16年10月日記

西暦 16年10月31日 月曜日 博多から大阪へ
 
 甥の結婚式が始まるまで、僕は12階の式場から、博多市街地を見下ろしていた。
 昭和20年までの太平洋戦争で沖縄戦が終了した後、米軍の本土上陸地点が九州であるという噂が市民のあいだに飛び交っていた。20年8月6日の原爆投下での米軍の当初予定地としては、本来博多であったものが当日の博多上空に雲がたちこめ視界が悪かったために、急きょ投下地が変更されて、広島投下となったものである。井伏鱒二著「黒い雨」を始めとして原爆の惨たらしさは世界に発信され続けているが、投下が人類最大の罪のひとつであることを、我々は忘れてはならない。
 そのことがある程度関係あるのかどうか
 披露宴が終わったあと、博多駅へ向かうタクシーのなかで、運転手に「日本シリーズにソフトバンクが出れず残念だったですね」と話しかけると、「ま、そうですけど、広島球場へ観戦に出かける博多市民は多いですよ。距離的に近いし共同体意識があるんでしょうね」との答えが返ってきた。

 新幹線「のぞみ48号」が新大阪駅に到着したのは、午後6時40分。改札口には阪神間の良心的知識人とも言うべき二人が出迎えてくれている。うちひとりはブログ発信中だ。
サンダーバード最終号発進まで一時間ほどの短い逢瀬で、飲み足りないとは思ったが、学生時代に両氏から教えてもらった人生の深淵が走馬灯のように蘇って、楽しい時間帯だった。
 民報あわら

西暦 16年10月30日 日曜日 旅を終えて
 
 博多での二日間を終えて、昨晩10時半に帰宅。
 
 妹から「次男が博多で29日に結婚式を挙げるので、夫婦で式に出席してほしい」との招待状が届いたのはかれこれ一ヵ月前だった。
 私と妻は28日に博多へ向かって出発した。サンダーバードと新幹線を使っての4時間半の長旅だった。
 夕刻に博多駅下車し、市内中心部にある老舗料理屋で親族一同が久しぶりの再会。
 
 モツ鍋に舌鼓をうった。

 ホテルに入り眠りに入った時は既に11時を越していたが、それでも明くる3時には目が覚めた。習性というものはおそろしい。缶コーヒー片手に深夜の博多歓楽街を歩き廻った。
 翌朝10時に結婚式場へ集合。プロテスタントかカソリックかは知らないが、キリスト教式結婚式の始まりだ。外人神父のしゃべり(英語)でわかったのはアーメンくらいのものだったが、指輪交換の時の言葉は日本語なので、よくわかった。
 「新郎・・あなたは終生妻を愛し妻の悩みと共に生きていくことを誓いますか?。新婦・・あなたは終生夫を愛し夫の悩みと共に生きていくことを誓いますか?」と、イエスの答えを求めて聞くのだった。
 ここで私は考えた。新郎は若い頃の私ほどではないが、私の血が入っているので当然イケメンだ。
 私の場合、結婚披露宴を挙げたあとで、多くの女性たちから、ねたみそねみジェラシイの電話メッセージが入ってきた。痴情事件になるとやばいので、仕方なくつきあったこともある。
 思うに
 未婚既婚に関わらず魅力女性は多くの男性を愛し愛され、魅力男性は多くの女性を愛し愛されるのが天の定めというものではないだろうか。30数年の結婚生活を経た私の総括だ。

西暦 16年10月26日 水曜日 無題 

 いつもは遅くても午後8時には寝てしまう僕だが、昨晩は10時過ぎまで起きていた。勿論、日本シリーズ第3戦を見ていたからだ。
 両チームの緊張がテレビ画面を通してびしびしと伝わってくる。大熱戦という言葉に違わない試合だった。寝てからあとも、黒田の投球や大谷の打撃が夢の中に出てきて、忘れられない一夜となった。
 海の向こうではワールドシリーズが始まるが、トロントが出れなかったのが残念。20数年前、妻と一緒にトロント郊外のオークタウンに10日間ほどホームステイした。その時世話になったMrs.ヘイズに連れられ、トロント球場へ春季キャンプを見に行った。ただそれだけのことだが、それ以来、僕はトロントをひいきチ-ムにしている。
これをご覧ください

