2014年07月

 2014/07/31 (木) 自問自答
 昨日の来訪客はひとりだけで、電話はゼロ。そしてぼくは煙草「わかば」
を買いにコンビニへ行った以外は外へ出ることもなく、事務所の製図コーナーに座り、CADを操作し続けていた。

 誰とも言葉を交わさない一日となったわけだが、実はそういう日こそ一番賑やかに言葉を交わしている。自分自身と言葉を交わしている。勿論、音声言葉ではなく、何と言ったらいいのか・・しゃべる自分がいてそれを聞く自分がいて、そのベヒクルは意識それ自体ということだ。

 何がテーマになっていたかというと例えば

①Q なぜぼくは女嫌いになったのか。
 A 女はシナをつくるから嫌いだ。もしかすると女という種族は人間が全てバカだということがわかっていないのではないか。

②Q ぼくは真宗の開祖・親鸞と中興の祖・蓮如のどちらに惹かれるか。
 A 勿論、親鸞。親鸞は念仏に「現世利益」を求める衆生と徹底的に対峙した。悩みながら対峙した。

③Q ぼくは南と北のどちらが好きなんだろうか。
 A 南。何故なら沖永良部島がある。

 2014/07/30 (水) 無題
 佐世保市の同級生に対する猟奇的殺人事件に関するマスコミ報道を見て一番感じたことは、記者会見での校長の話しぶりにあった。通り一遍のことをしゃべっていたにすぎないし、ああいう場では通り一遍にしゃべることしかできないのだろうが、それにしてもしゃべりぶりが淡々としていて、なんというか対岸の火事を語るような雰囲気に感じられて仕方がない。

 加害少女が愛する母を亡くしたこと、父がすぐに再婚したとこと、結果としてマンションでの独り住まいを始めたことなどが、殺人動機として微妙に存在しているのは確かだろうが、それだけなら、同僚少女への凶行の動機説明とはなりえず、むしろ、唐十郎著「佐川君への手紙」のような関係が二人のあいだにあったんではないかと思う。

 新聞の三面欄を賑わす事件の数々を、読む側vs読まれる側という対蹠的関係でみるべきではない。潜在的には自分が読まれる側に立ち得るという認識は、人間が人間村社会の中で生きている限り不可欠だと思う。

 「ふるさと語ろう会」会員のみなさんへ
本日の午後、事務局の河田さんが来訪。退院後の経過は順調みたいで、すこぶる元気そうでした。

2014/07/29 (火) 7月ももう終わりか
 一昨日の晩に某飲み屋で一緒に飲んだ人はぼくと同じくらい歩行に異常が見えるのだが、問わず語りに、「5年前の海外での突発的な脳梗塞発病による後遺症で、来月手術のために入院する」と言う。
 してみると、7年前の脳内出血による後遺症を持つぼくと原因は酷似しているのだが、海外での発病という点が決定的にちがう。

 「生死の境目のなかで日本へ空輸搬送されたし、内地は暴風雨で飛行機が飛べずに陸路救急車搬送となってまことに大変だった」と言う。

 これだけ空の事故が頻発しているのだから、我々は仕事以外の物見遊山は近場だけにしておくほうがいい。

 きょうの昼に会った人から「最近の牧田さんのブログには女性がでてこないなあ」と言われたが、それは当然で、今、親鸞を追っかけ中の僕は、終生の師・法然の易行念仏を頑なに守り、妻・恵信を終生の同士とした彼の生き方に強く惹かれ、「生きるも地獄 死ぬも地獄・・愛は虚しい」と思うようになったからです。

2014/07/28 (月) 昨晩は飲み疲れ

 昨日の午後は、生涯学習館三階大ホールで「あわら市明社協議会・通常総会」が開かれた。

1  開会のことば    
会長挨拶    
来賓祝辞    
議長選出    
議事 第1号議案 平成25年度事業報告並びに収支決算報告について 
  第2号議案 平成25年度事業報告並びに収支決算報告について 


 これらが終了したあとは記念講演で、
 講師は三宅小百合さん。

 現在、坂井市の教育委員をしているが、10年間モーターボートの選手をしていたという変わった経歴の持ち主だった。

 夜は某料理屋で飲み会。


2014/07/27 (日) 本日は明社定期総会

 昨日の夜は、区民館で、「坂ノ下農地環境保全会」が開かれた。会が終わってからは親睦宴会。
 議員時代にあれほど頻回にあった宴会の世界からきっぱりと決別した私には、宴会が既に苦手となっている。正確に言うと、しゃべり合うのは嫌いではないのだが、その時に飲むことができなくなってきている。
 ・・ということで昨晩は一滴の酒も口にせず、もっぱら饒舌の徒の話を拝聴し続けていた。
 それはともかく
私の事務所の書棚は小さいので整理整頓が不可欠だ。そして書類やメモや雑記はできるだけファイル化してパソコンに入れ込む。
その作業の途中、大島昌宏 著「炎の如く・由利公正」が出てきた。今年の正月に読んだ本で、とても面白かった。

・・幾百もの蹄が新雪を蹴散らした。地鳴りにも似た轟きが、石垣にこだまして響きあう。
大太鼓の音を合図に鉄門をとび出した百騎あまりの武士は、重臣の屋敷が連なるく曲輪を抜けて大手門を目指し疾駆した。
ことのほか尚武を好んだ藩祖秀康以来、毎年、左義長に合せて行われる福井藩の名物・馬威しである。前夜来の雪もやんだ弘化四年〔1847年〕正月十四日、白銀の照り返しも眩い未の上刻〔午後一時〕のことであった。・・・という調子でこの物語は始まる。

・・次の衝撃が福井を襲った。井伊の弾圧はとどまるところを知らず、一橋派に加担した志士や公卿たちが身分、性別、開国派、攘夷派であることを問わず、次々と捕縛されたのだ。世にいう安政の大獄が始まったのである。もと小浜藩士梅田雲浜、長州藩士吉田松陰、頼山陽の子息頼三樹三郎などその数は百名にも達し、七月には佐内も投獄された。
彼らの捕縛を指揮したのが井伊に引立てられた老中・鯖江藩士間部詮勝、京都所司代・小浜藩主酒井忠義であることも伝えられ、両藩との溝も深まった。

これは異なことを。責任を問われるのは幕府の方でございましょう。なぜなら、勅許を得た上で条約を結べと主張したのは春嶽であり、それを無視して調印を強行したのは幕府である。それが攘夷論を沸騰させた原因だから、責められるべきは幕府ではないか。政治総裁職就任の条件とした改革案も、幕府はごく一部を行なっただけにすぎず、慶喜ともども春嶽を追い出したがっているのが本心であろう。そうした幕府になんの義理があろうか・・八郎〔由利〕の論旨は明快だった。

「作者あとがき」
 福井新聞社からの連載依頼は「幕末の福井を」というもので、主人公の選定は自由だった。誰にしようかと考え、橋本佐内や橘曙覧がすでに先輩諸氏によって書かれていたり、松平春嶽にもさほど興味が持てなかったので、知名度こそ低いが由利公正と決めた。ちょうど大野藩を舞台に内山七郎右衛門の活躍を描く『そろばん武士道』を執筆中だったからである。両名とも武士からぬ経済通であり、莫大な債務に苦しむ藩財政を再建した点で共通していたし、両者を描くことで幕末期の越前がより立体的に見えてくるのではと思えたからだ。
 執筆に先立ち、茂昭の末、松平宗紀氏をわずらわせて品川・海宏寺にある松平家の墓所を案内して頂いた。小高い丘陵の上を占める広い松平家専用区域の一郭に鳥居を配して葬られていた。土葬だという。そして、主を守るように至近距離で中根靭負の墓が建ち、かなり離れて伸び放題の木立ちの奥に由利の墓はあった。生前に於ける三者の関係を死後も示しているようで、とても興味を引かれた。また、別の区画では岩倉具視の巨大な墓碑を見つけて驚かされた。春嶽とは公武合体策と倒幕論で激しく争い、後に徳川慶喜の処遇をめぐっても対立した両者だけに、同じ寺に眠っているのが不思議に思えたのである。
 資料集めについては、生活文化情報部長内田和郎氏、泉志穂さんのお世話になった。ことに泉さんには、膨大なコピーをとって頂くなどお手数をかけた。史家の舟澤茂樹氏、三上一夫氏には直接お話をうかがうことができ、貴重な資料も提供して頂き得るところが多かった。舟澤氏に「春嶽は本当に名君だったのか」と尋ねたところ、「家臣の意見をよく聞いたという意味で名君といえる」と答えられたのが印象的だった。郷土歴史博物館の足立尚計氏からも有益なご教示を頂いた。各氏に厚く感謝申し上げる次第である。ただ、タカに関する資料は殆どなかったので、失礼ながら泉さんのイメージを借用して造形することにした。
 激動の世を石五郎から八郎、公正と名を変え、明治になって姓も三岡から由利と改めた彼だが、みるべき功績はすべて三岡の時代に為している。今様にいえば、ずば抜けて危機対応能力にすぐれた男であったといえ、それだけに、明治新政府が安定度を増すにつれて次第に輝きを失い、やがて失脚する運命を辿った。だがそれは、なんら彼の名を傷つけるものではない。非常の時に非常の策を果敢に行い、難局を切り抜けるのが彼の真骨頂であったからだ。
 また、彼の行なった策は、みな師や友の受売りにすぎなかったともいわれるが、それとて彼の名を損ねるものではあるまい。策とは、実行する者があってこそ策となるからである。西郷吉之助の、「あの人がいなければ、維新はあと数年かかっていただろう」という言葉が、なによりの証しといえる。
 由利は明治四十二年まで、八十才の長寿を保った。知人と碁を打っていて手の石をとり落とし、「なんでもないよといったのが最後だという。タカはその四年後に逝った。
 彼が繁栄の基礎を築いた銀座通りの一丁目には、「経綸」と刻まれた顕彰碑が建ち、毎年十月半ばになると大銀座祭」が催される。十万を越す観衆が歩道を埋め尽くし、その中を華やかなパレードが続くのである。由利を生んだ福井県としてもぜひ参加し、東京でのPR活動の場としたらと思うが、如何だろうか。
 最後に、一年間大きなスペースを与えて頂いた福井新聞社、連載中素晴らしい押絵を添えて下さった志田弥広画伯、
そして熱心な読者の方々に、あらためてお礼を申し上げる。
          平成八年初秋
                     大島昌宏


2014/07/26 (土) 阪神は逆転勝ちしたけれど

 訳はわからないが、昨晩は、鬱陶しくて眠れなかった。こういう時は、悲しい気分に浸っているしかないと思います。

 たちまちに 君の姿を霧とざし 或る楽章を われは思ひき  近藤 芳美

 忘れなきゃ生きていけない人も大勢いる 酒井若菜

 家といふ かなしみの船 成ししより  ひとは確かに死へと漕ぎゆく 島田修二

 悲しみからだって 涙という宝石が生まれる  宗左近
 

 そして、このような時に、我々は宗教的になるのだろうと思います。
                
 日本人は万物に何かが宿ると考えているのだから、それを宗教学じゃあるまいし、神道か仏教かキリスト教か新宗教かなどと区別して見るよりも、その何かを一人一人が多様にもっていることを宗教とみなせばいいじゃないか 野坂昭如

2014/07/25 (金) 「ふるさと語ろう会」のみなさんへ

 昨日、とんぼさんから、「多賀谷一族が柿原郷を去った理由を声の広場に書き込んだ」との電話があったので、このブログに貼り付けました。トンボ作品リストのなかの「戦国非情  結城氏・多賀谷氏伝」と合わせ読んでいただければ幸いです。
 「結城秀康の遺言。 多賀谷一族 越前柿原郷を去る。」
 とんぼ   
結城秀康は68万石の大大名として越前に移封された際、徳川一門の大名跡である松平姓を名乗りたかったと言われている。しかし、秀康が松平を名乗ることにより関東の名門結城家は絶える。

 養父・結城晴朝(はるとも)は結城氏の家名を残すために、宇都宮氏から迎えた養子・朝勝(ともかつ。宇都宮21代当主広綱の次男)を離縁してまで、秀吉の養子であり、家康の次男である秀康を養子に迎えたのである。養父・晴朝の心情を思うと、結城姓を捨てることはできなかった。

 だが、嫡男・忠直には松平姓を名乗らせ、徳川将軍に準ずる家格を守らせた。

 結城秀康は慶長12年4月8日(1607年6月2日)死去している(享年34歳)。その際、秀康は4男の直基(なおもと)に結城氏を相続するように遺言した。忠直は越前北の庄藩を相続し、松平姓を名乗らせ、直基は結城姓を名乗らせたのである。

 元和9年(1623年)、秀忠の勘気を蒙り忠直が配流処分となり、勝山、大野が北の庄藩から分離された。その際、直基は勝山藩主(3万石)として独立した。その後大野藩(5万石)、山形藩(15万石)に移封されている。さらに姫路藩へと続くのだが、その赴任途中病死した(1648年。享年45歳)。

 その直基と多賀谷氏が深い関わりを持つようになる。

 多賀谷左近三経は慶長12年7月21日(1607年9月12日)死去(享年30歳)。多賀谷氏当主は嫡男・左近泰経(やすつね)が継いだが元和2年(1616年)死去(享年不明)。泰経嫡男・虎千代への家督相続は認められず、柿原郷多賀谷氏は絶えた。柿原地区の一画に多賀谷左近三経の墓と五輪塔がひっそりと佇んでいる。以降、多賀谷氏の領地であった坂北郡は福井藩金津奉行の支配下に置かれた。

