2015年01月(21-31)

  2015/01/31 (土) 1月最終日

 きょうで一月も終わり。なんにもせんうちに一月が終ってしまった。

 そこで、昨年読んだ小説のいくつかを思い浮かべていたのだが、下記が確かに印象に残った一つに入る。

山本兼一 利休にたずねよ

あめや長次郎

利休切腹の六年前

天正十三年(1585)十一月某日

京 堀川一条

 京の堀川は、細い流れである。

一条通に、ちいさな橋がかかっている。

王朝のころ、文章博士の葬列が、この橋をわたったとき、雷鳴とともに博士が生き返った・・。

そんな伝説から、橋は戻り橋とよばれている。冥界からこの世にもどってくる橋である。

その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。

「関白殿下が、新しく御殿を築かれる。ここで瓦を焼くがよい」

京奉行の前田玄以に命じられて、土地をもらったのである。

聚楽第と名付けられた御殿は、広大なうえ、とてつもなく豪華絢爛で、まわりには家来たちの屋敷が建ちならぶらしい。

すでに大勢の瓦師が集められているが、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔よけの飾り瓦である。

長次郎が鏝とヘラをにぎるとただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となり、天に咆哮する。

虎のからだに龍の腹をした鬼龍子が、背をそびやかして悪鬼邪神をにらみつける。

「上様は玉の虎と、金の龍をご所望だ。お気に召せば、大枚のご褒美がいただけるぞ」

僧形の前田玄以が請けあった。

「かしこまった」

すぐに準備にかかった。

まずは、住む家を新しく建てさせ、弟子たちと移った。

そこに大きな窯を築いて、よい土を集めた。

池を掘り、足で土をこねる。

乾かし、釉薬をかけて焼く。

今日は、焼き上がった瓦の窯出しである。

「こんなもんや。ええできやないか」

弟子が窯から取りだしたばかりの赤い獅子のできばえに、長次郎は大いに満足した。

獅子は、太い尻尾を高々とかかげ、鬣を逆立てて牙を剥き、大きな目で、前方をにらみつけている。

長次郎が、あめやの屋号をつかって、夕焼けのごとき赤でも、玉のごとき碧でも、自在に色を

つけられるからである。

明国からわたってきた父が、その調合法を知っていた。

しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。なんども失敗をくり返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。

なんども失敗を繰り返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。

長次郎の子も、窯場ではたらいているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。

・・一子相伝にあぐらをかいたら、人間甘えたになる。家はそこでおしまいや。

父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである・・。それが父の教えだった。

まだぬくもりの残る窯のなかから、弟子たちがつぎつぎと飾り瓦を運び出してくる。

いずれも高さ一尺ばかり。

できばえは文句なしにみごとである。

龍のつかむところに雲があり、虎のにらむところに魔物がいるようだ。

得意な獅子も焼いた。

造形もうまくいったが、赤い釉薬がことのほかいい。

冬ながら、空は晴れて明るい陽射しが満ちている。

その光を浴びて、獅子にかかった釉薬が銀色に反射した。

「いい色だ」

長次郎の背中で、太い声がひびいた。

ふり返ると、大柄な老人がのぞき込んでいた。

宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。真面目そうな顔の供をつれているところを見れば、怪しい者ではないらしい。

「なんや、あんた」

釜場には、まだ塀も柵もない。こんな見知らぬ人間が、かってに入ってくるようなら、すぐに塀で囲ったほうがいいと、長次郎はおもった。

「ああご挨拶があとになってしまいました。わたしは千宗易という茶の湯の数寄者。長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」

ていねいな物腰で、頭をさげている。

長次郎は、宗易の名を聞いたことがある。関白秀吉につかえる茶頭で、このあいだ内裏に上がって、利休という勅号を賜ったと評判の男だ。

「飾り瓦のことやったら、まずは、関白殿下がさきや。あんたも聚楽第に屋敷を建てるんやろうが、ほかにも大勢注文がある。順番を待ってもらわんとあかん」

権勢を笠に着てごり押しするような男なら追い返そうと思ったが、老人は腰が低い。

「いや、瓦のことではない。茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」

長次郎はすぐに首をふった。

「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」

話は穏やかだが、宗易という老人は、粘りのつよい話し方をした。

・・人間そのものは粘っこいのや。

長次郎はそう感じながらも、宗易のたたずまいに惹かれた。

・・この爺さん、なんや得体が知れん。

ただそこに立っているだけなのに、釜場の空気がひき締まるような、不思議な重みがある。

・・よほどの数寄者にちがいない。

長次郎の直観が、そうささやいている。

「窯出しが終わったら、お話をうかがいましょ。それで、よろしいか」

「けっこうです。おや、あの虎は、とくにできがいい。天にむかって吠えている」

いま弟子が窯から出してきたばかりの虎は、ずらっとならんでいるなかでも、いちばんよいできである。

長次郎は、宗易の目利きのするどさに驚いた。

 

 

 この本は24の章で成り立っている。

・死を賜る 利休

・おごりをきわめ 秀吉

・知るも知らぬも 細川忠興

・大徳寺破却 古渓宋陳

・ひょうげもの也 古田織部

・木守 徳川家康

・狂言の袴 石田光成

・鳥籠の水入れ ヴァリニャーノ

・うたかた 利休

・ことしかぎりの 宗恩

・こうらいの関白 利休

・野菊 秀吉

・西ヲ東ト 山上宗二

・三毒の焔 古渓宋陳

・北野大茶会 利休

・ふすべ茶の湯 秀吉

・黄金の茶室 利休

・白い手 あめや長次郎

・待つ 千宗易

・名物狩り 織田信長

・もう一人の女 たえ

・紹鴎の招き 武野紹鴎

・恋 千与四郎

・夢のあとさき 宗恩

 

 たとえば

 ・野菊 秀吉

 利休切腹の前年

 天正十八年(1590)九月二十三日 朝

 京 聚楽第 四畳半

 

 「・・利休が膝をにじって、床の前にすすんだ。

 ・・さてあやつめ、どうするか

 秀吉が障子窓のすきまに顔をつけた。

 利休の背中にも、肩にも、手のうごきにも、逡巡はない。

 ・・なにも迷わぬのか。

 なんのためらいもなく両手をのばした利休は、左手を天目台にそえて、右手で野菊をすうっとひきだし、床の畳に置いた。

 天目茶碗を手に点前座にもどると、水指の前に茶碗と茶人、茶碗をならべ、一礼ののち、よどみなく点前に取りかかった。

 茶を点てている利休は、見栄も衒いも欲得もなく、ただ一服の茶を点てることに、心底ひたりきっているようである。

 といって、どこかに気張ったようすが見られるわけではない。あくまで自然体でいるのが、よけい小憎らしい。

 床畳に残された野菊の花は、遠浦帰帆の図を背にして、洞庭湖の岸辺でゆれているように見える。

 秀吉は、途端に機嫌が悪くなった。

 むかむかと腹が立つ。

 それでも、最後のしまつはどうするのかと、そのまま見ていた。

 三人の客が茶を飲み終え、官兵衛が鴨肩衝の拝見を所望した。

 客が茶人を見ているあいだに、利休は水指から天目茶碗まで洞庫にかたづけた。

 拝見の終わった鴨肩衝を、仕覆に入れ、利休は膝をにじって床前に進んだ。

 置いてあった野菊の花を取り、床の勝手のほうの隅に寄せかけた。

 鴨肩衝を床に置くと、利休はまた点前座にもどった。

 床の隅に置かれた野菊の花は、すこし涸れて見える。

 ・・負けた。

 秀吉は、利休を笑ってやろうとした自分のたくらみが、野菊の花と同じように涸れてしまったのを感じた。

 なんのことはない。むしろ、笑われているのは自分であった。・・」

 

 たとえば

 ・西ヲ東ト 山上宗二

 利休切腹の前年

 天正十八年(1590)四月十一日 朝

 箱根 湯本 平雲寺

 

 ・・山上宗二に秀吉が問う。

 「おまえが茶の湯者というなら、身ひとつでここにまいっても、なにか道具を持って来たであろうな」

 「むろんにございます」

 宗二は懐から、仕覆を取り出してひろげた。なかは、端の反った井戸茶碗である。すこし赤みがかかった黄土色が、侘びていながら艶やかな印象をかもしている。

 秀吉が、その茶碗を手に取って眺めた。黙って見つめている。

 やがて、薄いくちびるを開いた。

 「つまらぬ茶碗じゃな」

 

 乱暴に置いたので、茶碗が畳を転がった。

 「なにをなさいます」

 宗二はあわてて手をのばし、茶碗をつかんだ。

 「さような下卑た茶碗、わしは好かぬ。そうだ。割ってから金で接がせよう。おもしろい茶碗になるぞ」

 「くだらん」

 宗二が吐きすてるようにいった。

 「こらッ」

 利休は大声で宗二を叱った。

 「こともあろうに、関白殿下に向かって、なんというご無礼。さがれ、とっととさがれ」

 立ち上がった利休が、宗二の襟首をつかんだ。そのまま茶道口に引きずった。

 「待て」

 冷やかにひびいたのは、秀吉の声だ。

 「下がることは相成らん。庭に引きずり出せ。おい、こいつを庭に連れ出して、耳と鼻を削げ」

 秀吉の大声が響きわたると、たちまち武者たちがあらわれて、宗二を庭に引きずり降ろした。

 「お許しください。お許しください。どうか、お許しください」

 平伏したのは、利休であった。

 「お師匠さま。いかに天下人といえど、わが茶の好みを愚弄されて、謝る必要はありますまい。この宗二、そこまで人に阿らぬ。やるならやれ。みごとに散って見せよう」

 立ち上がると、すぐに取り押さえられた。秀吉の命令そのままに、耳を削がれ、鼻を削がれた。血にまみれた宗二は、呻きもせず、秀吉をにらみつけていた。痛みなど感じなかった。怒りと口惜しさがないまぜになって滾っている。

 「お許しください。憐れな命ひとつ、お慈悲にてお許しください」

 利休が、地に頭をすりつけて秀吉に懇願した。

 宗二は意地でも謝るつもりはない。秀吉としばらくにらみ合った。

 「首を刎ねよ」

 秀吉がつぶやくと、宗二の頭上で白刃がひるがえった。・・ 

 

 たとえば

 ・白い手 あめや長次郎

  利休切腹の六年前

 天正十三年(1585)十一月某日

 京 堀川一条

 

 京の堀川は、細い流れである。

 一条通に、ちいさな橋がかかっている。

 王朝のころ、文章博士の葬列が、この橋をわたったとき、雷鳴とともに博士が生き返った・・。

 そんな伝説から、橋は戻り橋とよばれている。冥界からこの世にもどってくる橋である。

 その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。

 「関白殿下が、新しく御殿を築かれる。ここで瓦を焼くがよい」

 京奉行の前田玄以に命じられて、土地をもらったのである。

 聚楽第と名付けられた御殿は、広大なうえ、とてつもなく豪華絢爛で、まわりには家来たちの屋敷が建ちならぶらしい。

 すでに大勢の瓦師が集められているが、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔よけの飾り瓦である。

 長次郎が鏝とヘラをにぎるとただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となり、天に咆哮する。

 虎のからだに龍の腹をした鬼龍子が、背をそびやかして悪鬼邪神をにらみつける。

 「上様は玉の虎と、金の龍をご所望だ。お気に召せば、大枚のご褒美がいただけるぞ」

 僧形の前田玄以が請けあった。

 「かしこまった」

 すぐに準備にかかった。

 まずは、住む家を新しく建てさせ、弟子たちと移った。

 そこに大きな窯を築いて、よい土を集めた。

 池を掘り、足で土をこねる。

 乾かし、釉薬をかけて焼く。

 今日は、焼き上がった瓦の窯出しである。

 「こんなもんや。ええできやないか」

 弟子が窯から取りだしたばかりの赤い獅子のできばえに、長次郎は大いに満足した。

 獅子は、太い尻尾を高々とかかげ、鬣を逆立てて牙を剥き、大きな目で、前方をにらみつけている。

 長次郎が、あめやの屋号をつかって、夕焼けのごとき赤でも、玉のごとき碧でも、自在に色をつけられるからである。

明国からわたってきた父が、その調合法を知っていた。

 しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。なんども失敗をくり返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。

 なんども失敗を繰り返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。

 長次郎の子も、窯場ではたらいているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。

 ・・一子相伝にあぐらをかいたら、人間甘えたになる。家はそこでおしまいや。

 父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである・・。それが父の教えだった。

 まだぬくもりの残る窯のなかから、弟子たちがつぎつぎと飾り瓦を運び出してくる。

 いずれも高さ一尺ばかり。

 できばえは文句なしにみごとである。

 龍のつかむところに雲があり、虎のにらむところに魔物がいるようだ。

 得意な獅子も焼いた。

 造形もうまくいったが、赤い釉薬がことのほかいい。

 冬ながら、空は晴れて明るい陽射しが満ちている。

 その光を浴びて、獅子にかかった釉薬が銀色に反射した。

 「いい色だ」

 長次郎の背中で、太い声がひびいた。

 ふり返ると、大柄な老人がのぞき込んでいた。

 宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。真面目そうな顔の供をつれているところを見れば、怪しい者ではないらしい。

「なんや、あんた」

釜場には、まだ塀も柵もない。こんな見知らぬ人間が、かってに入ってくるようなら、すぐに塀で囲ったほうがいいと、長次郎はおもった。

 「ああご挨拶があとになってしまいました。わたしは千宗易という茶の湯の数寄者。長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」

 ていねいな物腰で、頭をさげている。

 長次郎は、宗易の名を聞いたことがある。関白秀吉につかえる茶頭で、このあいだ内裏に上がって、利休という勅号を賜ったと評判の男だ。

 「飾り瓦のことやったら、まずは、関白殿下がさきや。あんたも聚楽第に屋敷を建てるんやろうが、ほかにも大勢注文がある。順番を待ってもらわんとあかん」

 権勢を笠に着てごり押しするような男なら追い返そうと思ったが、老人は腰が低い。

 「いや、瓦のことではない。茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」

 長次郎はすぐに首をふった。

 「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」

 話は穏やかだが、宗易という老人は、粘りのつよい話し方をした。

 ・・人間そのものは粘っこいのや。

 長次郎はそう感じながらも、宗易のたたずまいに惹かれた。

 ・・この爺さん、なんや得体が知れん。

 ただそこに立っているだけなのに、釜場の空気がひき締まるような、不思議な重みがある。

 ・・よほどの数寄者にちがいない。

 長次郎の直観が、そうささやいている。

 「窯出しが終わったら、お話をうかがいましょ。それで、よろしいか」

 「けっこうです。おや、あの虎は、とくにできがいい。天にむかって吠えている」

 いま弟子が窯から出してきたばかりの虎は、ずらっとならんでいるなかでも、いちばんよいできである。

 長次郎は、宗易の目利きのするどさに驚いた。

山本周五郎  長い坂  01401

 主人公・阿部小三郎の父・小左衛門は〇〇藩で20石どりの組頭つまり下級役人だ。

 父・小左衛門は「なにごとにつけ御身大切。不正があっても眼をつむり大過なく日々を過ごすこと」を信条とする典型的な公務員で、小三郎は幼少時から「これが俺の本当の父親か。本当の父親は他にいるのではないか」との疑念を抱くようになりそのまま成長する。

 

この城下には藩校が二つある。一つは尚功館といって、中以上の家格の子弟のために設けられたものであり、学問の技術も武術の師範も、第一級の人が選ばれている。他の一つは藤明塾といい、これには中以下の侍の子弟や、町屋の者も入学することができる。

 8歳の小三郎は身分の制限故に藤明塾に入ったが、学術武術に群を抜いていた彼は藤明塾塾員でいることに飽き足らず、周囲の反対を押し切って尚功館へ転入する。

 

 尚功館でも発揮された小三郎の類い稀な文武の才能は藩主・昌治の眼に留まり、彼は昌治の側近となる。

しかしそれは彼の本意ではなかった。彼は「武士の道は民百姓をいかにして苛斂誅求から守るか民百姓をいかに幸せにするか」の一点にあり、えらいさんなんか関係ねえよだった。要するに、後年、福澤諭吉がとなえた「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず」の文言を数十年前にとなえていたのだった。

 

 彼は藩主の命により、新田開発のために藩内を流れる大川の堰堤づくりに着手する。他の堰堤の資料を調べ水面高を測量し木杭を調達し、雪の降るなかでの作業はまことに厳しいものだった。(一昨年に「ふるさと語ろう会」で九頭竜川堰堤を見学に行き、係員から堰堤づくりの経過を聞いていたのでその困難さはよくわかる)

 

 又、江戸詰めの反藩主勢力により度々の妨害も受ける。藩主と小三郎が堰堤を視察していた時、5人の武士が突然現われて二人に切りかかった。この時、小三郎は少しもあわてず、5人の武士全てを心臓一突きで殺してしまった。まさに妖刀使いの小三郎。

 

・・・兵部はまた、樹が呼吸することに気づいた。陽が昇ってから森へはいると、檜も杉も、その幹や枝葉から香気を放つが、その匂いかたには波があり、匂わなくなったり、急にまた匂いはじめるのである。里では桃が咲き、桜も咲き出していたようだ。大平からの遠望だからよくはわからないが、もう三月にはいって、春もたけなわであり高いこの山の上にも春がうごきだし、杉も檜も眠りからさめたのであろう。樹幹の発する

香気が一定ではなく、弱くなり強くなるのは、それらの樹が明らかに呼吸していることを示している。「まるで人間のように」と兵部は太い杉の幹に手を当てながら呟いた。「おまえはくちもきけず動くことも

できない。百年でも五百年でも、同じ立ったままで生き続けなければならない。けれども人間や毛物と同じように、生きていることは事実だし、このとおり呼吸さえしている。ことによると、われわれのじたばたしている姿を見て、羨んだり嘲笑したりするだけの感情さえあるのではないか」

 

 「阿部小三郎でもなく、三浦主水生であってもならないとおれは思ったことがある。」・・おれはこの新畠ではもとという名の人足だ。ななえも小三郎もおれ自身とは関係がない。根本的にはべつの世界の人間なのだ。おれは小三郎の昔から独りだった。いまも独りだしこれからも独りだ、なにかする男はいつも独りでなければならない」

 老人だからといって、独りで涙をながすようなことがないわけではない、という米村青淵の言葉が思いうかんだ。

老いて気力を喪失した滝沢主殿。酒びたりで怠け放題に怠け、しかも死ぬときには、草臥れはてた、と云ったという宗厳寺の和尚。みんな独りだった。谷宗岳先生も、妻子がありながらこんな田舎に招かれて来て、若い側女に子を産ませ、つつましやかに寺子屋のような仕事に背をかがめているという。

だが実際にはその側女にも、側女の産んだ子にも心はつながっていないに相違ない。女には家があり子供がある。女には自分の巣がある、けれども男に巣はない、男はいつも独りだ。

 「独りだからこそ、男には仕事ができる」と主水生は声に出して呟いた。「特にいまのおれは、恩愛にも友情にもとらわれてはならない、男にもほかの生きかたはある。男としての人間らしい生きかたは数かぎりなくあるだろうが、おれだけはそうあってはならない。おれには男として人間らしい生きかたをするまえに、侍としてはたすべき責任、

飛騨守の殿がそう思い立たれたように、侍としてなすべきことをしなければならない、そしてこれはおれ自身の選んだ道だ」

こういう三浦主水生のヒューマニテイあふれる独白を読んだ時、「翻って私の人生はなんだったのだろうか」と考えた。

  2015/01/31 (土) 1月最終日

 きょうで一月も終わり。なんにもせんうちに一月が終ってしまった。

 そこで、昨年読んだ小説のいくつかを思い浮かべていたのだが、下記が確かに印象に残った一つに入る。

山本兼一 利休にたずねよ

あめや長次郎

利休切腹の六年前

天正十三年(1585)十一月某日

京 堀川一条

 京の堀川は、細い流れである。

一条通に、ちいさな橋がかかっている。

王朝のころ、文章博士の葬列が、この橋をわたったとき、雷鳴とともに博士が生き返った・・。

そんな伝説から、橋は戻り橋とよばれている。冥界からこの世にもどってくる橋である。

その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。

「関白殿下が、新しく御殿を築かれる。ここで瓦を焼くがよい」

京奉行の前田玄以に命じられて、土地をもらったのである。

聚楽第と名付けられた御殿は、広大なうえ、とてつもなく豪華絢爛で、まわりには家来たちの屋敷が建ちならぶらしい。

すでに大勢の瓦師が集められているが、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔よけの飾り瓦である。

長次郎が鏝とヘラをにぎるとただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となり、天に咆哮する。

虎のからだに龍の腹をした鬼龍子が、背をそびやかして悪鬼邪神をにらみつける。

「上様は玉の虎と、金の龍をご所望だ。お気に召せば、大枚のご褒美がいただけるぞ」

僧形の前田玄以が請けあった。

「かしこまった」

すぐに準備にかかった。

まずは、住む家を新しく建てさせ、弟子たちと移った。

そこに大きな窯を築いて、よい土を集めた。

池を掘り、足で土をこねる。

乾かし、釉薬をかけて焼く。

今日は、焼き上がった瓦の窯出しである。

「こんなもんや。ええできやないか」

弟子が窯から取りだしたばかりの赤い獅子のできばえに、長次郎は大いに満足した。

獅子は、太い尻尾を高々とかかげ、鬣を逆立てて牙を剥き、大きな目で、前方をにらみつけている。

長次郎が、あめやの屋号をつかって、夕焼けのごとき赤でも、玉のごとき碧でも、自在に色を

つけられるからである。

明国からわたってきた父が、その調合法を知っていた。

しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。なんども失敗をくり返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。

なんども失敗を繰り返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。

長次郎の子も、窯場ではたらいているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。

・・一子相伝にあぐらをかいたら、人間甘えたになる。家はそこでおしまいや。

父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである・・。それが父の教えだった。

まだぬくもりの残る窯のなかから、弟子たちがつぎつぎと飾り瓦を運び出してくる。

いずれも高さ一尺ばかり。

できばえは文句なしにみごとである。

龍のつかむところに雲があり、虎のにらむところに魔物がいるようだ。

得意な獅子も焼いた。

造形もうまくいったが、赤い釉薬がことのほかいい。

冬ながら、空は晴れて明るい陽射しが満ちている。

その光を浴びて、獅子にかかった釉薬が銀色に反射した。

「いい色だ」

長次郎の背中で、太い声がひびいた。

ふり返ると、大柄な老人がのぞき込んでいた。

宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。真面目そうな顔の供をつれているところを見れば、怪しい者ではないらしい。

「なんや、あんた」

釜場には、まだ塀も柵もない。こんな見知らぬ人間が、かってに入ってくるようなら、すぐに塀で囲ったほうがいいと、長次郎はおもった。

「ああご挨拶があとになってしまいました。わたしは千宗易という茶の湯の数寄者。長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」

ていねいな物腰で、頭をさげている。

長次郎は、宗易の名を聞いたことがある。関白秀吉につかえる茶頭で、このあいだ内裏に上がって、利休という勅号を賜ったと評判の男だ。

「飾り瓦のことやったら、まずは、関白殿下がさきや。あんたも聚楽第に屋敷を建てるんやろうが、ほかにも大勢注文がある。順番を待ってもらわんとあかん」

権勢を笠に着てごり押しするような男なら追い返そうと思ったが、老人は腰が低い。

「いや、瓦のことではない。茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」

長次郎はすぐに首をふった。

「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」

話は穏やかだが、宗易という老人は、粘りのつよい話し方をした。

・・人間そのものは粘っこいのや。

長次郎はそう感じながらも、宗易のたたずまいに惹かれた。

・・この爺さん、なんや得体が知れん。

ただそこに立っているだけなのに、釜場の空気がひき締まるような、不思議な重みがある。

・・よほどの数寄者にちがいない。

長次郎の直観が、そうささやいている。

「窯出しが終わったら、お話をうかがいましょ。それで、よろしいか」

「けっこうです。おや、あの虎は、とくにできがいい。天にむかって吠えている」

いま弟子が窯から出してきたばかりの虎は、ずらっとならんでいるなかでも、いちばんよいできである。

長次郎は、宗易の目利きのするどさに驚いた。

 

 

 この本は24の章で成り立っている。

・死を賜る 利休

・おごりをきわめ 秀吉

・知るも知らぬも 細川忠興

・大徳寺破却 古渓宋陳

・ひょうげもの也 古田織部

・木守 徳川家康

・狂言の袴 石田光成

・鳥籠の水入れ ヴァリニャーノ

・うたかた 利休

・ことしかぎりの 宗恩

・こうらいの関白 利休

・野菊 秀吉

・西ヲ東ト 山上宗二

・三毒の焔 古渓宋陳

・北野大茶会 利休

・ふすべ茶の湯 秀吉

・黄金の茶室 利休

・白い手 あめや長次郎

・待つ 千宗易

・名物狩り 織田信長

・もう一人の女 たえ

・紹鴎の招き 武野紹鴎

・恋 千与四郎

・夢のあとさき 宗恩

 

 たとえば

 ・野菊 秀吉

 利休切腹の前年

 天正十八年(1590)九月二十三日 朝

 京 聚楽第 四畳半

 

 「・・利休が膝をにじって、床の前にすすんだ。

 ・・さてあやつめ、どうするか

 秀吉が障子窓のすきまに顔をつけた。

 利休の背中にも、肩にも、手のうごきにも、逡巡はない。

 ・・なにも迷わぬのか。

 なんのためらいもなく両手をのばした利休は、左手を天目台にそえて、右手で野菊をすうっとひきだし、床の畳に置いた。

 天目茶碗を手に点前座にもどると、水指の前に茶碗と茶人、茶碗をならべ、一礼ののち、よどみなく点前に取りかかった。

 茶を点てている利休は、見栄も衒いも欲得もなく、ただ一服の茶を点てることに、心底ひたりきっているようである。

 といって、どこかに気張ったようすが見られるわけではない。あくまで自然体でいるのが、よけい小憎らしい。

 床畳に残された野菊の花は、遠浦帰帆の図を背にして、洞庭湖の岸辺でゆれているように見える。

 秀吉は、途端に機嫌が悪くなった。

 むかむかと腹が立つ。

 それでも、最後のしまつはどうするのかと、そのまま見ていた。

 三人の客が茶を飲み終え、官兵衛が鴨肩衝の拝見を所望した。

 客が茶人を見ているあいだに、利休は水指から天目茶碗まで洞庫にかたづけた。

 拝見の終わった鴨肩衝を、仕覆に入れ、利休は膝をにじって床前に進んだ。

 置いてあった野菊の花を取り、床の勝手のほうの隅に寄せかけた。

 鴨肩衝を床に置くと、利休はまた点前座にもどった。

 床の隅に置かれた野菊の花は、すこし涸れて見える。

 ・・負けた。

 秀吉は、利休を笑ってやろうとした自分のたくらみが、野菊の花と同じように涸れてしまったのを感じた。

 なんのことはない。むしろ、笑われているのは自分であった。・・」

 

 たとえば

 ・西ヲ東ト 山上宗二

 利休切腹の前年

 天正十八年(1590)四月十一日 朝

 箱根 湯本 平雲寺

 

 ・・山上宗二に秀吉が問う。

 「おまえが茶の湯者というなら、身ひとつでここにまいっても、なにか道具を持って来たであろうな」

 「むろんにございます」

 宗二は懐から、仕覆を取り出してひろげた。なかは、端の反った井戸茶碗である。すこし赤みがかかった黄土色が、侘びていながら艶やかな印象をかもしている。

 秀吉が、その茶碗を手に取って眺めた。黙って見つめている。

 やがて、薄いくちびるを開いた。

 「つまらぬ茶碗じゃな」

 

 乱暴に置いたので、茶碗が畳を転がった。

 「なにをなさいます」

 宗二はあわてて手をのばし、茶碗をつかんだ。

 「さような下卑た茶碗、わしは好かぬ。そうだ。割ってから金で接がせよう。おもしろい茶碗になるぞ」

 「くだらん」

 宗二が吐きすてるようにいった。

 「こらッ」

 利休は大声で宗二を叱った。

 「こともあろうに、関白殿下に向かって、なんというご無礼。さがれ、とっととさがれ」

 立ち上がった利休が、宗二の襟首をつかんだ。そのまま茶道口に引きずった。

 「待て」

 冷やかにひびいたのは、秀吉の声だ。

 「下がることは相成らん。庭に引きずり出せ。おい、こいつを庭に連れ出して、耳と鼻を削げ」

 秀吉の大声が響きわたると、たちまち武者たちがあらわれて、宗二を庭に引きずり降ろした。

 「お許しください。お許しください。どうか、お許しください」

 平伏したのは、利休であった。

 「お師匠さま。いかに天下人といえど、わが茶の好みを愚弄されて、謝る必要はありますまい。この宗二、そこまで人に阿らぬ。やるならやれ。みごとに散って見せよう」

 立ち上がると、すぐに取り押さえられた。秀吉の命令そのままに、耳を削がれ、鼻を削がれた。血にまみれた宗二は、呻きもせず、秀吉をにらみつけていた。痛みなど感じなかった。怒りと口惜しさがないまぜになって滾っている。

 「お許しください。憐れな命ひとつ、お慈悲にてお許しください」

 利休が、地に頭をすりつけて秀吉に懇願した。

 宗二は意地でも謝るつもりはない。秀吉としばらくにらみ合った。

 「首を刎ねよ」

 秀吉がつぶやくと、宗二の頭上で白刃がひるがえった。・・ 

 

 たとえば

 ・白い手 あめや長次郎

  利休切腹の六年前

 天正十三年(1585)十一月某日

 京 堀川一条

 

 京の堀川は、細い流れである。

 一条通に、ちいさな橋がかかっている。

 王朝のころ、文章博士の葬列が、この橋をわたったとき、雷鳴とともに博士が生き返った・・。

 そんな伝説から、橋は戻り橋とよばれている。冥界からこの世にもどってくる橋である。

 その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。

 「関白殿下が、新しく御殿を築かれる。ここで瓦を焼くがよい」

 京奉行の前田玄以に命じられて、土地をもらったのである。

 聚楽第と名付けられた御殿は、広大なうえ、とてつもなく豪華絢爛で、まわりには家来たちの屋敷が建ちならぶらしい。

 すでに大勢の瓦師が集められているが、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔よけの飾り瓦である。

