2011年04月

 
 2011/04/30 (土) 4月最終日


4月がきょうで終わる。
議会の真っ最中に東日本大震災が発生して、なにがなんだかわからないパニック気分が続いたのが3月だったとすると、被災状況があらわになり国や自治体の対応があらわになってきたのが4月だ。


今回の未曾有の被害が地震による被害というよりも地震が誘発した大津波による被害であり、「大津波が想定外のレベル・・」と識者たちが言うのもわからないではない。


例えば鴨長明が「方丈記」のなかで京の都に発生した台風被害の過酷さを書いているし、いつだったか、福井の有名人・故坪川健一さんがラジオの深夜番組で、常神半島を襲った大津波がひとつの集落があとかたもなく消滅させた例を挙げていた。


耐震設計をなりわいとしていた僕には、過去の全ての記録を想定した指針を国がつくることの困難さ、ある意味での非現実性がわからないでもない。
ギリシャのパルテンン神殿という石造建築物が数千年の風雪に耐えて存在し続けているのに対して、伊勢神宮が20年間に一度づつ屋根の葺き替えをするというのも、ヨーロッパ大陸と木の国・日本との自然観の違いによるものだろう。


しかし、原発事故については明らかにそれとは無縁だ。どう考えても、あってはならない事故を発生させてしまった。


4月は私的にもいろいろ混乱した月だった。その混乱をのり超える5月としなければならないと思っています。


 2011/04/29 (金) 世間はゴールデンウイーク


最近、地震被災地へボランテイア支援に行ったひとの話を聞くことが多い。
昨日も某所で聞いていたのだが、「①テレビに放映されない過酷さがある。②にも関らず頑張っている。逆にこちらが勇気づけられる」が話の主軸だった。


人間の基本は動物であり、その限りに於いてどういう状況下であろうと生き続けようという意思本能を根底に持つ。その姿がひとの心をうつということだろう。僕も又仄聞して、「とりあえず頑張ろう」と思ったひとり。


天災的側面に対してはそうなのだが、原発事故という人災的側面に対しては政府のうろたえぶりが目について仕方ない。放射線の被爆値制限を1mシーベルトから20だったか50だったかの値に変更して「当面の間は心配ない」と言っていたが、これは「スローデスは仕方ない」と言っているように聞こえる。「10年後20年後のことは責任がもてない」と言っているように聞こえる。


原発を国策としたのが自民党政権時代の中曽根内閣であることは有名な話だが、先日のテレビに彼が出て、こういう悲惨事故があったにも関らず、「原発によるエネルギー補給はこれからも必要だ」と言っていたのには驚いた。


関西の有名人・星野仙一が関電のCMで、クリーンエネルギー原発を訴えていたが、今はプロ野球・楽天の監督として、被災地救援を訴えている。整合性はどうなのか。それとも、彼のアタマの中が変わったのか。

 2011/04/28 (木) 新聞を読んで

昨日の午前中は、市庁舎でいくつかの課を回り質疑。午後はCADに専念し夕刻からの打ち合わせに臨んだ。8時に帰宅。晩酌の熱燗でアタマが適当にマヒする時が今の僕には至福の時間帯だ。


そのあとDVDで「柳生一族の陰謀」を観る。出雲の阿国に扮した大原麗子が可愛らしかった。柳生茜に扮した志穂美悦子も可愛らしかった。根来衆のハヤテに扮した真田広之は若々しく澄んだ眼が特徴的だった。
ところで、徳川三代将軍「家光」誕生の影にこういう内部抗争のあったことを、僕はぜんぜん知らなかった。


明けて今朝は3時に起床。リハビリで近所を徘徊しているうちに新聞が届いたので、福井新聞を久しぶりに丹念に読む。
3面に海渡弁護士の「原発は段階的廃止に」の見出し記事。印象に残ったのは「もんじゅ」でナトリウムを使っていることの危険性。25面で橋下大阪府知事も似たようなことを言っている。これから先、こういう論調はどんどん広がるはずだ。


4面に「名古屋・市議報酬半減条例案を可決」とある。内容を読むと半減しても800万エンだから元々はすごいものだったことになる。しかしこの金額では福井県議よりも低いことになる。議員は政務調査や選挙に金がかかる(そうだ)。しからば、選挙のカタチが変わることが必定ではないか。マ、金のことなど暮らしていけさえすればどうでもいいことだが、地区推薦選挙には問題があると思う。


「フォト」式内 井口神社境内

 2011/04/27 (水) 早朝に小鳥のさえずりを聞きながら

本日の朝刊に、「被災水田 除塩に3年」の見出し記事が載っていた。
津波で冠水した田んぼから塩分を取り除くのにはそれくらいの期間を必要とするということだが、これを読んで、二年前を思い出した。


