2013年08月


2013/08/31 (土) きれた

きのう僕はきれた。唇がきれたのではなくて頭がきれた。襲ってきた暴漢の持つナイフで頭がきれたのではなく、なんと言ったらいいか・・頭の中が怒りで真っ白になってきれた。公務員の対応に対してきれたのである。


僕は昔から面従腹背主義を貫いてきた。僕の事務所に来訪する人たちがはげしく行政批判をするのを聞くと、「まあまあ〇〇さん、そんなに怒らずに。行政職員は難関を突破して役所に入ってきた頭のいい人たちなのだから、純粋培養故の世間知の無さについては大目に見てあげないと。人類みな兄弟ですよ」というふうに、事なかれ平和主義的考えを信条としてきた。


その僕がきれた。もう済んだことだから本当はどうでもいいのだが、一夜明けても怒りの残滓が少しだけ腹の底に残っているので、あらましを書き込もう。顛末はこうである。


県の出先機関から提出書類の不備についての訂正指示電話連絡が数日続いた。僕は書き手としての僕が不備書類を提出してしまったことでの出先機関に対する申し訳なさと、自身の事務能力の無さに対する悔恨の思いの両方で、連日訂正印を持って機関へ走った。じつは書類決済が8月中に降りないと大変困ることになるので、という深刻な事情があったのが一番あせった理由なのだが・・。


そして、一昨日だったか、「これで決済へまわりますね」と念をおして、機関をあとにした。ところが、昨日の朝、「まだ訂正してほしいところがみつかりまして・・」という電話が入ってきた。僕は少々頭にきたのだが、ここは「耐え難きを耐え・・」なのだと思い、素直に機関へ走った。そして事務所に戻り、一件落着をアイスコーヒーを飲みながら一人で祝っていた。


夕刻になり、決済がどうなったのかを心配した僕は機関へ電話した。担当者の返答は「まだ直してほしいところがありまして・・」だった。ここで僕はきれた。


「直してほしいところがあるんなら、何故それを電話してくださらないのですか。きょうじゅうに決済にまわらないとたいへん困ると言ったでしょ。」「貴方達行政職員は徳川幕藩体制でいうと士農工商の士・つまり武士にあたるのです。」と言い始めたのだが、言っているうちに「貴方達」が「あんたら」になり、「です」が「だぞ」に変わっていった。理性を維持しなければならないと思う自分と理性を喪失してもどうでもええわいと思う自分の二人の自分がいて後者の自分になってしまったので、もうどうにもとまらない。.


「あんたらなあ、おかしいんじゃねえか。なんやねん、冷房の効いた部屋で机にすわりくさって。わしは士農工商で言うと工に属する下層階級やから、あんたらの無理やりの指示にも『へえーお代官様、申し訳ありません』とひれ伏すしか能がない。あんたらが電話をかけてくるたびに高いガソリン代払うて往復しなあかんのやぞ。あんたらにはそんなことどうでもええわな。しもじもの暮らしなどどうでもええわな。なんせ親方日の丸やさかい
・・わしは指示を怒ってるんではないんやぞ。きちっと精査しまとめてから電話せい、と言うてるんや。効率を考えれと言うてるんや、効率的な指示がしもじもの暮らしのの担保につながると言ってるんや!」と言ったら相手方は「申し訳ありません」と答えるので、さらに頭にきて、私の事務所を訪れる行政批判者も、怒りはもっともっとあったんだろうなあ、と思った。


「あんたなあ、申し訳ないなんて軽々しく言うたらあかん。武士に二言はないんやぞ。だいたいやなあ、あんたらの主人は誰やと思うとんねん。知事とか市長とか議員とか思うたらバカぜよ。御主人様は税を払う者、つまりわしら一般住民やぞ。そこんとこ間違えるなよ」で、ガチャーンと受話器を置き、機関へ走って又文句を言うた。課長もいたのでついでがよかった。


本当は、これから先が一番言いたかったことだが、言ってるうちに理性を取り戻してきたので、口をつぐんだ。口をつぐめば書くだけだ。


「あんたなあ、大塩平八郎はなんで乱を起こしたと思う?。徳川幕藩体制も末期にきて、奉行など権力者たちは私利私欲におぼれ庶民達から絞り上げる重税をかすめとって喜んでいたんや。大塩はそれを横目で見て死を賭しての乱を起こしたんや。徳川幕藩体制で、元和偃武以降することのなくなった武士達つまりあんたらはただただ士の身分にしがみつけていればそれでよしとなってしまったんや。北方謙三の小説を読め。陽明学に触れよ。もっとも、わしは陽明学のなんたるか全然知らんけどな。」



大野出身の詩人・正津勉が、先日亡くなった谷川健一のことを、福井新聞に書いていた。


『お盆である。今宵は歴史ロマンに夢を馳せ、ご先祖様を偲ぼう。
谷川健一(1921-)は民俗学者。日本地名研究所所長。谷川さんは、日本人の精神的基層を研究する上で「地名」の重要性を指摘し、全国を歩き、数多くの論文を発表する。「列島・・・」はその集大成たる大著。
平泉。その地名が旅先で定着した?そこには意外な事実がある。平安時代末期の百年間、陸奥国磐井郡平泉(現、岩手県西磐井郡平泉町)を拠点として奥州を支配した藤原氏三代(清衡・基衡・秀衡)。藤原氏は熱烈な白山信仰の信者だ。
例に秀衡は、美濃の白山中宮神社(平泉寺)に阿弥陀如来像を、寄進している。藤原氏と平泉寺の浅からぬ関係を示す一事だ。また「義経記」にも、義経・弁慶の一行が奥州落ちの途中、平泉に立ち寄った一条がある。平泉寺は、奥州と畿内を結ぶ交通の要衝であった。
ところで、清衡が磐井郡の当地に居館を移したとき、いまだ平泉という地名はなかった。
谷川さんは、そこで推察される。
「(1105年)中尊寺の堂塔を建立したときには、白山社も置かれ、越前の修験の徒も、遠く奥州まで進出したと考えられる。そして平泉という地名もつけられた。平泉という地名は、はるばる越前から奥州まで旅をしたのである。地名の見過ごすべからざることを示す一例である」
なるほど世界遺産・平泉は、われらが平泉寺に由来するとは、なっとく。
それほどに歴史のある土地なのである。じつは、ここにいま一つのロマンが加わる。それは本誌記事「平泉寺裏山に黄金の釣り鐘」である。ことは本誌記事「平泉寺裏山に黄金のつり鐘眠る?」(昭和四六年六月二六日)に端を発した伝説である。いまから90年ほど前、大野市下打波在の本田さんが狩りに出かけ、法恩寺山中は女神川上流の谷で秀衡の刻銘を持つ金色の大鐘を見つけた。その後、時へて本誌に「大野の研究家大胆な説発表」(平成五年六月二二日)との見出しが躍り、話題が再燃、現在にいたる。
ほんとに黄金の釣り鐘はあるのか?小生、高校時代山岳部、ここら一帯はよく歩いた山城である。であればいつか、調査隊を結成し鐘発見をはたしたいな。   

2013/08/30 (金) もう8月も終わりか

昨日の朝、捻り鉢巻でCADにいそしんでいる時に現れた人は個性的で変わった人だった。


「牧田はんはそのまま仕事をして耳を傾けてくれればいい。5分ほどで帰る」と言ってしゃべりの口火を切った。


その人は半生の間に自分がやった仕事のなかで嬉しかったこと、残念だったこと、周りの無理解さなどなどを語っているうち、ソファから立上り両コブシをふりあげつまりアジテーションスタイルとなった。僕は、CAD操作の手を止めて彼を直視した。


ナチス政権下で聴衆の耳目を釘付けにしたヒトラー総統の美しい演説みたいやなあと、感心した。5分ほどが1時間以上となったが、僕にはとても有意義な時間帯だった。そしてそのひとの講演会を企画したいと、思った。


それはともかく
街で久しぶりに会う人から殆どの場合、僕は歩き方のぎこちなさを指摘され、そういう時、脳内出血によって残ったマヒであることを説明し、「一日一日死に近づいています」と補足している。説明している時の僕の気分はとても穏やかで、「死をじっくりと考えるチャンスを与えてくださった神様ありがとうございます」と神に感謝するのであるが、この場合実は問題がある。


神というと普通キリスト教になるのだろうが、僕はキリスト教信者ではなく(というか、キリスト教が暗黒大陸アフリカでいかに侵略主義者としてふるまったか、無知蒙昧なアフリカの民に善をほどこさなければならないという独善的な態度で、ただただ日々生きることに自足しているひとたちをどれだけ恐怖に陥れたかということをヒッチコックの映画で感じた)し、やっぱり日本神道の八百万の神に愛着を持つ。


八百万の神は、正確には、神というよりも人間だと思えてくる。嫉妬や恨みつらみ満載の演歌の帝王たちと思えてくる。これは仏教で言うところの煩悩具足を演じるアクターたちだと思えてくるのだ。そう考えれは、離婚など小さいことだ。それが非常に悲しかったら死ねばいい。半分ほど悲しかったら行き倒れになればいい。


問題は、私の場合、脳内出血によって、脳神経に異常が発生したことである。いや、異常というよりも感覚するベクトルが変わったということである。大げさに言えば4年前の私と現在の私とは全く違う人間だ。