 長次郎が鏝とヘラをにぎるとただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となり、天に咆哮する。

 虎のからだに龍の腹をした鬼龍子が、背をそびやかして悪鬼邪神をにらみつける。

 「上様は玉の虎と、金の龍をご所望だ。お気に召せば、大枚のご褒美がいただけるぞ」

 僧形の前田玄以が請けあった。

 「かしこまった」

 すぐに準備にかかった。

 まずは、住む家を新しく建てさせ、弟子たちと移った。

 そこに大きな窯を築いて、よい土を集めた。

 池を掘り、足で土をこねる。

 乾かし、釉薬をかけて焼く。

 今日は、焼き上がった瓦の窯出しである。

 「こんなもんや。ええできやないか」

 弟子が窯から取りだしたばかりの赤い獅子のできばえに、長次郎は大いに満足した。

 獅子は、太い尻尾を高々とかかげ、鬣を逆立てて牙を剥き、大きな目で、前方をにらみつけている。

 長次郎が、あめやの屋号をつかって、夕焼けのごとき赤でも、玉のごとき碧でも、自在に色をつけられるからである。

明国からわたってきた父が、その調合法を知っていた。

 しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。なんども失敗をくり返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。

 なんども失敗を繰り返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。

 長次郎の子も、窯場ではたらいているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。

 ・・一子相伝にあぐらをかいたら、人間甘えたになる。家はそこでおしまいや。

 父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである・・。それが父の教えだった。

 まだぬくもりの残る窯のなかから、弟子たちがつぎつぎと飾り瓦を運び出してくる。

 いずれも高さ一尺ばかり。

 できばえは文句なしにみごとである。

 龍のつかむところに雲があり、虎のにらむところに魔物がいるようだ。

 得意な獅子も焼いた。

 造形もうまくいったが、赤い釉薬がことのほかいい。

 冬ながら、空は晴れて明るい陽射しが満ちている。

 その光を浴びて、獅子にかかった釉薬が銀色に反射した。

 「いい色だ」

 長次郎の背中で、太い声がひびいた。

 ふり返ると、大柄な老人がのぞき込んでいた。

 宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。真面目そうな顔の供をつれているところを見れば、怪しい者ではないらしい。

「なんや、あんた」

釜場には、まだ塀も柵もない。こんな見知らぬ人間が、かってに入ってくるようなら、すぐに塀で囲ったほうがいいと、長次郎はおもった。

 「ああご挨拶があとになってしまいました。わたしは千宗易という茶の湯の数寄者。長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」

 ていねいな物腰で、頭をさげている。

 長次郎は、宗易の名を聞いたことがある。関白秀吉につかえる茶頭で、このあいだ内裏に上がって、利休という勅号を賜ったと評判の男だ。

 「飾り瓦のことやったら、まずは、関白殿下がさきや。あんたも聚楽第に屋敷を建てるんやろうが、ほかにも大勢注文がある。順番を待ってもらわんとあかん」

 権勢を笠に着てごり押しするような男なら追い返そうと思ったが、老人は腰が低い。

 「いや、瓦のことではない。茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」

 長次郎はすぐに首をふった。

 「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」

 話は穏やかだが、宗易という老人は、粘りのつよい話し方をした。

 ・・人間そのものは粘っこいのや。

 長次郎はそう感じながらも、宗易のたたずまいに惹かれた。

 ・・この爺さん、なんや得体が知れん。

 ただそこに立っているだけなのに、釜場の空気がひき締まるような、不思議な重みがある。

 ・・よほどの数寄者にちがいない。

 長次郎の直観が、そうささやいている。

 「窯出しが終わったら、お話をうかがいましょ。それで、よろしいか」

 「けっこうです。おや、あの虎は、とくにできがいい。天にむかって吠えている」

 いま弟子が窯から出してきたばかりの虎は、ずらっとならんでいるなかでも、いちばんよいできである。

 長次郎は、宗易の目利きのするどさに驚いた。

山本周五郎  長い坂  01401

 主人公・阿部小三郎の父・小左衛門は〇〇藩で20石どりの組頭つまり下級役人だ。

 父・小左衛門は「なにごとにつけ御身大切。不正があっても眼をつむり大過なく日々を過ごすこと」を信条とする典型的な公務員で、小三郎は幼少時から「これが俺の本当の父親か。本当の父親は他にいるのではないか」との疑念を抱くようになりそのまま成長する。

 

この城下には藩校が二つある。一つは尚功館といって、中以上の家格の子弟のために設けられたものであり、学問の技術も武術の師範も、第一級の人が選ばれている。他の一つは藤明塾といい、これには中以下の侍の子弟や、町屋の者も入学することができる。

 8歳の小三郎は身分の制限故に藤明塾に入ったが、学術武術に群を抜いていた彼は藤明塾塾員でいることに飽き足らず、周囲の反対を押し切って尚功館へ転入する。

 

 尚功館でも発揮された小三郎の類い稀な文武の才能は藩主・昌治の眼に留まり、彼は昌治の側近となる。

しかしそれは彼の本意ではなかった。彼は「武士の道は民百姓をいかにして苛斂誅求から守るか民百姓をいかに幸せにするか」の一点にあり、えらいさんなんか関係ねえよだった。要するに、後年、福澤諭吉がとなえた「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず」の文言を数十年前にとなえていたのだった。

 

 彼は藩主の命により、新田開発のために藩内を流れる大川の堰堤づくりに着手する。他の堰堤の資料を調べ水面高を測量し木杭を調達し、雪の降るなかでの作業はまことに厳しいものだった。(一昨年に「ふるさと語ろう会」で九頭竜川堰堤を見学に行き、係員から堰堤づくりの経過を聞いていたのでその困難さはよくわかる)

 

 又、江戸詰めの反藩主勢力により度々の妨害も受ける。藩主と小三郎が堰堤を視察していた時、5人の武士が突然現われて二人に切りかかった。この時、小三郎は少しもあわてず、5人の武士全てを心臓一突きで殺してしまった。まさに妖刀使いの小三郎。

 

・・・兵部はまた、樹が呼吸することに気づいた。陽が昇ってから森へはいると、檜も杉も、その幹や枝葉から香気を放つが、その匂いかたには波があり、匂わなくなったり、急にまた匂いはじめるのである。里では桃が咲き、桜も咲き出していたようだ。大平からの遠望だからよくはわからないが、もう三月にはいって、春もたけなわであり高いこの山の上にも春がうごきだし、杉も檜も眠りからさめたのであろう。樹幹の発する

香気が一定ではなく、弱くなり強くなるのは、それらの樹が明らかに呼吸していることを示している。「まるで人間のように」と兵部は太い杉の幹に手を当てながら呟いた。「おまえはくちもきけず動くことも

できない。百年でも五百年でも、同じ立ったままで生き続けなければならない。けれども人間や毛物と同じように、生きていることは事実だし、このとおり呼吸さえしている。ことによると、われわれのじたばたしている姿を見て、羨んだり嘲笑したりするだけの感情さえあるのではないか」

 

 「阿部小三郎でもなく、三浦主水生であってもならないとおれは思ったことがある。」・・おれはこの新畠ではもとという名の人足だ。ななえも小三郎もおれ自身とは関係がない。根本的にはべつの世界の人間なのだ。おれは小三郎の昔から独りだった。いまも独りだしこれからも独りだ、なにかする男はいつも独りでなければならない」

 老人だからといって、独りで涙をながすようなことがないわけではない、という米村青淵の言葉が思いうかんだ。

老いて気力を喪失した滝沢主殿。酒びたりで怠け放題に怠け、しかも死ぬときには、草臥れはてた、と云ったという宗厳寺の和尚。みんな独りだった。谷宗岳先生も、妻子がありながらこんな田舎に招かれて来て、若い側女に子を産ませ、つつましやかに寺子屋のような仕事に背をかがめているという。

だが実際にはその側女にも、側女の産んだ子にも心はつながっていないに相違ない。女には家があり子供がある。女には自分の巣がある、けれども男に巣はない、男はいつも独りだ。

 「独りだからこそ、男には仕事ができる」と主水生は声に出して呟いた。「特にいまのおれは、恩愛にも友情にもとらわれてはならない、男にもほかの生きかたはある。男としての人間らしい生きかたは数かぎりなくあるだろうが、おれだけはそうあってはならない。おれには男として人間らしい生きかたをするまえに、侍としてはたすべき責任、

飛騨守の殿がそう思い立たれたように、侍としてなすべきことをしなければならない、そしてこれはおれ自身の選んだ道だ」

こういう三浦主水生のヒューマニテイあふれる独白を読んだ時、「翻って私の人生はなんだったのだろうか」と考えた。


  2015/01/30 (金) ふと思ったこと

 天体の運動はいくらでも計算できるが、人の気持ちはとても計算できない。「ニュートン」

 子供でも知っている18世紀の物理学者の言葉だが、有名人として皆から崇められていたからこそ人の気持ちがわからなかったと、逆説的に言えるのではないだろうか。
 それはともかく
 昨日から今日にかけて「誕生日おめでとう」のメールや電話がいくつか入ってきました。廃人の道を一日一日歩んでいる(わたくし)めにはとってももったいない励ましのお言葉だと思い、恐縮しております。
 心機一転、あと四年間は生きるぞと、決意を新たにしました。

 追
 夕刻に、(わたくし)のGF(推定年齢30代中頃)が誕生日プレゼントとして焼酎を持ってきてくれました。とても嬉しかったです。
 

 一時間ほど、統一地方選などについての四方山話。
  2015/01/29 (木) 朝食を終えて

 「日本人は万物に何かが宿ると考えているのだから、それを宗教学じゃあるまいし、
 神道か仏教かキリスト教か新宗教かなどと区別して見るよりも、その何かを一人一人が多様に
 もっていることを宗教とみなせばいいじゃないか」
 と野坂昭之は言っている。

 これにイスラム教やユダヤ教、無神論などを加えて、「世界には宗教がごまんとあるが、根っこは似たようなものだし、<人は人我は我>のココロで対処すればつまり干渉しなければそれでいいと素朴に思うのだが、それがそうならないのは、宗教と政治が不可分になっていることにある。この場合の政治問題とは領土問題であり、イスラム世界は覇権主義の英米キリスト教世界が石油利権のため、力ずくで勝手に国境線を引いてしまったという恨みを英米に対して持っている。

 自爆テロや人質虐殺などは、島国に住んでいる我々にはおぞましさの限りだと思えるが、しかし一方で米軍の空爆は、大量の民間人を殺している。歴史的にみればその最大に突出したものが、広島・長崎への原爆投下である。

 

  2015/01/28 (水) 週末は荒れるそうな

 昨日の朝、私は所用で久しぶりに北潟湖畔の吉崎公民館へ行った。マイカーはスノータイヤではなく、今年の冬は、融雪装置の設置していない道を走っていないので少し心配だったが、路上に雪はなく、無事に往復できた。
 北潟湖の冬景色は見事だ。水辺を走り回る小動物も見たし、時々舞い上がる水鳥も見た。水中を沢山の鮒が鯰が鰻が泳いでいるのだろう。もうしばらくすると、北潟湖名物の寒鮒を食べることができる。
 ・・たのしみだ。
 それはともかく
 今朝、小説家のとんぼさんが、
 「・金津の夜明け・・・北陸線開通。金津駅開業の道のり(PDF)

 
 
 を持ってきたので「とんぼ作品リスト」に入れました。ご覧ください。

  2015/01/27 (火) 無題

 湯川さんと後藤さんの家族がテレビカメラの前でしゃべっているのを見たが、マスコミがそういう場に家族を引き出すのはむごいことだと思う。死者あるいは死に直面している人に対する思いは、距離のある人でなければ語れないのが普通だからだ。

「ひとの死を悲しむことができるのは幸せなのだ。ほんとうにつらいのは悲しむことすらできず、ただ、ただ、悔やみ続け、己を責めつづけるだけの日々なのだ」 と、重松清も言っている。
 昨日の朝、ウイルス対策ソフトを更新。
 実は、更新するかどうか迷っていたのですが、結局、更新を決意しました。
 ウイルス対策ソフトはインターネットを使用する場合にのみ必要であり、インターネット使用と言ったら私の場合はブログだけなのですが、最近は自分が書き込みたいことが何なのかわからなくなってきたので、書くこと自体が無責任の所産ではないのかと思うようになったのが逡巡の理由です。

 でも、一昨日夜の来訪者から「なんでもいいから書いて」と言われ、そういう声が最低一名あるのだから、なんでもいい書こうと決意し、ウイルス対策ソフトを更新した次第です。
 それはともかく
 とんぼさんが、声の広場に、以下のような文章を出しました。あと二か月ほどすると、あわら市内の公共建築物等に、「北陸線開通。金津駅開業の経緯そして「仲仕組創立総会之碑」を含めたパンフが置かれることになりますが、「仲仕組創立総会之碑」についての語り部はとんぼさんです。
 御期待ください。
530.金津の夜明け・・・北陸線開通。金津駅開業の経緯そして「仲仕組創立総会之碑」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/1/27(火) 16:8
             東北鉄道会社創立願 (明治14年8月)
伏シテ惟ルニ維新以降百度改進シ而シテ其主トスル所専ラ運輸ノ利ヲ興シ殖産ノ道ヲ開クニ在リ故ニ海ハ即チ港湾ヲ修シ燈台ヲ築キ以テ舟楫ニ便シ陸ハ即チ嶮峻ヲ鑿シ橋梁ヲ架シ以テ車馬ニ益ス是ハ以テ万里此隣ヲ為シ西陬北蝦ノ遠キト雖モ旬日ヲ出スシテ至リ随テ産業豊盛シ各地人民皆ナ其恩波ニ浴スル事ヲ得然ルニ北陸ニ一道帝京ヲ距ルコト僅ニ百有余里而シテ北海ニ瀕シ峻嶺重畳トシテ急湍数波其間ヨリ横流シ崎嶇艱難ニシテ行旅跋渉ニ苦ミ程途常二旬有余日ヲ経過シ・・・

 上記の分は北陸に鉄道を敷設する会社(東北鉄道会社)の創立願の冒頭です。発起人は越前・加賀・越中の旧大名(松平慶永、前田利嗣ら十一名)及び東西本願寺の法主あわせて十三名が連名の請願書です。

 以下、資料は全て候文で現代文に直すのに手間取りましたが、ようやく終えました。資料から北陸線敷設が幾度となく挫折し、さらに最終局面に至って金津経由と三国経由で、鉄道官僚、経済界、軍部を巻き込み紛糾しました。最後は金津経由で決着したのですが、当初計画の私設北陸線敷設が挫折に至った経緯、官営鉄道に至った経緯、鉄道会議での論争、当時の金津町長・坂野深、衆議院議員・杉田定一らの書簡を記載しました。

 併せて「仲仕組創立総会之碑」についても関連つけて紹介します。
退屈な資料だとは思いますが、先々貴重な研究材料になることを願って投稿します。興味のある方「トンボ作品リスト」に掲載しますので一読下さい。            

 2015/01/26 (月) 無題

 昔から世界の火薬庫と呼ばれている中近東世界のことは我々平均的日本人にはなじみがない。世界地図を眺めても、欧羅巴と亜細亜を結ぶ臍のような位置関係のところにあり、そこにアラブの国々がまざりあっていてその一画を占めるイスラエルは米の支援を受けて最強の軍事力を持っている。大陸とは離れた島国に住んでいる我々が、その複雑さを理解するのは不可能に近い。第一、イスラム教の教義が頭に入っている人など専門家に限定されるだろう。

 英米政府と明確に対立しているところに行って、巨額の人道的支援を日本の首相は国際社会に声高に発信したが、例えば米大統領がこれを歓迎し、イスラム国殲滅に向けて戦うと宣言しているのだから、当然、イスラム国は敵の範疇に日本を加えるだろう。

 そもそも、今、無差別空爆をうけているイスラム国の前身はアルカイダというのだから、国といえないのかもしれない。
 人質釈放を求める日本政府はにっちもさっちもいかない状況に追い込まれている。


 2015/01/25 (日) 無題

 朝起きると、「人質邦人男性一名殺害」のニュースが続いている。。

 2015/01/24 (土) ガラスのジョニーを聴きながら

 四十年 かかって酒は 毒と知る  岸本水府

 私の場合、脳内出血で倒れて以来、知人たちから「酒は毒や煙草は毒や」と言われ続けてきたので、この川柳がすごくわかりはするが、「こんな半端な体で生き続けるのは周囲に対して申し訳ない」という気持ちが一方に(少しだけ)あって、その延長にあるものは「毒を食らわば皿まで」である。
 そこで、この両者のせめぎあいが現在の心境であると言える。信念の無い男なんだろうなあ、私は・・。

 ♪酒は涙か溜息か


 2015/01/23 (金) 昨日の一日

  昨日の午後は吉崎において会議。嫌な会議だった。

 夕刻は、あわら市庁舎会議室において手話講習。こちらは気分が良かった。教える相手が女性たちだったからだろう。

 帰宅して晩酌。グラス一杯が限度で、グラスの淵に人生のたそがれが見える。そういえば、喫煙本数も少なくなってきた。

 晩酌のあと、三好徹著「謎の参議暗殺」を読了。

 2015/01/21 (水) 無題

 何かの本のなかで、彼はこう書いている

 狂人とは、意識が健康でない者の総称であって、千差万別、度合いの差あり
 また間歇的に一定時間のみ狂う者あり、部分的に一つの神経のみ病んでいる者あり、
 完全に正常な意識を失っている者なでごくわずかだ。ほとんど度合いの差であるにすぎず、
 しかもその度合いはレントゲンにもCTスキャンにも映るわけではない。もともとどこまでが
 狂疾か、度合いの問題がほとんどである以上、この線がはっきりしているべきだが、それも
 明確になっていない。(中略)では、何故、病院に来、入院までしてしまうのか。
 自分は、自分の頭がこわれているという実感を大事にしている  伊集院静 

 特にここ7、8年の間、「自分は狂っているのではないか」という思いにさいなまされることが頻回にある自分は、この言葉に出会った時、救われた思いになった。

 2015/01/20 (火) 無題

 昨夜は、仲の良かった友人のお通夜に行った。
 遺影をみているうち、若かった頃に故人と一緒に遊んだ時の思い出が次々とよみがえってきた。不思議なことだが、思い出に浸るうち、読経が聞こえなくなる。静寂があるのみだった。  合掌
 ふと思ったのだが、私の家は代々真宗で、つまり仏教徒ということになるが、自分が仏教を信じているかどうかということになるとよくわからない。仏教では、死んだら浄土へ行くことになっているが、浄土を二つの(まなこ)で見てきた人は誰も居ない。広い大宇宙のどこにあるかを言ってくれた人もいない。宇宙物理学の本には「あと300億年経つと、宇宙は無となり、その時時間もなくなる」と書いてある。字面をいくら眺めてもバカ頭ではそうなる理由は全くわからないが、地球上の最先端頭脳はそう言っているのである。優れた宇宙物理学者が神なのかなあとも思うが、神というとキリスト教だろう。
  キリスト教は、原罪を説くので嫌いだ。人間が生まれた時から罪人だとしたら、現世は収容所列島ということになってしまう。

   
 2015/01/19 (月) 新しい週の始まり

 ジェームス三木は小説の最後に、こう書いている。

 「・・めでたく誕生した若君は、その名も竹千代と名づけられた。後の四代将軍家綱である。
 更に付け加えれば、五代将軍綱吉は家綱の弟、六代将軍家宣は綱吉の甥、七代将軍家継は家宣の子で、八代将軍吉宗は紀伊家より立てられた。
 将軍家だけではない。あらゆる人間は祖先の血を受け継ぎ、子孫に伝えていく。人はみな歴史の中継ランナーである。」

 昨日の都道府県駅伝をテレビで見ていて、この最後の言葉を思い出したのだが、結局、人生は駅伝だ。自分の前の区のランナー(祖先)がタスキを持って走ってくる。タスキを受け継いだ自分は一生懸命走って、次の区のランナー(子孫)にタスキを渡すのである。

 走っている間は苦しい。でも海沿いを走る時には潮騒に幸せを感じるだろう。きのうの駅伝の愛知県の走者のように疲労困憊しタッチ寸前で倒れてしまうかもしれない。タッチがルール違反で、愛知県は記録無しとなってしまったが、あの走者に悪意は全くなかった。
 勝者に花束はいらない(寺山修司)、敗者こそ感動を呼び起こすのだから、むしろ賞賛されてしかるべきだと、私は思う。
 
 2015/01/18 (日) 徳川三代

 思うに
 市と浅井長政の間に生まれた茶々、初、江の三姉妹は、小谷城落城で父・長政を失い、北ノ庄城落城で母・市を失った。
 そして、長女・茶々は大阪城落城で、愛する一人息子・秀頼とともにこの世を去った。三姉妹は浅井家の血をこの世に残すことに執念を燃やしたが、それは夢と化したのである。
 かくして徳川家康が関白秀吉の跡目をついで政権を奪取したのだが、家康は関白ではなくて将軍を名乗った。それは、関ヶ原の合戦で西軍についた各大名あるいは豊臣家の残党となってしまい巷をさまよう浪人勢に対する威嚇としての将軍宣言であった。

 人間50年 世間のうちを比ぶれば 夢幻しのごとくなり 織田信長

 つゆと落ち つゆと消えにしわがみかな なにわのことは 夢のまた夢 豊臣秀吉

 人の一生は 重い荷物を背負うて 行くがごとし 徳川家康


 二代将軍・秀忠は家康がつくった道を普請するのに精いっぱいだった。加えて、終生、正室・江に頭があがらなかった。それは浅井長政の娘であることに対する恐れというよりも、女性としての妻に対する愛情の深さ故のものだったろう。だとするなら、(わたくし)の場合と同じである。

 三代将軍・家光は、女性に興味がなかった。というよりも男性を迷わす女性というものが嫌いだった。それは家光が将軍になるはるか前に起こった事件によるトラウマである。
 若い日の家光は、性的好奇心から、或る晩、江戸城内に起居する女性を般若の面をつけて襲った。それがばれて幕府は家光を厳罰に処そうとした。その時、(確か)春日局の入れ知恵によって、家臣が身代わりとして磔の刑となった。我が身の軽はずみな挙動が忠臣を死に追いやったことで、家光は泣きに泣き、女嫌いとなったのである。

 2015/01/17 (土) 無題

 昨晩の9時半に、「葵徳川三代・中巻」を読み終えて、(わたくし)は不覚にも涙した。
 
 大阪夏の陣において、おいつめられた淀殿と秀頼は自死を決意する。
 ・・淀殿はキッと振り向いた。
 「そなたひとりを死なせてなるものか!」
 「どうか長生きして、国松と結姫をお守りのほどを・・」
 「わらわはぬけがら同然じゃ。大阪城を失い、そなたを失えば、生き長らえる甲斐とてなし。親子ともども、太閤殿下の御元へ参りましょうぞ」
 淀殿と秀頼の手が重なった。最愛のわが子が、罪人のように扱われるのは、到底見るに忍びない。自刃によって、家康の面目に一矢報い、豊臣家の誇りが守られるなら、それに越したことはない。
 「われら親子も謹んでお供つかまります」
 大蔵御局が平伏し、治長も治房もこれに倣った。一同のすすり泣きが聞こえた。
 「母上・・」
 秀頼はさわやかな微笑を浮かべた。
 「来世もまた、秀頼を生んでくださりませ」
 「何と・・」
 甘美な陶酔が淀殿を包んだ。
 「いくたびも生まれ変わって、豊臣家の再興を図りましょうぞ」
 「秀頼・・」
 淀殿は恋人のように身をすり寄せた。秀頼を誰にも渡さず、身も心もうちふるえていた。

 2015/01/16 (金) もう週末か

 私は死者三千八百人を出した福井大震災の年に生まれ、その惨状を聞きながら育ったいわゆる「地震っ子」世代である。

 そして明日が、学生時代を過ごした神戸を直撃し六千数百人の命を奪った阪神大震災20年目だ。
  震災勃発後に宝塚市在住の友人から「仮契約した中古住宅の被害状況を調べてほしい」と言われ、計測道具一式を持って当地へ行ったのだが、その際、芦屋市・西ノ宮市などを歩いて悲惨を目の当たりにした。

 4年前の東日本大震災は記憶に新しく、人生に対する構えを根本から変えざるを得ない出来事だった。

 このような地震列島の上に住んでいて、いまだに原発再稼働をもくろむ政府の態度が、(わたくし)には不思議でならないのだが、それはともかく、現場の惨状を直接この目で見た阪神大震災が一番印象に残っている。
 福井から手話通訳の立場で神戸へボランテイア活動に行った人によると、「聾者の場合、音声情報が完全に遮断されていて、それが一番怖かったという話を頻繁に聞かされた」とのことである。

 2015/01/15 (木) ちょっと思ったこと

 昨晩は9時に帰宅。風呂にも入らず、ウイスキーを一杯だけひっかけてそのまま就寝となった。泥のように眠り、目覚めたら、時計の針は6時を指している。 実に9時間も熟睡したことになる。

 熟睡ということは夢をみないということであり、これも珍しい。夢なしの眠りはイコール仮死状態なので、換言すれば現世と来世との狭間に居るということになる・・のではないだろうか。

 ちなみに
 「人間は生から死を前借りしている。眠りはその前借りの利子である」と云ったのはショーペンハウエルだ。


 それはさておき
 昨日の朝、街を歩いていた時、背後から女性(うつくしい)に呼び止められた。
 「牧田さん、素敵な建物を見かけたわ。多分設計者は和装が似合う孤高の人だと思うの。誰なのでしょう」と云う。
 私はその住宅の設計者をよく知っているが、「誰なんだろう」と答えるのにとどめた。
 2015/01/14 (水) 大相撲

 昨日の大相撲では三横綱の相撲の盤石さばかりが目に付いた。

 鶴竜の土俵際でのつめの厳しさ、日馬富士のスピード、白鵬の突きのそれぞれは異次元の世界だ。対戦相手は金星獲得のために秘策を練って土俵にあがるのだが、虚しい。

 土俵上でも優しい目の鶴竜が私は好きだ。だけど、そうであるが故に三人のなかでは一番弱い。日馬富士の制限時間いっぱいでの仕切りの所作は天性の運動神経を感じさせる。白鵬の相手力士を睨み付ける目にはすごみがある。

 相撲界の黒船来航といえば高見山→武蔵丸→曙といったハワイ勢だが、彼らには脆さが同居していた。しかし、モンゴル勢は脆さと無縁だ。モンゴロイドは胴長短足を体形の基本としているので、この格闘技に有利なのだと思う。

 過去九年間、日本生まれの日本人力士による賜杯獲得がない(モンゴル勢ばかり)のだから、年六場所のうちの一場所をウランバートルで開いたらどうだろうか。いわゆるウランバートル場所だ。優勝力士に天皇賜杯と朝青龍賜杯を授与すれば面白い。

 中国政府は面子(めんつ)をつぶされたと思うかもしれない(そういえば中国人力士が幕内にいる)。
 それならば、本場所を東京場所、大坂場所、名古屋場所、ウランバートル場所、北京場所、京城場所の年六場所とすればよい。日本の国技・大相撲が単なる格闘技ではなく、優れた様式美を持っていることが世界に周知される。
 追
 本日の夜は「ふるさと語ろう会・臨時会」です。お忘れなく。

 2015/01/13 (火) きょうから仕事

 昨日までの3連休は、牧田事務所改修に精出すことと、ジェームス・三木著「葵 徳川三代(上)」を読むことで終わった。

 天下を平定した豊臣秀吉が死んだあと、五大老の一人として他の有力大名を次々と籠絡し、石田光成率いる西軍を関ヶ原の合戦で打ち破り元和偃武を実現したのは勿論徳川家康だが、その徳川幕藩体制を維持させる基礎は三代家光の時に築かれたと言えそうだ。
 しかし、徳川の天下は、250年ののち、制度疲労により、薩長の手によって葬られる。

 考えてみると、今から70数年前の第二次世界対戦も、連合国側と枢軸国側との戦いで連合国側の勝利で決着した。そのあと米ソ冷戦の時代に入ったが、コルバチョフ時代のペレストロイカにより冷戦の時代は終焉し、米一極の時代に入った。そのふるきよきアメリカも今では夢のあとである。
 西欧はEUをつくってNATOの支配に異議を唱え、中国は鄧小平の時代に資本主義に移行。経済大国としてのしあがりつつあるが、所詮実態経済としての基盤が弱い国なのだから、一党独裁のさきゆきはみえている。

 まことに
 祇園精舎の鐘の声
 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色
 盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす
 驕れる者久しからず
 ただ春の夜の夢の如し
 猛き人もつひには滅びぬ
 ひとへに風の前の塵に同じ
 なのである

 さあ、(わたくし)たちは、ひたすら自然を愛し、人を愛し、人に迷惑をかけない程度に享楽の人生を歩もうではないか。
 2015/01/12 (月) 今日は振替休日

 きのうは「成人の日」だった。議員でいた間は毎年の成人式に来賓として招待され、式の移り変わりを傍らで見てきたものだが、今はその雰囲気が全くわからない。

 ひるがえって自分の成人式は45年前だった。その日も小雪がちらついていた。
 友達数人と一緒に会場へでかけたのだが、
①「エライサンの話きかされるの嫌やなあ。参加しないで帰ろうか」派と
②「参加することに意義がある」派で対立した。
 私は①派だったが、協議の結果、「エライサンの話が終わって懇親会が始まってから、久しぶりの友人たちの顔を見るために入ろう」ということになった。会場に入ると、善哉(ぜんざい)がふるまわれていた。善哉(ぜんざい)の冷たさが歯にしみいった。
 45年経ったいまでもその冷たい美味しさが忘れられない。

 
 2015/01/11 (日) ちゅんちゅん
 
 昨日は喫茶店へ行って、ドラ焼きをつまみに美味しい珈琲を飲みながら、下のような顔で考えた。


 以下列記。
 ①去年の夏にこのブログの名称を、「議員日記」から「妄想日記」に代えたのだが、それからあと、アタマのぐしゃぐしゃ度が急速に進行したような気がするので、心機一転、「妄想日記」から「徒然日記」に代えた。これで進行が少しはスローダウンするだろう。

 ②今年は統一地方選挙の年で、春先には、県議選、市長選、市議補選が予定されている。
 今のところ、県議選に2人、市長選に2人、市議補選に3~4人が立候補を予定していると聞くが、政治力のある人に当選してほしい。しかし我々市民の大多数は、それぞれの言質に触れる機会を殆んど与えられずに投票所へ行かざるを得ない。
 それを打開するためには、公開討論会が不可欠だと思う。