二年前に蓮ケ浦地区の田んぼの稲の多くが、夏場にまっ黄色になってしまった。稲穂がたわわに実ったためではなく、北潟湖から引く灌漑水の塩分濃度が大きく上昇し、稲が枯れてしまったためなのだが、その光景は実に異常だった。


北潟湖のPH数値の変化状況の報告を管轄課から受けたが、思うに吉崎の開田橋架け替えに伴う鹿島の森周辺の浚渫工事が影響したものではないか。


将来的に塩害の不安を一掃するためには北潟湖を灌漑水源としている蓮ケ浦地区と北潟地区が、水源をパイプラインにきりかえればいいのだが、そのための受益者負担額は大きく、TPPの動向など農業の将来性を勘案すると、そういう方向に踏み出せないのかもしれない。


 2011/04/26 (火) きのうの続き


もうひとつは、武生の友人S君が福島県の実家に戻ることになりその引越しを手伝うため伊達郡月舘町まで大型トラックに乗って同行した時のこと。
夕刻に月舘町に入り全ての荷物を降ろし終えた時、辺りは既に闇につつまれていた。
僕は近くの銭湯に入るため、タオルと洗面器を持って銭湯までの夜道を歩いた。
ひとりのおじさんとすれ違った。軽く頭を下げた僕に対しておじさんは「おばんです」という挨拶言葉を発してきた。


「こんばんは」を意味する「おばんです」は東北地方の方言として有名だが、初めての東北地方遠出だった僕にとって、初めてなまで聞く挨拶言葉だった。
とても感激したのを覚えている。


東北地方は、大和朝廷にとって夷敵の住む場所だった。大和朝廷がそこを平定した坂上田村麻呂の役職名が征夷大将軍であったことも理由としてうなづける。
大震災以後、東北人の優しさがテレビ・ラジオで喧伝されているが、都(みやこ)から見て辺境の地であった東北人が生きていく上での処世術であったと、僕は思う。戦国期の伊達政宗の豊臣秀吉に対する外交のやりかたがそれを物語っているし、宮沢賢治や石川啄木、寺山修司などの個性を生み出した背景もそこにあると思う。


  年たけて またこゆべしと おもいきや 
            命なりけり 小夜の中山  西行法師
 2011/04/25 (月) 新しい週の始まり

昨日は、VIP一名の来訪を除き、家族以外の誰とも顔をあわせない読書三昧の一日となった。読んだ本は、江戸ものばかり。明日を信じず過去を振り返るというのが、僕の生活心情だ。


「葉隠」の口述者・山本常朝の「武士道とは死ぬこととみつけたり」が武士に対するなんとはなしのイメージだったが、とんぼさんから借りた磯田道史著「武士の家計簿」を読んで、眼から鱗が落ちたような気分。


「鎖国」と「士農工商的身分制度」が、日本の歴史に学問的経済的停滞をもたらしたとおもわれがちだが、実はその国家体制のなかに、世界に比肩し得る成果が育っていたのである。


当時の藩が今の国に相当するのだろうから、日本という大宇宙のなかに300前後の国がしのぎを削っていたということになり、藩が行き過ぎた市場原理主義に走るのを抑制指導したのが徳川幕府ということになろうか。

きょうの午後、ラジオのスイッチをつけると、国会討論会だ。なんとかかんとかという福島県選出の国会議員が風評被害による福島県民の悲しみを訴えている。
聴きながら僕はふたつのことを思い出した。


僕が金津町議になった頃、視察研修で磐梯山の麓の町を訪れた。その町の温泉旅館での夜の懇親会に親子の芸妓が登場し、ふたりは花笠音頭を歌い踊った。親のほうは70代半ばくらいでよく見れば皺だらけだったが、放つ色気はすさまじく、「ああー、年輪が女の色気をつくる。年輪の積み重ねの成果は甘く見積もっても、50歳代以降だなあ」と思った僕は、返礼にマイクを持って「港町ブルース」を歌った。


歌い終え、息をはずませながら酒席に戻った僕の前へ芸妓が熱燗をもって座った。「役者やねえ、素敵だったわよ」と耳元でささやく老芸妓のなまめかしい声音は、死ぬまで忘れないだろう。

 2011/04/24 (日) ゴミについて考える

「資本主義の本当の敵は、共産主義ではない。広告の氾濫である」という意味のことを、何かの本で読んだことがある。
実際、街は多くの広告看板塔で風景に違和感をもたらしているし、メールチェックをすると一日百件以上の意味不明メールが入っている。郵便ポストはチラシや情報カタログのオンパレードだ。中には自分にとって有益なものもあるかもしれないと思って選別作業をやっていたが、今では即一括ゴミ箱行きだ。


ゴミそのものが無差別に配達されるのだから、ゴミ回収車の手間が増え、笹岡の焼却場メンテの費用もアップする。どこかおかしい。



明け方にテレビのスイッチを入れたら、辺見庸が3・11以後を語っていた。
このひとは8年前に脳出血で倒れ右手は全くうごかないようだが、相変わらず洞察鋭い言葉を吐いていた。「ペスト」を書いたカミューを引き合いに出しながら、3・11で部位・部位に寸断された個人の死とどう向き合うかを語る時の眼力がすごい。