伊集院静(夏目雅子に惚れられ篠ひろ子に惚れられた日本一のもて男)は何かのエッセーでこう書いている、


狂人とは、意識が健康でない者の総称であって、千差万別、度合いの差あり、また間歇的に一定時間のみ狂う者あり、部分的に一つの神経のみ病んでいる者あり、完全に正常な意識を失っている者なでごくわずかだ。ほとんど度合いの差であるにすぎず、しかもその度合いはレントゲンにもCTスキャンにも映るわけではない。もともとどこまでが狂疾か、度合いの問題がほとんどである以上、この線がはっきりしているべきだが、それも明確になっていない。(中略)では、何故、病院に来、入院までしてしまうのか。自分は、自分の頭がこわれているという実感を大事にしている

2013/08/29 (木) 隠者志向

Hさんに最近の心境を語り今後を相談したところ、「貴方は世捨人になるべきだ」という答えがかえってきた。ブログタイトルは妄想日記のままでいいとしても、気分は確かに世捨人に一歩も二歩も近づいてきている。


7月1日からは議員スケヂュールから解放され何もしない自由を獲得できると思っていた。が実際のところはさにあらずで、仕事・プライベートを問わずより緊密なスケヂュールに支配される毎日となっていて、当然それは不本意だ。


「世捨人」とは俗世間との関係を絶った人のことを言う。更にこの言葉は「隠者」という言葉に繋がる。「隠者」を辞書でひくと、「①人間不審者を含めて孤独な生活を送っているものをゆるく指して使われている。」とある。


とは言え、一昨日も「恩師を囲む会を芦原温泉旅館にて」と「ご苦労さん会を寿司屋にて」の出席催促電話二本が入ってきて、「オブコースOK」と即答した。夜の街へは飲みに出ないのが隠者の必須要件であるにも関わらずOKを即答するとは、自分が未完成隠者であることの証明に他ならない。第一、ブログなんかを書いている間は本当の隠者であるはずがないと思います。

2013/08/28 (水) お知らせ

先週をもって、私の事務所で開いていた手話サークルを閉鎖しました。継続時に来られた会員の皆様、どうもご苦労さんでした。


手話にまつわるいろんな思い出が走馬灯のように私の頭をかけめぐりますが、そういう感傷に浸ったところで、何もうまれはしません。一歩一歩前を向いて歩くだけです。


なお、今度は中央公民館(金津)で新しくスタートし、今までと同じく毎週木曜日、PM7時30分~の予定とのことです。

2013/08/28 (水) 旅支度

昨日の午前零時三十分。
酔いでほてった体を癒やすため、熱い風呂に入った。足のつま先から頭髪までの身体のすみずみをシャンプーで丁寧に洗い新しいパンツとシャツに着替えた。
くわえ煙草で、白ワインを持ってオープンカフェに出ると星空だ。


真砂なす 数なき星の そのなかに
         我にむかひて 光る星あり  正岡子規

を思い出した。 


「我にむかひて光る星」を獲得はしたが、そのことで悲しみが増幅される人生だったと思う。


身近な愛するひとたちとの別れを書くことに関して絶妙なタッチを持つ男は重松清だと思った私は、彼の短編集:「僕たちのミシシッピ・リバー」を持ってベッドに横たわった。タイトル「あじさい、揺れて」を読んでいるうち涙がとまらなくなった。


私はきょうから過去の全てと決別する。つまり人間が変わる。


「石をめぐる歴史と文化」についてのお知らせ

2013/08/27 (火) 

未明に
「鬱になったのでしばらくさようなら」と書いた。私の場合、鬱になると誰の顔も見たくなくなる(除・ひとりのひと)。


今回わかったことだが、このような時には設計の仕事が大変はかどる。本日も午前2時に起床してすぐさまCADの画面と相対した。現世での人的しがらみが意識の上で完全に断ち切られていて、メールや携帯電話などの猥雑音皆無で、CAD画面に100%向き合えるのである。


しかし、鬱は自分にしかわからないもので、人はそんなことお構いなしにやってくる。夕刻までの来訪者のなかには、「文芸春秋」をもってきてくれた人がいたり(これは嬉しい)、一升瓶清酒「京山水」を持ってきてくれた人がいたり(これはこれでますます嬉しい)で、そうすると心の中はともかくとして、顔はほころぶ。

2013/08/26 (月) 昨日は坂ノ下地区納涼祭

納涼になったかどうかはわからないが、生ビールとフランクフルトだけは美味かった。





地区の人の顔を見ても、若い顔の大多数はわからない。それだけ自分が年とったということだ。それは、もう充分に生きたということの証しでもあるだろう。


ということで帰宅し、酔っ払ったカラッポアタマで椎名誠の「北への旅」をパラパラめくると、こういう文に出くわした。


「・・数日前に三度目のチベットの旅から帰ってきた。平均5000メートルくらいのキャンプ旅だったので体調や視覚が日本に順応するのに少し時間がかかる。
世界のいろんな土地を旅するようになってしだいに気がついたのだが、人間には見慣れた風景の美しさには気がつかない(公式)みたいなものがあるようだ。たとえばチベットの高地遊牧民は毎日頭の上にひろがっている凄まじいくらいに大きくすきとおった青空や、夜の広がりがそのまま輝いているような銀天の美しさをあまり認識していない。伝達手段(電話など)がない土地に生きている人々だから仕方がないが、もう少し文明の仕組みが入り込んでいるネパールの山岳民族も、満天の星空などにあまり興味がない。
モンゴルの遊牧民は花に興味がない。赤道近くに点在する南の島の人々は珊瑚に関心がない。北極の人はオーロラをあまり見ようとしない。
子供の頃からそれらの美しい自然とフツーに接触しているからだろう。美しいものも見慣れてしまうと感覚が鈍磨してくるようである。
おなじように、『見慣れた醜いもの』にも関心は薄い。中国や南米の田舎はゴミだらけのところが多い。ゴミがなければどんなに美しいだろうか、と思えるところがゴミだらけになっていて、そのことの無念さに気がつくのは外国人の目だけだ。
日本で多すぎて目に入らないものは何か、と考えたときにすぐ頭に浮かんだのは「広告の看板」だった。日本は都会も田舎も看板だらけである。線路沿いの山河にこれだけ野だての広告看板が林立している国は日本だけのようだ。林立する雨ざらしの看板は汚い。
いたるところ波止めブロックに囲まれた日本の海岸風景もそれによって灰色の人工製作物にあふれかえった海岸の風景となり、美しさからは遠のいているが、よその国にそんな風景は滅多にない。
アメリカの西海岸は日本列島の半分ぐらいの長さに海岸が続いているが、波止めブロックなどまったくない。そんなもので絶えず押し寄せてくる波を防ぐことはできない、という考えが最初にある。アジアの海岸べりにも波止めブロックはない。海岸侵食が進んでいてたとえ波止めブロックが必要であってもそんなものを敷設する経済余裕がない、という今度は切実な事情がある。
日本の海や川は護岸工事がいっぱいで、これだけ人工化されている海岸が続きコンクリート溝化された川が流れている国も珍しい。
日本全体にありのままの自然の風景が急速に遠のいているのを実感する。」

2013/08/25 (日) 久しぶりのカラオケ

昨晩は某氏宅に7人が集まってのカラオケ会。





日頃の憂さ晴らしのためには、たまにこういう会を開くのもいいものです。僕は追悼の意味で、藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく)」を歌いました。


1970年だったと思うのですが、しばらくの間、神戸市長田区にあるバレー団に通って「アン ドー トロー」の練習を積み重ねていました。芦屋市にある「ルナホール」で上演された「鶴の飛ぶ日」に出演する為です。


練習が終わってからの時々の飲み会で僕が歌ったのがこの歌で、いつも目に涙を浮かべて歌っていました。

2013/08/24 (土) 雨の金沢は演歌の街だった

昨日の金沢はものすごい雨だった


本多の森会議室で「建築とまちづくりセミナー(主催:新建築家技術者集団)」が開かれ、僕は某あわら市議と一緒に参加した。


講座は「転換期の捉え方と建築家の職能(講師:櫻井康弘氏)」で、だいたいタイトルからしておどろおどろしい。



難しい専門用語が乱射されるアカデミックな講義なので、後半の部分で眠たくなってしまったが、それでも前半は面白かった。


この講師が言いたかったことは


①建築家が設計のプロでありさえすればいい時代はもう過ぎ去った。
①職能集団として、歴史・哲学・有機的デザインの構成力に精通していなければ、今日的な職業細分化による乾いた社会を乗り越えることはできないだろう。
①そのためには日本人の意識の基底にあるものの探索を不可欠とする。そしてそれは網野義彦を先人とする。
①日本がモデルとすべきは、西欧でもなくアメリカでもなく中国でもない。大国スエーデンの隣国・デンマークだ。人口200万の貧国小国デンマークだ。経済繁栄の観点からは確かに遅れているが、国民は光輝いている。・・エトセトラ


しかし・・と、僕は思った。そんな建築家は日本にいるんだろうか?


