思い出の記  牧田一男

田中病院にて胃内壁にポリーフを発見
一九八九・二・五、日赤外科へ入院
翌日手術・胃五分の四を切除

九月二十六日、いよいよ手術台に横たわる。
午後零時五十分、局部麻酔を打つ。更に、全身麻酔を二本・・・頭がボーツとしてきた。蜂の巣のようなライトが微かに見える。まさに俎板の上の鯉だ。

オレハ生キルゾ。

頭の中で、四十年前のフィリピンの戦場がタイムトンネルのように浮かんだ。
時は雨季。

 命とも大事にしてきた「大砲」を、己の手で爆破してジャングルめざして逃れる。必死に走るのだが、疲れきった足は引きずるように重い。その頭上をアメリカの砲弾が、しきりに、すごい音で飛んでくる。大きな鳥の翼のような音がした。本能的に大木の陰に身を隠す。もう何時間逃げたのか、午後七時過ぎ、南方ながらの夕日が落ちるさまが、木々の間を通して見える。
海岸線に出た。
この海の続きが日本だ。もう一度日本へ、生きて帰りたい。
何日も食料はない。谷川の水だけでジャングルの奥へと入ったことを思う。
四十名くらいになっていた全中、更に何人かの戦友は、マラリヤ・デング、栄養失調で倒れて遅れていった。
早く元気になって、ジャングルの奥へ入ってこい。
アメリカ兵は、ジャングルの内へは入ってこない。
大砲の音がやんだ。あいつらも一服したいのだ。
これが敗戦というものか。
一日一回はスコールが通り過ぎる。ここまで深く入ると、野生のバナナ・ザボン・パイナップルは出来ていない。青い小さな実が見えるが毒性のあるものもある。テントをひっかぶって寝る。長靴がむせる。なにか痒い。山蛭が血を吸ってころころにふとっている。日本の田圃にいる蛭ではない。ジャングルに住む山蛭というやっかいな動物だ。毒性はないが、気持ちのよいものではない。
ここにしばらく落着くことになる。谷川の水が流れている。冷たくておいしい。内地の谷川の水を思い出す。元気な者は内地の話に夢中だ。ボタ餅がみんなの希望の第一。あゝ正月餅!。今、何月何日だろう。将校に聞くと五月十日前後だという。内地は今が一番よい季節なのに、フィリピンでは十二月から四月までが乾季、毎日青空が続いて三十度から三十七度位に上がる。しかし空気が乾燥しているので内地の真夏のような蒸し暑さは感じない。
早や、フィリピンへ来て二年三カ月が終わった。
十八年三月、内地の宇品を出発。十六師団(垣兵団)の初年兵。我々がマニラに着いた時は『日本軍マニラ入城』の直後で、海岸にはアメリカの捕虜が多数居た。同じ船団で、金津出身の者十名くらいはいた。平橋圭三は主力部隊の中にあってレイテ島へ渡った。小生の入ったのは野砲兵で、金津出身で、ここに入ったのは小生ただ一人。他の者は、みな歩兵に入ったのだ。
昭和二十年三月頃、マッカーサー軍が再上陸してきたことを、マニラにいた時に聞いた。
平橋圭三とは、滋賀県響場野で会ったきりだ。レイテで、ジャングルに入って元気でいるだろうか。
金津祭で八木進、宮川嵩・平橋圭三と小生とが、尋常科四年の時、太鼓を打ちに出た。
幼い頃の思い出がよみがえってくる。
親友だった宮川嵩のことは、マニラに居った時、家からの便りで、ガダルカナルで戦死したことを知った。
彼とは子供の頃の両ガキ大将、彼が西の方の親分、小生が東の方の親分といった所。当時の小生の子分、黒坂富嘉志・恵次兄弟は今頃どうしているだろうか。もう一人、清水清二もフィリピンへ来ている筈だ。今はみんな逃げ回っているだろうが、元気だろうか。頭の中を走馬灯のように、兵隊ごっこをしたことが楽しい思いでとして甦ってくる。
日本の敗戦は明らかだ。第一、武力の差だ。日本は一発一発、弾を込めて打っている。
アメリカはみんな自動小銃を持っているのだ。
足の指がやたらに痒い。水虫になっていた。何日も逃げ回り、靴下のかわりもない。日がたつにつれ、足が腫れてきた。こんな靴を履いているより、いっそ裸足の方がよい。心地よく土を踏みしめる。土民はみな裸足だ。しかしジャングルの中では、歩くにも足の裏が痛くて、文化人?はつらい。
今頃親爺や母親はどうしているだろうか。田植えの準備でいろいろ多忙なことだろう。
時々、母親の顔が目にうかぶ。
いつも笑っている。
必ず日本へ帰るぞ。
水だけで五日程も過ごした。今はただ食べることしか頭に浮かばない。幸いに小生は元気だ。その内、将校が元気者のなかから五名の名前を呼んだ。小生もその中に入っていた。「今から山を下りて食糧をとってこい」との命令だ。
「鉄砲は打つな。若し銃声を聞いたらアメリカ兵に襲われる恐れがあるからだ」
現地で手に入れた蛮刀(日本の鉈のちょっと長い刀のようなもの。よく切れる)、これが何よりの武器だ。
五名はみんなよろこんだ。
みんな目窪は落ち、逃げる途中刺のある木にひっかけて服は破れ、谷川の水を鏡にして見る自分の顔、まさに山賊といったところ。頭の毛は五センチくらいに伸びている。目だけ異常に光る。野獣の眼だ。獲物を狙っている狼の目というのはこんな目だ。耳と目だけがやたらに発達したのだ。
こうなると、まさに強いものがちだ。
威張っていた将校も、こうなると単なる良家の息子にかえり、今までの威勢が、まさに逆転といったところ。
幸い小生、柔道をやり、アマチュアボクシングをやったので、腕力・体力には自身がある。こうなると、いやで入った軍隊も楽しい。ガキ大将時代の本能に目覚める。気持ちがうきうきする。戦国時代の野武士もこういうチャンスをものにして小頭から頭へ、そして親分へとなったのだろう。ふと女の事が思い出されたが、すぐ消えて食料捜しの本来の使命感に立ち戻る。
四十人分の食物捜しに必死だ。
民家の近くまで下りてきたが、部落の人はみな逃げていて誰もいない。アメリカ兵の姿がないか二・三人で先行する。スリル一〇〇パーセントだ。あったあった。バナナがなっている。実が熟れすぎて割れている。早速一本取って喰う。突然豚が一匹出てきた。これには驚いた。
目の前の御馳走、五人で相談。
「つかまえて山へ運ぼう。豚が喰えるぞ」
「まあ、あわてるな、先ず自分の腹を満腹にして、それからや」みんな黙ってバナナを喰う。五本ほど食べると胸までつかえた。みんなの目が笑っている。
「しばし昼寝や。それからの作戦や」
交替で歩哨に立つ。万一アメリカ兵が来た場合は、どの方向へ逃げるかを相談し、四十人分の稲の穂先をテントに包む。これを持って帰って、鉄帽に入れて米に摺る。まさに原始に帰った生活の知恵だ。みんなが待っている山の上まで一時間半くらいはかかる。帰りは上り坂の連続だが、日の長い南方では七時頃までは明るい。まだ十二時を少し回ったところ、リーダーの三年兵が得意顔でいう。
「皆の者に俺たちは命懸けて食料を持って帰るのだ。ふだん生意気な将校に少し気合を入れてやろう」
小生も双手をあげて賛成也。
強い者勝ちの世の中だ。
生んでくれた両親、兵隊に入るまで居った会社の気の合った友人の顔が、次々と目に浮かんでくる。みんな(しっかりやれ)と云っているような気がする。すこし頭が変になったのではないかと思うが、みんな同じ思いだろう。軽く口笛がでる。戦地での流行歌を口ずさみながら帰る準備をする。
皆、元気。
当時、小生二十三歳。四人は二十五歳前後の現役兵ばかり。
山で待っている皆の顔が浮かぶ。早く帰って来いと云っているように思えてくる。
我々五人は満腹だ。
バナナの木を一本切り倒す。実が百本くらいはできている。実のついた一房は三十キロほどもある。後は、稲の穂を詰めたテント四ケ。これも二十キロくらいになる。豚のことは忘れた。土民が飼っていた豚だろうが、飼い主が逃げたので、あの一匹が留守居をしていたのだろう。今度来た時は作戦を立てて捕まえよう。野生化したのか走るのが早い。簡単には捕まるはずもなく豚も命懸けだ。
準備だけして、一時間後出発と決まった。
にわとりの巣が木の上にある。早速よじ登って卵二つ手にいれる。
「おい」、と一個をリーダーにやる。
早速割って飲みこんだ。
喉を通る時、とりの足のようなものが喉元をすぎる。まさに雛にかえる前だ。
卵を飲んだリーダーが吐き捨てた。みると、白身はあるが、小さな生命が鳥の恰好をしている。
「お前、飲んだのか」
「うん」、とへんじをする。
なにか腹の中で動いているような錯覚をおぼえる。今更どうすることもできない。
笑って済ませる。皆あきれ顔。
「牧田も男じゃ」と、持ち上げる者もいる。
調子に乗る小生、ふと、隣の山口家の政江さんの事が思い出された。