 2011/04/23 (土) トマトジュースを飲みながら

昨日の午後は、仕事でKさんと共に金沢へ。高速道路での車中の論議のテーマは「独と日本の戦後処理の違い」だった。


「まきちゃん、同じ敗戦国でありながらも独は主権国家として周囲の国々と対等な友好関係を結ぶまでに至った。だけど日本は対米・対中・対露の全てでぎくしゃくしてる。鵺的なんや。自民党政権時代であれ民主党政権であれ、政府が国民を不幸にしてる。ヒロシマ・ナガサキに原爆を投下した米を代表して米大統領よ謝罪に来い、と我々は言う。だけどな、米の見方は違う。宣戦布告前の真珠湾攻撃で撃沈された戦艦・アリゾナ号の乗組員1000人強の遺体は今だ引き上げられていない。このことに対して日本の歴代総理は誰も謝罪に行っておらんのや」というK氏の熱弁を聞いていた僕はドレスデンを思い出した。


独の都市ドレスデンは第二次世界大戦中、米空軍の無差別爆撃を受け、非戦闘員つまり無辜の市民十数万人が虐殺された。
戦後、独政府はドレスデンの慰霊祭に米大統領を呼び謝罪させた。「謝罪した」が正確なのか「謝罪させた」が正確なのか僕にはわからない。と同時にエスニックの観点から、同じ白人種どうしの連帯感と白人種の黄色人種に対する差別感が、ドレスデンとヒロシマ・ナガサキに対する違いとなっていることは否めまい。


しかし、と僕は思う。
人類は今から500万年前にアフリカ峡谷で発生した。そして気の遠くなるような歳月を経て、中央アジアに進出したのがニグロイドつまり黒人だ。そこから東アジアへ向かった連中が胴長短足のモンゴロイドつまり我々の先祖を生んだ。そして北へ向かった連中がアングロサクソンを生んだ。
そう考えると、人種差別にはなんの根拠もない。「人類みな兄弟」なのである。

話は変わるが、金沢は市議選の真っ最中で、40人の定員に対して48人が立候補している。内灘の港のほとりにたたずみ日本海の静寂を味わっている僕の耳に、突如スピーカーの声がきこえてくる。騒がしいと思ったが、考えてみれば僕もああいうことをやっていたのだ。
僕は、「あわら市民の皆様・・今まで三回も皆様にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。謹んでお詫び申し上げます」の思いを込め、海に向かって一礼した。

 2011/04/22 (金) もう週末か


一世を風靡したキャンデイーズのメンバー・スーちゃんこと田中好子が亡くなった。僕は、ピンクレデイーは嫌いでキャンデイーズの特に彼女が好きだった。夢枕に出てきたこともある。「年下の男の子」がヒットした時には、「何故俺は彼女より7歳も年上なのだろう。年下であればよかったのに」と思ったものだ。55歳の人生を世間は短いと思うだろうが、実のところ人生に長いも短いもない・・合掌。



うち砕かれた国家に対して投機家たちが円買いに走った。それを受けて世界各国が市場介入し、結果として巨額を儲けた。金融犯罪だ。


物資の買占めに走った人々は、「自分さえよければいい」のだ。

危険な原発体制を生んだのは、長期間自民党に政権を与え続け、東京電力の体質を見過ごしてきた我々国民だ(結局民主党政権になっても同じことだったが・・)。我々は汚染国土に住む覚悟をしなければならない。

いつだったか、福井新聞に義援者名簿が義援金額とセットで出たが、実にくだらないことだ。社会の木鐸が売名行為を手助けしている。この根は「有償ボランテイア」制度にある。ボランテイアは、当然無償の行為であるはずだ。ボランテイアグループが自治体などから補助金を受けているのを恥ずかしいと思わなければならない。

僕は、いずれ人民裁判が開廷されるだろうと思っている。この国の精神風土をこんなカタチにしてしまった元凶たちは、人民裁判の名のもとに指弾されなければならない。

 2011/04/21 (木) 無題


金融業界イコール原発支持だと思っていたが、こういう声明文を出している企業もある。
「時既に遅し」と言ってしまえば身も蓋も無い訳で、石原慎太郎都知事が言ったように、我欲を捨て去る共生社会の建設だけが、大地震・大津波で亡くなった膨大な数の人たちに対する鎮魂の意味を持つ。


僕たちはさまざまの場所で黙祷をしてきた。それが悪いとは言わない。しかし黙祷を単なるセレモニーで終わらせるならば、しないほうがいい。
黙祷が自分自身への問いかけであることを、肝に銘じるべきである。