 だが、多賀谷左近の子孫は存続していた。虎千代、後の経政(つねまさ)は松平直基の家臣団に加わっていたのである。

 秀康が結城家存続を決心した時、重臣の多くは徳川家臣団で固められおり、相談するのは結城氏と縁の深い多賀谷一族の左近三経しかいなかった。結城氏存続の思いを三経に打ち明けたであろう。秀康の願いは三経から泰経、家臣たち、そして経政に語られた。

 秀康没後、徳川家臣団の発言力は益々強くなり、下総結城時代からの譜代家臣は影が薄くなった。左近三経の死はいっそうその傾向に拍車をかけた。柿原郷の領主としての存続が危うくなった時、多賀谷一族には越前北の庄藩家臣としてではなく、結城氏家臣として生きる選択肢が残されていたのである。

 松平直基が勝山藩に移封したとき、多賀谷一族は幼い経政とともに柿原郷を引き払い、勝山に移り、後に大野、山形、姫路と直基に従って各地を転々とした。やがて成人した経政は直基を補佐し、その後も家老職を輩出する家系となった。

 直基の死去後は、嫡男・直矩(なおのり)に仕えた。直基系越前松平家は明治維新まで11代を数え、その間、勝山藩、大野藩、山形藩、姫路藩、越後村上藩、豊後日田藩、出羽山形藩、陸奥白河藩、陸奥白河新田藩、姫路藩、上野前橋藩、武蔵川越藩、上野前橋藩と目まぐるしく移封を繰りかえしていた(最後は上野前橋藩主・松平直克)。多賀谷一族も下妻以来の譜代重臣として元和9年(1623年)から明治4年(1872年)までの250年間、歴代藩主に仕えている。多賀谷の家名は明治維新時(1868年)の前橋藩の家臣団のなかに記されている。

※ 結城秀康の思いは結局実現しなかった。結城晴朝が慶長19年(1614年)死去すると、直基は結城氏を捨て松平氏に戻した。理由は松平氏と結城氏とでは処遇に雲泥の差があるためで、事実、直基以下の歴代当主は親藩大名として処遇された。

 それでも晴朝、秀康の思いは受け継がれ、下総結城氏の祭祀は直基系松平氏の歴代当主によって執り行われ、現在も下総結城一族は前橋神社(群馬県)に祀られている。

 越前柿原の郷から多賀谷氏が消えた理由と、その後の消息である。

※ 福井藩は3代忠昌以降の名称。秀康、忠直の時代は北の庄藩。

2014/07/24 (木) 親鸞の魅力と利休の美意識

数日前のブログに「もう焼酎は飲みません」と書いたところ

 
今朝の10時の来訪者(男性 推定年齢71歳)が清酒の一升瓶を持ってきてくださった。
 ブログを書くことの効用はここにあるのだと思った次第です。

 五木寛之著「親鸞」を読んでいると、真宗開祖・親鸞と中興の祖・蓮如との違いがよくみえてくる。
 読み進めるうち、今年の四月に読んだ山本兼一著「利休にたずねよ」がアタマのなかを駆け巡り、宗教者に無いものは「美に殉じる覚悟」なのだと思った。


あめや長次郎
利休切腹の六年前
天正十三年(1585)十一月某日
京 堀川一条
  京の堀川は、細い流れである。
一条通に、ちいさな橋がかかっている。
王朝のころ、文章博士の葬列が、この橋をわたったとき、雷鳴とともに博士が生き返った・・。
そんな伝説から、橋は戻り橋とよばれている。冥界からこの世にもどってくる橋である。
その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。
「関白殿下が、新しく御殿を築かれる。ここで瓦を焼くがよい」
京奉行の前田玄以に命じられて、土地をもらったのである。
聚楽第と名付けられた御殿は、広大なうえ、とてつもなく豪華絢爛で、まわりには家来たちの屋敷が建ちならぶらしい。
すでに大勢の瓦師が集められているが、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔よけの飾り瓦である。
長次郎が鏝とヘラをにぎるとただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となり、天に咆哮する。
虎のからだに龍の腹をした鬼龍子が、背をそびやかして悪鬼邪神をにらみつける。
「上様は玉の虎と、金の龍をご所望だ。お気に召せば、大枚のご褒美がいただけるぞ」
僧形の前田玄以が請けあった。
「かしこまった」
すぐに準備にかかった。
まずは、住む家を新しく建てさせ、弟子たちと移った。
そこに大きな窯を築いて、よい土を集めた。
池を掘り、足で土をこねる。
乾かし、釉薬をかけて焼く。
今日は、焼き上がった瓦の窯出しである。
「こんなもんや。ええできやないか」
弟子が窯から取りだしたばかりの赤い獅子のできばえに、長次郎は大いに満足した。
獅子は、太い尻尾を高々とかかげ、鬣を逆立てて牙を剥き、大きな目で、前方をにらみつけている。
長次郎が、あめやの屋号をつかって、夕焼けのごとき赤でも、玉のごとき碧でも、自在に色を
つけられるからである。
明国からわたってきた父が、その調合法を知っていた。
しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。なんども失敗をくり返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。
なんども失敗を繰り返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。
長次郎の子も、窯場ではたらいているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。
・・一子相伝にあぐらをかいたら、人間甘えたになる。家はそこでおしまいや。
父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである・・。それが父の教えだった。
まだぬくもりの残る窯のなかから、弟子たちがつぎつぎと飾り瓦を運び出してくる。
いずれも高さ一尺ばかり。
できばえは文句なしにみごとである。
龍のつかむところに雲があり、虎のにらむところに魔物がいるようだ。
得意な獅子も焼いた。
造形もうまくいったが、赤い釉薬がことのほかいい。
冬ながら、空は晴れて明るい陽射しが満ちている。
その光を浴びて、獅子にかかった釉薬が銀色に反射した。
「いい色だ」
長次郎の背中で、太い声がひびいた。
ふり返ると、大柄な老人がのぞき込んでいた。
宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。真面目そうな顔の供をつれているところを見れば、怪しい者ではないらしい。
「なんや、あんた」
釜場には、まだ塀も柵もない。こんな見知らぬ人間が、かってに入ってくるようなら、すぐに塀で囲ったほうがいいと、長次郎はおもった。
「ああご挨拶があとになってしまいました。わたしは千宗易という茶の湯の数寄者。長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」
ていねいな物腰で、頭をさげている。
長次郎は、宗易の名を聞いたことがある。関白秀吉につかえる茶頭で、このあいだ内裏に上がって、利休という勅号を賜ったと評判の男だ。
「飾り瓦のことやったら、まずは、関白殿下がさきや。あんたも聚楽第に屋敷を建てるんやろうが、ほかにも大勢注文がある。順番を待ってもらわんとあかん」
権勢を笠に着てごり押しするような男なら追い返そうと思ったが、老人は腰が低い。
「いや、瓦のことではない。茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」
長次郎はすぐに首をふった。
「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」
話は穏やかだが、宗易という老人は、粘りのつよい話し方をした。
・・人間そのものは粘っこいのや。
長次郎はそう感じながらも、宗易のたたずまいに惹かれた。
・・この爺さん、なんや得体が知れん。
ただそこに立っているだけなのに、釜場の空気がひき締まるような、不思議な重みがある。
・・よほどの数寄者にちがいない。
長次郎の直観が、そうささやいている。
「窯出しが終わったら、お話をうかがいましょ。それで、よろしいか」
「けっこうです。おや、あの虎は、とくにできがいい。天にむかって吠えている」
いま弟子が窯から出してきたばかりの虎は、ずらっとならんでいるなかでも、いちばんよいできである。
長次郎は、宗易の目利きのするどさに驚いた。

 
 この本は24の章で成り立っている。
・死を賜る 利休
・おごりをきわめ 秀吉
・知るも知らぬも 細川忠興
・大徳寺破却 古渓宋陳
・ひょうげもの也 古田織部
・木守 徳川家康
・狂言の袴 石田光成
・鳥籠の水入れ ヴァリニャーノ
・うたかた 利休
・ことしかぎりの 宗恩
・こうらいの関白 利休
・野菊 秀吉
・西ヲ東ト 山上宗二
・三毒の焔 古渓宋陳
・北野大茶会 利休
・ふすべ茶の湯 秀吉
・黄金の茶室 利休
・白い手 あめや長次郎
・待つ 千宗易
・名物狩り 織田信長
・もう一人の女 たえ
・紹鴎の招き 武野紹鴎
・恋 千与四郎
・夢のあとさき 宗恩

 たとえば
 ・野菊 秀吉
 利休切腹の前年
 天正十八年(1590)九月二十三日 朝
 京 聚楽第 四畳半

 「・・利休が膝をにじって、床の前にすすんだ。
 ・・さてあやつめ、どうするか
 秀吉が障子窓のすきまに顔をつけた。
 利休の背中にも、肩にも、手のうごきにも、逡巡はない。
 ・・なにも迷わぬのか。
 なんのためらいもなく両手をのばした利休は、左手を天目台にそえて、右手で野菊をすうっとひきだし、床の畳に置いた。
 天目茶碗を手に点前座にもどると、水指の前に茶碗と茶人、茶碗をならべ、一礼ののち、よどみなく点前に取りかかった。
 茶を点てている利休は、見栄も衒いも欲得もなく、ただ一服の茶を点てることに、心底ひたりきっているようである。
 といって、どこかに気張ったようすが見られるわけではない。あくまで自然体でいるのが、よけい小憎らしい。
 床畳に残された野菊の花は、遠浦帰帆の図を背にして、洞庭湖の岸辺でゆれているように見える。
 秀吉は、途端に機嫌が悪くなった。
 むかむかと腹が立つ。
 それでも、最後のしまつはどうするのかと、そのまま見ていた。
 三人の客が茶を飲み終え、官兵衛が鴨肩衝の拝見を所望した。
 客が茶人を見ているあいだに、利休は水指から天目茶碗まで洞庫にかたづけた。
 拝見の終わった鴨肩衝を、仕覆に入れ、利休は膝をにじって床前に進んだ。
 置いてあった野菊の花を取り、床の勝手のほうの隅に寄せかけた。
 鴨肩衝を床に置くと、利休はまた点前座にもどった。
 床の隅に置かれた野菊の花は、すこし涸れて見える。
 ・・負けた。
 秀吉は、利休を笑ってやろうとした自分のたくらみが、野菊の花と同じように涸れてしまったのを感じた。
 なんのことはない。むしろ、笑われているのは自分であった。・・」

 たとえば
 ・西ヲ東ト 山上宗二
 利休切腹の前年
 天正十八年(1590)四月十一日 朝
 箱根 湯本 平雲寺

 ・・山上宗二に秀吉が問う。
 「おまえが茶の湯者というなら、身ひとつでここにまいっても、なにか道具を持って来たであろうな」
 「むろんにございます」
 宗二は懐から、仕覆を取り出してひろげた。なかは、端の反った井戸茶碗である。すこし赤みがかかった黄土色が、侘びていながら艶やかな印象をかもしている。
 秀吉が、その茶碗を手に取って眺めた。黙って見つめている。
 やがて、薄いくちびるを開いた。
 「つまらぬ茶碗じゃな」
 
 乱暴に置いたので、茶碗が畳を転がった。
 「なにをなさいます」
 宗二はあわてて手をのばし、茶碗をつかんだ。
 「さような下卑た茶碗、わしは好かぬ。そうだ。割ってから金で接がせよう。おもしろい茶碗になるぞ」
 「くだらん」
 宗二が吐きすてるようにいった。
 「こらッ」
 利休は大声で宗二を叱った。
 「こともあろうに、関白殿下に向かって、なんというご無礼。さがれ、とっととさがれ」
 立ち上がった利休が、宗二の襟首をつかんだ。そのまま茶道口に引きずった。
 「待て」
 冷やかにひびいたのは、秀吉の声だ。
 「下がることは相成らん。庭に引きずり出せ。おい、こいつを庭に連れ出して、耳と鼻を削げ」
 秀吉の大声が響きわたると、たちまち武者たちがあらわれて、宗二を庭に引きずり降ろした。
 「お許しください。お許しください。どうか、お許しください」
 平伏したのは、利休であった。
 「お師匠さま。いかに天下人といえど、わが茶の好みを愚弄されて、謝る必要はありますまい。この宗二、そこまで人に阿らぬ。やるならやれ。みごとに散って見せよう」
 立ち上がると、すぐに取り押さえられた。秀吉の命令そのままに、耳を削がれ、鼻を削がれた。血にまみれた宗二は、呻きもせず、秀吉をにらみつけていた。痛みなど感じなかった。怒りと口惜しさがないまぜになって滾っている。
 「お許しください。憐れな命ひとつ、お慈悲にてお許しください」
 利休が、地に頭をすりつけて秀吉に懇願した。
 宗二は意地でも謝るつもりはない。秀吉としばらくにらみ合った。
 「首を刎ねよ」
 秀吉がつぶやくと、宗二の頭上で白刃がひるがえった。・・ 