これもご覧ください

西暦 16年10月25日 火曜日 きょうから仕事三昧

 昨日の午前中。
 我々のグループは、印牧氏(94歳)及び高戸氏(94歳)の両知識人をリーダーとし、6人で千束一里塚から橘峠を越えて橘宿跡へと足を延ばした。
 そのあと、某喫茶店で感想会的昼食会。
 
 20数年前、故山口喜三太氏に連れられて同じようなコースを辿ったことがある。考えてみれば、それが郷土史に興味を持つきっかけとなった。その後、山口氏から、「孝男ちゃん、今の町議会議員で郷土史に興味を持っているものなど誰もおらんのやから町議会議員選挙に出るべきや」と言われた時、「でも先生、僕は建築設計で食っていかなあかんのや」と、答えたのだが、「いや・・建築家は霞を食って生きるべきや」と言われた。
 議員をやめてから建築設計の仕事が忙しくなってはきたが、たこ焼きセット・IHヒーター等々を購入して5,6人の飲み会のほとんどは事務所応接ゾーンで開かれるようになり、読み本は全て図書館で借りるようになり、つまりは霞食べ人生に少しずつ近づいているような気がする。

西暦 16年10月24日 月曜日 無題

 「三人称の死・二人称の死・一人称の死」・・・これは息子さんの脳死を体験した柳田邦男による定義だが、折に触れ呟いてきたこの言葉に対する理解がようやく鮮明になってきて、つまりこれは自分が冥府にいることの証しだと思う。
 昨晩の日本シリーズ第二戦を観ていたのだが、広島のいいところばかりが出て日本ハムのわるいところばかりがでて広島の圧勝となった。これで、今年の日本シリーズは決まったといえる。
 北信越高校野球決勝は予想どおり福井工大福井の圧勝となった。来春の甲子園大会が楽しみだ。

暦 16年10月23日 日曜日 無題
 きょうは午前9時半から午後3時まで、明社の赤い羽根共同募金で疲れた。
 
 なぜだかわからないが、私が募金箱を持つと、若い女性たちが肩が触れ合うほどに寄ってくる。不思議だ。
 

西暦 16年10月22日 土曜日 無題
 起床してオープンカフェに出ると、朝顔がさいている。

 藍の気品ある花弁で、僕のオープンカフェに似合う。
 30分ほど前に携帯コールでT女(美人)から「ねえ、牧田さん・・この前訪れた時、ソファに扇子を忘れていかなかった?」と、言う。
 確かに扇子の忘れものはあった。しかし俺は直近の来訪者・U女が忘れていったものだと思っていた。その前日には大溝区の女性が来た。ひっきりなしに来る女たちの忘れ物などいちいち覚えていられない。

西暦 16年10月21日 金曜日題 無題
 
 隆慶一郎著「花と火の帝(上下巻700ページ)」もいよいよ佳境に入って来た。
 時代背景は徳川家康から家光までの三代頃で、主人公は八瀬村の頭、岩兵衛の息子・岩介。この男は生まれつきの奇怪な形相、奇怪すぎる膂力の持ち主で、後陽成天皇に見出され影の側近となっていた。
 天皇は徳川という武家政権の統治を激しく嫌い、後醍醐天皇以来の天皇親政を目指していたのである。

西暦 16年10月20日 木曜日 無題

 朝顔に つるべ取られて もらい水 
 この句は、隣国・加賀で江戸中期に有名だった千代女の代表作として、世に知られている。
 先日の講演会で、講師がこの句を引き合いにして朝顔をいたわる千代の繊細な優しさを説いていた時、受付に座っていた私の隣席の女性(推定年齢三十代後半)が、「そうかな?」と、呟いた。
 確かに
 朝顔の蔓がつるべにまきついたままつるべをひっぱれば蔓はちぎれてしまうだろう。であれば、先ず蔓をそっとはずし近くの棒状のものに巻き付けてやれば済むことではないか。だって、今朝はもらい水にしたところで明朝はもっと強く巻き付いているはずで、それを放置する千代は朝顔の季節が終わるまで水をもらい続けなければならず、これは近所迷惑というものだ。