それはともかく、金沢を初めとして石川県は奥の深い県だ。





iat(石川アーキテクチュアツーリズム)発行の小冊子には建築物の見どころが満載である。今からはそんなにがつがつと仕事をせずに、時折は石川県を訪れたいと思った。


我が越前国も頑張らなければならない。私の余命はせいぜい数年だが、100年後には越前幕府が開かれているかもしれない。そう夢想することはとにかく楽しい。

2013/08/23 (金) もう週末か

いろんなスケヂュールに追われているうちに8月15日は過ぎ去ってしまったけれど、この時期にいつも思い出すのは、次の詩です。


骨のうたう(1942年) 竹内浩三


戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や


白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰ってはきましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった


ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまう
その心や

2013/08/22 (木) 本日はCAD三昧

昨日は中島道子さんを数人が囲んでの昼食会となった。


「私が戦国時代をテーマにした小説を出し続けているのは、戦乱に明け暮れ政治に翻弄される女たちは、今日(こんにち)では考えられない何かをもっているからよ」と、明智光秀、岩佐又兵衛好きの中島さんは、言う。


私の隣席の男性が「どんな人も一生に一冊は小説を書くことができると聞きます。僕も応仁の乱以後の女性の恋愛をテーマにした小説を書き始めています」と言って、その当時の時代背景を滔滔と語り始めた。


その時、隣席の隣席にいた女性が「女性経験の豊富な牧田さんなら、その種の小説を一冊くらい書けるのじゃない?」と、私に顔を向けた。


そこで私は冗談めかして、「そうだなあ・・タイトルを『私が棄てた女』にしようか」と答えるにとどめた。


『私が棄てた女』は遠藤周作の原作で河原崎長一郎主演で映画化もされていて、若い時この映画を場末の映画館で観た。


河原崎は、棄てた女・ミツを回顧しながら、「俺はミツじゃない。だけどミツは俺なんだ」とひとりごつ。


私は、あれから45年経った今でも、そのシーンを鮮明に覚えている。

2013/08/21 (水) 深夜にメロンを食べながら

昨日の夕刻は、金津神社において、戦没者慰霊祭に出席。




昨年までは金津地区市議代表として追悼文をよんでいたのだが、議員を辞めた今年からは一般市民として、遺族の方々と共に出席する。遺族でもないのに何故なのかというと、ぼくたちは太平洋戦争が終結してしかし講和条約がいまだ締結されていない時代に生まれてきた世代だから・・、ということが一応言えると思う。


隣席の高齢の方から「国は、いまだ戦争の総括をしていない。君たち若い世代がそのことを深く知っていく必要がある」と言われた。


若い世代と言われたぼくは、帰宅してから、文春文庫「あの戦争になぜ負けたのか」(半藤利一・保阪正康・中西輝政・戸高一成・福田和也・加藤陽子対談)を読んでいた。


表紙裏がこんなふうに書いている。
「「対米戦争の目的は何だったのか」「陸軍エリートはどこで間違えた」等、戦後六十余年、「あの戦争」に改めて向き合った六人の論客が、参戦から敗戦までの疑問を徹底的に掘り下げる。「文芸春秋」読者受賞。

2013/08/20 (火) 桜島噴火

桜島噴火のTV映像を見て、今年三月の議員会研修旅行を思い出した。


鹿児島を中心として、特攻基地・知覧などへ行った。鹿児島滞在二日目の朝、錦江湾沿岸を走っていた時、バスガイドの薩摩おごじょが「皆さんは運がいい。ただ今桜島が噴火しております」と言う。


今回よりも小規模のものではあったが、有名な桜島噴火を現場でこの目にして、ぼくは一種の感動を覚えた。しかし、鹿児島市民にとって、噴火による生活への影響はいろいろあるようだ。


「火山灰が降り始めると日中でも視界がさえぎられ、交通に支障をきたします。雪は降っても消えますが、火山灰は降ったら消えず、道路や屋根に積もったままです。市は灰収納用のビニール袋を各世帯に配布し、そして回収します。
例えば、このバスはスノータイヤで走っています。何故だと思いますか?・・
普通タイヤだと、火山灰のためにスリップしやすいからなのです」と、西郷のような体躯の薩摩おごじょは、我々に説明した。

2013/08/19 (月) 夏は深夜が過ごし易いのだ

先日、妻にマイカーのクーラー故障の件を報告したところ、「そのうち夏は終わる」だったので、相変わらず故障マイカーで走り回っているが、いいこともある。

本日、一番暑い時刻(午後二時)に窓を開けて三国土木事務所めざし走っていたら、黄金色に変色した稲穂があたり一面にひろがったのである。車を下りると稲穂の匂いが、私の五臓六腑に入り込んできたのである。
瞑想し、自分を「豊葦原千五百秋瑞穂国」に生ませた神に感謝せずにはいられなかった。




オープンカフェに取り付けたナイトランプの灯りで、深夜に松岡正剛の「千夜千冊」を読んでいたら、宇宙物理学者・ホーキンスが来日して講演を聞いた時の感想をこう書いている。


「ホーキングは小さかった。ぼくが会場の最後列に立っていたからだ。楽町マリオンは超満員だった。ぼくはそんな日にかぎって必ず介入してくるちょっとした都合で、そこへ遅れて入った。 ステージの中央にスティーブン・ホーキングが特殊な車椅子にへたばるようにして人工音声を発していた。いったいどこから響いているのか。ホーキングは車椅子、というよりも精密きわまりない個人用ヴィークルといったほうがよさそうなのだが、その構造に体を海老のように斜めに寄せ倒しながら、世界で唯一のキーボードを打っているように見えた。それがどこにもアリバイのない機械のような声になり、会場を響かせていた。その人工音声化した英語を、さらに木幡和枝がイヤホンで日本語に通訳していた。 衝撃的だった。話はどうでもよかった。この遠くのステージで何かをしている“生き物”が現代科学の最終目標のひとつである「全宇宙を記述する単一の理論」にただ一人敢然と挑戦しているのかとおもうと、胸が熱くなった。

ホーキングが試みてきたことは、宇宙総体の大きさにかかわる尺度の構造をあらわす相対性理論と、極度に小さい尺度の現象をあらわす量子力学とを組み合わせて、これまで誰もが成功していない理論を提出することだった。 今日の科学では、相対性理論と量子力学の両方のすべてが正しいということは、ありえない。しかしどちらかが完全にまちがっているなどということも、ありえない。そこで両者をとりこんだ理論が要請される。
これがアインシュタインの晩年このかた追求されてきた統一理論というものだ。それは仮に「重力の量子論」であろうというふうにいわれてきた。 むろん誰もその理論をつくってはいないのだが、つくる前から、そのような理論は根本的な矛盾に見舞われるだろうという予想がついている。なぜなら、もし完全な統一理論(GUT)ができるとすると、そこにはわれわれの行為もたぶん決定されていることになるはずで、そうだとすれば、この理論を探求して得られる結論や結果は、この理論自体が内包しているものだということになり、この理論への到達が不可能になるからである。

ホーキングが最初に着手したのは、この根本的な矛盾から脱出することだった。それは次のような、どこか過剰に自尊に満ちたものだった。 自己増殖する有機体のどんな集団であれ、その中の個体がもっている遺伝材料と生育状態には変化の幅がある。このことはある個体が他の個体よりも上手にまわりの世界に対する正しい結論を引き出しうることを意味する。このような個体は生き残って繁殖する見込みが大きいから、やがてはその行動と思考のパターンがまわりの世界を記述するに足りるところまで成熟することが考えられる。 そうだとすれば、統一理論は、そのような行動と思考の究極的なしくみにもとづきさえすれば、生まれるはずのものなのである。

本書の著述(といっても、「リビングセンター」という専用コンピュータプログラムとスピーチプラス社が特別設計した音声合成装置による組み合わせの記号が、さらに何人かの手をへて英語になったわけであるが)は、最初はアインシュタインの相対性理論とハイゼンベルクの不確定性原理とビッグバン理論のユニークな解説なのだが、160ページをすぎるころから、俄然、おもしろくなる。
宇宙の大局には相対性理論が適用できるが、そこには不確定性原理は入っていない。これは一緒に考えるべきである。では、どう考えればいいのか。そのことを求めてホーキングはゆるぎない自信をもって仮説の渦中に入る。その矢先、こういう決意がのべられる。「われわれが存在するがゆえにこそ、われわれは宇宙がこのようなかたちであることを知るのである」。
ホーキングはまず宇宙インフレーション理論の限界を指摘し、ついで泡宇宙の問題を整理する。泡宇宙というのは、宇宙には相転移がおこりうるのだが、そのなかには破れた対称性による“泡”のような現象が古い相のなかに生じることがあるというもので、アラ・グースや佐藤勝彦が言い出した。しかし、宇宙があまりにもはやく膨張していると、泡がたとえ光速で成長しても互いに離れてしまって“合体”がおこりにくいのではないかと、ホーキングは考えた。実際にも、宇宙の一部の領域に異なる力のあいだの対称性が残響しているはずなのだが、それは見えないからである。
ついでアンドレイ・リンデらの新インフレーション理論の限界を説明する。新インフレーション理論は「緩慢な対称性の破れ」という卓抜なアイディアにもとづいたものだが、へたをすると泡のほうが宇宙より大きくなるか、バックグラウンド輻射に大きなゆらぎがあることになるという欠陥がある。そこでリンデもカオス的インフレーションによる仮説にとりくんだ。これには相転移や過冷却がないかわりにスピン0の場が入っている。
ホーキングはこれには半ば賛意を示す。宇宙がきわめて多様に異なった初期配置から生じただろうという仮説がもっともなことに見えるからだった。しかしまだ不満なところもいろいろあった。

