2014年11月

2014/11/30 (日) 昨日の一日

 午後一時半に生涯学習館へ。

 
 福井県埋蔵文化財調査センターの鈴木氏による講演・「古代の塩と人(樋山遺跡・細呂木阪東遺跡の調査結果)」が開かれたためである。講演会そのものよりも、会終了後の個人的な談笑が面白かった。若狭国は、租庸調の調の対象が塩であったということ、つまり本邦におけるブランド品であったということエトセトラを彼は諄々と語った。
 笠金村 万葉集33-366
 <越の海の角鹿の浜ゆ 大船に真梶貫き下ろし いさなとり 海路に出でて 喘ぎつつ 我がこぎ出行けば 大夫の手結いが浦に海をとめ 塩焼く煙 草枕 旅にしあれば・・・>
 夜は忘年会
 金中の同級生7人がS医師宅に集まった。鍋物料理で、ぼくは見ているだけだったが、みんなは、一生懸命料理にいそしんでいた。歳をとると、「自分で料理して食べる」が最後の楽しみになるのかもしれない。
 焼酎・ウイスキーを堪能しました。


 2014/11/29 (土) 邦楽を聴きながら
敦賀遊郭①
 敦賀の遊郭について  杉原 永綏
 はじめに
 遊郭は世界いたるところに存在していた。古代ローマ帝国の時代にも存在し、コンスタンチヌス帝(二八〇ごろ~三三七)は、財政難から遊女にまで税をかけたとの事である。また、国家が許可したいわゆる公娼なるものも日本だけではなくて、欧米各国に存在していたのである。かの有名なヂュマ・フェスの小説「椿姫」の女主人公マルグリッド・ゴーチェは、フランスにいた実在の公娼をモデルにしたものである。
 ところで、日本の遊女は古く万葉の時代にも存在し、
 里人の見る目はづかし。左夫流児に惑はす君が宮出後ぶり。
 と歌われている。その意味は、里人の見る目が恥ずかしい。左夫流児に迷っておられるキミの出勤する後姿は。この左夫流児とは遊行女婦遊女の名である。(武田祐吉、万葉集全注釈十二)更に平安時代から鎌倉時代には妓王・妓女・仏御前・白拍子などの名で、義経の愛妾静御前も白拍子、つまり遊女であった。
 ついで室町時代にも、白拍子・傀儡子などの遊女がいた。足利十二代将軍義春の大永八年(一五二八)、幕府は傾城局という役所を設けて京都のこれらの遊女から、年間十五貫の税を徴収して幕府の財源にあてたということである。(一九八〇・四)江戸時代になると幕府の厳しい統制の下に、江戸の吉原、京都の嶋原、大坂のといった三大遊郭が栄え、遊女にも様々な階級が生まれ、大名・豪商の大尽遊びから、ささやかな庶民の享楽まで、世界にかって類をみない一大歓楽境が出現したのである。そぢてこれはまた地方の小都市敦賀にも影響を与え、敦賀港の繁栄と共に、敦賀遊郭も亦殷賑を極めたのである。その敦賀遊郭が姿を消してから三十数年がたった。戦災・復興・都市計画・町名変更、これらは昔の敦賀を一変した。天神さんは元のところに復興鎮座ましますものの、新町はどこかへ消え失せてしまった。今、限られた資料と記憶をもとに、かって栄え敦賀遊郭の歴史の一端を述べてみたいと思うものである。
 一
 敦賀の遊女のことが、はじめて文献に見えるのは「太平記」ではなかろうか。「太平記」(岩波古典文学大系)巻第十七、金崎船遊事付白魚入船事の中に「春宮盃ヲ傾サセ給ケル時、嶋寺の袖ト云ケル遊君御酌ニ立テリケルガ・・・」とある遊君が遊女のことで、嶋寺とは戦前の町名では大嶋、今の元町である。南北朝動乱の時代、既に敦賀の嶋寺に遊女がいたのである。敦賀郡誌によれば疋田記に「慶長十年(一六〇五)頃、遊女町嶋寺町より三ツ屋六間町に移る」とあり、江戸初期に戦前の川東の遊郭が出来たようである。(この疋田記の所在は明らかでない。)
 ついで、近松門左衛門(一六五三~一七二四)の浄瑠璃「けいせい反魂香」に絵師狩野元信(一四七八~一五五九)が名木「武隈の松」を描きたいと思うくだりがある。それは近江国の守護佐佐木源氏の嫡流六角左京ノ大夫頼賢が、足利将軍の命をうけて、日本中の松の名木の絵を集めることになった。絵師狩野元信は、名前だけは残っているが今はわからない奥州の「武隈の松」(注1)を描きたいと天満天神に祈る。即ち「・・・然るに奥州武隈の松と云ふ名木は。いにしへ能因法師さへ跡なくなりしと読みたれば。(注2)名のみ残って知る人なし我是を書きあらはし。誉を得させ給はれと天満天神を祈りし所に。武隈の松の絵を見んと思はゞ。敦賀気比の浜辺に行くべしと・・・」
 (注1)奥州の武隈の松は宮城県岩沼市の城館。武隈館にあったと言われる二株の姿よき老松で、既に平安中期にはなくなっていたという。
 (注2)御拾遺集十八、能因法師(平安中期の歌人)の歌に、「武隈の 松はこのたびあともなし 千歳を経てやわれは来つらむ」 


 2014/11/28 (金) もう週末か 

 昨夕は、市役所にて手話の講習会。
 各課窓口での対応力アップを目的としているとのことなので、以下を例文として用意した。

・今日は何の用事で来られましたか?
・住民票が必要ですか?
・戸籍謄本(抄本)が必要ですか?
・誰のものが必要ですか?
・この用紙に住所とお名前を記入してください。
・ここにハンコを押してください。
・住民票は1通300円です。
・戸籍謄本は450円です。


