだ若いから、こんなことを謂ってもわかってくれないだろうが、人間、ある年齢になると、失われた時間がとてもかわいくなってくるんだよ」だった。


この太字の部分が、何故か知らん僕の胸にすうっと入った。
と、ここまでアラスカのことを書いてきて思い出したのが牧田少年中学一年の夏休み。少年は国語の先生から、「『アラスカのヒグマ』を読んで感想文を書け」と言われてとても憂鬱になった。だって、そんな本読みたくもなかったし増してや感想文など書きたいはずがなく、勿論書かなかった。


この世に本はゴマンとあるが、文字に携わる一部の人を除いて、我々にとっての本は暇つぶし・退屈しのぎの対象なのだから、読んで楽しけりゃそれで充分だ。


今の義務教育国語がどんなものかは知らないが、感想文強制などで子ども達を窮屈にさせてはならないと思う。

2013/07/21 (日) 本日は参院選投票日

昨日は、事務室の設計コーナーを一歩も動かず誰とも会わず飯も食わず仕事に専念。ようやく午後6時に終了し、晩飯を終えたあとは久しぶりにリラックスして、DVD「蝉しぐれ」(藤沢周平原作)を楽しんだ。


海坂藩の武士・牧文四郎(内野聖陽)を密かに懸想していたお福(水野真紀)は江戸の奥勤めに奉公に出され、そこで藩主のお手がつき、側妾お福となる。一度は流産したが、殿の御子を国元の欅御殿で出産。


ここで世継ぎをめぐっての、横山派(善玉)と里村派(悪玉)の争いが始まり、「秘剣村雨」の使い手・文四郎は横山派の先鋒として獅子奮迅の働きをする。


文四郎役の内野聖陽は決して男前ではないのだが、武士道に生きる凛とした男を見事に演じていて、20年ほど前の牧田を彷彿とさせたが、それよりも印象に残ったのは里村派。
悪役の主席家老・里村佐内を演じた平幹二朗は手堅い演技を見せていた。



それはともかく
夏の盛りにいつも思い出すのは高見順の次の詩だ。


空に演説会がある
真昼の正午
人間には聞こえない声を
万物がしーんと聴いている
どこかで
石が
音を立てて乾いている   「炎天」

2013/07/20 (土) 昨日の一日

昨日はCADの締切日だったのだけれども、何人かの訪問客への対応に追われる一日ともなった。


午後6時半にCADを終了した頃、某氏が来訪。

持参した高級白ワインでの二人宴会が始まったが、当然のことながら男二人では寒々しい。そこへ7時半過ぎに美女二人が現れ、宴会の場は華やいだ。


二人こそ、三好達治の詩「くさの庵の」に出てくる白芙蓉である。


くさの庵の
くさの庵のまれびとは
まひるの庭の白芙蓉
海のこゑさへとよもして
そぞろごころのはてもなき

2013/07/19 (金) もう週末か

昨日の午後は、再び三国町の大森さん宅を訪問。

今回は、元某高校国語教諭Hさんも加わり、6人で三好達治の詩を論じ合った。先ず「春の旅人 四章」のなかの「松径」
Hさんが五七調のこの雅な詩を透き通った声で朗々と詠む。


松径

王ならば宮居の廊を
もの思ひかくはわたらむ
わがゆくは松のほそみち
海青し蝶ひとつまふ


彼方なる加賀の白山
まどかなる麦の丘べの
春の日の空にましろし
彼方なる加賀の白山


わがゆくは松のほそみち
何ごとをねがへるひまに
老いはてしこれの影とや
松の根に立てるこの影


彼方なる能登の岬は
こゑありて波のはたてに
日もすがら呼ばへるごとし
彼方なる能登の岬は


この詩が書かれた昭和19年といえば、日本人の殆どは敗戦必至を既に知っており日本軍のプロパガンダのひとりであった三好も、荒廃した戦後の情景をつまり「国敗れて山河あり」の情景をこの詩に詠んだのだと僕は思う。