小生が出征する時、隣の元気なおばちゃんが杯に酒を注ぎ、「元気で帰ってきなさいや」と力づけてくれた。
三合くらいの酒を一息に呑んだ。今思うと馬鹿の見本と云う外はない。十八歳くらいから女の味(勿論赤線)、織物万能の福井で毎晩飲んでおったので強かったのだろう。
玄関の前で万歳で送られ、駅まで歩いたら少し足がフラフラしだした。父親が京都まで来ると云ったが、何処まで来ても同じだと、福井で、当時の金で百円渡し、
「今晩福井でゆっくり遊んで、家へ帰んなはい。着てきた服類は自分で送るから・・」
と、帰ってもらった。
十五歳で人中に出た故か、また、京都で最後の晩を遊びたかったのが本音か。当時は、父兄がついて入営する聯隊前の旅館で最後の別れを惜しみ、入隊を確認して帰るのが普通なのだが、京都は勤め先『江商』の関係で月二回くらいは出張し、得意先で聞く『ギオン』や『オイランの島原』で遊んだので、(本日はギオンの二部へ行こう)と、餞別の内から、二百円持ってきた。その内の百円を親父に渡した。当時の百円、現在の五十万円位に相当するのではないだろうか。月給が九等社員で三十八円だから、ボーナスの時、百円もらったが、家に送れば喜ぶだろうが、金は天下の回りものとばかり、毎晩悪友と遊里の巷に遊んだが、その連中もみんな入隊した。
小生の二年先輩に、柔道三段の猛者、剣道二段の者、空手をやっていた女郎屋の息子、ボクシングをやっていた織物屋の店員・・・・これらの店員と仲良しになった。その中で、一番若いのが小生で十八歳。
話は前後してしまったが、隣の山口政江氏は、小生出征する時は、たしか胸が悪く、座敷で療養中だった。あの頃、ちょっとインテリ。勉強しすぎた者はみな胸を患った。『インテリ病』といった所だ。
隣の山口鉄五郎さんには、小生の父親も大分助けてもらったらしい。あの当時の三百円借りたとか、遊び過ぎと無能で借金をつくり、母親は百姓一本だったから大変な苦労だ。
昭和八年、坪内工場が牧田本家(みそや)を買って、丁度雑役を探しており、山口さんの世話で雑役兼女中として苦労した。今思うと、朗らかな実によく働く女性であった。
織やの奥さんは箱入り娘を大人にしたような方で、すべて小生の母親まかせ。又、社長の坪内のおんちゃんは下八日の加納家の次男さんで、坪内へ養子に入り、金津で工場敷地を探していたところ、小生の本家が空いたので、これを三千五百円で買い取り、織物工場にしたと聞いている。
当時の三千五百円(昭和八年)は、今の一億五千万円にも相当するのだろう。
その坪内のおんちゃんが、小生、尋常科六年の時、うちの親父と話しているのを耳にした。(坪内のおんちゃんと内の親父とは小学校の同級生だった)
小生の事を、(これからは教育を受けさせなければいけない。月五円くらいの金は出すから、三国中か福井中学へいれたら)と奨めてくれた。(小生も頭はそれ程悪い方ではなかった)
しかし家の事を考えると、母親が月に七円か十円の給料をもらうのに、小生一人だけ、貧乏人の子が中学校などへ行っても、自分がみじめになるだけだと考えて断ってもらった。

厚志は今も忘れない。

思いでのメモより 2
二十三年当時、繊維関係は戦後の品不足。繊維だけではない。食料・建築資材等々、生活に直結するあらゆる物資が不足。一方、これによって潤うている人もいる。例えば百姓・・『米と衣類』・・・非農家の人々は、子女の着物・嫁入りの晴れ着・箪笥の中に大事にしまっていた訪問着などまでも持ち出して、憐れみを請うようにして米と交換した。百姓の狡い人は、だんだん目が肥えてきて、叩くだけ叩いて米と交換する。まさに弱肉強食を形を替えて公然と行ったと聞いた。いわゆる闇屋の横行時代。まさに暗黒也。
公と称する品物はごく一部。あとは水面下で行われて生活をエンジョイしている。
或る大学の先生であったか、裁判官であったか、配給だけの食物で栄養失調になって死亡したとニュースでみたことをあまりのショックで今も覚えている。人間の真面目さも、此処までくれば大したものなんて考えるのは我々俗人。先生にしてみれば、身を犠牲にして、国に、或いは世間に訴えたかったのかも知れない。存命なれば八十歳前後と思うが、ご当人はともかく家の人が気の毒だと思った。
戦地から帰って祖国の土を踏んだが、ジャングルの生活と何等変わらない。まさに無法地帯だと思った。
金のある者が生き長らえる。人生すべて金の世の中也。
『人間万事塞翁が馬』といった昔の中国の諺は、日本の島国には通用しない。こせこせした国民性、隙あらばと、猫のように目を光らせる人間が多かった。そんな連中に逢ってもいる。案外こういう人が社会で成功しているのが、おかしなものだ。

復員してから二週間経ってから福井へ出てみた。先ず軍政部(進駐軍本部)へ。
PW生活の手当(日給)の小切手を持って、金をもらいにゆく。福井に行くとアメリカ兵が、数は多くないがやたら目に入る。無性に腹が立つ。何も悪いことをしてないと思うが、家の中へ土足で入ってきたような嫌な思いがする。軍政部の受付で聞いて小切手を出す。二十三弗の小切手、当時のレートは三百六十円だったと思う。
八千円を持って出てきた。
PW生活一年何ヶ月の給料だ。向こうでは食わせてもらって着せてもらって、当時の給与(食事)はカロリーにすれば家の食事よりも良かったと思う。
郷に入れば郷に従えという諺があるが、家の者も気を遣ってくれて、息子の為にと、すべて心をこめて作ってくれたのだと今思い出す。魚の高い時に、三日に一食くらい付けてくれた。