 千代の句では、起きてみつ 寝てみつ 蚊帳の広さかなが私は好き。・・というよりも当時江戸市中ではやった返歌川柳・お千代さん 蚊帳が広けりゃ はいろうかが好きです。

 ま、千代女の父親は加賀藩の藩士(確か遊郭で刺されて死んだ)であったから、彼女の句にはアタマで考えているようななにかしらつんとすました匂いがするのに対して、我らが越前・三国湊のエース・哥川は遊女という誰からも蔑まれる職業のなかで句をつくっただけあってその感性は皮膚感覚そのものだ。遊女の血をひく私の読後感想はどうしてもそうなってしまう。

 奥底の 知れぬ寒さや 海の音   遊女哥川.

西暦 16年10月19日 水曜日 意見交換会

 昨晩の「9条の会例会」には5名が集まった。テーマは「前回の具谷氏講演会(障害者問題について)」を聞いて、各自どう思ったかについての意見交換会。


西暦 16年10月18日 火曜日 本日は9条の会例会です

 北海道女性議員3人はそれぞれ道議、市議、町議とバラエテイに富んでいたのだが、子を亡くしたり、重い障害児を抱えていることが議員になった動機で、教育・福祉・環境問題に対する懸念を熱を込めて訴えていた。
 北海道は果てしなく広く、私が若いころに通っていたウイーンのハイデルベルグ音楽院から日々仰ぎ見たアルプスを彷彿させる。
 しかし、実情は決して満足できるものではない。札幌などの大都市は別として、散在する地方の町村は人口密度が希薄で鉄道路線が廃止されあるいは小中学校の統廃合が加速化されているとのこと。そうなれば移動はドアトウドアとなり子供たちの体力不足も懸念される

西暦 16年10月17日 月曜日 無題

 昨日の午前中に、「男女共同参画セミナー」が芦原温泉で開かれ 北海道の女性議員3人がパネラーとして参加。。

 

西暦 16年10月16日 日曜日 無題

 きょうは、義兄の49日。はやいものだ・・光陰矢の如し。
  

暦 16年10月15日 土曜日 きょうは散髪に行こう

 昨夕は、応接室のソファベッドの修理に汗をながしていた。ベッドのクッションバネが壊れてしまったので、ペンチ片手に針金でバネを固定枠にガンガラ絞めにまきつけていたのだが、なんとか成功した。一服したあと風呂に入り、ソファに座って焼酎を飲みながら、日本ハムvsソフトバンクを観戦。日本ハムが勝ったので気分よし。広島vsDNAで、DNAが勝ったことを聞いて、さらに気分よし。
 今、散髪屋から帰ってきた。
 散髪屋は、「お客さん、自分でカットしてるの?髪がばさばさや」と言うので「いいえ、僕の生業(なりわい)は、図面書きという孤独な作業で人と会うことがほとんどないので顔くらいどうでもいいし、第一散髪屋へ来るのが面倒くさい」と答えた。
 来たのは、このところ冠婚葬祭が続いて出会う知人から髪のことを指摘されたからだが、散髪を終えて鏡を見ると見違えっている。
 「俺のような不味い顔でも衣服や髪型をこざっぱりすれば、相手に好印象を与えれるかも」と、思った。
 好客三年店を変えず 好店三年客をかえず  
                             柴田錬三郎

西暦 16年10月14日 金曜日 忙しい一日が終わった

 午前中は、Y氏のご母堂(92歳)の葬儀会場へ。葬儀終了後、会場で出会った元議員・M氏と人生を語り合った。
 午後は、某建物の確認申請書訂正の為に三国土木事務所へ向う。無事訂正を終えて、とんぼさん宅へ向かうが、そのあいだに二件の携帯コール。
 一件は福井県民進党事務局からのもので、「「今度、女性国会議員三人が東京から来て、女性部会フォーラムを開くので是非参加してほしい」と、言う。やはり女性問題に私を欠かすことができないのだろう。
 二件目は、あわら市議会事務局長から。「今度11月初旬に、福井市で手話フォーラムが開かれるのだが、多忙の議長に代わって参加してもらいたい」との電話が入った。ま、それは構わないのだが、一年前に「手話は日本語である」との議会議決をした個々の議員はどう思っているのだろうか。一度、個々の議員に聞いて回りたい

