2014年02月


2014/02/28 (金) きょうは散髪屋へ行こう

 私は昨年の7月にあわら市議に別れを告げてから転向した。「軟派」から「硬派」へと転向した。
 転向のきっかけとなったのは、山崎行太郎の「文藝や哲学を知らずして 政治や経済を語るなかれ 議員になるなかれ」という言葉である。
 保守の論客であるはずの最近の山崎は、大江健三郎の「沖縄ノート」を擁護し、佐高信と共闘しつつ曽野綾子排撃に余念がない。

 昨日の大森氏宅においても、三国町生まれの母を持つ曽野が話題となり、彼女のふるさとに対する冷徹な眼が論じられた。同席した元図書館司書の口から曽野の三国町に対する嫌悪のふるまいのいろいろを聞かされた。

 勿論、売文業に対するありうべき評価というのは、活字となった文それ自体であって、私生活は関係ない。
 ・・というのが原則なのだけれども、読者というのはいい加減な存在で、その文体を生み出してきた背景にあるものとして、私生活のなかでのゴシップを床屋談義として楽しむ側面があるのだと私は思う。

ということはともかく
頭がぼさぼさになって気持ち悪い。今から散髪屋へ行きます。

2014/02/27 (木) 大森さん 大いに語る



 昨日の午後は五人で大森さん宅へ。 
 90数歳という高齢にも関わらず、抜群の記憶力でもって三好達治との長年にわたる交流を語ってもらったが、それよりももっと考えさせられたことがある。
 親父のことだ。

 親父と大森さんはフィリピン戦線で九死に一生を得た戦友どおしで、寝床まで一緒だったそうだが、捕虜収容所で親父がとった行動を聞いた時には仰天した。
  既に冥界へ行ったとは言え、親父のプライバシーに関わることなので、それをここで書くのははばかれる。しゃべりたがりやの私としては書きたいのだが、個人情報保護の観点から、書くべきではないだろう。
 
 これは、息子の私にも一切語らなかったことである。
 一般的に言って、語ることよりも語らないことの中にこそ、その人のひととなりの本質が胸中に潜んでいるのだと私は思う。
 沢木耕太郎著「血の味」読了

2014/02/26 (水) 未明に納豆を食べながら

 最近は新聞を読むようになってきたしテレビも時々は見るが、テレビを見ていて気になることがひとつあって、それはしゃべり手が常に手を動かしていることだ。勿論、手を動かすことは思いを強調するための有効な手段だ。いつだったか、某心理カウンセラーがテレビで語っていたところによると、座談で相手から受ける印象を左右するのは、言葉自体が25%にとどまり、しゃべるときの抑揚やジェスチャーが75%だとのこと。

 しかし
 ずっと昔のことになるが、健聴者と聾唖者が一緒の宴会が開かれた。酒が入ったせいもあり私は隣の健聴者と体を揺らし手を動かしながらしゃべっていた。その時、突然某聾唖者に隣の部屋へ連れていかれ、「オマエは聾唖者と健聴者が別々の世界に住むべきやと言っていたが、なんでや?」と詰問された。

 勿論そんなことを言った覚えのない私は「???」と考え、そしてわかった。
健聴者どおしでの会話の際の手の動きはアクセサリーでしかないのに対して、聾唖者の手の動きはデジタル言語なのである。動きのひとつひとつが意味を持っている。
 そのときの私の自分としては無意味な手の動きが、たまたま手話というデジタル言語と重なり、聾唖者側からは意味の発信ととられたことになる。


2014/02/25 (火) 昨晩は徹夜

暖房をつけずに寝ているので、寝室の温度は外気温に比例する。当然、夜明け前が一番寒く、布団では寒さをしのぐことができない。そこでシュラーフを寝具としている。昨晩のようにそれでも寒くて寝れないときには寝ずに仕事をする。そのことで、寒さが仕事をはかどらせるということがよくわかる。