江商福井店へ行く。
戦前の場所と大分離れて居たが中心部には間違いなく、福井駅から近い。間脇次長が上がれと云った後は、知らぬ人が五人位居た。青黒い南方帰りがやって来たので若い女性はびっくりしている。支店長という人に会った。吉田さんという人だが、後二十日程で大阪本社に帰るとのこと。後任の人の名前を聞いたが馬耳東風といった所。一人一人紹介されたが全然覚える気もなく、みんな手持ち無沙汰なようで何か物足りない感じがした。
二月に入ってから勤めることを約して帰路につく。
PW時代のタバコもなくなり、タバコ買いに入る。「ひかり三十円」とある。びっくりした。四年何カ月前の入隊するまでは十三銭のひかり級タバコが、約二百五十倍になっている。高いとは聞いていたが、円の価値が全然違うのでびっくりした。
敗戦後のインフレーが作った金の軽さと云おうか。大工さんの手間代が一日二百二十円と聞く。米や酒の値段を聞くと、まさに戦前の百乃至三百倍くらいになっている。
これが敗戦の実態だ。戦前は一円五十銭で芸妓さんが結構遊ばせてくれたが、今は、八千円位の金はすぐに消えてなくなると思う。まあ、家に居って、新聞・ラジオで内地に慣れることを考える。何しろ寒さには参った。この年はあまり雪はなかったと記憶しているが、三十センチくらいは降ったと思う。硝子越しに見る雪、やはり日本は四季があっていいなあと思う。特に、一切を清めてくれる。汚れのない美しさと優しさがある。降ってくる雪を眺めていると、一ヵ月前に、あの熱い太陽の下で汗を流していたことが夢の又夢に思われる。
だんだん寒さにも慣れてきた頃、風邪が原因か、マラリアのような寒さが来た。二日くらいで直ったが、両親共びっくりして居った。布団を三枚、重たいくらい掛けても寒い。暫くしては高熱が繰り返しやってくる。マラリア菌を土産に持って帰ったのかと不安になる。

話しは横道に入る。
本日十一月二十日は、我が野砲三十二聯隊の例会(帰還者親睦会)。
戦友とは又一味違った味がする。生死を共にし、明日をも知れぬ命でありながら、まだ帰国を夢見、帰ってからのいろんな構想を話し、女の話、仕事の話と、針小棒大の話もみんな真に受けて聞き合う。
我が戦友に、現在、三国町の町議会議員をしている北沢善太郎(旧姓畑)氏がいる。同じ坂井郡出身で京都の屯営(聯隊)で知り合った。話していると、金津のこともよく知って居り、当時、浜四郷、今の福井臨海工業一帯に栽培されていたラッキョを、金津で、しかも小生の隣の空地で加工していたそうだ。
彼も百姓の息子らしく真面目人間でマニラへ行ってから同じ八中隊で、よく内務・演習をやり、一先発の上等兵になった。頭もよく切れた。特に福井県には、現役軍隊二ヶ年行ってきたら、平時でも上等兵以上で帰らねば、という嘱望があった。人間の真面目さが評価の基準で、嫁さんをもらう時の格付でもあった。
これに反して小生、人から、あれをせい、これをせいと命令されることや、古年次兵の靴磨き・洗濯は絶対すまいと心に誓った。一つの意地(悪い方の)。古年次兵に叩かれるは必定、覚悟の上での事也。
畑氏(旧姓でよぶ)は、砲手九人の内の最右翼也。砲は十サンチ櫂弾砲、体格もあり、まさに砲手にぴったりの兵隊である。彼は帰国後、兄が養子に行った北沢家へ養子として入った。兄貴は新婚早々召集を受けて北支方面で戦死したとのこと。奥さんとの間に子供もなく、若い未亡人となった所で畑氏が復員。親戚間の話合いとなり、気心の知れた彼を養子として迎えたとのことである。
小生、十年くらい経ってから聞いたのだが、その頃はラッキョ加工業として一家を構え、工場も三国に持っていた。先見の明があった。他の人は三里浜組合を作ったとの事也。
その後三十年、彼の努力と運が実り、町議となり、三国『成田不動』さんに日蓮さんの銅像をを寄進。まさに登竜門といった所。しばらく病気で入院して居ったが、今は回復し、議員・社長、その他諸々の役職に就きながら毎日多忙の日々を送っている。
町議選挙の時は、小生、スイミングの連中とか知人に彼の人柄を話して応援演説に尽くした。上位で当選して嬉しく思ったが、彼の人柄であろう。
例会は、同じ戦線で苦労した者二十四名が集まる。そのうち五人くらいは、小生らがマニラへ行った同期生。それに十八年六月頃に内地へ帰還した先輩達である。あれから四十年以上の歳月が流れ、皆、白いものが頭に、また髪の禿げたものも多い。六十六歳以上で、孫のある者ばかり。だが、この日は、四十年前に復員したものばかり。同じ話題ながら飽きない。当時の上巻の悪口、同年兵・下の兵隊の事はかばう。当時我々は三年兵、まさに油の乗り切った時だ。将校もなにも、ジャングルの中では仲間と同じ感覚なり。
インテリの弱さを嫌というほど見た。しかし陸大出となると、一本も二本も軍人精神が通っている。と云っても、表向きだけかも知れない。本当の腹の中は‥‥敵機の機銃掃射があれば真先にタコツボへはいり、大砲の弾がバサバサッと飛んでくると、マンダの大木の根っ子にしがみつく。これが戦場の実態だ。
だれも命は惜しい。犬死にはしたくない。
この会に来れない人は気の毒と思う。
終戦後、小生の同年兵が准尉(当時の人事係)を訪ねた。何年も前のことだが、七十六~七歳であろうか、田舎で牛を二頭飼い、わずかの田んぼを作り、腰は曲がり、軍隊時代の面影は更に無しと聞く。当時、余りの仕打ちに、今度その将校に逢ったら一発・・・・と思っていたが、その話を聞くと恨みも何も飛んで哀れを感じた。
事情はこうだ。
彼の当番についた時のことである。彼の宿舎の掃除・洗濯と作業の後、一寸手を休めると、机の上に内地のタバコ、光がタバコ盆に入れてあった。不味い現地のタバコを配給されている小生、思わず手がでて火をつけた。うまい。内地の味だ。そこへ将校は帰ってきた。いきなりジョウカスリッパで横っ面を殴られた。
後数日かでルソンへ転進する時だ。思わず兼を握りしめたが、腫れた横っ面を撫でながら、(クソッ、今に見ろ、悪いのは小生だが、一本のタバコで、スリッパで三回も殴られた思いは必ず晴らす)と誓った。今でも顔が目に浮かぶ。キツネ顔にきつね目だ。身長は一七五~六センチもあったと思う。しかし一対一なら負けないぞ。こちらには若さがある(当時彼は三十四~五歳)
外にもう一人の将校。
空襲の時、小生のタコ壺に真先に飛び込んで来た。彼の当番兵はフラフラで、またタコ壺が堀り上がっていなかった。男の上へ被さって考えた。横腹が痛かった。軍刀の柄が小生の横腹に突き刺さっていたのだ。時間にして四分くらいか。飛行機が去った後、彼の顔を見た。
バツの悪そうなその顔を見た時・・・・これが、彼の将校についての一つの記憶。
第二・・・・夜間行軍の時、対岸から米比軍のゲリラが盛んに曳光弾を撃ってきた。(彼の名前は伏す)
牧田、頭を低く低く・・・・と背を丸め、軍刀を握りしめて居る。川の土手の上十メートルくらい上を、曳光弾が流れ星のように飛んでいく。初めて見るので小生には珍しい。立ったまま砲車の横を歩いて居る。金きり声を出す彼を見た時、これが将校かと思った。
彼ら二人は、終戦後、我々の前には出て来ない。
過去を忘れて『今日は』と皆の前に顔を出してほしい。皆もその当時の事は忘れて迎えることと思う。
兵隊の為を思って云った言葉と善意に解釈している次第なり。
本日、石川県粟津温泉。『喜多八』という新しい旅館だが純日本式にて、我々年配には好感がもたれる。又、一流でないのが何よりいい。気楽に家族的な所が好きだ。温泉通りではないが近くに那谷寺がある。約二キロの所だ。何回拝観しても飽きない寺だ。小生、五回くらい参拝しているが、行くたびに新しい発見がある。
戦友会が終わった後、ここへ参る。北陸独特の味がある。石川県はさすが加賀百万石の城下町だ。スケールが大きい。隣県のPRをするわけではないが、人柄もよい。落ち着いた湯の町の持ち味がある。山中・山代と近くに温泉はあるが、小生は粟津のお湯そのものが『温泉』を感じる。
今夕、また一晩語り明かす事と思うと、皆と会うことが楽しい。
一年に二回会う顔もあるが、共に死ぬまでよき戦友で、健康でありたいと思う。
諸氏諸兄の健康をこころから祈る。

