2015年08月

15年8月31日 月曜日 (うたげ)のあと
 
 一昨日だったか・・・民主党福井県連事務局の人と日本海の夕陽を望む喫茶店で談笑したおりに、「戦争法廃案大集会に来てください。でも牧田さんの体ではデモ行進のほうはむつかしいでしょうね」と言われた。
 むつかしいどころか絶対に無理で、歩き続けたら倒れて病院送りになりGF(がーるふれんど)たちを悲しませるのは明らかなのだが、しかし会場へは行くつもりだ。おけら牧場の山崎洋子さんがマイク持ってしゃべると聞いたのも行こうと思う理由のひとつ。
 知り合いの肉声を聞くことがなんというか面白い。 フェイスブックやツイッターやブログでは伝わらない何かがそこにある。
 それにしても
 昨晩の私の事務所での飲み会では、とんぼさん手作りの刺身とワインが美味しかった。
 出席者は6人。なんとなく、みんな変人であるような気がした。
 とんぼさんの講演会が今度あります。
 

15年8月30日 日曜日 無題
 昨日の午後3時、あわら市文化会館で「Summer Classic Concert」、が開かれた。
 中学や高校のオーケストラ部、弦楽部のたくさんの部員も参加しての、言ってみればプロ・セミプロ、アマ合い乱れての演奏会だったが、それ故の面白さを感じることができた。
 最後の「カルメン」はさすが・・・。タクトを振る鈴木氏の姿は、指揮が肉体労働であることを実感させた。
 前の晩に、「アウシュビッツ強制収用所」でのホロコーストを映像で見て暗澹たる気分になっていた私の心を癒してくれたのは確かだ。「音楽と猥談は原始時代からどのような辺境の地にもある}は人口に膾炙している言葉だ。ならば、我々には音楽に心の癒しを求める素養がDNAに組み込まれている。

 国産品ではなんといっても「赤とんぼ」。ほどなく死にゆく私は、赤とんぼ・・違った黒とんぼとなって次世代の日本を見詰めたい。
 ところで
 音楽会が終わってから、三国サンセットビーチを見下ろす丘の上の喫茶店「ポート・ダイク」へ三人で行った。
 三国は「帯流し」とやらで、浴衣姿の御婦人たちのそぞろ歩きが目の保養となった。
 

15年8月29日 土曜日 本日は、「Summer Classic Concert」
  印牧先生の講演会の席上、隣席のK氏から本を薦められた。
 栗本慎一郎著「シリウスの都飛鳥」と斉木雲州著「出雲と蘇我王国」の二冊である。
 時代背景の知識がなく読解力に問題のある私だけれども、薦められるのはありがたいことで、優先して読んでいこうと思う。
 一昨日、高戸氏にお会いした。93歳にして、意気軒昂だ。以前、氏からいただいた「インダスの流れ」を思い出した。

 高戸甚右エ門著「インダスの流れ」201406
 著者・発刊に際して
 「私たちは、今恵まれた窮めて便利な生活をしている反面、おもいやりの心がすたれて、「自分さえ良ければいい」という風潮がみなぎっているが、これは人間社会の貧困そのものではないだろうか。
 戦後日本は立派な製品を安い価格で世界に売り出し、めざましい発展をとげているにもかかわらず、「国民そのものに欠陥がある」と米国ハーバード大学のエズラヴォーゲル教授が指摘された通り、日本的考えがどこでも通用するような錯覚が目立つのではないだろうか。毎年沢山の人が海外旅行すると聞くが、海外へ行くにはパスポートが必要でありこれには外務大臣が相手国に対して行路の安全を依頼する文面がついている。ところが日本人であるとの国家意識を持たず、そのような教育を受けず、国策を無視した言論が横行し外国のジャパンパッシングに同調するなど国益を考えない人々が大手を振って歩いている国から出ていくから冷や汗ものであり、一国の繁栄だけを願うものではなく、世界の平和と繁栄を願い、地球の保全と人類の進歩を考えるとき他国の事情を知り、理解することが大切である。
 どの民族にも歴史と伝統があり、風俗、習慣、言語が異なるも、それぞれその環境で英知を重ねて生活がなされているのである。
 海外での生活を通して今改めて「豊かさ」とは何なのかと考えさせられるのである。
 二カ年のパキスタンでの生活と歴史の歴史を書きとどめたのは、帰国した昭和三十五年(一九八八)の暮れである。その後、会社に勤務し昭和六三年(一九八八)定年退職しても農業の傍ら公務を持ち多忙のため原稿を死蔵していたが七五才を迎え老人の郷愁から整理をすることにした。

 日進月歩は世の常。すでに四〇年を経て、かってのパキスタンは印パ戦争のあと一九七二年一月東パキスタンはバングラデシュとして分離独立し
今日に至っている。パキスタンに於いても首都が「カラチ」から「イスラマバード」に移り、パキスタンも近代国家として繁栄、進歩をしていることであろう。
 一九五九年「チッタゴン(東パ)」からカルカッタに入り領事館で聞いた「ダライラマ亡命」のビッグニュースも昨日のことのように思われ、カルカッタのハウラー駅からブツダガヤ、アグラ、デリー、アムリツアー(インド領)、ラホール(4パキスタン領)への汽車の旅もなつかしい。
ボンベイ、マドラス、スリランカのコロンボやベラデニヤ等も、TVで報道を聞く度に現地での思い出が四〇年前にタイムスリップして、脳裏をかすめる昨今である。  
              平成一二年三月
 