 ③原点に戻って、建築設計者として仕事に励みたい。私の趣味は酒を飲むこと以外何もないが、それでもたまにはためた小銭で(GFと)しゃれたレストランで、食事を楽しみたい。

 ④その他いろいろ

 お互い隣接する民家の間にある敷地の一角に陽があたっていて、舞い降りてきた雀の群れが、エサを探して懸命に地面をほじくっている。雪国の冬は生きるのに厳しいのだ。

 寒月も 陽だまり雀 ちゅんちゅんちゅん 牛


 2015/01/10 (土) 無題
 昨日は大枚八百エンをはたいて世界地図を買った。CADデスクの横にベニヤ板を吊り下げて地図をピン留めした。

 

 何故地図を買ったかというと、とんぼさんから勧められたからで、「海外へ行ったことがなくても、地図を眺めていると、世界の関係がいろいろわかる」がとんぼさんの持論で、小説家として実績を積み重ね中のとんぼさんの筆力の秘密は、地図から想像力をふくらますことにあると思えます。

 それはさておき「ひねくれ一茶」もあと70ページを残すのみとなったが、晩年の一茶の浮き沈みは、私にとって、涙なくして読めるものではない。読み終えたら感想文を書いてみたい。と同時に、私も風流を()でる俳諧の道の第一歩をふみ出したい。俳号は(ぎゅう)で決まりだ。
 
 2015/01/09 (金) 鳥谷 阪神残留決定 よかったよかった

 「MLB・イチローはトロント・ブルージェイズ入団を希望している」のスポーツ記事(電子版)を読んで、25年ほど前を思い出した。

 その年の三月、カナダはトロント市郊外のオークタウンにあるミスター・ヘイズ宅で10日間のホームステイを楽しんだ時のある日、ミセス・ヘイズに誘われてトロント球場へ外車を走らせた。そこではトロント・ブルージェイズプレイヤーたちのスプリングキャンプ真っ最中だったのである。
 スタンド最前列に陣取った僕とミセス・ヘイズの目の前数メートルのところで、レスラーのように屈強そうな若者たちが、走ったり打ったり球を投げたりしていた。

 MLBは全米各地にたくさんのチームを持っているが、米国外に本拠地のあるのはブルージェイズだけだ。又、この球場の屋根は開閉式ドーム構造だった。球団関係者の特別のはからいで、開閉を可能にする機械室を見せてもらったが、そこでは人間の背丈を遥かに超えたいくつかの歯車が音を立てて動いていた。
 それは中世の魔女裁判を思い出させるような不気味な光景でもあった。
 それはともかく
 とんぼさん(本名・長谷川勲さん)の労作「戦国非情 結城氏・多賀谷氏伝」を是非お読みください。
 こちらのほうが読みやすいかもわかりません。
戦国非情  結城氏・多賀谷氏 伝                                                          
結城氏は藤原秀郷(ひでさと)を祖とし、秀郷の5代後、一族の一人が武蔵国大田(埼玉県太田市)に移住し大田太夫と称した。大田太夫から4代後、大田正光(まさみつ)が下野(しもつけ)国(くに)・小山(栃木県小山市)に移住し小山(おやま)正光(まさみつ)を名乗った。関東有数の豪族・小山氏の祖である。

小山正光は常陸国八田(はった)(茨城県下館市(しもだてし)八田)の豪族・八田宗(むね)綱(つな)の娘・寒(さむ)河(かわ)尼(あま)を継室(けいしつ)(後妻)に迎え、三男・朝光(ともひかり)を得た。寒河尼は正光に嫁ぐ前、源頼朝の乳母(うば)であった。
1180年、頼朝は平家打倒の旗を掲げ挙兵するも敗れ、安房(あわ)国(くに)(千葉県南部)に逃れた。此の地で再起を図るが、彼我(ひが)の兵力の差は歴然としている。このとき頼朝の宿舎を寒河尼が14歳になったばかりの我が子・朝光(ともみつ)を伴って訪ね、朝光を頼朝の家臣に加えるよう申し出た。頼朝は願いを聞き届け、さらに朝光の烏帽子(えぼし)親(おや)となった。これを以て小山氏は頼朝に与力(よりき)の証とした。

※ 正光の長男は朝(とも)政(まさ)。このとき正光、朝政は御所の警護で京都にいた。夫の留守の場合、権限は正室に移る。寒河尼の行動は、夫・正光の意思である。つまり小山一族が頼朝方についたことを公にしたことに他ならない。
寒河尼の尽力で頼朝は関東有数の豪族、小山氏と八田氏の兵力を得て巻き返しに成功した。鎌倉政権を樹立後、小山氏と八田氏(後の宇都宮氏)は有力御家人に取り立てられた。
頼朝は寒河尼の恩義に報い、朝光(ともみつ)を結城郡の地頭(じとう)に任じた。朝光は小山氏から独立し結城氏を名乗り、初代となった。
※ 八田氏(後の宇都宮氏)・・・藤原北家の流れ。(藤原氏には北家、南家、京家、式家がある)これとは別に八田氏の祖は上毛(かみつけぬ)野(の)氏(うじ)とする説もある。
上毛野氏・・・崇(す)神(じん)天皇第一皇子・豊城入彦(とよきいりびと)命(みこと)を祖とする豪族。

ともあれ源頼家(よりいえ)の奥州の阿部氏征伐(前9年の役。1051~1063)に功があった八田宗(そう)円(えん)が宇都宮二(ふた)荒山(あらやま)神社(下野一宮神社)の別当職に任じられ、宗円の孫・朝(とも)綱(つな)(八田宗綱の嫡男。寒河尼の兄)が宇都宮氏を名乗ったのが始まりとされている。
※ 源頼家は頼朝嫡男の頼家(鎌倉幕府2代将軍)ではなく、源頼光(よりみつ)(948~1021)の次男(生没年不詳)。歌人として名高い。

結城氏系譜
初代 朝光(ともみつ)
2代 朝広(ともひろ)
3代 広綱(ひろつな) 
4代 時広(ときひろ)
5代 貞広(さだひろ)
6代 朝裕(ともすけ)
7代 直朝(なおとも)
8代 直光(なおみつ)
9代 基光(もとみつ)
10代 満広(みつひろ)
11代 氏朝(うじとも)
12代 持朝(もちとも)
13代 成朝(しげとも) 
14代 氏広(うじひろ)
15代 政朝(まさとも)
16代 政勝(まさかつ)
17代 晴朝(はるとも)
18代 秀康(ひでやす)
19代 直基(なおもと。秀康4男。嫡男・忠直は松平氏を名乗る)

鎌倉末期、4代時(とき)広(ひろ)(享年24歳)5代貞(さだ)広(ひろ)(享年21歳)が若くして病死。6代朝(とも)裕(すけ)は南北朝の乱で、北朝方武将として戦死。享年28歳(1336年)。7代直(なお)朝(とも)も同じく北朝方武将として戦死。享年18歳(1343年)。
相次ぐ当主の夭折(ようせつ)で結城家は衰退した。8代直光(なおみつ)は直朝の弟で、やはり北朝方として働き、功があった。3代続いた功績を足利尊氏に称えられて所領を増やされた。

尊氏の4男・基(もと)氏(うじ)が鎌倉公方として下向し、上杉憲(のり)顕(あき)(憲顕の伯母が尊氏の母)が関東管領として復帰すると、憲顕の強引な手法に関東領主は反発し、鎌倉府に反旗を翻した。

※ 直(ただ)義(よし)(尊氏の弟)が尊氏と争ったとき、(観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)) 憲顕(当時関東管領。上野(こうずけの)国(くに)・越後守護職)は直義に与力し、尊氏に与力した宇都宮氏(うじ)綱(つな)、板東平氏(畠山国清(くにきよ)、河越直(なお)信(のぶ)、高坂重信(しげのぶ)、江戸氏ら)と争った。争いは尊氏が勝利し、直義は降伏した。(後に毒殺される)
戦後処理で、尊氏は憲顕の関東管領職と守護職を剥奪し、信濃に追放した。
尊氏方として働いた関東武将に恩賞として、畠山国清に関東管領職、宇都宮氏綱に上野・越後守護職を与えた。河越直信、高坂重信らに、それぞれの領地の守護職を与え、自治権を認めた上で鎌倉府への協力を求めた。世に薩埵山(さつたやま)の盟約と言われている。

※ 薩埵山盟約  静岡県薩埵山での直義軍との戦い後、尊氏と尊氏陣営についた板東平氏を含む関東武将との間でかわされた盟約。

尊氏の死後、基(もと)氏(うじ)は腹心だった上杉憲(のり)顕(あき)を呼び戻し、畠山国清(くにきよ)から関東管領職を、宇都宮氏(うじ)綱(つな)から上野、越後守護職を返上することを求めた。
※ 憲顕は尊氏に追放される前、基氏の後見役であった。

関東管領職返上を拒否した畠山国清を討伐して関東管領職を剥奪し、宇都宮氏綱を屈服させ、守護職を奪って、上杉憲顕に戻したのである。さらに河越直信、高坂重信に守護職返上を求めた。薩埵山盟約の反故(ほご)である。
  
上杉憲顕に不満を抱いた武蔵(むさし)平(ひら)一揆(いっき)(河越氏、高坂氏、江戸氏ら武蔵平氏一族の同盟)が蜂起し、宇都宮氏綱が加わり、さらに南朝残党である新田義宗(よしむね)(義貞3男)、脇屋(わきや)義(よし)治(はる)(義貞の甥)もこの機会を捉えて蜂起した。

南朝残党が加わったことにより、幕府は関東諸侯に憲顕支援を要請し、甲斐武田氏、
相模(さがみ)平(ひら)一揆(いっき)(相模国の平氏一族の同盟)、小山政義(まさよし)(小山氏11代当主)らが鎌倉府方として戦い、乱は鎌倉府によって鎮圧された。(武蔵平一揆の乱。1368年)
この戦で新田義宗は戦死、脇屋義治は出羽国へ逃亡。乱の首謀者であった河越直信は伊勢国へ逃亡し、武蔵平一揆は消滅していった。宇都宮氏綱は許されたが、二年後(1370年)死去。嫡男の基(もと)綱(つな)が後継となった。

尚、鎌倉公方・足利基氏は武蔵平一揆の前年(1367年)に病没(享年28歳)。上杉憲顕はこの戦いのさなか、陣中で病死している(享年62歳)。
鎌倉公方は9歳の氏(うじ)満(みつ)、関東管領職には憲顕の3男・能(よし)憲(のり)が継いでいた。

宇都宮氏と小山氏は関東の有力大名としてライバル関係にあった。武蔵平一揆の乱の後、宇都宮氏は衰退し、小山氏が関東最大の勢力となった。この事態を氏満は嫌った。どこの大名であれ、強大な大名の出現は鎌倉府の関東支配に不都合であったからである。

宇都宮基(もと)綱(つな)と小山政義が所領をめぐって争い(1380年)、双方多数の死傷者を出した。ことに宇都宮方は当主基綱が戦死した。これ以上小山氏の勢力拡大は鎌倉府、関東管領にとって脅威になる。さらに小山氏は将軍・義満に誼(よしみ)を通じていた。密かに将軍職を狙う氏満には放置できない。基綱の戦死の報に鎌倉公方・足利氏満は小山政義討伐を決意した。

戦いは鎌倉府と小山義政に移った。1381年、鎌倉府が勝利し、義政は降伏して出家したが、翌年には再度決起して鎌倉府に抵抗した。同年、鎌倉府に責められ義政は自害(享年33歳)、嫡男の小山若(わか)犬丸(いぬまる)は逃亡の末、追い詰められ自害(1396年)、若犬丸の二人の子も捕えられ処刑された。小山家嫡流は途絶えた。

この間、結城氏は9代基光(もとみつ)と10代満広(みつひろ)は武蔵平一揆では参戦の記録は見当たらないが、小山政義の乱では鎌倉府に与力している。

宇都宮氏、板東平氏は衰退し、小山氏は消滅した。(後に結城満広は弟・泰(やす)朝(とも)に宗家・小山氏を継がせて再興させている)関東の有力領主が鎌倉府に屈服し、没落していくなか、結城氏は小山氏を傘下に組み入れ、鎌倉府重臣として、下総守護職として絶頂期を迎えた。

鎌倉府が有力武将の力を削ぎ、支配力を強めた東国は室町幕府の影響力が及ばない独立国家の様相を帯びてきた。やがて鎌倉公方は将軍職への野望を抱くようなになった。当然幕府は鎌倉府を警戒するようになる。関東支配を果たした氏(うじ)満(みつ)は幕府に不満を持つ大内氏(義(よし)弘(ひろ)。大内氏25代当主)と謀り、義満に退陣を迫る軍を上洛させようとしたが、関東管領・上杉憲(のり)春(はる)(憲(のり)顕(あき)の4男)が諫死(かんし)をもって説得したことにより思いとどまった。

鎌倉公方系譜  
前職 足利義(よし)詮(あきら)(後に室町2代将軍)   1336~1349
初代 足利基(もと)氏(うじ)              1349~1367
2代 足利氏(うじ)満(みつ)              1367~1398  
3代 足利満兼(みつかね)              1398~1409
4代 足利持(もち)氏(うじ)              1409~1439  永(えい)享(きょう)の乱(らん)で自刃
5代 足利成(しげ)氏(うじ)         1449~1455  幕府と対立し古河へ逃れる。

古河公方(こがくぼう)
初代 足利成氏              1455~1497
2代 足利政(まさ)氏(うじ)         1497~1512
3代 足利高基(たかもと)              1512~1535
4代 足利晴(はる)氏(うじ)              1535~1552
5代 足利義(よし)氏(うじ)              1552~1583
古河公方は5代で終焉

足利5代将軍・義量(よしかず)が18歳で死去すると、継ぐべく子はなく将軍職は空職となった。鎌倉公方4代持氏は強く将軍職を望んだが、6代将軍は義量の父、4代将軍・義持(よしもち)の弟・義(ぎ)円(えん)(後の義教(よしのり))が就いた。持氏は義教の将軍就任に不満を示し、義教もまた持氏を嫌った。   

持氏は将軍職への野心を捨て切れず、義教討伐の機会を窺っていたのだが、関東管領・山内上杉氏の憲(のり)実(ざね)(憲顕の曾孫)は持氏に幕府に従うように諫言(かんげん)した。が、持氏は聞き入れず、逆に憲実を疎んじた。身の危険を感じた憲実は鎌倉を去り領国上野(こうずけの)国(くに)に帰国した。持氏は憲実の無断帰国を謀反の決起のためと断じ、憲(のり)実(ざね)討伐の軍勢を送った。

※  上杉一族のなかで有力なのは鎌倉山内に館を置く山内上杉氏と鎌倉扇谷に館を置く扇谷上杉氏であった。そのなかでも山内上杉氏は上杉一門の筆頭格で、代々関東管領職を務めた。後に山内、扇谷は争い、上杉氏衰退の原因となった。
※  山内上杉・・・尊氏の叔父・上杉憲房(のりふさ)の嫡男・憲(のり)顕(あき)が初代。
※  扇谷上杉・・・憲房の弟・重(しげ)顕(あき)が初代。

持氏の挙兵をとらえ、将軍・足利義教は持氏討伐を憲実に命じた。鎌倉公方(足利持氏)対関東管領(上杉憲実)、幕府との争いになった(永(えい)享(きょう)の乱(らん))。
永享の乱で結城氏(うじ)朝(とも)(結城氏11代当主)、嫡男の持(もち)朝(とも)(12代当主)は鎌倉公方方についた。だが争いは幕府の支援を得た上杉憲実方の勝利に終わり、持(もち)氏(うじ)と嫡男義(よし)久(ひさ)は鎌倉永安寺で自刃(じじん)した(1439)。永享の乱によって鎌倉府は断絶した。(1439年~1499年の間)

義教は空位となった鎌倉公方に我が子を就けようとしたのだが、足利持氏の旧臣、結城氏(うじ)朝(とも)と持(もち)朝(とも)、次男朝兼(ともかね)ら結城一族と多賀谷一族が持氏の遺児、春王丸、安王丸を擁立して、結城城にたてこもり幕府に反乱を起こした。結城氏の反乱も上杉勢と幕府軍によって鎮圧され、首謀者の氏朝、持朝、朝兼は討死、春王丸、安王丸は斬殺された。(1441年結城合戦)

このとき、足利持氏4男・万(まん)寿(じゅ)丸(まる)(後の成(しげ)氏(うじ) 3~4歳)も囚(とら)われており、兄同様の運命にあったが、処分が下される前に将軍義教(よしのり)が赤松満裕(みつすけ)に殺害されたため、赦免された。結城氏朝4男・七郎(重朝(しげとも)、後の成(しげ)朝(とも)、2~3歳)は落城の際、多賀谷氏家(うじいえ)、(33歳)高経(たかつね)兄弟に抱きかかえられ常陸国太田(茨城県太田市)の佐竹氏に逃れた。氏家が七郎を養育したとされている。(多賀谷伝より)
※上杉勢の大将は 上杉(うえすぎ)清方(きよかた)(憲実の弟)で、憲実は持氏自刃の悔悟から出家している。

多賀谷氏の祖は道智頼(どうちより)意(おき)で、頼意の子・頼基(よりもと)とその三子・光基(みつもと)(初代)が多賀(たが)谷郷(やごう)に移住して多賀谷姓を名乗ったことから始まったとされている。鎌倉幕府の歴史書・吾妻(あづま)鏡(かがみ)では頼朝上洛の先導隊に弓の名手として多賀谷小三郎が記されている。鎌倉の御家人であったが、鎌倉幕府滅亡後、多賀谷郷(現埼玉県田ヶ谷)は小山氏の領地であったことから、小山氏の有力家臣として存続したと思われる。小山義政が鎌倉公方・足利氏(うじ)満(みつ)に反旗を翻し滅亡した後、その所領を小山氏の分家、結城氏が引き継いだことにより、結城氏の家臣となった。
結城家でも歴代、重きをなし、結城四天王(多賀谷氏、水谷(みずのや)氏、山川氏、岩上氏)の筆頭格とされていた。多賀谷氏8代政(まさ)朝(とも)のとき、結城氏10代当主満広(みつひろ)の実子・満義(みつよし)(後の光義)を養子に迎え、我が娘を嫁がせ、9代当主とした。
※ 満広は小山氏を継いだ弟小山泰(やす)朝(とも)の子を養子に迎え、11代当主としている。結城合戦で戦死した結城氏(うじ)朝(とも)、その人である。

結城合戦のとき、多賀谷氏当主は光義であった。光義は実家の結城氏についたのである。光義は戦死したものの、その子・氏家(10代当主)高経(氏家の弟)は結城七郎(元服しての重(しげ)朝(とも)。後の成(しげ)朝(とも))を伴って佐竹氏に逃れた。
※ 結城氏朝は小山泰(やす)朝(とも)の実子。結城満広(みつひろ)は養父。多賀谷光義は結城満広の実子。多賀谷政(まさ)朝(とも)は養父。

結城落城より10年後、鎌倉府が再興され、足利成(しげ)氏(うじ)が鎌倉公方5代となった。鎌倉府滅亡後、関東は混乱が続き、その抑えとして鎌倉府の必要性を越後信濃守護の上杉房(ふさ)定(さだ)(清方の次男)によって幕府に進言されたのである。鎌倉公方は関東諸侯の推薦により成氏が就いた。成氏の復活にともない、結城七郎こと成(しげ)朝(とも)(重朝から改名)も復活、結城氏13代当主となった。結城家再興に伴い、多賀谷氏家、高経は結城氏家老となった。

成(しげ)氏(うじ)は父・持(もち)氏(うじ)を死に追いやった上杉憲(のり)実(ざね)を憎み、その息子である憲(のり)忠(ただ)とは犬猿の仲であった。鎌倉公方(成氏)と関東管領(上杉憲忠・・憲実嫡男)との対立が再発した。
成氏から結城成(しげ)朝(とも)に憲忠暗殺の命令が下り、多賀谷氏家(うじいえ)兄弟が高経(たかつね)が憲忠(22歳)謀殺を実行した。(1455。亨(きょう)徳(とく)の乱(らん))
憲忠の首は三方(さんぽう)に乗せられ成氏に検分された。多賀谷家の家紋はこれを表わす。
憲忠殺害の手柄により多賀谷兄弟は成氏より下妻(しもつま)33郷を与えられ結城家の家臣ながら大名格として扱われた。下妻の領主には氏家がなったのだが、後に高経が引き継いだ。高経は成(しげ)朝(とも)の一字を与えられ、朝(とも)経(つね)に改名した。

上杉憲忠の後任(山之内上杉当主。関東管領職)は弟の房(ふさ)顕(あき)が継いだ。
成(しげ)氏(うじ)の憲忠謀殺により幕府と鎌倉府は再び対立。幕府(8代将軍・義政)は鎌倉公方・足利成氏討伐に動いた。鎌倉府から東国武将を離反させる調略がすすめられた。工作は結城成朝にも及び、憲忠殺害の朝経に責任を負わせ、上杉氏と結城氏の手打ちが進められたのである。この動きを察知した朝経は反発し、結城成(しげ)朝(とも)(24歳)を殺害した。(1463年)
※氏家は朝経の嫡男・家植(いえたね)(多賀谷氏11代。後に基(もと)泰(やす)を名乗る)を養子にして隠居しており、多賀谷氏の実権は家植の父、朝経にあった。

結城成朝の後継は成朝の兄、長朝(ながとも)の子・氏(うじ)広(ひろし)(14代)となった。
※長朝は氏(うじ)朝(とも)の3男、成朝は4男。二人は13代当主の座を争ったが、成朝が就いていた。

一方、幕府(8代将軍・義政)は成(しげ)氏(うじ)討伐を上杉房(ふさ)顕(あき)、今川範(のり)忠(ただ)(駿河守護職)、上杉房(ふさ)定(さだ)(越後守護職)に命じ、成氏を鎌倉から追放した。成氏は下総古河(茨城県古河市)に逃れ、ここを本拠地とした。以後、古河(こが)公方(くぼう)と呼ばれた。

結城氏14代当主・結城氏広は足利成(しげ)氏(うじ)方の武将として関東管領・上杉房顕らと戦った。だが、幕府に支援された上杉勢の前に、古河公方は苦戦を強いられ、結城氏内部でも結束が乱れ始めた。多賀谷氏、山川氏、水谷氏(みずのやし)らの重臣は独立への道を歩むようになった。

※ 山川氏の祖・山川重光(しげみつ)は結城家の狙・結城朝光(ともみつ)の庶子。その後も、結城氏と山川氏は互いに養子縁組を組んでいる。
※ 水谷氏・・・関ヶ原の戦いで功を認められ大名となる。後に備中松山藩の藩主となる。

結城氏の衰退に歯止めがかからないまま。氏広は死去した(享年31歳。1481年)
15代当主に3歳の政(まさ)朝(とも)が就いた。補佐役として登場したのが多賀谷和泉(いずみ)守(かみ)である。(和泉守は朝経の孫か、氏家の孫かは不明)

その和泉守であるが、結城家伝によれば藩政の実権を握り横暴を極めたと記(しる)されている。
結城家家臣のなかに和泉守派を形成し、家臣は藩主政朝よりも和泉守の下知(げち)に従うようになった。多賀谷一族の棟梁(とうりょう)と自任する基(もと)泰(やす)(家植(いえたね))にとっても台頭してきた和泉守は目障りな存在である。政朝と基泰は共謀して兵を送り和泉守を殺害した。主だった和泉守家臣、結城家中の和泉守派も殺害、追放した(1499年)。政朝は当主としての権限を取り戻し、以後、積極的な外交・軍事行動で旧領奪還を図った。

政朝と共謀して和泉守一派を排除した基泰も名実ともに多賀谷一族の棟領となった。基泰もまた領土拡張を進め、政朝と領土争いで衝突している。結城家伝では多賀谷氏は結城四天王の筆頭でありながら、主家に弓を引いた一族として記されている。
※ 結城4天王  多賀谷氏、山川氏、水谷氏、岩上氏
※ 多賀谷氏、山川氏、岩上氏は秀康重臣として越前入国。水谷氏は松山藩領主となる。
※ 岩上氏の祖は三浦氏とされている。三浦氏・・北条氏と並ぶ名家。北条氏と争って滅亡。

結城政(まさ)朝(とも)は宇都宮成(しげ)綱(つな)(宇都宮17代当主)の娘を正室に迎えた。当時の宇都宮氏は武蔵(むさし)平(ひら)一揆(いっき)の乱から復活し関東有数の軍事力を有していた。宇都宮氏と同盟関係を築いた結城氏も勢力を伸張させた。成綱が没し、忠(ただ)綱(つな)(18代当主)が跡を継ぐと関係が悪化し、政朝と忠綱が争い、結城氏が勝利して、宇都宮氏の所領となっていた旧領を取り戻して結城氏再興を果たした。

政朝は嫡男・政(まさ)直(なお)を後継に指名したが、政直が夭折したため次男・政(まさ)勝(かつ)を16代とした。3男・高朝(たかとも)は小山政(まさ)長(なが)(小山氏16代当主)の養子になり、小山氏(宗家)の跡を継いだ。(小山氏17代当主・小山高朝)

政勝には1男1女がいたのだが、いずれも夭折し、弟・高朝(小山氏17代当主)の3男・小山晴(はる)朝(とも)を養子に迎え17代とした。結城晴(はる)朝(とも)である。

結城氏は代々鎌倉公方(後に古河公方)に仕え関東管領・上杉氏と争い、晴朝も古河公方を傀儡(かいらい)としてきた北条氏(鎌倉幕府の執権北条氏と区別するため、後北条と称される)陣営に属してきたのだが、上杉景(かげ)虎(とら)(謙(けん)信(しん))が関東管領に就くと、反北条氏に転じた。

晴朝には跡を継ぐべき男子はなく、宇都宮21代当主広(ひろ)綱(つな)の次男・朝勝(ともかつ)を養子に迎え当主とした。宇都宮広綱の正室(朝勝の母)は佐竹氏17代当主・義(よし)昭(あき)の娘である。この縁組によって、結城氏、宇都宮氏、佐竹氏の同盟が成立し、小田原の北条氏(うじ)政(まさ)に対抗した。

晴(はる)朝(とも)は豊臣秀吉の小田原征伐(1590年)に出陣し、所領を安堵された。晴朝はさらに結城家存続を確実なものにすべく、秀吉の養子・秀(ひで)康(やす)(徳川家康次男)を養子に受け入れた(1590年)。その前年に秀吉に実子・鶴丸が誕生しており、秀康の養子先を捜していた秀吉の意向だった。関東最大の大名徳川家康の次男でもある秀康を結城家当主に迎えたことで、豊臣、徳川の二大勢力が結城家の後ろ盾となり、晴朝にとって願ってもないことであった。

※ 結城朝(とも)勝(かつ)は当主の座を秀康に譲り、実家の宇都宮家に戻った。宇都宮家改易後(後述)は、佐竹氏に身を寄せ、関ヶ原合戦での上杉氏、佐竹氏の連携(西軍)の役割役を努めた。大坂の陣(冬、夏)では佐竹氏を離れ、牢人(ろうにん)となって大阪城に入り、徳川方と戦っている。大阪城落城の後も生き延びて、晩年は神官(しんかん)として生涯を終えた(1628年。享年60歳)。朝勝の子・光(みつ)綱(つな)(養子)は後に久保田佐竹藩(後述)に仕え、宇都宮氏の家名を佐竹藩に残している。
※ 尚、結城氏系譜に朝勝の名はない。17代当主・晴朝の後は18代当主・秀康と記されている。
※ 関ヶ原合戦(1600年)で、秀康は西軍の上杉景勝(かげかつ)(会津120万石。関ヶ原合戦後は米沢30万石)、佐竹義宣(よしのぶ)(常陸54万石。関ヶ原合戦後は出羽久保田20万石)を封じ込む役目を果たし、その功により下総結城10万千石から67万石に加増されて越前北の庄の領主となった。

秀康は結城姓を名乗っていたが、嫡男・忠(ただ)直(なお)は松平姓を名乗ったため、晴朝は秀康の5男・直基(なおもと)を養子として結城姓(19代当主)を継がせた。

直基は後に勝山藩3万石(1624年)、大野藩5万石(1635年)に加増移封されている。
直基も後に松平姓を名乗り、実質的には秀康によって結城家は絶えた。結城家の祭祀は直基の流れを継ぐ、松平前橋藩によって継承されている。

多賀谷氏の系譜。
初代 光基(みつもと)
2代~7代は略
8代  政朝(まさとも)
9代  光義(みつよし)
10代 氏家(うじいえ)
11代 家植(いえたね、基泰)
12代 家重(いえしげ)
13代 重政(しげまさ)   
14代 政経(まさつね) 
15代 重経(しげつね) 
16代 宣家(のぶいえ。下妻多賀谷氏。佐竹宣家) 
三経(みつつね。下総太田多賀谷氏)  
※ 下妻多賀谷氏の宣家が本流であるが、下妻多賀谷氏は改易となり、消滅。以後、傍流の下総太田多賀谷氏の三経が多賀谷氏を継いだ。
17代 泰経(やすつね)
18代 経政(つねまさ)

11代の家植(いえたね)(基(もと)泰(やす))のとき、一門のライバル多賀谷和泉守を殺害し、一門の棟領としての立場を確立した。家植は前述のように本領下妻から周辺に進出し、やはり旧領回復にむけて進出する結城氏との紛争があった。また古河公方の内紛(父・政(まさ)氏(うじ)と嫡男・高基(たかもと)の争い)では結城政朝は高基方として、(政朝、高基双方の正室が宇都宮成(しげ)綱(つな)の娘)、多賀谷家植は政氏方として争っている。
※ 古河公方の内紛は高基の勝利。

関東は古河公方(前身は鎌倉公方)と関東管領・山内上杉氏との対立が長らく続き、関東豪族も両者の争いに翻弄されながらも、古河公方と関東管領・上杉氏の双方が長期にわたる戦いで消耗し弱体化すると、彼の地を奪い。勢力拡大を図るしたたかさを持っていたのである。