 たとえば
 ・白い手 あめや長次郎
  利休切腹の六年前
 天正十三年(1585)十一月某日
 京 堀川一条

 京の堀川は、細い流れである。
 一条通に、ちいさな橋がかかっている。
 王朝のころ、文章博士の葬列が、この橋をわたったとき、雷鳴とともに博士が生き返った・・。
 そんな伝説から、橋は戻り橋とよばれている。冥界からこの世にもどってくる橋である。
 その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。
 「関白殿下が、新しく御殿を築かれる。ここで瓦を焼くがよい」
 京奉行の前田玄以に命じられて、土地をもらったのである。
 聚楽第と名付けられた御殿は、広大なうえ、とてつもなく豪華絢爛で、まわりには家来たちの屋敷が建ちならぶらしい。
 すでに大勢の瓦師が集められているが、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔よけの飾り瓦である。
 長次郎が鏝とヘラをにぎるとただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となり、天に咆哮する。
 虎のからだに龍の腹をした鬼龍子が、背をそびやかして悪鬼邪神をにらみつける。
 「上様は玉の虎と、金の龍をご所望だ。お気に召せば、大枚のご褒美がいただけるぞ」
 僧形の前田玄以が請けあった。
 「かしこまった」
 すぐに準備にかかった。
 まずは、住む家を新しく建てさせ、弟子たちと移った。
 そこに大きな窯を築いて、よい土を集めた。
 池を掘り、足で土をこねる。
 乾かし、釉薬をかけて焼く。
 今日は、焼き上がった瓦の窯出しである。
 「こんなもんや。ええできやないか」
 弟子が窯から取りだしたばかりの赤い獅子のできばえに、長次郎は大いに満足した。
 獅子は、太い尻尾を高々とかかげ、鬣を逆立てて牙を剥き、大きな目で、前方をにらみつけている。
 長次郎が、あめやの屋号をつかって、夕焼けのごとき赤でも、玉のごとき碧でも、自在に色をつけられるからである。
明国からわたってきた父が、その調合法を知っていた。
 しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。なんども失敗をくり返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。
 なんども失敗を繰り返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。
 長次郎の子も、窯場ではたらいているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。
 ・・一子相伝にあぐらをかいたら、人間甘えたになる。家はそこでおしまいや。
 父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである・・。それが父の教えだった。
 まだぬくもりの残る窯のなかから、弟子たちがつぎつぎと飾り瓦を運び出してくる。
 いずれも高さ一尺ばかり。
 できばえは文句なしにみごとである。
 龍のつかむところに雲があり、虎のにらむところに魔物がいるようだ。
 得意な獅子も焼いた。
 造形もうまくいったが、赤い釉薬がことのほかいい。
 冬ながら、空は晴れて明るい陽射しが満ちている。
 その光を浴びて、獅子にかかった釉薬が銀色に反射した。
 「いい色だ」
 長次郎の背中で、太い声がひびいた。
 ふり返ると、大柄な老人がのぞき込んでいた。
 宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。真面目そうな顔の供をつれているところを見れば、怪しい者ではないらしい。
「なんや、あんた」
釜場には、まだ塀も柵もない。こんな見知らぬ人間が、かってに入ってくるようなら、すぐに塀で囲ったほうがいいと、長次郎はおもった。
 「ああご挨拶があとになってしまいました。わたしは千宗易という茶の湯の数寄者。長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」
 ていねいな物腰で、頭をさげている。
 長次郎は、宗易の名を聞いたことがある。関白秀吉につかえる茶頭で、このあいだ内裏に上がって、利休という勅号を賜ったと評判の男だ。
 「飾り瓦のことやったら、まずは、関白殿下がさきや。あんたも聚楽第に屋敷を建てるんやろうが、ほかにも大勢注文がある。順番を待ってもらわんとあかん」
 権勢を笠に着てごり押しするような男なら追い返そうと思ったが、老人は腰が低い。
 「いや、瓦のことではない。茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」
 長次郎はすぐに首をふった。
 「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」
 話は穏やかだが、宗易という老人は、粘りのつよい話し方をした。
 ・・人間そのものは粘っこいのや。
 長次郎はそう感じながらも、宗易のたたずまいに惹かれた。
 ・・この爺さん、なんや得体が知れん。
 ただそこに立っているだけなのに、釜場の空気がひき締まるような、不思議な重みがある。
 ・・よほどの数寄者にちがいない。
 長次郎の直観が、そうささやいている。
 「窯出しが終わったら、お話をうかがいましょ。それで、よろしいか」
 「けっこうです。おや、あの虎は、とくにできがいい。天にむかって吠えている」
 いま弟子が窯から出してきたばかりの虎は、ずらっとならんでいるなかでも、いちばんよいできである。
 長次郎は、宗易の目利きのするどさに驚いた。

2014/07/23 (水) 熱々珈琲を飲みながら

 あれだけ興奮したのは、今年一番である。
 勿論、昨晩の巨人ー阪神戦(甲子園球場)のことだ。実は試合開始の6時からテレビを見るつもりだったが、4時に来訪した78歳の高齢者女性との間で長時間的四方山話となってしまい、テレビのスイッチをオンにした7時に試合は既に5回まで進んでいた。その時点で1対0と巨人が先行。
 「1対0なら絶対逆転可能」と思っていたら、実際新井(良)の逆転二点タイムリーがでた。
 ここまでは、よくあるが、ドラマは9回2アウトに生まれた。クローザー呉昇桓が高橋由にソロホームランを浴び、土壇場で同点とされたのである。
 がっくりしたぼくら阪神ファンが一転狂喜したのは、延長12回裏2アウトで打席に立った福留のライトポール直撃のさよならホームランだった。

 今年は、もうプロ野球試合を見るのはやめようと思う。昨晩以上の興奮を与えてくれる試合は期待できないから。


それはともかく


 昨日、金魚を三匹購入(¥750エン)。計五匹がオープンカフェの水槽を泳ぎ回っている。リーダーの行く方向に群れをなしてついて行く。対象的なのはザリガニだ。一匹だから当然なのだけれども彼(性別は勘でわかる)はいつも孤独でほとんど動かない。

 昔のぼくは群れて遊ぶのが好きだったが、7年前に体が不調となった時点で孤独を好むようになった。よって今は金魚よりもザリガニへの共感が強い。

2014/07/22 (火) 戦国非情(長谷川氏)
  
戦国非情  結城氏・多賀谷氏 伝                                          

結城氏は藤原秀郷(ひでさと)を祖とし、秀郷の5代後、一族の一人が武蔵国大田(埼玉県太田市)に移住し大田太夫と称した。大田太夫から4代後、大田正光(まさみつ)下野(しもつけ)(くに)小山(栃木県小山市)に移住し小山(おやま)正光(まさみつ)を名乗った。関東有数の豪族・小山氏の祖である。 

小山正光は常陸国八田(茨城県下館市八田)の豪族・八田(むね)(つな)の娘・(さむ)(かわ)(あま)継室(後妻に迎え、三男・朝光(ともひかり)を得た。寒河尼は正光に嫁ぐ前、源頼朝の乳母であった。

1180年、頼朝は平家打倒の旗を掲げ挙兵するも敗れ、安房(あわ)(くに)(千葉県南部)に逃れた。此の地で再起を図るが、彼我(ひが)の兵力の差は歴然としている。このとき頼朝の宿舎を寒河尼が14歳になったばかりの我が子・朝光(ともみつ)伴って訪ね、朝光を頼朝の家臣に加えるよう申し出た。頼朝は願いを聞き届け、さらに朝光の烏帽子(えぼし)(おや)となった。これを以て小山氏は頼朝に与力の証とした。

  正光の長男は(とも)(まさ)。このとき光、朝政は御所の警護で京都にいた。夫の留守の場合、権限は正室に移る。寒河尼の行動は、夫・正光の意思である。つまり小山一族が頼朝方についたことを公にしたことに他ならない

寒河尼の尽力で頼朝は関東有数の豪族、小山氏と八田氏の兵力を得て巻き返しに成功した。鎌倉政権を樹立後、小山氏と八田氏(後の宇都宮氏)は有力御家人に取り立てられた。

頼朝は寒河尼の恩義に報い、朝光(ともみつ)結城郡の地頭に任じた。朝光は小山氏から独立し結城氏を名乗り、初代となった

※ 八田氏(後の宇都宮氏)・・・藤原北家の流れ。(藤原氏には北家、南家、京家、式家がある)これとは別に八田氏の祖は上毛(かみつけぬ)()(うじ)とする説もある。

上毛野氏・・・()(じん)天皇第一皇子・豊城入彦(とよきいりびと)(みこと)を祖とする豪族

ともあれ源頼家の奥州の阿部氏征伐(前9年の役。10511063)に功があった八田(そう)(えん)が宇都宮(ふた)荒山(あらやま)神社(下野一宮神社)の別当職に任じられ、宗円の孫・(とも)(つな)(八田宗綱の嫡男。寒河尼の兄)が宇都宮氏を名乗ったのが始まりとされている。

結城氏系譜

初代 朝光(ともみつ)

2代 朝広(ともひろ)

3代 広綱(ひろつな) 

4代 時広(ときひろ)

5代 貞広(さだひろ)

6代 朝裕(ともすけ)

7代 直朝(なおとも)

8代 直光(なおみつ)

9代 基光(もとみつ)

10代 満広(みつひろ)

11代 氏朝(うじとも)

12代 持朝(もちとも)

13代 成朝(しげとも) 

14代 氏広(うじひろ)

15代 政朝(まさとも)

16代 政勝(まさかつ)

17代 晴朝(はるとも)

18代 秀康(ひでやす)

19代 直基(なおもと。秀康4男。嫡男・忠直は松平氏を名乗る)

鎌倉末期、4(とき)(ひろ)(享年24歳)5(さだ)(ひろ)(享年21歳)が若くして病死。6(とも)(すけ)は南北朝の乱で、北朝方武将として戦死。享年28歳(1336年)。7(なお)(とも)同じく北朝方武将として戦死享年18歳(1343年)。

相次ぐ当主の夭折で結城家は衰退した。8直光(なおみつ)(なおみつ)は直朝の弟で、やはり北朝方として働き、功があった。3代続いた功績を足利尊氏に称えられて所領を増やされた

尊氏の4男・(もと)(うじ)が鎌倉公方として下向し、上杉(のり)(あき)憲顕の伯母が尊氏の母)が関東管領として復帰すると憲顕の強引な手法に関東領主は反発し、鎌倉府に反旗を翻した

  (なお)(よし)尊氏の弟)が尊氏と争ったとき、(観応(かんのう)擾乱(じょうらん)) 憲顕(当時関東管領。上野(こうずけの)(くに)越後守護職)は直義に与力し、尊氏に与力した宇都宮(うじ)(つな)板東平氏(畠山国清(くにきよ)河越(なお)(のぶ)、高坂重信(しげのぶ)江戸氏)と争った。争いは尊氏が勝利し、直義は降伏した。(後に毒殺される)

戦後処理で、尊氏は憲顕の関東管領職と守護職を剥奪し、信濃に追放した。

尊氏方として働いた関東武将に恩賞として、畠山国清に関東管領職、宇都宮氏綱に上野・越後守護職を与えた。河越直信、高坂重信らに、それぞれの領地の守護職を与え、自治権を認めた上で鎌倉府への協力を求めた。世に薩埵山(さつたやま)の盟約と言われている。

  薩埵山盟約  静岡県薩埵山での直義軍との戦い後、尊氏と尊氏陣営についた板東平氏を含む関東武将との間でかわされた盟約。

尊氏の死後、(もと)(うじ)腹心だった上杉(のり)(あき)を呼び戻し、畠山国清(くにきよ)から関東管領職を、宇都宮(うじ)(つな)から上越後守護職を返上すること求めた。

  憲顕は尊氏に追放される前、基氏の後見役であった。 

関東管領職返上を拒否した畠山国清を討伐して関東管領職を剥奪し、宇都宮氏綱を屈服させ、守護職を奪って、上杉憲顕に戻したのである。さらに河越直信、高坂重信に守護職返上を求めた。薩埵山盟約の反故(ほご)である。 

上杉憲顕に不満を抱いた武蔵(むさし)(ひら)一揆(いっき)河越氏、高坂氏、江戸氏ら武蔵平氏一族の同盟蜂起し、宇都宮氏綱が加わり、さらに南朝残党である新田義宗(よしむね)(義貞3男)、脇屋(わきや)(よし)(はる)義貞の甥)もこの機会を捉えて蜂起した。 

南朝残党が加わったことにより、幕府は関東諸侯に憲顕支援を要請し、甲斐武田氏、

相模(さがみ)(ひら)一揆(いっき)(相模平氏一族の同盟)、小山政義(まさよし)(小山氏11代当主)らが鎌倉府方として戦い、乱は鎌倉府によって鎮圧された。(武蔵平一揆の乱。1368年)

この戦で新田義宗は戦死、脇屋義治は出羽国へ逃亡。乱の首謀者であった河越直信は伊勢国へ逃亡し、武蔵平一揆は消滅していった。宇都宮氏綱は許されたが、二年後(1370年)死去。嫡男の(もと)(つな)が後継となった。

尚、鎌倉公方・足利基氏は武蔵平一揆の前年(1367年)に病没(享年28歳)。上杉憲顕はこの戦いのさなか、陣中で病死している(享年62歳)。

鎌倉公方は9歳の(うじ)(みつ)、関東管領職には憲顕の3男・(よし)(のり)が継いでいた

宇都宮氏と小山氏は関東の有力大名としてライバル関係にあった。武蔵平一揆の乱の後、宇都宮氏は衰退し、小山氏が関東最大の勢力となった。この事態を氏満は嫌った。どこの大名であれ、強大な大名の出現は鎌倉府の関東支配に不都合であったからである。

宇都宮基綱と小山政義が所領をめぐって争い(1380年)、双方多数の死傷者を出した。ことに宇都宮方は当主基綱が戦死した。これ以上小山氏の勢力拡大は鎌倉府、関東管領にとって脅威になる。さらに小山氏は将軍・義満に(よしみ)を通じてい密かに将軍職を狙う氏満には放置できない。基綱の戦死の報に鎌倉公方・足利氏満は小山政義討伐を決意した。