こうしてホーキングはロジャー・ペンローズとともに証明した有名な特異点定理を持ち出し、これによって現状の宇宙論に修正を加えていくことにする。 特異点定理は“時間のはじまり”が無限大の密度と時空歪曲率によって生じた特異点だったのではないかというもので、一世を風靡した。ここからホーキングは量子重力効果が大きくなればなるほど重力場が強くなるという可能性を導き出していく。
試みてみると、なかなかうまく進まない。やはり量子力学と重力の相性が悪いのだ。そこでひらめいたのが虚時間の導入である。それをファインマンの経歴総和法をヒントに試してみた。やってみるといろいろおもしろい。時間と空間の区別がまったくなるなるし、その大きさは有限ではあるけれど“無境界”であるらしい。これはいけるというので、組み立てが始まった。虚時間とは、時間を0まで戻すのでは、宇宙に「無」が入ってしまうので(これがアレキサンダー・ビレンキンの仮説)、それ以前、すなわち0以前まで考えようという発想でもあった。
これでだいたいの外観がつかめた。まとめると、こういうふうになる。
宇宙はほぼ100億年ないしは200億年前には最小の大きさで、そこでは虚時間の経歴の半径は最大だったにちがいない。そこは有限であるが、境界がなく、したがって特異点はなかった。やがて宇宙に実時間が動きだし、そこからカオス的なインフレーションによる急速な膨張がおこっていく。宇宙は再崩壊を避けられる臨界速度にごく近い速度で膨張し、きわめて長い期間の再崩壊をおこさなくなった。

しかし、これではホーキングのヴィジョンはおさまらない。これだけの話では、宇宙の片隅になぜ知的生命が偶発的に発現したかがわからない。それがわからないと、なぜ人間が考える宇宙の全貌がこのようなものになってきたかという最後の説明の辻褄があわないからである。
ホーキングは本書の最後で、この問題を説明する。そして、実は時間の矢には3つの種類があったのではないかと仮説する。
第1のものは「宇宙が膨張する方向に進む時間の矢」、第2のものは「無秩序を増大させる熱力学的な時間の矢」、そして第3のものは「われわれが未来ではなく過去を憶えている方向にある時間の矢」というものだ。第2の矢と第3の矢はほぼ重なっている。
もし、時間の矢がこのようになっているとすれば、宇宙の膨張が無秩序の増大をひきおこしているのではなく、むしろ無境界条件が無秩序を増大させたのだ。そして、宇宙における知的生命は宇宙の膨張期だけに出現するということになる。そして、われわれが宇宙をこのように見てきたという理由にもおおざっぱな説明がつくことになる‥。

ホーキングはオックスフォードを首席で卒業し、ケンブリッジの大学院に進んだところで筋萎縮性側索硬化症(AUS)にかかり、あと数年の命だと宣告された。
これはなんとか一命をとりとめたが、今度は1985年に重度の肺炎に襲われて気管切開手術をし、「意志伝達がほとんど不可能になった」のだ。本書にはこのホーキングを襲った事態の前後の経緯についても冒頭で説明がある。なぜなら、本書はこの激変以前に執筆に入っていたからである。このときホーキングを救ったのが学生のブライアン・ホイットだったようだ。
ホイットはワーズプラス社が開発した「リヴィングセンター」とよばれるコンピュータプログラムをホーキング用につくりあげ、スピーチプラス社の音声合成装置を加工した。もう一人、デーヴィッド・メイスンがこうした一連の装置と車椅子を合体していった。一挙的な仕事だったという。
本書を読むと、こうした危機回避が、ホーキングの理論形成上でも何度もおこっている。この“アインシュタインの再来”とよばれた男は、実に多くの科学者たちとの水際だったコラボレーションをなしとげてきた。本書を読むたのしみは、この科学的共同思考のドラマを“観劇”するということにもある。」

僕は10年近く前に大阪心斎橋の本屋で「ホーキンス宇宙を語る」を買って、帰途、JR「サンダーバード」の車内でこの本を読んだのだが、初めから最後まで何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。


松岡氏の感想文を読んでも、文章がやや平易になってはいるとしても、内容はさっぱりわからない。


ただ一点、「ホーキンス宇宙を語る」の最終章の「・・あと300億年経つと宇宙は消滅し時間が消滅する。」というところを読んで、「これは魂の救済としては仏教の『あと56億年経つと釈迦が再び地上に現れ衆生の光となる』よりも断然素晴らしいのではないか」と僕は思った。


生を受けてから何十回も何百回も通夜や葬式に出席したが、坊主がよむお経を全く理解していない。勿論、お経が和語ではなく漢語でよまれることにもその理由はあるのだろうが、恐らく和語でよまれても変わりない。


最新宇宙物理学は宗教書である。既成の宗教書が既に評価の定まったそれであるのに対して、宇宙物理学的宗教書は日々進化している宗教書であり、預言者がこの地球上に現存していて、「あと300億年経つと宇宙は消滅し時間も消滅する。」、という科学的事実に向かって預言者も又交代しつつある。


これはつまり、世界が独裁国家と民主主義国家とのタタカイで、民主主義国家が独裁国家を徐々に駆逐するという歴史的流れに、正確に対応しているのだと思える。

2013/08/18 (日) 雑感

昨日のブログで、西木正明著「凍れる瞳」の感動した部分を載せようと思い、紙データーをにらみながらキーボードを叩き始めたのですが、思いのほか時間がかかり、そのうち来訪客があったり、所用に追われたり、何よりも疲れてしまったりで、無責任にもキーボード叩きを途中で放棄してしまいました。興味のある方は、本屋で購入するなり図書館で借りるなりどうぞ。

本日の朝日新聞・天声人語に、中沢啓二の漫画「はだしのゲン」を子どもたちが読むことの功罪が書かれていて、25年ほど前を思い出した。


原爆の悲惨さを描き続けた丸木夫妻の絵画展が、県立美術館で開かれた。その時、美術館の地階フロアで感想会が開かれることになり、僕は、その会の司会を主催者の一人からおおせつかった。


僕は、事前に金津町内の保育所所長たち宛に「子どもたちが原爆のむごたらしさを絵で見ることに対して賛成か反対か?」という往復葉書を送った。


予想どうり一人を除いてみんなから無視されたが、一通の返信されてきた葉書には、「子どもたちに、歴史的意味も含めて投下された背景がわかるはずもなく、ただトラウマが残るだけなので、反対です」と書いてあった。

2013/08/17 (土) 凍れる瞳

盆休みの昨日は日がな一日読書三昧だったが、西木正明著「凍れる瞳」は、この季節にうってつけのノンフィクションだった。


北海道・旭川にある藤堂旅館の娘・良子は、昭和16年、演習のための先遣隊員として宿泊にやって来た旭川師団の田原完次曹長と知り合う。


良子と田原はやがて恋仲になるのだが、その過程で一度だけ野球の話を聞く。

田原は野付牛中学時代には野球に熱中し、甲子園をめざす全国中等学校野球野球大会全道最終予選まで勝ち進んだこともある。彼のポジションは投手で、チームの要だった。


「自分はあのスタルヒンと投げあったことがあるんですよ。昭和八年の夏、七月三十日だったと記憶しています。甲子園の出場権をかけた、道内最終予選の第一試合でした。しかしあなたも御存知のように、彼は職業野球の巨人軍に入ってからもあのとうりの大活躍で、昨年と一昨年には連続して最高殊勲選手に選ばれています。なかでも一昨年の年間四十二勝なんて記録は、当分破る者が出ないんじゃないかな。沢村だって無理だと思います。もし誰かが破るとすれば、それはスタルヒン自身でしょう。それほどの投手だもの、自分などが歯の立つ相手ではなく、ノーヒット・ノーランという不面目な記録つきで、四対零で惨敗しました。この敗戦には、自分の大きなミスがからんでいるので、今でも内心じくじたるものがあるんですよ。でもね、結果はそうでしたが、彼と投げあえたことは最高でした。生涯の誇りです。」


良子は、田原の言葉の中にあった『自分の大きなミス』の意味を、後年知ることになるのだが、それはともかく、昭和十七年十一月に田原は札幌郊外月寒(つきさむ)にある、北海道司令部に出頭を命じられ、新しく室蘭に設置される俘虜収容所長への転任の辞令を、直属上司・函館第一俘虜収容所長の畑山俊雄大佐から受けた。


辞令書と共に東条首相が自ら筆を執って書いたとされる『俘虜処理要領』と題された文書の写しを受け取った。その内容はこうである。
「仰々我国は俘虜に対する観念上其の取扱いに方(あた)りては、固より諸規に遵由し、公平なる帝国の態度を如実に中外に顕揚せざるべからずと雖も
、他方人道に反せざる限り厳重に之を取締り、且一日と雖も無為徒食せしむることなく、其の労力、特技を我が生産拡充に活用」する等、総力をあげて大東亜戦争遂行に資せん事を努むべし』
日本は戦時における俘虜の取扱いを定めた、いわゆるジュネーブ条約を批准していない。これには、将校捕虜や病弱者を使役してはならぬという条項も含まれているが、この要領の意味するところは、批准していないものには拘束されない、ということだ。


田原は、辞令書と『俘虜処理要領』を持って室蘭俘虜収容所へ赴くのだが、俘虜のなかに問題児がいた。英国陸軍ジェームス・グールド一等兵である。糧秣庫荒らしを重ねるこの男に手をやいた田原は、結局この男を重営倉に入れるのだが、男は体調を崩し死亡。
係りつけの医師から「健康に問題はない」との言質を得た後に重営倉に入れた田原に責任はないと私は思うのだが、戦後のBC級裁判で彼は絞首刑の判決を受けてしまう。


