2014年01月

 
2014/01/31 (金) 未明に考えたこと

 昨日は私の誕生日でした。
夜はあこがれの女性と一緒に某居酒屋へ。
鯵フライ・牡蠣フライをサカナに、過ぎし日を語り合いました。そのあとカラオケへ行って、「港町ブルース」を日本語で、「ラノビア」をイタリア語で歌いました。
今〔きょう未明〕、事務所ソファの前には彼女からプレゼントされた焼芋焼酎・「魔界」があります。



 今朝目を覚ますと、妻が花束を携えて


私の部屋に入ってきて、「おとうさん、誕生日おめでとう」と笑顔で言います。

 ガールフレンドにしろ妻にしろ、齢〔よわい〕65となり往年の肉体美もすっかり影をひそめた私が、にもかかわらず何故女性たちからこのようにもてるのか・・不思議です。

いろいろ考えた結果
多分、私の性格によるものだと思います。そうとしか考えられません。寡黙な男性の胸中にあるものに、女性たちはせまりたいのです。

2014/01/30 (木) 熱々珈琲を飲みながら

 週末から宮本輝著「焚火の終わり」、内田康夫著「上海迷宮」、伊集院静著「ごろごろ」、北方謙三著「絶影の剣」を読んできたが、「焚火の終わり」が心に残っていて、感想らしきものを書きとどめたいとおもうのだけど、それがなかなかむつかしい。

 この本はいかにも宮本らしく随所に警句がちりばめられている。主人公の茂樹と美化が兄妹として育てられながら複雑な家庭事情故に実は父母の違う他人である可能性が顕在化してくる。二人の心はもともとひきあっていたので、他人どおしの可能性の顕在化のなかで自然恋人となる。

 しかし二人は兄妹としての血のつながりの可能性を捨てたくない。つまり背徳の行為であるが故に愛欲がこの世のものとは思えないほどの愉悦を二人にもたらすのである。・・というのが基本的な筋で物語は延々と続いた。

私も当然そうなのだが、普通の人間にはよくわからない世界だ。しかし本当は、心の奥底に隠れていて、あるきっかけでそういう世界にひきづりこまれることが、ないとはいえないのかもしれない。
ということはともかく
昨日夜の来訪者は二人で、話のテーマは「有機農業について」でした。

2014/01/29 (水) バーボンウイスキーを飲みながら

本日の10時半、やっとコンピューターが復旧。

橘曙覧「たのしみは」を開く

たのしみは 珍しき書人に借り 始めひとひら ひろげたる時

たのしみは 妻子むつまじくうちつどい 頭ならべて物をくふ時

たのしみは そぞろ読みゆく書の中に 我とひとしき 人を見し時

たのしみは 朝おきいでて昨日まで 無かりし花の 咲ける見る時

たのしみは 銭なくなりてわびをるに 人の来たりて 銭くれし時

たのしみは すびつのもとにうち倒れ ゆすり起こすも 知らで寝し時

たのしみは 紙をひろげてとる筆の 思ひの外に 能くかけし時

たのしみは 心にうかぶはかなごと 思ひつゞけて 煙草すふ時

たのしみは 常に見なれぬ鳥の来て 軒遠からぬ 樹に鳴きし時

たのしみは あき米櫃に米といで 今一月は よしといふ時

たのしみは 物識人に稀にあひて 古しへ今を 語りあふ時

たのしみは まれに魚煮て子等皆が うましうましと いひて食ふ時

たのしみは 雪ふるよさり酒の糟 あぶりて食て 火にあたる時

たのしみは 銭なくなりてわびをるに 人の来たりて 銭くれし時

たのしみは 心をおかぬ友どちと 笑ひかたりて 腹をよる時

たのしみは とぼしきまゝに人集め 酒飲め物を 食へといふ時

たのしみは つねに好める焼豆腐 うまく煮立てゝ 食わせけるとき

たのしみは いやなる人の来たりしが 長くもをらで かへりけるとき

たのしみは 庭にうゑたる春秋の 花のさかりに あへる時々

たのしみは 蝦夷よろこぶ世の中に 皇国忘れぬ 人を見しとき

たのしみは 鈴屋大人の後に生れ その御諭を うくる思ふ時

2014/01/28 (火) 無題

伊集院静が下のようなことを言っている。

 「狂人とは、意識が健康でない者の総称であって、千差万別、度合いの差あり、また間歇的に一定時間のみ狂う者あり、部分的に一つの神経のみ病んでいる者あり、完全に正常な意識を失っている者なでごくわずかだ。ほとんど度合いの差であるにすぎず、しかもその度合いはレントゲンにもCTスキャンにも映るわけではない。もともとどこまでが狂疾か、度合いの問題がほとんどである以上、この線がはっきりしているべきだが、それも明確になっていない。(中略)では、何故、病院に来、入院までしてしまうのか。自分は、自分の頭がこわれているという実感を大事にしている。」

誕生日を目前にして夢にうなされることの多くなってきた私は、自分が狂ってきたのではないかと恐れるものであるが、上記のような文章を読むと勇気づけられる。

2014/01/27(月) 新しい週の始まり

 久しぶりに三国町水居のN氏宅を訪れた、演歌歌手・五木ひろしの恩師として有名なN氏は、私が金津中学校PTA会長をしていた時の校長先生で、それ以来連絡を絶やしていない。

 「お寺のおばあちゃん」のペーパーを持って訪れたので、話は、自然、学童疎開のこととなった。氏は昭和20年当時大坂の国民学校の3年生で、姉上が奈良県の旅館に学童疎開していたそうだ。


 宮本輝著「焚火の終わり」〔上巻〕読了。

 題名に惹かれて読み始めた。
 小学生時代〔昭和30年代〕の日課が風呂焚きで、私は、毎日風呂の焚口に座って薪をくべていた。その行為は焚火と同じようなもので、炎の揺らめきを見ることは大きな快感だったのである。