戦いは鎌倉府と小山義政に移った。1381年、鎌倉府が勝利し、義政は降伏して出家したが、翌年には再度決起して鎌倉府に抵抗した。同年、鎌倉府に責められ義政は自害(享年33歳)、嫡男の小山(わか)犬丸(いぬまる)は逃亡の末、追い詰められ自害(1396年)、若犬丸の二人の子も捕えられ処刑された。小山家嫡流は途絶えた。

この間、結城氏は9基光(もとみつ)10満広(みつひろ)は武蔵平一揆では参戦の記録は見当たらないが、小山政義の乱では鎌倉府に与力している。

宇都宮氏、板東平氏は衰退し、小山氏は消滅した。(後に結城満広は弟・(やす)(とも)宗家・小山氏を継がせて再興させてい関東の有力領主が鎌倉府に屈服し没落していくなか、結城氏は小山氏を傘下に組み入れ、鎌倉府重臣として、下総守護として絶頂期を迎えた。

鎌倉府が有力武将の力を削ぎ、支配力を強めた東国は室町幕府の影響力が及ばない独立国家の様相を帯びてきた。やがて鎌倉公方は将軍職への野望を抱くようなになった。当然幕府は鎌倉府を警戒するようになる。関東支配を果たした(うじ)(みつ)は幕府に不満を持つ大内氏と謀り、義満に退陣を迫る軍を上洛させようとしたが、関東管領・上杉(のり)(はる)(のり)(あき)4男)が諫死(かんし)をもって説得したことにより思いとどまった

鎌倉公方系譜  

前職 足利(よし)(あきら)後に室町2代将軍)   13361349

初代 足利(もと)(うじ)              13491367

2代 足利(うじ)(みつ)               13671398  

3代 足利満兼(みつかね)               13981409

4代 足利(もち)(うじ)               14091439  (えい)(きょう)(らん)で自刃

5代 足利(しげ)(うじ)                   14491455  幕府と対立し古河へ逃れる。

古河公方(こがくぼう)

初代 足利成氏              14551497

2代 足利(まさ)(うじ)                    14971512

3代 足利高基(たかもと)              15121535

4代 足利(はる)(うじ)              15351552

5代 足利(よし)(うじ)              15521583

古河公方は5代で終焉

足利5代将軍・義量(よしかず)18歳で死去すると、継ぐべく子はなく将軍職は空職となった。鎌倉公方4代持氏は強く将軍職を望んだが、6代将軍は義量の父、4代将軍・義持(よしもち)の弟・()(えん)後の義教(よしのり))が就いた。持氏は義教将軍就任に不満を示し、義教もまた持氏を嫌った   

持氏は将軍職への野心を捨て切れず、義教討伐の機会を窺っていたのだが、関東管領・山内上杉氏の(のり)(ざね)憲顕の曾孫持氏に幕府に従うよう諫言(かんげん)した。が、持氏は聞き入れず、逆に憲実を疎んじた。身の危険を感じた憲実は鎌倉を去り領国上野(こうずけの)(くに)に帰国した。持氏は憲実の無断帰国を謀反の決起のためと断じ、(のり)(ざね)討伐の軍勢を送った。

   上杉一族のなかで有力なのは鎌倉山内に館を置く山内上杉氏と鎌倉扇谷に館を置く扇谷上杉氏であった。そのなかでも山内上杉氏は上杉一門の筆頭格で、代々関東管領職を務めた。後に山内、扇谷は争い、上杉氏衰退の原因となった。

   山内上杉・・・尊氏の叔父・上杉憲房(のりふさ)嫡男(のり)(あき)が初代。

   扇谷上杉・・・憲房の弟・(しげ)(あき)が初代。

持氏の挙兵をとらえ、将軍・足利義教は持氏討伐を憲実に命じた。鎌倉公方・足利持氏対関東管領・上杉憲実、幕府との争いになった((えい)(きょう)(らん)

永享の乱で結城(うじ)(とも)(結城氏11代当主)、嫡男の(もち)(とも)12代当主)は鎌倉公方方についた。だが争いは幕府の支援を得た上杉憲実方の勝利に終わり、持氏と嫡男(よし)(ひさ)鎌倉永安寺で自刃(じじん)した1439)。永享の乱によって鎌倉府は断絶した。(1439年~1499年の間)

義教は空位となった鎌倉公方に我が子を就けようとしたのだが、足利持氏の旧臣、結城氏朝と持朝、次男朝兼(ともかね)結城一族と多賀谷一族持氏の遺児、春王丸、安王丸を擁立して、結城城にたてこもり幕府に反乱を起こした。結城氏の反乱も上杉勢と幕府軍によって鎮圧され、首謀者の氏朝、持朝、朝兼は討死、春王丸、安王丸は斬殺された。(1441年結城合戦)

このとき、足利持氏4男・(まん)寿(じゅ)(まる)後の(しげ)(うじ) 34歳)も囚われており、兄同様の運命にあったが、処分が下される前に将軍義教(よしのり)が赤松満裕(みつすけ)に殺害されたため、赦免された。結城氏朝4男・七郎(重朝(しげとも)後の(しげ)(とも)23歳)は落城の際、多賀谷氏家(うじいえ)33歳)高経(たかつね)兄弟に抱きかかえられ常陸国太田(茨城県太田市)の佐竹氏に逃れた。氏家が七郎を養育したとされている。多賀谷伝より)

※上杉勢の大将は 上杉(うえすぎ)清方(きよかた)憲実)で、憲実は持氏自刃の悔悟から出家している。

多賀谷氏の祖は道智頼(どうちより)(おき)で、頼意の子・頼基(よりもと)とその三子・光基(みつもと)(初代)が多賀谷郷に移住して多賀谷姓を名乗ったことから始まったとされている。吾妻鏡では頼朝上洛の先導隊に弓の名手として多賀谷小三郎が記されている。鎌倉の御家人であったが、鎌倉幕府滅亡後、多賀谷(現埼玉県田谷)は小山氏の領地であったことから、小山氏の有力家臣として存続したと思われる。小山義政が鎌倉公方・足利(うじ)(みつ)反旗を翻し滅亡した後、その所領を分家、結城氏が引き継いだことにより、結城氏の家臣となった。

結城家でも歴代、重きをなし、結城四天王(多賀谷氏、水谷(みずのや)氏、山川氏、岩上氏)の筆頭格とされていた。多賀谷8(まさ)(とも)のとき、結城氏10代当主満広(みつひろ)の実子満義(みつよし)(後の光義)を養子に迎え、我が娘を嫁がせ、9代当主とした。

  満広は小山氏を継いだ弟小山(やす)(とも)の子を養子に迎え、11代当主としている。結城合戦で戦死した結城(うじ)(とも)、その人である。

結城合戦のとき、多賀谷氏当主は光義であった。光義は実家の結城氏についたのである。光義は戦死したものの、その子・氏家(10代当主)高経(氏家の弟)は結城七郎(元服しての(しげ)(とも)。後の(しげ)(とも)を伴って佐竹氏に逃れた。

  結城氏朝は小山(やす)(とも)の実子。結城満広(みつひろ)は養父。多賀谷光義は結城満広の実子。多賀谷(まさ)(とも)は養父

結城落城より10年後、鎌倉府が再興され、足利(しげ)(うじ)が鎌倉公方5代となった。鎌倉府滅亡後、関東は混乱が続き、その抑えとして鎌倉府の必要性を越後信濃守護・上杉(ふさ)(さだ)清方の次男)によって幕府に進言されたのである。鎌倉公方は関東諸侯の推薦により成氏が就いた。成氏の復活にともない、結城七郎こと(しげ)(とも)(重から改名)も復活、結城氏13代当主となった。結城家再興に伴い、多賀谷氏家、高経は結城氏家老となった。

成氏は父・(もち)(うじ)を死に追いやった上杉(のり)(ざね)を憎み、その息子である(のり)(ただ)とは犬猿の仲であった。鎌倉公方(成氏)と関東管領(上杉憲忠・・憲実嫡男)との対立が再発した

成氏から結城(しげ)(とも)に憲忠暗殺の命令が下り、多賀谷氏家、高経が憲忠22歳)謀殺を実行した。(1455(きょう)(とく)(らん)

憲忠の首は三方(さんぽう)に乗せられ成氏に検分された。多賀谷家の家紋はこれを表わす。

憲忠殺害の手柄により多賀谷兄弟は成氏より下妻33郷を与えられ結城家の家臣ながら大名格として扱われた。下妻の領主には氏家がなったのだが、後に高経が引き継いだ。高経は(しげ)(とも)の一字を与えられ、(とも)(つね)に改名した

上杉憲忠の後任(山之内上杉当主。関東管領職)は弟の(ふさ)(あき)が継いだ。

(しげ)(うじ)の憲忠謀殺により幕府と鎌倉府は再び対立。幕府(8代将軍・義政)は鎌倉公方・足利成氏討伐に動いた。鎌倉府から東国武将を離反させる調略がすすめられた。工作は結城成朝にも及び、憲忠殺害の朝経に責任を負わせる手打ちが進められたのである。この動きを察知した朝経は反発し、結城(しげ)(とも)24歳)を殺害した。(1463年)

※氏家は朝経の嫡男・家植(いえたね)多賀谷氏11代。後に(もと)(やす)を名乗る)を養子にして隠居しており、多賀谷氏の実権は家植の父、朝経にあった。

結城成朝の後継は成朝の兄、長朝(ながとも)の子・(うじ)(ひろし)14代)となった。

※長朝は(うじ)(とも)3男、成朝は4男。二人は13代当主の座を争ったが、成朝が就いていた。

一方、幕府(8代将軍・義政)は(しげ)(うじ)討伐を上杉(ふさ)(あき)、今川(のり)(ただ)駿河守護職)、上杉(ふさ)(さだ)越後守護職)に命じ、成氏を鎌倉から追放した成氏は下総古河(茨城県古河市)に逃れ、ここを本拠地とした。以後、古河(こが)公方(くぼう)と呼ばれた。

結城氏14代当主・結城氏広は足利(しげ)(うじ)方の武将として関東管領・上杉房顕らと戦った。だが、幕府に支援された上杉勢の前に、古河公方は苦戦を強いられ、結城氏内部でも結束が乱れ始めた。多賀谷氏、山川氏、水谷氏(みずのやし)らの重臣は独立への道を歩むようになった

※ 山川氏の祖・山川重光(しげみつ)は結城家の狙・結城朝光(ともみつ)の庶子。その後も、結城氏と山川氏は互いに養子縁組を組んでいる

※ 水谷氏・・・関ヶ原の戦いで功を認められ大名となる。後に備中松山藩の藩主となる。

結城氏の衰退に歯止めがかからないまま。氏広は死去した(享年31歳。1481年)

15代当主に3歳の(まさ)(とも)が就いた。補佐役として登場したのが多賀谷和泉(いずみ)(かみ)である。和泉守は朝経の孫か、氏家の孫かは不明

その和泉守であるが、結城家伝によれば藩政の実権を握り横暴を極めたと(しる)されている。

結城家家臣のなかに和泉守派を形成し、家臣は藩主政朝よりも和泉守の下知(げち)に従うようになった多賀谷一族棟梁(とうりょう)と自任する(もと)(やす)家植(いえたね)にとっても台頭してきた和泉守は目障りな存在である。政朝と基泰は共謀して兵を送り和泉守を殺害した。主だった和泉守家臣、結城家中の和泉守派も殺害、追放した1499年)。政朝は当主としての権限を取り戻し、以後、積極的な外交・軍事行動で旧領奪還を図った。

政朝と共謀して和泉守一派を排除した基泰も名実ともに多賀谷一族の棟領となった。基泰もまた領土拡張を進め、政朝と領土争いで衝突している。結城家伝では多賀谷氏は結城四天王の筆頭でありながら、主家に弓を引いた一族として記されている。

  結城4天王  多賀谷氏、山川氏、水谷氏、岩村氏

  多賀谷氏、山川氏、岩村氏は秀康重臣として越前入国。水谷氏は松山藩領主となる。

  岩村氏の祖は三浦氏とされている。三浦氏・・北条氏と並ぶ名家。北条氏と争って滅亡。

   

結城(まさ)(とも)は宇都宮(しげ)(つな)(宇都宮17代当主)の娘を正室に迎えた。当時の宇都宮氏は武蔵(むさし)(ひら)一揆(いっき)の乱から復活し関東有数の軍事力を有していた。宇都宮氏と同盟関係を築いた結城氏も勢力を伸張させた。成綱が没し、(ただ)(つな)18代当主)が跡を継ぐと関係が悪化し、政朝と忠綱が争い、結城氏が勝利して、宇都宮氏の所領となっていた旧領を取り戻し結城氏再興を果たした。

政朝は嫡男・(まさ)(なお)を後継に指名したが、政直が夭折したため次男・(まさ)(かつ)16代とした。3男・高朝(たかとも)は小山(まさ)(なが)小山氏16代当主)の養子になり、小山氏(宗家)の跡を継いだ。(小山氏17代当主・小山高朝)

政勝には11女がいたのだが、いずれも夭折し、弟・高朝の3男・小山(はる)(とも)を養子に迎え17代とした。結城(はる)(とも)である。

結城氏は代々鎌倉公方(後に古河公方)に仕え関東管領・上杉氏と争い、晴朝も古河公方を傀儡(かいらい)としてきた北条氏(鎌倉幕府の執権北条氏と区別するため、後北条と称される)陣営に属してきたのだが、上杉(かげ)(とら)(けん)(しん))が関東管領に就くと、反北条氏に転じた。

