2012年10月

1日ー10日  11日ー20日  21日ー31日
 
 
 2012/10/31 (水) 10月最終日 

「東の井上ひさし、西の藤本義一」と呼ばれた藤本義一が亡くなった。


僕が学生生活を送った40数年前の関西地方での深夜人気テレビ番組が「11PM」だったが、彼の軽妙な司会ぶりについては、団塊の世代はとても強い印象を持っている。


いつだったかその番組のなかで、「こどもに相対している時腕をくむという姿勢はお前を抱きしめないぞ、お前を拒否するぞというメッセージになる」と語っていた。
ナルホドナーと思った僕は後年親になったあと、常にこのことに留意した。


ところで
昨日夕刻の来訪者の両脇は酒瓶で埋まっていた。「自分は酒を飲まないからどうぞ」と言う。「飲まないひとから飲むひとへ」こそが循環型社会だと思っている僕は、こころよく頂いた。


目玉は大吟醸・立山・・越中の地酒だ。
夜の議会報告会を終えて帰宅し栓を抜く時、考えた。立山は、後日、GFたちと飲もうと考えた。そこで安曇野ワイン(写真右)に手をつけた。






記憶で言うのだが、安曇野は九州・玄界灘をルーツとする海人族である。
海の民が何故移住して山の民となったのか。
酩酊気分で古代史の謎を考えるのは楽しい。考えながら意識が消滅したら、なお楽しい。
 2012/10/30 (火) 昨日の雑感 


昨日は忙しい一日だった。


午前9時半、私の事務所に数人のひとが集まり「歴史四方山話」が始まった時、議会事務局から「全員協議会が始まりますよ」という電話が入って、びっくりした私はフルスピードであわら市庁舎へ。手帳にスケヂュールを書いてなかったことによる単純ミスである。


全員協議会は12時前に終了して、午後は金津中学校へ。手話に関する特別授業にオブザーバーとしての参加だ。



いつも思うのだが、子どもたちは朴訥だ。でも思春期を前にして、火傷しそうなココロを胸に秘めているのだろう。
(まだしばらくは生きるだろうが)63年間の僕の人生のなかで、中学生時代は虚無的なほどに静かでしかし胸の内は一番熱い時期だった。


夕刻には明社による赤い羽根共同募金の浄財をもって社協へ。
実に久しぶりの社協訪問だった。


夜はさくらセンターにおいて議会報告会。8人の参加者のうち6人がよく知っている人たちで、なんとなく昔に戻ったような気分を味わった。


帰宅しオープンカフェに出て白ワインを飲む。今宵の月は満月だ。


松尾芭蕉の句に「名月や 座にうつくしき 顔も無し」がある。
ある夜、「名月」をテーマの句会が開かれた。宗匠としてその場に居た芭蕉は「ひとより素晴らしい句を詠もう」としている面々の横顔にみにくさを感じるのである。自分を上手に売ろうとする面々の横顔にみにくさを感じるのである。
虚心に月を眺める態度こそが心に残る句を生み出すと思ったのである。


 2012/10/29 (月) 二十歳の原点

高野悦子の日記「二十歳の原点」を二十数年ぶりに読み返した。

立命館の学生だった高野は昭和四十四年六月二十四日、京都市内で鉄道に飛び込んで自殺した。享年20歳。


この日記は、下の詩を最後に終わっている。

旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう


出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく


大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根元に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を吸おう


近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか


原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を吸おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで
静かに休もう


原始林を暗やみが包み込む頃になったら
湖に小舟をうかべよう


衣服を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗やみの中に漂いながら
笛をふこう


小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
静かに眠ろう


そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

1969年~1970年のいわゆる全共闘世代で無類の本好き(日記でそれがよくわかる)だった彼女は「人生は青春。青春が終わったらあとは惰性だけ。」と日記に書いている。
そういう繊細さを持ち合わせていない僕でも、同年同月生まれという接点があることによって、日記の1ページ1ページが心に染みた。


 2012/10/28 (日) 昨晩のこと


昨晩は、金津中央公民館で「原発を考えるあわら市民の会」会員・河合さんによる「福島からの報告」を聞いていた。

牧田氏撮影:(何故か、ぼくの隣席には美しいひとが座っている)


河合さんは福島の人達の手による寄せ書きを黒板に貼り付けて説明してくださった。



「テレビの映像だけではわからない思いが、かの地で出会った被災者たちの肉声や肉筆に刻まれている」という彼の説明に、僕は17年前の阪神淡路大震災を思い出していた。


あの震災勃発後、一ヶ月を経て僕は阪神地方に入った。現場で自分の眼で見る残骸や自分の耳で聞く被災者の言葉の切実さには、マスメデイアによるメッセージを遥かに凌駕するものがあった。