昨晩は、DVDで「大脱走」を観ていた。映画館で三回観たのがこの映画だ。
女性がひとりも出演しない珍しい映画。ステイーブ・マックイーンのバイクパフォーマンスと閉所恐怖症を演じるチャールス・ブロンソンが印象的だった。


ところで
この映画を観て思い出したのが、広瀬隆著「ジョン・ウエインは何故死んだか」。ジョン・ウェインやスティーヴ・マックイーン、ゲイリー・クーパー、ヘンリー・フォンダなどのハリウッドスターが癌を患って死んでいる。


1950年、ネバダ州のネバダ核実験場で頻繁に核実験が行われていた。死の灰が蓄積したネバダ州のその場所はハリウッドの西部劇映画のロケが頻繁に行われ、俳優達は、数ヶ月もロケ地に滞在していた。
つまり放射能汚染との関係を、広瀬さんが仮説として提出した本だ。

 2011/04/20 (水) 昨日の一日


昨日の午前中は、福井市内の某建築設計事務所にて打ち合わせ。
打ち合わせが終わってからは、体の不具合をお互いに話し合った。衰えつつある体と向き合うのは悲しいことだけれども、「生病老死」は人間の宿命なのだから、これに背を向けてはならない。


設計事務所を出てから、Nさんと一緒に牛ノ谷へ向かった。明治11年の明治天皇行幸跡をたどるためだ。



「海の日」が7月20日となった由来が天皇行幸と関係あることを、Nさんから教えていただいた。


続いて、自由が丘へ。


ここには薄墨桜の苗が植えられている。


夜は、「プレファブ事務所さよならパーテイ」に7人が集まった。
Hさんの手料理と酒類エトセトラに舌鼓をうった。



いろいろな思い出のこもった事務所も、もうすぐ幕を閉じる。


きょうの午後、元議員のY氏がふらっと現れ、喫茶店へ誘われた。Y氏は故林田議員とコンビをくんでいた人だ。僕も林田派閥にいたので、話題は生前の林田氏のことに終始した。今年の二月一日が三年目の命日だったとのこと。
僕は人生の先輩をうやまう性格なので、「ここの珈琲代・サンドイッチ代は僕が払いますよ」と言ったのだが、「いい、わしが払う」との答えが返ってきた。
良き先輩をもった僕は幸せなのかもしれない、

 2011/04/18 (月) 数十年ぶりの友人

昨日の朝、学生時代の同僚から電話があった。
「たまたまだけど、大阪の高槻から金津に来ている。会おうや」という内容。
超大手ゼネコンで設計をやっていた彼は「会社を辞めて、京都で家つくりボランテイアのNPO法人を10人ではじめた。名づけて<家つくり隊>や」と彼はいう。
「設計は頭で覚える。しかし、家つくりは体で覚えるのが楽しい。25万エンかけて、左官仕事や配筋仕事や大工仕事のいろいろを学んだ。俺の本来やりたかった道に進めたんや」と続けた。


若かった頃、一緒に遊んだ彼だが、歳月を経ていい味の人間になった。

 2011/04/18 (月) 昨日の日曜日


昨年12月議会の一般質問で、僕は橋本市長に再度の出馬意思の有無を問うた。そして昨日はあわら市長選挙の告示日で、午前8時半から出陣式。


四年前の学校問題焦点集中の時の選挙とは様相がまるで違う。
市内各種団体長などVIPたちの挨拶が続いたが、4年前にはそういうひとたちの参加は皆無だった。やはり市長が現役であることの強みは大きい。
(もっとも、個人的な好みから言えば、4年前の手探り選挙のほうが、ぎりぎりの緊張感があって好きだったが・・)。


出陣式が終わってから、急に美味しい珈琲が飲みたくなり、ひとを誘って加賀の国へと車を走らせた。しかし、加賀市は市民マラソン大会の真っ最中で随所が通行止めだ。仕方なく越前・三国へ戻り港座にある喫茶店に入った。
珈琲を飲みながらの四方山話を終え正午に帰宅し、午後はCADに専念。


夕刻に再び選挙事務所へ。
予想どおり無投票となり、橋本氏の再選が決まった。カメラのフラッシュを浴びながらのマスコミインタビューが始まった。そういえば、マスコミ担当記者の顔ぶれも大きく変わっている。4年前、再三僕の事務所を訪れた朝日新聞社の木脇記者も今は四国・高松に居る。

 2011/04/17 (日) 早朝に小鳥の囀りを聞きながら


井戸端会議的に戦後をどう語ろうと、大人の世界では賛否両論が返ってくる。しかし、教育界で「教える」ということになると、相手がよく言えば純粋だが大人に比べて無知であるだけに、教師は自分の信条を出すことをためらい、お上のご意向に背くまいとする(余談だが、小中高を通じて僕には二人だけ好きな先生がいた。ひとりは小六の時のS先生、ひとりが高一の時のK先生で、K先生は後年、<私が教師生活において唯一誇れるのは校長や教頭にならなかったことや>と僕に語った。そこで僕は両先生を顕彰するためにSK基金を設立した)。