晴朝には跡を継ぐべき男子はなく、宇都宮21代当主(ひろ)(つな)の次男・朝勝(ともかつ)を養子に迎え当主とした。宇都宮広綱の正室(朝勝の母)は佐竹氏17代当主・(よし)(あき)の娘である。この縁組によって、結城氏、宇都宮氏、佐竹氏の同盟が成立し、小田原の北条(うじ)(まさ)に対抗した。

(はる)(とも)は豊臣秀吉の小田原征伐(1590年)に出陣し、所領を安堵された。晴朝はさらに結城家存続を確実なものにすべく、秀吉の養子・(ひで)(やす)(徳川家康次男)を養子に受け入れた1590年)。その前年に秀吉に実子・鶴丸が誕生しており、秀康の養子先を捜していた秀吉の意向だった。関東最大の大名徳川家康の次男でもある秀康を結城家当主に迎えたことで、豊臣、徳川の二大勢力が結城家の後ろ盾となり、晴朝にとって願ってもないことであった。

  結城(とも)(かつ)当主の座を秀康に譲り、実家宇都宮家に戻った宇都宮家改易後(後述)は、佐竹氏に身を寄せ、関ヶ原合戦での上杉氏、佐竹氏の連携(西軍)に努めた。大坂の陣(冬、夏)では佐竹氏を離れ、牢人(ろうにん)となって大阪城に入り、徳川方と戦っている。大阪城落城の後も生き延びて、晩年は神官として生涯を終えた(1628年。享年60歳)。朝勝の子・(みつ)(つな)(養子)は後に久保田佐竹藩(後述)に仕え、宇都宮氏の家名を佐竹藩に残している

  尚、結城氏系譜に朝勝の名はない。17代当主・晴朝の後は18代当主・秀康と記されている。

   

関ヶ原合戦(1600年)で、秀康は西軍の上杉景勝(かげかつ)(会津120万石。関ヶ原合戦後は米沢30万石)、佐竹義宣(よしのぶ)(常陸54万石。関ヶ原合戦後は出羽久保田20万石)を封じ込む役目を果たし、その功により下総結城10万千石から67万石に加増されて越前北の庄の領主となった。

秀康は結城姓を名乗っていたが、嫡男・(ただ)(なお)は松平姓を名乗ったため、晴朝は秀康の5男・直基(なおもと)養子として結城姓19代当主)を継がせた。

直基は後に勝山藩3万石(1624年)、大野藩5万石(1635年)に加増移封されている。

直基も後に松平姓を名乗り、実質的には秀康によって結城家は絶えた。結城家の祭祀は直基の流れを継ぐ、松平前橋藩によって継承されている。

多賀谷氏の系譜。

初代 光基(みつもと)

2代~7代は略

8代  政朝(まさとも)

9代  光義(みつよし)

10代 氏家(うじいえ)

11代 家植(いえたね、基泰)

12代 家重(いえしげ)

13代 重政(しげまさ)   

14代 政経(まさつね) 

15代 重経(しげつね) 

16代 宣家(のぶいえ。下妻多賀谷氏。佐竹宣家) 

三経(みつつね。下総太田多賀谷氏)  

  下妻多賀谷氏の宣家が本流であるが、下妻多賀谷氏は改易となり、消滅。以後、傍流の下総太田多賀谷氏の三経が多賀谷氏を継いだ。

17代 泰経(やすつね)

18代 経政(つねまさ)

11代の家植(いえたね)(もと)(やす)のとき、一門のライバル多賀谷和泉守を殺害し、一門の棟領としての立場を確立した家植は前述のように本領下妻から周辺に進出し、やはり旧領回復にむけて進出する結城氏との紛争があった。また古河公方の内紛(父・(まさ)(うじ)嫡男・高基(たかもと)の争い)では結城政朝は高基方として、(政朝、高基双方の正室が宇都宮(しげ)(つな)の娘)、多賀谷家植は政氏方として争っている。

※ 古河公方の内紛は高基の勝利。

関東は古河公方(前身は鎌倉公方)と関東管領・山内上杉氏との対立が長らく続き、関東豪族も両者の争いに翻弄されながらも、公方と関東管領双方が長期にわたる戦いで消耗し弱体化すると、彼の地を奪い。勢力拡大を図るしたたかさを持っていたのである。

ともあれ多賀谷氏は以前、臣従していた結城氏を始め、周辺領主と争いながら、下妻城、城下町を整備して、周辺地域に進出していった。

だが、小田原北条氏((うじ)(つな)(うじ)(やす)の勢力拡大が進むと、関東諸侯(上杉氏、宇都宮氏、結城氏、佐竹氏、多賀谷氏)は反北条氏を鮮明にしてち向かった。敵対関係にあった結城氏と多賀谷氏が和解したのも、この頃であった

多賀谷氏が最盛期を迎えたのは15(しげ)(つね)のときで、下妻20万石と多賀谷家伝に記されている。秀康が当主となったとき、結城家は101000石であるから、遥かに凌駕(りょうが)している。

小田原征伐(1590年)には結城(はる)(とも)、宇都宮(くに)(つな)、佐竹義宣(よしのぶ)は小田原城(北条氏居城)へ攻撃をしかけ、その功により所領と地位を安堵された

多賀谷重経は病気を理由に参陣は遅れたものの、秀吉に詫びて、このときは許され所領を安堵された。だが、(ぶん)(ろく)(えき)(秀吉の朝鮮出兵。1592年)で病気を理由に参加しなかったため、減封された。(10万石前後か)

重経の嫡男が(とら)千代(ちよ)。元服して左近大夫(みつ)(つね)。左近の烏帽子親は石田三成。その一字を光とかえて三経とした。本来なら三経は(しげ)(つね)の跡を継ぐべき位置にあったのだが、分家し下総太田(茨城県結城郡八千代町)に居城(陣屋)を築き、移住した

三経が家督を継げなかった理由は、多賀谷氏と佐竹氏の同盟関係にある。多賀谷氏が結城氏を始めとする周辺勢力、進出を強める北条氏に対抗するために常陸国の強国佐竹氏を頼らざるを得なかった。多賀谷氏は佐竹氏の庇護下で戦国時代の存続を図ったのである。

重経の娘(大寿院(だいじゅいん)が佐竹氏18代当主(よし)(しげ)の嫡男・義宣(よしのぶ)19代当主)に嫁し(1580年)、その10年後に義重の4男・宣家(のぶいえ)義宣の弟)を養嗣子(ようしし)として迎え、娘((けい)(だい)(いん))と(めと)わせ、多賀谷氏16代当主とした。嫡男がいるにもかかわらず、佐竹氏より養嗣子を迎えたことは多賀谷氏が佐竹氏に隷属するに他ならないと、左近の周辺は捉えた。家中で重経派(宣家派)と左近派が対立した。

重経にはさらなる課題が課せられていた。秀康が結城家を相続した際、秀吉は多賀谷重経に結城氏に臣従するよう命じていた。結城氏はかって多賀谷氏の主家(しゅか)である。とはいえ多賀谷氏は独立した大名である。しかも隣接する結城氏とは所領争いもある。石高も多賀谷氏が多い。天下人の命令とはいえ結城氏の家臣に組み入れられことに反対する者は多い。

重経は多賀谷家を分裂させることにより、難題を解決しようとした。下妻を本拠とする、本家(重経、宣家派)と下総太田を本拠とする分家(左近派)に分裂させたのである。

分裂させることにより、重経派(宣家派)と左近派の確執の種を摘み取ろうとした。さらに左近を結城氏に仕えさせることにより、秀吉の命令を受け入れ、尚且つ、家中の反結城(重経派・宣家派)の声を抑え込んだ。

下妻多賀谷氏(本家。宣家)は佐竹派、下総太田多賀谷氏(分家。左近)は結城派に分かれたのである。

重経が小田原参陣に遅れた理由はこの家中の混乱の収拾するためであった。

文禄の役に出陣しなかったのも、留守中、家中で結城派と佐竹派の騒乱が勃発することを恐れたからであろう。それほど家中の対立は深刻だった。

関ヶ原合戦で下総太田・多賀谷氏(三経)と下妻・多賀谷氏(宣家)は東西に別れた。結城秀康は家康の命令により宇都宮に布陣し、石田方の上杉景勝、佐竹義宣(よしのぶ)と対峙し、上杉・佐竹勢の関ヶ原参陣を防いだ。三経は秀康の先陣として下野(しもつけの)(くに)大田原城(栃木県大田原市)に在陣した。

  結城秀康が多賀谷左近三経を先陣とした理由は、左近の寝返り(宗家下妻多賀谷氏への同調)を恐れたからであろう。事実、秀康の養父・結城(はる)(とも)が結城家伝を編纂しているのだが、多賀谷氏への記述には不信感が散見される。

この記述は結城家における多賀谷左近の立場の微妙さを浮き彫りにしている。或いは越前多賀谷氏の断絶に影響しているのかもしれない。

下妻・多賀谷氏の宣家は兄である佐竹義宣(よしのぶ)に属し、石田方に付いた。上杉・佐竹勢と結城秀康は対峙したまま、関ヶ原合戦(1600915日)は一日で決着した。

  宇都宮(くに)(つな)(宇都宮22代当主)が太閤検地で虚偽の申告(過少申告)をしたとの理由により秀吉の不興を買い、改易処分となった。宇都宮国綱と繋がりが深い佐竹義宣(よしのぶ)(国綱の母は義宣の祖父義昭の妹。正室は義宣の父義重の娘にも嫌疑がかかり、連座処分下されようとしたが、三成のとりなしにより処分を免れたその恩義に報いるために家康の命令に背いたとされている。

  国綱は宇都宮家再興のため、宇喜多秀家の軍に加わり、朝鮮に出兵し手柄を立てたものの、お家再興は果たせず失意のうち江戸浅草で没した(1670年。享年40歳)。嫡男・(よし)(つな)成人後、500石で水戸藩に仕え、その嫡男・(たか)(つな)は千石の大身となり、次の(ひろ)(つな)は水戸藩家老を務めた。以後子孫は明治維新まで水戸藩家臣として家名を残している

関ヶ原合戦の戦後処理が行われた。結城秀康は結城101000石から越前福井68万石に移封された。これに伴い三経は下総太田を引き払い、秀康から越前坂北郡の村々の総高32000石を与えられ、柿原郷の領主となった。

下妻多賀谷氏は改易。宣家(のぶいえ)は佐竹家に戻り出羽国檜山(ひやま)秋田県能代市檜山)1万石を兄・義宣(よしのぶ)から与えられた。その佐竹氏は(当主・義宣常陸54万石から出羽久保田(秋田市)20万石に減封された。

三経の実父・(しげ)(つね)は下妻を追放された後、困窮しながら各地を放浪した。

重経が以前は下妻多賀谷家に仕え、主家の改易後は佐竹家に仕官した旧臣に出した手紙が残っている。文中の六郷とは、旧知の佐竹氏前当主・佐竹(よし)(しげ)18代)の隠居の地。

  六郷・・・現秋田県仙北町美郷町

「御国替以来、方々乞食仕り候へ共、がしにおよび候間、旧冬ふと六郷へ参り候

 老期と云い、不弁の式と云い、何共書き尽くし難く存じ候」

(国を召し上げられて以来、方々を乞食となってさまよい、餓死しそうになり、昨年の冬、ふと旧知(佐竹義重)を頼って六郷を訪ねました。老齢といい、極貧といい、なんともその悲惨さは筆舌に尽くし難いのです)と窮状を訴えている。

この旧臣は重経を哀れみ、酒と肴を送り届けた。20万石の大名が物乞い同然に零落(れいらく)して秋田を訪ねたという噂はに広まり、重経は此の地も追われるように去った。最後は実子の茂光(しげみつ)(彦根藩士)を頼って近江に行き、彼の地で没した(1618年)と多賀谷家譜に記されている。

                                    終。

参考資料 下妻市史(茨城県下妻市) 関城町史(茨城県真壁郡関城町) 

 結城家伝 多賀谷家伝 ウイキペディア(フリー百科事典) 他 資料

平成26714日               資料編纂  長谷川 勲 

 


2014/07/21 (月) 無題

 自己嫌悪で落ち込んでいます。こういう時に生きる指針となってくれるのが妻だということが、よくわかりました。

 私は今日から焼酎をやめます。基本はビールそして時々は清酒です。
 

2014/07/20 (日) 祭り前夜

 昨晩は、Hさん夫妻とともに各区の「本陣飾り」を見てまわった。
 気になったのが、上から二段目・左側の作品。
   
   
   
   
   
   
   

 東北大震災で有名になった「一本松」の応援歌である。
 説明版に「昭和23年6月に発生した福井大震災で生き残った二本松があります」と書いてある。テントのなかの人に聞いたのだが、「詳細は元議員のAさんに聞いてください」とのこと。
 何番目かの本陣でそのAさんと出くわしたので説明してもらった。
 
 溝江氏は室町時代溝江庄出身で越前国主朝倉氏に仕え1万700石を領した。館の規模は100m四方、周囲は堀をもってかためた。天正2年(1574)金沢御坊坊官・杉浦壱岐が一揆勢を指揮し越前に攻め込み、北金津総持寺に本陣を置き、2万余りの勢 をもって攻めたて館を包囲した。2月19日、遂に溝江長逸は子長澄を脱出させて城に火をかけ溝江一族30余人、加賀国より亡命していた元加賀国守護冨樫政親の孫泰俊親子5人共に自刃した。
その溝江親子が自刃して飛び込んだ池が古区にあり、そこに大きな松の木が三本
たっていた。一本が枯死して二本松となった。わしらがこどもの頃は、大人たちから「あそこに近寄ってはあかん。憤死した溝江の殿様にたたられるぞ」と言われたもんや・・という説明だった。