そこでこの本を読み始めたのだが、

2014/01/26 (日) 昨日の日曜日

昨日の午後1時半~。
湯のまち公民館で、「一乗谷朝倉氏遺跡」についての講演を聴いた。
私は、遺跡保存会の会長・岸田氏の説明を聴きながら、20数年前、遺跡に通いつめた頃を思い出していた。


 氏は聴衆を飽きさせない語り口を確かに持ってはいたのだが、講演も終盤になると話の主軸がソフトバンクのコマーシャルとなり、コマーシャル撮影のために一乗谷に来て岸田宅に泊まった吉永小百合は美しかったとか、若尾文子は華やかだったとか、どうでもいい個人的な話にシフトしていってしまった。岸田氏〔昭和22年生まれ〕も団塊の世代で、いつも私の妻が言うように、団塊の世代には自分本位の理屈屋が多いのである。

講演終了後、司会女性が沢山の聴衆に向かって、「この際、岸田先生に何かご質問はありませんか?」と問うたところ、私の予想どおり「ふるさと語ろう会」の河田さんが手を上げ、「朝倉氏が一乗谷に山城を構えたその戦略上の意味は何か?」と問うてきた。この質疑応答が全力となると、それだけで一時間はかかるだろうと私は思った。

 五分間の休憩ののち、舞台はあわら市内の歴史探求・五グループの年間報告の場となった。
 決して身内びいきで言うのではなく、「ふるさと語ろう会」事務局・河田さんの報告が話に厚みと広がりがあって出色だと思った。
「私らの会には市議も入り会員数が増えておりますが、個性的な人ばかりで会長選びでは大変にもめました」との冒頭の挨拶に、私は思わず下をむいて笑ってしまった。

 たしかにそのとおりだが、個性的というよりも変人という方がより正確だ。会長選任については、ローンウルフばかりなので誰もがなるのを嫌がり、結局、ハンサムで穏やかで女性にもて、嫌と言えない性格で一番の人格者・M氏が会長にならされたというのが実情である。

夜はS医師宅で、恒例の月例飲み会。



話のテーマは「金津遊郭および串茶屋遊郭について」。
遊郭の歴史をたどることは、地域の活性化を考えることと同義で大切だし面白い。ただし、私自身は骨の髄までプラトニックラブの男であり、なんというか、頭と心のこの落差を奇妙に感じることが、ときどきある。

2014/01/25 (土)  無題

「居酒屋おまき」を和調空間に衣替えしたのは、この応接コーナーを「静かに語り合う場」とすることが目的だった。

しかし、昨日午後の来訪者たちはみな多弁。勢い、私も珍しく多弁になりそのままに日が暮れていった。

それはさておき
 池波正太郎の短編集をぺらぺらとめくっていて印象に残ったのが「南部鬼屋敷」。

 時代は江戸寛文期で舞台は南部藩。藩主山城守重直は剛直の男だ。徳川政権となって歳月が経ち、戦国風武断政治は影を潜め配下の武士たちはサラリーマン風に軟弱化した。それを苦々しく思った重直はそいつらをリストラし、まことの武士を公募する。家来の腕達者と試合をさせて採用・不採用を決めるのである。

 その場に現れたみすぼらしい浪人者が、この短編の主人公・塩川八右衛門正春。重直は家来との試合を命じる。ところが試合に先立ち、八右衛門は「私めが御相手つかまつる御家来方は、何名にござりましょうぞ」と訊く。

「それ聞いて何とする?」
「一度におかかり下されたい」
「何・・・」
重直が笑い出した。
相馬はかっとなった。
とりあえず八右衛門の相手に決められていた家臣二名の中へ、相馬自身も加わって、
「では、お言葉にしたがい、三名にて御相手いたす」
小癪な八右衛門を袋叩きにするつもりであった。3Pどころか4Pである。
むろん重直が「やってみよ」と命じたからでもある。
ひろい庭の芝生をふんで向かい合った三対一の武士たちの頭上に、真夏の太陽が白く光っていた。
八右衛門の木刀が、風を巻いて走り、たちまち二名を打倒した。
相馬重七郎、必死の突進も、彼の木刀が真二つに折れ飛ばされてしまったにすぎない。
この試合ぶりを見て、重臣たちも苦々しく口をつぐんだきりになった。
「百石でよいか」
南部重直がいうと、
「お心のままにー」
八右衛門は、しずかに頭を下げて、受けた。

 家来となった八右衛門は剣技のみならず行政面全般に関して無類の能力を発揮する。即ち、キックバックなど重臣たちの不正を度々の修羅場をくぐりぬけながら暴き追放し、いよいよますます重直の信頼を勝ち得ていく。目付役として完璧すぎる八右衛門には賄賂もきかず、いつしか城下の子供たちまでが、八右衛門の住む屋敷を「馬場小路の鬼屋敷」と、よぶようになった。ひろい南部領内のどこにも、一点の汚行もゆるさぬ監察の鬼と化した八右衛門の目が、行きとどいている。