ということはともかく、会の終わりに大森さんは押入れから、沢山の紙を出してきた。

一番交友の深かった三好達治の手紙や与謝野晶子自筆の掛軸や

僕の好きな縄文大好き人間・梅原猛の色紙や

大森さんの自宅近くで生まれた高見順の色紙や

なんやかんやがわんさとあって、まるで私設ミニチュア文芸館やなあ、と思った。

2013/07/18 (木) 悲しみからだって

悲しみからだって 涙という宝石が生まれる 宗左近


この「幕張西高校校歌」にあるワンフレーズは、若い時から僕の心に住みついていた。20年程前の金津小学校卒業式のPTA会長としての挨拶で、この言葉を引用したこともある。


「涙」を活字で強く意識したのは、石牟礼道子著「苦界浄土」のなかの次の一節だったと思う。


ゆりから見ればこの世もあの世もヤミに違いなか
うちは死んであの世にいっても あの子に会われんよ・・・
あきらみゅう あきらみゅう
ありゃなんの涙じゃろか ゆりが涙は
心はなあんも思いよらんちゅうが なんの涙じゃろか
ゆりがこぼす涙は とうちゃん
      水俣病41号患者 杉原ゆりの母親


そういうことで我々は苦界に住んでいる。苦界のなんたるかをより深く知るためには僧籍に入るのが避けて通れない道だとは思うが、昨晩観ていたDVD「道元」のなかで、道元禅師は弟子達に対して「只管打坐じゃ・・ 座禅に励み色欲を絶て」と厳かにしゃべっていて、色欲も又人間の避けて通れない道と信ずる僕には、僧籍の道に入ることは到底できないだろう。

2013/07/17 (水) 雑感

7月に入ったら旅の人になろうと思っていたのだが、なかなかむつかしい。実感として言うならば、議員を辞めてからの方が忙しくて、20年程前のPTA会長時代に戻ったような気がする。


あの頃と違うのは、歳月幾星霜でみんな病(やまい)持ちになったことである。一昨日、ある人の病気見舞いに行った時もそれを感じたし、私自身も6年前の脳内出血の後遺症でめっきり気弱になった。


あの頃と違わないのは相変わらず女性に関心があるということだが、質的な変化はある。つまり私の心が澄み切ってきて猥雑感なく女性と接することができるようになった。これは人間としての成長のあかしだと思う。

2013/07/16 (火) 本日はCAD三昧


猛暑が続いているが、僕の車は冷房が効かないので窓を開けて走っている。窓を開けると直射日光をモロに受けてきついのだが、風が車内に入り込んできて心地よい。この心地よさを冷房で味わうことはできないし、周囲の車が全て窓を閉ざしているので、「俺はおまえらとは違うんだぜ」というダンデイズムに浸ることもできる。更には、エコ対策ともなる。


とはいうものの
先日、ある場所を走っていた時、「冷房が効かないのね・・暑いわ」と助手席が言う。窓を開けれない事情があったので困ってしまった。


やっぱり冷房が効くようにしたいと思う。

2013/07/15 (月) 昨日は祭り中日(なかび)

何年ぶりかで、祭りを楽しいと感じました。

2013/07/14 (日) 多賀谷左近のこと 

「多賀谷左近三経の墓所」
『碑文』
多賀谷左近三経は 茨城県下妻城主多賀谷重経の長子 十三才の時石田光成を烏帽子として元服し 左近三経と号した 父重経は左近二十三才の折 茨城県八千代町に大田城を築き三万石を与えて分家させた 以来三経は結城秀康に属し 翌 天正十九年豊臣秀吉の朝鮮出兵の際は 肥前の名護屋城に出陣した 秀吉の没後 慶長五年(1600) に徳川方と豊臣方の争いが各地で始まると 左近三経は秀康の与力となって先陣をつとめ 関東方面と江戸城の守備を固めて 同年九月関が原の戦いは徳川方の大勝利となった この戦功により秀康が越前六十八万石の領主となった時その所領三万二千石 そして加越国境の鎮めに任じられた 三経は二百余戸の家臣団を引き連れて館を山十楽の島の大地に営んだ 所領の知行割は 五十四カ村に及び善政を施すこと七年 樋山・橋屋の溜め池など今も見るべきものがある 慶長十二年(閏)四月(八日)秀康が病死(三十四才)すると 左近三経も同年七月二十一日に四十一才で没し 火葬の上墓堂に納骨した 菩提所は柿原の専教寺である その後末孫虎千代は五輪の供養塔を建立した 墓堂は平成三年三月に再建して墓地を整備した(坂本豊謹撰) 