15年8月28日 金曜日 新しいぞ私は
  不思議なことだが、パソコンから建築データーの一部が消えてしまって、私の頭はパニックになった。
 一晩考えた。
 古いデスクトップ型パソコンと新しいノート型パソコンを併用して使っていたことが、データー消失の原因だと自分なりに結論づけた。古いパソコンの良さは画面の大きいことと、キーボード操作のし易さにある。一方、ノート型パソコンの利点はインターネット接続ができることにある。そこで、デスクトップ型パソコンのCPUを廃棄処分とし、画面だけをノートパソコンにつないだ。デスクトップ型パソコンのキーボードをノート型パソコンにUSBで繋いだ。これで両方のパソコンの利点だけを享受できるようになった。視力が減退し指先にマヒの残る私にとっては嬉しいことだ。
 そして
 これをやるだけで、蜘蛛の巣のようにからんでいたコードの幾つかが不要のものとなり、設計コーナーのデスクの上がすっきりとした。   

15年8月26日 水曜日 舘高重
   孝重は明治三七年十月、金津町六日に生れた。大正八年福井農林学校に入学した。十一年に「ひとむれ」、十二年に「フリジャ」を刊行し、号を高重といって文藝活動を始めた。十三年に岐阜高等農林学校に入学し、在学中は雑誌部員となり岐阜の詩人と協力して活躍した。勉学の傍、石川啄木や生田蝶介の歌集を読み、松本淳三の詩集を研究した。机の中にはいつも大きな蝋燭を用意して、十時の消灯後は蝋燭の光を頼りに、熱烈な研究が続けられた。書棚には図書が一ぱい並んでいた。こうして、昭和二年三月の卒業記念に、最初の詩集「感情原形質」を完成した。
 馬来田静秋の序文に
 岐阜高農の学徒として今や業を終えようとする彼が、その記念樹でありまた新しく詩海にのり出でんとする花やかな出発点である詩集「感情原形質」、自分はきっとサッと吹き渡る広野の嵐のように、その器にもられた詩情に秘められた何物かを心ある詩人の魂にのこしてくれるだろうことを欲する。(略)今日まで郷土は彼を見捨てていた。風寒くとも春だ。雪深くも青草は萌える。偏狭なる郷土人の面前に、自分はこの詩集をぶちつけてやりたい心持がすると。

15年8月25日 火曜日 無題
  昨日の昼一番に聾者の友人が来た。
 「デジタルカメラを買うのだが、操作方法の説明を受けるので手話通訳してほしい」と言われ、店に同行した。
 製品のランクにもよるけれど、最近のデジカメは画素数が格段に上がり操作が複雑化している。たかが擬似映像なのだ。プロはともかくとして、一般人にこんなのが必要なのか?・・が正直な感想。私のデジカメは確か¥6,000エンだったがそれで充分だ。
 通訳をしている時、私の携帯電話がなった。
 「今からまきちゃんの事務所へ行く」という某女性からのものだった。来訪女性の用件は「携帯電話を洗濯機のなかに落とし破損してしまったので、何人かの番号を教えてほしい」というものだった。


15年8月24日 月曜日 無題
 夏の夜は まだ宵ながら明けぬるを
            雲のいずこに 月宿るらむ    清原深養父

 はてさて
 昨日の午後は、区民館において「坂ノ下区臨時総会」が開かれた。とは言っても、出席者が過半に満たず、総会は協議会となってしまったが、夏の終わりの日曜日の昼は、みなそれぞれに忙しいのだろう。
 会の内容は、金津祭りの収支決算報告で、理事者側の報告では、「今回の当番区としての御祝儀は前回(6年前)の70%」とのこと。
 そりゃ当然で、子供の数が少なくなっており、若者たちの趣味も多様化した。
 昔観たATG映画に「祭りの準備」というのがあって、「一年に一度の祭りのハレの日のために、364日を雌伏する」というのがメインテーマであったような気がするが、時代は明らかに変ってきているのである。

 会のあとは親睦会。昼間に飲む冷たい缶ビールが美味かった。

15年8月23日 日曜日 無題
 昨晩の八時頃だったか、パンツ一枚のいでたちでの転寝中に、ドアをノックする音が聞こえた。「女性ならタイヘンだ」と、急ぎズボンを履きドアを開けたら、立っていたのは歯科医のSクンだった。
 「まきちゃん、この頃、ブログを書いていない。大丈夫か?」と、心配してくれた。
 今朝は、子を亡くしたお母さんとずっと話し込んでいた。
 詳細については、個人情報だから触れないが、私の印象は、「女は強い。男なんかよりずっと強い」・・だった。子供は女にしか産めない。全てはここだ。