ともあれ多賀谷氏は以前、臣従していた結城氏を始め、周辺領主と争いながら、下妻城、城下町を整備して、周辺地域に進出していった。

だが、小田原北条氏(氏(うじ)綱(つな)、氏(うじ)康(やす))の勢力拡大が進むと、関東諸侯(上杉氏、宇都宮氏、結城氏、佐竹氏、多賀谷氏)は反北条氏を鮮明にして立ち向かった。対立関係にあった結城氏と多賀谷氏が和解したのも、この頃であった。

多賀谷氏が最盛期を迎えたのは15代重(しげ)経(つね)のときで、下妻20万石と多賀谷家伝に記されている。秀康が当主となったとき、結城家は10万1000石であるから、遥かに凌駕(りょうが)している。
小田原征伐(1590年)には結城晴(はる)朝(とも)、宇都宮国(くに)綱(つな)、佐竹義宣(よしのぶ)は小田原城(北条氏居城)へ攻撃をしかけ、その功により所領と地位を安堵された。
多賀谷重経は病気を理由に参陣は遅れたものの、秀吉に詫びて、このときは許され所領を安堵された。だが、文(ぶん)禄(ろく)の役(えき)(秀吉の朝鮮出兵。1592年)で病気を理由に参加しなかったため、減封された。(10万石前後か)

重経の嫡男が虎(とら)千代(ちよ)。元服して左近大夫光(みつ)経(つね)。左近の烏帽子親は石田三成。その一字を光とかえて三経とした。本来なら三経は重(しげ)経(つね)の跡を継ぐべき位置にあったのだが、分家し下総太田(茨城県結城郡八千代町)に居城(陣屋)を築き、移住した。

三経が家督を継げなかった理由は、多賀谷氏と佐竹氏の同盟関係にある。多賀谷氏が結城氏を始めとする周辺勢力、進出を強める北条氏に対抗するために常陸国の強国佐竹氏を頼らざるを得なかった。多賀谷氏は佐竹氏の庇護下で戦国時代の存続を図ったのである。

重経の娘(大寿院(だいじゅいん))が佐竹氏18代当主義(よし)重(しげ)の嫡男・義宣(よしのぶ)(19代当主)に嫁し(1580年)、その10年後に義重の4男・宣家(のぶいえ)(義宣の弟)を養嗣子(ようしし)として迎え、娘(珪(けい)台(だい)院(いん))と娶(めと)わせ、多賀谷氏16代当主とした。嫡男がいるにもかかわらず、佐竹氏より養嗣子を迎えたことは多賀谷氏が佐竹氏に隷属するに他ならないと、左近の周辺は捉えた。家中で重経派(宣家派)と左近派が対立した。

重経にはさらなる課題が課せられていた。秀康が結城家を相続した際、秀吉は多賀谷重経に結城氏に臣従するよう命じていた。結城氏はかって多賀谷氏の主家(しゅか)である。とはいえ多賀谷氏は独立した大名である。しかも隣接する結城氏とは所領争いもある。石高も多賀谷氏が多い。天下人の命令とはいえ結城氏の家臣に組み入れられことに重経は不満を抱いた。だが逆らえば改易処分となりかねない。

重経は多賀谷家を分裂させることにより、難題を解決しようとした。下妻を本拠とする、本家は佐竹氏から迎えた養子・宣家を当主とし、左近三経を分家として下総太田の領地を分け与えた。

その左近三経を結城氏に仕えさせることにより、秀吉の命令に従った。一方、本家は独立した大名として結城氏との対等な立場を守ることにより、家中の反結城派の家臣(重経派・宣家派)を納得させた。

下妻多賀谷氏(本家。宣家)は佐竹派、下総太田多賀谷氏(分家。左近)は結城派に分かれたのである。
重経が小田原参陣に遅れた理由はこの家中の混乱の収拾するためであった。
文禄の役に出陣しなかったのも、留守中、家中で結城派と佐竹派の騒乱が勃発することを恐れたからであろう。それほど家中の対立は深刻だった。

関ヶ原合戦で下総太田・多賀谷氏(三経)と下妻・多賀谷氏(宣家)は東西に別れた。結城秀康は家康の命令により宇都宮に布陣し、石田方の上杉景勝、佐竹義宣(よしのぶ)と対峙し、上杉・佐竹勢の関ヶ原参陣を防いだ。三経は秀康の先陣として下野(しもつけの)国(くに)大田原城(栃木県大田原市)に在陣した。

※ 結城秀康が多賀谷左近三経を先陣とした理由は、左近の寝返り(宗家下妻多賀谷氏への同調)を恐れたからであろう。事実、秀康の養父・結城晴(はる)朝(とも)が結城家伝を編纂しているのだが、多賀谷氏への記述には不信感が散見される。
この記述は結城家中における多賀谷左近三経の立場の微妙さを浮き彫りにしている。或いは越前多賀谷氏の断絶に影響しているのかもしれない。

下妻・多賀谷氏の宣家は兄である佐竹義宣(よしのぶ)に属し、石田方に付いた。重経も嫡男左近光経(三経)の烏帽子親を石田三成に頼み、光経を三経としたほどだから三成とは親しい。重経は関ヶ原に向かう徳川方の背後を突く奇襲作戦を進言したといわれている。
だが上杉・佐竹勢は結城秀康と対峙したまま動かなかった。関ヶ原合戦(1600年9月15日)は一日で決着した。
※ 宇都宮国(くに)綱(つな)(宇都宮22代当主)が太閤検地で虚偽の申告(過少申告)をしたとの理由により秀吉の不興を買い、改易処分となった。宇都宮国綱と繋がりが深い佐竹義宣(よしのぶ)(国綱の母は義宣の祖父義昭の妹。正室は義宣の父義重の娘)にも嫌疑がかかり、連座処分が下されようとしたが、三成のとりなしにより処分を免れた。その恩義に報いるために家康の命令に背いたとされている。
※ 国綱は宇都宮家再興のため、宇喜多秀家の軍に加わり、朝鮮に出兵し手柄を立てたものの、宇都宮家再興は果たせず失意のうち江戸浅草で没した(1670年。享年40歳)。嫡男・義(よし)綱(つな)は元服後、500石で水戸藩に仕え、その嫡男・隆(たか)綱(つな)は千石の大身となり、次の宏(ひろ)綱(つな)は水戸藩家老を務めた。以後子孫は明治維新まで水戸藩家臣として家名を残している。

関ヶ原合戦の戦後処理が行われた。結城秀康は結城10万1000石から越前福井68万石に移封された。これに伴い三経は下総太田を引き払い、秀康から越前坂北郡の村々の総高32000石を与えられ、柿原郷の領主となった。

下妻多賀谷氏は改易。宣家(のぶいえ)は佐竹家に戻り出羽国檜山(ひやま)(秋田県能代市檜山)1万石を兄・義宣(よしのぶ)から与えられた。その佐竹氏は(当主・義宣)常陸54万石から出羽久保田(秋田市)20万石に減封された。

三経の実父・重(しげ)経(つね)は下妻を追放された後、困窮しながら各地を放浪した。
重経が以前は下妻多賀谷家に仕え、主家の改易後は佐竹家に仕官した旧臣に出した手紙が残っている。文中の六郷とは、旧知の佐竹氏前当主・佐竹義(よし)重(しげ)(18代)の隠居の地。
※ 六郷・・・現秋田県仙北町美郷町

「御国替以来、方々乞食仕り候へ共、がしにおよび候間、旧冬ふと六郷へ参り候
 老期と云い、不弁の式と云い、何共書き尽くし難く存じ候」

(国を召し上げられて以来、方々を乞食となってさまよい、餓死しそうになり、昨年の冬、ふと旧知(佐竹義重)を頼って六郷を訪ねました。老齢といい、極貧といい、なんともその悲惨さは筆舌に尽くし難いのです)と窮状を訴えている。
この旧臣は重経を哀れみ、酒と肴を送り届けた。20万石の大名が物乞い同然に零落(れいらく)して秋田を訪ねたという噂は藩内に広まり、重経は此の地も追われるように去った。最後は末子(三男)の茂光(しげみつ)(彦根藩士)を頼って近江に行き、彼の地で没した(1618年)、享年61歳と多賀谷系譜(家伝)に記されている。
                                    終。
参考資料 下妻市史(茨城県下妻市) 関城町史(茨城県真壁郡関城町) 
 結城系譜 多賀谷系譜 福井県史 福井市史        他  資料
平成26年7月14日                   資料編纂  長谷川 勲 

戦国非情 結城氏・多賀谷氏伝  第二部 (№13~33)
 結城譜代家臣と徳川家臣団

 結城秀康の死。
関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)7月、越前北ノ庄に入国した結城秀康は68万石の大大名に相応しい城郭と城下町の建設を急いだ。おおよその完成に5年を要した。 さらに秀康は大量の家臣団を召し抱えた。家臣団の総数は497家に達し、内訳は1万石以上が11家、五千石以上6家,千石以上74家,6百石以上43家,3百石以上164家,百石以上187家,百石未満12家でその合計は55万石4千石であった。差し引き12万6千石が藩主分とすれば、68万石の大大名の体面を保つには苦労したであろう。

家臣団の主な出身地は三河78家、下野(しもつけ)65家、遠江(とおとうみ)50家、美濃37家、尾張30家、武蔵27家、越前19家、相模18家、駿河17家、甲斐16家、上野(こうずけの)13家、近江10家、信濃9家、常陸8家、摂津(せっつ)、河内(かわうち)が6家、丹波(たんば)、伊勢が4家、若狭3家、下総(しもふさ)2家、その他(不明を含む)が75家。

千石以上の大身は三河25家、美濃14家、尾張10家、下野9家、遠江、武蔵が4家、相模、駿河、近江が3家、越前、甲斐、下総、常陸が2家、上野、信濃、丹波、若狭が1家、その他(不明を含む)4家で計91家。

1万石以上は三河の4家。本多富正(36750石)、今村盛(もり)次(つぐ)(25050石。35050石との記載もあり)、永見(ながみ)右(う)衛門(えもん)(15350石)、清水丹後(たんご)(11020石)である。尾張は2家、久世(くせ)但馬(たじま)(10000石)、落合主(しゅ)膳(ぜん)(10000石)。下総も2家、多賀谷左近(32000石)、山川讃岐(さぬきの)守(かみ)(17000石)である。以下、美濃の吉田修理(しゅり)(14000石)。甲斐の土屋左(さ)馬(まの)助(すけ)(38000石)。若狭の江口石見(いわみ)(10000石)で計11家である。

下野は結城氏の旧領国であるから当然としても、三河、遠江が多数を占めるのは徳川家との係わりからである。

本多富正は秀康が豊臣秀吉の養子(人質)として大阪で暮らしていたとき、徳川家から遣わされた側小姓である。今村盛次は三河の出身、家康に召しだされて御納戸役(おんなんどやく)(将軍家の金銀、衣服、調度の出納を管理する役)を務め、秀康越前入国に伴い、付家老となった。
土屋左馬助の父、金子定光(さだみつ)は武田信玄、勝頼に仕え、織田方との戦いで討ち死にした侍大将である。2歳だった左馬助は家臣に養われ、成人後、徳川家に出仕した。家康の小姓を務めたが、実直な性格を見込まれ秀康の側近に登用された。

多賀谷左近を除き、3万石以上の大身はいずれも徳川ゆかりの家臣である。一方、結城氏譜代重臣では多賀谷左近(下総)が32000石、結城一族の山川讃岐守(下総。山川氏の祖、山川重光(しげみつ)は結城氏の祖、結城朝光(ともみつ)の庶子)が17000石、岩上左京(下野)が4000石、水谷(みずのや)刑部(ぎょうぶ)(下野)水谷兵部(みずのやひょうぶ)(下野)が1000石である。多賀谷、山川、岩上、水谷の4家は結城四天王と称された武将である。いずれも旧領地の石高であり、越前移封(いほう)にともなって加増されたものではない。

前述のように結城譜代家臣(下野、下総、その他)71人のうち、1000石以上は上記5人を含めて8名しかいない。250石~600石が13人、200石が22人、150石が19人、100石が6人、50石が3人である。
※数字は結城秀康給帳(家臣俸禄控。福井市史)より。

結城譜代家臣は移封にともなっての加増はほとんどなかった。そのために越前への赴任を辞退した下級家臣も少なからずいた。秀康は結城姓を名乗っていたが、越前北ノ庄藩を支配したのは三河出身を中心とした徳川家臣団で結城譜代重臣は権力の中枢から外されていた。

江戸、京、大坂を結ぶ要害の地、府中城主には本多正富(三河)、丸岡城主には今村盛次(三河)、大野城主には土屋左馬助(甲斐)、勝山代官には林長門(ながと)(三河。9840石)が配され、徳川家臣団主導であったことが一目瞭然である。辛うじて越前加賀国境の坂北柿原郷に多賀谷左近(下総)が配された。

慶長10年5月1日(1605年6月17日)、徳川秀忠に対して征夷代将軍宣下(せんげ)。同時期、結城秀康も権(ごん)中納言(ちゅうなごん)に昇任した。その間、越前の国造りに精力を注ぐかたわら、慶長11年に幕府から江戸城普請手伝いを命じられている。これには多賀谷左近があたった。それを終えると禁裏(きんり)普請の惣督(そうとく)(責任者)を命じられ、さらに家康が伏見城を離れる (※伏見城は徳川将軍の京都での居城)伏見城在番役(ざいばんやく)(留守役)、翌12年正月から駿府城改築の助役と(本多富正があたる)幕府から次々と公役を課せられた。

諸大名を総動員した徳川方の城普請、禁裏造営、河川改修、道路工事の、いわゆる家康の天下普請に北ノ庄藩も駆り出されたのである。秀康はこの時期多忙を極めた。この頃より秀康の健康は悪化し、業病(ごうびょう)に苦しむことになる。 
家康は病床の秀康を案じ、昵懇(じっこん)の公家衆や僧侶を見舞いに遣わせたのだが、面会が叶(かな)わなかった。病状悪化もさることながら、腫れものが顔を覆い、鼻が削がれる異様な容貌を人前に曝すことを嫌ったのである。
衰弱も著しく、書状の末尾にも花押(かおう)でなく印判を用いて、「病気なので印判を用いている」と相手方に詫びている。秀康の病気は徳川一門だけでなく、諸侯、宮廷にも知れ渡り、諸侯からの見舞いが相次ぎ、宮廷でも後(ご)陽(よう)成(ぜい)天王が神楽(かぐら)を舞わせて平癒(へいゆ)を祈祷していたとの記録が残っている。

慶長11~12年(1607年)の冬は伏見城で養生した。秀康は帰国を望んだのが、家康が病に伏せっている秀康を案じ、厳寒の北国下向を避け、春まで待つようにと勧めたのである。

慶長12年3月1日(1607年3月28日)、秀康は伏見を発ち北庄への道についた。此の日、夕方より天候が急変し、雷鳴轟(とどろ)く豪雨となり、不吉の前兆となった。着城日の記録は無い。帰国後、病状は一進一退を繰り返しながら慶長12年閏(うるう)4月8日(1607年6月2日)死去した(享年34歳)。

翌9日永見(ながみ)右(う)衛門(えもん)(前述。24歳。15350石)が、11日土屋昌(まさ)春(はる)(前述。27歳。3万8千石)が殉死した。
※ 福井県郷土史叢書(そうしょ)(雑記の意)の秀康家臣履歴に右衛門の母は家康の従妹(いとこ)と記載されている。又秀康の生母・於(お)万(まん)の方(ほう)(長勝院(ちょうしょういん))は三河国氷見吉(よし)英(ひで)の娘である。右衛門の父は永見吉(よし)治(はる)。吉英と吉治の関係を示す記録は見当たらないが、極めて近い親族であったであろう。

さらに本多正富らの重臣も追随する動きを見せた。この事態に幕府はすぐさま対応した。
4月16日、秀忠より、24日には家康から、正富に、25日日には幕閣の本多正(まさ)純(ずみ)から重臣あてに殉死を固く禁ずる指示がなされたのである。その内容は
「殉死は沙汰の限りであり、生きて若い忠直(11歳)を守り立てることこそ忠節である。もしこの旨に背くなら越前は肝要の地であるから別の人間に与え(北ノ庄藩改易)、子孫まで絶家にする。殉死した者は一族すべて成敗(死罪)に処す」という厳しいものであった。(越前松平家譜より)

※ 秀康の生母・於万の方は家康の正室・築山(つきやま)殿の付女中であった。家康は築山殿の悋気(りんき)を恐れ於万の方を側近の本多重(しげ)次(つぐ)に預け、重次の計らいで於万の方は浜松の中村家で於(お)義(ぎ)丸(まる)(秀康)を生んだ。秀康(10歳)が養子(人質)として豊臣家に入ると、重(しげ)次(つぐ)嫡男の仙千代(12歳。後の成(なる)重(しげ)。丸岡藩主)が側小姓として同行した。まもなく成重に代わって富正がその役目を努めた。富正は秀康の最古参の側近であった。
※ 本多富正の父・本多重富(しげとみ)は重次の兄。富正と成重は従兄弟。
※ 慶長20年(1615年)7月、武家(ぶけ)諸法度(しょはっと)が制定されたが、この時点では殉死禁止は明文化されておらず、口頭での禁止のみであった。明文化したのは天和(てんな)3年(1683年)、5代将軍、綱吉の時である。

北ノ庄藩の殉死は幕府からの厳しい通達により、永見右衛門とその介錯人(かいしゃくにん)である田村金(きん)兵衛(べい)、土屋昌春と同、長沼四郎(しろう)右(う)衛門(えもん)のみで止(とど)まった。

多賀谷左近が死去したのは秀康の死から100日後の慶長12年7月21日(1607年9月12日)であった(享年41歳。31歳との説有り・・多賀谷家伝より)。病死とされている。
左近三経の死について、多賀谷家譜では本多富正による毒殺の可能性を示唆しているが、その証拠となる資料は存在しない。論拠として考えられるのは、
「関ヶ原合戦以降、徳川家では豊臣家壊滅の機会を狙っていた。北ノ庄藩は親豊臣派大名と目されてきた。それを抑える役割を本多富正が担っていた。秀康の
死去後、富正は親豊臣派を一掃するために、最初に多賀谷左近三経を毒殺した」であろう。私見である。

結城秀康譜代家臣(親豊臣系家臣団)を排除するために幕府の謀略、本多正富の謀略が開始された。それが「久世騒動」である。

 久世騒動

(久世騒動は後に柿原郷多賀谷氏の廃絶に関わってくるので詳しく記述したい)
北ノ庄藩は秀康嫡男、忠(ただ)直(なお)が就いた。12歳である。藩政は本多正富、今村盛次らの重臣に委ねられた。父の死から4年後の慶長16年(1611年)9月、忠直(16歳)は秀忠の三女、勝姫(11歳。母は秀忠正継室、江(ごう)。三代将軍家光は同母弟)を正室に迎えた。徳川宗家との絆を強め、親藩筆頭として越前は盤石と思われたのだが・・・。
※ 忠直と勝姫の間に一男二女がいる。光長(1615年出生)、亀姫(1617年出生)、鶴姫(1618年出生)
 
慶長17年、越前を揺るがす大騒動が勃発した。きっかけは百姓間の刃傷沙汰であった。
後世「久世騒動」と呼ばれ、直々に大御所(家康)、将軍(秀忠)の裁定を仰ぎ、世間の耳目を集めた大騒動であった。

久世騒動についての記述は資料によって異なる。まったく正反対の記述が横行している。ここでは福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会編「福井県郷土叢書 忠直年譜」を採用したい。込み入った事件であり、資料を読むだけで経緯(いきさつ)を理解することは困難である。  「久世騒動」の背景として以下の事を念頭に入れていただきたい。

北ノ庄藩(68万石)は結城藩(10万千石)を母体に、方々から家臣を募った寄せ集め集団であった。その寄せ集め集団を統率していたのが結城秀康であった。だが結城秀康という統率力に優れた藩主が死去し、幼い忠直が後継となると、藩政は重臣に委ねられた。なかでも徳川系家臣団のリーダーであった本多富正(府中城主)に権力が集中した。

幕府との折衝にも富正があたっていた。勝姫の輿入れの際、府中の本多富正の館で休息し、お歯黒の儀式を行った。筆を入れたのは富正の妻で、勝姫にお伴して北ノ庄城に入城した。将軍秀忠がこれほど富正を重用するには理由(わけ)がある。江戸から遠く離れた北国越前の北ノ庄藩を徳川家の支配下に置くため、幕府は本多富正にその役割を与えていた。将軍家は勝姫輿入れの儀式を利用して本多富正に徳川系家臣団筆頭のお墨付きを与えたのである。

だが、本多富正の権力集中に反発する一派が存在していた。結城秀康に召し抱えられた譜代家臣(非徳川系。幕府は彼等を親豊臣系と見ていた)であった。今村盛次(丸岡城主)は徳川系家臣でありながら、富正との対立からその旗頭に担がれた。

藩主忠直は父、秀康同様徳川家への屈折した感情を抱いており、徳川家と親しい本多富正を疎んじる気持ちがあったといわれている。

久世騒動に関与した主だった藩士
本多富正派 本多富正(39000石) 久世(くせ)但馬(たじま)守(かみ)(10000石) 竹島周坊(すおうの)守(かみ)(4000石) 
弓木左(さ)衛門(えもん) (2000石)上田隼人(はやと)(600石)

反・本多派  今村盛次(25050石) 中川出雲(いずも)守(かみ)(15050石) 岡部自休(じきゅう)(1700石) 
清水丹後守(11020石) 林伊賀守(9840石) 谷伯耆(ほうき)守(かみ)(3000石)広沢兵庫(600石) 落合美作(みさく)(1000石) 牧野主(との)殿(も)(2400石。後に離脱)

当時18歳だった藩主・忠直の事件処理に不手際があり、久世一族、及び討手方合わせて350人余が命を落とした。騒動は天下に広まり、幕府が裁決に乗り出すという事態に発展した。

久世騒動顛末
家老久世但馬の知行地の民・某(甲)が 諍(いさか)いの末、町奉行岡部自休の知行地の民・
某(乙)を殺害する事件が起きた。このことが表沙汰になり、乙の親族が知行主の岡部自休に訴えた。岡部はこの事を久世但馬に伝え、犯人の引き渡しを求めたが、久世は本多富正、竹島周防などと協議した結果、犯人を匿(かくま)い、事件を握りつぶした。

岡部は本多富正と対立していた今村盛次、その同志である清水丹後、林伊賀と相談し、中川出雲から藩主忠直に訴えたようとしたが、本多、竹島がこれを阻(はば)んだ。
(忠直の母は秀康側室・中川一元(かずもと)の娘(清涼院(せいりょういん))。中川出雲は一元の嫡男。出雲は忠直の叔父にあたる)

岡部は激怒し、「私が訴えても、奸臣(かんしん)(本多富正)に阻まれて藩主に達しない。私は事の次第を幕府に訴え、奸臣どもの悪事を暴く」と語り、直ちに江戸に向かった。牧野主(と)殿(のも)は岡部への加勢を申し出て同行することになった。
岡部、牧野が江戸に発ったことを知らされた忠直はすぐさま人を遣わし、「このような小事で幕府の裁定を仰ぐには及ばない。直ちに戻って久世但馬と対決すれば、理非は明らかになる」と伝えた。両人は藩主の言葉に受け入れ帰国した。牧野は藩主の心を煩わしたことを悔い、高野山に入り剃髪して入道となった。

忠直は但馬に対して速やかに岡部と対決するように命じたが、但馬は命令に従わなかった。久世但馬誅伐(ちゅうばつ)が決せられた。

今村盛次、清水丹後、林伊賀ら反本多富正の面々はこの機会を捉え、本多富正の失脚を画策した。久世但馬討伐を本多富正に命じるよう、忠直に進言したのである。本多富正が久世但馬討伐を拒否すれば君命に背いた咎(とが)により、本多を失脚させることができる。受け入れれば本多は同志である久世を討伐し、自らも返り血を浴び、一派は分裂するだろう。本多富正一派を失脚させる絶好の機会と捉えたのである。

忠直は今村盛次らの進言を受け入れ、富正に登城を命じたが、富正は盛次らの企てを察し、己が誅伐されることを警戒し、領地の府中から動かなかった。忠直の再度の命令に、身の安全を保証するため、忠直からの人質を賜ることを求めた。人質が渡されたことにより、登城した富正は忠直から久世但馬守上意討ちを命じられ、富正はこれを受け入れた。

慶長17年10月18日(1612年11月10日)、本多富正は家臣たちに久世但馬守屋敷を包囲させ、単身屋敷に乗り込み、余人を交えず但馬と面談をした。席上、富正は但馬に自刃を求めたが、但馬は拒否した。会談を終え、富正が帰ろうとすると、久世家臣の木村八(はち)右(え)衛門(もん)らが富正に斬りかかろうとした。但馬はこれを留め、「私の最後は目前に迫っている。私の死後、私の存念を語ることが出来るのはただこの人、本多富正殿を頼るのみである。決して手出しをしてはならぬ」と固く制し、富正を門外に送りだした。

直ちに攻撃が開始された。久世方ではすでに婦女子、老人は脱出しており、屋敷内の屈強な家臣152人が応戦した。激しい攻防戦が続いたが、その日は決着がつかず、一夜が明けた。翌朝、屋敷から火の手が上がった。但馬が火を放つように命じ、火中で自刃したのである。すでに家臣の多くは討ち死にしており、残った家臣も但馬の後を追い自刃した。久世方には一人の生存者もいなかった。寄手の討死は207人とされている。

その日(19日)のうちに忠直は使者をおくり、弓木左衛門、上田隼人に死を命じた。二人は自刃し、家臣たちは討手と戦い主人の後を追った。竹島周防は城内の櫓(やぐら)に監禁され、あらためて詮議を受けることになった。久世但馬を誅伐した本多富正は咎(とが)めを受けず、失脚を狙った今村盛次らの目論見が狂ったのである。

このとき柿原郷、多賀谷氏は泰(やす)経(つね)の代になっていたが、家臣の武者奉行、丹下長左(ちょうざ)衛門(えもん)に兵を率いさせ今村盛次の屋敷の警護にあたらせた。盛次の屋敷は本多富正の屋敷に近い。久世方の反撃、あるいは本多富正の襲撃に備えるためである。

越前の騒動は幕府の知るところになり、慶長17年11月27日(1613年1月17日)、本多富正、今村盛次らが江戸に呼び出され、江戸城西の丸において、家康、秀忠の立ち会いのもと、土井利勝ら幕閣らによる尋問がおこなわれた。

今村盛次は騒動の発端は久世但馬の罪状を本多富正、竹島周防らが隠ぺいしたことで引き起こされたものであるとして、
「あきらかに理は岡部自休にあり、非は久世但馬にあります。藩主・忠直公も岡部の訴えを受け入れられ久世の罪をお認めになった。しかるに本多、竹島らは忠直公の御意向に背き、訴えを退けたのです。これは本多、竹島らの日頃の驕りからくるもので、若き藩主をないがしろにする不届きな行為に他なりません。お上におかれては厳正な裁きを下さいますようお願い申し上げます」と言上した。

一方、本多富正は「岡部自休が訴える内容は、私はもとより岡部に理があることは承知しておりましたが、久世但馬は武名の高い宿老、今百姓の訴えにより処罰することを見るに忍びなく、そのため久世の側にたって岡部の訴えを聞き入れなかったのです」と弁明した。竹島周防も「越前にお入りになったはじめに、秀康公は『私は国を得て喜んだことが二つある。一つは北陸の要地に拠(よ)ることになったこと。二つは有名な士である久世但馬を家臣に迎えることが出来たことである』と仰(おっしゃ)って、久世の武勇を感心されて、他の家臣に比べて厚遇されたのです。先君がこのように愛された人物であったため私も尊敬しておりました。事の理非を論ぜず、岡部の訴えを退けたことは先君の思いを慮(おもんばか)ってのことでございます。このことにより重罪を被ることになるともまったく悔いることはありません」と述べた。

家康、秀忠は裁定を下した。本多富正の失脚を企て騒動に持ちこんだ今村盛次に非があると断じたのである。富正の罪は不問にされ、今村盛次らに処分が下された。
尚、竹島周防は罪に問われなかったが、騒動の責任をとり自刃した。

今村盛次(25050石)   岩城(いわき)(現福島県いわき市)鳥居氏預け
中川出雲(15050石)   小諸仙石氏預け
岡部自休(1700石)    死罪
清水丹後(11020石)   仙台伊達氏預け
林 伊賀(9840石)    上田真田氏預け
谷 伯耆(3000石)    改易
広沢兵庫 (600石)   松平丹後(横須賀藩主・松平重勝(しげかつ)の嫡男)預け
落合美作(1000石)    紀州藩預け

丸岡城主であった今村盛次の後任は本多成(なる)重(しげ)となった。成重の父・重(しげ)次(つぐ)は本多富正の父・重富(しげとみ)の弟であり(前述)、成重と富正は同年(1572年生まれ)とされている。成重を推挙したのは富正であった。対抗勢力を排除した富正は北ノ庄藩を牛耳ることになる。これは幕府の意向でもあった。
豊臣家との対決は目前に迫っている。越前の親豊臣勢力を追放し、徳川系家臣でまとめる、これが家康の狙いだった。久世騒動始末もそれに沿ったものであり、ことの理非で裁断を仰ごうとした今村盛次には最初から勝目はなかったのである。

久世騒動が落着した後、家康は本多富正を呼び出した。表向き騒動について叱責したのだが、富正の忠義を(徳川宗家への)大いに称賛したという。本多富正と幕府は裁決の前から通じていたのである。親豊臣派家臣を駆逐する機会を幕府は探っていた。たまたま北ノ庄藩に久世騒動が勃発した。それを利用したのである。

さて柿原郷・多賀谷左近泰(やす)経(つね)は今村盛次の屋敷を防御したが、当主泰経が若年であり、動員されたのみということで重い処分は免れた。但し、多賀谷氏領地から柿原の881石と指中村の771石が取り上げられ本多富正に与えられている。

富正は柿原郷にも触手を伸ばしていたとされている。忠直は幕府に金津築城を申し出ているが、それは金津に己の居城を構えようとする富正の意図であったと多賀谷家伝は記している。金津城築城は結局実現しなかった。その理由は後ほど述べたい。

※ 多賀谷氏から本多氏に柿原郷、指中の領地が移った年代は、多賀谷左近三経の死後であることは確かだが、時期は不明。だが、三経死後、柿原郷多賀谷氏の領地が大きく削られているのは事実である。後で述べるが慶長18年(1613年。三経の死から6年)に北ノ庄藩は坂北郡に金津奉行を置いている。このことは多賀谷氏の領地であった坂北郡がすでに北ノ庄藩の支配下になっていることを意味している。