 聞いているぼくは「犬神家の一族」を思い出していた。

2014/07/19 (土) もう週末か

 津本陽著「清水次郎長」読了。
 
 知り合いの清水市在住女性の口ぐせは、「男伊達で街道一の大親分・清水の次郎長の気風は私らの血になっているんだよ。北陸の湿った空気とは全然違う」だった。とはいうものの次郎長の生涯については、広沢虎造の浪曲「遠州森の石松」、「吉良の仁吉」や、維新前後の山岡鉄舟との交友を幕末もので読んだくらいでの知識しかなかった。

 今回上下巻473ページで次郎長一家の侠客ぶりをじっくりと味わわせてもらった。悪徳博打打一家との喧嘩(でいり)のたびに相手の脾腹をつき、生首を飛ばし、両手両足を切断し要するに血の雨を降らせる。

 ・・山岡鉄舟は次郎長を生涯愛していた。
 彼は静岡藩が廃藩置県で解散したのち、上京して宮内省侍従番長となった。
 明治天皇は直情径行の鉄舟を重用された。鉄舟はのちに功によって子爵を授けられた。
 叙爵(じょしゃく)の内命を山岡邸に伝えたのは、井上馨であった。
 山岡は要件を伝えた。
 「このたび陛下におかせられては、貴公の長年月にわたる御奉公を多とせられ、子爵に叙せられ華族に列せられるという、ありがたき思召しを下された。謹んで拝受するように」
 鉄舟は井上の口上を聞くと、一笑して聞いた。
 「数ならぬ身に、さような栄典を下されるとは、恐懼(きょうく)に堪えぬところだ。お返事を申しあげるまえに、ひとつおたずねしたい。貴公も華族に列せられるのだろうな」
 井上は渋い顔つきで、うなずいた。
 「さようだが」
 「そうか、さすがは政府の大立者だ。立派なものだな。爵位は何だ」
 「侯爵だよ」
 「ほほう、そいつは豪儀なものだな。公、候、伯、子、男の最上位から二番目ではないか。たいした栄誉だ。ところで貴公は何の功績によって侯爵を頂戴いたすのだ」
 山岡の薩長閥に対する、痛烈な皮肉であった。
 維新の際、江戸焼打ちを西郷との決死の会談によってくいとめた、山岡の功業にくらべれば、井上のはたらきなどは微々たるものといわねばならない。
 井上は苦り切って答える。
 「何の功績といわれると、自らはいいづらいが、まあ拙者は若年の頃より国事に奔走し、全身傷だらけになっていたため、陛下が特別の思召しを下されたのだろう」
 鉄舟はうなずき、膝をうった。
 「なるほど、よく分った。拙者などは傷ひとつない体で子爵を拝受するのは、考えてみれば心苦しいものだ。そこでひとつ、頼みがある。拙者の知人に貴公に負けぬほど全身傷だらけの男がいるんだ。傷で華族が頂戴できろのなら、その男にも子爵をやってもらいたいだが」 
 「ほう、それは誰だ」
 「清水湊の男伊達、山本長五郎だよ」
 さすがの井上馨も、鉄舟に嘲弄(ちょうろう)されるのみで、言葉もなく帰っていった。・・

2014/07/18 (金) 無題
 
 昨晩は、「原発を考えるあわら市民の会」世話人会ということで、四人が事務所に集まり、今後の対策を話し合った。
 スタート前に、22年前に行われた金津小学校設立120周年記念、簡保30周年記念オープンセレモニーでのぼくの司会ぶりの映ったDVDをみんなに公開したのだが、「牧ちゃん、なんて若々しいんや」という予想通りの賛辞が飛び交った。
 

2014/07/17 (木) 祭り間近
 
 昨日は、興奮することがあった。金津小学校簡保30周年記念式典の模様を、たまたまDVDで見ることができたのである。当時(22年前)VHSで収録されていたものをデジタル版に編集したもので、画面も鮮明だ。
 驚いたのは、礼服姿でマイクを持って司会する私がとても若々しく声にも透明感があったということで、今の自分と見比べると信じられない。既に故人となってしまったが、記念講演講師のやなせたかしも然りだった。

 ということで
 郵送されてきた「やくしん」を午前中に読んでいたら、やなせたかしの詩が載っている。

少年時代
ぼくは野育ち
山育ち
全身生キズ かすりキズ
野イチゴ 桑の実
ぐみ・いちじく
天然自然の
無料スイーツ
勉強なんかは
全くせず
遊びをせんとや
生まれけむ
おかげでできた
基礎体力
ほんのわずかな
才能だけで
コケの一心
耐えられた
故郷の山河が
ぼくを育てた


 
 それはともかく
 今朝はやくの来訪女性は、「仕事に行く途中よ」と言いながら山純吟・山廃仕込を置いていった。


 どこかへ旅行にでも行ったみたいだ。高級酒なので、祭り当日の来訪者用にとっておくつもりです。

2014/07/16 (水)  無題
 
 体全体に痛みが拡がっていて、特に左肩の痛みが激しく、その為に夜中に目が覚めるほどだ。
 仕事にも差し支えるので、直したほうがいいだろう。
 今朝の6時半、ぼくは某農業経営者の畑地で経営者と四方山話を楽しんでいた。帰り際、「牧田、エダマメを食うか?」と、彼は問う。「すごい好きや」とのぼくの答えをうけて愛車ケトラ号の荷台に、葉茎ごとどっさりと乗せてくださった。


 もうすぐ夏だ。夏は瓶ビールだ。
 傍らの美女と一緒に冷えたビールを飲む時の最高のツマミはエダマメだと思う。
 サッカーのワールドカップが終わったと思ったら、きょうはアメリカ大リーグオールスター戦だ。テレビ画面を見ながらぼくは20数年前を思い出していた。

 その年の春、ぼくは愛する妻と一緒にカナダ・トロント市郊外のオークタウンに居た。トロント市の製紙会社副社長・ヘイズ氏から10日間ほどのホームステイの誘いを受けたためである。
 その何日目だったか、ぼくはヘイズ夫人と一緒に、トロント・ブルージェイス球場に行った。ブルージェイスのスプリングキャンプがおこなわれていたのだ。身長はいずれも190~200cm代。体重は推察するに90~120kgだ。

 ぼくは「大日本帝国軍隊はカナダにしろアメリカにしろこんな巨体若者相手に無謀な大東亜戦争を開始したのか。前途ある日本の若者200万を死に追いやったのか」と、暗い気持ちになってしまった。
 

2014/07/15 (火) 無題
 
 ぼくは毎朝4時にオープンカフェに出て「水辺の生物」を眺めている。

 一昨日だったか、水槽の古参生物・ザリガニが新参生物・小鮒を捕まえる瞬間を目にした。左のはさみで鮒の頭を右のはさみで鮒の尻尾を捕まえたあとはじっとしている。思うに、腹が減ったら少しずつたべていくつもりなんだろう。
 それはともかく
 滋賀県知事選で無所属新人の三日月氏が当選したことで、隣福井県の反原発派県民も一応はほっとしている。三日月氏は元民主党議員なので、来福した折に話を聞いたこともあるし、永田町の議員会館で話を聞いたこともある。挨拶の冒頭で「僕は電車の運転手さんでした」と言って、飾らない人柄を披露していたのを思い出す。

 多賀谷氏のルーツ(戦国非情 結城氏 多賀谷氏伝より抜粋)

・・多賀谷氏の祖は道智頼意(どうちよりおき)で、頼意の子・頼基(よりもと)とその三子・光基(みつもと。初代)が多賀谷郷に移住して多賀谷姓を名乗ったことから始まる。吾妻鏡では頼朝上洛の先導隊に弓の名手として多賀谷小三郎が記されている。鎌倉の御家人であったが、幕府滅亡後の室町時代、多賀谷(現埼玉県田ヶ谷)は小山氏の所領であったことから、小山氏の有力家臣として存続したと思われる。小山義政が鎌倉府に反旗を翻し滅亡した後、その所領を分家、結城氏が引き継いだことにより、結城氏の家臣となった。

結城家でも歴代、重きをなし、結城四天王(多賀谷氏、水谷氏、山川氏、岩上氏)の一人に数えられていた。多賀谷氏8代政朝のとき、結城氏10代当主満広の実子・満義(みつよし、後の光義)を養子に迎え、我が娘を嫁がせ、9代当主とした。
※ 満広は小山氏を継いだ弟小山泰朝(やすとも)の子を養子に迎え、11代当主としている。結城合戦で戦死した結城氏朝、その人である。

結城合戦のとき、多賀谷氏当主は光義であった。光義は実家の結城氏についたのである。光義は戦死したものの、その子・氏家(うじいえ10代当主)高経(たかつね)は結城七郎を伴って佐竹氏に逃れた。
※ 結城氏朝は小山泰朝の実子。結城満広は養父。多賀谷光義は結城満広の実子。多賀谷政朝は養父。

結城落城より10年後、鎌倉府が再興され、足利成氏が鎌倉公方5代となった。鎌倉府滅亡後、関東は混乱が続き、その抑えとして鎌倉府の必要性を越後信濃守護・上杉房定(ふささだ・・清方の次男)によって幕府に進言されたのである。鎌倉公方は関東諸侯の推薦により成氏が就いた。成氏の復活にともない、結城七郎こと成朝(重朝から改名)も復活、結城氏13代当主となった。結城家再興に伴い、多賀谷氏家、高経は結城氏家老となった。

成氏は父・持氏を死に追いやった上杉憲実を憎み、その息子である憲忠(のりただ)とは犬猿の仲であった。鎌倉公方(成氏)と関東管領(上杉憲忠・・憲実嫡男)との対立が再発した。
成氏から結城成朝に憲忠暗殺の命が下り、多賀谷氏家、高経が憲忠(22歳)謀殺を実行した。(1455。亨徳の乱・・きょうとくのらん)
憲忠の首は三方に乗せられ成氏に検分された。多賀谷家の家紋はこれを表わす。
憲忠殺害の手柄により多賀谷兄弟は成氏より下妻33郷を与えられ結城家の家臣ながら大名格として扱われた。下妻の領主には氏家がなったのだが、後に高経が引き継いだ。高経は成朝の一字を与えられ、朝経(ともつね)に改名した。

上杉憲忠の後任(山之内上杉当主。関東管領職)は弟の房顕(ふさあき)が継いだ。
成氏の憲忠謀殺により幕府と鎌倉府は再び対立。幕府(8代将軍・義政)は鎌倉公方・足利成氏討伐に動いた。鎌倉府から東国武将を離反させる調略がすすめられた。工作は結城成朝にも及び、憲忠殺害の朝経に責任を負わせる手打ちが進められた。この動きを察知した朝経は反発し、結城成朝(24歳)を殺害した。(1463年)
※氏家は朝経の嫡男・家植(多賀谷氏11代。いえたね。後に基泰・・もとやす・・を名乗る)を養子にして隠居しており、実権は家植の父、朝経にあった。

結城成朝の後継は成朝の兄、長朝(ながとも)の子・氏広(うじひろ 14代)となった。
※長朝は氏朝の3男、成朝は4男。二人は13代当主の座を争ったが、成朝が就いていた。

一方、幕府(8代将軍・義政)は成氏討伐を上杉房顕、今川範忠(のりただ。駿河守護職)、上杉房定(ふささだ。越後守護職)に命じ、成氏を鎌倉から追放した。成氏は下総古河(茨城県古河市)に逃れ、ここを本拠地とした。以後、古河公方(こがくぼう)と呼ばれた。

結城氏14代当主・結城氏広は足利成氏方に属して関東管領・上杉房顕らと戦った。だが、幕府に支援された上杉勢の前に、古河公方は苦戦を強いられ、結城氏内部でも結束が乱れ始めた。多賀谷氏、山川氏、水谷氏(みずのやし)らの重臣は独立への道を歩むようになった。

※ 山川氏の祖・山川重光(しげみつ)は結城家の狙・結城朝光の庶子。その後も、結城氏と山川氏は互いに養子縁組を組んでいる。
※ 水谷氏・・・関ヶ原の戦いで功を認められ大名となる。後に備中松山藩の藩主となる。

結城氏の衰退に歯止めがかからないまま。氏広は死去した(享年31歳。1481年)
15代当主に3歳の政朝(まさとも)が就いた。補佐役として登場したのが多賀谷和泉守(いずみのかみ)である。(和泉守は朝経の孫か?氏家の孫か?は不明)

その和泉守であるが、結城家伝によれば藩政の実権を握り横暴を極めたと記されている。
結城家家臣のなかに和泉守派を形成し、家臣は藩主政朝よりも和泉守の下知に従うようになった。多賀谷氏の棟梁と自任する基泰(家植)にとっても台頭してきた和泉守は目障りな存在である。政朝と基泰は共謀して兵を送り和泉守を殺害した。主だった和泉守家臣、結城家和泉守派も殺害、追放した(1499年)。政朝は当主としての権限を取り戻し、以後、積極的な外交・軍事行動で旧領奪還を図った。
政朝と共謀して和泉守一派を排除した基泰も名実ともに多賀谷氏の棟領となった。基泰もまた領土拡張を進め、政朝と領土争いで衝突している。結城家伝では多賀谷氏は結城四天王の筆頭でありながら、主家に弓を引いた一族として記されている。
※ 結城4天王  多賀谷氏、山川氏、水谷氏、岩村氏
※ 多賀谷氏、山川氏、岩村氏は秀康重臣として越前入国。水谷氏は松山藩領主となる。
※ 岩村氏の祖は三浦氏とされている。三浦氏・・北条氏と並ぶ名家。北条氏と争って滅亡。