驚愕した良子は、田原の中学時代の野球部同僚達を中心とした助命嘆願運動に奔走する。それだけでは数が足らないと判断した良子は、当時旭川に住んでいたスタルヒンのアパートへ協力を求めるために行く。三日三晩入口ドアの前で寝転んで待つのだが、彼は帰ってこない。妻が男をつくってこどもと共に出奔したため、彼は荒れに荒れて、夜な夜な盛り場を渡り歩いていたのである。


しかし四日目の午前二時にスタルヒンは帰ってきた。良子はスタルヒンに協力を懇願するものの彼の態度は、「けんもほろろ」だった。良子はスタルヒンに冷酷を感じ見損なっていた自分を責めながら家路についた。そして、昭和二十一年、田原は絞首刑でこの世を去った。


昭和二十二年七月、藤堂旅館を軍服姿の白人・ハリス大尉が訪れた。スタルヒンの友人であるハリスは、「あなたが怒り、悲しむ気持ちはよくわかります。でも、スタルヒンも悲しんでいるんです。もちろん、あなたの悲しみの深さとは比較にならんでしょうけどね。あいつは、くやんでいました。畜生、せめてアイケルバーガーが執行命令書にサインする前に知ってたら、と。後でわかったことですが、アイケルバーガーが田原さんの執行命令書にサインしたのは、六月十六日でした。あなたがスタルヒンに会う前日ですよ。この点が、スタルヒンにはひどいショックだったようです。実際、彼はあなたに会うまで、田原さんが戦犯になり、死刑を宣告されていることを知らなかったんです。GHQは巨大な組織ですから、著名人が多いA級戦犯ならいざ知らず、無名の現場指揮官が大部分のBC級戦犯の動向など、われわれGHQ内部の人間といえども、関係者以外は知り得ませんからねえ」と言う。


私がこの小説を読んでいて涙を禁じ得なくなったのは、このあとのハリスの証言によってだ。


「昭和八年七月三十日の朝七時半すぎ、スタルヒンはチーム・メートと共に札幌郊外の北大の敷地内にある、北大野球場のグラウンドに入った。ネット裏に小さなゲートが作られ『第十九回全道中等学校野球大会』と墨書された大看板がかかげられていた。球場にはスタンドはなく、グラウンドと観覧席は一本の荒縄でへだてられているだけだった。旭川中学のベンチは三塁側である。対戦相手の野付牛中学はすでにベンチ入りしていて、グラウンドに出てウオーミングアップをはじめていた。
スタルヒンの目は、当然相手の投手にそそがれた。昨日もらった野付牛中学のメンバー表には、投手=田原完次と記されていた。田原は同時に四番打者だというから、打撃もいいのだろう。ほどなく野付牛ナインは準備体操を終え、それぞれの守備位置に散って、コーチのノックを受けはじめた。田原投手も、それまでの軽いキャッチボールではなく、全力投球に入った。


・・球速はまあまあだ。しかし、カーブはなかなかいい。直球とカーブのコンビネーションで勝負するタイプだな。スタルヒンはすばやく田原投手の特徴を読み取った。やがて野付牛中学の練習が終わり旭川中学の練習がはじまった。スタルヒンは捕手の瀬古と肩をならべて、マウンドに向かった。三塁側観覧席から拍手と喚声があがった。「ウイジャー、ウイジャー」「スタルヒン、今日も頼んだぞ」
三塁側だけではなく、一塁側の野付牛の応援席もざわめいた。いまや道内の野球ファンで、スタルヒンの名前を知らぬ者はないほど、彼の剛速球は有名になっていた。瀬古が、捕手の定位置に戻って腰を落とした。いつもの癖で、右腕をぐるぐるまわしてから、スタルヒンは瀬古のミットめがけて何球か投げた。いい感じだ。球がねらったところに正確に行く。あとは気持ちを安定させて、ひたすら投げるだけだ。
かねがねコーチから言われている。
・・ウイジャー、お前の問題点はコントロールだ。球威について自信をもて。大学の一流クラスでも、そうそうお前の球は打てないだろう。だから、よけいなことを考えずに、とにかくまん中に放りこめ。それから、野次を気にするんじゃないぞ。お前はいつもにこにこしているくせに、試合中に野次られると、とたんにムキになるからな・・。


コーチの言うとうりなのだ。野球以外の場では、たいていのことに耐えられる。幼い頃から母親のエッドキャに、そうするように徹底的にしこまれた。
「ここではねブイクトル、わたしたちはよそ者なの。みんなに好かれなければ生きて行けないのよ。繰り返しこう聞かされているうちに、いつのまにか腹の中が怒りで煮えくりかえっている時でも、それを笑いで殺してしまう術を身に付けた。


だが、マウンドの上ではそうはいかない。いくら顔で笑っても、心の動揺が投げる球に正直に出てしまう。


三十球ほど投げたところで、練習時間が切れた。瀬古が近づいて来て、ややのびあがるようにしてスタルヒンの肩をたたいた。


「おい、えらく調子がいいじゃないか」
八時すぎ、観客席はほぼ満員になった。客の大半は、スタルヒン見たさに集まって来ていた。八時十七分、、予定より二十分近く遅れて、球審の右腕があがった。先行は
野付牛である。「一番、二塁手菅原」
バックネットにくくりつけられた拡声器が打者の名を告げた。野付牛中学の関監督が菅原の耳元に口を寄せ、何事かをささやいた。うなずいた菅原が、一、二度バットに素振りをくれてから、バッターボックスに入った。


瀬古がミットを構えた。ノーサインである。スタルヒンは右腕を数回ぐるぐるとまわしてから、ふりかぶって弟一球を投じた。球場全体に重い捕球音がひびきわたった。続いて、審判の甲高いコール。
「ストライク!」
わあっと三塁側応援席がわきたった。スタルヒンは無表情に捕手からの返球を受け、まったく同じところに第二球を投じた。菅原がバットを振った。しかしバットがホームベース上にさしかかった時には、ボールはすでに瀬古のミットにおさまっていた。
三球目はまん中の直球。バッターは呆然と見送った。一塁側から、かすかなため息がもれた。スタルヒンは二番の三塁手星野、三番のキャプテンで一塁手の高野も連続三振に切って取った。こころもち肩をそびやかすようにして戻って来たスタルヒンを、旭川ベンチは拍手でむかえた。
噂にたがわぬ剛速球に対し、野付牛の田原投手は、試合前にスタルヒンが見抜いたように、直球とカーブをおりまぜた頭脳的なピッチングで、旭川中学にたちむかって来た。しかし守備陣に乱れが出て、一回と四回にそれぞれ一点、更に」六回には二点を失った。


いっぽうのスタルヒンは回を追うごとに調子をあげ、野付牛は六回まで毎回三人で攻撃を終えた。ここまでは、いわゆる完全試合である。
ざわめいていた観客席に、異様な雰囲気がただよいはじめた。同時に、これまでスタルヒンの快投を単純によろこんでいた観客たちの態度が微妙に変った。旭川中学の応援席以外は、いっせいに野付牛に肩入れしはじめたのだ。「おい、スタ公!お前、ここをどこだと思っているんだ。露助は、さっさとロシアに帰れ」「貴様、誰のおかげでおまんま食っているんだ、すこしは遠慮して野付牛に打たせてやったらいいべや」
この手の野次は、おもに一般観客席から飛んで来た。さすがに野付牛応援席は自制して、スタルヒン個人に対する野次は飛ばしてこない。
野次はしだいに加熱して、スタルヒンが投球動作に入るたびに、ボール、ボールという合唱すらわきはじめた。だが、スタルヒンは平然と投げ続けた。試合前自分自身によく言い聞かせていたし、もう慣れっこになっている。野次が気にならないのも、今日の好調ぶりを裏づけていた。


やがて七回表、野付牛の攻撃を迎えた。これまですべて三者凡退に打ちとっているので、打順はまたトップに戻っている。しかしそうした菅原の気迫も、スタルヒンには通じないかに見えた。彼はたちまち、ツーストライクワンボールと追いこまれた。


スタルヒンは青灰色の目で菅原をにらみつけながら、右腕をぐるぐるとまわした。自信にみちた動作だった。とどめの一球を投ずべく、両手を頭上にふりかぶった。また、ボール、ボールと連呼する声が外野方向から飛んで来た。
その時、ひときわ大声の野次が割込んだ。
「スタ公!親父が人を殺して監獄に入っているっちゅうのに、よくでかいツラして人前に出られるな!」


頭上高く上がっていたスタルヒンのグローブが、凍りついたように動かなくなった。場内がざわめいた。海鳴りのようなざわめきの中で、スタルヒンはしばらく両腕をふりかぶったままでいた。が、やがて彼の身体はゆっくりと動き出し、投球動作に移って行った。・・・

2013/08/16 (金) 16:13:56 再び瑞龍について

世に脱獄者はゴマンといる。ただ、漂流者と違って、脱獄者は故里に戻ることはないし戻れないのが普通だ。大黒屋光太夫やジョン万次郎は戻って英雄となったが、脱獄者は天下の重罪人となってしまうのだ。


瑞龍はそれを充分わかっていたにも関わらず、死ぬ前に故里・大阪の地をもう一度なんとしても踏みたいという望郷の念がまさっていた。


私は犯罪を犯したことがなく、よって異郷で牢に入っていたこともない。64年間-6年間=56年間を故里で平々凡々と生きてきた。元々大海へ出たこともない井の中の蛙なのだから、異郷に対するあこがれもなく嫌悪もない。言葉を裏返すと、故里に対する愛着も嫌悪もない。