大坂の陣

慶長19年11月19日(1614年12月19日)、大阪冬の陣開戦。親徳川派の本多富正が掌握している北ノ庄藩は本多富正(府中城主。39000石)と本多成重(丸岡藩主。40000石)が主力となって天王寺近辺に布陣した。二人は松平忠直の家臣(家老)でありながら家康直々の指揮下に入った。越前兵は大阪城攻撃に加わるが、血気にはやる忠直(20歳)は軍令を無視して突撃し、真田幸村指揮下の鉄砲隊に狙い撃ちされ多くの将兵を失った。家康は富正と成重をよびつけ、厳しく叱責した。大坂冬の陣は忠直にとって屈辱の初陣(ういじん)に終わった。

慶長20年4月26日(1615年5月23日)、大阪夏の陣合戦の火蓋が切られた。5月7日、(6月3日)、越前兵は真田幸村勢と激突、幸村を討ち取り、さらに大阪城一番乗りを果たした。淀君と秀頼は翌8日、自害。大阪城は炎上、豊臣家は滅亡した。夏の陣での越前兵の活躍は称賛された(越前兵が夏の陣で取った首級(しゅきゅう)3650は東軍でも群を抜いていた)。
本多富正自身も一番槍を称えられた。冬の陣での雪辱を果たしたのである。恩賞として富正は黄金50枚が贈られた。
忠直には家康から名器の茶入れ、秀忠から脇差を贈られ、加増は後日にということであったが、翌年家康が死去したことにより、約束は実現しなかった。

忠直配流処分

 夏の陣が終り、豊臣家が滅亡した日から3ヶ月後の慶長20年7月13日(1615年9月5日、元号は元和(げんな)になった。翌元和2年4月17日(1616年6月1日)徳川家康死去、享年75歳であった。忠直の乱行が目立ち始めたのは元和4年頃からである。家康という絶対的な存在が消滅し、一時的に幕府の権威に陰りが見えたことも、忠直の乱行を許したのかも知れない。

家康の長男は信(のぶ)康(やす)。信康の母、築山殿とともに信長への謀反の疑いで、家康によって殺害、自刃されている。次男は秀康。本来、徳川宗家は秀康が継ぐのが筋だが、秀康は秀吉の養子にだされたと云う理由で、弟の秀忠が継いだ。だが、資質としては秀康が優れ、彼こそ、その地位に相応しいというのが、衆目の一致する所だった。

秀康は権力の非情さを知っている。兄信康は信長の命令とはいえ、父・家康に切腹を命じられた。一時は豊臣家の後継者と目された秀吉の甥、秀次は秀頼が生まれると、遠ざけられ、切腹を命じられた。のみならず秀次の側室、侍女、遺児たちも斬首された。親兄弟といえども、いったん疑惑を与えれば粛清される、それが乱世の掟である。

兄信康の自刃、秀次一族の虐殺を目撃した秀康は権力がもたらす非情さ恐怖を理解していただろう。不満を抱きながらも己の身を守るために家康には逆らわず、弟の将軍秀忠に対立する姿勢も見せなかった。だが、忠直にはそれができなかった。

忠直が不満を抱いたのが尾張家(62万石)、紀州家(56万石)、水戸家(35万石)と北ノ庄藩(68万石)の扱いである。尾張藩の藩祖は家康9男義(よし)直(なお)、紀州藩は10男頼宣(よりのぶ)、水戸藩は11男頼房(よりふさ)である。

家康の次男だった父、秀康は関ヶ原合戦(1600年)で上杉景勝、佐竹義宣の関ヶ原参陣を防ぐ功があったが、弟の尾張、紀州、水戸の藩祖諸侯は合戦に参加するどころか、生まれてもいない。彼等は甥の忠直よりも年下である。
※ 忠直は文禄4年(1595年)生まれ。義直は6歳下、頼宣は7歳、頼房は8歳下である。

尾張、紀州、水戸藩が御三家として位置づけられ、とくに尾張、紀州藩は将軍の継承権を与えられた。ならば次男である秀康が藩祖の北ノ庄藩も同列に扱われるべきと忠直は思ったであろう。だが、石高こそ三藩を上回るものの、北庄藩は格下に扱われた。

さらに家康の死後(元和2年4月17日。1616年6月1日)、幕府の北ノ庄藩・忠直に対する態度は明らかに変化した。家康生存中の慶長19年の幕府よりの書状では忠直を「越前少将様」と記しているが、元和2年の書状では「越前宰相殿」となっている。同年における義直(尾張藩主)を「尾州宰相様」、頼宣(紀州藩主)を「常陸様」、頼宣(水戸藩主)を「少将様」と記している。自尊心の強い忠直には腹に据えかねたであろう。

忠直が幕府に反抗的な態度を見せ始めたのは元和4年(1618年)からで、23~24歳の頃からである。この年は病気を理由に参勤せず、元和6年の参勤は今庄まで行きながら、体調不良を理由に引き返している。参勤は将軍に対する大名の服属儀礼であり、これを怠るということは、徳川将軍を軽んじる事に他ならない。さらに元和八年、徳川家最大の行事である日光で営まれた家康七回忌法要にも関ヶ原まで行きながら引き返し、参列しなかった。前小倉藩主、細川忠(ただ)興(おき)もこの事態を前代未聞とし、「御帰り候事成らざる様のご処置これあるべし」と、処分が必要と述べている(細川家史料)。各諸侯も親藩、譜代、外様大名問わず固唾を呑んで幕府の対応を見守っていた。

将軍秀忠にとって忠直は甥であり、娘婿ではあるが不問にすれば幕府の権威が失墜する。秀忠は娘の勝姫に腹心の旗本を遣わし事情を探った。その結果、「忠直、病気にて参列かなわず」として幕府は処分を見送った。

だが、忠直の傍若無人ぶりは改まらなかった。家老の本多富正(府中城主)、本多成重(丸岡城主)ら重臣の諫言(かんげん)も聞き入れない。あまつさえ成重を手打ちにしようとした。成重は幕府から遣わされた付家老である。処罰すれば幕府への謀反とみなされるであろう。さすがに成重処罰は見送ったものの、永見右(う)衛門(えもん)を怒りにまかせて切腹を命じた。右衛門は秀康の後を追って殉死した先代の右衛門(15350石)の嫡男である。

忠直の乱行はこれに止まらなかった。日々酒に溺れ、家臣を手打ちにした。そのため家臣たちは忠直に近づこうとしなかった。諫言するものさえおらず。藩政も滞る始末だった。ついには勝姫にまで刃を向け、かばった侍女を切り捨てた。

ここに至って秀忠は忠直処分を決断した。「国中政道も穏やかならず」との理由で忠直の隠居と世子(せいし)、仙千代(後の光(みつ)長(なが))の家督相続の内意を忠直の生母(清涼院(せいりょういん))を通じて伝えた。拒否すれば直ちに討伐、二つに一つである。幕府は本気であった。事実、出羽秋田藩の佐竹義宣(よしのぶ)に越前出兵の用意を命じている(秋田藩史料)。加賀藩の前田利(とし)常(つね)にも密かに忠直追討の内命が伝えられていた(加賀藩史料)。

忠直は覚悟していたのだろう、「本望の至り」と淡々と処分を受け入れた。元和9年(1623年)2月のことであった。忠直の配流(はいる)先は豊後(ぶんご)府内藩(ふないはん)萩原(はぎはら)(大分市萩原)。元和9年3月15日(1623年4月14日)越前を去り、途中敦賀に滞在し、髷を落として一(いち)伯(はく)と号した。忠直に同行したのは侍女3人と世話をする小者のみで士分の同行は認められなかった。正室勝姫は実子の光(みつ)長(なが)、亀姫、鶴姫を伴い江戸に移った。

忠直は5月2日(5月30日)に敦賀を発ち、同月(日は不明)荻原に着いた。5千石の食い扶持が与えられたが、府内藩と幕府目付けの警護は厳しく軟禁生活を余議されたのである。このとき忠直こと一伯28歳、血気ざかりの青年が68万石大大名から一気に転落して流人(るにん)の身分に落とされたのである。忠直は萩原で3年暮らし、その後津守(つもり)(大分市)に移された。その間、侍女の間にニ男ニ女を儲けた。長男が松千代(後の永見(ながみ)長頼(ながのり))、次男が熊千代(後の氷見長良(ながよし))、長女おくせ(早世)、次女閑(とき?)(勘(かん)とも)である。忠直は慶安3年9月10日(165010月5日)死去した。享年56歳。
残された遺児は異母兄の光(みつ)長(なが)(忠直の嫡男。後述)が藩主である高田藩(後述)に引き取られた。
※ 松千代と熊千代の母(侍女)は身分が低かったため、祖母方(秀康の母方)の姓、永見氏を名乗った。

北ノ庄藩解体

元和(げんな)9年(1623年)、北庄藩は9歳の光(みつ)長(なが)が相続した。だが、幕府は幼い藩主では68万石の大藩を治めることは無理と判断した。重臣が補佐するにしても、慶長17年(1612年)の久世騒動のような重臣の対立が再発しかねない。事実、藩政は本多富正が仕切っていたものの、反本多勢力がすべて駆逐されたわけではない。結城譜代家臣も健在である。徳川一門の筆頭として北陸の抑えを北ノ庄藩は担っている。その北ノ庄藩の腰が定まらない様では困るのである。
幕府は翌年の寛永(かんえい)元年(1624年)、忠直の弟、忠(ただ)昌(まさ)(秀康次男)を越後高田25万石(25万9千石?)から北ノ庄藩に移封させた。

ここで越後高田藩について触れておこう。前領主は家康の六男、松平忠(ただ)輝(てる)である。忠輝は川中島藩12万石の領主であったが、慶長15年(1610年)越後63万石を与えられて75万石となり、居城を高田(現上越市)に築いたのである。地勢的に見ると、秀康が治める北ノ庄藩と忠輝が治める高田藩で加賀藩を囲むような形になる。
加賀藩を抑え込むために家康の次男と六男を南北に配置したのである。

だが忠輝は家康に疎んじられていた。忠輝の不敵な面魂が嫡男信康に瓜二つで、家康はこれを嫌ったとか、忠輝の傲慢不遜な態度を嫌ったとか伝えられているが真相は不明である。家康は臨終の間際にあっても忠輝の拝謁を許さなかった。

将軍秀忠も幕閣も忠輝に厳しい目を向けていた。幕府のキリシタン弾圧政策にもかかわらず、忠輝はキリシタンと接触していた。幕府の財政運営に辣腕をふるいながらも疑惑をもたれていた大久保長安(ながやす)(幕府の金山、銀山を統括した。後、失脚する)と気脈を通じていた。忠輝の正室五郎(いろ)八(は)姫は油断のならぬ伊達正宗の娘であった。これらが警戒されていたのである。

総大将を命じられていた大阪夏の陣に遅参する、将軍秀忠の旗本を無礼討ちにするなど、幕府、将軍をないがしろにする行為が目に付いた。さらに朝廷に大阪夏の陣戦勝報告のために、家康と参内するところを病気理由に参内せず、目と鼻の先の嵯峨野桂川で舟遊びに興じるなど、家康の面目を貶めることさえおこなった。家康は激怒し以後、忠輝の拝謁を許さなかった。元和(げんな)2年7月6日(1616年8月18日)家康の死から間もなく、秀忠は弟の忠輝に改易処分を下した。

忠輝は最初に伊勢国、次は飛騨国、信濃国に流罪され、最後は諏訪高島(諏訪市)で天和(てんな)3年(1683年)死去した。享年92歳、驚くほどの長命だった。

忠輝の改易処分は北ノ庄藩主、松平忠直の配流処分、元和9年3月12日(1623年4月14日)の7年前の出来事だった。

余談だが、忠直の配流処分の9年後の寛永9年(1632年)、3代将軍家光は実弟の駿府(すんぷ)藩(52万石)藩主の徳川忠(ただ)長(なが)を改易処分とし、その翌年の寛永10年12月6日(1634年1月5日)、自刃に追い込んだ。
この三つの事件は幕府を軽んじる者は、たとえ血筋であっても厳罰に処すとの峻烈な姿勢を天下に示したものであった。

話を松平忠昌に戻す。越後高田藩、松平忠輝の改易後に入ったのが、信濃松代藩(12万石)の松平忠(ただ)昌(まさ)(結城秀康の次男。兄は忠直)である(越後高田藩75万石は分割され25万9千石を忠昌に与えられた)。元和4年(1618年)のことであった。

その忠昌が前に述べたが寛永元年(1624年)4月、北ノ庄藩主となる。忠昌は北ノ庄を改め福居とした。前藩主の仙千代(忠直嫡男。後の光長)は、越後高田藩に入った。北ノ庄藩と高田藩の国替である。
さらに、北ノ庄藩領であった大野(5万石)を分離し、弟(三男)の松平直(なお)政(まさ)に与えた。同じく勝山(3万石)を(五男)結城直基(なおもと)に、木本(大野市木本。2万5千石)を(六男)松平直良(なおよし)に与えた。

※ 秀康は長男忠直、次男忠昌、三男直政、四男吉松(早世)、五男直基、六男直良の男子をもうけた。娘は長州初代藩主毛利秀就(ひでなり)正室、喜(き)佐(さ)姫(ひめ)。

直基は当初、松平姓を名乗らず結城姓を名乗った。これは秀康の遺言である。秀康の養父、結城晴(はる)朝(とも)は名門結城氏を残すことを強く願った。晴朝の子供は娘一人で跡を継ぐ男子はいなかった。そのため宇都宮21代当主、広(ひろ)綱(つな)の次男、朝(とも)勝(かつ)を養子に迎えた。この結果、結城氏、宇都宮氏、佐竹氏の同盟が成立したのである(宇都宮広綱の正室は佐竹氏17代当主・義昭の娘、南呂院(なんりょいん)。結城・宇都宮・佐竹氏は宇都宮氏を軸に姻戚関係を結び小田原北条氏に対抗する同盟を成立させた)。同盟は北条氏の圧力に耐え、名門ではあるが弱小大名(11万石)を存続させる道だった。

だが小田原北条氏の滅亡により、関東の雄となった徳川氏と国境を接するようになると、晴朝は新たな決断をしなければならなかった。天正17年(1589年)、秀吉は待望の後継、鶴松(三才で死去)が誕生すると、有力大名から人質として取っていた養子たちを大阪城から去らせた。彼等は本家に戻れず、新たな養子先を探さねばならなかった。家康の次男、秀康もその一人であった。徳川宗家の後継はすでに秀康の弟、秀忠にとの暗黙の了解が重臣の間にあった。秀康が秀吉の養子となり一時的にせよ豊臣姓を名乗ったことにより、後継の資格を失ったのである。秀康が徳川家に戻れば、秀忠と対立し、徳川家に亀裂が生じる、秀康は他家に養子にゆくより他に道はなかった。

秀康の養子先として名乗りをあげたのが結城晴朝であった。そのために朝勝との養子関係を解消し、宇都宮氏に戻している。晴朝は水戸城主・江戸重通(しげみつ)の娘鶴姫を養女とし、秀康と鶴姫とを娶とわせ、結城家を秀康に継がせたのである。秀吉、家康に異論のあるはずもない。徳川氏からの脅威を取り去り、秀吉の覚えもめでたいとあれば、結城家の将来は盤石のように見えた。
しかし徳川家の天下になり、結城氏断絶の危機がおとずれた。徳川家の血筋の者は大名跡、松平姓を名乗ることが慣例になったのである。

秀康は結城姓を生涯名乗っていたが、嫡男忠直は松平氏を名乗ることが決定されていた。秀康で結城姓が絶える。このことを憂いた晴朝は秀康に子のいずれかに結城姓を名乗ることを申し入れたのであった。秀康は義父の申出を受け入れた。

秀康は五男の五郎八(いろは?)の養育を晴朝に依頼し、結城姓を継がせさせた。後の直基(なおもと)である。
※ 直基は当初、結城姓を名乗っていたが、晴朝の死後、松平姓に復した。御家門としての処遇を得るためである。

話を戻そう。北ノ庄藩は福居藩(後に福井藩)と改称され、68万石の領地から大野、勝山、木本が外され、丸岡(藩主は本多成重)が独立した。大野藩(5万石)、勝山藩(3万石)、木本藩(2万5千石)、丸岡藩(4万6300石)が削られたのである。さらに敦賀郡が幕府領となり(後に小浜藩に編入される)、北ノ庄藩68万石は福居藩52万5千万石に削減された。(後に木本藩が返還されて55万石となる)

領地の減少だけではなかった。家臣団にも激変があった。福居藩は忠昌が連れて来た越後高田藩の家臣団と本多富正が選んだ家臣団で編成された。それ以外の北ノ庄藩家臣の動向だが、多くが光長に従って越後高田藩(25万9千石)に行き、その他の家臣も直政に従って大野へ、直基に従って勝山へ、直良に従って木本へ赴く者に別れたのである。又、本多成重を頼り、丸岡藩士となった者もいた。

多賀谷一族は室町前期(1390年代)より結城氏の家臣であった。群雄割拠の戦国時代、多賀谷一族は結城氏を離れ独立の道を歩むが、秀康が結城家を相続すると秀吉の命令により、多賀谷左近三(みつ)経(つね)はその家臣となった。左近三経は柿原郷3万2千石を拝領し、結城氏譜代家臣の筆頭格として処遇されていた。だが、三経の嫡男・泰経が元和2年(1616年)19歳で死去すると柿原郷多賀谷氏は改易され、北ノ庄藩直轄領となった。さらに松平忠昌が藩主となると、福居藩(旧北ノ庄藩)の家臣は忠昌の直参と本多富正が率いる徳川系家臣団によって占められた。松平忠昌分限帳(ぶげんちょう)(家臣の地位、禄高、役職を記した名簿)に柿原郷多賀谷氏の当主・経(つね)政(まさ)(泰経の養子。後述)の名はない。柿原郷多賀谷氏は消滅していたのである。柿原郷多賀谷氏の断絶である。

多賀谷氏に不幸な出来事が続いていた。多賀谷左近三(みつ)経(つね)は慶長12年7月21日(1607年9月12日)に死去している。生年は天正6年(1578年。高橋恵美子著「多賀谷氏における家伝」より)だから享年は30歳になる。だが福井県史、金津町史ともに享年41歳としている。その根拠とするのは越前史略(藩史)の記載による。
「慶長十二年七月二十一日 四十一歳ニテ卒ス 邑(むら)ノ西ニ葬ル 其子(そのこ) 左近ヲ継グ 後故アリテ祀(まつり)ヲ絶ツ」

(訳) 多賀谷左近三経、慶長12年7月21日(1607年9月12日) 41歳にて死去。柿原郷の西方の地に葬られる。その子 左近を名乗り家督を継ぐ。後に故あり、三経の菩提を弔うことが途絶えた。

とすれば左近三経の生年は1567年(永禄10年)となる。三経の父、重(しげ)経(つね)の生年が永(えい)禄(ろく)元年(1558年。「多賀谷氏における家伝」より)だから、重経9歳のときの子となる。これには無理がある。やはり享年は30歳であろうか。いずれにしても早死にである。

左近三経の後継は泰経である。泰経についての文献はほとんどない、生年も不明である。家督を継いだとき、おそらく10歳に満たなかったであろう。泰経以外にこどもがあったかどうかは不明である。記述が見当たらない。その泰経は父よりさらに短命であった。
多賀谷家伝の記述。
虎千代 左近 忠直公ニ従ヒ大阪御陳高名アリ深手ヲ負フ
元和二丙辰五月七日十九歳ニテ卒 墓下妻多密院ニ在

(訳)幼名虎千代(多賀谷宗家の嫡男は代々虎千代を名乗る)。元服して左近(左近泰経)を名乗る。忠直公に従い大阪の御陳(陣)にて手柄あり。戦場で深手を負う。元和2年丙(ひのえ)辰(たつ)五月七日(1616年6月20日)、19歳にて死去。墓は下妻城下の多密院に在り。

※ 大阪夏の陣で左近泰経は首級三十八をあげ、あっぱれ武勲を輝かせた(多賀谷家伝)。首級38といわれる数の真偽はともかく、血気盛りの泰経は戦場で刀(とう)槍(そう)を振るい奮戦したのであろう。その結果深手を負ったとの記述である。

父、左近三経の死から9年、大坂夏の陣、豊臣家滅亡の慶長20年閏年5月7日(1615年6月3日)の、まさに1年後である。大阪夏の陣で深手を負ったという記述から、傷の悪化が原因であろうか。19歳の壮健な当主の死、しかも実子はいない。宗家断絶の危機である。重臣たちは右往左往したであろう。
※ 藩への届け出より以前に泰経は死去していた可能性がある。後継ぎが定まらず、延び延びになりタイミングを図っての届けとなったのであろう。

急遽(きゅうきょ)重臣の中から養子を立てた。経(つね)政(まさ)である。
多賀谷家伝の記述
虎千代 左近又ハ内記氏 実ハ泰経弟実子ナキニ付養子 故有之跡目不被下流浪
寛永十五戊寅年六月廿八日卒 墓 福井城下乗國寺ニアリ
(訳)
幼名虎千代 左近または内記(ないき)氏を名乗る 実は泰経弟実子なきに付き養子なり。故あり跡目を継ぐこと許されず浪人となる。寛永15年戊(つちのえ)寅(とら)年6月18日(1638年7月19日)死去 墓は福井城下の乗國寺(じょうこくじ)にあり。
・・実ハ泰経弟実子ナキニ付養子・・の解釈だが 実は(経政は)泰経の弟で実子なきにつき養子となる とも読める。別の解釈として 実は泰経に弟、実子がなく(経政は)養子である とも読める。

いずれにしても経政の出自は不明である。結局、経政の相続は許されず、柿原郷多賀谷氏は断絶した。仮に泰経に実子の後継がいたとしても多柿原郷多賀谷氏が福居藩の家臣として存続することは不可能だった。

慶長18年(1613年)、北ノ庄藩は坂北郡金津に金津奉行を置き、森宗(そ)右(う)衛門(えもん)(千石)を初代奉行に任じている。金津奉行所には鉄砲組26人が配置されており、坂北一帯の治安維持、国境の警備、往来の監視が主な任務である。当時、坂井郡は(竹田川の)川東を坂北郡、川西を坂南郡に別れており、越藩史略にも「坂北郡は国の北にして、街道その中にあり、南北の直径金津を郡の中心とする」と記されている。慶長18年以降、明治維新まで坂井・吉田郡は北ノ庄藩~福居藩~福井藩の藩金津奉行管理下に置かれていたのである。
慶長18年という年は久世騒動の翌年である。むろん左近泰経は健在であった(泰経の死は3年後)。この時点で柿原郷を含む坂北一帯は北ノ庄藩の支配下にあったことを示している。柿原郷多賀谷氏は既に坂北一帯の領主ではなかったことを示す重要な記録である。

左近三経の死(1607年)に伴い、10歳の泰経が家督を継いだ時から、柿原郷を含む坂北郡は北ノ庄藩の支配下に置かれるようになったのであろう。柿原郷3万2千石は左近三経までで、三経の死後、領地の多くが北ノ庄藩直轄領となっていた。

さらに前述のように北ノ庄藩は後に忠昌が越後高田から連れてきた直参と本多富正を頂点とする徳川系家臣団が中心となり、それ以外は排除された。結城秀康、松平忠直、松平光長の北ノ庄藩に仕えてきた藩士5百有余名のうち、福居藩に残った旧藩士は本多富正が選抜した105名(家臣禄より)に過ぎなかったのである。
まして柿原多賀谷氏は先の久世騒動で富正の政敵、今村盛次についた。騒動の後始末では関与の度合いが薄く、泰経も若年(15歳)であったことから処分は見送られたものの、(あるいは金津奉行設置が処分であったかも知れない)富正に疎んじられている。松平忠昌、本多富正による福居藩の新体制下に組み入れられることはなかった。
(本多富正は金津に居城を築くことを忠直に願い出ている。忠直が同意していた書状も残っている)、富正が坂北郡に野望を抱いており、そのことが多賀谷氏を断絶に追い込んだ理由との説もある。だが、富正は己の野心で動く男ではなかった。

※ 忠直騒動の後、北ノ庄藩から丸岡を分離させ本多成重に丸岡藩(4万6300石)を立藩させたのだが、その際、富正にも府中藩(4万5千石)の立藩の話があったのだが、富正は固辞し北ノ庄藩筆頭家老として留まった。

富正が願い出た金津城築城はあくまでも加賀前田藩に対する備えであった。結局、実現しなかったのだが、その理由として加賀前田藩の歴代藩主が徳川家と婚姻関係を結び、脅威が取り除かれたからである。
※ 2代藩主利(とし)常(つね)の正室が徳川秀忠次女・珠(たま)姫(ひめ)。(長女千姫。三女勝姫・・忠直正室)
その子・光(みつ)高(たか) が3代藩主となり、光高は水戸藩初代藩主徳川頼房(よりふさ)の4女で徳川3代将軍家光の養女・大姫(おおひめ)を正室とした。その子・綱紀(つなのり)が4代藩主となり、家光の異母弟の保科正之(ほしなまさゆき)の娘・摩須姫(ますひめ)を正室とした。それ以降も加賀前田藩は徳川家と婚姻関係を結び外様大名ではあるが、徳川家との絆を強めていった。

加賀藩の脅威は薄められ、備えとしての金津城築城は目的を失ったのである。それはとりもなおさず越前加賀国境警備のために配された柿原郷多賀谷氏の存在意義も失われたということでもあった。平時の領地支配は奉行所だけで十分なのである。当主・泰経の死、後継不在によって柿原郷多賀谷氏は断絶に追い込まれた。当然の帰結といえよう。

柿原郷の多賀谷一族のその後はどうなったのだろうか。光長に従って越後高田藩に赴いた者もいた。結城氏を相続した直基(なおもと)の家臣となった者もいた。祖先の地、下妻に帰郷した者もいた。福井藩士として残った者もいた。 武士は捨てたが越前に残った者もいたであろう。
※ 結城秀康分限帳には左近三経以外に多賀谷姓を名乗る家臣として多賀谷権(ごん)太夫(たゆう)(2050石)、多賀谷式部(200石)、多賀谷将監(しょうげん)(200石)、多賀谷徳千代(150石)、多賀谷靭負(ゆきえ)(150石)の名前が見える。左近三経系多賀谷氏の支族である。
※ 越後高田藩の家臣禄に多賀谷内記(ないき)(1000石)の名前がある。
※ 松平(結城)直基~直矩系家臣団、直政、直良の家臣団については調査中。

跡目を継ぐことを許されず浪人となった経政は不遇の生涯をおくったが、その子、経(つね)栄(ひで)については短く記述されている。
虎千代 左近修理 松平大和守直矩公ニ仕フ    川越多賀谷家祖 

(訳)幼名虎千代。元服して左近修理(しゅり)を名乗る。松平大和守直矩(なおのり)に仕えた。川越多賀谷氏の祖となる。

経栄は直基の嫡男松平大和守直矩(なおのり)に仕え、川越多賀谷氏の初代となった。その子孫は家老職を輩出する家柄となり、家系は明治維新まで続いた。
以上、柿原郷多賀谷氏が廃絶に至った理由と、その行く末である。

尚 柿原の専(せん)教寺(きょうじ)は柿原郷多賀谷一族の菩提寺であるが、七世了(りょう)西(さい)についての記述がある。これを解読して「戦国非情 結城氏・多賀谷氏 伝」を閉じたい。

「釈(しゃく)了(りょう)西(さい)法師は当初多賀谷左近の二男にて、多賀谷光之(みつの)助(すけ)といふ仁(ひと)にて候。二十四歳にて当時第七代の現住(げんじゅう)(住職)と相成り寺務(じむ)つつがなく候処(そうろうところ) 折悪しく慶長年中多賀谷城主に兵乱多し、よって近辺の檀中(信徒)三百余人引(ひき)具(ぐ)し(ひきつれて)罷り(まかり)出(い)で候処、忽(たちま)ち落城に付、住僧も共に逐電し、当寺も没落し廃寺の体(てい)と相成るとなん。
その後数年経て、寛永四年(1627年)の秋、住(じゅう)僧(そう)(了西)五十五歳、並(ならび)に一子了光(りょうこう)なりしを引きつれ帰山し、専教寺再建の志願これあり候へども、門徒など各々(おのおの)散乱して、ようやく五十軒ばかり残りまかりあり、これを取立てわずかに小堂一宇(いちう)造立(ぞうりゅう)し、多賀谷の菩提を弔はんがため相続しけり」

多賀谷左近三経には泰経以外に子があったという記述はない。当時左近泰経は15歳前後である。とすれば光之助とは重経の二男(左近三経の弟)忠(ただ)経(つね)のことを指すのであろうか。ただ忠経に関する記述は多賀谷系譜でも見当たらない。多賀谷宗家では左近三経の祖父・政経(まさつね)、父・重(しげ)経(つね)、左近三経、嫡男・泰(やす)経(つね)、さらに経(つね)政(まさ)と経(つね)の一字を用いている。光之助は忠経の幼名かも知れない。
※多賀谷家伝に経政の子であろうか僧侶がいたとの記述がある。但しそれにはこう記されている。奥州一族ノ方ニテ早世  奥州一族(佐竹氏)の方にて早世。
この記述から了西と関連付けることは難しい。

慶長年中多賀谷城主に兵乱多しとの記述についてだが、多賀谷氏が外部から攻められたという事実はない。一族内で争いがあったという事実もない。考えられるのは慶長17年(1612年)に福井藩で勃発した久世騒動に多賀谷左近泰経が巻きこまれたという事実である。この騒動で泰経は本多富正と対立する今村盛次についた。その久世騒動で忠経が戦いに加わったという史実はない。まして一揆ならともかく、檀中が武士の争いに加わることはない。あるとしたら柿原郷の支配が多賀谷氏から福居藩金津奉行に移った際、柿原百姓衆と奉行所の間で諍(いさか)いがあり、一揆騒動に発展し、百姓衆が根城とした専教寺が破却されたかも知れない。

尚、久世騒動に多賀谷氏側で参陣したのは重臣の武者奉行であった丹下(たんげ)長左(ちょうざ)衛門(えもん)である。これらの事実を錯誤しているのではないか。史実に照らし合わせ、専教寺史を解釈すると以下のようになる。(私見)