来年の六月から旅の人となる(予定の)僕は、改めて東北行きを心に誓っている。


22012/10/27 (土) 落胆


このブログを覗いてくださる方、できたら市政掲示板を同時にクリックしてください。歴史・文芸に興味のある方には面白く感じられると思います。

昨日の午後、僕は金津中学校にいた。11月に予定されている「道徳授業」で聴力障害のことを考える授業があり、その予備学習の参考人(ゲストテイチャーというそうだ)を依頼されたからである。


年端のいかない子ども達と交流するのは久しぶりで、交流することが日常であったはるか昔の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
それにしても今のクラスはなんと少人数だろう。僕らが小学生中学生だった頃、一クラスは50数名を抱えていたはずだ。


小中高を通じて唯一好きだった担任が小5、6の時のS先生だった(他の担任は基本的にみんな嫌いだった)。可愛い横顔だけがとりえのシャイで無口な牧田少年にでもあの先生は他の児童と平等に接触してくれた。
「昼休みに男子と女子が分かれて遊ぶのはよくない。一緒に仲良く遊んだほうがいい」とか言っていた。


ある日、「きょうの体育の授業は相撲。男子対女子の相撲にしよう」と先生が言った時は嬉しかったなあ。
しかし、対戦相手は出席簿順に自動的に決まる。憧れの〇〇さんが一番違いで対戦相手になれなかったのは残念至極。


「もし相手が〇〇さんだったら、できるだけ長い時間接触するために水入り大相撲を演じよう。そして最後の決まり手は押し倒しとしよう」というもくろみははずれた。


落胆した僕は、対戦相手の◎◎さんを押し出しで簡単に決めてしまった。落胆したが、今ではいい思い出だ。


この先生は30数歳であの世へ逝ってしまった。魅力を感じたひとははやく逝く。「善人は早く死ぬ」の警句は確かに真実をついている。
総持寺 朝倉喜祐著:「金津町歴史の道」より
真言宗金谷山総持寺は、大鳥神社右の階段を上ると金津小学校に隣接して建っている。
天長年間(860)頃、弘法大師開祖の古刹と伝えられる。全盛時代には、稲荷山一帯に堂塔が建ち並んでいた。室町時代文明3年より同7年、蓮如吉崎在住の折北陸布教に専念したため、檀家が減り更に戦乱の世には度々兵火にあい衰えた。本尊は薬師如来、脇仏は、不動明王と愛染明王。 秘仏は、如意観世音菩薩である。
詠歌
もろもろの 病いやす薬こそ
   総持の力 しくことはなし

・如意観音石仏堂
本堂入口に丈120cm・銘天保8年5月10日・と刻まれた、秘仏金剛如意観音を模したたてひざの坐像が木造りの堂に安置。


・芭蕉翁之塔 雨夜塚 町指摘遺跡 総持寺境内
元禄2年(1689)芭蕉が吉崎浦から汐越の松を訪れ松岡へ向かったが、北金津宿に着くとにわか雨にあい総持寺の門前で雨宿りをした。その因縁で寛延2年(1789)12月、美濃派道四世五竹坊が来訪した時、有隣庵我六が芭蕉を追慕してこの塔を建立した。
雨夜塚の名称は塚の右側の刻文に芭蕉の句「野分して たらいに雨を 聞く夜哉」をこの塚の下に埋めとどめ雨夜塚と尊むべし」と記していることからきている。
坂野我六は北金津宿の油商家で俳諧をたしなみ、姫川吟社初代願泉寺東也の跡を継ぎ二代宗匠となった人物だった。現在、金津駅通りに電気店を営んでいる坂野家が子孫である。
塔の丈41cm 台座105cm 正面 芭蕉翁之塔 右側面に「芭蕉、野分してたらいに雨を聞く夜哉 とは故翁の遺吟なるが 坂野我六のぬし 風雅の 瞑慮を仰がんと此碑下に埋めとどめて 雨夜塚と尊むなるべし」と刻石。
撰分碑のうらめん曇秀禅師 建立者坂野我六 建立年は寛延二年十二月と刻されている。


22012/10/26 (金) 昨日の一日


昨日の午前8時半に、我々厚生経済常任委員会のメンバーはバスで市庁舎駐車場を出発した。午前10時半に目的地の富山市大沢野へ到着。


責任者から「富山市大沢野高齢者生きがい工房」の設立時から現在までの流れを聞いたあと、木工やステンドグラスなどの作業風景を実際に見てインタビューなどをした。



午後は、金沢市民芸術村へ。
瀟洒な煉瓦つくりの旧大和紡績金沢工場を部分改修して、市民(特に若者たち)の演劇・ジャズ・フラメンコなどの練習の場として開放している。
使用料はエアコンを利用しても一回千円というから、さすが文化都市金沢だ。懐が深い。