 自宅に戻り晩酌を終えてから布団にもぐり込み、日下公人・養老猛司著「バカの壁をぶち壊せ!正しい頭の使い方」を読む。
 もはや「正しい頭の使い方」など望むべくもない私だが、それでも養老が日頃から提唱している「現代の参勤交代」には惹かれる。一年間のうち半分を田舎に住み半分を街に住めたら、自分の生活を根本から見直す契機になると思う。

 

 2014/11/27 (木) カラス 

 きのうの夕刻、坂ノ下区の電線に鈴なりに並んでいるカラスたちをしばらく眺めていた。識者によると、このカラス群には三つの種がいて、ハシブトガラス・ハシボソガラス・ミヤマガラスがそれである。うち一種類が中国大陸から越冬のために飛来する渡りガラスだとのこと。
 本来、カラスは指定害鳥ではないのだが、畑の作物をつまみ食いしたり駐車車両や家庭の洗濯物にフンを落としたりするので、その意味で害鳥だ。が、ぼくが議員であった時にも、行政はいろいろ対策を試みたがうまくいかなかった。 

 この異様な数のカラス群を眺める時、いつも思い出すものが二つある。
 
 ひとつがヒッチコックの映画・「鳥」で、ひとつが少年時代に観た映画・「黄色いカラス」だ。「黄色いカラス」の主人公の少年は、学校の図画工作の授業で、カラスの絵を描くことを命じられる。少年は色づけするのだが、カラスの全身を黄色で染めてしまう。「カラスは黒だよ」と教師から言われても、かたくなに黄色で染めていく。少年のその時の偏執凶的な横顔が今でもぼんやりと思い出される。
 映画は、少年が色盲とは暗示していなかったのだから、深層心理にスポットを当てるのがねらいだったのだろう。


2014/11/26 (水) 昨日の一日 

 朝早く、正体のよくわからない男性が来訪。いろいろ話しかけてくるので、午前中がつぶれてしまった。そのことで、午前中のスケヂュールを午後にスライドさせざるを得なくなり、忙しい一日となってしまったが、夜になってからつらつら考えるに、何時に誰と会って何を話したか何を聞かされたか、その詳細を思い出せなくなってきている。
 今流行(はや)りの言葉で言えば、認知度が低下したということなんだろうが、あまり好きな言葉ではない。古い人間だからなのだろうが、「認知度の低下」よりも「ぼけ」がなじむ。「ぼけ」「呆ける」からきていて、「呆ける」には、「遊び呆ける」など、あることに向かって一生懸命になるといった意味もある。
 仕事のことについては脳細胞を緻密に動かさなければならない。しかし、それを除けば、この歳だもの、気に入ったことだけに対して熱中し、ほかのことに対する興味を捨て去っていくのが自然な生き方だ。
 それはともかく
 逢坂剛著「配達される女」を読み終えた。主人公・脇役がハチャメチャなのがいい。実人生で味わえないものを追体験させてくれる。勿論、それは固有の文体を持ったプロの文章家だからできることだ。

 そういえば、去年読んだ彼の本で、ぼくはこういうメモをしたためた。
 昨晩、逢坂剛著:「暗い国境線」を読み終えた。第二次世界大戦下のヨーロッパが舞台の物語だ。著者はあと書きで「本作品の背景は史実をもとに描かれており、一部、歴史上実在の人物も登場しますが、内容はあくまでもフィクションです。」と書いている。618頁の長編で、登場人物の国籍が多岐にわたっての横戦争小説というと、戦場が舞台になるのが常だけれども、一方で、暗躍するスパイたちの存在が勝敗の帰趨を決めることもある、という当たり前のことを改めて思ったしややこしい横文字だらけなので頭に入りにくく、ストーリーの展開を把握するのが私にはなかなか困難だったが、にもかかわらずとても面白かった。60数年の人生のなかでもっとたくさん本を読んでおけばよかったという残念な思いが読後に残った。

2014/11/25 (火) 雨音を聴きながら

 人間は生から死を前借りしている 眠りはその前借りの利子である ショーペンハウエル
 
 ということで、昨日のわたしは、日がな一日利子をむさぼっていたのだけれども、熟睡ではないので、死の世界にいたわけではない。勿論、生の世界にいたわけでもなく、正確に言えば生死の境にいたということになる。夢うつつは、完全な安息をもたらしてくれないので、そのあたりが少々不満です。

 というようなことを考えながら、親類の法要(満中陰)にでかけたところ、読経を終えた坊主が我々親族に向かって、こう云う。
 「人は二度死ぬと言います。一度目は死体となった時。二度目は歳月を経て近かった人たちの脳裏から面影が消えてゆく時です」と云う。

 であるとするならば、わたしのように幽体離脱・臨死を体験した者にとっては、これに特殊死が加わることになる。即ち、0.5度目の死→1.5度目の死→2.5度目の死となるのである。

 

2014/11/24 (月) 昨日の一日

 昨日の午前中は、かりんて祭り会場へ。秋晴れのせいで人手が多く、おろし蕎麦の店は長蛇の列をなしている。
 会場には、来年春の選挙(県議選・市長選)のすべての候補予定者が姿をあらわし、「戦い間近」を感じさせた。

 午後は坂ノ下八幡神社で「秋の例大祭」。宮司の奉る祝詞は和語なのでなんとなく意味がわかり厳粛な気分にさせられる。坊さんのお経漢語読み上げとそこが違うのだ。
   

 夜は、四人で鍋物宴会。料理はとんぼさんの手作りだし、大吟醸及び高級焼酎は、日頃飲む安酒とは明らかに違う。満足感が五臓六腑に沁み渡った。
 

 
白玉の 歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり 若山牧水


2014/11/23 (日) 本日は勤労感謝の日

 昨日の来訪者は三人。そのなかに元教師がいて、話のテーマは歴史教育についてのこととなった。
 日本の近現代史は複雑で、韓国・中国・北朝鮮など東アジア諸国との関係は緊張下にあるが、テレビで識者たちの意見を聴いていても、史観が対立して、段々頭がパニックになってしまう。これは、自分の認知度の低下故だけではないと思う。