とはいうものの、はやく春がきてほしい。オープンカフェで春の陽射しを浴びながら熱々珈琲を飲むのが、私のひそやかな楽しみだからだ。

2014/02/24 (月) 昨日の日曜日

 昨日は6時に目が覚めた。ベッド脇のテーブルの上には缶ビール、焼酎瓶、カモンチーズ、サキイカなどが散乱し、まさに宴のあとである。

 ベッドから起き上がり、歯を磨いた。最近は四日に一度は歯を磨くようになったのである。
 浴室に行き、頭髪を洗った。最近は一ヶ月に一度は頭髪を洗うようになったのである。

 白米に味噌汁ぶっかけの朝食をすませ熱々珈琲を飲んだ。飲みながら手に取った本は、山本一力著「いかずち切り」だったが、数ページ読んだだけでどうも気がすすまない。
 
 かわりに中川八洋著「歴史を捏造する韓国」を手に取った。
 読みながら、一昨年夏の某老人の言葉をおもいだした。「君らのような若い世代が朝鮮統治時代の歴史を深く勉強しなければならない」との言葉を思い出した。
 
 それはともかく
 明日はあわら市三月議会初日〔会期決定 議案上程 提案理由説明 委員会付託〕で、午前9時30分に始まります。市役所から委託された仕事を既に終えた私は、もう市庁舎へ行くこともないだろうと思っていたのですが、まだ市議時代の癖を捨てきれていないのか、なんとなく傍聴に行きたくなります。
 このブログをご覧の暇人のみなさん・・是非傍聴にいきましょう。
 付記 一般質問は三月四日午前9時半からです。

 それはともかく
 声の広場にとんぼさんが私の二月二十二日日記に関するコメントを書き入れています。是非お読みください。
 

2014/02/23 (日) 無題
 
 昨日の午後は、「ふるさと語ろう会」主催の講演会が開かれた。テーマは「十郷用水と水争い」で講師は会員の稲田氏。


 講演会が終わってからは、「居酒屋おまき」に4人が集まって、熱々珈琲を飲みながらの座談。話のテーマは、とんぼさんをリーダーとして「平泉寺、豊原寺と蓮如の関係について」となった。

 夜は、「居酒屋おまき」に6人が各自飲食物持ち込みで集合。このグループの飲み会は久しぶりなので、四方山話に花が咲いた。私よりも一歳若いTさんは金津中学校校長を最後に数年前に退職したが、今は百姓仕事一筋の言うならば「晴耕雨読」の日々だそうだ。


 硬派に転向して七ヶ月目の私は、大麦焼酎「ちょんがりぶし」を飲みつつ女たちから目をそむけながら、郷土の歴史のことをひたすら真摯にしゃべっていた。
目をそむく 女はみんな 俺が好き という川柳があるのである。