「北ノ庄藩で藩を二分する争いが起こった(久世騒動)。本多富正と今村盛次の争いである。多賀谷左近泰経は武者奉行、丹下長左衛門に兵三百余を預け今村盛次の屋敷を守らせた。争いは藩内で収まりがつかず、幕府の裁定を仰いだ。大御所家康、将軍秀忠も直々に裁定に加わり、その結果、本多富正が勝利し、今村盛次一派は越前追放処分を受けた。
争いが決着した後、今村盛次に味方した柿原郷多賀谷氏は窮地に陥り、その翌年、坂北郡は福居藩金津奉行の支配下に置かれた。

 柿原郷は多賀谷左近三経、泰経が治めていた頃は穏やかな郷村であったが、金津奉行が差配するようになると何かと不便になり、日々の仕事、暮らしに支障が生じるようになった。たまりかねた百姓衆は専教寺に集まり対策を講じた。その結果、住職の了西を通じて奉行の森宗右衛門に申立書を提出することになった。了西は先代左近三経の弟で忠経、幼名は光之助と称した。24歳のとき出家して了西を名乗った。専教寺7代である。
専教寺は浄土真宗の寺院で、多賀谷左近三経が柿原郷領主となった際、多賀谷氏が菩提寺とした。それまでは柿原郷の小寺であったが、左近三経は伽藍建立、田畑の寄進を通じて専教寺の隆盛に尽くした。了西が7代に継いだのは、そのような経緯からである。了西はそれまでつつがなく寺務を遂行していたのだが、百姓衆の依頼を引き受けることにより立場が一変した。

奉行・森宗右衛門は百姓衆の申立書は了西の扇動によるものとし、その背後に金津奉行設置に不満を持つ柿原郷の多賀谷一族が存在すると捉えた。申立ては即座に却下。吟味されることなく却下されたことに百姓衆は怒り、徒党を組み奉行所に押し掛け、申立てを取り上げるよう迫った。
これらの行為を奉行は一揆、強訴(ごうそ)の類とし追い払った。怒った百姓衆は専教寺に集合し奉行所を襲わんと気勢をあげた。それを察知した宗右衛門は先手を打って専教寺を襲い、破却した。さらに了西を騒動の首謀者として捕えようとしたが了西は加賀国に逃れた。

専教寺再建は奉行所が許さなかった。元和(げんな)2年丙(ひのえ)辰(たつ)(1616年6月20日)、当主左近泰経が死去すると柿原郷多賀谷氏は廃絶となり、家臣各々が各地に離散した。一族が去った柿原郷で、専教寺は朽ち果てた。一揆騒動の経緯から領民は多賀谷一族を祀ることさえ憚ったのである。

寛永4年(1627年)、了西は一子了光を伴い帰郷し、専教寺の再建を目指したが、門徒は廃寺を離れ、再建は困難を極めた。ようやく50軒ばかりの門徒を訪ね、寄進を受けささやかながら一宇を建立し、多賀谷一族の菩提を弔った。その後は了光が引き継ぎ、それ以降も代々の専教寺住僧が多賀谷一族の菩提を弔っている」

史実に照らし合わせ専教寺再興物語を創作したのだが、どうであろうか。


               戦国非情 結城氏・多賀谷氏伝    了。

参考資料 関城町史 下妻市史 福井市史 福井県史 金津町史 細呂木村史
      結城系譜 多賀谷系譜 松平大和守系譜   他。

2014年9月                      編集  長谷川勲
                      )の系譜  第三部(NO34~54)

結城(ゆうき)秀(ひで)康(やす)は6男2女の子をもうけた。そのうち長女、4男が早世している。長男忠(ただ)直(なお)(北ノ庄藩2代藩主)、次男忠(ただ)昌(まさ)(北ノ庄藩4代藩主。福居藩。)、次女喜(き)佐(さ)姫(ひめ)(長州藩初代藩主・毛利秀就(ひでなり)正室)、3男直(なお)政(まさ)(越前大野藩初代藩主。1601~1666)、4男吉松(早世)、5男直基(なおもと)(越前勝山藩初代藩主。1604~1648)、6男直良(なおよし)(越前木本(このもと)藩初代藩主。1605~1678)である。後に直政、直基、直良は移封され、それぞれが直政系越前松平氏、直基系越前松平氏、直良系越前松平氏として明治維新まで大名として存続した。その系譜を紹介したい。(徳川諸家系譜より)
※  忠直の配流処分の後、家督は忠直嫡男・光(みつ)長(なが)に譲られたのだが、光長は幼少につき北ノ庄藩藩主に就かず、越後高田藩に移封となった経緯がある。その場合3代藩主は忠昌、それ以降1代ずつ繰り上げとなるのだが、福井県史では光長を3代藩主としている。ここでは福井県史に従いたい。
※  忠昌・・最初は上総姉ヶ崎藩(千葉県市原市姉ヶ崎)1万石の藩主。次に常陸下妻藩(茨城県下妻市)3万石。以下、信濃松代藩(長野県松代市)12万石、越後高田藩(新潟県上越市)25万石。最後は越前北ノ庄藩52万5280石藩主。

1 北ノ庄藩(福居藩 福井藩)の系譜
 「戦国非情 結城氏・多賀谷氏伝 第2部」で記述したのだが、2代藩主忠直が豊後に配流処分となった後、北ノ庄藩は解体された。すなわち北ノ庄藩68万石は丸岡藩4万6千石(藩主本多成重)、大野藩5万石(藩主松平直政)、勝山藩3万石(藩主松平直基)、木本藩2万5千石(藩主松平直良)、合わせて15万1千石が譲られ、さらに敦賀郡が幕府に召し上げられて50万5280石に減封されたうえで忠昌に引き継がせたのである。
忠昌は北ノ庄藩を福居藩に改称し、無難に藩政をこなした。大野藩主の直政は信濃松本藩(7万石)へ移封され、大野藩には勝山藩主の直基が入った。勝山藩には木本藩主の直良が入った。木本藩のうち2万石が返還され福居藩は52万5280石となった。

※ 福居藩が福井藩に改称されたのは8代藩主松平吉品(よしのり)の時代。
忠昌は正保(しょうほう)2年8月1日(1645年9月20日)に死去した。享年49歳。忠昌の治世は18年に及んだのだが、北ノ庄藩~福居藩~福井藩で最も安定していた時代といわれている。

4代当主は嫡男光通(みつみち)(1636~1674)が継いだ。忠昌には長男、昌(まさ)勝(かつ)(1636~1693)がいた。昌勝は光通より2ヶ月早く生まれたが母は側室で、次男ではあるが正室の子光通が当主の座に就いたのである。昌勝には忠昌の遺言により5万石を分与して松岡藩を興させた。五男の庶子昌(まさ)親(ちか)(三男、四男は早世(そうせい))には2万5千石を分与し吉江藩(鯖江市吉江町)を興させた。福居藩は45万280石となった。
※近松門左衛門(杉森信(のぶ)盛(もり)。1653~1725)の父・杉森信義(のぶよし)は昌親が吉江藩主のとき、近臣として仕えた。信義が昌親のもとを辞したのは寛文4年(1644)で、信盛11歳のときである。

光通の正室は越後高田藩の藩主松平光(みつ)長(なが)(忠直嫡男)の娘、国姫である。2代将軍秀忠の娘、天(てん)崇院(すういん)(勝姫・・忠直の正室。光長の生母)の孫になる。光長も天崇院も我が血筋から福居藩藩主を出したいとの強い執着があった。国姫を半ば強引に光通に押し付けたのである。
それでも光通と国姫の間には二人の女児が誕生した。しかし光長や天崇院が望む男子は誕生しなかった。光長は側室との間に権蔵(ごんぞう)(後の直(なお)堅(かた)。1656~1697)という男子をもうけたのだが、光長も天崇院も後継とは認めず、あくまでも国姫との間に生まれた男子を後継にすべきと主張した。だが国姫は懐妊せず、35歳のとき、周囲の期待に耐えかねて自害した。
本来なら後継は権蔵になるのだが、光長と天崇院は国姫の死は彼の存在にあると憎んだ。身の危険を感じた権蔵は福居を出奔し、叔父である大野藩主、松平直良(なおよし)のもとに逃れた。

藩内は後継を巡り、光通の庶子、権蔵を推挙する家臣、光通の兄ではあるが庶子の昌勝
(松岡藩主)、同じく庶子の弟、昌親(吉江藩主)を推挙する家臣が対立し、騒動に発展した。妻の自害、藩内の内紛は教養人ではあったが、ひ弱な光通を追い詰めた。光通は精神の安定を欠き、床に伏せるようになった。国姫の死から3年後の延宝(えんぽう)2年3月24日(1674年4月29日)、後継を異母弟の昌親に指名して自刃した。享年39歳。

兄の昌勝が露骨に後継の座に就くことを求め、藩論も昌勝派が大勢を占め、昌勝擁立を光通に迫ったため、反発した光通が昌親を指名したといわれている。福居藩は吉江藩を併合して47万5280石となった。

昌親が福居藩主となった翌年の延宝3年は飢饉となった。前年の6月11日(1674年7月14日)に雹(ひょう)が降るなどの異常気象が大凶作の原因となった。
「延宝3年卯(う) 天下飢饉 別シテ越前人多死 掘穴埋死人」
(延宝3年卯年・・1675年・・ 全国的に飢饉発生 特に越前の領民餓死する者多し 穴を掘り死人を埋めた)との記録が残っている。
就任早々、昌親は困難に直面した。加えて長兄の昌勝を斥(しりぞ)けて末弟の昌親が家督相続したことに藩内、とりわけ昌勝派から反発の声が続出した。延宝4年7月21日(1676年8月30日)、昌親は隠居した。在任2年余であった。

後継は長兄、昌勝の嫡男・綱(つな)昌(まさ)であった。これで福居藩は落ち着いたと思われたのだが、綱昌には元々藩主としての資質はなかった。長ずるに及んでも藩政に対応できる能力に欠け、立ち居振る舞いにも資質を疑わせた。最初は昌勝派の重臣たちが取り繕っていたのだが、彼等も綱昌の資質に疑問を抱くようになった。藩内では前藩主の昌親派の巻き返しが始まった。綱昌への非難が始まると、彼は苛立ち、立腹のあまり家臣を手打ちにするようになったのである。綱昌の機嫌を損じることを恐れた家臣は藩政への意見具申どころか、近づくことさえ避けた。

延宝8年8月6日(1680年8月29日)、台風が日本を直撃した。強風と豪雨によって作物は甚大な被害を受け、凶作は全国に及んだ。翌年の天和(てんな)元年(1681年)はさらに深刻であった。この年は大旱(たいかん)(大ひでり)の被害に加えて、7月28日(9月10日)の台風で稲はことごとく吹き飛ばされ、凶作となった。2年続きの凶作に米の値段は高騰し、民衆は困窮し、乞食、飢死者がでた。各藩では(貧民に米を施す)施米(せまい)などの対策をとったが、福居藩では対応が遅れ、大量の飢死者を出した。餓死者は町にあふれ疫病も蔓延(まんえん)した。藩の財政も飢饉により悪化した。延宝3年(5年前)の教訓が生かされなかったのである。

「御国大ニ飢饉ス 餓死人道橋ヲ塞ギ 死骸平岡山石ヶ谷ニ埋」
「当年大飢饉ニ付収納相滞」     片聾記(へんろうき)より
(福居藩に大飢饉発生する。餓死者は道、橋にあふれ、死骸は平岡山石ヶ谷に埋められた。当年は大飢饉により年貢の徴収は滞った)  
福井藩士伊藤作右衛門が著した片聾記(福井藩歴史書)に当時の事が記されている。

綱昌の治世能力の欠如は明らかであった。非難の声が高まると彼は精神の異常をきたした。理由もなく家臣を殺害し、それは側近にまで及んだ。藩内だけではなく、公の席でも奇行が目に付いた。大名在府(江戸詰)の折には江戸城登城が義務付けられており、怠れば幕府から叱責され、重なれば改易の口実を与える。それにもかかわらず綱昌は怠った。
怠ったというより、人前に出ることができなかったのであろう。それほど綱昌の病状は深刻だった。やむを得ず前藩主の昌親が代行したのだが、すでに綱昌の奇行、乱行は幕閣にも知れ渡っており、幕府は「綱昌は狂気」と断じ、藩主の座を剥奪し蟄居を申し渡した。

福居藩に対しては、御家門(松平家)筆頭の家柄であることを配慮し、廃絶にはしなかった。処分は前藩主・昌親の復帰を許したうえで47万5280石をいったん召し上げ、改めて25万石を与えたのである。貞(じょう)享(きょう)3年(1686年)3月のことで世に「貞享の半知」とよばれている。

昌親は福居藩主に復帰し、名前を吉品(よしのり)と改めた。吉品は福居を福井と改称した。この事件により福井藩の格式は格段に落とされた。従来幕府からの文書の宛名は「越前少将」であったが「越前侍従(じじゅう)」と格下げされ、江戸城の詰間(づめのま)(将軍に拝謁する際の控席)は御三家と同じく最上席の大廊下であったのが、外様の大大名と同じ大広間に移された。

知行半減は当然ながら藩財政の破綻を招いた。吉品は財政再建のために家臣の削減、俸禄の半減を実施した。また特産品の越前和紙を藩の専売にするなど、産業振興にも力を注いだが、吉品の治世の間、凶作が続いたこともあり、慢性的な財源不足に陥って、御用金による調達、藩札の増刷は恒常化していった。

吉品は宝(ほう)永(えい)7年(1710年)に隠居した。彼には嗣子(しし)はなく、異母兄・昌勝(綱昌の父)の六男昌邦(まさくに)を養子に迎え後継ぎとした。昌邦は後に吉邦(よしくに)と名を改めた。吉品は家督を譲った翌年死去した。享年72歳。

吉邦は兄綱昌と異なり名君であった。吉品が道半ばであった財政再建を果たし、善政を敷いて領民から慕われたという。享保(きょうほう)6年(1721年)死去。享年41歳。吉邦にも嗣子はなく、兄の宗(むね)昌(まさ)(昌勝三男)が福井藩主となった。宗昌は松岡藩(5万石)の藩主であっため、福井藩は松岡藩を併合し30万石となった。
※ 宗昌には嗣子となる男子がいなかったため、白河新田藩主松平知(ちか)清(きよ)(後述)の二男・宗矩(むねのり)を養子として11代当主とした。松平知清は結城秀康の5男・松平直基(結城直基)の孫。父は直矩。
※ 宗矩にも実子がおらず、一橋徳川家当主の徳川宗尹(むねただ)の長男重昌(しげまさ)を養子に迎えた。代々続いていた結城秀康血脈の福井藩主は宗矩の代で途絶えた。
※ 宗昌の4代後、14代藩主、治(はる)好(よし)の代に2万石加増され、それ以降、越前松平藩は32万石として明治維新を迎えた。

尚、光通(みちみつ)の実子ながら継承を放棄し出奔した権蔵(後の松平直(なお)堅(かた)。前述)は元禄10年(1697年)死去した。享年42歳。嫡男直(なお)知(とも)は21歳で夭折。直知に実子がいないため松平直之(なおゆき)(1682~1718)を直知の養子とした。直之の祖母は松平直良(なおよし)(権蔵が頼った叔父。結城秀康の6男)の娘了(りょう)達院(たちいん)。祖父は松平直(なお)政(まさ)(結城秀康の3男)の次男松平近(ちか)栄(よし)(後述)である。直之は後に越前松平系糸魚川藩(1万石)の初代藩主となった。幕末に至り、末裔の松平直(なお)廉(きよ)(糸魚川7代藩主)は松平慶(よし)永(なが)(春嶽)の養子となり、名を茂(もち)昭(あき)と改め、18代藩主となった。福居藩を出奔した権蔵(直堅)の家系が福井藩最後の藩主として登場した。歴史の因縁である。(別項NO6 糸魚川松平氏の系譜で記述)

歴代福井藩主一覧
1 結城秀康 徳川家康の次男 就任 慶長5年(1600)27歳   享年34歳
  (1574~1607)北ノ庄藩68万石。
2 松平忠直 結城秀康の長男 就任 慶長12年(1607)13歳  享年56歳
  (1595~1650)
3 松平光(みつ)長(なが) 松平忠直の長男  就任 元和(げんな)9年(1623) 9歳  享年93歳
  (1616~1707)
※ 松平光長は越後高田藩に移封。越後高田藩については別項で記述。
4 松平忠(ただ)昌(まさ) 結城秀康の次男  就任 寛永(かんえい)元年(1624)28歳  享年49歳
  (1598~1645)北ノ庄改め福居藩52万5280石。
5  松平光通(みつみち) 松平忠昌の次男  就任 正保(しょうほう)2年(1645)10歳  享年39歳
  (1636~1674)福居藩45万280石になる。
6  松平昌(まさ)親(ちか) 松平忠昌の五男 就任 延宝(えんぽう)2年(1674)35歳 没年は吉品(よしのり)に記入
  (1640~1711)
※ 光通は次男だが正室の子であり、長男だが庶子の昌勝を斥け光通が忠昌の後継となった。その経緯から光通は昌勝を嫌い、死にあたって(自刃)弟の昌親(庶子)を後継に指名した。しかし、昌勝派の反発が強く、2年足らずで藩主の座を昌勝の長男、綱昌に譲った。
※ 昌親が吉江藩主のとき、近松門左衛門(杉森信(のぶ)盛(もり))の父杉森信義(のぶよし)が昌親の近臣として仕えていた。信義が昌親のもとを去ったのは寛文4年(1664)、信盛11歳のときであった。
※ 昌親、藩主に就くと任地の吉江藩2万5千石を福居藩に戻し、47万5280石となる。
7  松平綱昌 松平昌勝の長男  就任 延宝4年(1676)16歳    享年39歳
  (1661~1699)
※  綱昌は乱行が続き、失政もあったため、幕府より隠居を申し渡された。

8  松平吉品(よしのり) 昌親の再任   就任 貞(じょう)享(きょう)3年(1686)47歳    享年72歳
※ 幕府は綱昌の不行跡を叱責し福居藩を知行半減処分(25万石)としたうえで前藩主・昌親の復帰を許した。昌親は藩主に復帰するに当たり吉品に改称した。吉品に嗣子がいなかったため、兄昌勝の六男、昌邦を養子とした。昌邦は藩主の座に付くと吉邦と改称した。
※ 吉品は藩主復帰に伴い、福居を福井と改称した。福井藩25万石。

9  松平吉邦(よしくに) 松平昌勝の六男  就任 宝(ほう)永(えい)7年(1710)30歳    享年41歳
  (1681~1722)
  吉邦にも嗣子がおらず実兄の宗昌(松岡藩5万石)が跡を継いだ。
10 松平宗(むね)昌(まさ) 松平昌勝の三男  就任 享保(きょうほう)6年(1721)47歳    享年50歳
  (1675~1724)
※ 宗昌は松岡藩(5万石)の藩主であったが、吉邦の死去に伴い、福井藩主となった。福井藩は松岡藩5万石を併合し30万石になった。
宗昌にも嗣子がおらず、越前松平家系白河新田藩主・松平知清の次男宗矩に前藩主吉邦の娘、勝姫を娶わせ世継ぎとした。
11 松平宗矩(むねのり) 松平知(ちか)清(きよ)の次男  就任 享保9年(1724)10歳    享年35歳
  (1715~1749)
※ 松平知清は結城秀康五男の結城(松平)直基(なおもと)(後述)の孫。父は直矩(なおのり)(後述)。
宗矩にも実子がいなかったため、一橋家から養子を迎えた。結城秀康血統福井藩主は宗矩の代で絶えた。
12 松平重昌(しげまさ) 徳川宗尹(むねただ)の長男  就任 寛(かん)延(えん)2年(1749)7歳     享年16歳
  (1743~1758)
※ 徳川宗尹は8代将軍徳川吉宗の4男。徳川御三卿のひとつ一橋家の初代当主。
重昌が夭折したため、弟の重富が後を継いだ。
13 松平重富(しげとみ) 徳川宗尹の三男  就任 宝暦(ほうれき)8年(1758)11歳    享年62歳
  (1748~1809)
14 松平治(はる)好(よし) 松平重富の長男  就任 寛政(かんせい)11年(1799)32歳    享年58歳
  (1768~1826)福井藩2万石加増され32万石となる。
15 松平斉承(なりつぐ) 松平治好の次男  就任 文政9年(1826)16歳    享年25歳
  (1811~1835)
  斉承の実子はすべて早世しているため家斉の子・斉善を養子に迎えた。
16 松平斉(なり)善(さわ) 徳川家(いえ)斉(なり)の二十四男 就任天保6年(1835)16歳    享年19歳
  (1820~1838)
家斉は11代将軍。斉善にも実子はおらず田安家から養子を迎えた。
17 松平慶(よし)永(なが) 徳川斉(なり)匡(まさ)の八男  就任 天保9年(1838)11歳    享年63歳
  (1828~1890・・明治23年)
※ 徳川斉匡は御三卿のひとつ田安徳川家の3代当主。
※ 松平慶永は幕府大老伊井直(なお)弼(すけ)と対立し、安政5年(1858年)7月、幕府より隠居を申し渡され謹慎処分を受けた(安政の大獄)。慶永30歳であった。慶永は越前松平家系糸魚川藩(1万石)7代藩主、松平直(なお)廉(きよ)を養子として迎え、福井藩を継がせた。
直廉は茂昭と改名した。

18 松平茂(しげ)昭(もち)  松平直(なお)春(はる)の長男 就任 安政5年(1858)23歳    享年55歳 
 (1836~1890)
※ 松平直春は越前松平系糸魚川藩6代藩主。福井藩最後の藩主。

2 越後高田藩の系譜

北ノ庄藩主・松平忠直に元和9年(1623年)2月、豊前に配流処分が下された。忠直時代68万石あった所領のうち、忠直の弟・直政(秀康3男)は大野5万石を、直基(秀康5男。4男は早世)は勝山3万石を、直良(同6男)は木本2万5千石を与えられ其々(それぞれ)が立藩した。さらに重臣の本多成重には丸岡4万6千石が与えられ(本多丸岡藩の成立)、敦賀領が幕府直轄地として取り上げられた。北ノ庄藩は52万5千石になり、忠直嫡男・光長(9歳)が引き継いだ(前述)。だが、翌年4月幕府は越後高田藩(25万9千石)の松平忠昌に北ノ庄藩移封を命じ、高田藩には光長を充てることを決定した。国替えである。
※ 後に木本藩(2万5千石)のうち2万石分が北ノ庄藩に戻され、忠昌の時代、52万5280石となった。
忠昌は高田藩士を引き連れて越前に入国し、光長は北ノ庄藩士の多くを引き連れて越後高田藩に移った。藩家臣団5百有余名のうち北ノ庄藩に残ったのは百名余といわれている。あとは光長に伴い越後高田藩に移った。無論、それ以前に直政、直基、直良に従って北ノ庄藩を離れた家臣も、丸岡藩に移った家臣もいたであろう。

越後高田藩主となった光長は一男二女をもうけた。嫡男綱(つな)賢(かた)、国姫、稲(いな)姫(ひめ)である。
国姫は福居藩5代藩主松平光通(みつみち)の正室となった(前述)。稲姫は伊予宇和島藩2代藩主伊達宗(むね)利(とし)の正室となった。綱賢は元来病弱だったのであろう、家督を継ぐことなく、42歳で死去した(1674年)。綱賢には子供がいなかったから、高田藩断絶の危機である。

だが、後継候補は準備されていた。北ノ庄藩2代藩主・松平忠直が配流先で侍女に産ませた子供たちで、光長の異母弟妹にあたる。忠直は豊後府内萩原(はぎはら)(大分市萩原)、後に津守(大分市津守)で軟禁生活を送っていたのだが、その間、侍女との間に長頼(ながより)(1630~1667)、長良(ながよし)(1632~1701)とおくせ(早世)閑(とき)(生没年不明)の二男二女をもうけていた。長頼、長良は結城秀康の母、於(お)万(まん)の方(かた)の実家、永見姓を名乗った。忠直は慶安3年9月10日(1650年10月5日)に死去しているのだが(享年56歳)、3人の遺児たちは異母兄の越後高田藩主・松平光長に引き取られて、それぞれ2千石が与えられていた。
遺児といっても長頼は21歳、長良は19歳になっていた。(光長は34歳だった)。閑は高田藩に移った後、小栗美作(びさく)(正矩(まさのり)とも。後に越後高田藩首席家老)に嫁いだ。

越後高田藩の後継候補となった兄弟だが、兄の永見長頼は綱賢に先立つこと7年、寛(かん)文(ぶん)7年(1667年)に38歳で死去している。長頼の嫡男、万(まん)徳丸(とくまる)(1662~1735.元服して市(いち)正(まさ))は綱賢の死去のとき13歳と思われる。永見長良は43歳になっていた。

永見長良、永見市正と小栗美作と閑との子、小栗(おぐり)長治(ながはる)(後に大六)の3人が候補となった。さらに徳川一門から世継ぎを迎えようとする動きもあった。候補となったのは尾張藩2代藩主徳川光(みつ)友(とも)の次男・松平義(よし)行(ゆき)である。義行の母は徳川家光の長女・千代姫、越後高田藩の安泰には絶好の世継候補である。

後継をめぐって藩論は紛糾した。原因は藩内の対立である。越後高田藩の実権は首席家老・小栗美作が握っており、美作の強権的な手法に他の重臣、萩田(はぎた)主(しゅ)馬(め)、岡島壱岐(いき)、本多七(しち)左(ざ)衛門(えもん)のみならず家臣の多くが美作に反発していた。

小栗美作が強権的な手法をとらざるを得なかったのには理由があった。
寛文5年(1665年)12月、地震に襲われた越後高田藩は大きな被害を受けた。時の執政、小栗五郎(ごろう)左(ざ)衛門(えもん)、萩田隼人(はやと)は圧死した。彼等の嫡男・小栗美作、萩田主馬が家督を継ぎ藩政を担った。

小栗美作は幕府より5万両を借り、高田の復興にあたった。城下の区画整理、直江津に港を造り、関川(信濃、越後を通過し日本海に注ぐ一級河川)の浚渫(しゅんせつ)、用水路の開削(かいさく)、新田の開発などに着手した。さらに煙草葉の栽培、銀の採掘など殖産興業にも力をいれた。
いずれも多額の資金を要する。その費用を捻出するため藩士の禄を地方(じかた)知行制(ちぎょうせい)から蔵米制にあらためた。地方知行制というのは藩が家臣に禄として知行(地方と呼ばれる土地と、そこで生産活動をする百姓の支配権)を与えることである。一方、蔵米制度とは藩が一元的に所領を管理し、年貢を藩の蔵に納めさせ(蔵米)、藩士の石高にしたがって支給する制度である。
※ 江戸時代中期以降は特定の上級武士を除き蔵米制度だった。
下級藩士は以前より蔵米制であったが、中、上級藩士は知行制の特権を認められていた。その特権を剥奪されたのである。さらに財政に窮した諸藩の手法として藩士の俸禄の一部を返上させることが慣習化していたのだが、越後高田藩も例外ではなかったであろう。藩士にとってニ重の負担増となり、執政・小栗美作への反感となった。萩田主馬も美作と袂を分かち対決するようになった。

藩士ばかりではなかった。(彼の施策は後世評価されるのだが)矢継ぎ早の土木工事は増税となって跳ね返り、領民に負担を強いた。一方で藩主光長の贅沢な生活は収まらず、美作もそれに倣(なら)った。藩内外からの怨嗟(えんさ)の声は当然、美作に向かった。

藩主・光長の嫡男綱賢が死去し世継ぎが絶えたとき、美作が我が子の小栗長治を世継ぎに据えるのではないかと彼等は疑念を抱いていた。後継問題を契機に反小栗派が形成され、美作追い落としが開始された。その先頭に立ったのは永見長良と萩田(はぎた)主(しゅ)馬(め)であった。藩内の醜悪な権力争いを目の当たりにして尾張徳川家では早々に後継問題から手を引いた。

後継問題は重臣の評議の結果、永見市正に決定した。市正は松平光長の養子となり名を松平綱(つな)国(くに)と改めた。後継問題は対立する小栗美作の子・小栗長治でも、反小栗派が推す氷見長良でもなく、市正に決まったことで落着したように見えた。

だが、反小栗派はこの決定を小栗美作の策謀と断じた。幼年の市正をいったん藩主とすることで長良擁立論を封じこみ、自身は市正(綱国)の背後にあって藩政を操る。いずれ機会を捉えて長良派を排除して、その上で綱国を隠居させ、小栗長治を藩主に据える陰謀であると、藩内に触れまわったのである。

かねてより小栗美作の強引な藩政運営に不満を抱いていた家臣たちは萩田主馬らの訴えに同調した。萩田主馬ら反小栗派重臣は藩主光長に目通りして、小栗美作の悪政を糾弾する書状を提出した。書状には糾弾に同意する890名の誓紙(せいし)が添えられていた。890名という人数は越後高田藩の藩士の数よりも多い。領民も加わっていたのである。

彼等は藩政を私している小栗美作を排除することが藩の為、主君の為、領民の為と主張し、自らを「お為方(おためかた)」と称していた。光長の嫡男・綱賢の死去から5年後の延宝7年(1679年)の正月であった。

首席家老・小栗美作非難の藩論の高まり、長引く抗争に光長は美作に隠居を命じ事態の収拾を図ろうとした。美作は長治に家督を譲って隠居したのだが、勢いづいたお為方は隠居のみならず、小栗一派の藩政からの一掃を藩主光長に迫った。小栗美作はこの動きは永見長良の扇動によるものと捉え、お為方の狙いは綱国を傀儡化して藩政の実権を掌握することにあると睨んだ。双方の不信感と憎悪は募り、市中での争い、放火騒動が勃発し越後高田藩は混乱の極(きわ)みに達した。

もはや手に負えなくなった光長は懇意にしていた幕府大老・酒井忠(ただ)清(きよ)に解決を委ねた。忠清は双方に和解を申し渡し穏便に済ませようとしたが、お為方は美作糾弾の手を緩めず解決の糸口は見えなかった。延宝7年10月、業を煮やした忠清は幕命による処分を下した。幕府の調停を受け入れず、いたずらに藩政を混乱させた罪として、長良を毛利藩預けとし、他の首謀者も諸大名預けとして越後高田藩から追放したのである。