 ぼくが中学生だった頃の教科・「社会」は、縄文、弥生から始まって明治期まで教えられたのは覚えているが、そのあとは駆け足だった。このことが不思議で、金中のPTA会長をしていた時、社会の教師に、「?」を聞いたことがある。
 答えは
 ①カリキュラムが密すぎる
 ①現代史は評価がむつかしい・・だった。

 だけど、これはおかしい。我々年寄はもうすぐ死ぬからどうでもいいけど、次世代にとっては大切な課題だ。評価がむつかしいからしないのであれば、なんで教師をやってるんだろう、という気になる。評価が多岐であるとしても、どの評価を自分のものとするかの選択には基礎知識が必要なのである。

 昨晩のテレビで、宮崎 哲弥が「歴史を現代史から教えて、近世→中世→古代と遡及するべきだ」と、泡を飛ばしてしゃべっていたが、これには「我が意を得たり」の気分になった。


2014/11/22 (土) 無題

 昨晩は、「生涯学習館」で、「語ろう会」の臨時総会が開かれた。開かれた理由は、あわら市の方から「あわら市語り部の会(観光ガイド)育成の要望」があり、「我々はどう対処すべきか」の討議の必要性が生じたからである。

 そもそもこの会が7年前に発足したのは、「地域の足元の歴史を見つめ直そう」が合言葉であって、語り部育成の発想などは念頭になかったから、「行政側からそういうことを要望されても戸惑う」との意見が多かった。

 行政側のねらいは来年三月の北陸新幹線金沢駅延伸を目前にして誘客戦略の一つと位置付けているのだろうが、短期間での語り部ガイド育成など不十分たらざるを得ない。行政側の要望を具体的に語ってもらわなければ、対処のしようがないのではないか、つまり行政側に来てもらっての説明が不可欠だ。・・というところが、昨日の会議の着地点となった。
 気が付くと、時計の針は9時を指している。 いつも7時に寝てしまうぼくが、眠たさを感じずに9時まで起きていたのだ。ぼくにはそのことが嬉しかった。


2014/11/21 (金) 本日は「ふるさと語ろう会」の臨時総会です

 きょうの福井新聞に、「糸川氏出馬せず」の記事が出ている。
 つい二日前、秘書のYさんに電話した時の「糸川は出ます」の答えに、やや生気のなさを感じていたので、「やっぱり」という思いが無いでもない。

 「自分の理想として掲げている政治と、現在の党利党略の政治のあり方にずれを感じる。(衆院議員の)4年間の任期で県民、国民に対して責任を負える自信がない」と述べた。・・と紙面にあるが、彼の人柄からいって、これは本音だろう。加えて新2区からのつまりなじみのない区からの出馬内定が、きょうの記事となったとも言えよう。

 糸川さんと初めて話をした日のことを思い起してみた。
 10年近く前の雪がしんしんと降る夜だった。私の事務所の庭の桜の木の下で、私は「糸川さん、貴方は何故国政に出ようと思ったのですか?」という私の問いに対する答えとして、「自衛隊です。日本国民の自殺率は年年歳歳増えていますが、特にひどいのが自衛隊員の自殺率です。国を守る自衛隊がこうであっては、絶対におかしいです」が、間髪入れず返ってきた。
 お祭り騒ぎやGDPなどに興味のない私は、「ああ・・このひとは福祉型の政治家を目指しているんやなあ」と、思ったものだ。

 個人的な思いだが、糸川さんには、福井を見捨ててほしくない。別に、国政でなくてもいいのである。



2014/11/20 (木) 本日はCAD三昧

 最近の私の一番の楽しみは、味噌汁をつくって食べること。起床時刻が午前三時半なので夜明け前には腹がへって仕方ない。
 そこで、五時きっかりに味噌汁料理開始だ(料理といえるかどうかはわからないが・・)。味噌の量、具の種類による味の違いが段々わかってきた。朝食は味噌汁だけで充分だ。ご飯はいらない。

 それはともかく
 昨日の朝、とんぼさんがやって来たときに「黒龍しずく」をみせたら、「高級酒や。今度飲もう」と言う。 
        
 
 夕刻に来た女性(びけい)にこれを見せたら、「牧田さんだと、我慢できずにひとりで飲んでしまうわ」と言うので、「それもそうだ」ということで、彼女にあずかってもらうことにした。

 夜になってからは、某建物の定期調査の手伝い。通常照明を消しての非常灯の照度測定だ。薄暗い建物のなかは、現世来世の境界にいることを感じさせる.

 それはともかく
 高倉健が亡くなって、テレビの芸能番組は、彼の追悼一色だ。あれだけの有名人でも、亡くなったらみんな一緒なのだから、静かにしておいてやることこそが思いやりというものではなかろうか。大スターだから現世では勝者ということができるし、「勝者に花束はいらない(寺山修司)」のである。特別扱いされることをあれだけ嫌がった男なのだから、草葉の陰で苦虫をつぶしている。
 私も議員時代には、「あわら市議会のアラン・ドロン」 とよく呼ばれたが、じつのところ容貌だけでそう呼ばれるのが嫌で嫌で仕方なかった。せめて、死ぬ時は静かに死んでいきたい。葬式などだしてほしくない。「牧田さん、この頃みかけないわね。あの世へ行ったようね」と、女性(びけい)たちに噂され、そして徐々に忘れられていく。これが理想だ。
 ・・しかし、そう思うのも私のわがままかもしれない。だって遺族がとまどうだろう。結論・・遺族のすきなようにしてくださればそれでいいです。