思い出を 下手な文章 乱筆乱文にて書きました。
判らない所は 貴殿の頭で 判読してください
冬過ぎれば 春がくる 病気とは気の持ちよう 悪くもなり良くもなる
先ず主治医を信じ 後は自分の気力と体力ですべてを克服
先生の為にも元気になること 心から祈ります
   十一月十二日午前三時    
   山口政枝さま    一男

見舞いにいかねばなりませんが 今しばらく多忙です
二十日過ぎれば 上がれそうです
病床は退屈なことと思います 堅い本も大事ですが 小生の書いたものでも読んで 
元気になることを祈ります
平均寿命八十年の世の中 人並みに生きたい 恵まれた福祉社会のお陰で
生活に困ることはない 只々 自分の身体を大切にすること也
近頃 下寺 上寺 昨日今日明日と教順寺 聴聞の大切さを感じます


復員 『マニラ』~『佐世保』~『金津』

□昭和二十年(一九四七)十二月二十五日
マニラ港に今、病院船が横付けになっている。(筑紫丸三千五百トン)と聞く。
十八年三月以来、日本の船を見るのは初めて。
まして日の丸の旗が艦上高く掲げられ、南風にゆるやかに閃いていている光景など。

今、五年振りに日本の土を踏めるとは、正に夢のようだ。戦場生活四年七カ月の間のことが走馬灯のように頭の中をよぎる。船に移ってデッキから眺めるマニラ湾には、日本海軍の残骸や爆撃された輸送船の赤い腹が見えている。終戦後、二年を経ているというのに。
マニラの人も港も大変だったとおもう。
人間の馬鹿者が、第三国にて戦っていたのだ。日本とアメリカと戦っていたのだ。
果たして今度の戦争は何だったのか。
一番の被害者はフィリピン也。
彼らは、戦中は山の中へ避難し、日米両軍の兵隊の撃つ弾丸を避けていた。
『馬鹿なことをしたものだ』 当時の日本の首脳部を思う。
山下奉文・本間雅晴両将軍も、マニラの北方約六十キロの地点ロスパニュースで絞首刑に処せられた。
敗戦の情況を語って絞首台の露と消えていったのであろうか。山下・本間両首脳の他に、特務機関関係の将校が何人となくやられたと聞いたが、彼らは職業軍人として、又、日本男子として立派に死んでいっただろうか。状況も分からぬ参謀本部の指示に従って、最前線の部隊指揮官として、只、命令を下しただけで殺されていったのだ。
生まれ育った星の下が悪かったとしか言い様がない。
比島作戦には六十一万の精鋭が集まったというが、上陸できず、海中の藻屑となった将兵も少なくなかったという。全島合わせて四十八万のうち八割の兵隊が、戦闘中、又、敗戦後の逃走中、或いは熱病にかかって無残な死をとげていった。

午後一時、汽笛がなる。
いろいろな意味をこめて、幾多の戦友が眠る島・・・・それもジャングルに置き去りにされた彼らの骨も、今は白骨となって、霊はジャングルをさまよっているのではないか等、四年七カ月のいろいろな思い出がいっぺんに噴き出す。
今、内地へ帰れるという感激より別の別れがあるのだ。ただ涙が出る。どの顔を見ても泣いている。

艦は静かに岸壁を離れ、舵は北の方にとられた。

マニラ市で、一年六カ月間ほど『マニラ防衛』についていた頃、それはマニラ入城の翌年にて、実に日本色に満ちていた。埠頭では、米軍人のPWが何万となく作業をしていた。宿舎に戻った後、彼らはどんな気持ちで帰国の日を待っているのであろうかと眺めていたが、案外サバサバしている。言葉がわからないので何とも云えないが、スポーツが済んで負けの仲間同志が慰め合い、又、ふざけ合っているようにも見えた。
さすがにアメリカ人だ。あんな大陸を祖先が開発し、世界一の国にしただけの開拓魂がそうさせたのか。
大和民族とは桁がちがう。日本人の陰気なコセコセした性格とは・・・・。
まして、軍隊生活の内務のドロドロ・・・・。一人がミスをした為、四十人くらいの初年兵が一列に並んで殴られる。最初は往復ビンタだが、古年次兵によっては、拳骨を固めて殴る者も居る。初年兵を殴られないような奴は一人前の古年次兵として失格などと云うアホな男の多いこと。どこの馬の骨とも分からぬ奴らにと、小生も男のプライドがあり、ビジネスマン時代に柔道やボクシングにも通い、体力の増進に努めてきた。誰の為でもなく自分の為だ。腕に自信を持つことは特に軍隊では大事なことだ。弱いものはただ辛抱する。反発しないとなると、何時までも何か文句を云われながら叩かれる。
幸い小生、殴られてもさほど答えない。
一度、三年兵が皆に気合を入れて殴り、小生の両頬を殴った時、ニッと笑った。
彼の顔色が少々変わった。
小生、野砲兵にしては身長は小さい方だ。兵隊検査の時、身長一六五センチ(五尺四寸五分)・体重六七・五キロ(一七・八貫)と、正に衝立のような身体で力もかなりあった。二十歳の時、福井から家(金津)に帰り、白米一俵(六〇キロ)をさしあげたりした。それだけして又福井へ帰ってきて、悪友共と一人前になることを祈ってもらった。
馬鹿丸出しの話、すっかり横道へそれた。本筋に戻そう。

艦は何ノットで走っているのか、二十ノットか、それ以上か。マニラ湾を出ると少し船脚が速くなったような気がする。左手にあの有名なコレヒドール、コンクリートの要塞としてアメリカが誇った要塞だ。一度見たかった。十六年十二月、日本軍がバタン半島に上陸、小生等の先輩の話を聞くと、熱さの為、フンドシ一本で十サンチ野砲を撃ったとか、砲身が焼け、水がなく、小便で砲身を冷やしたとか、事実の事也。
小生等がマニラに来て各中隊に配属、直ちに各兵科に分けられた。
馭者(砲を引く馬に乗る。二頭立て)・砲手(大砲の弾を撃つ者・一門に九人付く)・観測(第一線に出て、敵の所在地を確認し、距離を測定する)・通信(観測所からの命令を本部砲の指揮所に連絡する係。大体、運動神経の発達している者から選ばれる)
小生は、通信にて、マニラに着いて十発観測、通信兵教育は、別の所。(VP大学はまだ建設中であった。
三大隊から集まった初年兵に先登上等兵が付き、班長が付く。更にその上に教官が付く。
これが陸大出たちの『井出中尉』。ニキビ面、古武士を思わせる眼光。プライド満々の男也。
今も御健在也。
教育も終わり、原隊に復帰。
バタン攻略に参加した四年・五年・六年兵が内地へ帰還。十八年七月頃だ。
当時内地では、凱旋兵として国民に迎えられたことだろう。
四ヶ月くらいになると、身体もフィリピンに慣れて来て、生水を飲んでも下痢することはないようになった。しかし、マラリヤ・デングの予防にキニーネを毎日飲んだ。黄色く苦い薬で、地方で云う『センブリ』のうすい苦さの粒状の薬也。
話が時々それる。これも木の枝葉の関係にて、お許し願いたい。