原発政策に関する学校教育指針について。
昨晩、ぼんやりとテレビを眺めていたら、元高校社会教師が「意見の分かれるものについては、両論併記が原則であったはずです。けれども、原発についてはそうではありませんでした。原発関連団体から無料の原発推進副読本がどんどん届くのです。勿論、原発推進が国策だからです」と言っていた。


教育事情に疎い僕は唖然とした。

 2011/04/16 (土) 春は曙


「ドナルド・キーンが日本国籍を取得し日本に永住する意思を固めた」という記事を読んで、改めて国籍のことを考えた。


縄文式文化の頃の日本列島は総人口が数十万人で、例えば若狭の鳥浜遺跡の集落人口は数十人で、栄養のかたよりを受けながらも平均寿命30歳未満という人生をこなしていた・・という話を鳥浜遺跡記念館の館長から聞いたことがある。


稲作文化が日本列島に入り込んで、穀類がストックされるようになってから、それを集団で守るためあるいは収奪するために外交力や軍事力が不可欠となり、クニという概念が定立した。そのはしりが邪馬台国なのだろうが、女王卑弥呼の仕事は、政治機構での君臨とともに神への祈りであった。祭政一致というやつだ。
仏教伝来のはるか以前だから、祭る対象は日本神道でいう神であった。卑弥呼は神でも人間でもなく、神のお告げを国民大衆に発信する官房長官のような役割を担っていたに違いない。
天文学の無かった時代に、四季の存在は不可思議だった。万物が枯れる冬は神が怒る季節だった。人間どもの悪行を高天原から見下ろす天つ神が怒る季節だった。卑弥呼は御簾の奥に鎮座し、ひたすらコウベを垂れて祈っていた。災いをふりはらうことを祈願していたのだ。
ちなみに今は緑豊かな春だが、春(ハル)の語源は、「(災いを)振り払う(フリハラウ)→ハラウ→ハル」である。


時代はあっという間に1700年を飛び越えて東日本大地震被災下の日本だ。ドナルドキーンが何故日本国籍を取得するかというと、それは国家観に魅せられたものではなくて、三島由紀夫との交情故のものだと私は思う。


人間の興味の対象は最終的に人間だ。
ゆくゆくは日本を脱出したいと私は思っていた。金髪・青い瞳の女性たちにあこがれていた。
しかし今は違う。東日本大震災の災禍を自らのものと考えよう。運命共同体の成員として(たくましくはないけれども)頑張らなくてはいけない、と自身に命じた。
裂帛の気合が体内に充満している。

 2011/04/15 (金) 朝陽のなかで焚き火を楽しむ私


昨晩、煎餅布団に横たわり、ワンカップ芋焼酎を飲みつつ「弱者」というテーマで思いをめぐらしていた時に、共産党員から携帯コールが入った。
一昨日の日記に書いた「選挙の全国一律延期を主張したのは、みんなの党だけだったそうだ。」は間違いで、共産党も全国一律半年間延期を主張したとのこと。


知らざることを知らずと為す是知るなり(論語) である。


 2011/04/14 (木) 無題


昨日の午前中、私は坂井健康福祉センターに行き、地域保健課課長から原発事故発生時の保健所対応マニュアルを聞いていた。坂井健康福祉センターには安定ヨウ素剤は置いていない。置いてあるのは原発周辺半径10km以内、だけど今回の福島原発事故で見直し論議を進めているとのこと。
ま、いろいろ聞いたのだけれども、「これ以上詳しいことは、福井県地域医療課へ行って、聞いてきてください」で質疑応答を終えた。


午後一番で「プレファブ無償譲渡に興味を持っている方が居る」という電話が入ってきた。僕は外に出て、プレファブを眺め直した。


このプレファブは十数年前に建てた。当時、金津中学校創立50周年記念イベント実行委員長だったOさんがふらりとやって来て「まきたくん、ここに二階建てプレファブを建ててくれないか?記念イベントの事務局として借りたいのや」と言われたのが発端だ。ぼくは「そんなもん、金津中学校に置けばいいでしょ」と言ってやんわり断ろうとしたのだが、「家賃を毎月4万エン出す」というたたみかけの言葉を聴いて前言を撤回した。


深夜に地鎮祭を挙行した。神主では面白くないので、坂井市三国町の某寺院知人住職に地鎮祭を依頼し、車で迎えに行った。
「弱ったなあ、お供えの花を用意していないなあ」と思いながら車をはしらせていると民家敷地内に咲き誇っている花が視界に入った。車を停めた私が「住職、花を盗んでよろしいでしょうか」と聞くと、答えは「花盗人(はなぬすびと)は罪になりません」だった。

事務所建立後の二年間はイベント実行委員の夜な夜なの来訪で賑わった。そのあとは金津小PTA役員や三九会会員の度々の焼肉宴席で賑わった。結果として宴席テーブルやキッチンセットが油でいつも汚れていた。