2014/02/22 (土) 本日は予定満載
 
「名こそ惜しめ 硫黄島魂の記録」読了。

 「著者あとがき」
 硫黄島の戦闘は、武器資材不足のまま、身を託す天険もなく、兵たちに摂氏六十度を越す島内地下へ、総延長十八キロの壕を深く掘らせ、そこにこもっておこなわれた。
 硫黄の熱気がつよく、作業は五分交替でおこなわねば失神する。土丹岩硫黄火山独特の柔らかい岩がなければ、一トン爆弾、戦艦主砲の攻撃に耐えうる地下陣地は構築できなかったであろう。
 使用する鉄材、セメントもすくなかった。壕内は高低差のある通気口を二つつくれば、温度が摂氏二十七度ほどに下がったというが、私が編集者と硫黄島をおとずれたとき、医務料壕内へ入ろうとすれば、二、三メートルで思わず立ち止まったほど、熱気と臭気がすさまじかった。
 島内を散策しているとき、はじめは涼しく思えるが、しばらくすると、半袖シャツが水に濡れたように汗をかき、おどろいた。
 このような壕で二万に近い将兵が戦ったのである。現役部隊は佐賀編成の歩兵第百四十五連帯、西戦車隊などわずかで、おおかたが昭和十九年になって寄せ集められた兵隊だった。
 年齢も三十歳を超え、四十なかばの者も少なくなかった。
 昭和二十年二月十九日に南海岸へ敵海兵隊が上陸してくるまえから、海上に都市ができたと思える大艦隊よりの豪雨のような艦砲射撃、サイパンからの爆撃機の一トン爆弾を浴びつづけ、海軍のトーチカはたちまち壊滅した。
 米軍上陸地点を防衛する幾つかの大隊は、犠牲大隊と呼ばれ、数日のうちに全滅となったが、栗林中将の摩下部隊地下壕からの反撃はすさまじく、上陸からの数日で米軍の損害は日本軍のそれを上回り、甚大であった。全負傷者のうち大手術を必要とするものの比率は、ノルマンデイ上陸作戦ときの五パーセントをはるかに超え、九十パーセントに達していた。
 戦艦だけでも八隻いたといわれる海面を埋めた各種艦艇からの砲撃と艦載機の絶え間ない機銃攻撃、ナパーム弾攻撃。サイパンからやってくるB24、B29の巨大爆撃機の爆弾により、地面は着弾孔のうえに着弾孔がかさなり地形が変って、戦闘がはじまる前、前線基地から司令部まで五分の道のりであったのが、往復十一時間もかかるという、信じられない状態になった。
 だが日本軍将兵は、音を聞いただけで足がすくむ砲弾の豪雨が降る戦場に敵が進出してくれば、応戦に壕を出て、白兵戦をおこない、侵入者を圧倒した。
 夜中も真昼のように照明弾があがり、銃砲激は猛烈である。日本軍の二個師団一会戦分の火砲は、頭上を旋回する偵察機のため、一発発射すればたちまち位置をたしかめられ、砲撃のるつぼのなかで破壊沈黙させられる。
 ついに火砲のすべてが破壊されても、猫額大の中央部以北の高地での戦闘がはじまると、日本軍の将兵は手榴弾、中銃、機関銃を持って地下壕が網の目のようにつながる複廊陣地により、一歩も引かない肉薄戦闘をつづけ、米軍に損害を強いた。
 栗林将軍の地下壕作戦は見事に成功した。
 日本軍は実際の戦闘では推定五千余人の戦死者を出したのみで、米軍に戦死者六千八百余人を、負傷者一万九千余人の損害を出させた。三月二十六日の玉砕ののちも、壕陣地にひそむ日本軍の総数は一万以上あったといわれる。
 彼らは飲む水がなく、焦熱地獄のような壕内にいることに耐えられず、手榴弾を腹に抱き、爆発させて自殺した。
 元海軍中尉大曲覚氏の体験談によれば、島の西部には硫黄と塩の味のする湯のようなあたたかい水の出る井戸が二本あったが、それも米軍に占領されたのちは、砲爆撃で破壊されたコンクリート水槽の残骸に残るわずかな天水をすするより他はなかった。
 そのような水槽にしのび寄る日本兵を、米軍は機関銃でなぎ倒した。大曲中尉は一滴の水も口にしないまま三日間をすごしたあと、水槽の残骸を見つけた。水中には日本兵の膨れあがった死体が幾つか沈んでいた。しかも米兵が投げこんだ黄燐〔ネコイラズ〕焼夷弾のにおいが充満していた。 
 だが元中尉は、日本兵の遺体が分解した小骨のまじった臭い水を飲んだときのうまさを、生涯に忘れられないものであるといわれる。

 この小説を書くにあたり、最初からご助力を頂いたのは、元海軍上等兵曹で第三十七航戦司令部におられた金井啓氏である。硫黄島協会事務局長である金井氏のご尽力を頂けなかったら、この小説は完成できなかったか知れない。金井氏ははじめてお目にかかったとき八十歳とおっしゃっていたので、いまは八十二歳であるが、剣道高段者で、きわめて敏捷な身ごなしをしておられる。
 実践でも徹頭徹尾闘魂のたぎるままに敢闘された。入口を米軍に封鎖された暗黒の壕内で、戦死者の蒼白い火の玉が無数に飛び交うなか、脱出孔を手で掘りひらき、あやうく窒息死を免れたとき、敵の猛射のなか、味方がつぎつぎと倒れても、隙をついて反撃を加えるなど、戦場往来をかさねた古武士の風格をそなえている方である。

