2015年03月

 2015/03/31 (火) 三月最終日

 昨日の朝、Yさんが可愛らしい花鉢を持ってきてくださった。「人がよく来る場所なので、みんなの目を楽しませたいと思って」と、言う。

 
 ありがたいことだ。すっかり人嫌いになって閉じこもり気味の私だが、この時ばかりは、胸がキュンとなった。
 念ずれば 花ひらく
 念ずれば 花ひらく
 
 苦しいとき
 母がいつも口にしていた
 このことばを
 わたしもいつのころからか
 となえるようになった

 そうしてそのたび
 わたしの花がふしぎと
 ひとつひとつ
 ひらいていった 
      坂村真民   なのである
 それはともかく、本日の高校野球選抜甲子園準決勝・敦賀気比VS大坂桐蔭。打撃戦になるだろうと思っていたのに、11対0のワンサイドスコアには驚いた。

 私が敦賀気比を応援する理由は三つあって
 ①私が名勝・敦賀気比の松原生まれであるということ(なんせ天女の羽衣に包まれて白砂青翠の地に降臨したそうな)。
 ①主戦・平沼の母校が私の妻とおんなじだということ。
 ①私の市議会議員時代の熱心なサポーターが気比高校野球部の前監督(渡辺監督)だったということ。
 世の中、いろいろと縁のあるものでございます。

 

 2015/03/30(月) 今朝の三国は春霞だった 

 今朝(けさ)の六時半、建物測量のために、三国町へ出かけたのだが、春霞のため前方が見えずほとほと困った。
 

  「声の広場」からの転送です。
541.「柿原郷の殿様」 多賀谷左近三経公記 について 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/3/28(土) 9:17
 この度 多賀谷左近三経奉賛会より「柿原郷の殿様 多賀谷左近三経公記」が発刊されました。
 この本は多賀谷左近三経公奉賛会、及び関係者の御尽力によって発刊されました。その経緯が末文で奉賛会により語られております。

 昭和23年6月28日福井地震で崩壊した三経公の墓を柿原区の青年団の方々が修復されたのが始まりでした(柿原区、永岡勝二氏談)
昭和48年、墓所が金津町の文化財に指定され、地元の方々の協力を得ながら発掘調査が進められ、調査の過程で墓地から地元古老の証言通り、骨壷が発見されました。

 骨壷のなかにはお骨が収められており、富山医科大学第一解剖教室に鑑定を依頼した結果、成人一人の焼骨であることが確認され、またその中に、棺に使われたと考えられる和釘や、火葬の際の炭の一部が残されている状況から、多賀谷左近三経公のものと判断されました。

 平成4年3月、お骨を再び墓地に戻す法要が菩提寺の専教寺で営まれ、関係者立会のもと、整備を終えた墓地のお墓に無事お骨は納められました。

 この事業には柿原郷多賀谷氏菩提寺である専教寺、奉賛会の皆さん、地元の皆さん、旧金津町(担当職員、吉村幸夫氏)が協力して進められ、とりわけ地元の滝地区に在住されていた郷土史研究家の坂本豊先生が90歳を過ぎた高齢にも関わらず御指導助言に多大な貢献をされました。碑文は先生が書かれております。

 多賀谷氏の末裔は全国におられますが、大阪市在住の多賀谷宏氏(当時大阪市議会議長)が整備事業への協力を申し出て、氏の力添えもあって史跡の植栽、造園工事か完成しました。

 このように多くの人々の御苦労により現在に至っており、著作はこれらの人々によって発刊されたものです。

 多賀谷左近三経伝は、坂本豊先生と発掘作業にあたられた吉村幸夫氏(現ふるさと語ろう会会員)から話を伺い、墓所に案内されたことがきっかけで取り組んだ次第です。

 多賀谷氏を語るには結城氏を知る必要があります。結城氏と多賀谷氏のルーツから始まり、結城氏と多賀谷氏との関係を調べました、その結果まとめたのが「戦国非情 結城氏・多賀谷氏伝」でした。

 三部構成でなり、一部は戦国時代の結城氏と多賀谷氏伝。二部は越前入国から柿原郷多賀谷氏廃絶までの結城氏、多賀谷氏伝。三部は結城秀康の末裔たちのその後(明治維新まで)の資料を集め、まとめました。

「戦国非情・・・」をトンボ作品リストに掲載したところ、奉賛会会長・酒井禧祿氏の目にとまり、一部、二部を「多賀谷左近三経公記」で紹介されることになりました。

 以上の経緯でお分かりのように、この著作に本当に汗を流されたのは奉賛会のみなさん、地元のみなさん、専教寺御住職、当初から発掘作業に携わってきた吉村幸夫氏、なによりも故坂本豊先生です。私など名を連ねることすら赤面の至りと感じております。