結城政朝は宇都宮成綱(しげつな。宇都宮17代当主)の娘を正室に迎えた。当時の宇都宮氏は関東有数の軍事力を有し、同盟関係を築いた結城氏も勢力を伸張させた。成綱が没し、忠綱(ただつな)が跡を継ぐと関係が悪化し、政朝と忠綱が争い、結城氏が勝利して、宇都宮氏の所領となっていた旧領を取り戻した。政朝は結城氏中興の祖とされている。

政朝は嫡男・政直を後継に指名したが、政直が夭折したため次男・政勝を16代とした。3男・高朝(たかとも)は小山政長(まさなが。小山家当主)の養子になり、小山氏(宗家)の跡を継いだ。(小山高朝)

政勝には1男1女がいたのだが、いずれも夭折し、弟・高朝の3男・小山晴朝を養子に迎え17代とした。結城晴朝(はるとも)である。

結城氏は代々鎌倉公方(後に古河公方)に仕え関東管領・上杉氏と争い、晴朝も古河公方の背後にある北条氏(鎌倉幕府の執権北条氏と区別するため、後北条と称される)陣営に属してきたのだが、上杉景虎(謙信)が関東管領に就くと、反北条氏に転じた。

晴朝には跡を継ぐべき男子はなく、宇都宮21代当主広綱(ひろつな)の次男・朝勝(ともかつ)を養子に当主とした。宇都宮広綱の正室(朝勝の母)は佐竹氏17代当主・義昭の娘である。この縁組によって、結城氏、宇都宮氏、佐竹氏の同盟が成立し、小田原の北条氏政(うじまさ)に対抗した。

晴朝は豊臣秀吉の小田原征伐(1590年)に出陣し、所領を安堵された。晴朝はさらに結城家存続を確実なものにすべく、秀吉の養子・秀康(徳川家康次男)を養子に受け入れた。(1590年)その前年に秀吉に実子・鶴丸が誕生しており、秀康の養子先を捜していた秀吉の意向だった。関東最大の大名徳川家康の次男でもある秀康を結城家当主に迎えたことで、豊臣、徳川の二大勢力が結城家の後ろ盾となり、晴朝にとって願ってもないことであった。(結城朝勝は当主の座を秀康に譲り、実家の宇都宮家に戻る。結城氏系譜に朝勝の名はない。17代当主・晴朝の後は18代当主・秀康)

関ヶ原合戦(1600年)で、秀康は西軍の上杉景勝(かげかつ。会津120万石、後に米沢30万石)を封じ込む役目を果たし、その功により下総結城10万千石から67万石に加増されて越前北の庄の領主となった。

秀康は結城姓を名乗っていたが、嫡男・忠直は松平姓を名乗ったため、晴朝は秀康の5男・直基(なおもと)を養育し結城姓(19代当主)を継がせた。

直基は後に勝山藩3万石(1624年)、大野藩5万石(1635年)に加増移封されている。
直基は後に松平姓を名乗り、実質的には秀康によって結城家は絶えた。結城家の祭祀は直基の流れを継ぐ、松平前橋藩によって継承されている。

多賀谷氏の系譜。
初代 光基(みつもと)・・8代 政朝(まさとも) 9代 光義(みつよし)10代 氏家(うじいえ) 11代 家植(いえたね)12代 家重(いえしげ)13代 重政(しげまさ)   14代 政経(まさつね) 15代 重経(しげつね) 16代 下妻多賀谷氏 宣家(のぶいえ。佐竹宣家) 下総太田多賀谷氏 三経(みつつね) 17代 泰経(やすつね) 18代 経政(つねまさ) 
※ 下妻多賀谷氏の宣家が本流であるが、下妻多賀谷氏は改易となり、傍流の下総太田多賀谷氏の三経が多賀谷氏を継いだ。

11代の家植(いえたね。基泰)のとき、一門のライバル多賀谷和泉守を殺害し、一門の棟領としての立場を確立した。家植は前述のように本領下妻から周辺に進出し、やはり旧領回復にむけて進出する結城氏との衝突が勃発した。また古河公方の内紛(父・政氏と嫡男・高基の争い)では結城政朝は高基(たかもと)に付き(政朝、高基双方の正室が宇都宮成綱の娘)、多賀谷家植は政氏(まさうじ)に付き、争っている。
※ 古河公方の内紛は高基の勝利。

関東は古河公方(前身は鎌倉公方)と関東管領・山内上杉氏との対立が長らく続き、関東豪族も両者の争いに翻弄されながらも、公方と関東管領が消耗し弱体化すると、勢力拡大を図るしたたかさを持っていたのである。

ともあれ多賀谷氏はかって臣従していた結城氏を始め、周辺領主と争いながら、下妻城、城下町を整備して、周辺地域に進出していった。

だが、小田原北条氏(氏綱・うじつな、氏康・うじやす)の勢力拡大が進むと、関東諸侯(上杉氏、宇都宮氏、結城氏、佐竹氏、多賀谷氏)は反北条氏を鮮明にして立ち向かった。敵対関係にあった結城氏と多賀谷氏が同盟したのもこの頃であった。

多賀谷氏が最盛期を迎えたのは15代重経のときで、下妻20万石と多賀谷家伝と記されている。秀康が当主となったとき、結城家は10万1000石であるから、遥かに凌駕している。
小田原征伐(1590年)には結城晴朝、宇都宮国綱、佐竹義宣(よしのぶ)は北条方へ攻撃をしかけ、その功により所領と地位を安堵された。

多賀谷重経は病気を理由に参陣は遅れたものの、秀吉に詫びて、このときは許され所領を安堵された。だが、文禄の役(ぶんろくのえき。秀吉の朝鮮出兵。1592年)で病気を理由に参加しなかったため、減封された。(10万石前後か)

重経の嫡男が虎千代。元服して左近大夫光経(みつつね)。左近の烏帽子親は石田三成。その一字を光とかえて三経とした。本来なら三経は重経の跡を継ぐべき位置にあったのだが、分家し下総太田(茨城県結城郡八千代町)に居城(陣屋)を築き、移住した。
三経が家督を継げなかった理由は、多賀谷氏と佐竹氏の同盟にある。多賀谷氏が結城氏を始めとする周辺勢力、進出を強める北条氏に対抗するために常陸国の強国佐竹氏を頼った。多賀谷氏は佐竹氏の庇護下で戦国時代の存続を図ったのである。
重経の娘(大寿院)が佐竹氏18代当主義重(よししげ)の嫡男・義宣(よしのぶ。19代当主)に嫁し(1580年)、その10年後に義重の4男・宣家(のぶいえ。義宣の弟)を養嗣子(ようしし)として迎え、娘(珪台院。けいだいいん)と娶(めと)わせ、多賀谷氏
16代当主とし、嫡男・三経を分家としたのである

このことにより、多賀谷家臣団は下妻を本拠とする、重経、宣家派と下総太田を本拠とする三経派に分裂したのである。
三経を嫡流から外した大きな理由があったとされている。秀康が結城家を相続した際、秀吉から多賀谷家は結城家へ臣従するように命じられていたのである。だが、家中には結城派と反結城派(佐竹派)が対立を深めていた。重経は多賀谷家を分裂させ、下総太田・多賀谷氏(三経。3万石)を結城秀康に臣従させ、下妻多賀谷氏(宣家。6万石か)を本家としたのである。重経が小田原参陣に遅れた理由はこの家中の混乱の収拾するためであった。

関ヶ原合戦で下総太田・多賀谷氏(三経)と下妻・多賀谷氏(宣家)は東西に別れた。結城秀康は家康の命令により宇都宮に布陣し、石田方の上杉景勝、佐竹義宣と対峙し、上杉・佐竹勢の関ヶ原参陣を防いだ。三経は秀康の先陣として下野国大田原城(栃木県大田原市)に在陣した。

下妻・多賀谷氏の宣家は兄である佐竹義宣に属し、石田方に付いた。上杉・佐竹勢と結城秀康は対峙したまま、関ヶ原合戦(1600年9月15日)は一日で決着した。
※ 宇都宮国綱(くにつな)が太閤検地で虚偽の申告をしたことにより秀吉の不興を買い、改易処分となった。従兄である義宣も連座処分が下されようとしたが、三成のとりなしにより処分を免れた。その恩義に報いるために家康の命令に背いたとされている。
国綱の嫡男・義綱(よしつな)は水戸藩に仕え、以後子孫は明治維新まで水戸藩家臣であった。

関ヶ原合戦の戦後処理が行われた。結城秀康は結城10万1000石から越前福井68万石に移封された。これに伴い三経は下総太田を引き払い、秀康から越前坂北郡の村々の総高32000石を与えられ、柿原郷の領主となった。

下妻多賀谷氏は改易。宣家は佐竹家に戻り出羽国檜山(ひやま。秋田県能代市檜山)1万石を兄・義宣から与えられた。その佐竹氏は(当主・義宣)常陸54万石から出羽久保田(秋田市)20万石に減封された。

三経の実父・重経は下妻を追放された後、困窮しながら各地を放浪した。
重経が以前は下妻多賀谷家に仕え、主家の改易後は佐竹家に仕官した旧臣に出した手紙が残っている。文中の六郷とは、旧知の佐竹氏前当主・佐竹義重(18代)の隠居地。

「御国替以来、方々乞食仕り候へ共、がしにおよび候間、旧冬ふと六郷へ参り候
 老期と云い、不弁の式と云い、何共書き尽くし難く存じ候」

(国を召し上げられて以来、方々を乞食となってさまよい、餓死しそうになり、昨年の冬、ふと旧知を頼って六郷を訪ねた。老齢といい、極貧といい、なんともその悲惨さは筆舌に尽くし難い)と窮状を訴えている。

 この旧臣は重経を哀れみ、酒と肴を送り届けた。この噂は秋田藩に広まり、重経は此の地も追われるように去った。最後は実子の茂光(しげみつ。彦根藩士)を頼って近江に行き、彼の地で没した(1618年)と多賀谷家譜に記されている。
                                    終。

参考資料 下妻市史  関城町史  他資料

平成26年7月14日                  資料まとめ  長谷川  勲
2014/07/14 (月) きょうはCAD三昧
 

 昨日の午後は、共通の友人Kさんのお見舞いのため、5人で医大病院に向かって牧田事務所を出発した。、ぼくが7年前に脳内出血で倒れ意識不明のまま救急車で運ばれたルートと同じだ。
 病室のKさんは手術後四日目にも関わらず大変元気で多弁だった。それ故、ぼくは患者と会話をするよりも、病院の窓から病院全体を見渡しながら7年前の自分を思い出していた。

 幽体離脱という不思議な体験、隣のベッド患者の死という悲しい体験、長期入院患者の悲哀を聞くという人生観がかわるような体験、たくさんの女性見舞客がかけつけるという嬉しい体験エトセトラで、ぼくは違う人間になってしまったような気がする。

 もう時効だから書いてもいいだろう。
 苦しい脳のリハリビを経て頭のぐしゃぐしゃがある程度整理整頓され、辛い体のリハビリを経て車椅子なしでよろよろではあるけれどもなんとか歩けるようになったある日、ぼくは煙草に挑戦したのである。敷地内禁煙なので自販機など置いてあるはずがない。深夜の闇にまぎれて病院前の8メートル道路を横切り、サークルKでマイルドセブンを購入。
 病院内敷地の暗闇場所で、マッチを点けた時は怖かった。数か月のあいだに清潔になった体に、又、毒を入れることで倒れるんじゃないかと、怖かった。逡巡したけれども、「肺の奥深くまでは吸い込まない」と決意して吸った。
 ・・ものすごくうまかった。
 それはともかく
 「ふるさと語ろう会7月例会資料」の訂正版をとんぼさんが持ってきたので、「お知らせ」をご覧ください。

2014/07/13 (日) 昨日の一日
 
 昨日の「ふるさと語ろう会7月例会」には12名が出席。

 
 まず基調報告として会員・H氏が(藤原秀郷を祖とする)結城家と多賀谷家の関係を一時間ほどしゃべり、次に多賀谷左近奉賛会のS氏が奉賛会の設立過程をしゃべり、両講師に対する質疑応答のあと、会員のY氏が左近の墓所へ我々を案内した。

 この流れをここで文字化することなど、例え略化しても、ぼくの技量ではとてもできない。
 このブログをお読みの方で希望する方がいましたら、ぼくに電話してください(0776-73-0863)。三人の講師に連絡致します。


 午後は「もうどこへも出ない」のだからということで琉球焼酎・南風を飲みながら、津本陽著「鉄砲無頼記」並びに「幸村去影」を読破。

2014/07/12 (土) 西岡復帰阪神タイガース八連勝
 

 本日の「ふるさと語ろう会」七月例会で、長谷川さんがしゃべります
 僕自身、個人的にはいつも顔を合わせて彼の謦咳に接しているので、できるだけ沢山のひとに聞いていただきたい。勿論会員以外の方も大歓迎。
 

2014/07/11 (金) もう週末か
 

 ハーモニカコンサート・チケット料金返還行脚の行く先々で「ハーモニカ演奏が無理なら、牧田はんの独唱会にすればいいんや。港町ブルースを歌えばいいんや」と言われる。

 確かに、昔、ウイーンのハイデルベルグ音楽院でクラッシック声学の基礎を学んだ私の声量はカネをもらって聞かせるに充分に値すると思われてきた。しかし、実のところ、60歳を超えた頃から声量に陰りが出始めている。 もはや、有料独唱会ステージにたつのは無理だ。聴衆が拍手喝采しても私自身のプライドがそれを許さない。
 これからは、せいぜいが、カラオケ喫茶で趣味的に歌うにとどめるつもりです。 