だから、もし自分が瑞龍の立場だったら唐国で死んだ安倍仲麿のように
天の原 ふりさけ見れば 春日なる
           三笠の山に 出でし月かも
と歌のひとつも詠んで、死んでゆくのだろうと思う。        

2013/08/16 (金) 深夜におにぎりを食べながら

H氏から、「某懸賞短編小説の1次審査において選考された」との電話を受けた。五百数十件の応募作品からの選考なので、自分のことのように嬉しいし最終選考が待ち遠しい。

昨日の朝は高校野球「福井商業vs聖光学院」をTV観戦。接戦は見る者を釘付けにする。勝ててよかった。次は常総学院。
昨年だったか、福商で甲子園にも出た男から「監督に誰かいい嫁さんいませんかねえ」と言われたことがある。「??・・県内では人気チームの監督なんだから引く手あまただろうに」と思ったのだが、野球漬けで日々顔をあわせるのは男ばかりなのだそうだ。紹介したいと思ったが、私の知り合いは人妻ばかりで、人妻を紹介するわけにはいかない。


そのあと中古電気店に行き、ミニコンポ(¥8000エン)を購入。これまでは¥900エンのラジオを聴いていたのだが、どうにも音質が悪く、盆を契機に思い切って買ったのだ。帰宅しセットして、ウイスキー・「アーリータイムズ」を飲みながら試聴するとやっぱり違う。
もうテレビを見るのは止めた。映像は見てしまうとそれまでだ。ラジオで映像をあれこれ考えるほうが想像力の刺激になる。


試聴しているところへY市議が来訪。Y氏は広島でオリバー・ストーンの講演を聞いてきたという。オリバー・ストーンによれば、独と日本とでは戦後処理の仕方が全く違うとのこと。
昨晩、吉村昭著「島抜け」を読み終えた。


天保年間、大阪で絶大な人気を誇った講釈師・瑞龍は、徳川が天下を獲ると同時に夏の陣の史実つまり豊臣方の活躍を隠してしまったことに我慢がならない。そこで大阪・茶臼山での真田幸村軍の死を賭した大活躍を講釈にとりあげしゃべりまくった。しかし時代背景が悪かった。水野忠邦の圧政下で大塩平八郎の乱が起こった時だったので、瑞龍は大阪東町奉行所の白州で「種子島への遠島」を申し付けられるのである。


種子島での日々は平穏だったが、野良犬のような生活で、生きていながらの死であった。そこで島の浜辺にあったくり舟で仲間3人とともに島を脱出する。くり舟は広い東支那海の洋上で木の葉のように揺れ、彼らは飢餓と戦いながら気を失った。気がついたときくり舟は唐国にあった。


彼らはその地から日本の長崎を目指すのだが、私にはそう決心した彼らの思いがよくわからない。だって帰国すれば、指名手配の島抜け重罪犯の彼らが死罪となるのは目に見えているのだから。案の定、彼は斬首されてしまう。


吉村昭は、小説のエンデイングをこう書いている。


「二月四日、瑞龍は奉行所の白州に手を突いて頭を深くさげた。奉行の川村が出座し、与力等が並ぶ中で死罪を申し渡した。瑞龍の剃髪していた髪はのびて丁髭になっていて、その日の朝、結い直されていた。地肌がみえ、髪はすっかり白くなっていた。瑞龍は後ろ手にしばられて牢屋敷にもどされ、その日のうちに牢役人が付添い、小者によって西坂の刑場に引立てられた。かれは西の方に向かって席の上に正座し、首を差しのべた。斬り役の手にした刀が上方にあげられ、それがふりおろされた。奉行は、獄死した小重太、死罪になった竹蔵同様、種子島に瑞龍の捨札を送った。その高札には瑞龍の罪状と死罪に処せられたことが記され、種子島家は、それを瑞龍が島抜けした西之村の砂坂海岸に建てた。流人に対する見せしめのためであった。その後も幸吉の行方が執拗に探られたが、行方は杳として知れなかった。」

2013/08/15 (木) 6:47:50 AM 

先日の来訪者との話題は「鬱」だった。「鬱病」が病理学上の定義語であることは自分でもわかるが、「鬱気分」あるいは「躁鬱」などと言う時には、むしろ気質の問題として捉えられている。人間にはこの対極が両存していて、「躁」が顕在している時は「鬱」が潜在し、「鬱」が顕在している時は「躁」が潜在していると思っていた。つまり「躁」と「鬱」は循環しているのである。


私の場合、昔から、近い友人達には「この落差が激しい男」と言われてきた。
「躁」の時には誰彼となくしゃべりまくり、「鬱」の時には心が貝になり相手の目を見ることもできなくなる(イクセプト某女性)。


60歳を過ぎ、「人格者・牧田」と呼ばれるようになってから、その落差も少なめになったのは確かなのだけれども、まだまだ修行が足りない。


先日の来訪者から「牧田さんは、現在、鬱よね。でも明るい鬱よね」と言われ、どう理解していいかわからなかった。

2013/08/14 (水) 12:18:22 PM 白ワイン


昨晩一緒に飲んだY氏は見玉のことを盛んに語っていたが、私自身は真継伸彦の小説で見玉を初めて知った。


「見玉は蓮如の二女で、蓮如吉崎に来ると蓮如の長男順如の配慮で吉崎に来て、妻を亡くしていた父蓮如の身の回りの世話をしていた。美人で人付き合いがよく参詣人から、寺内の使用人からも慕われていた。ただ身体が丈夫でなく病にかかり26才で吉崎の地で亡くなった。
蓮如は見玉の死について文を書き残している。その文に、見玉とは玉を見ると読むなり。いかなる玉ぞといえば真如法性の妙理如意宝珠を見るといえる意なりと。また夢にいわく、白骨の中より三本の青蓮華が出生し、その花の中より一寸ばかりの金仏光をはなちいで、蝶となりてうせにけり。即ち極楽世界へ飛んでいったと書かれている。明治初年山上が東西本願寺へ戻った時、この文に基づいて、玉墓が信徒の手によって建てられた。真継伸彦の小説「鮫」の主人公が 見玉尼。」

2013/08/14 (水) 5:05:50 AM レイコーを飲みながら

昨夕に3人で焼き鳥屋へ行ったのだが、ものすごい人だった。お盆休みで都会から帰省しているひとが多いのだろう。


365日毎日墓参りに行っている私にとっては、お盆と言っても特別な日ではない。普段と同じく仕事にいそしみ普段と同じく酒を飲み普段と同じく来訪者たちと歓談する日でしかない。


とはいうものの、先祖のことを普段よりはじっくりと考える日であることは確かで、考えるためには身なりをこざっぱりとすることが必要で、本日は散髪をしてくるつもりだ。死んでいったひとたちと実際に対面できるわけでもないのに、散髪するのは何故なんだろう。


神道でいうところの「禊」の気分が自分のなかにあるからなのだろう。その意味で霊魂の存在を信じている私は、魂魄とコミュニケーションしている。「色即是空」なのだ。形あるものは全て無となるのだ。そして無となることによって永遠が訪れるのだ。長嶋茂雄が引退セレモニーで「巨人軍は永遠に不滅です」と言ったように、私は「魂は永遠に不滅です」と考えるのだが、この考え方にも実は無理がある。


車椅子の天才物理学者・ホーキンスは「今から300億年経つと宇宙の全てはブラックボックスにのみこまれ、その時に時間が消滅する」と書いている。一秒も300億年も量的な差は夥しいとしても、所詮、有限の世界でしかない。だとしたら不滅を信じようとする者にとって天文物理学者は「邪教の輩」と見なさざるを得ない。


それじゃ私がそういうひとたちを嫌いなのかというとそれは正反対でものすごく尊敬している。理解不可能なことを言う人はみな偉いのだ。
昨夕に焼き鳥屋で一緒に飲んだ熟年男性も、「何故自分は生まれたのだろう。何故自分は生きているのだろう」と言っていたが、そう問い続けることこそが生きる意味だと思う。

2013/08/13 (火) 7:05:49 AM 朗報

本日の福井新聞19面の記事・「脳卒中後遺症注射で改善」は私にとって朗報だった。

「脳卒中の後遺症として起きる運動まひは、発病直後からのリハビリでかなり改善する。だが、発症から半年程度過ぎると改善効果は頭打ちになる。これは「6カ月の壁」と呼ばれ、リハビリの限界と考えられていた。要因の一つは患者の多くに現れる「ケイ縮」という症状だ。まひ側の手足の筋肉がつっぱり、日常生活だけではなくリハビリにも支障を来す。3年前、ポツリヌス菌の毒素を注射し、筋肉のこわばりを和らげる治療法が認められた。適切な訓練との組み合わせで、発症6カ月以降でも改善のみられる患者が増えている。・・以下略」


脳内出血で倒れ、この記事どおりに筋肉まひしてしまった私は、女性達から全く相手にされない孤独の日々を送っていたのだから、この記事を朗報と言わずして何と言おう。「日は又昇る」のだ。


2013/08/12 (月) 午後 5:35:57 無題

夕刻に議会事務局に行き、マイデジカメの画素数を最低限にしてもらった。



今まで、ブログへJPGをアップロードしても、映像がとても遅かったためである。遅くしても、いい男はいい男に写るということがよくわかった。
これこそ、「弘法筆を選ばず」なのかもしれない。 