 

2014/11/19 (水) 黒龍 しずく
 高倉健が亡くなり、昭和が終わった。
 ぼくにとっての高倉健は映画・「
鉄道員(ぽっぽや)」の駅長役の高倉健。映画を観てから原作(浅田次郎)を読んだ唯一のものだ。そこで、昨晩は昭和の時代について、いろいろ思いをめぐらしていた。
 そして思いを整理するために、今朝早く波松の浜へ出かけた。冬の浜の押し寄せる白波は高い。
 奥底の 知れぬ寒さや 海の音 哥川


自宅に戻ると、玄関脇に箱が置かれている。

 「黒龍 しずく」だ。福井県民ならば、知らない人はいないという絶品の酒だ。
 Sさん、ありがとう。
 
 
2014/11/18 (火)
 是非、これを読んでください。
 なお、関先生の同タイトルについての講演が、12月13日(土)に午後1時から生涯学習館において行われるとのことです(入場無料)。
 

 2014/11/17(月) 表紙変更

 昨晩のテレビで、沖縄県知事選の翁長候補が早々(はやばや)の当確を受けてインタビューに答えていたが、その顔に笑いはなかった。「この小さな島に全国のうちの75%の基地があるという理不尽な現実を受け止め、公平な基地負担を実現することが民主主義国日本の使命だ」との受け答えは正論だし、前回の知事選で基地撤去を訴えながらも、政府の要望を受け入れた仲井真候補が「公約違反や。沖縄の魂を金で売った」という県民の声に屈した、という構図だ。
 翁長氏はこれから茨の道を歩むことになるが、「沖縄を考えることは日本を考えること」が我々他県民につきつけられた課題だと思わなければならない。

 それはともかく
 昨日は、事務所から一歩も出ず誰とも合わずにひたすら本を読んでいた。そして、ここが肝心なことだが、酒を一滴も飲まなかった。7年前の退院以来、初めてだ。これだけは、自分で自分をほめてあげたい。

 それはともかく
 きょうの午後の来訪者・Yさんから、「まきちゃんのブログ表紙の背景色が暗い。読んでいて暗い気分になる」と言われました。読み手を暗い気分にさせることが私のねらいだったのですが、「仕方ない。自己本位ではダメだ。読み手のことも考えよう」と思って、背景色を変えました。
 ちなみに、この背景色はぼくの一番好きな色です。

2014/11/16 (日) 昨晩の日米野球は面白かった   

 
 今朝は、午前九時から、「農政連金津分会・臨時総会」に出席した。議長を頼まれたからだけれど、人前に立つのは久しぶりなので、緊張した。
 帰宅してからは、朝倉喜裕著「蓮如 北陸路を行く」を読んでいます。

 それはともかく
 大田蜀山人と、後年
「東海道中膝栗毛」を書いた十返舎 一九が場末の飲み屋で二人で飲んだ時、一九の「俺は毎夜毎夜枕元に魑魅魍魎が出てきて眠れない」という言葉に蜀山人がおおいに共感したというシーンがあって、ぼくは魑魅魍魎の正体について、ここ二日間考えていた。勿論、妖怪などが実際にでてくるはずはなくて幻想だが、それを押し出すものは、過去にもった心の傷や将来に対する恐怖心にまつわる言葉の洪水だったんだろうと思う。


2014/11/15 (土) もう週末か  

 昨日の午後は仕事を小休止して、事務所の整理整頓に励んだ。整理整頓とは捨てること。使わないものを保管することに意味はないのだから、とにかく捨てることである。


 それはともかく
 童門著「小説大田蜀山人」233ページにこういうことが書かれている。
 ・・寛政十二年(一八〇〇)四月 幕府は下総佐原の町人伊能忠敬を登用し、エゾ地測量を命じた。
 ちなみに、エトロフ島に「大日本恵土呂府」の標柱を建てた近藤重蔵は、大田直次郎とともに松平定信が行なった学問吟味に合格した幕臣である。変わり者だった。後に大阪城詰めになった時に、評判の高い大阪町与力の大塩平八郎を訪ねた。ふたりは初対面だった。しかし、大塩に会った印象を聞かれた近藤は、
 「あいつは変わり者だ。ろくな死に方はしない」
 といった。この話は大塩側にも残っていて、大塩は、
 「近藤重蔵という人物はいかがでしたか?」
 ときかれると
 「あいつは変わり者だ。ろくな死に方はしない」
 と答えた。・・・


 とにかく、今朝この本を読み終えたが、ぼくにとっては、いろいろ考えさせてくれる本だった。
 田沼意次の重農重商政策時代に幕史として仕えながら戯作者として名を売り、江戸庶民を楽しませたものの、田沼失脚後の松平定信の重農賎商政策時代には一転して幕府の事務の簡素化に能力を発揮した蜀山人は、それ故に変わり身の早さを周囲から揶揄され、蜀山人自身、悩む日々を送っていた。しかし意次の時代・定信の時代双方に共通して進行していたものがある。日本国海防計画である。
 林大学
(かみ)から海防についての意見を求められた彼は、田沼の海防案の継承を訴えた。江戸城内に田沼賄賂政治一掃の雰囲気が支配的ななかでのこの意見具申は、出世のさまたげとなることを十分に知った上での具申だったし、彼は事実、閑職へ左遷される。しかし、彼は信念をまげなかったという誇りを持って、脳梗塞で死んだ。
 要するに、為政者の功罪を十派ひとからげでみてはいけない、ということだ。

 

2014/11/14 (金) 世の中に 蚊ほどうるさきものはなし 文武文武と 夜も寝られず  


 昨日の夕方は、市役所で手話の講習会。
 6時半に役所を出たのだが、空気が冷えていて悪寒がする。自宅兼事務所に戻って、アジフライつまみに熱燗を飲んだら悪寒はおさまった。
 布団を被って、童門冬二著「沼と川の間でー小説・大田蜀山人」を開く。このところ面白い本にめぐり合わなかったのだが、久しぶりに最後まで読み通せそうだ。