歳月は流れ、寛文四年九月十二日に南部重直が死んだ。

寛文八年一月。八右衛門は、城から戻ると、今も只一人の家来である釜岡権蔵と、妻の多津と、三人水いらずの夕餉をしたためた。
酒も出た。
「さて・・・」
八右衛門は食事がすむや、妻と家来に向かい、
「明日は死ぬるぞ」
と言った。
多津も権蔵も、うなずいた。
八右衛門は、妻と家来に、それぞれ、今までたくわえた金銀を分けあたえた。
「それだけあれば、二人とも安楽に世を送れよう。二人とも、これからも金銀をさげすんではならぬ。今の世のものは、うわべだけ金銀をいやしみ、そのくせ、命がけのはたらきが何一つ出来ぬものが多い。なれど、わしは戦国の世の武士のあり方をまねて、生きて来たつもりじゃ。この平穏な世に、わしのやって来たことがよいことであったか、又は馬鹿げたことであったか・・・それは知らぬが、多津も権蔵も、懸命に、わしのはたらきを助けてくれた。あらためて礼を言う」
多津と権蔵がひれ伏した。
「二人ともよう聞け。わしが死ぬるのは、追腹をするのではない。このままながらえても病死でもすれば、鬼とよばれた八右衛門のしたことが、みな我身可愛さから出たことになってしまう」
多津は、一心に、夫の口の動きを見つめている。
唇の動き方で、〔聾唖者の〕多津は夫の言葉を、かなり聞きわけられるようになっていたのである。
「と申して、わしは、おのれ一人の名誉を思うて死ぬのではない。いささかの私心もなくなったればこそ、あれだけの鬼目付になれたのだということを、知ってもらいたいからじゃ。私心を無くすことは、、むずかしいことじゃが・・・馴れてみると、これほど気の楽な、たのしいことはない。それは、二人ともに、よう知っておるはずじゃの」
と、このとき、八右衛門は、戸外をおおいつくした積雪も溶けるばかりの、あたたかい微笑を顔いっぱいにみなぎらし、
「三人ともに暮らしたこの八年は、まさに、われら三人の一生であった。われらは互いに、いつくしみ合い、たぐいまれなるたのしさのうちに、この小さな屋敷の内で、あたたかくいたわり合い、苦楽を共にしてまいった」
たまりかねて、権蔵が男泣きに泣きはじめた。
多津の両眼からも、涙があふれた。
「泣くな」
八右衛門の微笑は絶えない。
「人の一生は、何をしたかにある。長い短いではないということが、わしの死んだ後に、多津にも権蔵にも、きっとわかると思う」
翌日の朝となった。
ふりしきる雪の、降りつもる気配の中に、塩川八右衛門は、多津と権蔵の見守る仏間で、切腹をした。
八右衛門ときに三十九歳であった。

・・・・
八右衛門が最後に多津、権蔵に残した言葉つまり死生観は、その後二百年を経て明治維新イデオロギーの祖となった吉田松陰の死生観と全く重なる、と私は思った。

現代にもそういうひとは居るに違いない。けれども魑魅魍魎が跋扈する現世を見ていると、まことのひとがライトアップされることはまずない。まことのひとは敗者として生きることを余儀なくされている。つまりこの世は終末に向かっているのである。

2014/01/22 (水)  無題

 昨日二人目の来訪客から、「前よりも元気そうになったなあ。それと、空間に重厚さが出てきた」と言われた。

体調がよくなると同時に厭世感が薄らいだ。単純な性格故のものと思う。空間云々は私の美意識の反映だ。

 それはともかく
 三好徹は「ゲバラ日記」を書いた人くらいの知識しか無かったが、その彼の「史伝新撰組」を読み終えた。題名から察するとおり、近藤勇・土方歳三・沖田総司等が主役の小説である。

 勤皇にしろ佐幕にしろ、勝者敗者を問わずあの時代に活躍し名を残したヒーローを扱った小説は沢山あるけれども、三好の場合は独特で池田屋事件にしろ五稜郭にしろ同時代に生きていた人のメモを探し出し、それを例証するなかで人物を描き出している。勢い像に過度なふくらみはなく元々が新聞記者だったことがよくわかる。

「小栗らの主戦論者には知らされないことだったが、慶喜は江戸へ戻る前すでに恭順する気持ちになっていて、そのことを船の中で老中の板倉勝静にだけはいってあった。だから、小栗らが二日間にわたって、夜中まで議論したことなど、本当はさしたる意味はなかったのだ。
 「徳川体制は政治用語でいえば、共和制ではなくて、君主独裁制である。幕府によって統括されていた各地の大名とは、似ているようでいて本質的には違う。各地の大名と大名を頂点とする藩は、決して藩主独裁制ではない。藩の上位に将軍とその手足の幕府があって、藩はその意向を付度しながら藩の維持存続をはからなければならなかった。大切なのは、藩主ではなく、家臣を含む藩そのものだった。藩存続のために必要とあれば、藩主の首をスゲかえることくらい何でもなかった。
 各藩の家臣たちは藩主に忠誠を誓い、藩主の命令とあれば、火の中、水の中へも飛びこむが、このシステムは藩主が異常な人間でないことを前提としている。藩主が常軌を逸した行動をとり続けた場合、それが幕府の耳に入って藩が取りつぶされる可能性が生じたら、家老を中心とした維持体制が行動を起こし、その藩主は何らかの形で追放される。
 しかし、徳川家は、家長〔将軍〕がいかに常軌を逸した行動をとっても、それを交代させる仕組みはなかった。原則的に死ぬまでその地位を失うことはなかった。藩主の地位が不可侵ではなかった大名との決定的な違いだった。
 慶喜は征夷大将軍を辞任したが、徳川家においては家長であり、老中も陸軍奉行も徳川の家来の仕事であることに変りなかった。徳川将軍が日本の統治権者であったころは、老中職は、国家の閣僚に相当した。・・」

2014/01/20 (月) 昨日の日曜日
 
 昨日の日曜日は、アポイントなしのI氏の来訪で始まった。彼は私と同世代の宗教の徒。「芦原温泉で同窓会があったので、その帰りです」と言う。
「牧田さん、今、宗教法人はいくつあるか知ってますか?・・それらの設立許認可には、国会議員連中の裏での動きがあるんですよ。何故なら新興宗教法人が選挙の際の大きな得票源となるからです」と言う。私は自分自身が仏教徒なのかどうかよくわからないが、新興宗教の裏面を聞くのは面白い。

 午後は百金ショップへ行き、来客のための珈琲カップやウイスキーグラスやワイングラスを購入。帰ってからは「居酒屋おまき」整理整頓に汗を流した。



そのあとバーボンウイスキーを飲みながら大相撲を観戦。大砂嵐に負けはしたけれども、遠藤は魅力的な相撲取りだ。何よりも顔がいい。中日ではや三敗となった稀勢の里に関心は無いが、遠藤の相撲は千秋楽まで見続けよう。