西暦 16年10月13日 木曜日 本日の入札で負けてしまった 連戦連敗なのだ

  安明哲著「北朝鮮絶望収容所」読了。
 この本が一般の脱北者手記と違うのは、脱北した著者が政治犯を収容する完全統制区域において管理する側の軍人であったということであり、そこでの阿鼻地獄の描写は深夜にしか読めないものだった。
 梁塵秘抄より
 
 26 仏は常にいませども 現ならずぞあはれなる
    ひとの音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
 
 45 真言教のめでたさは 蓬窓宮殿隔てなし 君をも民をもおしなべて 
    大日如来と説いたまふ
 
 79 釈迦の御法はただ一つ 一味の雨にぞ似たりける 三草二木はしなじなに
    花咲き実塾るぞあはれなる 
 本日は、以前に三国土木事務所へ提出した某建物確認申請書の訂正を行なっているが、本当にしんどい。提出した書類はエクセルorCADであり、それはパソコンのキーボードを打つだけの作業結果であり、作業はそんなにしんどくないのだが、訂正作業は手書きに頼らざるを得ず、10年近く前の脳内出血で指先がマヒし若越習字二級の手書きの腕前が完全に損なわれてしまったことが苦悩を生じている。
 出血による後遺症として右半身が不随になり..当時の女性ファンが(数人を除いて)みんな逃げていってしまった。
 脳内出血は、当時の(今もだが)、チェーンスモーキング・深酒・女性からくるものであり、このブログをご覧のみなさんは、絶対に気を付けてください。それでこそ反面教師としての私の生き甲斐がうまれる。

西暦 16年10月12日 水曜日 もう夜明けか

  ただ今午前三時。仕事にとりかかる前の一服ということで、ブログに手をそめる。
 「馬琴綺伝」著者後記の続き。
 明治44年には饗庭篁村が校訂した「馬琴日記鈔」も刊行されている。ここにはそれまで知られていなかった馬琴の私生活のありさまが描かれていて、衝撃を与えた。芥川龍之介はこれをもとに、老年の馬琴の苦悩に満ちた生活を描いた「戯作三昧」(大正6年1917)を書き、真山青果は「随筆龍澤馬琴」(昭和10年1935)を書いた。芥川の作が影響したのか、戦後の作家たちも、馬琴を描く時は、日記に依拠して、老後の馬琴を描くことが一般的となった。杉本苑子の「滝沢馬琴」(1977)がその代表格である。平岩弓枝の「へんこつ」(1975)は、馬琴を探偵役にした推理小説仕立てだが、ここでも馬琴は五十代である。森田誠吾は「曲亭馬琴遺稿」(1981)や「江戸の明け暮れ」(1992)で、もっぱら路のことを書いた。
 「馬琴日記」は当時のありさまを知る貴重な資料だが、そのために馬琴は、老いてからの姿ばかりが描かれることになった。
 馬琴にも若い時があったはずだ。それを小説にしたいと思ってもう十年くらいたつ。やっと形にできた。私の最初の本は「八犬伝綺想」(1990)だが、それから二十四年たつ。
 なお徳川時代は夫婦別姓なので「只野真葛」や「滝沢路」は用いない。工藤真葛、土岐村路である。また黒鳶式部が生きていたという着想は、半村良の「およね平吉時穴道行」から得たものである。
 本稿執筆にあたっては佐藤至子氏にお尋ねして助けられることがあった。また板坂則子氏、延廣眞治先生にもご助言を仰いだ。記して感謝したい。  終わり


西暦 16年10月11日 火曜日 (うたげ)の朝

  昨晩は期せずして飲み会となった。先ず武生から某女性(推定年齢70歳)が自分で煮込んだ油揚げを持って来て、某VIPが一升瓶を持ってきて、次に某市議がやって来て某VIPと政治論議をやっているさなか、某歯科医がやってきて、その頃に自分はホワイトウイスキーと清酒で既にできあがっていて、桃源郷の世界にいた。
 この週末、ぼくは虹屋(森田愛子の生家)のファサードデザインで仕事の鬼となっていたので、たまにはこういうのもいいかと思った。
 そして・・・
 某女性(推定年齢70歳)が僕の憧れる女性(ひと)だったら、どんなに楽しかろうと思った。
 今朝の10時、とんぼさんがお土産を持って来訪。家族での京都旅行は大変に充実していたそうです。