 調べながら感じたのですが、とにかく謎が多いのです。まだまだ研究の余地があると言えます。したがって私の調べたことにも錯誤がある可能性があります。異説も当然出てくるでしょう。歓迎します。それが新たな解明につながります。

 願わくば、この著作をきっかけに多賀谷左近三経、柿原郷多賀谷一族、柿原郷の研究が進むことを望んでおります。

 奉賛会の皆さん、酒井さん、吉村さん、御苦労さまでした


 この本については、私の事務所にも在庫がございます。
 ご希望の方はどうぞ(500円含消費税)
 

 2015/03/28 (土) もう週末か

 昨日の甲子園大会では、敦賀気比が仙台育英に勝ち、開幕となったプロ野球では、阪神が中日にサヨナラ勝ちしたので、今日は気分がいいです。
 それはともかく
 今週の木曜日で、市職員若干名相手の手話講習が終わりました。
 だけど、四月から新しく手話サークルが始まる始まるそうです。手話のできる人が増えていくことは、聾者にとっての喜びだと、私は思います。興味のある方は、是非ご参加ください。
 
 場所   中央公民館
 例会日 木曜日 午後七時半~九時
 問い合わせは津谷(0776-73-2499)まで
 それはともかく
 きょう午前中の来訪者は三人。うち一人が本格焼酎・「蔵の師魂(くらのしこん)」を携えてきた。
 
 こういう方は神様に見えます。


 2015/03/27 (金) ちょっと思ったこと

 昨晩、とんぼさんが来て、彼の著書「多賀谷左近三経公記」が発刊されたことを知りました。発刊に至るまでの経緯については、「声の広場・NO541」をご覧ください。機会があったら、是非、本書をお読みください。
 

 それはともかく
 昨日の晩は、BBS1テレビで、立花隆の「臨死体験」を見ていた。
 私が脳内出血で倒れた際に幽体離脱を体験し、その不思議さに囚われて、退院してから彼の著作「臨死体験」や「宇宙からの生還」をむさぼるようにして読んでから、八年の歳月が流れている。

 あれは、夢というにはあまりにもリアルで、覚醒と入眠が混在した、言わば夢現の世界だった。不思議と言うしかないが、死への恐怖はなく、来迎図を見たわけではないれども、心は淡々としていた。
 そう感じたことで、自分の価値観あるいは人生観は明らかに変質して、今日(こんにち)に至っている。


 2015/03/26 (木) 井上靖著「おろしや国酔夢譚」

 伊勢亀山領白子村の百姓彦兵衛の持船神昌丸が、紀伊家の廻米五百石、ならびに江戸の商店へ積み送る木綿、薬種、紙などを載せて、伊勢の白子の浦を出帆したのは、天明二年(西紀一七八二年)十二月十三日のことである。西風に帆を上げて、夜半駿河沖に至ったが、急にしけ模様となり、北風が吹き起り、それに西北の風がぶつかり、二つの風が揉み合うちに次第に波浪は高くなり、船は忽ちにして梶をへし折られてしまった。船頭光大夫は生涯で梶の折れる音を聞いたのはこの時ただ一回であったが、それは思い出す度にいつも魂が逆撫ででもされるような気持になる何とも言えぬ厭な音だった。
 それはともかく
 今朝、とんぼさんが「牡丹」と「丸岡藩騒動記」の完成ワードデーターを持ってらっしゃったので、「とんぼ作品リスト」にPDFとして加えました。ご覧ください。


  2015/03/25 (水) 無題

 友人・Tさんが取り組んでいる「ふるさと茶屋」の事業計画が、きょうあたり提出される。

 事業実施体制は①文化活動②地域産業起こし③社会福祉で、収益をどうあげるかだろう。NPOだから儲ける必要はないが、赤字にしてはならない。慎重かつ大胆に(なんちゃって・・私も二年前までの議員時代に使っていた陳腐言葉だが)、具現化していかねばならない。
 それはともかく
 印牧先生や長谷川さんから、越前新保村の船頭、竹内藤右衛門らによる「韃靼漂流記」のことを聞いてから、図書館に行った私は、書架に井上靖著「おろしや国酔夢譚」を見つけ、20年ぶりの再読を決め込んだ。

 以下、序章の一部を紹介。
 「江戸末期ロシアに渡って、日本に帰って来た伊勢漂民大黒屋光大夫のことを「おろしや国酔夢譚」なる題名のもとに一篇の小説に綴ろうと思うのであるが、物語にはいるまでに、それ以前に漂流してアレウト列島あるいはカムチャッカ半島に上がり、シベリアからロシアにはいり、再び日本の土を踏むことのなかった不幸な漂流日本人のことに一応序章として触れておきたいと思う。・・・」


  2015/03/24 (火) 朝はまだ肌寒い.

