鳥越城跡
  2014年9月28日
 「ふるさと語ろう会」会員を乗せたマイクロバスは、午前7時に、湯のまち公民館の駐車場を出発した。
 出発にあたっての私の挨拶は
 「本日は、「ふるさと語ろう会」本年度のメインエベントとも云うべき鳥越城跡等視察です。昨年のこの時期の北前船の里資料館視察と同じように、朝早くから夕暮れまでの一日中が、密度の濃い研修になるだろうと思います。なによりも、豪勢な昼食と酒が予定されているので、会員の皆様には、きょうだけは日頃のうさを忘れて楽しい一日となりますよう、お祈り申し上げます。
 お知らせしたいことが、ひとつあって、前回、我々は、泰澄大師ゆかりの宇根観音堂へ行き、地元のひとの話を聞き、観音堂内部にある仏像等をみせてもらい、この地域の保存を痛感したわけです。その後、これを受けて、この会の会員でもあるY議員が9月議会の一般質問で、この問題を取りあげました。この質問の模様はインターネットで放映されていますので、あわら市のホームページを是非クリックしてみてください・・・エトセトラ」で、きわめて気品のあるものだった(と皆は言う)。

 「簡保の宿」で昼食をとった。給仕にきてくれた女性が若くて美形だ。
 「私たちは越前からきたのですが、越前には貴女のような美人はひとりもいません。<越前男と加賀女>と世間で噂されていますが、きょう、私は貴女をとおしてそれを実感しました」と言って、彼女の顔を赤くさせてしまった。女嫌いを標榜して半年経ったが、実践の道はなかなかけわしい。

 午前中に目指したところは井波別院瑞泉寺



午後は鳥越城跡、一向一揆歴史館、林西寺。
 個人的な好みから言えば、鳥越城跡が一番よかった。


 白山麓山内惣庄の旗本鈴木出羽守を城主とし、天正初年(1573年)頃、織田信長による加賀一向一揆討滅の経路がはかられる中で、門徒集団である山内衆の抵抗の拠点として築城されたもの。天正8年(1580年)、織田方の柴田勝家軍によって落城し、山内衆の主領鈴木一族は滅ぼされる。その後この城は織田方の吉原次郎兵衛の管理下に置かれたが、白山麓門徒の抵抗は続き、攻防戦が展開された。しかし天正10年(1582年)3月1日、織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、三百余人が磔に処せられた。この城は、加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで担い続けた、白山麓門徒たちの記録として歴史に刻まれた。(インターネットから転載)

 標高三百数十メートルの簡素な山城である。とんぼさんは、「周囲を遥かに見渡せ、敵の侵入を察知できるという意味では、守備型の城だが、いかんせん、周囲に大きな水路がない。その意味では、兵糧攻めにあったらもうだめだ」と言う。
 復元された舛形門の下、当時の百姓姿でポーズをとる私は、ポーズをとりながら
 <夏草や 兵どもが 夢のあと 芭蕉 >」を思い出していた。