 江戸期天明の頃の戯作者・蜀山人の浮き沈みを描いたこの本を読み始めた時、ぼくは井上ひさしのデビュー作「手鎖り心中」を思い出した。
 老中筆頭が田沼意次であった時に、蜀山人は戯作者として時代の寵児だった。しかし、開府以来初めて重商主義を採った田沼がその副産物としての賄賂政治故に失脚し、変わって松平定信が老中筆頭に就き政治が再び重農主義に戻ったことで、蜀山人たち戯作者は弾圧されてしまうのである・・


 それはともかく
 今朝、トンボさんが「戦国非情 結城氏・多賀谷氏伝及び結城松平氏の系譜」(三部作)のデーターを、「やっと完成した」と言って、持ってきました。力作です。トンボ作品リストをクリックして、是非お読みください。


 2014/11/13 (木) 昨日の一日  


 昨日の朝はY氏宅裏のカフェテラスで茶飲み話。高台にあり、見晴らしがいいので気分が開放的になる。

 午後は、新聞記者(じょせい)が来訪。町の中央部を流れる竹田川のことを中心に、約二時間の歓談。

 入れ替わるようにKさん(じょせい)が来訪し、話題は飲み会のスケヂュール調整のこととなった。

 夜は、年寄り四人で選挙の話。来年が統一地方選であるのに加えて、にわかに国会解散の話が信憑性をおびてきた。
 とすると、年末から騒がしくなる。自公政権が嫌いなぼくは、そのことを念頭において考えていきたい。


 皆が帰ってからテレビをつけたら、日米野球の真っ最中で、解説席に江川卓がいる。プロ野球に入る時に「空白の一日」とかのわけのわからないものを考案したり、ドラフトで阪神入団が決まったあとも、当時の巨人エース・小林繁を阪神に追いやっての交換トレードで巨人入りを決めたりしたこのごりおし男が嫌いだったが、幾星霜で言葉づかいに含蓄がでてきたように感じた。人間、若いときにはわがままなほうがいいのかもしれない。


 それはともかく
 あちこちで橋梁補強工事をやっているのが気になって、竹田川に架かる橋を調べてみました。

橋名  橋長m  橋幅m  竣工  工事費・万円 
 県道 金津橋  88.7  13.5 s49.12  13,032.00
 町道 下新橋  52  7   s35.12  未詳
 県道 金津大橋  50  6.1  s25.3  427.4
 町道 上新橋  52  6  s31.5  未詳
 町道 浦安橋  76.6  9.6  s53.3  7,845.20
 町道 御迎橋  100  6  s46.3  4,338.80
 県道 清間橋  97.9  6.5  s48.1  8,717.10
 県道 桑原橋  90  7.5  s45不明  6,001.40
 町道 石塚橋  85  5  s43.10  7,076.00

 冬の到来で竹田川にもぼちぼち鴨の群れが見え始めた。極寒の極東ロシアから暖を求めてやってきた彼ら彼女らだが、もとより税関を通る必要もない。旅のリスクは猛禽類による襲撃と洋上での暴風雨つまり自然そのものだけだ。ここが人類と決定的に違う点で、人類の場合は世界百数十カ国がそれぞれに境界線を持っていて国家間の紛争の火種にもなっている。
 境界線の決定は必ずしも隣接二か国の相互了解押印によるものではない。相対的により強い火器を持つ軍隊の力によって腕力任せで線を引かれる場合もある。ずっとさかのぼって、数千年の昔は国家などあったはずがない。
 我が日本の場合も縄文期には小さな集落があっただけなのに、西暦二百年代に部族間の抗争が激しくなり、結局は卑弥呼ひきいる邪馬台国が抗争に勝利し、初めて国家というものを持った。抗争は余剰の富の奪い合いを目的として起こる。
 程度問題かもしれないが、余剰の富を持たなければ、紛争つまり戦争が起きることはない。


 2014/11/12 (水) はるかに照らせ 山の端の月 


 
暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かにてらせ 山の端の月   和泉式部

 愛する娘・小式部内侍を失い途方に暮れた彼女は、山道を歩いている。山道は闇に包まれてきた。見上げると、月が顔を出すところだ。「お月様・・はやく出てきてください。私が行く道を明るく照らしてください」・・くらいの意味だろう。
 和泉式部はどこへ行こうとしていたのだろう。照らしてくださる月とは、なんだったんだろうか。


  それはともかく、
「 あることを調べていて、「遊郭番付表」(18世紀なか頃発行)を入手しました。暇だったらお読みください。

北南
西東
長崎 寄合町 七十五目ヨリ五十匁○○テ 京都 島原 七十目ヨリ十九目
大阪 新町 六十四ヨリ三十匁○○ 江戸 深川 十五匁ヨリダンダン
長門 下関 二十五匁ヨリダンダン 越後 新潟 八匁五分ヨリダンダン
大阪 道頓堀 二十匁ヨリダンダン 江戸 品川 十五匁ヨリダンダン
堺 ちち里 越前 三国 六十五匁ヨリダンダン
播磨 室津 二十匁ヨリダンダン 江戸 四ツ谷新宿 十匁ヨリ五百文
近江 八幡 二十八匁ヨリダンダン 伏見 撞木町  三十匁ヨリダンダン
備州 尾野道 越後 今町 十匁ヨリダンダン
宮島 大阪町 出羽 酒田今町 十九匁ヨリダンダン
兵庫 磯ノ町 十五匁ヨリダンダン 江戸 根津 七匁ヨリダンダン
宮島 大阪町 越中 水戸尻 二十匁ヨリダンダン
豊後 仲津 十五匁ヨリダンダン 越前 金津
下段値段省略
河内 牧潟 伊勢 古市
筑前 鵜野 越前 敦賀
讃岐 金毘羅前 南部 盛岡仙北町
駿府 二丁町 常陸 潮来
近江 大津 津軽 青森
豊後 宇佐八幡 水戸 盤井町
尾張 美屋 出羽 秋田湊
奈良 木辻 仙台 塩釜
備中 古道前 下総 銚子
三河 吉田 江戸 音羽
肥後 山室 加賀 金沢卯立
備中 坂○ 江戸 常盤町
肥前 塚崎 信濃 善光寺