中央広場近くでは金沢大学美術部が作品を展示していたが、展示の舞台がまさにアートだと思った。



僕ははるか昔の学生時代に、貞松浜田バレー団で、クラシックバレエを習っていたことがある。習っていたと言っても、止まり木につかまって「アン ドー トロー」と言いながら足の上げ下げを習っただけなのだが、思い出したのは「地球は大きな演劇舞台だ。その上で数十億の役者がそれぞれの役割を演じているという有名な警句だ。
・・・だとするならば、コンダクターは誰なんだろう。


そのあと我々は坂井市丸岡町の新装なった高椋公民館を訪れた。実はこの建物が改修された昨年の12月に、西大寺の僧による確か「奈良西大寺と木簡」という題の杮落とし記念講演を聴きにきたことがある。


夜は、議会報告会。我々1班が行った先は本荘公民館。
聾唖者が来たので僕は手話通訳をこなした。会場が和室だもんで、僕はどうしても立ち膝の姿勢にせざるを得ない。
右膝が劣化しているのでそういう姿勢での一時間強の連続通訳は負荷が大きく、最後の頃には汗が流れていた。


22012/10/25 (木) 本日は視察研修


昨日は、決算審査特別委員会最終日だった。本日は厚生経済常任委員会の視察研修で、夜は議会報告会が予定されている。


ところで、僕は昨日の決算審査特別委員会終了後も議員控え室にひとり残っていた。手話大辞典を横に置き、パソコン画面に向かって、わからない手話の習得に余念がなかった。


それはまさに孤高そのものであり、人がその後姿をみたら、「真実一路の牧田さん」「普段のいい加減さからはおよそ想像できない本当の牧田さん」を間違いなく感じただろうが、誰にも見られることなく時は過ぎていった。


しかしそれでいいのだ。その人のひととなりは、昇天してからのちわかっていくものなのだろう。


ここで僕は10年前を思い出した。
地元区民館でマイクを持って地元の皆さんに向かっての議会報告をこなした僕は、自宅に戻ったあとパソコンに向かいメールをチェックした。
某女性からのこういう文面のメールが入っていた。


「他地区在住の私は、聴衆のうしろにそっと隠れて牧田さんのマイクを聴いていました。顔を見ていました。いつもはソファにだらっと座り、ビールを飲みながらにこやかに(ちょっと)エッチな話を楽しんでいる牧田さん。
・・・でもきょうの晩の貴方は別人でした。りりしさがあふれていました。
私の胸がキュンとなりました。男を感じました。せつなかったです・・・」


話がずれてしまったが
①先週の手話サークルに来た聾唖者・健聴者が報告会に来るということになった。
②来月に予定されている金津中学校の公開授業に手話を取り入れることになった。


それが、昨日の僕の残業の理由であるが、とりわけ②について、現在の金津中学校校長M氏は、かって僕が金中PTA会長であったときPTA担当の教師だったし、その間に教育論を宴席でいろいろ話し合ったこともあって、その義理から一肌脱がねばなるまいと思ったたからである。


いずれにしても議員任期はあと半年。この半年を後悔なく生きたい。



22012/10/24 (水) 寛永風雲録

モンステラくん おはよう





南原幹雄著「寛永風雲録 」を読み終えた。


徳川三代将軍に就いた家光は幕府基礎固めの任務を宿命的に担わされていた。二代将軍徳川秀忠の嫡男として将軍就任は既定の路線だったのだが、秀忠の三男、駿河大納言徳川忠長には朝廷と結びついて徳川幕府政権をひっくり返そうとの野望が渦巻いていたのである。彼は由井正雪や 幡随院長兵衛とも結託する。
実の兄それも徳川将軍と対峙する忠長の姿勢には「家光の兄であったならば、器量において凌駕する俺が当然三代将軍の座につけたはずだ。それをわかってくださっているのは、父秀忠殿だけだ。」という権力志向があった。そしてその権力志向は尋常ではなかった。


それを危惧した家光の傍には懐刀とも言うべき松平信綱がいた。この本の主人公・服部半蔵は信綱の命を受け、伊賀忍者を率いて丁々発止の活躍をする。その働きたるやイチロー級のものであるが、あくまでも裏社会に住む身であり華やかな報酬など何もない。あるのは忍者として活躍できる喜びだけなのだ(現在の国会議員は服部半蔵の爪の垢を煎じて飲むべきだ)。