 バーボンウイスキーで酩酊し、ソファでごろ寝状態の午後7時に市議Y氏が来訪。名護市長選の行方などを語り合ったあと、彼は沢山のチラシを置いて帰っていった。

 2014/01/19 (日) 外は銀世界

 トレーニングの成果が徐々にでてきたようだ。以前だったら15m歩いただけで足の痛みに耐え切れずいずかってしまったものだが、今は痛みが消えてまったくそのようなことがない。そして、トレーニングルームの大鏡の前で歩くと、姿勢が幾分矯正されてきたことがわかる。

 「体は左右のバランスが大切で、手にしろ足にしろ、マヒしている側の筋肉をいかに柔らかく強くするかが今後のテーマです。三ヶ月は必要でしょう」と、指導員〔女性、推定年齢30代後半〕は言う。

トレーニングに希望がみえてきた。

 2014/01/18 (土) もう週末か

 遥かな友にを聴きながら書いている。

 市議を辞めて半年が経過し、その間に生活のスタイルが大幅に変わった。
CAD以外で時間に拘束されることがなくなり、一部の親しい人を除いて接触する人はいなくなり、外へ飲みに行くことも激減し、昼なお暗きサロンで終日を過ごすことが常態化した。孤独を絵に描いたような生活である。

 午後7時には床に就き午前0時過ぎに寝覚める。外は静寂の世界だ。ここから夜明けまでの数時間は誰にも邪魔されることのない時間帯であり、基本的には小説を読んで時間をつぶす。どういうジャンルであれ、面白い小説だと現実世界を忘れることができる。比喩的に言うならば映画俳優になったような気分だ。

 小説に飽いたら外へ出て、晴天だったら冬の星座を眺める。雨の日だったら小林麻美の「ショパンは雨音の調べ」を口ずさむ。寒いのですぐに部屋へ戻り熱い珈琲をすする。

よいコーヒーは
天使のように澄んで
悪魔のように黒く
地獄のように熱く
恋のように甘い
 タレーラン である。

 珈琲を飲み終わったら爪を切る。
手の指の爪にしろ足の指の爪にしろ、その周辺には壷がたくさんあり、そのことで脳が刺激を受ける。
指が私の脳にささやきかけてくる。いろんな感情をぶつけてくるのだ。傍目には孤独でも、実のところ一番刺激的な時間帯となる。

 山本一力著「いっぽん桜」
深川門前仲町の口入屋・井筒屋に12歳で奉公し、爾来40年間仕事一筋で頭取番頭にまで上り詰めた長兵衛は、自分にも厳しいが奉公人にも厳しい。その矜持が井筒屋をして江戸有数の大店となさしめた。

54歳という働き盛りのある日、長兵衛はあるじから突然首を宣告される。あるじの代替わりによる措置である意味仕方がないのだが、長兵衛の心はもぬけの殻となる。

しばらくして、魚卸の木村屋がリクルートにやってくる。長兵衛は〔内心では喜びつつ〕渋面で木村屋入りを承諾する。長兵衛の差配によって業績は上がるのだが、棒手振りたちから非難の声があがってきた。
棒手振りたちは「長兵衛は『井筒屋ではこうした』の一点張りよ。ここは木村屋なんだぜ」と口々に言う。しかし長兵衛にとってそれらの声は馬耳東風で尊大な態度はそのまま続く。

ある夜、江戸の町は暴風雨となり、大川の堤防が決壊した。自宅は床上浸水し流木の圧力で柱がきしみ始め、長兵衛はにっちもさっちもいかなくなる。

まさにそのとき、7人の棒手振り衆が着の身着のままで現れ、基礎に絡んだ流木〔一尺φ〕を取り除く。長兵衛は窮地を脱した。
棒手振り衆が日ごろ長兵衛を非難するのは、彼を信じたいからであり彼を身内であると思っていたからであった。

この時、長兵衛の心にあった井筒屋の呪縛から開放され木村屋へとシフトする。尊大な態度は相変わらずであったが、かれは心のなかで棒手振り衆に手を合せていた。

 2014/01/17 (金) 無題

 椎名誠著「かえっていく場所」を読了。数えてみると椎名の本を読むのはこれが60冊目だった。

 ここ数年は読んだことがなかったので、雰囲気が変わったのが気になった。昔のハチャメチャは影を潜め、相変わらず旅の人ではあっても基本的に再訪の旅で、なんというか追憶の旅だ。昔世話になったひとたちとの再会で涙ウルウルという浪花節的シーンを読んでいると、彼も人生の総括期にはいったのかもしれない。ただ、彼の周囲は肉体派で酒好きな男たちに占められていて、その健康さが相変わらず魅力だ。

 もし私が金持ちで肉体に自信があったならば、世界のあちこちに出かけていくだろうが、彼と決定的に違うところがある。

 あちこちで知り合うひとの殆どが女性だろう。結婚に失敗して流れてきた美貌の和服女性から連絡船の甲板で声をかけられ、バンクーバーの場末酒場でサーモンステーキをサカナに人生を語り合うだろう。
 スペインでサグラダファミリアを眺めている時、フラメンコの美貌ダンサーから声をかけられ、マドリードの稽古場に誘われて彼女のフラメンコを堪能するだろう。

 2014/01/16 (木) 65歳目前

私の欝はどうやら季節が関係していて、冬の終わりから春先にかけて発作的に出てくる。
それが6年前の脳内出血による後遺症とも言うべき感覚障害からくるものなのかどうかはわからないが、最近では、街を歩く人がみな骸骨に見えてくるということがあって、欝気分は最高潮に達した。

「カウンセラーに相談しようか」と思ったが面倒くさいのでやめたし、「睡眠薬でひたすら眠り続けようか」と思ったが、適量を誤って死ぬのも怖いと思ってやめた。結局は「居酒屋おまき」で肩のこらない友人たちと酒を飲み交わすのが、最良の脱出方法となっている。