 津本陽著「孤塁の名人 合気をきわめた男・佐川幸義」をほぼ読み終えた。達人と呼ばれた男の奥義に驚いた。 
自身剣士である著者が実際に入門し、技を体感してのルポだから著述に嘘偽りはない。

15年8月22日 土曜日 きょうは土曜日
 久しぶりに調子が普通に戻った。調子というのは、私の場合、体調(体の調子)と脳調(脳の調子)のふたつがあって、体調は相変わらずだが脳調が戻ったのである。
 戻った理由は単純明白で、憎からず思っている女性が来訪してくれたためだ。
 事務所近くの自販機で買った微糖缶コーヒー(¥140エン)をそっと差し出した。彼女はコーヒー私はウイスキーを飲みながら、あわら市行政の矛盾、議会のおろかさを語り合っていた。
 日本人は万物に何かが宿ると考えているのだから、それを宗教学じゃあるまいし、神道か仏教かキリスト教か新宗教かなどと区別して見るよりも、その何かを一人一人が多様にもっていることを宗教とみなせばいいじゃないか  野坂昭之
 
城山三郎 指揮官たちの特攻 
 城山三郎著「指官たちの特攻」を読むと、真珠湾攻撃が「経済力では桁外れに大きなアメリカが、情報戦も含め、準備万端待ち受けているところへ、日本側はほとんど素手も同然で飛び込んで行った行為」と見ることもできる。
 ハワイ攻撃直前の昭和16年11月15日、海軍兵学校を卒業した432名の中に、関行男と中都留達雄という若者が居た。このノンフィクションの主人公だ。
 関と中都留は同年輩。同じような環境で育ち同じく指揮官となるのだが、性格は好対照。関が豪放磊落ややもすると尊大であるのに対して、中都留は沈着冷静。部下にやさしく、大西中将が発案したとされる特攻計画に批判的だった。しかし軍人にとって上司の命令は絶対で、二人とも特攻機で海の藻屑となる。
ともに両親は教職への道を勧めたのだが、それを断固拒否し、兵学校への道を選んだ。
 昭和19年に入ってふたりとも結婚し子をもうける。死を宿命づけられていながら結婚したのでは、遺族の悲しみを増やすのではないかと、私などはおもうのだが、当時の社会は家中心で、家系存続が一番大切だったのである。 霞が関で教官生活を続ける関は、教官であること自体に不満で、はやく前線に出て、航空兵として手柄をあげたいと思っていた。
 そして、台南航空隊で予科練出身の下士官・兵を対象に、後に「桜花(おうか)と呼ばれる開発中の人間ロケット弾の乗員募集が行われるに当たって、「ぜひ私にやらせてください」と応募したのである。
 昭和19年10月20日朝、出撃待ちの特攻隊員たちへの大西中将の訓示は、心をこめたものであった。「日本はまさに危機である。しかも、この危機を救いうるものは、大臣でも、大将でも、軍司令総長でもない。もちろん自分のような長官でもない。それは諸子のごとき純真にして気力に満ちた若い人々のみである。したがって、自分は一億国民に代わって、みなにお願いする。どうか成功を祈る」
 命令するというより、頼む、お願いするという形で話しはじめ、「みなはすでに神である。神であるから欲望はないであろう。もしあるとすれば、それは自分の体当たりが無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。しかしみなはながい眠りにつくのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見とどけて、かならず上聞に達するようにするから、安心して行ってくれ」と結び、も一度、「しっかり頼む」とくり返した。

 「天地がひっくり返る」という言葉がある。
 愛媛県西条で一人暮らしをする関行男大尉の母、46歳のサカエを見舞った運命がまさにそれであった。 もっとも、それから1年余りで、サカエはもう一度、天地のひっくり返る手痛い思いをさせられることになるのだが。
 当時、サカエの唯一つの楽しみは、映画を見に行くことであった。
 そして、唯一の生甲斐であった息子行男の死を報されたのが、その映画館の中であった。親類の小野勇太郎が駆けつけてきて、「いま、ラジオの臨時ニュースで、神風特攻隊が・・」その神風特攻隊が何なのか、どんなに晴れがましい死なのかなど関係なくサカエの耳に残ったのは、かけがえのない息子が戦死してしまった、という一事であった。
 サカエはよろめくように映画館を出た。
 そして、どこをどう歩いて来たか、全くおぼえのないまま、家にたどり着き、へたへたと畳に座りこんだ。やがて、次から次へと人が訪ねてきた。隣り近所の人、知り合い、親戚、そして、見も知らぬ人たち。町の内外から、いや全国各地から、次々と弔問客や団体が訪ねてくる。手紙や弔電はもちろん、供花や線香や香典などが、小さな家に溢れ返り、客はもちろん、サカエ自身の身の置き場さえない。
 当時はまだテレビもなく、ラジオも日本放送協会というので、まだしもよかったが、さもなければ、三日 と経たぬうちに、サカエは寝こんでしまうところであった。
 そして、慰められても、サカエの反応はただ一つ、放心したまま頭を下げ、さらに放心していく。 
 「よくまあ倒れずに座っている、という印象でした」と、サカエの親戚筋にあたる大西伝一朗はいまなお思い出す。ラジオや新聞が戦果をくり返し、二階級特進した関中佐を「軍神」と賛えたおかげで、我が子の死でなくなってしまった。サカエは一人っ子の死の悲しみに沈むよりも、「軍神の母」として振舞わねばならなくなった。それは女性の嗜みとして、僅かに着物の襟に爪楊枝をはさんでおくといった暮らしをしてきたサカエにとっては気の遠くなりそうな日々であった。
 各紙はまた、サカエ自身の言葉を含めて関大佐の生前のエピソードを伝えていた。
 <模型飛行機が大好きな子で、その頃から兵隊になるんだと口ぐせ」にいってゐました。一人息子ながら 食物の好き嫌いをいったことは一度もありません>エトセトラ