高田藩は従来の方針通り永見市正こと松平綱国が継承し騒動は酒井忠清の裁定により落着したように見えた。だが、お為方は反撃の機会を窺っていた。

翌延宝8年5月8日(1680年6月4日)、徳川4代将軍・家綱が死去した。享年40歳。家綱は万事鷹揚(おうよう)で些細なことに拘(こだわ)らず大名、家臣からの人望があったと評されている。ただ家綱には実子がおらず、家綱自身も病弱であったため、後継問題は生前より徳川一門、幕閣の最大懸案事項であった。老中・掘田正俊は家綱の5歳年下の異母弟の舘林藩主・松平綱(つな)吉(よし)を後継として推挙した。(他の弟はいずれも夭折)。

一方、綱吉の後継に難色を示し、他家より迎えようとしたのが酒井忠清だった。家綱とは正反対の性格で自信過剰、幕政にも口を挟む舘林宰相・綱吉を忠清は以前から嫌っていた。忠清の意中の人物は有栖(ありす)川宮(がわのみや)幸(ゆき)仁(ひと)親王(しんのう)だったとされている。越後高田藩主・松平光長も綱吉後継に反対していた。

※ 近年、忠清が有栖川宮幸仁親王擁立を画策したという説に疑問を抱く学者もいる。
※ 有栖川宮家と徳川家の関係。 徳川秀忠の養女・亀姫(松平忠直の娘。秀忠の孫。光長の同母妹)は有栖川家(当初は高松宮を名乗る)の初代当主・好仁(よしひと)親王(しんのう)の妃(きさき)。好仁親王には実子がいなかったため、後(ご)水尾(みずのお)天皇の皇子・良(なが)仁(ひと)親王を養嗣子とした。後に良仁親王が即位(後(ご)西(さい)天皇)したため、後西天皇の第二皇子の幸仁親王が有栖川宮家を継いだ。彼が酒井忠清の意中の人物である。これ以降も有栖川宮家は徳川宗家、水戸徳川家、雄藩大名と婚姻関係を結び宮家のなかでも公武派とされていた。

有栖川宮幸仁親王擁立の真偽はともかくとして幕府内でも将軍継嗣で揺れ動いたのだが、水戸藩主・徳川光圀らが綱吉擁立に傾き、延宝8年8月、綱吉は将軍宣下を受けた。

お為方は幕政の一新を捉え、権力の中枢に就いた堀田正俊に再吟味を願い出た。かねてより越後高田騒動の裁定に不満を抱いていた綱吉はこの機会を捉えて正俊に再吟味を命じた。酒井忠清は再吟味に反対したのだが斥(しりぞ)けられ、12月には大老職を剥奪された。後任は堀田正俊であった。正俊は綱吉擁立に動き、忠清と対立した老中である。

12月、追放され他藩預けとなっていた永見長良、萩田主馬らとさらに岡島壱岐、本多七左衛門の「お為方」と小栗美作が江戸城に呼び出され吟味が始まった。天保9年(1681年)6月、小栗美作と永見長良、萩田主馬に対して将軍綱吉が直々に裁定を下した。小栗美作と嫡男・小栗大六(松平忠直孫)は切腹、親族並びに一派は流罪、追放、大名預けの処分が下された。一方、「お為方」の、永見長良と萩田主馬は八丈島に、岡島壱岐、本多七左衛門は三宅島に流罪。その他の首謀者も大名預けとなった。一見喧嘩両成敗の裁定だが、実際は将軍継嗣をめぐる松平光長への報復であった。

藩主・光長は家中騒乱の責任を追及され、領地没収の上、伊予(いよ)松山藩(愛媛県松山市)預けとなった。養嗣子の松平綱国(氷見市正。幼名万徳丸)は備後(びんご)福山藩(広島県福山市)預けとなった。光長系越前松平氏の断絶である。

処分はこれに止(とど)まらなかった。光長(光長の父・忠直は結城秀康の長男)の従兄弟にあたる姫路藩主・松平直矩(なおのり)(15万石。直矩の父・直基(なおもと)は結城秀康5男)は豊後(ぶんご)日田(ひた)藩(大分市日田。7万石)に転封。出雲広瀬藩(島根県安来市広瀬)の藩主・松平近(ちか)栄(よし)(近栄の父・直政は結城秀康の3男)は3万石から1万5千石にされた。知行半減の処分である。

いずれも酒井忠清に近く、越後高田藩騒動処理に関与して連座処分されたものであるが、背景に越前松平氏と関係が深い有栖川宮幸仁親王擁立を忠清と共に画策したとの疑念を綱吉が抱いたためと指摘されている。幕府が越前福居藩主(福井藩)綱昌の狂気を理由に知行半減25万石の過酷な処分を下したのは(前述)、越後高田騒動の7年後の貞享3年(1686年)であった。綱吉の治世(1680~1709)、結城秀康の血統を継ぐ越前松平系の大名、末裔にとってまさに受難の時代であった。

八丈島に流された永見長良、萩田主馬は悲惨な最期を遂げた。八丈島は本土から遠く離れた孤島であり食料の補給手段はなく、島での自給自足で島民は命を保っていた。元禄14年(1701年)、八丈島を未曾有の大飢饉が襲い、島民の大半が餓死した。餓えは身分の貴賎を問わず、長良も主馬も他の流人と同じく餓死した。

松平光長と養嗣子の綱国のその後であるが、改易から6年後、貞(じょう)享(きょう)4年(1687年)、光長は72歳になった。老齢に達した光長は綱国とともに許され、賄料として合力(ごうりょく)米(まい)3万俵(1万3千石に相当)が与えられ、大名格として処遇された。だが、不遇であった6年の歳月は光長と綱国に亀裂を生じさせた。光長は綱国を廃嫡とした。

元禄6年(1694年)、光長は松平直矩(なおのり)(前述)の三男・源之助(後に長矩(ながのり)と改名)養嗣子とした。元禄10年に光長は隠居し家督は長矩が継いだ。

その後、旧家臣らによるお家再興運動が実り、元禄11年(1698年)、松平長矩に美作(みまさかの)国(こく)内(ない)の津山(岡山県津山市)に10万石を与えられた。長矩は宣(のぶ)富(とみ)と改名し美作津山藩の初代となった。越後高田藩の旧家臣(北ノ庄藩士)のなかには津山藩に仕えた者も少なくはなかった。

光長は江戸で余生をおくり宝永4年11月17日(1707年12月10日)、死去した。享年93歳。

綱国は美作国津山に移り、津山藩士となったが出仕はしなかった。綱国と藩主宣富が互いの立場を熟慮した結論であろう。綱国の庶子・国(くに)近(ちか)は津山藩家老・安藤勒負之(ゆきえの)常(すけ?)に養育され、安藤国近(主(との)殿(も)とも称した)と称した。享保(きょうほう)8年(1723年)、津山藩家老となる。だが、翌年死去。享年は不明。嫡男・造酒助近倫(みきのすけちかみち)が家督を継いだ。彼も家老職を務め、その後安藤姓を永見姓とする。以後、国近の子孫は代々津山藩の家老職を務めた。
綱国は光長の死の翌年(宝永5年)に出家し、享保20年(1735年)に死去した。享年74歳。

3 直(なお)政(まさ)系越前松平氏の系譜
松平直政(1661~1666)・・・上総姉ヶ崎藩1万石から越前大野藩5万石
忠直が配流処分(1623年)の翌年、北ノ庄藩から大野(5万石)を分離させ直政に大野藩を立藩させた。その後、信濃松本藩7万石に(1633年)、さらに出雲松江藩(島根県松江市)18万6千石(1638年)に移封され、寛文(1666年)死去した。享年66歳。
嫡男綱(つな)隆(たか)(1631~1675)が後継となる。その際次弟の近(ちか)栄(よし)(1632~1717)に広瀬藩(島根県安来市広瀬)3万石、三弟の隆政(1648~1673)に母里(もり)藩(島根県安来市西母里)1万石を分与した。広瀬藩と母里藩は松江藩の支藩として松江藩とともに明治維新まで存続した。
松江藩  直(なお)政(まさ)(結城秀康の3男)・・綱(つな)隆(たか)(直政の長男)・・綱(つな)近(ちか)(綱隆の4男)・・吉(よし)透(とう)(綱近の弟)・・宣維(のぶずみ)(吉透の次男)・・宗衍(むねのぶ)(宣維の長男)・・治(はる)郷(さと)(宗衍の次男)・・斉(なり)恒(つね)(治郷の長男)・・斉(なり)貴(たか)(斉恒の長男)・・定安(さだやす)(養子。津山藩7代藩主松平斉(なり)孝(たか)の7男)・・直応(なおたか)(養子。斉貴の実子)・・定安(さだやす)(復帰)・・直(なお)亮(あき)(定安の3男)
※  歴代藩主で特筆されるのは7代当主治郷(1751~1818)で不昧(ふまい)と号し茶人として有名。雷電為衛門(1767~1825)は治郷のお抱え力士であった。
※  松平定安(1835~1882)は文武を奨励し、西洋の学問の導入に積極的であった。家臣を西欧に留学させ医学、軍備を学ばせた。米国から戦艦八雲丸も購入した。文久3年(1863)には農民隊を創設している。高杉晋作が奇兵隊を組織した同年である。松江藩最後の藩主は松平定安。

広瀬藩  近(ちか)栄(よし)(直政の次男)・・近時(ちかとき)(近栄の長男)・・近(ちか)朝(とも)(近時の長男)・・近(ちか)明(あきら)(養子。近朝の弟)・・近(ちか)輝(てる)(近明の長男)・・近(ちか)貞(さだ)(養子。近輝の弟)・・直(なお)義(ただ)(養子。津山藩4代藩主・松平長孝(ながたか)の次男)・・直(なお)寛(ひろ)(養子。近貞の長男)・・直(なお)諒(よし)(直寛の長男)・・直巳(なおおき)(養子。直諒の弟)
※ 初代当主近栄(1632~1717)は越後高田藩騒動に関与したことで将軍綱吉より閉門と領地半減(3万石から1万5千石)の処分を受けた(1682)後に旧領回復。
※ 越後高田藩騒動については前項を参照。
※ 直義(1754~1803)は藩の財政を立て直し、広瀬藩中興の祖といわれる。本家松江藩の松平治郷に習い茶人としても名を残した。
※ 直諒(1817~1861)は領内の産業振興(製糸、製油)、文化の振興に力を尽くした名君であった。
※ 直巳が広瀬藩最後の藩主。

母里藩  隆(たか)政(まさ)(松平直政の3男)・・直(なお)丘(たか)(直政の4男)・・直員(なおかず)(養子。常陸麻生藩{茨城県麻生}7代藩主新庄直(なお)詮(のり)の次男)・・直道(なおみち)(直員の長男)・・直行(なおゆき)(養子。直道の弟)・・直暠(なおきよ)(養子。明石藩4代藩主松平直(なお)泰(ひろ)の4男)・・直方(なおかた)(養子。直暠の弟)・・直(なお)興(おき)(直方の長男)・・直(なお)温(より)(養子。津山藩7代藩主松平斉(なり)孝(たか)の4男)・・直(なお)哉(とし)(直温の長男)
※3代藩主・直員(1695~1768)は典型的な暗君で己が享楽のため過酷な年貢を課したため農民が逃散(ちょうさん)する事態が発生した。さらに領内の富豪から強制的に借金をして踏み倒し、藩の財産を切り売り、苗字帯刀の認可状を乱発するなどして享楽の費用に充てた無責任極まりない藩主といわれている。そのため母里藩は財政難に陥り、以後歴代藩主は財政運営に苦しむことになる。
※ 8代当主直興(1800~1854)は財政再建のために新田開発、灌漑用水の整備に力を注いだ。母里藩再興の名君とされている。又、教養人としても名を残した。
書(嵯峨風)、画(狩野派)に優れ俳人としても名高い。
去年今とし海にもあるや西東   四山(しざん)
直興の俳句は小林一茶の俳諧俳文集「おらが春」にも残されている。
※母里藩最後の藩主は松平直温。

4 直基(なおもと)系越前松平氏の系譜
松平直基(1604~1648)は結城秀康の養父晴(はる)朝(とも)の養子となり結城家の家督を継ぐ(1607)。寛永元年(1624)に越前勝山3万石を立藩後、松平氏に復姓(1626)。
兄直政の松本藩移封に伴い大野藩5万石に加増移封される(1635)。さらに山形藩15万石に加増移封(1644)、その4年後に姫路藩15万石への移封を命じられたのだ、赴任への旅先で死去。後継ぎとなった直矩(なおのり)(1642~1695)は当時5歳であった。姫路は西の要地であったため幼い藩主では心もとないと幕府は判断し、越後村上藩(新潟県村上市)15万石へ国替えとなった(1649)。成人後直矩は姫路藩に復帰するのだが(1667)、越後高田藩の騒動に関与したことで綱吉の勘気を被り、閉門と豊後日田(ひた)(大分県日田郡)7万石への領地半減の移封処分を受けた(1682)。

その4年後、直矩は山形藩10万石に加増移封され、さらに6年後、陸奥白河藩(福島県白河市)15万石に移った。石高で旧に復したのだが、
姫路→越後村上→姫路→豊後日田→山形→陸奥白河と6度の引っ越しをしている。
直基の代では勝山→大野→山形→姫路の4度の引っ越し、2代で10度の引っ越しである。引っ越し費用の捻出で藩の財政は困窮した。
大名の国替えが珍しくなかった江戸時代でも、さすがに一代で6度の国替えは異例で直矩に付けられたあだ名が「引っ越し大名」であった。

彼自身は国替えを淡々と受け入れ、どの任地でも藩務に励んでいた。彼は越後村上藩の藩主であった17歳(1658)から死の直前(1695)まで37年にわたり日記を書き記しており、任地の風土風俗、藩主の務め、観劇、鷹狩り、お家騒動が書き綴られている。「大和守日記」とよばれ大名の暮らしぶりを知る貴重な資料となっている。
尚、杉本苑子(そのこ)が直矩を題材にした小説「引っ越し大名の笑い」を著している。(1991)。
※柿原郷を追われた多賀谷経(つね)政(まさ)が仕えたのが松平直矩。以後多賀谷氏は家老職を輩出する一族として(直基系越前松平氏系)松平大和守家臣団に名を残した。(前橋多賀谷氏の祖)
直基系越前松平家歴代当主
直基(なおもと)(結城秀康の5男)・・直矩(なおのり)(直基の長男)・・基(もと)知(ちか)(直矩の次男)・・明矩(あきのり)(養子。支藩の陸奥白河新田藩・松平知(ちか)清(きよ)の長男)・・朝矩(とものり)(明矩の長男)・・直(なお)恒(つね)(朝矩の次男)・・直(なお)温(のぶ)(直恒の次男)・・斉(なり)典(つね)(養子。直温の弟)・・典則(つねのり)(斉典の4男)・・直(なお)侯(よし)(養子。水戸藩9代藩主水戸斉昭の8男。兄は一橋慶喜)・・直(なお)克(かつ)(養子。久留米藩7代藩主・有馬頼(より)徳(のり)の13男)・・直方(なおかた)(養子。富山藩12代藩主・前田利聾(としかた)の次男)・・基則(もとのり)(養子。松平典則(のりつね){斉典の4男}の3男)
※ 明矩の実父・松平知清は陸奥白河藩主・松平直矩の4男。明矩が陸奥白河新田藩藩主になるも、本家陸奥白河藩藩主・基知に嗣子がいないため、養子となり本家陸奥白河藩を継ぐ。陸奥白河新田藩は本家に吸収される。
※ 明矩(1713~1749)の代に陸奥白河から姫路藩15万石に国替えとなったが36歳で死去。11歳の朝矩が藩主となる。しかし幼少とあって直矩と同様に要地姫路から上野(かずさの)前橋藩15万石に移封される。だが領地の前橋は利根川の氾濫に悩まされ続けた。前橋城も浸食され、朝矩は居城、藩庁を武蔵川越(埼玉県川越市)に移し、前橋には代官所が置いた。武蔵川越藩の誕生である。朝矩が川越藩初代藩主。
※ 直基系越前松平8代、川越4代藩主代斉典(1797~1850)は疲弊した藩財政の再建、農村の復興策を柱とする改革を断行し名君と名高い。又家臣たちに学問を奨励した好学の藩主としても知られている。
※ 川越市に伝わる「川越百万灯夏祭り」は斉典の新盆に遺徳を偲ぶ家臣の娘が切子燈篭を軒先に掲げたことが始まりで、たちまち城下に広まり、やがて趣向を凝らした提灯祭りに発展した。現在多くの市民が浴衣姿で参加し「小江戸情緒」に溢れた一大イベントとして川越の夏の風物詩となっている。
※ 松平典則(1836~1883)は18歳のとき眼病を患い隠居。水戸藩主徳川斉(なり)昭(あき)の八男直侯(1839~1862)を養子に迎えた。直侯が夭折したため久留米藩主有馬頼(より)徳(のり)の十三男直克(1840~1897)を養子に迎え藩主に据えた。直克は幕政に参加し、政治総裁職(前任者は福井藩主松平春嶽)に就任し、将軍後見職であった一橋慶喜とともに将軍家茂を支えてきたのだが、水戸攘夷派が引き起こした天狗党の乱鎮圧に反対し(直克の養父直侯は水戸藩主斉昭の8男で、慶喜は斉昭の7男)、他の幕閣と対立し政治総裁職を罷免された(1864)。
※ 利根川の大改修により前橋藩を悩ませ続けてきた氾濫の危険性が薄れてきた。おりしも横浜開港に伴い前橋が発展し、生糸産業が盛んになると輸出で財をなした前橋豪商を中心として川越から前橋への帰藩運動がおこった。彼等は前橋城再建資金の献金を申し出て、直克が藩主のとき、武蔵川越藩から前橋藩に戻った。明治維新の前年、慶応3年(1867)のことである。
※ 直克の跡は富山藩12代藩主・前田利聾(としかた)の次男、直方が継いだ。直方の跡は直基系越前松平氏9代典則の3男、基則が継いだ。
※ 前橋藩最後の藩主は松平直克。

5 直良系越前松平氏の系譜
 元和9年(1623)、長兄の忠直が配流処分となると北ノ庄藩は分割され、6男の松平直良(1605~1678)には越前木本(このもと)藩2万5千石が与えられた(1624)。さらに大野藩5万石藩主・直政が信濃松本藩に移封され、大野藩主に勝山藩3万石藩主・直基が就くと勝山藩主の直良が就き木本藩は福居藩に戻された(1635)。直基が大野藩から山形藩15万石に加増移封されると、大野藩主に就いた(1644)。

直義系越前松平氏歴代藩主
直良(なおよし)(結城秀康の6男)・・直(なお)明(あき)(直良の3男)・・直(なお)常(つね)(直明の長男)・・直純(なおすみ)(直常の長男)・・直(なお)泰(ひろ)(直純の長男)・・直之(なおゆき)(直泰の長男)・・直(なお)周(ちか)(養子。直之の弟)・・斉韶(なりつぐ)(直周の次男)・・斉宣(なりこと)(養子。徳川家斉25男)・・慶(よし)憲(のり)(斉韶の長男)・・
直致(なおむね)(慶憲の長男)・・直(なお)徳(のり)(慶憲の次男)

※直明(1656~1721)の代、大野藩から播磨明石藩6万石に移封(1682)。松平明石藩の初代となる。直良系越前松平氏としては2代。
※斉韶には後継となる嫡男、慶憲がいたのだが、徳川11代将軍家(いえ)斉(なり)が自分の25男、周(ちか)丸(まる)を無理やり斉韶の養嗣子(ようしし)に押し込み明石藩8代藩主に据えた、斉宣(1825~1844)である。斉宣の就任により明石藩は6万石から8万石に加増された。(ちなみに福井藩16代藩主松平斉(なり)善(さわ)は家斉の24男)
※斉宣は20歳で夭折し、嗣子がいなかったため慶憲(1826~1897)が9代藩主となった。慶憲は明治2年(1869)隠居、最後の藩主となった。

6 福井藩越前松平家分家・糸魚川越前松平氏の系譜
 越前福居藩5代藩主・松平光通(みつみち)と正室国姫との間には二人の娘がいたが、男子はいなかった。側室御(お)三(み)の(の)方(かた?)との間に権蔵(成人して直(なお)堅(かた)を名乗る。1656~1697)が生まれていたのだ
が、国姫の父・松平光(みつ)長(なが)(忠直の長男、北ノ庄3代藩主。越後高田藩藩主)と祖母の天(てん)崇(すう)院(いん)(勝姫。忠直の正室。2代将軍秀忠の3女)は直堅が嗣子となることを許さず、あくまでも国姫が男子を産むことを望んだ。だが国姫に男子は誕生せず、周囲の重圧から国姫は35歳で自害した。光長、天崇院は国姫自害の原因は直堅の存在にあったとして憎み、殺害を目論んだといわれている。身に危険を感じた直堅は城下を出奔し松平直良(大野藩主)の江戸藩邸に逃れた(1673)。
彼が直良を頼った理由は、直堅の母・御三の方は信濃国伊那の名門片桐(かたぎり)氏(うじ)の出で、直良の外祖父津田信(のぶ)益(ます)は片桐且(かつ)元(もと)(賤ヶ(しずが)岳(たけ)七本槍の一人)に仕えていたことがあった。その縁で信益が口添えして御三の方は直良の母・奈和(なわ)(信益の娘)に仕え、その後光通の側室となった経緯からである。直良は本家福居藩後継に口出しする天崇院、光長を不愉快に思っていたのであろう。直堅を江戸藩邸に匿った。さらに4代将軍家綱にお目見えさせた。直堅は幕府から賄料1万俵(4千石)江戸定府諸侯(江戸に常駐して参勤交代を免除される大名)に名を連ねた(1675)。さらに赤坂に屋敷を与えられ(1677)、大名に準ずる処遇を得たのである。福居藩越前松平家分家と認められたのである。これらは直良の計(はか)らいであった。直堅の死後、家督は嫡男直(なお)知(とも)が継いだが直知は21歳で夭折し、実子がいなかったため、妹亀姫の婿養子であった直之(なおゆき)が継いだ。享保2年(1717)、直之は糸魚川1万石の藩主に任じられた。

※再確認 北ノ庄藩が福居藩に改称されたのは忠昌が藩主となった1623年以降。福居藩が福井藩に改称されたのは吉品(よしのり)が藩主として復帰した1686年以降。
糸魚川松平家系図
直(なお)堅(かた)(福居藩代藩主・松平光通(みつみち)の庶子)・・直(なお)知(とも)(直堅の長男)・・直之(なおゆき)(養子。広瀬藩2代藩主・松平近時(ちかとき)の3男)・・直(なお)好(よし)(養子。伊勢長島藩初代藩主・松平康(やす)尚(なお)の5男)・・堅房(かたふさ)(直好の4男)・・直紹(なおつぐ)(堅房の7男)・・直(なお)益(ます)(直紹の長男)・・直(なお)春(はる)(直益の次男)・・直(なお)廉(きよ)(直春の4男)・・直(なお)静(やす)(直春の養子。明石藩7代藩主・松平斉韶(なりつぐ)の7男)
※ 直知が21歳で夭折し、実子がいなかったため直堅の娘亀姫の婿養子となっていた直之(広瀬藩2代藩主松平近時(ちかとき)の3男)直之が後継となった。
※ 直之も実子がいないまま死去(享年37歳)。伊勢長島藩初代藩主松平康尚の定員(さだかず)を養子として迎え後継ぎとした、直好である。
※ 安政5年(1858)、福井藩17代藩主松平慶(よし)永(なが)(春嶽)が大老伊井直弼により隠居謹慎を命じられ(慶永30歳)当時、慶永に世継ぎとなる男子がおらず、糸魚川松平藩の直廉を養子にして福井は18代藩主とした。一方、糸魚川藩では明石藩7代藩主松平斉韶の7男、直静を先代直春の養子として糸魚川藩を継がせた。直静が糸魚川藩最後の藩主である。
※ 福居(福井)藩松平分家の初代は松平直堅、糸魚川松平氏の初代は松平直之。

7 越前松平氏津山藩
 越後高田騒動により藩は改易、藩主松平光長(忠直の嫡男)は伊予(いよ)松山藩(愛媛県松山市)配流(はいる)、養嗣子松平綱(つな)国(くに)(旧姓永見(ながみ)市(いち)正(まさ)。忠直の孫。光長の甥)は備(びん)後(ご)福山藩(広島県福山市)配流なった(1681)。貞(じょう)享(きょう)4年(1687)、光長、綱国は許され、合力米(賄米)として3万俵(1万2千石)を与えられ諸侯(大名格)に復帰した。だが光長は綱国を廃嫡とした(1693)。両者の関係が破綻したのである。光長は叔父の白河藩主松平直矩(なおのり)(忠直の弟)の3男長矩(ながのり)(後に宣(のぶ)富(とみ)と改名)を養嗣子とした。光長が隠居した(1697)翌年、元禄11年(1698)、長矩に美作(びさく)津(つ)山(やま)藩10万石が与えられた。その際、綱国も美作に移った。資料によれば綱国には嫡男国(くに)近(ちか)がおり、彼は津山藩家老・安藤靱負之(ゆきの)常(すけ)の養子となり名を安藤国近(主(との)殿(も)とも称した)とあらため、家老職を継いだ。子孫は安藤姓を永見姓に戻し、代々津山藩家老職を務めたのだが、明治に入ると松平姓に復している。
※2で 越後高田藩の系譜で長矩と綱国の関係を記述。

津山松平家系図

光(みつ)長(なが)(松平忠直の嫡男)・・宣(のぶ)富(とみ)(養子。松平直矩の3男)・・浅五郎(あさごろう)(宣富の長男)・・長熙(ながうひろ)(養子。宣富の弟・松平知(ちか)清(きよ)の3男)・・長孝(ながたか)(養子。広瀬藩3代藩主・松平知(ちか)朝(とも)の3男)・・康(やす)哉(ちか)(長孝の長男)・・康乂(やすはる)(康哉の次男)・・斉(なり)孝(たか)(康乂の弟)・・斉(なり)民(たみ)(養子。将軍家(いえ)斉(なり)の14男)・・慶倫(よしとも)(養子。斉孝の3男)・・康倫(やすとも)(弟。斉民の4男)

※浅五郎(幼名)は11歳で夭折。宣富には浅五郎以外の男子がおらず、弟・松平知清(松平直矩の4男)の3男長熙が継いだ。本来なら藩主が嗣子を立てずに死去した場合、改易になるのだが御家門(徳川一門)ということで特例が認められた。但し10万石から5万石に減封された。
※長熙も16歳で夭折。広瀬藩3代藩主松平近(ちか)朝(とも)の次男・長孝が養子となり継いだ。
※康乂は20歳で夭折し、弟の斉孝が継いだ。斉孝30歳当時、嫡男がいなかったため、11代将軍徳川家(いえ)斉(なり)の14男を養嗣子に迎えた家督を譲った。斉民(1814~1891)である。その見返りとして津山藩は5万石から10万石に復したのである。
※斉民が藩主であったのは天保2年から安政2年までである(1831~1855 18歳~42歳)。財政再建と人材育成に努めた名君とされている。だが彼の真骨頂は安政2年(1855)、家督を養子の松平慶倫(よしとも)に譲って隠居してからである。幕末、津山藩は勤皇・佐幕で揺れた。藩主慶倫は長州藩の京都追放(8月18日の政変。1863)以後、尊王攘夷派を藩内から追放した。だが斉民は時勢の変化を読み、慶応元年(1865)津山藩を勤皇派に転換させた。維新後、彼は天璋院(てんしょういん)(篤(あつ)姫(ひめ))と図って徳川宗家の存続に心を砕き、徳川宗家当主に田安亀之助(徳川家(いえ)達(さと))が5歳で就くと斉民が後見役となり、天璋院とともに亀之助を養育した。彼の律儀さは明治政府、徳川一門からも信頼が厚く、徳川一門にあって長老的存在であった。
※津山藩最後の藩主慶倫は家督を斉民の3男康倫(やすとも)に譲り死去。

後記

結城秀康は6男2女がいた。そのうち4男吉松は早世した。長男忠直は豊後に配流され、嫡男光長は北ノ庄藩から越後高田藩に国替えとなり、お家騒動で改易となった。後に許され3万俵(1万2千石)を与えられ諸侯(大名)として処遇された。ただお家騒動の原因となった忠直の妾腹の次男、永見長良(ながよし)は八丈島に流罪となり飢死。同じく娘、関の子である小栗大六は切腹となった。この二人を除いて秀康の末裔は立藩し、明治維新の廃藩置県まで大名として存続した。次男忠昌の末裔は福居(福井)藩、3男、直政は直正系越前松平氏(松江藩。広瀬藩、母里(もり)藩)。5男、直基は直基系越前松平氏(川越、前橋藩)。6男、直良は直良系越前松平氏(明石藩)。改易後、光長の養嗣子宣富が津山藩。福居藩5代藩主松平光通(みつみち)の庶子、直(なお)堅(かた)は糸魚川藩の祖となった。今回秀康系大名を取り上げたが、秀康の次女(長女は早世)、喜(き)佐(さ)姫(ひめ)が長州藩初代藩主毛利秀就(ひでなり)の正室となり、その子、綱(つな)広(ひろし)は長州藩2代藩主となったように、この他にも多くの系統が存在する。それも又興味深いのだが、機会があればとりあげたい。
                                          
 2015/01/08 (木) 久しぶりの「お町さん」

 小林一茶は生涯に2,0000句を読んだ俳諧の人だそうで、好奇心のかたまりだった。田辺聖子の「ひねくれ一茶」を読んでいると、それがよくわかる。蚊や蠅などの昆虫をはじめ小動物全てに対して友人知人に対するような愛情を持っていて、いや、全ての人間の腹のうちには打算がうごめいていることを幼い時の生活環境のなかで見せられ、ひるがえって動物のただ生きるために生きているという態度に惚れていたから対人間以上の愛情をもって接したのだろう。

 そこらへんの俳諧師が俗なものとして遠ざけてしまう諸々と理屈抜きで付き合っていた。そこで何かが見えた一瞬を即座に五七五にしてしまえるのは、言葉に対する基礎勉強の成果というよりも、生きとし生きるものに対する愛情の深さ故のものだったと思う。

 ということを考えながら、昔このブログにも書いた「お町さん」を読み返してみた。この本に花鳥風月は出てこないが、お町さんの傑女ぶりの発揮も又、深い同胞愛に支えられてのものだった。