 
 今朝7時、私は日本海を臨む高台に建てられた古民家を調査している。
 
 
 
 
 手が悴んでくる。荒れ狂う海波のしぶきが、私の体を襲うのだ。
 

  2015/03/23 (月) クラシックコンサート

 昨日の午後はハートピア春江へ。「さかい未来九頭竜音楽祭」に友人の娘さん(フルート奏者)が出演したためである。


 6人の演奏者のうち、あわら市出身OR在住者が3人いた。達川なつみさん(フルート)、宮崎美葉さん(マリンバ)、小島光さん(ピアノ)だ。
 私は、66歳になって初めてクラシック音楽を聴くことの面白さに、どうやら目覚めたようだ。
 宮尾登美子の「天璋院篤姫」を読み終えた。将軍・家定に嫁ぎ、天下一の女性の座に就きながらも、尊攘運動の狂おしいほどの高まりで、世の中は、天皇制にとって代わられたのだが、まさにその現場の中枢で矜持を持ち懊悩する女性として篤姫は描かれている。終章は涙なくして読めなかった。
 以下、作者あとがきを紹介。

 自分では歴史小説を書いたというしかとした認識はありませんが、でも歴史上の著名人を描いたという意味では、やはり私にとってはじめての経験だったと思います。
 何しろうずたかい資料との格闘で、書き足りないところもあり、新聞連載完結後八十枚ほど加筆いたしました。
 天璋院への私の関心は、以前から和宮の事績を読むたび、いつも「では徳川の姑の立場はどうだったのか」という思いを抱き続けていまして、それというのも、自分がその年齢になったという理由も加わっていたのでしょう。いつも申しますが、歴史に女の実績をほとんど記していない日本の男社会のなかで、女が如何に無視されていたか、ペンをおいていましみじみ考えています。
          昭和五九年初秋  宮尾登美子
  2015/03/22 (日) さあ きょうも頑張ろう

 本日は、ノートパソコン持参で三国町へ行く予定。
 某建物の改修設計を依頼されたので、現地に赴き現状立面図を作成するからなのだが、こういう場合、ノートパソコンは便利だ。充電で四時間程度は持つので問題はない。日本海の潮騒を聴きながらの作業となる。

 ・声の広場(no539とんぼさん・印牧那雄先生)を是非お読みください。

  2015/03/21 (土) もう週末か

 昨日は、三年に一度の定期講習ということで、福井商工会議所のコンベンションホールに、午前九時から午後五時半まで缶詰となっていた。

 東北大震災を契機とした建築物の耐震・免震化、既存不適格物件に対する扱いあるいはユニバーサルデザインの導入、省エネ化など、社会問題となっている事項に対してのこれからの指針についての説明を受けたが、とにかく疲れた。とても一日の講習で消化しきれるものではない。次の講習に出れるかどうかはわからないが、生きているうちは建築を考えていたいと思った。
 ということで
 六時半に帰宅しウイスキーをぐぐっと煽ってから、宮尾登美子著「天璋院篤姫」を開く。
 上下で587頁の長編も、残すところ十数ページとなった。

 この小説の始まりはこうです。
 「継嗣の決定は、ハリスの通商条約と並んで目下の重要急務だが、それにはひとつひとつ手続きを踏まねばならず、まず老中に、ついで三家、溜之間詰の諸大名に、そして朝廷に奏上、最後に諸国総大名と一般市民という順になる。
 一橋派の巻き返し運動は、この一番最後の安政五年六月十八日までに行わねばならず、大名とその腹心部下の活動は活発になって、幾島もそわそわしているのを篤姫は横目で眺めているのであった。
 篤姫はそれよりも、あの四月二十四日の突然のおわたりの夜、いつになく寂しい笑顔を見せてあとあとのいい置きをした家定の姿が目に炊きついており、以来、おわたりを待つ思いしきりなのに、いっこうにその沙汰はなかった。・・」

  2015/03/20 (金) 本日は講習会

 昨日の午後は、先日にみくに未来館ホールで聞いた「三国港町の史話と名所、旧跡」の講演者・印牧邦雄氏のご自宅を四人で訪問。大正11年生まれというから、八年前になくなった私の親父と同い年で、にも拘らずの話しぶりと抜群の記憶力に、再度驚いた。 


 氏は宿場町としての金津の成り立ちや横山古墳群のことをいろいろ語っていたが、なかんずく、生涯学習館に展示されている「ケツ状耳飾り」に興味を持っておられるみたいだった。