ある日、私を訪ねてきた女性に「すみません、汚れていて」と謝ったところ、「違うわ牧田さん。ある程度汚れているほうがいいの。母性本能をくすぐるわ」と言われたのが印象に残っている。


そのあともいくつかのグループが集る場所となったが、ハードウェアとしての空間はいずれ消え去るとしても、思い出としての空間はフォーエバーだ。


 2011/04/13 (水) あちこち桜が咲いている


昨日の金沢出張からの帰り、ちょっとしたアクシデントに遭遇した。


金沢西インターから高速に入ったのが昼前で、その頃から気温がどんどん上昇し始めていた。暑いので窓を開けたら、ダッシュボードの上に置いてあった高速チケットが、風にあおられて窓から飛び出してしまった。
チケットが路面を這いながら遠ざかる姿を見るのは、生まれて初めての体験でそれなりに貴重だったが、事後処理を考えると憂鬱になった。


もよりのインター(加賀インター)の出口で係員にチケット紛失の事情を説明し財布を出したら「1050エンです」と言う。
「加賀インターから金津インターまではいくらですか?」と聞くと、「300エン」という答えが返ってきた。
再び高速に入り金津インターで降りて事務所に戻ったが、晩酌時に経過を反芻した時の結論は、「軽自動車で行くと、金津インターから金沢西インターまで1200エン。しかるに帰りは1050+300=1350エン、1350-1200=150円のロス。つまり加賀インターからは普通道路で帰ってくるべきだった。」というもの。
確かに、自分のしでかした不始末は多少の不便を甘受してでも自分でつけなければならないのだろう。


福島原発事故と放射能漏れ「レベル7」の政府発表が12日(昨日)であったことは、統一地方選挙後という政治的判断によるものであったのだろうが、何故この時期に選挙をやるのか、私には不思議でならなかった。
「選挙は全国一律延期」を主張したのは「みんなの党」だけだったそうだ。

無償譲渡のお知らせ

 2011/04/12 (火) 静かな朝


昨日の午前中は、化学物質過敏症のひとの家を久しぶりに訪問した。
私も軽度の障害者だが、こういう難病のひとの生活は本当に大変だ。過酷ともいえる。
例えば、私がクリーニングしたばかりの衣類を着てそのひとの家を訪問したならば、クリーニングに使用された洗剤成分がそのひとの体に反応してしまう。多少汚れていても、洗いざらしではないもののほうが害をあたえなくてすむ。
「家のなかで逼塞するのが一番安全」と言っていたが、考えてみると、街のなかはさまざまの人工成分に満ちている。


化学物質過敏症について知りたい方は、映画・「いのちの林檎」を、是非御覧ください。


午後は、五月に開かれる中島道子さんの講演のことで、教育委員会、金津中学校、細呂木小学校と渡り歩いてきた。
細呂木小学校の校長は、私が金中PTAの会長だった時にPTA担当教諭をしていたので、久しぶりの逢瀬がなつかしかった。
校長室を出たところで、「牧田くんのお父さん!」と呼び止められた。
振り向けば、若い青年だ。彼は息子がスポ少で野球をやっていた時の同僚でエース・Iくんだった。
当時は可愛い少年だったが、今は立派な青年だ。
その分だけ私も歳をとったのだけれども、できるぶんだけ、がんばろうと思った。



きょうの午前中は、金沢の内灘港の工事現場へ。打ち合わせを終えたあと、現場監督が「今年の2月頃、パナマの貨物船が座礁して油が漏れたのですよ。見に行きませんか?」というので、同行した。沖合いに回収作業風景が見える。


ロシアのナホトカ号が、三国沖合いで沈没、重油漏れ事故を起こしたのはいつだったろう。あの時、全国からボランテイアが回収作業に集まったが、私も浜地海岸で重油まみれの砂を運ぶ手伝いをした。

無償譲渡のお知らせ

 2011/04/11 (月) このところ寝不足です


昨晩遅くには、統一地方選の帰趨が判明。民主党の凋落がはっきりと示されたが、考えてみれば、昨年の民主党代表選の時、既にその萌芽があったと思う。


今回、告示前からマスコミに注目されたのは石原慎太郎で、時折TV画面に流れる言辞はまさにプロの政治家のもの、という気がした。小説家だけに、言葉に奥行・深みがある。その分だけ舌禍も常についてまわるが、少なくとも東日本大震災に対して感傷的立場はとらず(あるいは押し殺し)、危機管理の本来的な姿を訴えていた。


管内閣を切るその刀で、歴代自民党内閣も切っていたが、考えてみれば積極的原発推進政策を打ち出したのは自民党だ。原発関係者の隠れた相関図は今から明らかになっていくだろうが、今は政党どうしの抗争の時期ではない。