 硫黄島で戦死された方々の遺体のうち、すくなくとも一万二千体は、島内のかつて米軍基地、いまは海上自衛隊基地である飛行場の下の地下壕に眠っておられる。
 その方々の英霊はいまでも現世にあらわれてこられるという。
 だから海上自衛隊宿舎がカマボコ兵舎であった頃、夜半に外を何千とも知れない軍靴の音が通り過ぎてゆくとか、トイレに入るとドアを乱打されるなどの不思議な現象がつづいたという。
 私が編集者氏と硫黄島へ出向くとき、防衛庁から同行して下さった三佐は、かつてヘリ操縦士として在島していたとき、夜中に英霊たちに起こされ、車座になって酒盛りをした経験があるといわれた。
 ふしぎにも思わずいろいろ話しあっていると、同室の友人がベッドから起きてきて、「お前、一人でこんなところに座りこんで何をしているんだ」 はっと気がつくと、傍らには誰もおらず彼ひとりが床の上にあぐらをかいていたというのである。
 いま硫黄島の宿舎は立派な建築であるが、異変はあいかわらずおこるという。そのような話は、ここに書ききれないほど、お聞きした。
 私は在島中、英霊にお会いすることはなかったが、東京の家に帰って翌朝めざめる前に長い夢を見た。日本軍の将校が米軍と戦い、「貴様らにだけはやられないぞ」といいながら、自分の銃を顎の下にあて、地下足袋をぬぎ足指で引金を引いて自殺する夢である。
 自殺したところで眼がさめた。詳細にわたって覚えていたので、それを小説に書いた。
 南方熊楠は、人間の魂は五つか六つの部分に分かれ、その幾つかは現世に残ると記しているが、硫黄島に残った英霊のある部分はいまも戦場にとどまり、ある部分はたまに肉親のもとをおとずれておられるようである。
 私は、肉食人種ではなく動物を捕獲するのを嫌う日本人が、無理に連れてこられた戦場で、なぜ壮烈果敢な戦闘をおこなえたのか、考えてみる。
 日本人は知能がきわめて発達しており、それは学業で教えこまれてそうなったものではなく、天性であると私は思っている。あらゆる作業に工夫をこらし、世界で珍重される新分野をひらいてゆく、強力なエネルギーをそなえている。日本人は、日常生活では勤勉な働き手であるが、すべての望みを絶たれ、絶海の孤島で死に向いあうと、ただでは死ねないと思う。死にかたにも工夫をこらす。
 それは越村敏雄氏の著書「硫黄島守備隊」にも詳記されている。平和を好む理性の発達した国民は、ただでは殺されないというエネルギーを祖先から伝えられ、体内に宿しているのだということが、硫黄島の戦闘を探るうちに分ってきた。
われわれがうけついできた遺伝子は、現世に生き残るために、平和なときも乱世にも高度なはたらきを、状況に応じてあらわすのである。
 不幸にして乱世きわまる時期に、燃えるように熱い地下陣地で命を絶たれ、肉弾戦で死力をつくして亡くなられた英霊に、万斛の涙と感謝を捧げるものである。

         平成十七年十月  津本陽
 

2014/02/21 (金) 本日はCAD三昧

 津本陽著「名こそ惜しめ 硫黄島魂の記録」を読書中。資料と証言を駆使し情緒を排した無駄の無い文章は私を釘付けにする。

 クリント・イーストウッド制作、渡辺謙主演のDVD「硫黄島からの手紙」を数年前に見たのがこの本を読み始めたきっかけだが、映像と文章はちがうもんだ。

 硫黄島の日本軍数千人は、米軍上陸に備えて地下壕を掘るのだが、そこの温度は40度~50度。湧水はすべて濃い硫黄分を含んでいる。兵士たちは絞った雑巾のようになって呆け、終には故郷を思いながら死んでいく。
 米軍が上陸すれば圧倒的な火力で自分達がこなごなに吹き飛ばされることをわかっていながら、それに向かって炎熱下での作業に従事することの不条理が昭和19年の硫黄島でも展開されていたのだ。