 ・・そして、最後のものと思われる関からの手紙も紹介されていた。
 <〇〇空に着任したが、また転勤で戦地へ行く、あまり慌しいので、面喰ってゐる、 服類も靴なにもいらぬ。永い間待望の戦地だ、思ふ存分頑張る覚悟だ、時局はいよいよ最終段階に入り、戦局はますます逼迫して来た、お前も自重自愛して働くやう、国の母にもよろしく>
 特攻の話が出る前と思われるのに、まるで遺書同然の手紙であった。
サカエはそれらの新聞に幾度か目を通しはしたものの、感想など漏らすことはなかった。そして、栄光の嵐いうか大波が退いた後も、有縁無縁の人々が思い出したように訪れ、どこかへ招かれたり、呼ばれたりも。

15年8月18日 火曜日 無題

 
半藤一利著「日本の一番長い夏」 が映画化され上映されるそうだ。

 昭和38年の夏、文芸春秋社主催で、昭和20年8月に政府の要職に就いていた者、戦争の最前線で命を賭して戦っていた者、特攻を志願した者、銃後の兵士だった者エトセトラ総計38人が集まった。そして、彼ら彼女らの肉声は私の耳を撃った。

 当時の書記官長・迫水久常によれば昭和20年7月26日に英・米・中の首脳がポツダムに集まり、いわゆるポツダム宣言(日本の無条件降伏勧告)が発せられた。それまで、佐藤尚武ソ連駐在大使を通してソ連を仲介とする和解工作を模索していた日本首脳にとってこれは寝耳に水。そしてこの情報は国民の誰一人にも知らされることがなかった。

 時の戦争指導者会議のメンバーは6人。
 米内、東郷、鈴木の三人が宣言受諾を主張したが、阿南、梅津、豊田つまり軍人側の3人が天皇制護持を目指し本土決戦を主張。会議は混乱に混乱を重ねた。

 8月14日の御前会議による昭和天皇の御聖断まで受諾はずるずるっと延びてしまい、その間に広島、長崎へ原爆が投下されたのである。

 8月7日(だったかな?)、佐藤ソ連駐在大使は外相モロトフに呼び出され、宣戦布告書を手渡される。そして8月9日にソ連軍が満州へ侵攻してきたのである。ぼくはソ連国民をナターシャ以外誰も知らない。

 いろんな発言のなかで印象に残ったもののひとつが、沖縄戦で白梅部隊にいた楠さんの証言。

 米軍の砲火攻勢が強まった昭和20年6月。彼女が所属していた部隊の長から「もうあかん。わしら帝国陸軍兵士は既に玉砕を心に決めたが、おまえら看護兵は家へ帰れ。生き残って結婚して立派な日本人を産んでくれ」と言われ、彼女は親友とふたりで部隊をあとにする。沖縄南部の地で米軍砲火をかいくぐりながら逃げ惑うふたりの前に陸軍兵士5人が突然現われる。

 「兵隊さん、私たちを連れて行ってください」と懇願し、計7人は行動を共にするのだが、行く手に米軍部隊が現われた。5人は四散し、亜熱帯のジャングルに逃げ込む。しかし彼女らふたりは女の身なので、逃げ足が遅い。しかたなく手榴弾を手にして自決を図るのだが、起爆操作がうまくいかないちに米軍に捕まってしまう(正確には、捕虜となった)。

 彼女たちが米軍トラックに乗せられようとしたその刹那、陸軍兵士5人が日本刀を抜いて切り込んできた。そして彼ら5人は彼女達の数メートル目の前で米軍火器により、頭を飛ばされ、胴体を分かたれ、全身血だるまとなって息絶える。

 要するに5人の兵士は、拉致されようとする彼女らを救おうとして、身を粉にしたのだった。

15年8月16日 日曜日 無題

 日本が国体護持云々でポツダム宣言を受け容れるまでに、数週間を要したことで、ソ連の対日参戦を招き、広島にウラン型原爆が落とされ、長崎にプルトニウム型原爆が落とされたたという悲劇が定説となっているが、米ソの腹のうちはそうでもなかった。
 ソ連にとっては、戦後の冷戦に備えて世界同時革命のためのイニシアテイブを取るがための蛮行であったし、米にとっては、アインシュタインらの技術員によって構成されたマンハッタン計画の実現を必須の要件としたのである。
 日中・太平洋戦争における大日本帝国の敗北が、戦後世界のレジームの方向付けに利用されたことで、我々は歴史の荒波に翻弄されている。
 敦賀・気比の松原に美しい天女の子として産まれた俺の従兄弟姉妹は、当然のことながら皆嶺南に住んでいる。俺は、お盆の休日を利用して皆に会いたかった。特に、植物人間となっている従兄に会いたかった。でも、世間はそれを許してくれなかった。自分は、前のめりになって、この世から消えていくんだろう。
 東京オリンピックでの国立競技場建設問題がマスコミを賑わせているが
 二年前に読んだ本・ 「高杉良著  東京に オリンピックを呼んだ男」は面白かった。
 