これは、去る7月6日に開かれた「多賀谷左近三経公奉賛会設立記念講演会」での講演者水野氏(朝倉遺跡資料館前館長)がレジュメとして我々聴衆に配布したものの一部なのだが・・


数年前に、伊井応蓮寺にある畑時能ゆかりの鉄笛をデジカメで撮り、我々数人がその写真を朝倉遺跡資料館に持ち込んだ時、対応してくださったのが水野氏だった。その際の氏は、鉄笛の真贋鑑定について、結構冷ややかだった。そこでちょっとだけ失望感を味わったのを覚えている。

2013/07/13 (土) 土曜日の早朝に

重松清が小説「とんび」のなかで、以下のようなことを書いている。


ひとの死を悲しむことができるのは幸せなのだ。ほんとうにつらいのは、悲しむことすらできず、ただ、ただ、悔やみ続け、己を責めつづけるだけの日々なのだ」 


これを読んで思い出したのは、フォークランド戦争に従軍した英軍兵士が戦争を回顧するTV映像だった。
彼はそのなかで、「戦死した親友を哀悼する涙が出てきたのは、戦後4年経ってから」と語っていた。


「残された者が幸せになるために悲しみの自覚がある」というアンビバレンツな言葉をほぐしていくならば、自然、宗教心になってしまうのではないだろうか、と僕は思う。

2013/07/12 (金) もう週末か

金津祭りが始まる。
一昨日の来訪女性は当番区の住人で息子(小学生)が本陣前毎に踊るので、終日山車を引っ張って歩かねばならず、「大変だ」と言う。
「祭りなんて無いほうがいい。別に楽しくもないし」と言う。


確かに当番区は大変だ。私達当番区以外の住人が、終日酒を飲んでダベリながら酔っ払っていればいいのとは訳が違う。


ずっと昔に娘から、「祭りってなんや?」と聞かれたことがあって、折に触れそれを考えるのが癖となってきた。


金津神社の祭神が、御輿に乗って各地区をまわる。つまり国見だろう。山車に戦国時代の猛将が多いのは、彼らが屈強なガードマンであるからに違いない。各地区に入る時、必ず地区の理事者の出迎えを必要とするのは、潜んでいるかもしれない魑魅魍魎を監視するためだ。つまり天つ神に対する土蜘蛛などのテロリズムを防止するための警察権力の執行と言える。


そういえば
来月3日の夜、当事務所に於いて、Uさん講師での講話があります。題して「伊勢神宮と出雲大社」。
興味のある方は牧田(73-0863)までどうぞ。



ということはともかく
ブログを休んでいる間に嬉しかったことが、タブレットをプレゼントされたことだ。
某日、Kさんがやってきて、「ながい間、ご苦労さんでした。ブログを読んでいるとこれからは旅に出るそうなので、タブレットと無線LAN親機をプレゼントする。電子本を沢山収納して旅に出るならば、荷物がかさばらないからいいよ。」と言われた。

プレゼントはいつも酒ばかりだったので、こういう高価なものを頂くと、とっても恐縮する。大事に使っていきたい。


というわけでCADに専念していたきょうの昼下がり、Y氏(元議員)が文芸春秋を持って現れた。「昼飯を食いに行こう。おごるぜ」と言うので、喜んで車に同乗した。着いた先は、大きい蟹の看板で有名な料理店。
確かに美味しい。下戸で運転係りのY氏を前にして特製ビールを二杯飲んだ。