ところで
石原発言の中に、「日本の電力の使われ方は、パチンコ屋と自動販売機で年間1000万キロワット。これは、福島の原発が供給している電力と同じ量。国は政令を出して、ほとんどムダな電力を使っていることのを抑制すべき。」があった。

 2011/04/10 (日) 無題


本日の午前6時から「平成23年度あわら消防団春季火災防ぎょ訓練」が中番区で行われた。快晴だけど空気が冷えていて、「サムイ デービス ジュニア」だったが、訓練は滞りなく終わった。


11時から、坂ノ下区八幡神社で、「八幡会」主催による花見の宴。



この時刻には、気温もどんどん上昇してきたので
ぼくは
気持ちよく飲んだ
気持ちよく食べた
気持ちよく笑った
気持ちよくしゃべった

無償譲渡のお知らせ

 2011/04/09 (土) 未明に雨音を聴きながら


昨晩は事務所に「ふるさと語ろう会」のメンバーのうちの5人が集まって、今年度の計画についての意見を出し合った。地域の足元を知るということは大切で又面白い。
議員になってから研修先として訪れた自治体で活性的という印象を受けた要素のひとつに、語り部・歴史探索グループ・資料館などの存在がある。
ゆくゆくは、あわら市もそういう自治体のひとつになってほしい。


それにしても、東日本大震災で地震・津波の猛威を諸に受けたところは、地形そのものが変わってしまった。地域の連綿と続いてきた歴史性が突然遮断されたことになる。
人類史という長いスパンを俯瞰するならばそういう場所が各地にあるのかもしれないが、恐ろしいことだ。

 2011/04/08 (金) もう週末か

20歳前後に読んだ本のなかで忘れられない一冊に吉本隆明著・「共同幻想論」がある。何故忘れられないかというと、むやみやたらにむつかしかったからだ。
総じてむつかしいことを言うひとは嫌いだし、むつかしい本は嫌いだし、むつかしい前衛芸術も嫌いだし、むつかしい女も嫌いだが、このひとの本の場合には、むつかしさとは別にその文体に惹かれた。


なんというか、「男気(おとこぎ)」があった。自分が軟弱だから硬派に惹かれるという側面が人間にはある。


三度読み返してもよくわからなかったのだけれども,三年前に脳内出血で倒れ爾来脳の働きに興味を持ってから少しわかるようになった。


「共同幻想論」の「幻想」は、はやく言えば「観念」のことだ。
人間は三つの幻想世界で生きている。三つとは「自己幻想」、「対幻想」、「共同幻想」。
「自己幻想」は、自分自身のみに立脚する幻想形態。
「対幻想」は、兄弟・家族といった具体的に眼に見える人間関係がもたらす幻想形態。
「共同幻想」は、法・国家といった抽象化された幻想形態でしばしば「対幻想」に逆立する。


意識を持った人間という動物はベクトル・濃淡の差はあっても、なべてこの三種の神器の制約の下に存在する。


・・・やっぱり何を書いているのかわからなくなってきた。

 2011/04/07 (木) 昨日の一日


昨日は、市内各幼稚園、小学校、中学校で入学式が挙行され、僕も出席した。







このこどもたちが大人になる頃の社会を考える。どういう社会をつくるべきか、我々大人ひとりひとりが模索しなければならない。
何故ならば
いつも思うのだけれども、こどもたちは自分の意思でこの世に出てきたのではない。胎児として成長し臨月となった母親の子宮からこの世を俯瞰し、「嫌な世の中だから産まれるのをやめよう」と思って実行した赤ちゃんはひとりもいないはずである。


そう思いながら事務所に戻り、何人かの来訪者と懇談した。
・東日本大震災の復興のために多くの建設資材が東北へむかう。結果として資材が高騰し数年あとから需要供給が減衰するだろう。
・政府は復興のために巨額の国債を買いあるいは消費税の値上げに踏み切るだろう。あわら市の本年度の予算は議会を通ったが、来年度以降、交付税が押さえられていくのは眼にみえている。
・そういう流れのなかで自治体の体力の総点検が必要となってくる。 
                      エトセトラ


ネットで、保坂展人が世田谷区長に立候補することを知った。
「・・今の現状は原子力災害の真っ最中であり、原発に関する情報はあまり出てこないので国民の中にも猜疑心が広がっている。こんな時だからこそ、小さくても次の時代を築く、暗闇の中にも光を照らしていきたい。
また、大震災で一番現場で動いているのは自治体だった。原発事故は世界中の文明のあり方、経済のあり方が問われている。世田谷を起点に世界へ発信していきたい。・・」。
いいことだ。世田谷区には妹が住んでいる。