2013/08/12 (月)  憲法

もうすぐ終戦記念日がやってくる。


玉音放送があった昭和20年8月15日、私はまだ受精卵ですらなかった。

フィリピン戦線から復員した親父と敦賀・気比の松原生まれのお袋が結婚して昭和24年1月に私は生を受けた。戦争体験のない私が、親父やお袋が戦争で蒙った辛酸を耳にしたのは私が成人になってからであり、それも本人達からの直接の言葉ではなく、ごく仲のいい知人たちからの証言だった。


それはともかく
戦後日本国憲法が発布されるのは昭和21年。サンフランシスコ講和条約が公布されるのが昭和27年。この両者の間(昭和25年 - 28年休戦)に朝鮮戦争が勃発している。


私達戦後生まれは戦争というと太平洋戦争を思うのだが、中国相手の戦争は、満州事変から数えると足かけ14年にもなる。太平洋戦争で亡くなった日本人は300万と言われているが、日中戦争で亡くなった中国人は1000万というのが定説だ。真珠湾攻撃は対米宣戦布告前というのが既に常識となっているし、盧溝橋事件で先に発砲したのが関東軍であるのも既に常識となっている。


相当昔のことだが、芦原温泉で同い年の中国人男性と老酒片手に雑談していた時、「貴方達の国の軍隊は私達の国へ土足で上がりこんできて戦争をおっぱじめたのです。私達はこの世の地獄を経験したのですが、しかし本当に悪かったのは日本軍の戦争指導者であって、日本の兵士達もある意味犠牲者であったのです。これからの本当の日中国交回復のために乾杯(カンペー)!」と言われたが、頭のなかで、「本当にそうだろうか」と反芻していた。


私は、20歳前後のふた夏を淡路島にある由良という離島で送った。その島にある国民宿舎でアルバイトをして送った。宿舎の長はいかにも好々爺という感じだったが、一日の仕事を終えて浜辺で一緒にビールを飲んでいた彼は突然言った。


「わしは中国戦線を転々としたが、ある時ある場所で、4人のチャンコロを青竜刀で試し切りしたんや。その瞬間のあいつらの怯えた目を見て快感が走ったぞ」と言った。


「戦争が平凡な市民を狂気の世界に引き入れる」とは巷でよく聞く言葉だが、戦争法でも軍法会議での判決なしのこういう行為は明らかに犯罪である。


10数年前に読売新聞社編・「BC級戦犯の記録」を読んだ時、戦勝国側つまり連合国側の裁判のいい加減さに辟易したものだ。


「日本国憲法第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」は当然のことであり、国連もそう宣言している。


問題は「9条の2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」だ。自衛隊が国防軍という名の軍隊であるとの認識は既に国民のマジョリテイのそれとなっている。
日本共産党が自衛隊を違憲と言うのならば、これを改憲すべきなのかもしれない。しかしおおもとの9条を改憲してはならない。


米からの押し付けで自主憲法ではないから、理想主義に走っていて現実に対応していないエトセトラの批判をよく聞くが、絶対平和主義は過去の二度の大戦で無意味に殺戮された膨大な数の世界の民(たみ)に対する鎮魂に見合う唯一の理念なのだから。


むしろ改憲すべきは「第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」であろう。
この条文は、国の統治機構にある人たちが憲法擁護の責務を負えば統治される側・つまり一般庶民は当然それに従うと言っているのであって、そういう統治者側=自覚者、被統治者側=無自覚者の宣言条文は、「全ての国民は平等である」という、憲法以前の自然法に逆立するのではないか。

伊井遺跡

2013/08/11 (日) オーケストラと遺跡

   
   
 
   


④司会役が私の選挙の都度のウグイス嬢だったのにはびっくりした。達川なつみちゃんのフルート演奏は、一年に一度くらい聴くのだが、昨日の演奏を聴いて、着実に腕が上がっていると素人の私にも感じられた。パリ留学中の彼女には、現在の先生との呼吸が合っているとのこと。


①コンサートマスター・鈴木先生の指揮による生徒達のバイオリンオーケストラ。私の嫁はんもその中にいたので、なんとなくこそぼかった。


③プロ・セミプロによるトリオ演奏。さすがに違う。


②プロのバイオリインニストは体全体でリズムをとっている。

2013/08/10 (土) 昨日は文化会館にて考えた

「夕刻に来てほしい」という達川氏の電話を受け、仕事のきりを見計らって、文化会館へ出かけた。




「クラッシック音楽と遺跡」の準備に余念のないスタッフたちだ。「私も何か手伝いを・・」と思ったが、体が思うように動かない私が準備に加わることはスタッフたちに対して迷惑をかけることになると思い、見るに徹した。


「ものごとに対して積極的に加わることはできないがさりとて去ることもできず、一歩距離をおく」というのが、これからの私の人生なのだろうと思う。

それはともかく
一昨日に近くの百金ショップに出向いた時、駐車場で親子に呼び止められ、孫をめぐるトラブルの詳細を長い時間、聞かされた。


はじめ、「俺はもう議員ではないんだけどなあ・・」と思ったが、母親のパニックに落ち入りそうな苦悩を目にして、そういう思いはふっとんでしまった。


子どもたちが純真であるとは、決して思わないほうがいい。こどもたちどうしの愛憎は大人世界を鏡にしており、ただ、言語化できないだけだ。


そういう子ども世界を詩的に表現したのが、夭折した詩人・寺山修司だと私は思うのだが、いずれにしろ、「なんとか力になるべく努力します」と言って、親子をあとにした。


昨日の長崎・原爆慰霊祭をTVで見ていたら、挨拶に立つ人たちから「原発の再稼動や輸出に前向きだ」「NPT再検討会議の準備委員会での共同声明になぜ署名しなかったのか」といった政府批判の声が相次ぎ、その声を聴く安倍首相の顔を見て、オバマ政権の圧力による苦悩もあるのだろうが、能面のように見えた。


政府の公式発表やそれをサポートしようとする大マスコミの今までの姿勢は、ITの普及で徐々に崩れつつある。IT社会の到来は勿論功罪あるのだが、そしてITによる情報の中身は玉石混交であるとしても、情報公開の大きな力になっていくことは間違いない。


昨晩読んでいた立花隆著「滅びゆく国家・日本はどこへ向かうのか」は、2006年発行の本だが、その時点で今日(こんにち)を既に予見している。この人は、田中角栄打倒だけで名を成したのではなく、万巻の書を読みこなしたことによる知の巨人なのだろう。

2013/08/09 (金) オープンカフェの朝顔に水を遣る




この世で一番美しい色は紫だ。


ということで
うだるような暑い日々が続いているが、こういう時に冷房の効かない車で走るのはつらいものだ。勿論、窓を開けて走るのだが、入ってくるのが熱風なのである。


一人で走る時は、「これも宗教的修行」と思えばどうということはないし、複数の場合でも助手席が男性であれば、「男がどう感じようと意に介さず」という座右の銘で対応できる。


問題は、「魅力的な女性が助手席に座った時」だ。みんなが言うほどにはもてない僕だけれども、これから先、こういうことが無いとは限らない。決して不快感を与えてはならないと思ったので、昨日の朝に近くのガソリンスタンドに行き、「ガスを入れてください」と頼んだ。


ボンネットを開けて点検した係員から、「おかしいですねえ。ガスはちゃんと入ってますよ」と言われた僕は、車を某修理工場へ持っていった。


「牧田さん、コンプレッサーが壊れてますよ。取り替えるのに8万円ほどかかりますよ」と言われて困ってしまった。


僕は、「8万円あれば、沖永良部への旅ができる。思い出づくりをとるか機械文明による利便性をとるか、ここが問題だ」とハムレットのようになって、今も、決めあぐねている。


それはともかく
本日の福井新聞「北潟湖に塩田跡」を読んで、20年ほど前に郷土史家のY氏に連れられて、琵琶湖・諏訪湖を歩いた旅を思い出した。


琵琶湖には塩津という地名があり、諏訪湖には塩尻という地名があった。
「淡水湖で塩田はできない。恐らく、日本海浜の塩田を持つ若狭から塩が運ばれてきたのだろう。塩津は「塩を荷揚げしたミナトで、塩尻は塩が運ばれた最終地だったのだろう」というY氏の薀蓄を聞いた。


「地名用語語源辞典」を開くと
塩尻
①シホ・キ(接尾語か)
②塩の輸送路の終末点
③塩田の塩尻の形に見立てた地名か。円錐形の山などをいうか。


塩津
①シホ・ツ(接尾語か)
②塩の輸送に関する港のことか・・とある。

盟友の達川氏が組合長をしている「伊井工業団地」が立案企画したのが、「クラシック音楽と遺跡」(8月10日PM2時会場 於あわら市文化会館)。




興味のある方は僕(090-1635-5710)まで御連絡ください。なんせ、ただです。

2013/08/08 (木) 無題

巨人優勝が殆ど確定的となってしまったセリーグにもはや興味はなく、時折TV観戦するのはもっぱらパリーグか米大リーグであるというのが私の昨今であるが、観戦の集中度が最近は増してきた。


それが何故なのか、昨日にわかった。・・仕事が忙しいからである。
仕事が忙しくない時は、時間がたっぷりあるので趣味の領域の過ごし方が平板になる。しかし忙しい時は自由になる時間が抑えられているので、例えば野球観戦では「日本ハムのこの回の攻撃が終わったらTVを消して仕事に戻ろう」となるし、小説を読んでいる時は「あと10ページ読んだら仕事に戻ろう」となるし、オープンカフェで白ワインを飲んでいても「あと一杯飲んだら仕事に戻ろう」となり、つまり「少ない残り時間を充実させなければならない」という意識が前面に出てくるためであることに気がついた。