 主人公は、ロサンゼルス在住日系二世フレッド・和田勇。
 昭和24年8月つまり私が生後七ヶ月でまだヨチヨチ歩きもできない可愛い赤ちゃんだった頃に、日本水泳選手団が全米水泳選手権に出場するために渡米した。そして和田が日本選手団に、9日間 の宿泊先としてサウス・バンネスの邸宅を無償で提供した。
 選手権で日本チームは自由形六種目中五種目に優勝、九つの世界新記録を樹立した。特に古橋廣之進の活躍はめざましく、全米マスコミは彼のことを「フジヤマのトビウオ」と呼んで賞賛した。
 まだ米軍統治下だった日本本土からマッカーサー元帥による祝電も打電された。日本中が戦後の混乱期のなかで疲弊していた時に勇気と希望を与える出来事となったわけである。
 さて
 和田が単に戦後の米社会で順風漫歩に成功しただけの男だったとしたら、この物語の魅力は半減するのだが事実はそうではない。彼の一家は生地和歌山県で食い詰め戦前に米本土に移住した。そこでいろんな仕事に手をだし失敗し要するに七転び八起きの人生を繰り返しているうちに両親はなくなった。そしてその時に米国と祖国日本との間で太平洋戦争が勃発したのである。
 彼は強制収用所入りを拒否し、仲間と共にユタ州キートリーに移り住む。日系人は軍需などの工業製品づくりに従事することができないので、荒地を腕一本で開墾し農産物を出荷して生計をつないだ。
周囲からは「中国人をいじめるジャップ、帰れ!」と嘲られた。
 米国籍をとってはいたものの、祖国が日本であるとの思いでアイデンテイテイのギャップに苦しんだことが、戦後になってから東京オリンピック招致に米国籍でありながら陰で活躍する伏線となったのは間違いない。
 このあたり、何年前かの東京オリンピック招致決定の顔となりながら不祥事で辞職を余儀なくされた東京都知事とは対照的。


15年8月15日 土曜日 無題

 お盆は先祖墓参りの日なんだけど、今でも週に数回ずつ墓参りに出かけている私にとっては、節目の日でもなんでもないような気がする。ただ、この数日は静かで電話もなく、ゆったりしたリズムで仕事のできるのは嬉しい。

 全国で戦没者慰追悼式が開かれているが、真っ先に思い出すのが、若い頃に淡路島の離島・由良にある国民宿舎で二夏をアルバイトした時のこと。童貞がトヨコという女によって喪失されてしまったという苦い経験のある島だが、そんなことはどうでもよくって、戦争の悲惨を感じた島である。
 宿舎長のチトウさんは、笑みを絶やさない実に温厚な紳士。市民社会で言うならば好々爺。ぼくは、客の飲み残したビールを飲みながら、よなよな語り合った。
 ある晩、彼はビールジョッキーをテーブルに置いてぼそっと口を開いた。
 「牧田くん、わしは日中戦争に兵士として従事し、辛酸を嘗め尽くした。わしの敵愾心は頂上にあった。そんな時、上司から捕虜の処罰を命じられた。わしは四人のチャンコロを青竜刀で切った」と、言った。
 戦没者に国籍はない。あるのは戦場の狂気だけだ。
 
 浅田次郎 「活動写真の女 」
 ・・不思議な本だ。
 時は昭和44年。京大文学部の学生・三谷薫は、医学部学生 ・清家忠昭と出会う。
二人は共に熱狂的な映画少年として育っていた。
三谷は清家の紹介によって太秦の撮影所でアルバイトをするようになる。そこには日本映画界草創期からの全ての裏事情を知っている辻老人がいた。ある日、清家と三谷と三谷の恋人・結城早苗は時代劇映画にエキストラとして出演するのだが、その時、紅柄格子の向こうに芸者姿の美しい女優を見た。早苗がその女優と言葉を交わし、そしてここから現実と非現実とがほどきようもなく交錯した世界に、迷いこんでしまうのである。
 恐怖感に襲われた三人は、ことの顛末を辻老人に打ち明ける。
 辻老人は日本映画界草創期に活躍したマキノ省三、尾上松之助、坂東妻三郎、嵐寛十郎、片岡知恵蔵、溝口健二、小津安二郎、山中貞雄らについての薀蓄を語るのだが、その過程で、三人と辻老人は、女が「祇園の姉妹」にチョイ役で出ていた女優・伏見夕霞(ゆうか)で あることを知る。そして、ひょんなことから彼女が昭和12年に死んでいたことがわかる。
 いつの間にか清家は、三谷、結城と疎遠になるが、三谷と早苗が鴨川べりを歩いていたある晩、二人は清家と出会う。清家には夕霞がぴたりと寄り添い、三谷、早苗に対して微笑みを投げかけるのであるが、三谷、早苗以外の誰にも夕霞が見えない。つまり夕霞は死者でありながらある理由で現世にとどまっている存在であり、その彼女と清家は既に恋仲となっている。
 幻想的なこの物語はこのようにして進んでいくのだが、数年前から霊魂の存在を信じている私には、希望の本だった。