二週間ほど前に僕の事務所を訪れたFさんは伊賀の人であるが、木槌つきの「かた焼き」という煎餅を携えてきた。とてつもなく硬いかた焼きは伊賀忍者必携の携帯食だったという。世辞を言うわけではないが、前から「彼は只者ではない」と思っていた。


半蔵は甲賀衆を相手にさまざまな忍術を用いて戦う。「けむりの末」「扇隠れ」「熱湯飛沫」エトセトラである。半蔵は実娘すずめをくの一として育て、ある晩忠長の寝所に忍び込ませるが、天井裏で見張番をしていた甲賀毘沙門天の気転により忠長暗殺に失敗し、娘は自害して果てる。
目的達成の為には親も子もくそもないという忍者の掟は非情と言えば非情、しかしそこに魂のカタルシスをみることもできる。


寛永十年七月十五日。江戸城において御前試合が催された。天下無双・全国ブランドの剣客たちが家光の御前で競うなか、同じ江戸城内で、服部半蔵vs甲賀毘沙門天・道順による真昼の決闘が行われていた(この両者は宿命のライバルなのである)。一進一退の決闘は、半蔵が最後に用いた伊賀流秘伝<熱湯飛沫>によって決着する。即ち半蔵が勝つ。
半蔵は息絶え絶えに苦しむ道順のところへ行き、おのれの忍び刀で道順の胸を刺しつらぬいた。道順の最後の言葉は、「半蔵、かたじけなし」だった。凡百の味方よりも優れた敵こそが人生の友となるのである。


決闘で全力を使い果たした半蔵はもはやもぬけの殻となり、その場を放心状態で一歩一歩去っていく。やがて彼の後姿は点となりそして消えていく。
このラストシーンはまるで映画のようだが、考えてみれば小説も映画も一緒である。


この本を読み終えた僕は「平成の服部半蔵」になりたいと思った。死を賭して社会の悪と戦いたいと思った。
しかし、三年前に脳内出血で倒れた僕は、瞬時に千里走るどころか、10メーターも走れない。眼の衰えたぼくが暗闇で勝負するならば、負けは明らかである。
「平成の服部半蔵」になることを諦めざるを得ない。


22012/10/23 (火) 無題





頂いた吟醸酒を飲みながら、特上の演歌を聴くこともまた至上の楽しみといえる。
ほろ酔い気分でオープンカフェに出ると、そこには金魚鉢が置かれていて、メダカたちが泳いでいる。





ホーキングの本に下記のような記述があった。


『数年前、イタリアの都市モンツアの市議会はペットショップの店主に対し、金魚を丸い金魚鉢に入れて飼うことを禁止した。その議案を提出した市議は、その根拠として、金魚鉢に入った金魚には外の世界がゆがんだものに映ってしまうので、金魚にとって残酷である、という点を挙げました。


しかし、私達は、眼に映る世界がゆがめられたものでないということをどうやって知り得るのでしょうか?私達は大きな金魚鉢のようなものの中にいるのかもしれませんし、巨大なレンズが私達の見るものをゆがめているかもしれません。金魚が見ている世界は私達が見ている世界とは違いますが、その世界が私達のものより現実的ではないと断言できるのでしょうか?


金魚の見ている世界は私達の見ている世界と同じではありません。しかし金魚だって、金魚鉢の外で動いている物体を観察することで、物理法則を組み立てることはできるでしょう。もちろん、金魚鉢のゆがみのせいで、私達から見れば直線に沿って動いている物体も、金魚から見れば曲線に沿って動いているように見えるでしょう。それでも金魚は、それをもとに金魚鉢の外にある物体の運動を予測でき、常に正しい物理法則を彼らのゆがめられた視点から組み立てることができます。彼らの物理法則は私達の物理法則より複雑なものになるでしょうが、単純か複雑かは感覚の問題です。仮に、ある金魚がそのような理論を組み立てたとしたら、その金魚の視点が現実を正しく反映したものであることを私達は認めなければなりません。


現実を異なった視点から見ている例としては、プトレマイオス(85~165年)によって150年頃に提唱された、天体の運動を記述するモデルが有名です。彼のモデルは「アルマゲスト」というアラビア語の標題で知られた、13編の論文にまとめられています。アルマゲストは、地球が宇宙の中心に位置する動かない球体で、その大きさは天上界までの距離と比べて非常に小さいと考えられる根拠を述べるところから始まります。この説は、アリスタルコスによって太陽を中心と考える説と違って、少なくともアリストテレスの時代から、多くの教養のあるギリシャ人に支持されてきました。アリストテレスも、その根拠は不可解なものでしたが、地球は宇宙の中心にあるべきだという考えを持っていました。』