何故こんなことを書くかというと、昨晩読んでいた椎名誠著「かえっていく場所」のなかに似たような気分を見つけたからで、勿論彼のような魅力文と比較はできないが、人間みんな躁鬱で躁と欝が顕在潜在を循環しているのだろう、と思ったから。

 2014/01/15 (水) きょうは3時半に起床
 
 脱原発を掲げて東京都知事選に立候補した細川護熙元首相。

思い出したのが、数年前に読んだ西木正明著「夢顔さんによろしく」。この本は、終戦時にA級戦犯に指定され服毒自殺した近衛文麿首相の長男・近衛文隆〔細川護熙の叔父にあたる〕を追ったドキュメンタリーだ。

 「満州で終戦を陸軍士官として迎え捕虜となり、シベリア抑留。各地の収容所を転々としたあと、ハバロフスク裁判で国際ブルジョアジー幇助という罪で26年の禁固刑を受ける。昭和30年の日ソ国交正常化交渉に際し、鳩山一郎首相の帰国要求や国内からの数十万人もの署名入りの嘆願書があったが、帰国が叶うことはなく、死去。彼の死は病死にしては不審な点が多く、西木は毒殺の可能性を強く示唆している。
 平成3年、「政治弾圧犠牲者の名誉回復に関する」ソ連法で無罪、名誉回復。平成4年、ロシア連邦軍最高検察は、近衞文隆の名誉回復を採択、平成9年、ロシア軍最高検察から名誉回復証明書を出した。」

ということで
越前と関係の深い〔注 松平春嶽の奥方は細川家から来た。私の奥方は福井市から来た〕肥後細川家の第18代当主の細川護熙の親族は数奇な運命をたどった。

都知事選に関して、「なんであんなじいさんが出るの?国政と都政は違うのに」と、妻は言うけれども、みまかる日が一日一日忍び寄っている私としては、「即脱原発」を掲げた細川候補に、是非とも勝利の美酒を味わっていただきたい。

 2014/01/14 (火) 筋トレに いきたしと思へど 時間なし
 
 本日の朝日新聞・福井欄に「ゆきのした資料館」移転へ」の記事が出ている。

 この記事に出てくる「ゆきのした文化協会」現代表の田島さんから、この建物〔もともと織物工場〕の改修・模様替設計を頼まれたのは十数年前のことだった。その折、大東亜戦争で使われた手榴弾の実物や、福井大空襲で逃げ惑いあるいは足羽川に飛び込む人たちの巨大な絵を見たのは大きな衝撃で、散逸を防ぐためにも、是非とも無事に移転を遂行して頂きたい。
一向一揆興亡史・越前加賀関連年表〔とんぼさん作成〕

2014/01/13 (月) 「炎の如く」

「作者あとがき」

 福井新聞社からの連載依頼は「幕末の福井を」というもので、主人公の選定は自由だった。誰にしようかと考え、橋本佐内や橘曙覧がすでに先輩諸氏によって書かれていたり、松平春嶽にもさほど興味が持てなかったので、知名度こそ低いが由利公正と決めた。ちょうど大野藩を舞台に内山七郎右衛門の活躍を描く『そろばん武士道』を執筆中だったからである。両名とも武士からぬ経済通であり、莫大な債務に苦しむ藩財政を再建した点で共通していたし、両者を描くことで幕末期の越前がより立体的に見えてくるのではと思えたからだ。
 執筆に先立ち、茂昭の末、松平宗紀氏をわずらわせて品川・海宏寺にある松平家の墓所を案内して頂いた。小高い丘陵の上を占める広い松平家専用区域の一郭に鳥居を配して葬られていた。土葬だという。そして、主を守るように至近距離で中根靭負の墓が建ち、かなり離れて伸び放題の木立ちの奥に由利の墓はあった。生前に於ける三者の関係を死後も示しているようで、とても興味を引かれた。また、別の区画では岩倉具視の巨大な墓碑を見つけて驚かされた。春嶽とは公武合体策と倒幕論で激しく争い、後に徳川慶喜の処遇をめぐっても対立した両者だけに、同じ寺に眠っているのが不思議に思えたのである。
 資料集めについては、生活文化情報部長内田和郎氏、泉志穂さんのお世話になった。ことに泉さんには、膨大なコピーをとって頂くなどお手数をかけた。史家の舟澤茂樹氏、三上一夫氏には直接お話をうかがうことができ、貴重な資料も提供して頂き得るところが多かった。舟澤氏に「春嶽は本当に名君だったのか」と尋ねたところ、「家臣の意見をよく聞いたという意味で名君といえる」と答えられたのが印象的だった。郷土歴史博物館の足立尚計氏からも有益なご教示を頂いた。各氏に厚く感謝申し上げる次第である。ただ、タカに関する資料は殆どなかったので、失礼ながら泉さんのイメージを借用して造形することにした。
 激動の世を石五郎から八郎、公正と名を変え、明治になって姓も三岡から由利と改めた彼だが、みるべき功績はすべて三岡の時代に為している。今様にいえば、ずば抜けて危機対応能力にすぐれた男であったといえ、それだけに、明治新政府が安定度を増すにつれて次第に輝きを失い、やがて失脚する運命を辿った。だがそれは、なんら彼の名を傷つけるものではない。非常の時に非常の策を果敢に行い、難局を切り抜けるのが彼の真骨頂であったからだ。
 また、彼の行なった策は、みな師や友の受売りにすぎなかったともいわれるが、それとて彼の名を損ねるものではあるまい。策とは、実行する者があってこそ策となるからである。西郷吉之助の、「あの人がいなければ、維新はあと数年かかっていただろう」という言葉が、なによりの証しといえる。
 由利は明治四十二年まで、八十才の長寿を保った。知人と碁を打っていて手の石をとり落とし、「なんでもないよ」といったのが最後だという。タカはその四年後に逝った。
 彼が繁栄の基礎を築いた銀座通りの一丁目には、「経綸」と刻まれた顕彰碑が建ち、毎年十月半ばになると「大銀座祭」が催される。十万を越す観衆が歩道を埋め尽くし、その中を華やかなパレードが続くのである。由利を生んだ福井県としてもぜひ参加し、東京でのPR活動の場としたらと思うが、如何だろうか。
 最後に、一年間大きなスペースを与えて頂いた福井新聞社、連載中素晴らしい押絵を添えて下さった志田弥広画伯、そして熱心な読者の方々に、あらためてお礼を申し上げる。

