銀杏の家



西里えり著・「銀杏の家」の序文は
「明治の歌人・長塚節に「土」という農民小説の名作がある。この作品を朝日新聞に推せんした夏目漱石は、「この作品を読むことは、多くの人々にとって苦痛であろう。苦痛だからなおさら読んでほしいと思う。東京の近くに、現在このような人々が生きて暮らしていることを、多くの人に知って頂きたいと思う」というような意味のことを述べている。


西里さんのこの小説は、「土」に劣らないくらい、よく書かれた作品なのではないかと私は思っている。大陸から引き揚げて、三人の子どもをかかえた若い女性が、金津近郊の農村に腰をすえて、きびしい生活をとおして、次第にその農村にとけ込んで行く過程が、きわめて自然に、かつ克明に、よく描かれていると思う。
夏目漱石は「土」を読むことは苦痛だと言ったが、現代の読者がこの作品を読むことがそれほど苦痛とは思われない。それは小説の技巧が、長塚節より優れているという意味ではない。ここには農村における娯楽や、ちょっとしたラブアフェアも描かれてはいるが、そのためだけでもない。一番大きな相違は、明治時代の農村と、戦後の農村との舞台の差であろう。前者が全く暗い、救いのないものであったのに対し、後者には、やはり暗いところもあるが、明るい展望も開きかけていて、読者に希望を抱かせるものがある。この差異は大きいし、我々はそれを大事にして行かなければならないと思う。
もちろん現代の農村に、新たな問題が発生していることを知らないわけではないが、この小説はそれには触れていないし、また触れる必要もなかったと思う。読者は巻を閉じてから、ゆっくりと現実の問題に思いをめぐらされるのもよいであろう。
この作品は、作者の母を主なモデルとしていると伺っている。もちろん事実そのままではなく、いろいろなフィクションがあることと思うが、戦後の困難な時期をけんめいに生きた女性の面影は、ありありと描かれているし、そのイメージは永く読者の脳裏に定着するのではなかろうか。その意味で、亡き母に対する鎮魂の思いは、十分果たされたとしてよいと思われる。
この作品が、本県文学の中で近来稀な秀作の一つとして、広く江湖に迎えられることを願ってやまない。
1996年9月9日  白崎昭一郎」
と書かれている。