仕事が忙しいことは、その意味でシアワセだ。

それはともかく、きょうの早朝に内田康夫著「悪魔の種子」を読み終えた。
この人の本は今までに17冊読んでいるが、その中で一番面白くない本だと、私は思った。


花粉症緩和米に関わる技術者の何人かが変死するなかで、名探偵・浅見光彦が、イネの品種改良にまつわる歴史の背景にあるものを調べ上げ、犯人をわりだしていくというのが内容の本だ。内田はこの本のなかで、名品種「コシヒカリ」の誕生過程を述べている。


福井県のとある交配実験田が昭和23年の福井大震災により根こそぎ壊れてしまった。それで、福井県の農業試験場は仕方なく別の交配品種を全国に発信したのだが、これが好評となり名品種として定着した云々。


全国的には「コシヒカリ」=新潟産と噂されているが、本当は越前産だということを我々は全国にアピールしていくべきだ。

2013/08/07 (水) やっと一服

きょうの夕刻に三国土木事務所での打合わせ終え、海岸に出た。
出だしが10数年前に書いたブログと同じなので、再度書き込みました。



10/20(土) 夕陽恋 




三国土木事務所での打合わせ終え、海岸に出た。
落ちる夕陽に染まる水平線からの風は冷たい。

パリで買ったダーバンのコートのえりをたててのくわえ煙草。憂愁の気分で岩畳にたたずむ私を横ぎろうとするひとつの影がある。
年の頃は42,3か。利休ねずみの鼻緒の草履、浅黄色の地に濃紺紋様の西陣、白いうなじ、島田髪の和服女性は、軽く私に会釈し去って行く。

遠ざかる彼女の細い背中は夕陽の逆光でシルエットと化した。
岩畳を散策する足取りおぼつかなく、不意の波しぶきよけようとした彼女の体が反転しよろけた。
かけつけ、「大丈夫ですか、奥さん」と声かける私に「おおきに、大丈夫どす。それにうち、今は奥さんあらしません」と彼女は言う。

うちとけ、肩並べつつ砂浜を歩いた。いつの間にかふたりの指はからみあっている。
彼女の胸の激しい鼓動が聞こえてくる。抱きしめ口づけを、と思わないでもなかったが議員なので我慢した。
別れた亭主のこと、今彼女にいいよっている幾人かの嫌な男たちのこと、そのうちのひとりが某市の議員だということ、にも関わらず自立し孤高に生きていこうとする思いききつつ、「この人にしろ私にしろ、美男美女の人生につきまとうのは、やはり悲しみと憂いなのか、それが宿命というものなのか」と私はココロでつぶやいた。

気がついたら辺りは既に闇だ。
それでは、と背をむけた私を「りりしいおかた・・・たくましいおかた。うち、貴男様のお名前まだ聞いてしません。今晩のお宿どこですの?教えてくださいな。うち、行ってもかましませんでしょ?ねえ、かましませんでしょ?」と彼女の涙声の懇願が追う。

私は「奥さん、いやもと奥さん。私は名のるほどのものではございません。貴女は私をいとしく思っているのかもしれないが、それは本当の私・裏の私を知らないからだ。どんな男でも、私よりましなのです。恋に恋してはならない。恋に恋したところでなにものも生まれはしない。貴女はいつの日か必ず真実の男性にめぐり合います。ここでさようならすることだけが、お互いを幸せにする道なのです」と答え、歩きはじめた。
背中見続けているであろう彼女の視線に耐えきれず、私はゆっくりと、しかし止まることなく歩き続けた・・・・。

こんなことを岩畳の上で夢想したのだが、こんなシチュエーション、52年のわしの人生に一度もなかったなあ。悔しいなあ。

2013/08/06 (火) 無題

昨日は分刻みの忙しい日だった。


あっちの現場こっちの現場と渡り歩いたが、あわら市庁舎・所管課での打合わせを終えた時、ふと議会事務局へ行きたくなった。


議員達に会いたいとは思わないけれども、世話になった事務局の職員達に会いたくなったのである。しかしながら既に議員ではない私が議会事務局へ行く理由は何もない。


私は厚顔にも議会事務局へ顔を出した。その時に出されたインスタントコーヒーのなんと美味かったことか。至福の時とはこういう時を言うのだと、私は思った。


インスタントコーヒーの名はゴールドブレンド。私は、時折これを携えて事務局へ行こうと思う。

それはともかく
ジュネーブで開かれたNPT再検討準備委員会において「核の非人道性」を謳った共同声明に賛成しなかった日本政府が、原爆記念式典で、核兵器廃絶を世界に訴えるのはおかしい。

2013/08/05 (月) 新しい週の始まり

7月・8月と土日なしの生活が続いているが、昨日にその合間を縫って読んでいたのが、尚中著「在日」。

この高名な政治学者の本を手にした理由は彼の政治学に興味があったからではなく彼が息子を亡くしているからで、肉声であれ活字であれ子を亡くしたひとにここ数年間死を問い続けてきた僕は、更に死ぬまで問い続けていくことになるだろう。

しかし頁を開くと、プロローグからして重いのだ。
1950年つまり戦後の混乱期に、在日二世として熊本に生まれた彼は、朝鮮半島と日本の双方を故郷と異郷あるいは異郷と故郷の狭間として生きることを余儀なくされる。

僕は、この本を8月に読むべき本だと思った。CAD仕事に一区切りがつき次第、残りの頁を全力で読んでいきたい。
それはともかく
盟友の達川氏が組合長をしている「伊井工業団地」が立案企画したのが、「クラシック音楽と遺跡」。



興味のある方は僕(090-1635-5710)まで御連絡ください。なんせ、ただです。

2013/08/04 (日) 神々の深い欲望

私の事務所には長いソファーがみっつしかなく、7or8人が来れば満杯だ。昨晩はここへ6人が集まり、金物屋主人・Uさんによる講義の場となった。

『神様は、天津神(あまつかみ)・地祇神(くにつかみ)・人格神のみっつに分類される。

地元の神社には、薬師神社(国土開発 医薬守護 温泉)・金津神社(武運長久 大願成就 家内安全)がある。

神社の格としては、総本宮(仏教の総本山と同じで神社にも総本宮がある 伊勢神宮 春日大社 伏見稲荷 宇佐神宮 白山比咩神社)、一の宮(廃藩置県の前諸国は68国に分かれていて その国の一番格式のある神社 国司が赴任した時始めに参拝する神社 以下に二の宮 三の宮の順 他に総社 大宮などがある)。

氏神 (一族 祖先を祀る)

鎮守の神(各地域にある自分が住んでいる所を守って戴ける神様)

産土の神(自分が生まれた地区にある一生お守りになる神様)

屋敷の神(自宅にお札などをまつる神様 土地の自縛神)』

という概括説明から始めたUさんの講義は、古事記・日本書紀をベースにして続いたが、あっという間に二時間半が過ぎ、残りは次回持ち越しとなった。僕にとっては二回目の受講だったが、面白い話は継続すべきである。

なお、Uさんとは内田さんのことです。

2013/08/03 (土) 今晩は講師・Uさんによる「伊勢神宮と出雲大社」の話

「忙中閑あり」ということで、昨晩は、ふたりで夜の街へくりだした。
窓外の水銀灯がかもし出す幻想世界のなかで、海鮮ものをツマミに極上のビールを堪能した。私は相手(推定年齢30代後半)をしっかりとみつめ、相手は私をしっかりとみつめ、大人の会話が進行する。

この二年ほどの間に私は変わったような気がする。「新しいぞ 私は」だ。
高齢者に仲間入りするに連れいろんな役職から開放されて、さらに議員も辞めたことで、本音を自然体で話せるようになった。(勿論する気はないが)軽犯罪を起こしたところで地方新聞社会面やゴロ新聞に載る心配がなくなったこともその一因だ。

本音を言うなら例えば
私は若い時から自分の名前・「孝男」に悩んできた。
平清盛の嫡男・重盛が、親父と後白河法皇との確執の間で、「忠たらんと欲すれば孝たらず 孝たらんと欲すれば忠たらず」と悩み煩悶死したのを思い出すのだ。煩悶死するなんて、よっぽど偉いかよっぽど馬鹿かのどちらかだろう。

私達人間は所詮煩悩の徒であるのだから、人間関係に悩む必要は無い。私達がひれ伏すべき対象は、青い海・沈みゆく夕陽・満天の星空・さやけき月明かり・エトセトラのいわゆる絶対的自然だけなのだと思う。

 2013/08/01 (木)  きょうから8月

伊井村落は古き昔より農耕の里だったが、時代の推移と共に大工・とび職などの土建職人衆が住む村となり名をはせたと伝えられている。信長侵攻のとき焼き打ちを逃れ、福井震災で倒壊をまぬがれた神社仏閣の棟木に、伊井大工棟梁名が記されている可能性は充分あると思う。
往古の職人衆は和国の救主とあがめられ、職人衆を育てあげられた聖徳太子を信奉した。その信奉のまことをあらわすため、寛文12年 、太子塔の造立となったのであろう。この地区の村々を訪ねると、江戸時代中期以降に造られた地蔵石堂、地蔵菩薩像、鳥居、灯籠、白山堂、観音堂など他地域には見られない石仏の巧みの技が生きていることがわかる。 「伊井の巧み」