平成八年初秋
                 大島昌宏
2014/01/12 (日) 「炎の如く」感想

これは異なことを。責任を問われるのは幕府の方でございましょう。なぜなら、勅許を得た上で条約を結べと主張したのは春嶽であり、それを無視して調印を強行したのは幕府である。それが攘夷論を沸騰させた原因だから、責められるべきは幕府ではないか。政治総裁職就任の条件とした改革案も、幕府はごく一部を行なっただけにすぎず、慶喜ともども春嶽を追い出したがっているのが本心であろう。そうした幕府になんの義理があろうか・・八郎〔由利〕の論旨は明快だった。

2014/01/11 (土) もう週末か

午後0時から、国立競技場での全国高校サッカー選手権準決勝2試合をみていたが、富山第一と星陵が勝って、決勝戦は富山県vs石川県となった。つまり北陸3県で福井県だけが蚊帳の外となったわけである。


子供のころから、「越中〔富山〕強盗、加賀〔石川〕乞食の福井詐欺」と言われて育ってきたのだが、詐欺は一番駄目みたいだ。


「越中強盗」は新産都市No1からも伺えるように「他人をおしのけても俺が一番や」という気風が強いのだろう。「加賀乞食」は、加賀百万石のお国柄で、美術文化や公家風蹴鞠文化への執着をあらわしている。


「福井詐欺」は、自分をどう表現するかよりも自分がどう思われているかを気にする商売人的気風の表現で、勿論、近江商人の流れからくるものだ。現に単位人口あたりの社長率は福井県が全国No1である。





それはともかく
福井藩士・三岡石五郎〔由利公正〕が明治維新で何をなしたかは、松平春嶽・橋本佐内ほどには知られていない。


大島昌宏著「炎の如く・由利公正」


幾百もの蹄が新雪を蹴散らした。地鳴りにも似た轟きが、石垣にこだまして響きあう。
大太鼓の音を合図に鉄門をとび出した百騎あまりの武士は、重臣の屋敷が連なるく曲輪を抜けて大手門を目指しし疾駆した。ことのほか尚武を好んだ藩祖秀康以来、毎年、左義長に合せて行われる福井藩の名物・馬威しである。前夜来の雪もやんだ弘化四年〔1847年〕正月十四日、白銀の照り返しも眩い未の上刻〔午後一時〕のことであった。・・・
という調子でこの物語は始まる。


・・次の衝撃が福井を襲った。井伊の弾圧はとどまるところを知らず、一橋派に加担した志士や公卿たちが身分、性別、開国派、攘夷派であることを問わず、次々と捕縛されたのだ。世にいう安政の大獄が始まったのである。もと小浜藩士梅田雲浜、長州藩士吉田松陰、頼山陽の子息頼三樹三郎などその数は百名にも達し、七月には佐内も投獄された。彼らの捕縛を指揮したのが井伊に引立てられた老中・鯖江藩士間部詮勝、京都所司代・小浜藩主酒井忠義であることも伝えられ、両藩との溝も深まった。

2014/01/10 (金) 幸村去影 

今朝は寒かった。工事現場からの帰り、道路の積雪はカチンカチンでスノータイヤの車でも怖い。40km/Hで走っていたら前方にバイクが割り込んできた。「こんな日にバイクなんて命知らずやなあ」と思っていたら、そのバイクは突然横転。あやうく避けることはできたが、なんせ数メートル前方での横転で、こちらも恐怖だった。


津本陽著「幸村去影」を読み終えた。


真田幸村は、「大坂の陣」で獅子奮迅の働きを見せ、最後は東軍の越前・松平秀康の配下鉄砲頭西尾久作の手によって落命した。享年48歳。


「夏の陣」で豊臣家は滅亡するのだが、この本を読んでいると、豊臣方は負けるべくして負けたとしかいいようがない。勿論、家康方との圧倒的な兵力の差が滅亡の基本的な原因ではあるのだが、加えて大阪城を仕切る大野修理亮治長の、家康と比べての無能さも大きく関わっていた。淀君と密通していたという噂がもし本当であれば、淀君の色香が治長を凡人にしてしまったのかもしれない。


かわいそうなのは、豊臣方総大将・秀頼だ。190cmを超える巨躯と、淀君の美貌を受け継いだ端正な顔と、秀吉の知略を併せ持つ三拍子そろった快男児だったし、幸村の戦略をよく聞き、それを実践しようと努めた。


しかし関が原の戦いから既に15年が経過し、その間、武力衝突のない時代が続いて、秀頼には戦場を駆け巡る機会がなかった。つまり経験知をもつことができなかったので、最後の最後に淀君や治長に同調せざるを得なかった。


しかし真田幸村は死ぬ瞬間まで傑物戦国大名だった。豊臣家に殉じることを侍としての誉れと信じ、討ち死ににカタルシスを覚えたのである。

2014/01/08(水) 昨日の一日

昨日は忙しい一日だった。そして、正月気分は完全に吹き飛んだ。


午前中に、依頼されたエクセルでのデーターづくりを終了。そのあとは某工事現場での打合わせ会議に臨んだ。会議はながびき、午後1時前にやっと終了。


事務所に戻り、家族の残した焼き飯を皿に盛って二口食べたところで、某工務店社長が来訪。「建築足場の平面、立面、詳細図面を書いてほしい」という珍しい注文を受けた。


社長が帰り、焼き飯の三口目を腹に入れたところで、坂井市の議員が来訪。来年の4月には坂井市の市議選があるとのことで、「まきちゃん、その時は坂井市民を沢山紹介してね」と言われた。