「牧田はんみたいな貧乏人には絶対来れん店やぞ」と言うので、私は、「違う違う、僕も何回か美しい女性(複数)を連れてこの店に来たことがある」と返すと、氏は「嘘つけ、どうせ女におごってもらったんやろ」と言う。


「女性にはおごり男性からはおごられる。これが僕の生き方の基本です」で僕は締めくくった。


帰りの車のなかで、「牧田はんは議員辞めてすっかりリラックスしたみたいやなあ。これからは市民の床屋談義など気にせず生きていける。充実感を味わえる。」と言われた。・・実は一昨日の晩、そっくり同じことを妻から言われた。加えて「お父さんは私達が結婚した頃のお父さんに戻ったみたい。素敵よ。」と言われたのである。

2013/07/11 (木) 久々のブログ

7月2日に日本を脱出し、ローマ・パリ・カタロニアと渡り歩いた今回の10日間の旅で一番印象に残ったのはカタロニア。


「永遠」という抽象的概念を、地上に具現化しつつあるともいうべきガウデイ設計のサグラダ・ファミリアをじかに目にしたことで、建築家の末席に連なる私は望外の幸せを味わうことができた。




というのは真っ赤な嘘で、実はパソコンが動かなくなってしまいブログを書くことができなかったのである。パソコン修理店へ持っていったら、「中の基盤がやられています。新品を買うと、7,8万くらいかかります」と言われ、「7,8万あれば近江や加賀の国へ優雅な旅ができるのだから、なんとか中古の基盤を探して廉価で対応してほしい。幸い、ノートパソコンがあるので、仕事(CAD)はなんとかこなせるし、日数にいとめはつけない」と申し上げて修理店をあとにしたので、やっときょうから動くようになったのです。

2013/07/02 (火) 昨日の一日

昨日は、議員年金受給のことで、年金事務所で相談をしてきた。帰りにあわら市庁舎へ所用で寄りロビーに座ったら、組織議会を中継中。


15年間の議員生活で、中継を聞くのは初めてだが、考えてみると当たり前で、いつも議場にいて、中継される側だったのだ。


事務所に戻ると、盟友Tさんから電話。8月に予定されているコンサートの件で相談にのってほしいとのこと。「港町ブルースから始まった私と音楽との関係は死ぬまで切れないのだな」と思った。


盟友Sくんから電話が入り「来週お酒を持って事務所に伺います」と言う。彼は選挙の度に銘酒「黒龍」を持ってかけつけてくれたので、「貴方よりも「黒龍」を待ってます」と答えたら、「あれ? 最近のブログから判断するに、白ワイン一辺倒じゃなかったのですか」と言うので、「ま、アルコールやったらなんでもいいです」と、丁寧に答えた。


夜は福井市二の宮町で業者を交えて住宅改修の打合わせ。帰途、盛り場に寄る。カウンターの中年女三人組から「金津の議員はなっとらん」とのお叱りをいただいた。こういう時は下を向いてひたすら飲むしかない。中年女というのはとにかく喧しいのである。


久しぶりの盛り場だったが、「もう来るまい。私が愛するのは孤独なのだ。事務所のオープンカフェで白ワイン片手に夜空の星をみあげているのが一番だ」と思った。


   咳をしても一人  尾崎放哉

2013/07/01 (月) 雑感

本日は組織議会が開かれる。先日の市議選で当選した議員達により議長以下が決まり、これから二年間の議会体制が確定する。


18名の新議員のうち17名はよく知っているので、「この人はいい、この人はよくない」といった個人的感情がどうしても出てきてしまうが、ともあれ、新体制が決まったら、全員、粉骨砕身一生懸命働いてほしい。公務を個人的理由で欠席するなどもってのほかであり、そのような議員には我々一般市民の血税を議員報酬として与えてほしくない。


世の中、インターネット社会になってきたし、昨年から「議会報告会」も開かれるようになり、議会と一般市民との間の距離は縮まってきた。我々一般市民が議員達の雇用主なのだから、議会あるいは議員個人をおかしいと思えば、雇用契約破棄のつまり解職請求の運動が持ち上がるかもしれない。

ということはともかく
本日は年金機構。