15年8月14日 金曜日 お盆
 きょうの午後、妹が妹の息子を連れてやってきた。お盆なのだ。息子の手には「全量芋焼酎一刻者」がある。息子は福岡で働いているのだ。

昨日、あるところで 「鮫 」を思い出した。真継伸彦の小説だ。

 「見玉は蓮如の二女で、蓮如吉崎に来ると蓮如の長男順如の配慮で吉崎に来て、妻を亡くしていた父蓮如の身の回りの世話をしていた。美人で人付き合いがよく参詣人から、寺内の使用人からも慕われていた。ただ身体が丈夫でなく病にかかり26才で吉崎の地で亡くなった。
蓮如は見玉の死について文を書き残している。その文に、見玉とは玉を見ると読むなり。いかなる玉ぞといえば真如法性の妙理如意宝珠を見るといえる意なりと。また夢にいわく、白骨の中より三本の青蓮華が出生し、その花の中より一寸ばかりの金仏光をはなちいで、蝶となりてうせにけり。
即ち極楽世界へ飛んでいったと書かれている。明治初年山上が東西本願寺へ戻った時、この文に基づいて、玉墓が信徒の手によって建てられた。真継伸彦の小説「鮫」に 見玉尼が出てくる。」

 ということで真継伸彦著「鮫」を図書館から借りてきた。
三国の安島で賤民の子として生まれた主人公は、雄島周辺で兄と二人で鮫獲りを生計の糧として育ってきたので、周囲からは「鮫」と呼ばれた。海の荒れた日に鮫獲りに出た二人だが、船に襲いかかった大鮫に片手をくわえられた兄は海の藻屑となってしまい天涯孤独の身となる。

 食い詰めた「鮫」は餓死の恐怖と戦いながら、京の都を目指す。時は応仁の乱のさなか。戦乱で身寄りのなくなった「鮫」のような乞食たちに六角堂で粥を施していた僧侶・願阿弥(時宗系だと思う)と言葉を交わしたのが、京におけるというか地獄絵図のなかで青年となった「鮫」の後半生の出発点だったろう。
・・・
 願阿弥様は、おれの両肩に置いた手に力をこめた。おれから離れると、あたりの流民につぎつぎに、おなじ説法を垂れてまわっておられる様子であった。聞いている流民はすべて、無表情に口をあけていた。しかし願阿弥様のお説法は、皆の心に侵みとおっていた。筵を敷きつめた板小屋の中で、何十日かであたたかく皆といっしょに雑魚寝した翌朝、多勢の流民が筵を背負うて動きはじめた。どこへ行くのかと、おれはついて歩いた。せまい両側の家なみの、あちこちの戸口からのぞく蒼ざめた町衆の顔に見送られながら、流民の行列は小路を東へ真直ぐ歩いていった。やがて突きあたった土手にのぼると、寒風の吹きすさぶ川原へ降りて散らばった。おびただしい屍の横たわる河原のすきまに筵を敷きのべて、その上に横たわると、もう動こうともせぬ。
 おれは逃げた。せっかく京までたどりついたのに、すぐに死ぬるのはいやじゃと自分に言い聞かせた。
願阿弥様が教えてくれたように乞食してあるこうと、その日一日、町なかをほっつき歩いた。夕方には流民の数のめっきりへった六角小路の難民小屋へ、悄然ともどってきた。おれに食物をくれる者はなかった。
路上で数度みかけた町衆は、おれが田舎言葉で物乞いするまでもなく、拳をふりあげておどした。大きな屋敷に近づけばかならず犬が吠え、一度は土塀の背後にかまえた矢櫓の上から、おれをめがけて矢が飛んできた。
 死人の肉を喰ろうてまで生きのびようという気は、もうなかった。あれは、京へさえたどりつけば助かるという望みがあればこそだ。その京の都で、人は死んでゆくばかりである。板小屋の前の薄い陽だまりのなかにへたりこみ、今にも割れそうな頭であてのない行末を思うていると、いつか夕暮れであった。夕映えが、眼の前の小路や背後にならぶ板小屋を赤々と染めだしていた。
ふと見た西空に、陽は実際には見えなかった。しかし一瞬、おれは満面に血をしたたらせて落ちてゆく、大きな入陽を見た。一年前の春、それは神様の島(注;雄島のこと)の草の茂みのなかで見た、兄者を呑んだ海に沈む入陽であった。
 あのときの恐怖が、ふいにおれをつかみとった。唇はわなわなとふるえだし、どうにもおさまらぬ。眼には赤い光がみなぎり、光りのなかに、わずかに小路と土塀の輪郭だけがみえた。・・・おれは今、どこにいるのであろう?一年前とおなじ禁忌の、神様の島に今もいる。しかしあのときには、逃げて、逃げて、逃げつづけて、たどりついた所はおなじおそろしい入陽のそばではないか。兄も母も鋳物師も、もうどこにもおらぬ。逃げ場がないままに、おなじ死の恐怖にまた耐えつづけなければならぬのはおそろしい。眼前に死をみつめ、そして何ごともなく、ついに何もなくなるという恐怖に、もう耐えられぬ。今にも錯乱しそうな頭をかかえて身動きもできず、おれは徐々に高まってくりかえし押し寄せる恐怖の波を浴びて五体をふるわせながら、はよう楽になりたいと希いつづけていた。