そのあとはCAD三昧で、気がつくと外は闇だ。
焼酎を飲みつつ、津本陽著「生を踏んで恐れず・高橋是清の生涯」を一気に読み終えた。高橋については、「2・26事件で暗殺された政治家」ていどしか知らなかったが、財政通の型破りな政治家であったことがわかる。

22014/01/07 (火) 長い坂読了

「阿部小三郎でもなく、三浦主水生であってもならないとおれは思ったことがある。」・・おれはこの新畠ではもとという名の人足だ。ななえも小三郎もおれ自身とは関係がない。根本的にはべつの世界の人間なのだ。おれは小三郎の昔から独りだった。いまも独りだしこれからも独りだ、なにかする男はいつも独りでなければならない」
老人だからといって、独りで涙をながすようなことがないわけではない、という米村青淵の言葉が思いうかんだ。老いて気力を喪失した滝沢主殿。酒びたりで怠け放題に怠け、しかも死ぬときには、草臥れはてた、と云ったという宗厳寺の和尚。みんな独りだった。谷宗岳先生も、妻子がありながらこんな田舎に招かれて来て、若い側女に子を産ませ、つつましやかに寺子屋のような仕事に背をかがめているという。
だが実際にはその側女にも、側女の産んだ子にも心はつながっていないに相違ない。女には家があり子供がある。女には自分の巣がある、けれども男に巣はない、男はいつも独りだ。
「独りだからこそ、男には仕事ができる」と主水生は声に出して呟いた。「特にいまのおれは、恩愛にも友情にもとらわれてはならない、男にもほかの生きかたはある。男としての人間らしい生きかたは数かぎりなくあるだろうが、おれだけはそうあってはならない。おれには男として人間らしい生きかたをするまえに、侍としてはたすべき責任、飛騨守の殿がそう思い立たれたように、侍としてなすべきことをしなければならない、そしてこれはおれ自身の選んだ道だ」


こういう三浦主水生のヒューマニテイあふれる独白を読んだ時、「翻って私の人生はなんだったのだろうか」と考えた。
「私はこの世で何をなしたのだろうか・・。せいぜいが何人かの女性たちに恋の手ほどきをしたことくらいしか思いうかばないし、そんなものは、主水生の煩悶に比べりゃ百万分の一くらいの価値でしかない。


「・・そうだ、今からだ。それには体力の回復だ」と思い立ち、金津トリムパークへ筋力トレーニングに出かけた。指導員に四肢のマヒ状態を診てもらったあとトレーニング開始。指導員から、「牧田さんの場合は、筋力アップ以前の問題で、先ずは四肢の稼動域を拡げることから始めます」と云われ懇切丁寧な指導を受けた。


「大切なことのひとつは笑うことです。笑いは筋肉の弛緩につながり精神を柔らかくします」と云われたが、これには困った。硬派転向以来、笑いを忘れて四ヶ月。既に苦虫顔がトレードマークとなってしまっている。

2014/01/06 (月) 長い坂

・・・兵部はまた、樹が呼吸することに気づいた。陽が昇ってから森へはいると、檜も杉も、その幹や枝葉から香気を放つが、その匂いかたには波があり、匂わなくなったり、急にまた匂いはじめるのである。里では桃が咲き、桜も咲き出していたようだ。大平からの遠望だからよくはわからないが、もう三月にはいって、春もたけなわであり高いこの山の上にも春がうごきだし、杉も檜も眠りからさめたのであろう。樹幹の発する香気が一定ではなく、弱くなり強くなるのは、それらの樹が明らかに呼吸していることを示している。
「まるで人間のように」と兵部は太い杉の幹に手を当てながら呟いた。「おまえはくちもきけず動くこともできない。百年でも五百年でも、同じ立ったままで生き続けなければならない。けれども人間や毛物と同じように、生きていることは事実だし、このとおり呼吸さえしている。ことによると、われわれのじたばたしている姿を見て、羨んだり嘲笑したりするだけの感情さえあるのではないか」

2014/01/05 (日) 一期一会

彼は藩主の命により、新田開発のために藩内を流れる大川の堰堤づくりに着手する。他の堰堤の資料を調べ水面高を測量し木杭を調達し、雪の降るなかでの作業はまことに厳しいものだった。(一昨年に「ふるさと語ろう会」で九頭竜川堰堤を見学に行き、係員から堰堤づくりの経過を聞いていたのでその困難さはよくわかる)。


又、江戸詰めの反藩主勢力により度々の妨害も受ける。藩主と小三郎が堰堤を視察していた時、5人の武士が突然現われて二人に切りかかった。この時、小三郎は少しもあわてず、5人の武士全てを心臓一突きで殺してしまった。まさに妖刀使いの小三郎。


それはともかく


今年二人目のサロン来訪者は、元国会議員の某氏だった。
入ってくるなり、「部屋の雰囲気が独特ですねえ・・淡い光は明るいとも暗いとも言えない。不思議だ・・」と言う。
「この世を儚むひとたちにとっての束の間の休息の場。・・ここを『無明庵』と名づけました」と、私は答えた。


今月30日(65歳の誕生日)に晴れて年金生活者となる私にとっての同志とはリタイアあるいはセミリタイアした人たちで、某氏の穏やかな表情からも現役時代の脂ぎった部分が消え、声の抑揚も淡々として、そのことによって「人生のこれから」が伺える。


私は6年前の臨死体験・幽体離脱体験から話を切り出し、「死と向き合わずしての生はありえない。死と生は浸潤し合っていて、そこにベルリンの壁はないのです」との自論を展開した。


光陰矢のごとしで、気がつくと外は既にたそがれだ。某氏は別れ際に「貴重な面白い話ありがとうございました」と言って、車のエンジンキーをかけた。
去っていく車に向かって私は合掌した。一期一会なのである。