 暖かくなったら、この人の講演会を、是非、あわら市内で実現したい。
 

  2015/03/19 (木)) 無題

 牧水いろいろ


 白玉の 歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり

 かんがへて 飲みはじめたる一合の 二合の酒の夏 のゆふぐれ 

 ただ二日 我慢してゐしこの酒の このうまさはと 胸暗うなる

 幾山河 越えさり行かば寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく

 わが小枝子 思ひいづればふくみたる のにほひの 寂しくあるかな

 この国の 寒さを強み家のうちに 馬引き入れて ともに寝起きす

 山ねむる 山のふもとに海ねむる かなしき春の 国を旅ゆく

 秋かぜや 日本の国の稲の穂の 酒のあぢはひ 日にまさり来れ
 それはともかく
 去る三月十四日に生涯学習館三階において、由水勇氏の講演会・「宿場あれこれー細呂木宿から金津宿へー」が開かれた。
 
 資料に北陸道のことが
 慶長六年(1601)越前内に19里9町の間に15の駅 馬250疋
 (栃木峠)-板取-今庄-湯尾-鯖波-脇本-今宿-府中-上鯖江-水落-湯水(浅水)-福井-
 で11里30町36間
 船橋-長崎-金津-細呂木-(加賀立花)橘
 で7里15町7間 と書かれていて
 そのあとに
 長崎から金津・細呂木宿へ
 五本~下関~(七曲り)~金津(新町・南金津・北金津)~千束~細呂木(鋸坂)~加賀立花(橘)  とある。

 ここの説明を聞いていて頭に浮かんだのが、北陸道経路の拠点とも云うべき坂ノ下八幡神社境内界隈 だった。


 2015/03/17 (火) 無題

津本陽著「吉田松陰 異端のリーダー 最終章 松陰とは」(2)

 
 彼の子分で、長州出身の「おらが大将」こと田中義一が政権中枢に座る昭和初期になると、松陰はあくまでも利用すべき存在であって、その生き方考え方を学ぶ対象ではなかったのではなかろうか。
 伊藤の場合はもっとすっきりしていて、松陰を利用しようともしないかわりに、特別視もしていない。見方は客観的で、その言葉には高杉や品川弥二郎のような湿度、熱が感じられない。勿論政治家だから、松陰を記念する祭りごとなどにはきちんと名前は出している。
 その二人を除いてもたくさんの人材を育てたと、松陰好きはいわれるかもしれない。
 私はこれまでに、坂本龍馬も、西郷隆盛も、いずれも主人公とした作品を書いてきた。よく知られるように坂本龍馬は土佐勤王党から出た人であり、西郷は薩摩藩のいわゆる誠忠組の首領であった。
 前者は武市半平太を盟主とした政治的結社だし、後者は「近思録」を論独する若者たちの集まりであった。しかし外国の脅威が日本近辺に迫る一方、幕藩体制は時代に対応する能力を失いつつあった。そうした時代であり、時勢に関心を持つ若者が集まれば、攘夷だ、開国だ、尊王だなど、さまざまな意見を持ちより、激論を戦わせた。
 松陰のように教え、指導する立場の人こそいなかったが、土佐勤王党の若者たちも、薩摩藩誠忠組の男たちも、あるいは水戸藩において会沢正志斉や藤田東湖のもとに集まった人たちも、日本の将来を憂え、いかにこの国を欧米列強に対抗する国にするかを考え、燃え盛るように意見を戦わせた。
 行動の時代に入ると、この人たちの中から多くの犠牲者が出た。土佐勤王党のように藩を頼れなかった人たちは各地を漂泊し、天誅組の吉村虎太郎や、坂本龍馬、中岡慎太郎をはじめ他郷で多くが非命に倒れた。藩家からさえも弾圧され、岡田以蔵は死罪、盟主武市半平太は切腹に追いやられている。誠忠組なども、島津久光の命により同士討ちの已む無きにいたって、多くの死者を出している。水戸藩士は勤王の魁をなし、桜田門外の変や、天狗党事件などでまさしく死屍累々である。
 松陰門下の、久坂玄随や吉田稔麿らもまた、そうした騒乱の時代のいたたましい犠牲者の一人である。
 だからといって、この人たちが人材であったかどうかは分らない。あまりにもその死が早すぎて、なしたことを検証、比較することが容易でないからである。あくまでもここにおける人材とは、長州藩内部のことではなく、日本史的意味においてである。
 品川弥二郎は幼馴染の吉田稔麿を回顧して「栄太郎は生きていたら、総理大臣になれただろう」と語ったという。生き残った者は、そういう言い方でしか亡くなった人を評価できないのだ。しかし、それはあくまでも仮定の話でしかない。
 松陰が多くの人材を育てたかどうかも、その多くが若くして亡くなっているから、そうだとは誰も確信をもっていえないだろう。
 生き残った品川弥二郎にしても野村靖にしても、松陰の義弟となった小田村伊之助(楫取素彦)にしても、後年、明治新政府で顕官の座に就いているが、長州という藩閥に属していたからであって、その個人的能力ゆえとは、とてもいいきれない面がある。伊藤や山県らが、松陰の威光で出世の糸口を得たのと、同じである。
 松陰名教育者論も、昭和期の、戦意高揚の時代に打ち出されたものである。その背後に、何か別の意図が隠されていたのではないかと、私は疑ってしまうのである。
 松陰は軽やかに、飛ぶように、過激なことを主張しつつ、若い弟子たちを叱咤したうえで、三十歳であっという間に彼岸へと消え去った。魅力に富む若者であったことは、言を俟たない。先に書いたように、あたかも、一篇の詩のような人生の軌跡であった。
 だから文学的に扱うのはともかく、政治的存在として彼を過大評価すべきではなかろう。
 ましてや彼を神様扱いすべきではない。松陰は小塚原で埋葬されたのち明治十五年(一八八二)、幕府が安政の大獄関係者に恩赦を与えたことから、高杉らが東京若林(世田谷区)の旧長州藩別邸址に改めて埋葬された。
 その後、旧門弟たちの手により明治十五年(一八八二)十一月、墓の隣接地に神社が建立された。これに先立ち明治十三年には西南戦争で亡くなった西郷らを葬った南洲墓地のかたわらに参拝所が設けられた。のちの南洲神社である。
 薩長閥はこういうところでも競っている。山県以降、長州閥が牛耳る陸軍が乃木神社を建て、対抗するように薩摩が主流派の海軍が東郷神社を建立した。背後には、薩長、陸海軍絡んでのどろどろした政治的なものがうごめいていたことは、元防衛大学教授の故・野村實氏の著作などを見れば明らかである。
 松陰神社と南洲神社の場合はよく分らないが、そうでないとは言い切れない。山県のような自らを利するものなら必ず利用しようとする人物が存在するからである。」