二時間ほどの後、船は完全に北方をさして走っている。御用船団で来た時は十日もかかった 
基隆で二日間泊まったが、このまま行けば六日位で日本の土が見えるのではないかと皆と話し合う。みんな夫々に、考えていることは同じ事と思う。
何年振りかで家族と会える楽しみ・・・・
家族とは約二年五カ月、音信不通であった。
比島が特にひどくやられたので、半分は遺骨。公報はないが、それ以上に戦死したのであろう。
両親の待ち侘びる顔、泣き崩れる姿、いろいろな事が目に浮かぶ。
三日目、比島の島影は完全に消え、最後に戦った北部ルソンのツゲガラウも見えなくなった。
ツゲガラウで約二ヶ月くらい前線陣地の構築をした。途中、初めてアメリカのグラマンに襲われ、大きな木の下をぐるぐる廻り腰を抜かした。味方の飛行機とばかり思っていたのだ。構築作業を終えて、戦友が待つハゲ山に帰る途中の出来事也。
手を払って大きな木の下で一服しようと飯盒を下に置いた途端、機銃掃射が始まった。木の回りを四回くらい廻ったと思う。アメリカの兵隊が見える。あざ笑っているようだ。こちらは必死。突然、千メートル程先の所へ小型爆弾が落ちた。こちらは命を取り留めた喜びと驚きで腰が立たない。情けない兵隊也。
手はしっかり御守を握りしめていた。先ず浮かぶ母親の顔、笑っている。
しっかりしてよ、女の顔、言い交わした女もいた。こっちはどっちでもよいと、出征前に大事なものは戴いた。心配気な、白い丸い顔が浮かぶ。すぐ消えた。
親父が無言でタバコを吸っている。
男は、黙っていても、常に息子の安否を気遣っているのだなあと思う。
親父と母親の顔が並んで見える。
お前、よくやったなあ、と、云っているようだ。

時間にしたら五分くらいか。
ポケットからタバコを出し火をつける。大きく吸い込むと、顔色も、元の黒い顔(青黒い南方特有の顔色。キニーネを常服して変色)。まさに、南の山の土色だ。飯盒を見ると、四戸のうち二個は、逃げ回る時ひっくり返したのか、飯が三分の一くらいに減っている。(これは自分のにしよう。もう一つ減った分は、三人で平等にしてくれると思う)
観測通信から選ばれた四人だけに、二人分位の体力がある者ばかり也。
この四人。『広内』(二年兵)・『三ツ矢』(二年兵)・『増田』(同年兵)・それに『牧田』
広内、三ツ矢の二人は復員後死亡。
ここでは、初年兵も二・三年兵もない。時間ごとに交替。モッコを作り土嚢運搬をやる者。ツルハシで掘る者、それをシャベルでモッコに詰める者。或る時は、内地の流行歌を、また或る時は小唄・端唄・民謡と、士気を鼓舞する為に歌いながらやり、夕方になると本体へ帰って寝る。六時に起き、朝食後又、陣地構築のため一・五キロ離れた、山を越えた作業場へ行く。その繰り返しだ.
敵は察知したのか、ゲリラの通報かもしれない。
急遽引き揚げることになった。幅三メートル、奥行き十五メートル掘ったところだが残念也。
名残を惜しんで、中隊は山を下りる。勿論、大砲は人力で引っ張る。逆に南下するのだ。行軍中、敵の飛行機を警戒しながら、日中は草木で判らないように隠し、夕方から南に向かって転進。夜と昼が替わる。毎日、身体がなんとなくけだるい。気力が全身を支えているのか、これが大和魂と云うのか。

遠くは見える。あの山の辺りがニースだろう。
最後に逃げ込んだ山中での何人かの死。あの骨は何時拾えるのか。奥深い山中での骨は、二度と人目に判らないまゝ、又、霊があるなれば、ジャングルを一生さまようのではなかろうか。家の人の事を思うと、たまらなく切なくなる。
今、我々は、九死に一生を拾い日本へ向かっている。
四百五十名乗っているとのこと。
普通なれば笑顔が多い筈なのに、通夜のように比島の島影を見送っている。
みんな同じ思いではなかろうか。涙ぐんでいる男もいる。
傍らにいる者も、黙して語らず。ただ肩を三つ四つ軽くたたくだけ。それだけで全てが通じるのだ。

四日目くらいに新しい島影が見え、船脚が早くなったような気がする。
台湾の島影だ、とささやく。

高雄の港に入った。四年七ケ月前、ここで二泊した。米潜水艦の様子を見るためだったという。
戦争とは、四六時中緊張した気持ちでいなければならぬ。
母親が云っていた。
「楽は下にあり」と。
今、その意味が解った。
艦の食事も米軍給与か。美味にして、カロリー充分也。
台湾を過ぎる頃、甲板に出ると肌寒い。マニラを出た時はアメリカ軍支給の軍服。下着はランニングシャツとサルマタだけ。
身辺の整理をはじめる。マニラでPW時代に働いた時、米軍から取ったラッキー三カルトン。一カルトンは十函入り。土産はこれだけ。後は何にもない。ただ米軍の袋嚢に夏の軍服が一着と下着が二替わり・・・・と、今、思い出せない。
元の中隊の者は、全部帰ったであろうか。
これが最後の病院船也。
時々、アメリカのMPが笑いを浮かべて立っている。形式だけ也。日本へ帰れて嬉しいだろうと語っているように見える。十九歳か二十歳くらいだ。もう今は敵でも何でもない。我々を送り届け、船の中でトラブルを起こさせない為だろう。一年くらい前に、日本人を乗せた船から二人の兵隊が消えたとか。消えたのではなく、あまり初年兵を苛めたので、帰りに海の中へ投げこまれたのか、これは空想也。船員(彼らは十回目)は、(この船が一番落ち着いていて居り、皆中堅的な兵隊だ)と云う。帰還の最初は、妻子ある招集兵。最後の船は、一番最後に上陸した初年兵だという。
考えてみれば、軍隊生活二年十ヵ月。PW生活二年近く。
最後には、我々はアメリカ本国へ送られ重労働をさせられるかも知れないと、全般的に二十四歳~二十七歳くらいの特に体力のある者が残された。
山から下りた時、武装解除を受け荷物の如く選別せられた。
ふらふらの重病人、この内、何人か何千人かは死亡。千幾百の墓標の下に日本人の手で埋められた。
四人・・・・内地送還に。はやくいえに帰すことが適当と思われる者。
熱病患者・・・・アメリカの病院へ直ちに送られ、直った者から帰国した。
二十年四月頃より開始したという。(船員・元軍人・軍属の話による)