西暦 16年10月8日 土曜日 今晩は具谷さんの講習会 

 昨夕、福井民進党幹事長の辻一憲さんがやって来て、四人での会談となった。
 話のテーマは「来年度あわら市議会議員選挙について」のことであり、「誰かいい人いないだろうか」と、彼は言う。
 勿論、僕の周囲にもふさわしい人はいる。しかし彼らは出馬に対しての興味を持っていない。今の仕事に懸命だからだ。

 同席の女性(推定年齢30代後半)が、「若い人に出てほしい。だって、今の議員のほとんどが年寄りばっかりやもん」と、言う。
 それは確かだ。僕が初めて議員(当時は、金津町議会議員)になった時は、48歳だった。48歳でありながら、若いほうから数えて二番目だった。年寄りはもうじき死ぬのだから、自治体の政策をロングスパンで考えることができないのだ。

 僕は加えて思う。女性に出てほしい。だって今のあわら市議会の女性は一人だけなのだ。もし、女性がでたらそして彼女が美しい女性であったら、僕は告示期間中、身を粉にして、マイク片手に応援演説に没頭する。それが「あわら市の今業平・牧田」の使命というものだろう。


西暦 16年10月7日 金曜日 蟹工船


 三浦綾子著「母」は、「蟹工船」の作者・小林多喜二の母が、多喜二の死後30年を経て三浦に語った回想を小説のかたちとしたものだが、監獄で拷問死した多喜二の遺体にとりすがって慟哭する場面が、重くて辛くてページをめくることができないほどだった。

 「苦界浄土」の著者・石牟礼道子は、「自分の子だけがこどもと思っている」との鮮烈な言葉を読者に投げかけているが、それは著者がインテリとしての想像力の大きさ故に発言できるものであり、文盲であった多喜二の母と対極をなすものである。

 人間社会は言葉でなりたっているものだから、僕たちは良くも悪しくも言葉を読みしゃべり言葉をきくことで世界との関係性を保つしかないのだが、多喜二の母の言質はインフレーションにならない凝縮性を備えていることで、感動を呼ぶ。
 早朝から来訪者二人。
 二人が帰ったあとしばしの睡眠。ところが、僕はその睡眠のなかで淫夢をみた。67歳にもなって淫夢をみるとはなにごとか。我々は、「老人の性」というテーマに対して真摯に向かい合わなければならない。
 男女共にだろうが、人間は死ぬまでスケベな

西暦 16年10月6日 木曜日 寿司

 昨晩は寿司屋に居た。某住宅新築工事の請負業者が決定し、設計者・クライアント・その叔父及び建築業者の四人が集まった次第。
 元気な頃の私だったら自宅から12分くらいの歩行距離なのだが、現在の私にはとても無理。加えて大型台風の接近でわたしの歩行は風にそよぐ葦であり、ジャスト30分かかった。

 寿司屋奥の院で契約の手順などの重要確認が済んだあと、料理が運ばれてきた。生ビールや芋焼酎片手に寿司料理に舌鼓をうったのだが、なんせ数年ぶりの寿司料理なので身も心もとろけた。体内に海の匂いが充満する。

 今度、某女性と二人だけで来たいと思った。
 

西暦 16年10月5日 水曜日 梁塵秘抄で目の保養

 昨日は大変に来訪客が多かった。
 午前八時に一人、九時に一人、十一時に一人、午後一時に一人、三時に一人、四時に一人、五時半に二人・・。
 5 秋来ぬと 目にはさやかに見えねども
    風の音にぞおどろかれぬる 
 13 春の初めの歌枕 霞みたなびく吉野山 鶯佐保姫翁草 
   花を見捨てて帰る雁
 15 和歌にすぐれてめでたきは 人麻呂赤人小野小町 
   躬恒貫之壬生忠岑 遍照道命和泉式部 
 19 仏はさまざまにいませども 実は一仏なりとかや 薬師も弥陀も釈迦弥勒も
   さながら大日とこそ聞け