 2015/03/16 (月) 異端のリーダー

 角川文庫の津本陽著「吉田松陰 異端のリーダー」を読み終え、今、あとがきを読んでいる。

 最終章 松陰とは

 「・・彼の生き方は、それそのものが一篇の詩である。
 その一篇の詩に、日本史的な意味を付加したのが、高杉晋作の功山寺挙兵だといっていいだろう。
 事件の詳細は、第十三章においてすでに記した。ここで見ておきたいのは、松陰の叫んだ「狂」が高杉に勝敗を度外視しての決起を決断させたということである。
 挙兵の時点で、俗論派政府は二千余の兵力を出勤させうる態勢にあった。しかし高杉の手元には伊藤俊輔指揮下の力士隊など八十名余がいるだけであった。奇兵隊など諸派を押さえている山県は、いまだ観望しておらず、赤禰武人は俗論派との妥協を策していた。
 多くの高杉論は、俗論派は旧式軍隊で、戦意は低く、統率もとれていない。自分が起てば、やがて奇兵隊以下が決起し、それに民衆が次々と義勇兵として参加してくるにちがいない。とすればこちらの勝ちだと読んだ。さすが天才高杉だと持ち上げている。
 しかし、これは結果論からいっていることに過ぎない。高杉に勝算があったとはとても思われない。織田信長の桶狭間のように、高杉は勝利のための手をほとんど打っていないのが、その証拠だ。奇兵隊などを味方につけようと出向くが、賛同が得られないとなると酔いに任せて罵詈雑言、怒鳴り散らして帰っているほどだし、集めた軍資金などにしてもわずかなものだ。そのあたりは、一坂太郎氏が指摘されているとおりだろう。
 しかし、再度の挙兵で伊勢崎新地会所を襲って支配下に置き、奇兵隊を募って三田尻の藩海運局を急襲、癸亥丸など三隻を奪取、下関へ曳航した。このすばやい動きを見て、諸隊に決死の動きが強まり、慎重な山県も高杉の陣営に加わる決意を固めたのである。
 では、高杉に決起を促したものは何だったのだろうか。私はたった一つ。先師松陰の「君たちは功業をなすつもりか。私は義をなすつもりだ。そのためには命など捨てても惜しくない」という言葉であり、いまこそ義をなすときだと考えたのではないか。義をなすに当たっては、生を投げ出す覚悟が必要である。つまり松陰のいう狂である。
 高杉の狂は、俗論派政府を倒す大きなエネルギーとなり、ついに長州藩は一藩挙げて尊王統幕をスローガンにするに至る。
 やがて薩長同盟がなり、統幕、明治維新へと時代は回天していく。松陰は、その意味で高杉を通じて日本の歴史に大きな痕跡を残すことになったといってよい。仮に高杉の決起がなければ、維新回天は違う形のものになったであろうし、そこに長州が参加していたとしても、その比重は軽くならざるを得なかったと考えられる。もちろん、松陰という人のことも、人の口に上ることはわずかであっただろう。
 では、教育者松陰はどう評価すればいいのであろうか。
 先にも触れたが、松陰は、久坂、高杉・・・伊藤、山県と綺羅星の如く並ぶ人材を育てたと、歴史の本には書かれている。
 しかし前章で見てきたように、山県と松陰とのつながりはごく薄く、山県が利用価値ありと見て「松陰先生門下」を吹聴しただけ、といってもいいくらいである。
 山県は松陰のおかげで京都に派遣され、久坂と面識を得られた。桂からの信用も松陰門下ということから得られたのであろう。中間身分から脱し得たのも、松陰の余慶であった。だから、門下生と言い募った。
 彼自身がどこまでそうしたことを考えたか明らかでないが、彼の子分で・・・」