 それはともかく
 (一昨日だったか・・)携帯電話使用運転でケイサツに捕まり、罰金6000エン(減点なし)の青キップを切らされた私は、今朝一番のハーモニカコンサート・チケット料金返還行脚の行った先で、「ケイサツは自分らのボーナス金額を上乗せしたいがために過剰ネズミ捕りをやっているんや」と不満を言ったところ、相手が「実は、わしも昨晩ケイサツに捕まった。夜更けて車など全く通っていない道で、点滅赤信号一旦停止違反で捕まったんや。罰金7000エン、減点二点やぞ」と言う。
 私より大きい罰金をとられた人が身近にいるということは、なぐさめになります
 (教訓その① 不幸なひとは、より不幸なひとを見て救われる・・牧田)

2014/07/10 (木) チケットを買ってくださったみなさまへ
 

 昨日の夕刻にハーモニカ奏者・河端さんが突然来訪。治療に相当な日数をかけているが、甲状腺障害のなおる見通しがいまだにたたないとのこと。
 僕は駐車場で彼を迎え、事務所まで案内したのだが、その(かん)20メートルほどの歩きで彼は疲労困憊。その程度は僕と遜色がないほどだ。
  「チケットを買ってくださったあわら市民の方に対してまことに申し訳ないのですが・・」と言いながら深々と頭をさげる。 僕は、「いやいや健康第一です。今回のコンサートに関しては、延期を中止に変更します。後顧の憂いなく、治療に専念してください。完全治癒したあとにやりましょう」と、申し上げた。

 本日から、チケット料金返還行脚の旅に出ます。中古だが二人乗り乗用車・ケトラ号を買っておいてよかった。
 
 と、ここまで書いていて気づいた。何に気づいたかというと、自分が「物忘れ症候群」の一員であることに気づいた。チケットを買ってくださった方のリストが引き出しから消えているのだ。おそらく整理整頓しているあいだに紛失したのだろう。いくら探しても見当たらない。
 仕方ない。記憶力を駆使してのチケット料金返還行脚となる。とはいうものの記憶力自体が退化しているのだから、完璧を期待できない。しかし、頑張るしかない。
 それはともかく
 現在読んでいる本が、「随想コスモス日記 京満福芦の生涯」(内田信士著)↓。


 著者は「ふるさと語ろう会」会員・内田さんのお父さん。
 

2014/07/09 (水) 本日はCAD三昧
 
 昨日の午後は、手話講習のため、芦原中学校にいた。
 

 入れ歯人間となった僕は既に発語が不明瞭なので、聞き取り通訳を担当。
注 ①聞き取り通訳→健聴者のしゃべりを聾者に手話で伝える役
   ①読み取り通訳→聾者の手話を音声言語で健聴者に伝える役

 それはともかく
 子どもたちを見ているあいだに、僕のアタマのなかを20年ほど前の小中PTA会長時代が走馬灯のようにめぐった。
 殆んど毎日のように学校へ行って、PTA担当の先生、校長先生や我が子のことを心配する保護者たちの話を聞いていた。そのお母さんたちのうちの何人かとは、今でも付き合いがある。
 それはともかく、我が事務所のオープンカフェに置かれた水槽には三匹の金魚と一匹のザリガニがいて


彼ら彼女らは決して争わない。見事に共生している。もっと雑多な水辺の生物(例えば泥鰌、海老、鮒など)を入れて多様性の社会をつくりたい。「水辺の生物と薔薇の花の世界」・・これが我がオープンカフェの目指す姿です。

2014/07/08 (火) 本日は芦原中で手話講習
 

 顔が真っ黒なので霊魂のように見えるけれども、これは私の後ろ姿の写真。


左肩の痛みを抑えるためのサポーターで、健康器具みたいなものだ。姿勢が矯正されているような気がする。大リーグ養成ギブスをはめた星飛遊馬になったような気分。

 兵庫県議の野々村某の政務調査費使用疑惑に関する記者会見での態度は、面白がるマスコミが何度も何度も放映するので全国津々浦々に知れ渡ってしまった。確かに無茶苦茶だとは思うけれども、まだ説明責任を果たしていないのだから報道過剰だろう。シラフであれだけ大泣きしたり嬌声を上げたりできるのは、ある意味での個性であり、今後はそれを生かした道を歩むべきだ。吉本興業なんかから引き合いがあるのではないだろうか。

 ところで、兵庫県議会に限らず日本の国、都、府、道、県、市、町、村議会の議員たちの何パーセントかは、現在、戦々恐々としているだろう。だけど、あわら市議はしていない。何故なら、政務調査費が支給されていないからだ。
 

2014/07/07 (月) 一週間が始まった
 

 昨晩、聾唖者(聴力障害者)Kさん夫妻及び手話通訳者Tさんが来訪。お互い久しぶりなので四方山話ははずんだ。

 Kさんは、「聾唖者をとりまく生活環境は、大幅に改善された。補聴器の性能は向上したし、ベビーシグナルや腕時計振動ブザー、玄関お知らせランプなどが登場した。そして貴方たち健聴者にとっての電話と同じ通信環境はファックスや携帯メールによって手に入れることができて、それは良いことだ。しかし、本当に嬉しいのは健聴者とじかにコミュニケーションしている時であって、その意味で手話がもっと普及してほしい」と言う。

 確かに、世の中便利になって、聾唖者もハイテク機器に助けられている。だけど、聾唖者に限らず一番は人間関係の広がりと深まりを求めることにある。ハイテク機器によるサポートでは、敢えて言えば擬似的人間関係構築に過ぎないのであって、その意味でKさんの思いはよくわかる。

2014/07/06 (日) 無題
 
 本日は、午前6時から坂ノ下八幡神社清掃。

 神道には、仏教、イスラム教やキリスト教のような教義はなくて、あるのは「清浄にして清浄」の世界。よって、清掃を終えた時点で魂の浄化を感じることができた。

 8時半からは、区民館において子ども会相手の講演会(坂ノ下農家組合主催)。

 プロジェクターを使っての講演は
①「坂ノ下区の歴史及び昔の農作業」(講演者・牧田)
②「坂ノ下区の水辺の生物」(講演者・O氏)・・↑写真

 O氏の水際立ったなめらかなしゃべりに比べて、ぼくは子ども相手にしゃべるのは初めてだったのでしどろもどろ。仮に婦人会相手だったら、慣れている分だけ多少はひきつけることもできただろうに、世の中ままならないと思いました。

2014/07/05 (土) 明日に向かって
 

 昨晩は「原発を考えるあわら市民の会・世話人会」ということで、6人が事務所に集まった。そのなかのひとり・Kさんが一時間前に四泊五日の福島滞在を終えて福井に戻ってきたところで、福島のいまの状況を細かく語ってくれた。「言葉で云い尽くせるものではない。直接、被災現場へ行って自身の目で見ることが一番や」という。
 

ぼくは行ってない(というか、このカラダでは行けてない)のだが、阪神淡路大震災の折には勃発三か月後に被災現場へ行き、友人宅に宿泊したので、Kさんの思いがよくわかる。

 Kさんの報告で印象深かったのが「被災地支援を中心になってやっている人が積極的でとても陽気」ということで、絶望を深く味わった人が数年を経て変わるというのはなんとなくわかる。
 だけど、「変わる」という言い方は正確ではないだろう。絶望感が消えることはなくて、意識的に隠していく結果の陽気だと思う。

2014/07/04 (金) もう週末か
 

 議員を辞め、これからは、終日、事務所から一歩も出ずに、CAD画面に向かい、推理小説を読み、ひとり世を憂うる生活をするつもりだったので、数週間前に愛車トウデイが壊れた時、もう車には乗るまいと思ったのだが、現実にはそうもいかない。
 車で出歩く必要性が結構あるので、仕方なく二人乗り乗用車を買った(愛車ケトラ)。この車はエアコンもラジオもついているので、乗り心地は結構快適である。

 その車で街に出ると、久しぶりに会う人から、「カラダは大丈夫ですか」と質問される。ぼくはワンパターンで「少しずつ萎えています」と答えるのだが、この頃では肩の痛みが激しい。そこでドラッグストアへ行って肩のサポーターを購入した。両肩と背中を結ぶ複雑なサポーターで、値段も高かったし、身に着けると圧迫感があったけれども、慣れるにしたがって肩の痛みが和らいできた。なによりも姿勢が矯正されている気分になるのが嬉しい。

2014/07/03 (木) 無題
 本日はあわただしく、こういう時は頭がカラッポ。気が向いたら、書き込みます。
 それはともかく
 ぼくのこのブログは、自分自身及びごく近しい友人に向かって書いているだけで、現に、このブロブを読んでもらっていると思える人は10人内外で、それもほとんどが女性で、なおかつ若くはないが美しい女性たちである。付け加えるならば、ぼくは、他の人のブログを覗くことはまず無いし、フェイスブックに至ってはそれがブログであるのかないのかも全くわからないインターネット音痴であるぼくが、唯一例外的に時折覗くのがNクンのブログ
 彼は学生時代(つまり40数年前)のごく近しい友人で、西ノ宮市仁川町下宿の同居人でもあった。いろんなところへ一緒に遊びに行ったが基本的に女性にもてまくった男。それなのに、ブログを読んでいると、たちどまって一服し焼酎をぐっと煽り画面を見続けてやっとわかる部分のある硬質文体の持ち主となっている。おおざっぱにいうならば、軟から硬への華麗なる変身で、ぼくが昨年の6月に硬派宣言をしたのも彼に見習いたいという気持ちがあったからだ。

2014/07/02 (水) 本日は青江美奈の命日
 ♪あとはおぼろあとはおぼろ

 パソコンの基本ソフトをウインドウズXPからウインドウズ7に入れ替えたのが今年の四月。それから三か月間、メール送受信の方法がわからずそのままうっちゃっておいた。そして昨晩、市職員S氏の電話アドバイスによって送受信がやっと可能となった。
 ふたを開けてみると膨大な量のメールがたまっている。殆んどは見知らぬ者からのあるいはアダルト系のそれで、即、消去したが、なかには知人からの大切な情報あるいは仕事がらみのそれがあって、やっぱりメールチェックをしなければならないと思った。
 吉村昭著「プリズンの満月」-3
 鈴木は法務府幹部と協議をかさね、プリズン派遣の刑務官の選考基準をもうけた。米軍将校の警備するプリズンに勤務する刑務官は、日本の体面をけがすようなものであってはならず、その優秀性を米軍将校にしめす必要がある。そのような考えのもとに、四十五歳以下の健康で人格円満の、容姿、体格ともに秀れた勤務成績優秀な者、さらにプリズンに収容されている戦犯と系累関係にない者を基準とした。
 その間、連合国総司令部と法務府との間で打合せが繰返され、八月二十三日に府中刑務所内で人選した刑務官六十一名が、各個教練、密集教練、敬礼動作などの訓練をこない、第一陣派遣として乗用車二台、バス三台に分乗し、手廻り品等をのせたトラックとともに府中刑務所を出発、プリズンに入り、任務についた。

2014/07/01 (火) プリズンの満月-2
当面の目標は、ここを薔薇の(その)にすること。一番美しく咲いた薔薇を〇〇〇と名づけること。

 そういうことを思っていた今朝9時に

 ワインを持ったNクンが久しぶりに来訪。

 Nクンのことだから二本とも高級ワインに違いない。

 それはともかく
 昨日午前中の来訪者の一人と一緒に郷土史家Kさんの自宅を訪問。たまたま畑仕事から戻ってきたところだった。もう80前だがカクシャクとしている。彼女は、巡検使の通った道について熱弁をふるわれた。
 「今度、牧田事務所に人を集めますから、ざっくばらんに、歴史四方山話を語ってください」とお願いして自宅を後にした。
 最近の私は、若い人より年寄りが好きになってきた。好きになってきたというか、はやく世を去る人の話を聞いておくことが次世代の義務だと思うようになってきた。

 吉村昭著「プリズンの満月」より
・・・北朝鮮主力は、韓国の東海岸に上陸した部隊等とともに一日三十キロの急進撃をつづけ、撤退を繰返す米韓軍を釜山地域に追いつめた。
 アメリカ軍を主体とした国連軍は態勢の立て直しをはかり、アメリカ軍は兵力の増強につとめ、空軍が北朝鮮の軍事基地と施設に猛爆撃をつづけ、戦線は一進一退の状態となった。
 米軍司令部は、日本に駐留するアメリカ軍将兵を韓国に送りこんで戦力の強化につとめていたが、七月十四日、巣鴨プリズンで警備の任についている将兵の約二分の一にあたる百四十二名にも出勤命令を発し、ただちにかれらは朝鮮戦線にむかった。
 これによってプリズンの警備態勢は弱体化したが、連合国総司令部では、戦争犯罪裁判も一応峠を越したので、米軍将兵の代りに日本人刑務官を監視委員とすることを決定、七月二十四日、法務局に対して日本人所長以下三百八十九名の刑務官をただちにプリズンに派遣するよう命じた。
 法務府は、突然の命令に驚き、人選その他の準備に一か月の猶予をもとめ、諒承された。
 法務府では、まずプリズンの日本側所長として府中刑務所長鈴木英三郎を兼任させることに決定し、翌日、発令した。