 ・・・見玉尼様、それは寛正の第二の年の春のことであった。貴女様はあの春を、どのように過ごされたのであろう?おれはすでに孤児であったが、おれより二つ三つ年上の貴女様にも実の母上様はすでに亡く、しかも父上の蓮如上人様のおそばをはなれて、当時は神楽岡の麓近く、摂受庵という所で御妹の寿尊尼様とごいっしょに、御幼少の身を比丘尼の道に捧げて修行を積んでおられたとうけたまわった。尼寺の奥深くにこもり、み仏様の前に小さな手をあわせて、ひたすら浄土のみ教えを学んでおられた貴女様は、近くをながれる加茂の河原の惨状も、きっと眼にされたことはあるまい。父上様のおそばをはなれられたとはいえ、摂受庵の御住職には大叔母の見秀尼様もおられたという。とぼしい食事に耐えながらも、肉親のあたたかな庇護のもとにあって、餓死に瀕した思い出は貴女様にはなかったであろう・・・

 見玉尼と鮫は後年、吉崎の地であいまみえる。
というふうにこの単行本をオープンカフェで読みすすめていた夕刻、若く美しい女(ひと)が現われた。歓談が終わり帰ったあとに、それなりにそれなりの女(ひと)が現われ、またも歓談。

 晩酌を終えたあと、夜はひとりで空の星を眺めていた。
 鮫は守護大名朝倉敏景の軍勢に足軽として加わる。加茂川の土手につらねた篝火の下で見張りに立った時、周知の下人の顔を見出し、酒を酌み交わす。下人は「現世のためには朝倉敏景殿、後世のためには蓮如上人様、お二方に忠勤をはげんでおる」と、思いを吐露する。

 ・・・「その蓮如という坊様は、北国のどこへゆくのよ」
下人のなが話が終わったとき、おれが訊ねたのも、気がむいたときにそこへ行けば、もう一度貴女様に会えると思うたゆえであった。

「吉崎じゃ」
「吉崎とはどこじゃ」
「越前の国の北のはずれ、加賀との国境の海辺じゃ。海のすぐきわに、北潟という名のひろい湖がある。湖のほとりに、低い山がある。蓮如上人様はその山の頂上を切りたいらげて、大きな道場をおつくりになる。そこで説法なさるのじゃ。
 いやらしい土民でも、銭のない貧乏者でも、信心の話を聞きたい者はみんなこい。さように仰せられて、北国に本願寺様の信心をおひろめになるのじゃ。わしらがように何のとりえもない下人土民ばらをば、阿弥陀如来様がおつくりなされた極楽浄土に迎えていただくための、正しい念仏の仕方を説いてくださるのじゃ」
・・・下人の話によれば、東山大谷にあった本願寺が、寛正第六の正月に焼き討ちを喰ろうたあと、蓮如上人様は山門の追求の手をさけて、ながいあいだ近江の各所を転々としておられた。堅田本福寺の法住様や、金森の道西様など、近江の信徒はよく助けた。執拗に御上人様のあとを追う僧兵やその一味と、何度も合戦した。しかし山門との和議はすこし前にようやく成りたち、御上人様はそのころ、琵琶湖の西南岸のあたり、近松という在所に顕証寺という寺をつくってお住まいになっていた。
そこで京へもどれる日を待ちのぞんでおられたが、その近江も、昨文明第二の秋に京極持清殿が病死したあと、南近江の西軍、六角高頼殿が反撃に転じて、今日に変わらぬ戦乱の巷となりかわった。布教は思うようにははかどらぬ。蓮如上人様はこれを機に越前に出向いて、北国の門徒の信心を正そうと、固く覚悟なされた。越前の守護職におさまった朝倉敏景殿に庇護をおたのみになるため、今日は朝倉の陣までおでましになったのであった。
 下人が仕える和田の一党は、足羽郡和田村の国侍であった。信心はまことにあつく、代々の総領が本覚寺を継ぐしきたりで、当代では蓮光という坊様が一族の首領であった。しかし家を保持するためには、朝倉に忠勤をつくさねばならぬ。
忠勤の甲斐あって、今では興福寺大乗院領の荘園、坂井郡河口庄の、細呂宣郷下郷の別当職を恩賞に得ていた。秋には六十町の田からあがる年貢をとりに、和田党は細呂宣まで出向く。蓮如上人様が道場をおひらきになるという吉崎は、この細呂宣郷下郷にあった。
和田党が尽力して、御上人様のものとなった。下人はそれゆえに、吉崎の風光をよく知っていた。おなじ越前に生まれたとはいえ、小さいときに在所を出たおれは、自分がそだった安島の在所から、浜づたいに東へ五里ほど行った所にあることさえ知らなかった。・・・
この単行本のごく一部をペーパーからデータに逐一転換していて疲れた時、著者の履歴を調べた。
著者は、高橋和巳・小田実・芝田翔らと共に同人誌「人間として」に拠り、文学・思想活動を展開する、と書いてある。