 2015/03/15 (日) 前向きに

 私の駄文ブログを毎日読んでくださる老人が一人いて、昨日にあのようなメッセージを書いたら、「なんでや・・毎日書いてくれないと困るぞ」とのおしかりをうけました。高級ウイスキーをいただいたので、「仕方ない、アイウエオでもイロハニホヘトでもなんでもいいからやっぱり書こう」と思った次第です。

 実は、一ヶ月ほど前から身辺が急にあわただしくなって、時間との闘い大袈裟に言えば分刻みの生活を余儀なくされてきて、座右の銘の「生の世界と死の世界との往還」に変更を迫られてきたことにも「さようなら」の理由はあったのですが、昨晩(八時ごろだったかな?)に来訪した盟友・Tさんの饒舌に覚醒したような気分も又あります。
 それはともかく
 今朝の午前中は某所でマイクを持ってしゃべり、午後は坂ノ下八幡神社の例大祭に出席した。その後事務所へ戻り、依頼されていたCAD図面作成に専念、依頼主が来訪した午後6時半ジャストに仕事を仕上げることができて、そのあとに飲んだビールが美味かった。

 

 2015/03/13 (金) もう週末か

 とにかく物忘れがひどくなってきて、困っている。最近まで日々のスクヂュールをパソコンに打ち込んでいたのだが、打ちこみが楽だから忘れるのだと思って、手書き手帳を購入した。マヒ気味の指を苦労して使えば忘れにくいだろうとの判断からだが、やはり忘れる。脳劣化故の現象だと思わざるを得ない。

 しかしその結論は悲しい。忘れることに対して、積極的な意味を見出したい。忘却力だ。
 年寄りになると、経験知からものごとに引き付けられたり嫌悪したりの度合いが強くなる。したくないことはしない、という姿勢にかたまっていく。勢い、したくないスケヂュールは無意識に忘れようとする。その結果、忘れる。

 認知症はちょっと前までボケと呼ばれていた。ボケは「(ほう)ける」からきている。「呆ける」は「(ほう)ける」でもある。つまり熱中することでもあるのだ。熱中することで他のことを忘れてしまう。そう考えれば、忘れることはそんなに悪いことではない、と思う。
 それはともかく
 このブログをご覧の方で、あわら市内に使っていない古民家を知っている方がおられましたら、メールでご連絡ください。

 2015/03/12 (木) のどごし<生>

 本日は、午前二時に起きて、朝飯も食わず脇目も振らずCAD作業。夕刻に三国土木事務所へ行って、午後五時に事務所へ戻ってきた。
 立て続けに缶ビールを三本飲んだが、とにかく美味い。、

 2015/03/11 (水) 無題

 昨日の朝は、数年ぶりに今立町へ。パピルス館で越前和紙吊り照明器具を買うのが目的だったが、生憎在庫がなくて残念だった。ついでにパピルス館で落ち合った知人と10年ぶりのコーヒータイムを楽しんだのだが、それにしても、粉雪舞い散る今立は寒かった。

 今立には山里集落独得の雰囲気がある。福井大震災での被害を被っていないので、古い家並みがそのまま残っている。土蔵が多かったが、これは今立が紙漉きの町だからだろう。エアコンの無い時代、漉いた紙を保存するのに、湿気を侵入させない土蔵が最適なのだ。

 2015/03/10 (火) 本日は今立出張

 昨日は時間との闘いの一日だった。夕刻までに図面チェックを完了しなければならないので、昼飯も食わずCAD画面と対峙していた。

 生憎、元県議Aさんと市議Bさんが入れ替わりにやってきた。そもそも私の事務所への来訪者の殆んどはアポイントなしなので内心あせったが、「来訪者は全てウエルカム」が信条であり床屋談義は続く。