少し海が荒れだした。
玄海灘だ。風が絶え間なく吹く。御用船で来た時は丁度夜だった。船倉で転がり、食事を取ったものは三分の一。吐く者もいた。入隊前、船に乗ったのは琵琶湖の遊覧船くらいだったが、小生は至って元気だった。
後一日半で佐世保に着くという。寒くて甲板に出る元気もない。毛布を引っ被って出て見て、「島が見える」と喜んでいる者がいる。顔を見ると、、我々の初年兵の初年兵といったタイプ。二十二歳くらい迄は志願兵かも知れない。
もって帰ったお守りを見て思い出した。当時『千人針』というものが流行、八割くらいの者は持っており、マニラに着いた頃はシラミの巣であった。
小生は、お札(お寺からもらったもの)と、お守。このお守袋は、坂の下八幡神社の神殿の下の砂を、坪内のおばちゃんが皮の袋で作ってくれた守袋。真実真心の籠ったお守であった。開けて見るとお札はクシャクシャの木片になり、砂はセメントのように固くなっていた。汗と雨で固められたのだろう。思わず握りしめ、故郷金津の坂の下八幡神社を目に浮かべ、しばし感謝の気持ちで黙祷した。
目に浮かぶのは坪内のおんちゃん。召集で引っ張られ、十九年にビルマで解除になった事は、家からの便りで知った。ビルマの帰り、マニラの我々の中隊へ寄って戴いたが、小生は討伐作戦で中部ルソンへ行って居り、残念ながら会うことができなかった。
その御厚意を感謝します。十年程前、八十四歳で亡くなられた。
おばちゃんの便りで、母親は、坪内工場で女中堅雑役として家の中も切り盛りしていたと聞いた。
おばちゃんは、春江の坪金の娘で、お嬢さんそのものが奥様になったような人也。
隣の山口のおばちゃんは、カルタが好きで、花札を何時も持っていた。小生出征する時、杉門の前で挨拶。その後、祝い酒を湯飲みで一息にやった時の酒の贈り主が、おばちゃんであった。
その頃は、酒の味の覚えたてで、三合くらい一気に飲んでも応えなかったが、駅までの行進・・・・
『祝出征牧田一男』の畠を先頭に、まさに、小生スター気取りで歩いていたが、急に酒がまわりだした。まるで吹雪の中を、雲の上を歩くような気持で指定列車に乗った。

京都野砲二十二年連隊入営に当って、親父に百円渡す。
当時の百円は、今の百万円くらいの値打ちがあったかも知れない。餞別が四百八十円あった。やはり江商、機屋の儲かる最中にて、三百円もあれば土地付き家が建てられた筈。まだポケットに百円あった。京都での最後の夜遊びをする予定也。
親父に、今晩は家に帰るな。
親父も好きな方だった。これだけあれば可成り遊べた筈。
親父は、出征前に必ず面会に行くと約して、俺を見送った。
(元気でな。母親を大切にしてくれ)、、、、こう、心に念じて、汽車は一路京都へ。
同じ車中に紺井正夫兄が居た。彼は真面目人間。親父さんと二人かしこまって座っていた。小便に行った帰りに彼と、元気でいるように肩を叩きあった。今も彼は元気也。二人共、高小を卒業すると福井へ出た。矢張り早く人なかで揉まれた者は強い。同じ汽車の中にも、いろいろ入営する者が居たが、家から離れたことのない者は深刻な顔をしている。このような人物は八十パーセントくらいは、比島へ行ったのならば死んだであろう。
気力がないように見えた。
いよいよ警笛を鳴らしながら、船は島の間を佐世保へ向かう。
もうドッグが見える。元海軍基地があっただけ、殺風景なもの也。
漸く日本の土を踏んだ感触、感激が、過去を忘れさせ喜びに変える。

本日、二十三年一月二十日也。

雪の広場に整列。番号順にならばせられ、帰る家までの申告をし、冬の寒いのに素裸になる。聞けば、消毒をするとのこと。D・D.Cとかいう粉末を機械で吹きかけられ、来ていた着衣下着はドラム缶に投げ入れて来いとのこと。
日本の軍服を支給される。ブルブルふるえる。約三十分、下着から新品也。
我々の為に取っておいてくれたと思うと、厚生省の役人に頭が下がる。
役人が五人程来て、今からするべきことを箇条書にして云ってくれる。
一、 着替え終わった者は、私物検査(小生の場合・・・タバコが三十個・アメリカの夏服)・・・・これは形式だけ。大目に見てくれたのか、まあ、どうでもよい。ともかく取られてしまうと思っただけに仕合せ。
小生の眼光が鋭かったので、若い役人が恐れたのか。
二・証明書をもらう所へ行く。復員証明書・帰りの乗車券(〇線〇駅と記入されている)
三比島に居った時の作業賃金を貰う。各々のアメリカ軍での作業によるのか、小生の場合、割合多かった。日数や差業種別にもよるのだろう。

終わった者から又、元の場所に整列。みんな毛布一枚と日本製の国防服(純毛の新品)を支給され、私物を受け取る。海風と小雪が舞うので寒くてかなわない。約五ヶ年近くの比島での感覚から戻るまでは、一ヶ月くらいはかかるとのこと。これからまだまだ寒くなる。九州の佐世保でさえこの寒さだ。金津では雪が降っているだろうと想像する。しかし、間もなく自由人になる喜びで胸を熱くする。毛布を頭からかぶり、みんなの終わるのを待つ。約二時間後完了。厚生省の四十歳代の役人が挨拶。
先ず、御苦労をねぎらい、寒い所へ帰って来たのだから病気にかからないように。又、東京辺りの駅でゴロゴロしないで早く家に戻り、生業に復帰するように。帰ったら、今もらったアメリカの小切手を土地の軍政部で換金するよう。最初、船から下りた時挨拶すべきだったが、前に帰還された時、バタバタ倒れた人が出たので挨拶を後にしたことなどを述べ、最後に重ねて病気にかからず日本再建の為に尽くしてほしい。
このような言葉で終わって解散。

皆それぞれ故郷に向かうべく、佐世保駅へ向かう。
寒い為、毛布を頭からかぶったままで駅へ行く。
汽車は、復員列車の為か、がらがら也。
何処で乗り換えたか忘れたが、駅弁を買いながら一路山陽線に乗り、大阪に着く。
一時間くらい停まるとのこと。
よく大阪の本社へ通っていたので、金津~福井~大阪となじみ深い土地だ。
みんなそれぞれに、忙しそうに歩いている。
二百万都市も戦災に逢ったが、復興に燃えているように見える。しばらくプラットホームに居たが、寒さが厳しく、車中に入りタバコをのんで、二人座席で寝転んでいた。前の席のおっさん(三十~三十五歳)が小生を気味悪く見ているだけ。ラッキーを一本「どうぞ」と差し出す。何回も頭を下げ大きく深呼吸をしながら吸っている
「美味しいですね」と、ひとこと。洋モクは初めてかも知れない。おっさんは、ボツボツと話しはじめる。一本のタバコ、効果てきめん。
大坂を発車して帰りの車中では、ただ黙々と、暇さえあれば寝ていた。
あと六時間くらいで家へ帰れると思うと、力が湧いて、いろいろなことを想像する。
両親ひっくり返らないだろうか。
二年半ほどは音信不通。ましてフィリピンは玉砕と伝わっているとのこと。
(引き上げの道も八割方は終って、心境や如何に)と自分で自分に話しかけて、初めて、(帰国したのだ)という実感が出てきた。九州~山陽線と初めての土地なので馴染みもなく、『大阪』という駅名をみただけで、家の玄関口に立った気持になったのだ。
『坂の下』のことが気になる。
圭三(平橋)は帰っているだろうか。(レイテ玉砕と云えども敗残兵二千名居った)とPW新聞に出て居た。₋その中に、金津の者、何人か入っていてくれ、と祈る。
いよいよ発車。
汽車は鈍行。一駅一駅停まる。次は吹田。ここは操車場ゆえ素通り。
次はどこそこ、何駅と書いてみる。米原までに三つくらい付け落ちがあった。
五年近くもの南方ボケかとも思い、熱い所から寒い所へ帰ったので、血の気がおかしくなったのかとも思う。