自宅へ戻り晩酌をしている時に、妻から「東日本の電力供給はアメリカ型、西日本の電力供給はドイツ型。だからヘルツが違うという」と言われた。


眠たくなって煎餅布団に入り、推理小説を読んでいたら、携帯電話が鳴った。
「牧田さんはバランス感覚のひとね。みんなと等距離外交をやっているわ」と言う。あたっているようなあたっていないような・・・・。
勿論、僕にも濃密な付き合いをする数少ないひとたちはいる。
それはともかくとして、ひとはそれぞれに愚かだ。そして、愚かさを補填するものは「愛」だ。だから等距離的に「愛」を分かち合いたいという気持ちは持っている。

 2011/04/06 (水) きょうは金津幼稚園入園式、金津小学校入学式、金津中学校入学式


昨日の午前中は広報編集委員会が開かれ、「議会だより」最後の校正を行なった。今月中旬には市内各家庭に配布されるので、是非御一読ください。


委員会終了後は、坂井市春江町の葬儀会館へ。知人の御尊父が亡くなったため。そのあと、三国土木事務所経由であわら市内に戻り、某病院に入院中の知人を見舞う。夕刻には、知人の御尊父の御通夜に列席。


なんというか、精神的に疲れた一日だった。


今朝は、4時に起床。湯沸しコーナーにある粉末コーヒー瓶が空になっている。珈琲なしでは生きられない僕は近くのコンビニへでかけ、モカ珈琲を買ってきた。


熱々珈琲をすすりながら朝刊を読んでいるうちに空が明るくなってきた。この時刻に僕は元気がでる。「よし!HP日記を書こう」とパソコン前に座ったのだが、天地を揺るがすようなものごとが発生すると、書く意力がなくなってしまう。というより、書く能力がないので、パソコン画面を前にして椅子に座ったままだ。


とは言うものの、10年間続けてきたこの日記だ。
金津町議会議員になった時、選挙ウグイス嬢の夫でコンピューターのプロだったT氏から、「牧田はん、議員はブログを書くのも仕事や。毎日書かなあかん。ただし真面目一途ではあかん。たまには男女のことを書いたほうがいいぜ」と言われた。


男女のことなどとんとわからない妻一筋の僕にとってこれは苦しい意見だったが、とにもかくにもこの駄文日記をあと二年間続けていくつもりです。

 2011/04/05 (火) 本日は広報編集委員会


東電が営業圏内につくっている原発が東海原発以外にひとつもないという状況は関電と若狭の原発群の関係と酷似している。
ここあわら市から原発群までの距離は100km未満だし北をみると能登の志賀原発が大体同じくらいの距離にある。
昔から「原発が絶対安全ならば、東京湾につくればいい大阪湾につくればいい」と言われてきたが結局は実現せずに原発依存エネルギー政策は修正を迫られることとなった。日本だけじゃなく、世界が修正を迫られる。


あるひとのブログにこういう表が載っていた。


日本の中で見ても、西暦416年~1994年までの被害地震の分布と、原発の立地を見比べてみると、
higaijishin416-1994.gif
日本地震学会
jp_npp-location.jpg
日本原子力産業協会)クリックで拡大


原発の怖さは大地震や大津波による事故以前にある。即ち原発内部での下請作業員の被爆リスクだ。このことは鎌田慧の本などで知っていたし、僕の知人で原発内の鉄骨熔接部X線検査をやっていた男は確か30歳代でガンにより早世した。
放射能汚染のことを考えると、白砂青松がその言葉どおりには見えなくなってくる。いのちのはてがそこにあるような気になってくる。


湯豆腐や いのちのはての うすあかり 
                 久保田万太郎

 2011/04/04 (月) 無題


いろいろ駆けずり回って、やっとホームページソフトが復旧した。


この間(あいだ)に友人のお母さんが、交通事故の災禍に遭って亡くなられるという悲劇が発生して僕は悲しい。
葬儀にも参列したが、弔電(特に政治家の)を聴くのが好きじゃない。「ご遺族の心中を察すると・・」という常套句が流れていたが、心中を察することができるのは個人及び遺族との心の交流があったひとたちだけだろう。


心中を察しようとするならば、万難を排して葬儀に列席するか、さもなくば個人的に遺族に手紙を書くかだけだ。葬儀の会場で弔文が披露されるのはその思いの平板さの露呈でしかないような気がする。


くしくもきょうは息子の月命日だった。
 2011/04/01 (金) 無題


きょうから、新年度だ。但し今までとは明らかに違う新年度だ。


3週間前に発生した東日本大震災による大津波と原発事故の背景が明らかになるに連れ、インターネットで植草一秀や、板垣英憲や、僕の昔の同棲相手である仁多さん日記などを読んでいると、この国が今、エポックメーキングにあることをひしひしと感じる。


昔、福井県知事選に立候補したひとに高木文堂がいる。人格的にはそんなに好きではなかった(人格的に好きなのは自分だけです)。
けれども、「一周遅れのトップランナー」という考え方は好きだった。原発依存から脱しようという姿勢があった。


このひとも、この国のどこかで絶望していると思う。だけれども、絶望や挫折の経験は人生のなかで必ずある。