 並行して、「弱ったなあ、締切時刻は迫ってくるけど話はやめられないし・・」と、虻蜂取らずの精神状態に陥っていく。
 こういう時に威力を発揮するのが酒なので、僕はコップに注いだ焼酎をぐっとあおった。胃の淵がとろけて、頭がぼんやりになりぐしゃぐしゃになると、考えることができなくなっていく。結果的に精神が安定するのだ。
 まことに酒は百薬の長なのである。
 2015/03/09 (月) 新しい週の始まり

 昨日の午後は、みくに未来館ホールで、印牧邦雄氏の講演「三国港町の史話と名所、旧跡」を拝聴。
 90数歳という高齢にも関らずのカクシャクとした話しぶりと抜群の記憶力に驚き、

 例えば
 三国の豪商といえば、森田家・三国家・内田家などだが、三国家について言うと、本姓は森、屋号は宮越屋、始祖は信長に仕えた森蘭丸、その子半兵衛は福井藩初代藩主結城秀康に仕え、以降代を重ねる。貞享3年(1686)貞享の大法により失職、三国湊の対岸泥原新保浦に移住・・ 等々を聴いた時、三国が歴史の町であることを改めて感じた。
 

 2015/03/08 (日) 忙しくなりそうな日曜日

 昨日の午後は、しばらくの間、JR芦原温泉駅前広場にいた。aキューブ、プレオープンということで、友人の娘さんがフルートを演奏したからだが、バイオリン・ピアノ・チェロとのコラボで、雨模様であるにも関わらず春の息吹を感じさせるものだった。
 

 この建物が、北陸新幹線金沢駅からの誘客を狙ったものであることは明らかだが、既存建物の改修物であるために、骨格・外装・内装それぞれに目だったものではない。
 新幹線芦原温泉駅が開業した時つまり駅前広場が完了した時、デザインに主張が感じられるかどうかが生命線だ。
 
 高架から見下ろす家並みは即ち屋根並みである。これを僕は三十数年前に新婚旅行として行った那覇の街で感じた。強く印象に残っている。
 今朝は、八時半から坂ノ下八幡神社境内で清掃奉仕。
 
 マヒにも関らず体が動いた。婦人会の奥さんがたは心配そうに私を見つめていた(ような気がした)が、確かに春が近づくと体が軽くなる。
 

 2015/03/07 (土) 久しぶりの湯けむり横丁

 昨晩、湯の町駅前・湯けむり横丁の横の広場に建てられた足湯ハウスを初めて訪れた。八時半頃か。
 思ったより湯がきれいで気持ちがいい。タオルを持っていなかったので、自動販売機にコインを入れて購入したのだが、たかがタオルなのに300円もするのだから、タオル持参で行ったほうがいい。
 窓外に見えるのは芝生だけなのが残念で、何か仕掛けをするべきだと思った。

 

 2015/03/06 (金) もう週末か

 山ねむる 山のふもとに海ねむる かなしき春の 国を旅ゆく  若山牧水
 それはともかく
 昨日の午前中は、三月議会一般質問を傍聴した。議員を辞めて2年が経過したが、一般質問は時間の許す限り傍聴している。議員でいる時は自分の質問で手いっぱいだったが、今は個々の議員の質問をじっくりと聞くことができるからで、これが結構な時間つぶしになる。

 どの議員がどういうことを質問したかは「議会だより」でわかるし、質疑応答は動画でわかるけれども、臨場感はやはり傍聴だろう。

 自分のことは棚に上げて言うのだが、抽象的な言い回しの質問は総じて聞きにくい。ペーパー棒読み的質問には生気が感じられない。畳重的質問は聞き苦しい。
 

 2015/03/05 (木) 昨日の一日

 昨日の午前中は、クライアントとの打合せをこなし、午後は、建築業者のKさんと一緒に池田町へ。
 ここでは、風景が一変する。「トンネルを抜けるとそこは雪国だった(川端某)」なのである。防寒ズボンを履いて行ったのだが、それでも老いの身には寒さがこたえる。

 加えて、曇天下の古民家調査では、視力の減退が障りだ。Kさんには「目の手術をしたらいいですよ。視力が戻ることによって薔薇色の世界が出現しますよ」と、言われた。
 しかし、最近の僕はぼんやりとしか見えない薄墨色の世界に愛着を感じているので、手術への踏ん切りがつかない。


 2015/03/04 (水) 無題

 先月中旬から、急に忙しくなってきた。
 身体のマヒが進行しているのにも関らず、依頼事が増えている現状をどう捉えたらいいのだろう。人嫌いになって孤独を楽しみたいという余生に対する戦略が崩れてしまう。
 そこで僕は態度を変える。(本当はそう思ってはいないが)こんなくだらない自分を頼ってくださるのだ。何であれ、ありがたくお受けしよう。