 2014/11/11 (火)  きょうもCADにいそしもう


 今の私にとって唯一の楽しみは大相撲テレビ桟敷観戦。しかし、昨日も一昨日も幕内上位対戦の時間帯に来訪客があり、実況を楽しむことができなかった。勿論、お客様へのもてなしが一番嬉しいことなので、ドンマイである。
 夜のニュースの録画で上位対戦を楽しんだのだが、今場所は横綱大関陣が盤石で、後半戦が面白くなりそうだ。
 特に贔屓力士はいないので勝ち負けにはこだわらない。ひたすら技の応酬、力の応酬、気力の応酬を楽しむ(そういえば今場所の解説者は琴欧州だ)。
 気力とは執着力で、執着力とは金銭に対する執着力だ。初代若乃花勝治が「俵のなかにはゼニがうなっている」と言っていたが、これは名セリフだ。相撲道の達人は詩人でもあるのだろう。

 一度だけなまで本場所を見たことがある。30年以上前の名古屋場所。黒塗りの車を降りて、颯爽と控え室に入る羽織姿の力士たちを見ていたのだが、同行の妻は当時人気絶頂だった旭国の大ファンで、伸ばした右手が旭国の肩に触れた時、とても興奮していた。彼は174センチの小兵で、ニックネームは「相撲博士」。

 小学生の頃はいわゆる柏鵬時代で、子供の好きなものの定番は巨人・大鵬・卵焼きと呼ばれていたが、偏屈少年の私にとって好きなものは阪神・柏戸・クラッカーだった。ラジオ実況・柏戸vs大鵬の前には仏壇の扉を開けて正座、合掌し、「今回こそ柏戸関が勝ちますように」と祈ったものだ。今日(こんにち)の私が、神仏への敬虔な祈りの道を歩んでいるその下地は既に小学生時代にできていたと言える。



 2014/11/10 (月) 新しい週の始まり

 昨日は午前八時から坂ノ下八幡神社境内で清掃奉仕。



 境内に行くと魂魄のさまよいが見えるので充実感が出てきます。

 それはともかく
 ひょんなことから手に入った「金津奉行平本(ひらもと)良充(よしみつ)と北潟の窮乏」です。ま、昔の金津には立派な政治家が居たということやね。
2014/11/09 (日) 本日は粗大ゴミ回収の日


福井新聞 平成11年4月11日

金津 浄土信仰南北朝時代から? 蓮如以前の板碑を発見

金津町指中で南北朝時代のものと思われる板碑が見つかった。県内では三番目に古く、板碑に刻まれた文字から、蓮如上人が同町吉崎に滞在、布教を広める以前から浄土信仰の下地があったことを裏づける貴重な資料と見られる。

板碑を発見したのは鯖江市田村町の県文化財保護委員、山本昭治さん(62)。板碑は指中の農道沿いの中央部にあり、高さ百三センチ、幅三十三センチ、厚さ十五センチで安山岩で作られたとみられる。

山本さんによると、板碑の中央部には阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の阿弥陀三尊の梵字が三角形に刻まれている。下部には四行の文字列があり風化して判読不可能なものもあるが一行目の「無縁法界」、二行目の「平等利益之故也」、三行目には時代を表す「応安」(一三六八―七五年)、四行目「念仏一結衆願しゃ」が読みとれる。

 最初の二行は仏教用語で、最後の行は作者を表し、板碑は地元の信仰集団が仏の代わりとして作ったと推測できるとしている。浄土信仰中興の祖、蓮如上人が京都から下向し、金津町吉崎に坊舎を建立したのが一四一年で、それ以前から近辺に信者がいたことを証明している。

 板碑は死者の供養、墓、仏として建てられ、関東地方で多くみられる。県内では春江町井向の白山神社にある板碑(県指定文化財)が鎌倉時代の文永十一(一二七四)年と最も古い。金津町で見つかったのは初めてという。

 山本さんは「南北朝の戦乱の中、人々の幸せを祈って建てられたのだろう。このとき既に浄土信仰が広まる環境があり、蓮如上人が来て一気に拡大していったと思われる」と話している。

 半年前の古い新聞記事で申し訳ないんだけど、昨日の朝にとんぼさん宅でこの記事を見せていただき、蓮如吉崎下向より百年もの昔という点に感慨新たとなり、早速昨晩にキーボードを叩きました。


 それはともかく
 昨日の夕刻に「創作の森」のなかにある喫茶店へ行った時、窓外にムジナを発見した。と言っても、ぼくにはタヌキとムジナの違いもわからないのだが、店主が「あれはムジナや」と言うからそうなのだろう。とてもゆっくりとした動きだ。



2014/11/08 (土) 無題

 インデックス・声の広場-NO513「出稼ぎ事情今昔」の終わりに書いている、長野の知人夫婦が娘さんを癌で亡くした話は、数年前にとんぼさんから聞き、生前の和服姿の美しい写真を見せていただいた。ちょうどその時に最愛の(ひと)を亡くして虚無感・無常観にさいなまされていた私の脳裏に、何故かわからないが、一筋の光が走ったような気がする。