22012/10/22 (月) 昨日は読書三昧だった


昨日の昼、僕は一歩も外へ出ず南原幹雄著「寛永風雲録」をオープンカフェで読んでいた。陽だまりのなかで時折飲む珈琲が美味しく時折飲む白葡萄酒(398エン)が美味しい。誰にも電話せずどの女性からの電話もなく、ひがな一日読書に耽るというのも偶にはいいもんだ。




夜は「ホーキング宇宙と人間を語る」を読んでいた。
「エピクロス(BC341~270)は、「自然哲学者の運命の奴隷となるよりは神話に従ったほうがましだ」という考えをもとに、原子論に反対した。アリストテレスもまた、人間が魂のない無生物的な物質でできていることを受け入れられなかったため、原子の概念を否定した。宇宙は人間中心ではないというイオニアの考え方は見捨てられ、しばらくはとりあげられることもなく、一般にも受け入れられなかった。その考えが再度注目されたのは、20世紀後のガリレオ・ガリレイ(1564~1642)の登場後のことである。
・・・
たとえば、活動中の脳の手術を受けている患者の症例では、脳の適切な領域に電気刺激を与えることによって、患者に手足を動かしたり、あるいは口を動かして話をしたいという欲求を生み出せたりすることが分かっている。」


この部分は 昔観たジャック・ニコルソン主演の映画・「カッコーの巣の上で」を思い出させるが、三年前に脳内出血で倒れ入院生活を送った僕には、これがはっきりわかる。


「人間の行動は実際には自然法則によって決められていると認める一方で、その結果は非常に複雑な方法で決められ、そして多くの変数を含むため、現実的には未来を予言することなど不可能である、と結論づけるのが妥当である。というのも、人間の行動を予言するには、人体にある10X27乗もの分子の初期条件をおく必要があり、さらにそれと同等数程度の方程式を解かなくてはならないからである」


この部分は何を言っているのかよくわからない。偉い人とは、よくわからないことを言う人のことだろう。


「アリストテレスは、物体は休息できる本来の位置に近づくにつれてより歓喜して進む、すなわち加速すると言った」


古代ギリシャの最高頭脳が詩人であったとは言えようが、重力の加速度を発見したアイザック・ニュートンが生まれる17世紀まで人類はロケットを打ち上げる理屈を持ち得なかった。勿論、それが不幸だったかどうかは全く別の話だと思うのですが・・。


読んでいるうち空がしらみ始めた。
おはよう、コスモス(宇宙)くん。


22012/10/21 (日) 昨日の土曜日を気分よく過ごした


昨日の午後は、中央公民館3階で再生エネルギーの話を聞いていた。


語り手である増田頼保さんの話は面白かった。彼の本職は画家(日本画家)である。ずっとスペインに住み毎年個展を開いていたが、突然帰国。どうやら河合勇との出会いが決定的だったようだ。
朴訥な口調である。大きい眼がとても澄んでいることにおどろいた。芸術家は眼が命なのである。



会が終了した時、僕が増田さんの印象を某氏に語ったところ、「それにひきかえ、まきちゃんら議員は男芸者や。眼が汚れきっている」といわれた。


僕も知る人ぞ知るアーキテクトとしての芸術家魂を持ってはいる。言い方を変えれば、胸のなかで、澄んだココロと卑俗なココロというアンビバレンツなものがせめぎあっているのだろう。


そういうことを考えていた時、昨日午前中のオープンカフェへの来訪者を思い出した。来訪者は「青楼無縁塚に関する資料がないか」と言っていた。


ぼくは会終了後帰宅してから資料をさがした。例えばこういうのがある。


姫川の 俤ゆかし 枯柳 
青楼無縁塚  不老庵寿山  




宿場小女郎が旅人の袖をひいた遊里は、竹田川を挟んだ長さ1キロ余りの町の川北、北金津町といわれた宿場集落にあった。金津傾村鏡によると、安永2年当時、 北金津は、戸数411、人数1394、(男728・女666)。遊女が61名も居たのだから、女性の数が多いのかと思ったら逆に52名少ない・・・。
遊里は、その北金津町の三丈山を取り巻いている旧八日町一帯にあった。金津町郷土資料は次のように記している。
「当時稲荷山の地には二十余軒の妓楼が軒を連ね、数十名の娼婦が居って我先にと客をよんだ。したがって階上階下の別なく、三弦の音、太鼓のひびきやかましく稲荷山にこだましていたという・・・ (津谷博子)
「宿場史跡 金津町坂ノ下」金津町教育委員会 より