小便にたち、洗面所にて鏡の中の顔を見る。
まさに土色。これでは一般の乗客も話しにくい筈だ。
眼光が鋭い。(今は象の目のごとく細いが)
戦争中のジャングル生活や、敗戦後のPW生活中の本能が、そういう目にさせたのか、と一人で苦笑い。
この顔では、両親も女(福井)も、人違いに見えるかも知れない。
前の席のおっさんが降りた。何処の駅かと見ると『虎姫』だ。
ドカドカと女性が乗り込んで来た。何か、荷造りしたものを持っている。PW新聞に出ていた(これが買い出し部隊か)と思った。彼女らも生活の為の女性戦士だ。ガヤガヤしゃべっている。時々横目で小生の顔を見る。
ラッキーを見せびらかしてタバコをのむ。
「俺ら買出しから(フィリピン)帰る所だ」、とズック袋を見せる。
「あれならいいね」、と女達が云う。米なら一俵くらいは入るだろう。
敦賀に着いた。女の人の話を聞いている中、駅名を見るのを忘れてしまった。
あと二時間くらいだろう。
女性軍の一部が降りる。
彼女達は正月でも買い出し戦争にいくのか。武器なき戦士だ。
頑張れよと胸の中で叫ぶ。働く姿っていいものだ。戦争未亡人かも知れない。たくましく生きて行く女達だ。
一群五人か六人単位で降りていく。縄張りがあるのだろう。今庄を過ぎる頃から雪が降りにかかった。五年振りに見る雪、風に吹かれた花ビラのように舞いおりる。この風情を見ると又南方とは違った郷愁を感じる。詩人になったような気分だ。
武生で三分間停車。
ホームにおりて軽く体操をするも、十数時間乗り続けてきたためか腰が痛く、身体が重い。

五時過ぎ、懐かしい福井の駅へ、汽車が静かに入る。
十分間停車とのこと、腹が減って来たが、後一時間で家に着くのだ。タバコで我慢しろと自分に言い聞かせる。正月の雰囲気、福井は派手だなあと感心する。

「かっちゃんじゃないですか」
見ると、頭をテカテカに光らせた優男が立っている。
「牧田だがお前さんはどなたか」と聞くと、江商の前にあった「千秋商店の荒井だ」と云う。(この店にも平橋の歌ちゃんと云う人が女中をしていた)
そう云えば、小生入営する頃まだ十六・七歳で坊主であった。福井は戦争中、空襲でやられて駅もバラックであったと思う。
早速、江商の女性のことを聞く。
彼女の兄貴(飛行隊、海軍少尉)はアリューシャンで戦死。
彼女も先月、婿さんをもらったとの事也。
半分失望、半分よかったと思う。所詮、戦争が生んだドラマだ。
発車のベルがなる。あわてて座席へ戻る。彼は今から遊びに行くとのこと。立派な若者になっていた。トンビなど着用し、二十五・六歳に見えた。まだ二十一・二歳の筈だが、生白い顔をしている。
今何をしているか、聞く間もなかったが、いっぺんに忙しくなった思いで座席にて一服していると、チンピラ風の男が三・四人入ってきて前の座席に座った。見るからに水商売の奴か、ヤクザかなあと見ていると、彼らは目をそらした。矢張り復員帰りには一目置くのか二人は立っている。わざと二人分の席を一人で占めて、からかってやろうか、金津まで退屈しのぎにと思う。突然
「牧田さんではないですか」
リーダーらしい男が声をかける。「そうだ」と、ラッキーを一服。
「私河内です。㋥商店に居った。御苦労さんでした」
思い出した。ヤクザではないが、よく弱い者をいじめていたチンピラのいたことを。
「何やってるんだ」と、タバコを差し出す。リーダーが一本とり、
「お前らもいただけや」と云う。
今、丸岡で楽団をやっているとの事で、正月仕事のお呼びだそうだ。
「それはご苦労さん、しっかりやんなはい」
四人は心持ち頭を下げている。何か帰った途端、偉くなったように思う。
雪は、本降りになって窓にぶつかってくる。まだ根雪ではないだろうが、前触れの雪かなあと見つめる。
丸岡に着いた。
「御免ください」と河内がいい、後にチンピラが続く。
彼らも、正月と云わず金を稼ぎにいくのかなあ、と見送った。

六時前、懐かしの金津に着いた。出征の時と何等変わっていない。戦災に逢わなくてよかったなあ、と改札口で軍用キップを渡し、ズックも背に重いので毛布を頭からかぶり、しばらく駅前の近くをぶらつく。佐世保でもらった新品の軍靴が小さめだったためか、靴下を二枚履いたら痛い。一歩一歩、土の感触を味わいながら坂の下へ向かう。
雪は止まず降る。
正月三日、金津は静かだ。丁度夕食の時刻であったと思う。
思えば、十八年一月十日、出征する時も雪がちらついていた。
いま、帰りを心から迎えてくれたのは雪ではなかったかと街灯に光り輝く雪を見る。
小学校の坂道を男が下りて来た。復員軍人で降りたのは俺一人しか居なかったように思うが・・・・近づいた先方はボロのような着物を着、荷物を背負っている。立ち止まって見ているとニーッと笑った。こちらも笑って頭を心持ち下げた。新橋の方へそそくさと歩いていく。生活が苦しいのか、同じ復員軍人なのかと気の毒に思いながら家に前まで来た。

しばらく外から、我が家を見る。
出征する時より、外観がきれいに見えた。
玄関口に佇みながら、しばらく中の様子を伺う。正月で何処かへ行ったかなあ、と思いながら戸を開ける。
「ただ今帰りました」・・・・声が出ない。
もう一度云った。
「ただ今帰りました」
奥でガタガタ音がする。
「オッチャーン、一男が帰ったどー」と金切り声。
親父が飛んでくる。
五年振りの三人の対面、しばらく無言。
一寸間をおいて、母親
「早よ、靴脱いで上がれ」
小生、毛布を引っ被ったまま・・
親父、目をつむったまま・・
見ると、涙がにじんで何も云えないのか、肝っ玉の小さな親父であったが
喜びと、驚きが、一時にこみあげたような顔をして、ただ無言・・
母親は、さすが肝っ玉のすわった女やと、俺は靴紐を解きながら思った。
(母親の性格に似て良かったなあ)・・・・親父には失礼かも知れんが。
親父も自分を取り戻し、毛布とズックを奥へ入れる。
母親は、熱いお茶を煎れてくれる。二人共、目は泪で濡れている。
小生、胸は熱くなったが、涙など出ない。
先ず母親は、仏壇にお灯をあげる。
父親は、風呂を沸かしに奥へ引っ込んだ。思い切り泣きたいのだろう。男には弱い所もある。純情なのだ。
お仏壇に手を合わせ、しばらくは唯ボーッと先祖の法名を見ているだけ。
チャブ台の前に戻り、改めて両手をつき、「ただ今帰りました」と挨拶。両親は、新たな涙が出ている。
小生、涙をなくした男のようだが、今はじめて家に帰った感じ。『復員完了だ!』
しかし、頭のなかに、フィリピンで戦死戦病死した戦友が浮かぶ。例え暫くでも家に帰りたかっただろう。霊になってでも。だが、あの遠い海を越えては無理ではないかと思われ、千々に乱れる。
母が、「早く湯に入れ」と、着物を出してくれる。
復員した時の為に作ってくれたのか、下着から全部新品。いつ帰るとも分からぬ息子の為に。

ゆっくり湯に入る。五右衛門風呂ながら、今日の家の風呂は、温泉の湯船よりも有難かった。
フィリピンでの永い間の垢をおとした。
その夜は何処へも挨拶に行かず、早速、餅を煮てもらって夕食。四つくらい食べたか。
ドブロクを飲み、腹いっぱい。
比島に居った時とは百八十度の転換也。

八時頃か、ラジオには何か歌が入っていたが、奥の座敷に入りズックの中を整理。
タバコだけ枕元に置き、話は明日ということにして床に入る。
両親の声が弾んで聞えてくる。明日からのプランか。

