哥川年表

貞享2年(1685) 金津坂ノ下願泉寺・15世有馬東也(声々庵東也)
           江戸遊学のおり、芭蕉に奇遇し師弟関係を結ぶ。


元禄2年(1689) 8月、芭蕉、北金津総持寺に立ち寄る(雨夜塚)、東也ら俳人仲間が集まり、旅情を慰める。のちに東也は姫川吟社をたちあげる。


元禄7年(1693) 芭蕉没す。享年51歳。


元禄11年(1697)  東也、江戸で芭蕉十哲のひとり、各務支考と師弟関係を結ぶ。

そのころ、俳壇は松永貞徳が興した貞門派、西山宗因の談林派、磐田涼菟と中川乙由の伊勢派、各務支考の美濃派が隆盛であった。貞門派、談林派は江戸・大阪・京都を地盤とし、都市系俳壇と呼ばれ、伊勢派・美濃派は地方に進出していき地方系俳壇と呼ばれた。北陸は美濃派が盛んになり、千代も支考が松任の旅籠に逗留したさい、訪ね弟子入りをしている。(千代、17歳)


元禄14年(1700)  各務支考、三国に初来訪。三国俳壇に影響を与える。三国俳壇の歴史は古く寛文7年(1667)の「続山井」に
みどり子の たったる舞や松林  久可
風をはらふ 木薬も哉 春の花  幸雄
が上梓されている。


元禄16年(1702-1703) 千代、松任に生まれる。


宝永4年(1707)  各務支考、二度目の三国来訪。岸名索嚢、赤垣播東らが支考に師事し、日和山連を興す。


宝永7年(1710)  支考、三度目の三国来訪。

享保元年(1716) ぎん(哥川)私生児として生まれる。生地は吉野とも大和初瀬川とも言われているが、定説にはいたらず。生年も確認されておらず。(千代との差13歳) 同年、与謝蕪村生まれる。


享保6年(1721) ぎん7歳。三国荒町屋七郎佐衛門の養女となる。支考の高弟、仙石慮元坊が三国初来訪。


享保7年(1722)  支考、4度目の三国来訪。
(享保10年の記録) 三国港 家数1800余 人口5300余 豆腐屋6 酒屋17 両替屋2 質屋8  鍛冶屋30 桶屋150 遊女62
滝谷・出村 町数12 家数370 遊女85 遊女は小女郎とよばれた。


享保12年(1722) ぎん12歳。禿(遊女見習い)となる。
(享保14年・・1729年ぎん14歳との記述あり)


享保16年(1731) ぎん16歳。遊女となる。
各務支考没す。享年67歳。美濃派3世に仙石虜元坊が継ぐ。
(芭蕉を始祖とし、支考は2世)


享保18年(1733) ぎん18歳。伯瀬川を名乗る。翌年に虜元坊、再来訪。


元文2年(1737) ぎん22歳。永正寺17世杉原永言と出会い、師事する。巴浪は金津願泉寺・東也の息(弟との説あり)この頃からぎんは俳人として哥川を名乗る。三国俳壇・日和山連の創始者・岸名索嚢死去。


寛保元年(1741)  哥川26歳。江戸に旅行して文人・俳人・絵師と交流。(絵師 菱川師芳・・もろよし。哥川を描く)江戸座(江戸派)の俳人田女(でんじょ)は「俳諧海山」 (寛文元年1789)で千代女に記したのちまた三国の哥川は、かわたけの身にあれば、うき世の人の煩悩をやすめながら、白象となる船待顔に、その風流にあそぶとかや。と記し、「照れ光れ加賀越前の月ふた夜」と二人を並び称している。


寛保3年(1743)  哥川28歳。金沢にて千代らと句会を開く。千代42歳か。


延享2年(1745) 美濃派3世・慮元坊没す。享年60歳。第4世に田中五竹坊が就く。


延享4年(1746)  哥川31歳。遊女を退いて豊田屋初代楼主となる。(豊田屋ぎん)各地の俳人との交流が深まる。大和の国から母を引き取り、ともに暮らす。

美濃派では五竹坊が安田以哉坊に座を譲るが、その後、五竹坊と以哉坊に論争がおこり、美濃派は以哉坊と五竹坊の門弟・河村再和坊が率いる再和派に分裂する。その余波が三国俳壇に及んだ。(寛延元年・・1748 以哉坊、三国来訪)
三国日和山連は始祖・岸名索嚢、2世・赤垣播東、3世・五十嵐佐北に継がれていた。4世をめぐり日和山連の内部で以哉派と再和派が争った。その結果、日和山連宗主には再和派の山崎陸芝が就き、以哉派の 巴浪は日和山連を離れ滝谷連に参加する。

その後、日和山連は興ケ丘連、水音文社、三興吟社に名称を変えて いる。滝谷連は三国川社となる。昭和16年、三興吟社と三国川社が合流して 三国日和山吟社となり現在に至っている。


宝暦3年(1753)  哥川38歳。豊田屋を2代目伯瀬川(詩川)に譲り、仏門に入る。滝谷庵を結び、滝谷尼と称す。哥川の代表作である、尚、豊田屋3代目は里川で詩川、里川ともに俳句をたしなみ哥川とともに滝谷三山と 称された。(奥そこのしれぬさむさや海の音)は、この頃の句とされている。同じころ、千代も松任に草風庵を結び素園と称す。


宝暦4年(1754)  哥川39歳。千代と吉崎で再会。


宝暦6年(1756)  哥川41歳。師・杉原巴浪没す。享年46歳。哥川、滝谷連3世の文台を継ぐ。初代は佐北、2世・巴浪(創始者)、4世は巴浪の息である永正寺・杉原左潮。


宝暦11年(1761)  哥川46歳。千代、三国に哥川を訪ねる。哥川、俳友を訪ねて名古屋に赴く。


宝暦13年(1763)  哥川48歳。松任に千代を訪ねる。


明和4年(1767)  哥川52歳。母(法名釈妙秀)の納骨と俳友の再会のため京都に上る。


安永3年(1774)  哥川59歳。千代、蕪村から「玉藻集」の序文を依頼される。哥川、病床にある千代の執筆に協力する。千代、「玉藻集」の序文を完成する。


安永4年(1775)  哥川60歳。千代、没す、享年73歳。


安永5年(1776)  哥川没す、享年61歳。法名釈妙春。


昭和29年(1954) 滝谷地籍(滝谷庵あたり)で哥川の墓碑が発見される。(釈妙春・・母)


資料 「哥川の生涯」本多柳芳氏著 「遊女哥川」中島道子氏著 「江戸遊里盛衰記」渡辺憲司氏著