2014/01/04 (土) 無題
 
正月は 冥土の旅の一里塚
      めでたくもあり めでたくもなし 一休宗純 

正月四日目にして初めて年賀状を読みました。ぼくは年賀状を一枚も書きませんでしたが、生きている限り会いたい人にはいつでも会えるんだというのが書かなかったその理由です。

ということで、みなさん、今年もよろしく。


さて

正月用読書本として山本周五郎著「ながい坂」(上・下)を図書館で借りたのだが、大工仕事やリハビリ訓練に時間をとられ、なによりも正月気分に流されて上巻読了にとどまった。しかし読み応えがある。


「何故この本を若い時に読んでおかなかったのだろう。そうしておればぼくの人生はもっと違うものになったはずだ」と少し悔いたが、それは「隣の芝生」であって仕方がない・・。


主人公・阿部小三郎の父・小左衛門は〇〇藩で20石どりの組頭つまり下級役人だ。
父・小左衛門は「なにごとにつけ御身大切。不正があっても眼をつむり大過なく日々を過ごすこと」を信条とする典型的な公務員で、小三郎は幼少時から「これが俺の本当の父親か。本当の父親は他にいるのではないか」との疑念を抱くようになりそのまま成長する。


この城下には藩校が二つある。一つは尚功館といって、中以上の家格の子弟のために設けられたものであり、学問の技術も武術の師範も、第一級の人が選ばれている。他の一つは藤明塾といい、これには中以下の侍の子弟や、町屋の者も入学することができる。
8歳の小三郎は身分の制限故に藤明塾に入ったが、学術武術に群を抜いていた彼は藤明塾塾員でいることに飽き足らず、周囲の反対を押し切って尚功館へ転入する。


尚功館でも発揮された小三郎の類い稀な文武の才能は藩主・昌治の眼に留まり、彼は昌治の側近となる。しかしそれは彼の本意ではなかった。彼は「武士の道は民百姓をいかにして苛斂誅求から守るか民百姓をいかに幸せにするか」の一点にあり、えらいさんなんか関係ねえよだった。要するに、後年、福澤諭吉がとなえた「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず」の文言を数十年前にとなえていたのだった。

2014/01/03 (金) 正月二日目

昨日は、朝一番に近くのDIY店で6尺タルキ三本を購入。昨年兵庫県三田市で買った優れものの手鋸を武器にサロン総仕上げの大工仕事に専念した。
午前中いっぱいで完成。(自画自賛ではあるが)なかなかいい感じだ。
しかし洋風アルミサッシュを隠すために木綿布を垂らした結果、自然光の入りどころがなくなり和調ランプだけが灯りということになった。
光と影だ。「陰影礼賛」(谷崎潤一郎)なのである。




山で伐採した孟宗竹を細工して壁掛け花瓶をつくった。活けるための花を野山にさがしたが、真冬なので全く見当たらない。仕方なく葉のついた小枝を花瓶に差し込んだ。これはこれで悪くない。風情がある。




さて
「居酒屋おまき」への今年最初の来訪者は、聾唖者のKさん。
この写真は手話で「新年おめでとう」をあらわしています。





それはともかく
午後、テレビのスイッチをつけるとサッカーワールドカップ「日韓大会」(録画)をやっている。昔を振り返るのもなかなかいいもんだ。解説者やアナウンサーは中田英寿の動きをさかんに追っていた。そこでぼくは十数年前を思い出した。


福井市のワシントンホテルで講演会が開かれ、そのあとで立食パーテイ。
疲れたぼくは壁際のソファーにウイスキーグラスを持って座った。そのぼくの横へ初老の紳士が座った。紳士は講演者の「名古屋グランパス」社長だった。こんな有名人との一対一の会話は緊張しまくりが普通なのだが、ウイスキーで酩酊していたぼくは既に精神が弛緩しており普通の調子でいろいろ聞いた。
彼の口から出てくるのは中田礼賛の言葉ばかりだった。何故、グランパス支配下選手でもない中田なのか。


「彼の運動能力の良さは勿論だが、それよりも何よりも頭がいい。グラウンド全体の動きを瞬時に判断する。判断してから動くのではない。判断する時既に動いているのです」と最大級の賛辞を送っていた。

2014/01/02 (木) 昨日の元旦


元旦は「食っちゃ寝 食っちゃ寝」で終わった。やかましいだけのテレビのスイッチを入れることもなく、家族以外誰とも言葉を交わさず一日が過ぎた。口にしたのは雑煮と冷酒だけ。

2014/01/01 (水) 明けまして


昨日の大晦日。妻のちょっとした言葉で三年ぶりに心の底から笑った。


10年前にこのブログを始めた時、妻に「何書いてもいいけど、家族のことには絶対触れんといてや」と堅く約束させられたので内容は書けないが、「なるほどなあ、俺にも生きている意味があるんやなあ。もうしばらく生きていてもいいなあ」と思った。



それはともかく
本日の福井新聞、新春対談の柳田邦男vs中島岳志で柳田は「私はね、死者ほど精神性が躍動し、本質に迫る存在はないと思う。それに気づいたのは、息子が自死を図った20年前です。脳死状態にありながら彼は、人間の苦悩をどこまで分っているのか、と鋭い問いを父親に突きつけてきた。終末期医療の取材を積み重ねながら、死の本質に触れていなかったと思い知らされ、生と死について考えを深める契機になった」・・「それから数百人の闘病記や追悼記を読むうちに気づいた。死者は生きているじゃないかと。愛する家族や友の心の中で「死後生」を生きている。逆を言えば、より良い死後生のなかに心して今を生きなきゃいかん。40年かけてたどりついた死生観です」と言っている。


数ヶ月前発行の月刊誌で息子の自死を語っていた彼の迷路のような文章の背後を支えていたのは、こういう思いなのかと、ぼくは納得し勇気づけられた。