小生疲れたのか、ぐっすり寝込んだのだろう。翌朝六時頃目を覚ます。
仏壇にまいり、近所挨拶は後にして八幡神社に参拝する。出征した時に戴いたお守りの砂袋は、セメントのように固まっていた。二日はサンサンと太陽が輝いていた。先ず竹田川べりを歩く。

寒い。
家に帰り、コタツに入る。
戦争の話はしたくない。
宮川崇兄は気の毒やったなあ。
平橋圭三氏は戦死の公報が入っており、葬式は早くすんだとのこと。万が一にもと思ったが、聞けば、比島へ金津から行った者で帰ったのは、現役としては小生一人とか。何か悪いことをしたような心境也。こたつに入りっぱなしで午前中はすんだ。母親は、隣の山口さん・坪内さんへ報告に行ったらしい。親父は、お寺の初参りかたがた復員報告に行くと出て行った。
昼頃になると、山口のおばちゃん、坪内のおばちゃんが来て、「御苦労さんやったのう」と喜んでくれる。何か面映ゆい感がするが、だんだん金津のこと、出征した人の戦死した所、特に比島へ行った人の事が聞きたかったらしいが、自分の、ジャングルでのことを思い出すと、戦病死となっている殆どが熱病や栄養失調で行き倒れ、手を合わせて死んで行った彼等の姿を思い出すと、とても肉親には、真実は話せない。自分一人、元気で帰ったことが悪い事をしたような気分がしてならない。
幸い、親父が作ったドブロク(臺で造った濁り酒)一斗くらい入っていた)を飲んで、比島での事は忘れようと務めた。
一月七日、両親は、嬉しかったのか、お寺や親類へ報告旁、遊びに行った。親にしてみれば一人息子が帰って来たので、何年もの心配を忘れた如く嬉しさを身体で表現していた。これも、先祖代々・八幡神社・皆さんのお陰。
特に、八幡神社には毎日お参りした。
寒さになれる為でもあった。帰って、コタツに入り、ドブロクを飲んで、ラジオを一寸聞き新聞を読むのが日課だ。
七日の昼過ぎ、そんなことをしていると、女性の声で、「ごめんください」と呼んでいる。忘れもしない、言い交わした女性。今は人妻、何の用事で来たのか、逢いたくもあり、反面他人になった事であり、肩の荷を下ろしたような気にもなっていた。
分かっていながら、
「どなたですか」
「私です。お父さんお母さんは・・・・」
と言いながら、履物を揃えているのか、暫くして上がってきた。
小生は炬燵で横になり、目をつぶってふて腐った。子供同然也。
枕元に手をつき、改めて「御苦労様でした」と言い、しばらく無言。荒井の大ちゃんから、復員してきたことを聞いたとのこと。向こうの両親が直ぐ行くようにとのことで早速来たことや、兄貴がアリューシャン上空で戦死した事などを話す。
小生、黙って相づちをうつだけ。
小生、自分の物、洋服・シャツ類、その他一切を福井の家に置いて出征したので、送り返すようにと言い、もう用事が済んだから帰れ、と、すこぶる無情な言い方也。その間、目は一度も開けず複雑な心境。
なぜ公報の入るまで待てなかったのか、結婚を、婿取りを・・・・。
なお、何か小生に問いかけたが・・・・。
江商の前の店「千秋商店」に居った七里正見、彼はレイテで戦死した。織物関係の何人もの名前をあげ、近所の杉森氏も戦死したと云う。殆どレイテ島へ行った連中、一大隊、二大隊の機械化部隊。
小生の入った三大隊は野砲部隊。レイテへ行くべくマニラで待機中、アメリカの潜水艦が出没し始め、日本船の輸送もできずルソン残留となり、これが一つの運命の別れ道となった。この残された三大隊の内、三中隊はバリテ峠で玉砕。一部は他の師団に配属となり、残りの七中隊・八中隊(小生八中隊)はいろいろ苦労し、最後には半数ぐらいになった。ジャングルでも二つに分かれた。『切り込み組』・『病人組』に編成。小生、血便を出して居り、十日程『病人組』となる。不思議に治り、神仏の御蔭と感謝。元の元気な身体にもどった。人の運命というものは分からないものだ。右と左、上と下、によって、命長らえる者、命を落とす者。暑い所で、一発で戦死した者は、一時間後にはガスが発生、顔面も身体もボンボンにふくれ、人相がわからなくなる。首からつるした認識票(銅板でつくった戸籍のようなもの)と、親指一本を残して、土を掘って埋める。火葬をすればアメリカ兵に見つかる恐れあり。何時我が身に、このような事態が来るかと思いながら、誰にも看とられず死んでいく兵士の多いことを思う。
逃げる途中など、翌朝、顔を洗いに谷川へおりていくと、顔を水につけたまま死んでいる兵を見る。我々の中隊の兵ではない。歩兵中隊らしい。死顔は青白い。何のためらいもなく上流へ行って顔を洗い、水を汲んで帰って皆に話すと、又か、と何等驚きもしない。我々の仲間、自分の行先を暗示しているかのように‥‥
話はまた又々横道へそれた。
女は泣きながら何か言っていたが、小生起きないと悟ったらしく(江商に居った時から小生の気性は熟知している筈)、身体を大事にするよう頭を下げ、静かに帰っていった。時間にしたら一時間程か、無情なことをしたと思ったが、起きたら何かが起こった筈だ。いまは人妻・・・・との思いが先に立った。これでよかった。女が帰った後、ドブロクを茶碗に一杯、一息に飲んだ。復員してから初めてのスカッとした気持ちだ。
寒いのに縁側を開け、雪が部屋に吹き込むのも心地よく、ドブロクがまわる。
(これでよいのだ)と自分に言い聞かせながら、又、駅まで見送ってやりたい気持ちもする。弱気になると、戦友が怒っているように吹雪が激しくなり、七日正月も午後二時の時計が時をしらせる。また雪は小降りになる。比島で死んだ戦友のこと、先に復員した戦友はどうしているか、いろいろ思いが駆け巡る。

後三日で兵役満五年。
思い出を辿れば、光陰矢の如し。
一人の男の『軍隊生活・PW(捕虜生活)五ヶ年』、一つの区切りがついた。
身体が寒さに慣れるまで、ゆっくり体力をつけよう。
命を失うことは、しばらくはないと思う。


(病後雑感)
男は女に依り、女は男に依り、生まれながらの性格・生まれ育った環境までも越えることがある。
真実に愛した男には、女は全身全霊を以ってつくし、少しでも男の長所短所また秘密を知ろうとする。男は又、真実惚れた女には、肉体関係とか云うことにはいかなる好色家でも手を出さず、女のベールをしずかにめくり女性のすべてを知ろうとする。これが男女の交際を長く、又、お互いに一段上を目指して勉強することになる。
これが社会的にも信用される一つの段階ではなかろうかと、小生は思う。
極端に嫌な男であれ女であれ、無関心でなく話は聞くほうがいい。どんな悪い女嫌な男でも、必ず長所は一つや二つ持っている。これを学ぶだけでもプラスになると思う。清濁合わせ飲む大きな度量を持ちたいと思っている今日此の頃である。
悪い所・・・小生にとっては胃であった。切開手術をしたことによって、これから胃に対する心配もなくなった。今後は年齢に応じた運動と仕事、趣味を生かし、他人に迷惑をかけない明るい老人になりたいと思っている。だがまだまだ修養が足りない。どこかの道場で鍛えたい。心身共に健全になり、カラッとした秋の空のようになりたいと思う。
金津の在所はこせこせした所だが、そんなことは意に介せず我が道をゆこう。他人の事は我れ関せずの思いで、心遣いはよいことであるが、裏切られた場合に腹を立てるだけでも身体によくない。それだけの人物と思うこと也。