 それはさておき
 昨日の朝の来訪者は二名。うち一名は、名前も対談の内容も隅々までちゃんと覚えているが、次の来訪者がなかなか思い出せなかった。明らかに記憶力が衰えているのだ。しかし、そう思ったのではあまりにも寂しい。私は、忘却力が強くなっていると思うことにした。

 例えば、脳内出血によるマヒで足が動きにくくなったのは幼児への回帰力増進のあらわれで、視力の減退は無明長夜への志向性のたかまりで、食欲の減退はグルメに対する諌めのココロの顕現だエトセトラと思うことで、「きょうも元気だ。頑張ろう」の気分を維持できるのである。

2014/11/07 (金) もう週末か

 宮尾登美子著「鬼龍院花子の生涯」を読み終えた。これで、「蔵」「櫂」と続けて三冊読んだことになる。
 宮尾は1926年4月に高知の遊郭で芸妓紹介業を営む家に生まれる。私のお袋より四か月若いだけのつまり同世代で、生まれた環境もよく似ているので、興味を持って読んだ。インテリの宮尾と庶民のお袋との間に大きな隔たりがあるのは当然としても、大正・昭和前期を感受した精神世界は同じなんだろう、と思った。

 宮尾の書く小説世界には「血のつながり」による憎悪が色濃く流れている。私の昔の友人に、「イデオロギーは血よりも濃し」と言って親から勘当された者が二人いるが、そういう言葉が出るか出ないかは、時代背景の違いによるものだろう。

 それはともかく
 昨日の朝の来訪者は若い人だった。大学二年生で、彼女は「金津町の郷土史を勉強しています」という。時間の制約があるなかで、できるだけいろいろしゃべったが、今の付き合い相手は年寄りばかりの私は、極度に緊張してしゃべった。私が今業平(いまなりひら)と呼ばれたのは既に過去のことだ。


2014/11/06 (木) ちょっと考えたこと

 「俳諧は夏炉冬扇の如し」と芭蕉は書いたが、世の中、無用なものこそ面白いと昔から思っていた。赤瀬川源平らのトマソン現象観察などその典型で、できるなら、自分の人生そのものも、食っていけるならそうありたい。

 ということで、早朝に竹田川堤防沿いを歩いた。



 全国どこにでもある何の変哲もない川だけど、見飽きない。毎日のように見続けているから、新発見があるのだ。この川の最上流には、時間の止まった場所・「蕎麦河戸」がある。河戸には二尺×六尺の笏谷石が沈んでいる。蕎麦河戸神社境内の巨木には沢山の釘跡がついている。昔一緒に行った郷土史家の話によれば、若い女性が持って来た人型人形を、呪いのセリフとともに釘打ちしていたそうだ。勿論、呪いの対象は「あたしを捨てた憎い男」である。捨てられたことは何度もあるが、捨てたこと皆無の私はほっとしている。


2014/11/05 (水) いただいた薩摩焼酎を飲みながら

 昨日の午後は月命日ということで、その場に出るつもりだったのだけれども、立て続けに四人の来訪客があったので、結局、出ることができなかった。既に現世と来世を往還し続けているぼくにとって、セレモニーは縁遠く感じられるのだから、それはそれでいい。

 それはともかく
 来訪者のひとりとの話のテーマが「地域の歴史の語り部育成」だったが、どうやらそのひとは観光課あたりから相談を受けているらしい。来春の新幹線金沢駅延伸時からのあわら市への誘客戦略の一環だそうだが、思うに促成栽培では無理だ。語りが相手の鼓膜への到達だけなら、アナウンサーでもできる。語りが相手の胃の淵へ沈み込むものでないと、リピーターをつくれない。

 ま、そんなことはどうでもいいことなのでおくとして
 ことしの日本シリーズにはがっかりさせられた。クライマックスシリーズで巨人をたたきのめした猛虎は日本シリーズに入ると、突然、借猫に変身した。ずうっと阪神一筋だったが、65歳で高齢者の仲間入りしたのをきっかけに他のチームを贔屓としようかな。
 監督の好みから言うと、①にオリックス・森脇監督、②に西武・伊東監督で、③以下はなし。
 しかしながら監督は数年で変わってしまうのでファンとしての持続がむつかしいのが問題だ。

 それはともかく
  きょうの午後の来訪(としま)女性が「古事記を太安万侶が筆録した際の暗誦人・稗田阿礼は男ですか?女ですか?。女だとする説もあるんですよ」と言う。ぼくは、何故かわからないけれどもてっきり男だと思っていた。でも考えてみると女かもしれない。女は執念深く、執念深いということは、記憶力があるということだから。


2014/11/04 (火) 静かな夜明け

 数日前にテレビをつけると、五木寛之がしゃべっている。著書「親鸞」を読んだところだったので、興味を持って聴いていた。インタビュアーが「五木さんが小説を書くうえでの基本的な人間観は?」と問うたところ、「偉い人、有名人、出世頭はみんなばかだという思いがあります。だって、階段を登るための手練手管で、素朴であったはずの()のままの自分が消えていくんですから」と、答えている。

 私は、この人の本は少ししか読んでいないが、変わったところのエピソードは仄聞している。

その① 年間を通して髪は殆んど洗わない。年間を通して歯は殆んど磨かない。→つまり不潔な人間なのだが、女優に一番もてたのが彼だという。端正な顔立ちなので、少々の不潔さは隠し味になるのだろう。うらやましいことだ。

その② 私が福井県PTA連合会の副を仰せつかっていた16年ほど前、東海ブロックの総会が名古屋で開かれた。三千人ほどが集まる総会での記念講演を五木に頼むことになったのだが、連絡がとれないので、他の人になったとのこと。要するに、(少なくともその頃の)彼は住所不定で神出鬼没だったのだそうだ。