長瀬正枝著・「お町さん」


この小説は現在(1986年11月現在)、カリフォルニア州サンデイエゴにあるアメリカ海軍太平洋艦隊の基地に勤務しているマサコ・デイーンが母・道官咲子の里方にあたる石川県加賀市の門出家に向かうところから始まる。そして著者・長瀬は「道官咲子碑」の前で彼女と初対面する。
 
 
 
 7月12日朝・牧田氏撮影


昭和20年8月15日の満州・・太平洋戦争が敗戦で終わった。敗戦で肩をすぼめて歩いている大勢の日本人の中で、ただ一人背筋をしゃんと伸ばし、会う人ごとに、「日本に帰るまで、がんばりましょう」と元気よく声をかけている姿。戦争が終わったというのに、地味な着物にモンペ姿、髪は満州では珍しい束髪であった。
その時、彼女は大きな唐草模様の風呂敷包みを背負っていた。
私(著者)の問いかけに、母は「怪我をしている兵隊さんたちの包帯を作る木綿の布を集めてるんですよ」と教えてくれた。
母から、その女性がお町さんだと聞かされ、意外だった。私の家の並びにある石川酒屋に以前から出入りしていた珍しい髪型のおばさんだったからである。

敗戦直後、お町さんはソ連兵が安東に進駐した際、恐ろしい風聞しかないソ連兵を歓迎し、接待した。
そのおかげで安東では、奉天、新京のように一般女性の被害が少ないと母たちは噂していた。小学生の私に全てが理解できた訳ではない。が、とてもいまわしく、恐ろしいことだと感じていた。そんな噂の主人公を以前から見知っていたことを誇らしく感じていた。

敗戦から一年。昭和21年秋、待ちに待った帰国列車の第一陣が安東駅を発車、日本人の顔が希望に輝いた。その時、「お町さんが銃殺されたらしい」。突如彼女についてはじめて暗い噂が安東の街を走った。

日本人を励まし、大勢の人を救いながら、なぜ銃殺されたのか。善いことをした人は幸せになる。と教えられてきた十一歳の私の胸に、疑問が残り、朝鮮の三十八度線を超え、意識の底で疑問がトゲとなって思い出された。


お町さんの碑が福井県金津町吉崎にある。それを知ったのは、彼女が銃殺されて三十年経っていた。

私が初めて碑の前に立ったのは、昭和五十年九月十五日。
マサコ・デイーンと私を結んでいるのは、全長八尺八寸の「道官咲子碑」である。道官咲子は、マサコ・デイーンの母。そして、私は道官咲子が持つもう一つの通称「お町さん」を十余年、いや、正確に言えば
四十年間意識の底のトゲの痛みで追い続けてきた。

墓碑の前でマサコは「何でも聞いてください。私は母が八路兵に連れ去られる時、そばにいて見てましたし・・。あまりにいろいろなことがありすぎましたから、何からお話すればいいのか・・」。

さて、著者はお町さんの取材を金津町吉崎にある「願慶寺」の住職の案内で顕彰碑に向かう。碑には昭和三十一年四月八日之建」と刻まれていた。

敗戦時、安東は北満から南下した開拓団の難民や瀋陽方面からきた避難民約八十万もの日本人がごった返し、その上人民政府の粛清工作が激しかったので身のおきどころもない多くの邦人は、途方にくれ道官さんをたよってきた。彼女は巧みに人民政府の目を逃れて食糧をあたえ、変装させて逃した人は数えきれないほどあったという。二十一年六月このことが人民政府にわかり、道官さんはスパイとして逮捕され、同年八月二日安東郊外の東炊子で銃殺刑となった。


著者が資料として見た彼女の戸籍謄本には、<福井県坂井郡芦原村井江葭第十九号参拾四番地、道官吉松養女「道官咲子」と入籍されている>と書いてあった。

石碑位置

著者・長瀬はこの時点から満州・安東で咲子と交流のあった邦人たちへの聞き取りを開始する。
彼らの目に写った咲子の実像は、相手が上流中流下流であることを問わず性を問わず、無限に強く無限に優しい女だったということである。一口で言えば女丈夫というところか。

敗戦直前、満州に入ってきたソ連兵は対ドイツ戦線で銃弾の雨をかいくぐってきた兵たちであった。加えて囚人兵グループであったから乱暴狼藉婦女暴行し放題という予断を邦人たちは持って戦々恐々としていた。

そのソ連兵たちと咲子は五分に渡り合った。確かに乱暴なソ連兵も沢山いたが、咲子は「人間みな同じ。戦争が人間を狂気にしてしまう」という信念を持っていたのだろう。
その信念は渡満するまでの咲子の辛苦的半生によってかたちづくられていたとぼくは思う(若き日の咲子は芦原温泉の某旅館で働いていた)。

山の手の住宅に居たソ連兵の姿が見えなくなった頃から、安東に不穏な空気が漂いはじめる。共産党八路軍を支持するソ連軍の撤退を機会に、安東から八路軍を締め出し、そのあとに国民党国府軍を迎え入れるという国民党運動が活発になる。折も折、「国民党が支配する地域では帰国が始まった」との噂が流れる。

国民党熱は高まり、十月二十四日未明、日本人会がある協和会館の屋上で志を同じくする「愛国先鋒隊」の結成式が行われる。
その後いろいろあって愛国党先鋒隊と八路軍との戦闘が始まったが、この戦闘の結果、国民党系勢力は一層され、安東市は完全に共産党八路軍の政治下に移行し、国民党系公安局も八路軍に接収された。

安東の産業は殆ど停止。日本人が生活の糧を得る場はなくなった。ただ「安寧飯店」と「松月」が収入のある唯一の場所となった。
「安寧飯店」の営業を始めてからのお町さんの日課は、ひそかに門を叩く女性たちと会うこと。

吉崎・願慶寺の住職和田轟一氏の弟朝倉喜祐氏は「湯池子温泉から持って来た皿、茶碗を道端で売らしてもらって、日当を差し引いた残りで米を買って日満ホテルの地下にいる人や、鎮江山の方にあったお寺にいる難民に配りました。それもお町さんからだとは絶対に言わないでくれということでした」と言う。

通訳をしていた高松氏(広島在住)もその一人である。
「米を買って幾つかに分け、あちこちに運びました。どこへ持って行ったかと言われても覚えがないほどです。除隊兵の仲間から、どこの街のどの建物に難民がいるかを聞いて殆ど毎日順番に運びました。みんなもらっても誰からなんて聞かなかったし、聞かれてもお町さんの名前を出してはいかんということでした。どうしてでしょうかね」

なぜお町さんが名前を伏せたか、私には分かるような気がする。店は生きるために志願した女性たちで成り立っている。だが、彼女たちが肉体的、精神的な犠牲を払っていることに変わりはない。お町さんにしてもそれが、安東の被害をくい止める方法だと分かってはいても、それを、大義名分として掲げる気にはならなかった。多分、そのあたりに理由がありそうに思える。


話を戻そう。
昭和二十年十一月五日。安東の街角に今まで見たことのない「開放新聞」が貼られ、「共産党八路軍は安東に新政府を樹立した」という大見出しが人々の目をひく。
新政府樹立が公表されると、浅葱色の木綿の綿入れの冬服に、同じ色の帽子をかぶった八路兵の姿が見られるようになった。

新政府は自らの政策を着々と進めた。先ず「開放学校」の開校。ここで共産思想を学ばせ共産党員を養成し、共産社会を確立しようとした。教員は延安で直々に毛沢東から教育を受けた日本人。捕虜になった元日本兵が配属された。定員は二百名。その殆どが元日本兵で、その中には青年将校から見習士官まで含まれていたと噂された。

ここで除隊兵の説明をすると
敗戦後、日本からの命令は何もなされなかった。従って、正式な除隊命令はどこからも出されていない。(日本兵は進駐したソ連兵に武装解除をされたあとソ連に抑留された。その数四十万八千人「滿蒙終戦史より」)安東にいた殆どの旧日本兵は、ソ連軍の攻撃に遭って部隊を離れた者、ソ連に抑留されるところを逃げた者など脱走兵に等しい。除隊兵とは彼等が自ら名乗った名称である。

そして「清算運動」がはじまる。
「清算運動」とは、不当な手段で手に入れた財産を中国人の一般民衆に搬出すること。つまり、「日本人が持っているものは、偽満州国を侵略し現地人を酷使して得た財産で、資本主義が搾取した物だ。ただちに中国民衆に返還せよ」というのが根本理念だった。
官吏、警察、特務機関、憲兵、軍属、資本家の検挙が済むと一般民間人の逮捕がはじまる。
逮捕の人選に活躍したのは新省政府八路軍に協力するために中国人で組織された人民自衛軍の兵士たちだった。彼らは敗戦まで方々の会社、商社などの使用人で、比較的軽視された中国人たち。敗戦まで、日本人の横暴をまともにかぶる生活を送っていた。そんな中国人が人民自衛軍兵士の権威を持った。新省政府は、彼らの情報で動く。八路軍の取り調べ機関は、呂司令部、公安局、東カン(土ヘン+欠)子監獄の三箇所であった。

司令部は事情聴取の後、罪状によって銃殺刑を執行する。が、身代金を支払えば釈放になる場合もあった。公安局は取り調べが主で重罪の判定を下すと司令部か東カン(土ヘン+欠)子監獄に身柄が引き渡される。東カン(土ヘン+欠)子監獄は八路軍からは、共産思想を理解させる教育機関だと説明があった。だが、釈放されることは稀で、二度と姿を見ることができなかった人は何百人か、つかむことが困難である。後には「片道切符の東カン(土ヘン+欠)子監獄」と言われ、日本人には恐ろしい存在となる。
安東での逮捕者は二千五百名、そのうち、三百名が処刑と記録にある。

前述の「安寧飯店」
平服の中国人たちは客のいない頃を見計らったように現れ女性たちに酒を振る舞い、世間話をしながら後から入ってくる平服の中国人と背中合わせに座って、さりげなく言葉を交わす。
店に来る八路兵もやはり油断できない相手といえた。正規の共産党教育を受けた八路兵は酒とか女に手を出すような兵隊ではない。だから、店に出入りする八路兵は服装は同じでも自衛軍の兵士としか考えられなかった。

ソ連兵撤退のあと、安東に入ってきたのは国民党ではなく八路兵だっだ。昭和二十一年十二月中旬、渡辺蘭治安東省次長は八路軍により、鴨緑江岸で民衆裁判に伏され、戦犯として市中をひきまわされたうえ、銃剣で虐殺された。
「滿蒙終戦史」にこの項を書いた金沢辰夫は、渡辺省次長の遺体を八路軍と交渉して引き取ってきた一人だった。
「酷かった。膝、肩、額の貫通銃創、そのほか全身に銃弾のカスリ傷がありました。最初致命傷を与えない程度にしておいて、最後に背中から胸に刺し通された傷で命を落とされたのでしょう。とにかく、惨殺に近い処刑でした。」そう話す。

渡辺省次長が力を入れたのは、省次長としての任務の一つ、紅匪の討伐である。敗戦と同時に紅匪は毛沢東を主席とする共産党八路軍を編成、「封建主義打倒」「農民開放」をスローガンとして中国の大地を掌握してきた。彼等は貧困にあえぐ中国民衆を救うために、赤旗の下、信念にもとづいて行動した。
渡辺省次長もまた、日本の政策に従って、未開の地に文明の光をあてることに意義を感じそれを正したいと信じて任務を遂行したのだ。だが、日本は戦いに敗れ、国家の責めを負って八路軍に処刑された。まさに、血を血で賠う結果となる。

「民衆裁判」
この言葉が日本人たちの心を暗くする。
「民衆裁判」は各会社、各工場の職工組合の中国人が参加して行う。この裁判には通訳がつけられないのが常であった。
対象となる日本人が観衆の前に引き出される。何人かの中国人が、被告の経歴と罪状を声高らかに読み上げる。それに対する証人が幾人か民衆に向かって訴える「訴苦(スーク)」。長い長い糾弾が続き、聴衆が早くどちらかに決まってほしいと思いはじめる頃、裁判長とおぼしき人物が姿を現し、「死刑」か「釈放」かと民衆に問いかける。判決は二つのうちどちらか。執行猶予はない。
群衆のなかに、あらかじめ幾人かの指導者が紛れ込み、裁判長の呼びかけに≪殺!≫と叫ぶ。それにつられて≪殺!≫≪打殺!≫の声が湧き上がる。死刑を望むシュピレヒコールが会場を埋めつくすと、それが判決になる。
「民衆裁判」は、いわば群集心理を利用し、被告を死刑にする「死の裁判」ともいえる。刑場は錦江山の坂を下りた所の競馬場。六道溝側にある満鉄の敷地で、駅近くの線路脇の広場などがあてられていた。銃弾に倒れた官民有力者の中には、かって湯池子温泉旅館の客だった人も多勢いた。その頃戦犯と知人であることさえ、はばかられる時期で、国民党運動をしている人とつきあいがあるだけで連行される。そんな中でお町さんは店を営業していた。

お町さんと近しかった浜崎氏の話。
「そんな寒い夜でした。逮捕された人たちのことが話題になったのは。≪司令部や東カン(土ヘン+欠)子は寒いだろうね。防寒用のもの、差し入れできないだろうか、突然言い出しました。≪日本の警察ならあったけど八路軍に通用するかどうか・・・≫と言うと、≪やってみなくちゃわからないでしょ。ついでに面会も頼んでみるわ≫
お町さん、簡単に言うんですよ。僕は正直言って不安でした。逮捕される時理由がわからないまま連行される場合が殆どだし・・。浜崎専務とお町さんが日本人会でつながりのあったこともか分かってる。浜崎さんは八路から追われている。もし、差し入れに行った相手が国民党運動員だったりするとこっちの命取りになりかねないのでね。
だが、お町さんは、「あたしなら一応女だから引っぱられることはないでしょ。ソ連接待の実績もあるし、店をやってるから、その関係で頼まれたといえば、つながりをごまかすこともできるわよ。とにかく行ってみるわ。」と後へは引かない。お町さんは女だから大丈夫と思いこんでいるが、反動分子に性別はない。それに、八路の目を逃れ、さすらいの旅をしている人たちに宿を提供している。頼まれたら断ることができないお町さん。考えれば他にも禁止令を犯しているかもしれない。


「あたしは、差し入れに挑戦するからね。明日から準備にかかってよ」とお町さんは言う。

安寧飯店は、ソ連軍撤退後、客足がかなり減る。が、開店当初に取り決めた通りの線で営業を続け、運営資金に余裕がでると、米を買い、市内に点在する難民の所に配った。
けれども余裕がなくなり、殆どそのすべを見出しかねていた時に、「白米、餅、味噌、醤油等々、それも少なからぬ量を荷車で持ってきてくれたグループの引率者が、現在の映画俳優・芦田伸介。その縁で、お町さん石碑の除幕式には芦田伸介も出席している。

昭和二十一年に入ると八路軍による国民党排斥運動はエスカレートする。邦人たちは「八路に協力するなら国民党びいきの人の名前を言え」と迫られ助かりたい一心で適当に名前を言う。密告は横行し、いつ引っぱられるかわからない不安な雲が安東を覆い、日本人同士でも信用できなくなる。安東の人たちの口は重くなり、情報も失われていく。お町さんにしてみれば、日本人でありながら、難民の救済は何一つせず、八路軍の手先になっている日僑工作隊の手先になっている連中に協力する気にはなれなかったのだろう。

「滿蒙終戦史」の記録より
「国民党地下組織と協力する旧日本軍除隊兵の一団が日本人密集地区である安東市五番通りで、昭和二十一年一月十八日午後二時、中共軍(八路軍)の劉日僑工作班長を銃殺した。司令部は非常に憤慨して、報復措置として、五番通り在住の500家族、約二千名の即時立ち退きを強行に要求し、全員をひとまず協和会館に収容し、その後安東競馬場に移し、四日間監禁した。ちょうど酷寒期であったので、収容中の幼児の死亡者二十五名を出した。

目撃者の話では
日本人たちが連行されたあと、八路兵が住宅をくまなく捜索し、家具や家財を没収してトラックで運びさった。
それを待ち構えていた中国人が無人の家になだれこみ、残らず品物を持ち出したという。建物は、新政府に願い出た中国人に払い下げになった。

マサコ・デイーンが語る夜明けの急襲
「二階の戸を叩く音には余りきがつきませんでした。逃げることになっていた竹富さんもその暇がないくらいでしたから。私の部屋に男の人たちが上がりこんでくるとすぐ母が来てくれました。≪この子は私の娘です≫
母があたしの前に立つと、拳銃が母を囲みました。母は私に≪あんたは廊下に出なさい≫命令調で言いました。でも、拳銃をつきつけられている母を残して部屋を出るのも気がかりで、それに、急に起こされて、拳銃を見たものだから、動けなくて。
母は、びくともしていませんでした。ふだん着に着替えていましたし。いつもの通りでした。二回位言われて廊下に出ていきました。それでも、母が気になるので、部屋の外に立ってました。男の人たちが、竹富さんのことを母に尋ねてました。母は何も答えませんでした。そしたら、≪あの男の証人としてお前も一緒に来い!≫と言ってるのが聞こえました。
部屋を出る母を見送ろうと思ってついていこうとしたら、母が黙って、振り返ると、≪来てはいけない≫というふうに首を横にふりました。母の目がうるんでいるのを見て≪はっ≫としました。でも、母はすぐ帰ってくると信じてましたから。
ソ連兵が来た時だって、≪私のことは忘れてくれ≫と言われたけど、無事に帰ってきましたもの。
・・・
私のことより、他人の世話ばかりする母を見てきましたから、そんな母がそれっきりになるとは夢にも思いません。
だから、私、母に何も言わずに・・・。
ふすまを開けたら八路兵が待ってましてね。母は拳銃に囲まれ出て行きました。階段のあたりで、≪わたし、連れて行かれますからね。あとのことは頼みましたよ・・・。≫足音の中から大声が聞こえました。それが、母の声を聞いた最後。
・・・
その後、芦田伸介に連絡をとると、「お町さん、東カン(土ヘン+欠)子監獄に入れられたそうです」とのこと。

一緒に東カン(土ヘン+欠)子に連行されていた若い板前の証言
「実は女将さん(お町さんのこと)、多分、殺されたと思います。二、三日前です。僕が門のそばの馬小屋で掃除をしていたら、女将さんが門の方に歩いてきます。釈放になるんだなとうらやましくなりました。自分はいつ帰してもらえるのだろうと思って女将さんを見送っていたら・・・。門を出た所で、八路兵が両方から現れて女将さんの腕をつかみました。それで、持ってた風呂敷包みが地面に落ちました。兵隊は風呂敷包みはそのままにして、女将さんは門から左のほうに連れていかれました。
まっ直か、右なら、安東の方になるんですが・・・。
荷物を拾いに行きたかったのですが、門をほんの少々出たところなので、それもできずどうしようかと思っていたら、銃声が二発聞こえました」

それ以後お町さんの消息は安東の街から消える。彼女の場合も遺体は発見されていない。
お町さんこと道官咲子。享年四十三歳。
戒名「寂道院釈尼ショウ(女ヘン+少)咲」
朝倉喜祐氏が贈る。

お町さん、浜崎巌氏、両者とも、証言によると処刑されたのは、はからずも≪東カン(土ヘン+欠)子監獄裏付近。戦犯で銃殺された人たちでも遺体が払い下げられた例は幾つもある。しかし、二人とも、遺体は払い下げられなかったばかりか多くの人たちの探索にもかかわらず発見されなかった。二人は激戦地で戦死した兵士のように、遺体を残していない。お町さん、浜崎巌さんは、共に日本人のために働き、敗戦が残した戦争の処理に尽力し、その渦中で命を落とした。やはり太平洋戦争の犠牲者と私(著者)は見る。そして、二人は壮烈な戦死を遂げた戦友であったと。

著者について
長瀬正枝(ながせ・まさえ)
一九三四年四月満州大連に生まれる。
二年後安東市に転居。
一九四五年八月十五日安東小学校五年一学期で敗戦。
翌年十月二十三日朝鮮経由で引揚、博多港上陸。
大牟田私立白川小学校、私立不知火女子中学・高校、県立大牟田北高、熊本女子大学国文科卒。名古屋市立猪子中学校教諭。
同人雑誌「裸形」同人。
作品
NHKラジオドラマ「密告」「逃げ水」「風紋のさざめき」「ある日曼荼羅寺」「もやい船」「婚期」「「美しき漂い」NHKテレビ「中学生日記」
 2015/01/07 (水) 雑煮を食べながら

 寒波が去ったので、早朝のたんぼ道を歩いた。頬うつ風も身を斬るほどではないが、辺り一面真っ白の世界は変わらない。

 20年ほど前に、小林一茶の句集を読んだことがある。全国行脚で句作に励み、江戸で名を成し、故郷の信濃国柏原に戻った時、生家を見ながら詠んだ句が
 これがまあ (つひ)(すみか)か 雪五尺 である

 でも、後年、異説があることを知った。

 それは
 これがまあ 死所(しにどころ)かよ 雪五尺 で

 一茶の生活スタイルから言って、後者がふさわしい。

 

 と、ヘアバンド・マキタは思うのである。
 2015/01/06 (火) 昨日は仕事始め 

 昨年末の来訪者から、「まきさんのこの部屋は、昼なお暗いところに味がある」と言われたのが気になっていた。去年、幾つか訪ねた古民家はすべて窓が小さく、下からの灯り(行灯)で天井は半分闇の中。この際、設計コーナーにもその味を出そうと思い、友人Mくんが経営する電気店を訪ねた。

 設計コーナーの卓上にはパソコンが鎮座ましましていて、卓上面からの灯りではキーボードの記号を読み取ることができない。相談の結果、裸電球(橙色)の入ったソケットをパソコン直上に吊るすこととした。これで準備万端だ。
 きょうから営業活動に励もう。

 ・・ということで
 寒月や 棒のやうなる 人のくる 

 これは、田辺聖子著「ひねくれ一茶」に出てくる句で、小林一茶の友人・一瓢の作。寒空に凍えて棒のようなった人が歩いてくるというほどの意味で、今の季節にぴったりだ。
 2015/01/05 (月) 初寄り

 昨日の午後一時半からは、平成27年度・坂ノ下区初寄り通常総会が開かれた。
 

 平成26年度収支決算報告、平成27年度行事計画(案)などの議案を消化した後の議題は役員改選。
 選挙で新しい区長にO氏が選ばれた。
 今年の金津祭りでは、坂ノ下区が山車巡航の当番地区になっている。新しい区長も大変だ。

 議事進行のさなか、4月の市長選に立候補を表明しているO氏が来て挨拶をした。抱負を聞いていて思ったのだが、数分間の挨拶では、市が抱える懸案事項に関する具体的姿勢が殆んどわからない。
 現職市長H氏との間での何回かの公開討論が是が非でも必要だろうと思った。

 総会が終わってからは、懇親会。
 冷えたビールとアジフライが美味かった。
 夕刻に家へ帰った。
 酩酊気分で「小説・秦の始皇帝(津本陽著)を読み終えた。

 斉、燕、韓、魏、趙、楚、秦の戦国の七雄と呼ばれる列国が争っていた世紀前二百数十年、天下統一を成し得た覇者は、冷酷非情にして差別撤廃主義者・政(=始皇帝)だった。

 この時代、日本はまだ縄文期で卑弥呼も現れていない。徳川家康による日本国天下統一の千八百年以上前のことだ。驚いたのは、徳川政権による武家諸法度の祖形は秦国のそれであったこと。
 中国は人種の坩堝(るつぼ)で政権交代ごとに前代の支配者眷属皆殺しをくりかえしてきた(この点、信長も舌をまいただろう)が、にもかかわらず日本にとっては先進大国だ。

 2015/01/04 (日) 成人式

 さあ、きょうは仕事始めの日だ。正月三が日のような酒浸りではなにも生まれてこない。とりあえず一月の節目の日は?と考えたところ、即座に浮かんだのが一月三十日・・(わたくし)の66回目の誕生日である。
 そして一月十五日は「成人の日」・・元服してから46年が経つのだ。そのあいだに多くのひととの出会いがあった。しかし、当然のことながら近年は別れのほうが圧倒的に多い。

 ということで、YOU TUBEを開き、「伊集院静VS姜尚中(カン サンジュン) (若者に贈る言葉)」を見ていた。先月に読んだ伊集院の「ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石」がとても面白かったからだ。

 伊集院は、自分が何の職業に向いているのか皆目わからず、35歳まで酒と博打におぼれる毎日を送っていた。そういう男に夏目雅子今は篠 ひろ子というとびきりの美女たちがくっついてきたのだから、世の中不可思議だとの思いは残るが、それはさておき、彼は「(はがね)と花」という短い言葉を若者たちにプレゼントする。
 「心の中に強靭さとたおやかさを併せ持ってほしい」くらいの意味だろうが、そのためには逆境が必要で無頼が必要であると言う。すぐに悩み解消の答えが見つかるような教科書など実人生にはなく、悩み抜くことが自立心確立への道だと言っていた。

 それはともかく
 既に還暦を過ぎた(わたくし)にとって考えさせられたのは、彼の言う「別れの力」
 心に残る別れたひとというのは、無私の精神つまりお互いなんの代償も求めなかったひとで、そういうひとは記憶の引き出しから決して消えず、自分を無言で癒し続けてくれている、と彼は言う。
 きょうは、坂ノ下区の初寄り総会が開かれる。総会のあとは酒が出る予定だ。飲まないでおこうと一応は思うのだが、結局は誘惑に負けるのだ。

 ・・・と思っていたところへN氏(推定年齢70数歳)が秋田県の大吟醸を携えて登場。
 

 「平成26年全国新酒鑑評会・金賞受賞」の逸品だ。
 「酒と薔薇の日々」は今年も続くのだろう。

 
 2015/01/03 (土) きょうも駅伝を見るぞ

 昨日はえらい雪で、近くのコンビニへ煙草を買いに行った以外は、終日家から出なかった。
 正月くらいはテレビを観て一日を過ごそうと思いスイッチを入れたのだが、どのチャンネルもグルメ番組とお笑い番組ばかりだ。困って、箱根駅伝にチャンネルを合わせた。

 刺激的で面白い。
 若者たちの顔がりりしいし、集団から抜け出そうとする時の駆け引きが面白い。
 そこで冷蔵庫から缶ビールを出してきてじっくりと観ていたのだが、何本か飲むうち、4区の走りの途中に寝てしまった。

 仕方なく午後6時からのハイライトを見ると、最終5区の走りがすごかったのだ。青学・神野の快走もさることながら、駒大・馬場の何度も手をつきフラフラになりながらの四位ゴールインに感動した。

 マラソンだったらとっくに棄権していたはずだ。駅伝だからこその完走だった。
 恐らく本人は夢遊病患者になっていただろう。かろうじて意識にあるのは「自分はどうなってもいい。チームメートのために走らねばならぬ。死んでもゴールするぞ」だけだった。

 なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる 西行
 なのである。
 そう思いながら、「激録日本大戦争 第二十三巻・乃木大将と日露戦争」原康史著を読み終えた。

 明治三十八年一月一日、未曽有の肉弾戦によって203高地を落とされ、旅順港内の軍艦を沈没させられたロシア軍ステッセル中将は降伏を決意。一月十三日の降伏文書調印時に、日本側・乃木希典大将とロシア側・ステッセル中将は初めて顔を合わせた。

 306ページにこう書かれている。
 ・・・「開城の規約を実行いたしますが諒承を給わりたい」と乃木大将が言うとステッセル中将は「規約において閣下のご配慮に重ねて感謝いたします」と答え「この方面の戦闘において閣下は二子を失い給いし・・・と承った。閣下の心のうち、お察し申し上げる」と言った。
 「二人の我が子はそれぞれよき死所を得たと喜んでおります。戦場において死するは武門の面目・・・」と云って乃木大将は絶句した。・・・

 昭和の日中戦争とは違って、日露戦争は祖国防衛戦争だったと(わたくし)は思うが、いずれにせよ日中戦争・太平洋戦争を通じて軍司令部要人の子息が戦死したという事例を、(わたくし)は寡聞にして知らない。
 2015/01/02 (金) 雑煮を食べながら

 昨日の午後、S歯科医師(推定年齢五十数歳)が来訪。
 「まきちゃん、年寄りはなんで雑煮が好きなんやろか」と、言う。

 私自身、正月の楽しみといえば昼間から酒を飲みながら本浸りになれること

 「一本の樹にも
 流れている血がある
 樹の中では血は立ったまま眠っている

 どんな鳥だって
 想像力より高く飛ぶことはできないだろう
 世界が眠ると 言葉が目をさます

 あなたに 書物のなかに海がある
 心はいつも航海をゆるされる
 書物のなかに草原がある

 心はいつも旅情を確かめる
 書物のなかに町がある
 心はいつも出会いを持っている

 人生はしばしば
 書物の外ですばらしいひびきをたてて
 くずれるだろう

 だがもう一度

 やり直すために
 書物の中の家路を帰る
 書物は家なき子の旅」 寺山修司


と雑煮を食えることとの二点だが、実はこうも言っていられなくなってきた。

 昨年、上歯が入歯になったことで、雑煮をかむ毎に入歯が抜けそうになるのである。防ぐためには、丸餅を何等分かして、十分に柔らかく煮る。そして飲み込むようにして食べる。これしかない。
 きょうも 午前3時半起床と同時に、その作業に没頭し。上手(うま)美味(うま)く食えた。


 2015/01/01 (木) 本年もよろしくお願いします

 本日は、除夜の鐘で目が覚めた。室内の気温は18℃で、穏やかな年の始まりである。
 年が変ったことでめでたいとは思わないが、そう思いつつも、正月三が日の空気には、やはり凛としたものがある。

 気分一新のため、このトップページの色彩を変えてみた。

 久しぶりに「紅白歌合戦」を観たが、歌手の名前を知らない、歌詞がよくわからない、取り囲むダンサーたちの動きが過剰で服の色がけばけばしい。昭和のおじさんたちがついていくのは無理ではないだろうか。
 結局、二曲聴いただけでチャンネルを消してしまった。

ということで、本年もよろしくお願いします。
 それはさておき
 坂の下八幡神社へ初もうでに行こうと外を見たら、いつの間にか雪がしんしんと降っている。
 
 重装備で出かけた。
 神社に向かって歩く女性(よめはん) を離れて撮ってみた。
 いい構図だ。