7月日記

西暦19年07月25日 木曜日

昨晩はびっくりすることで起こされた。プライバシーは書き込めないが、世の中いつ何があるかわからない。
 今日一日生きていることで、幸せだったとしよう

西暦19年07月24日水曜日

 昨晩は、ユーチューブで「八つ墓村」を観ていた。
  たたりじゃ! たたりじゃ!の「八つ墓村(横溝正史原作)映画」で、主役の森美也子を演じていたのは鰐淵晴子。地元では意外と知られていないのだけど、彼女の生家は丸岡町にある。
 僕は十年ほど前に、仲間数人とともに彼女の生家を訪れた。入口の門は、戦前、丸岡城から譲り受けたものでいかにも立派だ。広大な屋敷の手入れされた植栽群をくぐりぬけ、玄関の格子戸を開けた。

 和装姿の上品そうな老女が出迎えてくださった。旦那が大坂在住(阪大名誉教授とのこと)なので、一人で留守宅を守っているとのこと。晴子は旦那の姪だと言っていたような気がする。


西暦19年07月23日 火曜日 ああ 夜が明けてきた
 
 
昨日の晩は、焼酎を飲みながら、ユーチューブで「内海の輪(松本清張原作)主演:中村雅俊&十朱幸代)」を観ていた。
 今回が三度目。
 京都在住・十朱の旦那が女と夜逃げし、落ち着いた先が三国町。十朱が十朱を兄嫁とする中村と共に旦那を連れ戻しに向かった先が「バー〇〇」で、今でもある。このバーは僕がPTA会長だった時代、仲間と一緒に何度か訪れた場所で、議論を交わす僕たちの(あいだ)に、裏手の九頭竜川河口から聞こえてきた潮騒を思い出す。
 説得連れ戻しに失敗した二人は、帰路、某喫茶店に立ち寄るが、この喫茶店は、僕が、十数年前に改修設計を担当した。
 要するに、懐かくて画面を追うのだが、二人の(あいだ)に愛憎劇が始まり、とんでもない結末を迎えるのである。

 小説もそうだが、映画にもセリフに無駄がないのが松本清張の特徴で、意思伝達の極みは音声ではなく目線の動き唇の切り結び等にあることを文体としている。自己表出と指示表出の関係だ。

 

西暦19年07月21日 日曜日 阪神盛り返せ
 
 視力が急速に衰えてきたので、図書館へ大活字本シリーズを借りに行き、車椅子に乗ってそのコーナーへ着いた時、川端康成の「雪国」が目に飛び込んできた。

 「トンネルをぬけると、そこは雪国だった。夜の底が白くなった。・・・」
 初めの数行だけで、ワクワクしてくる。

 どうでもいいことだけど
 僕は若いころから、川端の女性観が好きで、ある時、彼は加賀まりこと二人で太平洋を臨む喫茶店で珈琲を飲んでいた。(注 有名作家がこういう美女と気軽に会えるのが羨ましい。)
 ボサボサ髪の彼が「貴女の白いふくらはぎから足首にかけてのくびれが素敵だね」と言う。
 もちろん顔かたちの美しさも魅力だが、一番がそこにあることに僕も異論はない。


西暦19年07月19日 金曜日 
もう週末か

 野ざらしを 心に風の 沁む身かな   芭蕉
 こういう季節がやってきた

西暦19年07月18日 木曜日 
 2、3日前、三国土木事務所で設計の打合せをしているさなか、携帯電話がコールされ、受話器を耳に当てると、「もしもし糸川正晃です・・お元気ですか」だった。そういえば今回の参院選に比例区で立候補している。
 「自民党からということでいろいろ言われていますが、頑張りますのでよろしくお願いいたします」だった。
 何故自民党公認になったかがよくわからず「??」だったが、それはともかく、彼が現役のころ一緒に遊んださまざまが脳裏に浮かんできてなつかしかった。
 三国土木を出て某整形外科でリハビリに励んでいる時、ひなた工房工房社長から電話が入り、用件は朗読会のことだった。

 

西暦19年07月17日 水曜日 阪神もうあかん


 認知症になる前にこれだけは始末しておかねばとの切迫した気分で取り組んできた二つの建築設計課題に、ようやく終止符をうつことができた。
 このかんの僕を支えてくれたのが大佛次郎著「四十八人目の男(上・中・下)で、これはもちろん吉良邸に討ち入った赤穂四十七人に対して、討ち入り直前にチームを離れた庄左衛門を四十八人目の男として措定した本だ。
 赤穂浪士の本はいろんな作家のを読んでいるが、大佛の目が大石内蔵助の腹の底にある心理的な葛藤を深く深くえぐっている点で出色だ。生きているうちに読めて良かった。

 ブログを綴る気力が全くなくなっていたが、何人かの人から、「ブログを再開せーや」と言われて再開を決めた。
 短い余生だが、読書の最中かブログの書き込み中に生を閉じれたら、幸せだ。死ねば死にきりなのである。

西暦19年05月05日 日曜日

牧田様

日の出区の岡本です。よろしくお願いします。

畝畦寺に直行する石段はいつできたのかを考えていたら、現在ある
観音堂はいつからここにあるのだろうか?と思うようになりました。
泰澄が生きていた奈良時代からあったという人もいるかもしれませんが、
文化12年出版の「越前国名蹟考」に、「村ノ上観音アリ 御手洗二十五間
四方許」とあるので、200年前だとしても今の場所に25間(約45m)四方ほどの池があったとは思えないので、観音堂はもともと僧坊のあった所にあって、後に今の場所に移ったのかと想像しています。
観音様が上がったといわれる池と観音堂の距離がすごく離れているのも
不自然な気がします。

そこで牧田さんの資料の「後に廃寺になったので、その跡に観音堂を建てた」という部分を確認したかったのです。
(その跡とはどこなのか?を知りたいのです)
そういうわけで、この文面(後に廃寺になったので・・・)が載っている本が
何なのか教えていただきたいです。
もしかすると「泰澄大師」の本の作者の想像かもしれませんが。

引用を繰り返していると、事実と想像がごちゃ混ぜになってしまうようなので(今、石仏のことを調べていて感じます。誤植もありますし)なるべく古い資料で確認するようにしています。
越前国名勝志のPDF添付しますので確認お願いします。
(容量が大きくてすみません)
あわらの図書館には、H290の番号で、越前・若狭なんとかという3冊くらいのセットの本の上巻にあります。




「 碧巌録」の言葉。

卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がつつくことを「?」といい、
それに合わせて親鳥が外から殻をつつくのを「啄」という。雛鳥と親鳥が、
内側と外側からつつくタイミングが一致することで、殻が破れて中から雛鳥が生まれ出てくる。

 このように、両者の動作が一致することにより目的が達せられる「両者が相応じる得難い好機」
のことを「?啄の機」あるいは「?啄同時」という。
 連休ももうすぐ終わりだ。

 大型連休といっても、格別変わった日々を送ったわけでもなく、せいぜいが全国名社大会で一泊二日の東京生活を送ったことと、ジェームス三木著「葵・徳川三代」(上・中・下)を読みふけったことぐらいか。
 どちらもそれなりに楽しかった。