2014/11/03 (月) 新しい週の始まり

 パソコンが壊れてブログを書けなかったこの二週間の間に「世間」がさわがしくなってきたような気がする。勿論、新聞を読まずTVも見なくなった私は井の中の蛙であり、必然的に「世間」は半径2km以内での見聞きでしかないのだが、とにかくさわがしくなってきたような気がする。
 来年は、統一地方選の年なのだ。春先に県会議員の選挙、あわら市長選、加えてあわら市議補選もがあるという。およそそういうことに興味のなくなった私にさえその(たぐい)の情報がいろいろ入ってきて、さわがしさを感じるのである。

 どの選挙に誰が出ようとそれは全く自由だけれど、相手を中傷する選挙戦であってはならない。もしそういう選挙戦となったならば、それはあわら市民にとってとても不幸なことで、政策レベルで相手と論戦する気構えが不可欠だ。
 付け加えるならば、マイクを持つ立候補者の横に手話通訳者が立つのが望ましい。あわら市内にも認定通訳者が育ってきている。相対的に少数ではあっても選挙権のある聾者に政策を訴えなかったならば、これは障害者差別ということになる。
 最近、あわら市の女性職員の何人かに手話を教えている私はそう思う。

それはともかくとして
 一週間前の日曜日に、私は「きのこ列車」の旅を楽しんだ。議員時代には浴びるくらいに視察研修の旅があったものだが、議員を辞めてからは一切そういうものがなくなったのを憐れんでくださったのか、あるひとに誘われての旅だった。
 車両を借り切って、窓外の枯野風景を楽しみながら、きのこづくし(マッタケ・シイタケ・シメジエトセトラ)の弁当を食べるという贅沢三昧の旅だったが、一年に一回ぐらい体験するのは、悪くない。





 それはともかく
 一昨日と昨日と、私の愛車ケトラの荷台に、とれとれの果樹が置いてありました。一昨日はひとかかえもある柿の実で、昨日はひとかかえもある薩摩芋が置いてありました。恐らく夜間に持ってきてくださったのでしょうが、7時就寝の私には受け取る(すべ)がありません。私のファンの90%は女性ですが、どうも女性の手に負える量ではなく、従って数少ない男性友人からのプレゼントだと思うのです。見当がつきません。 お礼を申し上げたいので、どうかご一報ください。

 それはともかく
 本日の
声の広場読んで、私は感謝感激雨あられですありがとうございます。

 
2014/11/01 (土) お久しぶりです

 ノートパソコンの調子がおかしくなり、購入した店へ持っていったところ、「ハードデイスクが壊れている。修理のために、本社工場へ送らなければなければならない。戻ってくるまでに、二週間程はかかる」と言われた。
 その間、CADができないのは大きな痛手だったが、「仕方ない、臥薪嘗胆だ」と諦め、ひたすら読書にいそしんでいたのだが、その間に、赤瀬川原平が亡くなったので、15年ほど前に読んだ「老人力」を再読した。
そのなかの「物忘れの力はどこから出るのか」を紹介。

・・老人力はエネルギーではあるけど、かなり複雑なエネルギーである。
 簡単にそれを手に入れることはできない。
 たとえば、山を登り、谷を渡り、崖伝いに歩いたりして、断崖を飛び越え、滝壺の底を潜り、洞窟を抜け出て、命からがらたどり着いた蒲団の上で、やっと手に入れることのできる秘密の力、とでもいうようなのが老人力というものだから簡単にはいかないのである。
 そもそも老人になるというのが、小、中、高、と学校へ行って、足りない人は大にも行くが、その間バイトをしたり、人によっては刑務所に入ったり、結婚したり離婚したり、倒産したり、夜逃げしたり、うまくいったとしても糖尿病になったり、肝硬変になったり、歩道橋を渡ったり、立ち食いそばを食べたり、立ち小便を人に見られたり、とにかくありとあらゆる苦労の末にやっとなるのが老人である。
 あ、老人か、なるほど、格好いいなあといって、五万円払って老人になる、というわけにはいかないのである。
 そういう貴重な得難い老人力なんだけど、意外とみんなに嫌がられている。みんな物を忘れたり、よぼよぼするのが嫌だからである。
 みんな物を覚えたい、できるだけ情報をたくさん欲しい、と思っている。
 老人力の特徴としては物を忘れる、体力を弱める、足どりをおぼつかなくさせる、よだれを垂らす、視力のソフトフォーカス、あるいは目の前の物の二重視、物語の繰り返し、等々いろいろあるが、それをみんな嫌がる。
 とにかく世間的な風潮としては、物を覚えたい、体力をつけたい、足どりをしっかりしたい、よだれは垂らさない、視力ははっきり、お話は簡潔に一度で、ということモットーにしている。いわゆるプラ志向ということだけど、プラスが全部プラスになるとは限らないのだ。
 たとえばプロ野球の世界で老人力が必要とされている事実は、あまり知られていない。
 一見強そうな選手でも、老人力に欠けているのはなかなか一軍へ上がれない。
 若者に老人力などあるものか、と思われるかもしれないが、じつはあるのである。
 本人も気がつかない形で、じつは体内で老人力は生きている。
 プロ野球選手になるくらいの人は、みんな体力がある。ふつう以上に体力をつけた人でないと、プロ野球選手にはなれない。ではそのプロ野球選手の中でいちばん体力をつけたものがいちばんいいかというと、じつはそうでもない。
 たとえば試合中、二死満塁の場面、監督がタイムをとって出て来て、バッターの肩に手をかけてうつむきながら、「力を抜いて行け」と言ったりする。これ、間違ってると思いませんか。力をつけにつけて、やっとプロ野球選手になったのに、ここへ来て、力を抜けといわれる。
 でも事実はそういうことで、力を抜かずにリキんで打って内野フライ、万事休す、というのが多いが、うまく力を抜いて打ったら右中間まっぷたつで走者一掃の三塁打、ということ である。・・・