 ということで、本日は雪の残る岐阜県境の山奥へ、古民家調査の為に行ってきます。

 2015/03/03 (火) 本日はCAD三昧

 昨日は久しぶりに福井市の建築士事務所協会へ。三年に一回づつ義務付けされている定期講習への参加申し込み書を持って行ったのである。

 事務所協会は福井市の街の真ん中にあるので、軽トラが殆んど見当たらない。僕の愛車は軽トラなので、はやく、幌をつけて、キャンピングカーへのモデルチェンジをしなければならない。

 それはともかく
 あわら市議のYさんが、民報・あわら を持って来た。読んでみて、僕個人は、賛成のところもあるし反対のところもある。
 それはともかく
 最近は三国土木事務所へ日参している。
 三国土木といえば、思い出すのが夕陽恋。

 01/10/20(土) 夕陽恋 


三国土木事務所での打合わせ終え、海岸に出た。
落ちる夕陽に染まる水平線からの風は冷たい。

パリで買ったダーバンのコートのえりをたててのくわえ煙草。憂愁の気分で岩畳にたたずむ私を横ぎろうとするひとつの影がある。
年の頃は42,3か。利休ねずみの鼻緒の草履、浅黄色の地に濃紺紋様の西陣、白いうなじ、島田髪の和服女性は、軽く私に会釈し去って行く。

遠ざかる彼女の細い背中は夕陽の逆光でシルエットと化した。
岩畳を散策する足取りおぼつかなく、不意の波しぶきよけようとした彼女の体が反転しよろけた。
かけつけ、「大丈夫ですか、奥さん」と声かける私に「おおきに、大丈夫どす。それにうち、今は奥さんあらしません」と彼女は言う。

うちとけ、肩並べつつ砂浜を歩いた。いつの間にかふたりの指はからみあっている。
彼女の胸の激しい鼓動が聞こえてくる。抱きしめ口づけを、と思わないでもなかったが議員なので我慢した。
別れた亭主のこと、今彼女にいいよっている幾人かの嫌な男たちのこと、そのうちのひとりが某市の議員だということ、にも関わらず自立し孤高に生きていこうとする思いききつつ、「この人にしろ私にしろ、美男美女の人生につきまとうのは、やはり悲しみと憂いなのか、それが宿命というものなのか」と私はココロでつぶやいた。

気がついたら辺りは既に闇だ。
それでは、と背をむけた私を「りりしいおかた・・・たくましいおかた。うち、貴男様のお名前まだ聞いてしません。今晩のお宿どこですの?教えてくださいな。うち、行ってもかましませんでしょ?ねえ、かましませんでしょ?」と彼女の涙声の懇願が追う。
私は「奥さん、いやもと奥さん。私は名のるほどのものではございません。貴女は私をいとしく思っているのかもしれないが、それは本当の私・裏の私を知らないからだ。どんな男でも、私よりましなのです。恋に恋してはならない。恋に恋したところでなにものも生まれはしない。貴女はいつの日か必ず真実の男性にめぐり合います。ここでさようならすることだけが、お互いを幸せにする道なのです」と答え、歩きはじめた。
背中見続けているであろう彼女の視線に耐えきれず、私はゆっくりと、しかし止まることなく歩き続けた・・・・。

こんなことを岩畳の上で夢想したのだが、こんなシチュエーション、52年のわしの人生に一度もなかったなあ。悔しいなあ。

 2015/03/02 (月) 無題

 きょうの夜明けに
 珈琲の質は水と関係あるのではないか・・と、思いながら下の歌をつぶやいてていた。

♪夜の中に擦る三本のマッチ 一本また一本と
 最初のは 君の顔をすっかり見るため 
 次のは 君の眼を見るため
 最後のは 君の唇を見るため
 そして 真暗闇は それらすべてを 想い出すため
 君を腕の中に抱きしめながら  ジャック・プレヴェール 「夜のパリ」

 2015/03/01 (日) 丸岡藩騒動記

 堺屋太一著「豊臣秀長」を読み終えた。今まで「秀長」という名前さえ知らなかったが、秀吉を天下人にせしめた最大の功労者が実弟・秀長であり、秀吉晩年の文禄慶長の朝鮮侵略戦争政策など耄碌じいさんへの転落は、秀長死後に始まった。

 車はアクセルとブレーキで動かされる。思うに、秀吉がアクセルで秀長がブレーキだったのである。
 それはともかく
 今朝、とんぼさんが「丸岡藩騒動記」をもってきたので、アップロードしました。ご覧ください。
 それはともかく
 朝からのCAD三昧に疲れた僕は、ひとり加賀の喫茶店へ向かった。
 
 
 生憎の雨で日本海は荒れていたが、珈琲の美味しさに充分満足した。