西暦 16年10月4日 火曜日 虹屋ファサードの設計にいそしんでいる
 
  仕事に一息ついた昨夕、「下町のナポレオンいいちこ」を飲みながら夕空の向こうに死んでいった人たちの顔を眺めている時、犬を連れた初老紳士がやってきた。
 私のオープンカフェを新たに改修してくれるという。ありがたいことだ。四方山話を終えた彼が帰ったあと、入れ替わるように某VIPがやってきた。
 この頃すでにできあがっている私は何を聞き何をしゃべったかは覚えていないが、とにかくお互い、口を動かし続けていた。
 そして今朝、初老紳士が、ヒーラギの木を持って来て植え込んでくれた。オープンカフェは一段と素晴らしいものになった。
西暦 16年10月2日 日曜日 昨日の一日 
 
 声の広場からの転送
649.印牧邦雄(かねまきくにお)先生の最新著作 「わが古里の川」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/10/1(土) 11:9
 昨日(9月30日)印牧邦雄先生(福井工業大学名誉教授)の最新著作『わが古里の川』をいただきました。今年になって、『五大講話集』(28年1月)、『あわらの歴史と文化』(28年4月)につづいて3冊目です。さらに年内に『織物王国 福井』が発刊されます。(11~12月予定)

 1年に4冊、常識では考えられないペースです。御年94歳、しかも4月から5月にかけて1カ月以上入院されていました。まさに超人。体力もさることながら、考古学、歴史学、地理学、民俗学、文学の広範囲、無尽蔵ともいえる学識、人脈の豊富さにはいつも脱帽します。

 印牧先生が携わった論文、市町村史、著作を年代順に列挙しますと以下のように多岐にわたります。
1『福井県文化財調査報告書』昭和29年(1954)
2『小浜・敦賀・三国湊史料』昭和34年(1959)
3『三国町史』昭和39年(1964)
4『日本海海運史の研究』昭和42年(1967)
5『三国の史蹟・名勝・文化財』昭和44年(1969)
6『三国近代文学館』昭和46年(1971)
7『芦原町史』昭和48年(1973)
8『福井県の歴史』昭和48年(1973)
9『福井県の歴史散歩』昭和52年(1977)
10『和泉村史』昭和52年
11『日本海地域の歴史と文化』昭和54年(1979)
12『わが町の歴史 福井』昭和55年(1980)
13『郷土史事典 福井県』昭和56年(1981)
14『明治・大正・昭和の郷土史 福井県』昭和57年(1982)
15『福井県風土史 歴史と人物』昭和58年(1983)
16『郷土歴史人物事典 福井』昭和60年(1985)
17『市町村で見る福井県の歴史』昭和61年(1986)
18『福井県警察史 第一巻』昭和62年(1987)
19『福井県警察史 第二巻』平成2年(1990)
20『三国町百年史』平成元年(1989)
21『福井市史』平成元年
22『金井学園四十年史』平成元年
23『金井学園四十五年史』平成6年(1994)
24『金井学園五十年史』平成11年(1999)
25『福井県の歴史散歩』平成6年
26『印牧邦雄著作目録』平成19年(2007)
27『日本海地域関係史書 編纂に携わった経緯』平成20年(2008)

 先生がおっしゃるには学術書が多く、専門家には高く評価さたが、一般の人々には馴染にくいという一面もあった、ということで、地域の歴史を多くの方々に知って頂くために、85歳の頃より先生は地域に密着した、読みやすい郷土史を執筆されるようになったということです。

28『三国湊小史』平成21年1月(2009)
29『三国の風景と古社寺と人物』平成22年3月(2010)
30『穴馬村(あなまむら)小史』平成22年10月
31『和泉の自然と歴史』 平成23年7月(2011)
32『三国港町の名所旧跡と文化遺産』平成26年7月(2014)
33『五大講話集』平成28年1月(2016)
34『あわらの歴史と文化』平成28年4月
35『わが古里の川』平成28年9月
36『織物王国 福井』平成28八年11~12月予定

 時々印牧先生のお宅に伺うのですが、先生のお話はいつも新しい知識と刺激を与えてくれます。先生の著書の多くはあわら市の図書館に所蔵されておりますので、ぜひご覧ください。


 西暦 16年10月1日 土曜日 
 
 印牧邦雄氏が「わが古里の川」を出版なさいました。
 
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