15年8月13日 木曜日 無題
 出発の歌
 ようやく、欝気分から抜け出した。久しぶりに本も読めそうだ。酒も飲めそうだ。
 書き込みをしないと、心身を心配してくさる方が数人いて、反省しています。
 ところで
 とんぼさんの講演会「沖仲仕組創記念之碑が語る明治鉄道史」が、11月21日(土)13時30分ーと決定しました。場所は市民文化研修・研修室1です。是非、ご来場ください。
 ところで
 きょうの敦賀気比対花巻東戦。途中から観ているのが嫌になった。あれでは、ピッチャー起用に関する監督の采配ミスと言われても仕方ないだろう。

15年8月8日 土曜日 一行日記
 指のマヒが進行し、パソコンのキーボードを押すのも難儀になったので、ホームページソフトを開いても白い画面をただみつめているだけだったが、十数年間続けてルーテインとなっている書き込みをしないと、一日が始まったような気がしないのが厄介だ。議員でいた(あいだ)は不特定の市民に向かっての義務的発信の意識があったのだが、今やそれもなく、せいぜい十数人の友人知人に対する時候挨拶的書き込みとなっている。
 というよりも、自分に向かって書いているような気がする。
 ところで、開湯130周年記念とやらで、生涯学習館に於いて、とんぼさんの労作・「仲仕組創立記念之碑」関係の資料が展示されます(九月八日ー十二月二十日)。一昨日のとんぼさんが持ってきてくださった資料も展示されます。郷土史に興味のある方は、是非、ご覧になってください。
 それにしても敦賀気比の初戦は冷や汗の勝利だった。福井県地方予選の決勝と同じで、「どっちが勝ってもええわ。勝者に花束はいらないのだから、敗者に拍手を送ろう」と、思ったものだ。

15年8月6日 木曜日 無題
 しばらくお休みします。

15年8月5日 水1曜日 一行日記
 少し落ち着いたら、人生をじっくりと懐古したい。よかったのかわるかったのかどうでもよかったのかを考えてみたい。
 ぼくはよく徳川時代を夢想する。昨晩も、江戸城・大奥の夢を見た。最盛期には2000人の女性達が愛憎劇を繰り広げた大奥は、三代将軍・家光の生母・お江と家光の乳母・お福によってつくられたものだが、勿論、指示者は家康だ。虚弱体質の家光の正妻として、お江は、京の公家の娘を与えた。対してお福は江戸市中を探索し、町人や百姓の娘たちを側室として与えた。
 お江の狙いは家光及び大奥女性たちに京風のマナーを身につけさせることであり、お福の狙いは下々の民であるが故の健康性を家光に植え付けることであった。
 両者、波乱万丈の半生を送ってきた。お江は近江の浅井長政と信長の妹・お市の間に3女として生まれ、長政亡きあとは、柴田勝家を父とした。北ノ庄落城で勝家、お市が死んでからは3姉妹バラバラとなってしまった。家康はそんな彼女を愛おしく思い、二代将軍・秀忠の正妻に迎えたのであった。
 お福は(記憶によれば)、逆賊として有名な明智光秀の血をひいており、山崎の合戦のあとは清貧の極みを味わっていた。この娘を不憫に思った家康は、家光の乳母としたのだ。
 育った環境が180度違うとは言え、苦労に苦労を重ねた点は共通する。家康はのほほん女性が嫌いだったのだと思う。
 そのあたり、ぼくは家康とはちがう。ぼくは全ての女性が好きなのである。
 

15年8月4日 火曜日 一行日記
 しばらくのあいだ、一行日記が続きそうです。
 それはともかく
 今度生涯学習館において、とんぼさんが彼の作品・仲士組創立記念之碑.についての講演をするそうです。使用する写真は「喫茶・ことのは」オーナー・小泉氏の手になるものだそうです。
 詳しい日程が決まりましたらこのブログにUPしますので、興味のある方は是非ご来場ください。
 それはともかく
 バイオリンorフルートを練習したい方がいらっしゃいましたら、是非メールで御連絡ください。

15年8月3日 月曜日 一行日記
 久し振りに欝です。
 そういう時にはコンサート入場整理券配布のため、何十人もの人と立て続けに会ってバカ話をしていると、確かに欝気分は薄められる。

15年8月2日 日曜日 無題
 Summer Classic Concertへの御招待。
 入場は無料ですが、入場整理券が必要です。興味のある方は牧田(090-1635-5710)まで。
 今朝は6時から明社活動で清掃奉仕。場所は金津トリムパーク。
 
 早朝であるにも関らず、結構、汗がでた。いいリハリビだったと言える。
 それはともかく