 私はその描写の一部をこのブログにアップしようと思って、本をパソコンの傍らに置いた。そして、左手で本のページを押さえながら右手でキーを叩こうとしたのだが、左手が既に不自由となっている私にはその動作がもはや不可能なのである。

  しばらく思案した後、私は一寸角のタルキを買ってきた。そのタルキで四方枡を作った。その枡のなかに開いた本を入れたところ、本はしっかりと立った。立派な書見台ができあがったのである。
 昨日、身体トレーナーから「体が不自由になることによって、自由を求めての創意工夫が始まるのですよ」と言われたが、まさにその通りだと思う。

2014/02/20 (木) ソチ五輪

 昨晩は、事務所に5人が集まって、某秘密事項打合せ会が開かれた。打合せは午後9時に終了し、皆が帰ったあとはDVDでジョン・ウエインの「駅馬車」を楽しんでから就寝。

 未明に眼が覚めテレビをつけると、ソチ五輪女子フィギュアで浅田真央が演技中だったが、ジャンプで眼を疑うような失敗だ。でも全体的にはやっぱり流れが美しい。私が審判だったらキムヨナ以上の75点を出す。

 それはともかく、失敗をつくったのはマスコミだろう。あけてもくれても「真央、真央!」だった。これじゃあ鈴木、村上がかわいそうだ。

 私が浅田真央だったら、「なによ・・マスコミのみなさん。なんで私ばかり追いかけるの? そりゃあ、金メダルとりたいけど、これだけ追いかけられると、失敗したらどうしようというストレスで体がかたくなるわ。それで失敗してしまったのよ。」と、記者会見で云いたくなるだろう。

2014/02/19 (水) 希望

 腰の痛みがようやく消えたので、昨日の午後は金津トリムパークのトレーニングコーナーへ。

 「牧田さんの左側肩甲骨は鉄板のように固まって動かない」と診るトレーナーは、肩甲骨の機能回復を昨日のテーマとした。 だんだんわかってきたのだが、体はシンメトリーであって、神経は対角線上に連動している。だから左側肩甲骨の動かない私は右足を普通に運ぶことができなかったのだ。「筋肉の稼動域を今の調子で拡げていければ、四月には普通の歩きとなるでしょう」とのお墨付きをいただいた私には希望〔どうでもいい希望だけど〕が見えてきた。

 現在は、あわら市の女性たちの落胆を避けるため事務所に逼塞している私も、春先には堂々と街を歩けるだろうという希望である。
 きょうの午前中の〔仕事だから仕方ないものの〕CAD数値いじりに飽いたので、午後は金津図書館へ。
一応借りたい本を列挙したメモを携えて行ったのだが、開架書棚に並ぶ圧倒的な数の本の背表紙を眺めているうちメモのことはどうでもよくなって、目線が合った10冊の本を借りて事務所に戻った。

 最近の私にとって読書のあたりはずれは、あたり=1、はずれ=2くらいの比率である。加えて言うならば、借りてきた本の著者は全員既に死んでいる。勿論そのことを意識して借りたわけではないが、私の人に対する興味は既に生者から死者へと移ったのだろう。

2014/02/18 (火) ちょっと一服

司馬遼太郎著「箱根の坂」。上・中・下巻のうち上・中巻を読み終えた。

細川勝元派と山名宗全派が争った応仁の乱の時代、将軍・足利義政の政所執事を受け持っていたのが伊勢伊勢守貞親で、その伊勢家につながる男がこの物語の主人公・伊勢新九朗である。新九朗は一介の鞍づくりとしてひっそりと平穏に生計をたてていたのだが、応仁の乱により国が荒廃し守護の権威が失墜するなかで、本人の意思とは無関係に駿河の国を立て直すべく周囲から要請され波乱万丈の人生に突入し、東駿国を治めるようになるのだが、この時、新九朗は名を北条早雲と改める。・・というのが中巻までのあらすじ。

司馬の小説を読んだのはほとんどが1990年代で、今回は十数年ぶりということになる。いつも思うのだが、この人の小説に登場する人物は「龍馬が行く」に代表されるようにみんなさわやかで、読んでいて不思議と青空の下を歩いているような気分になる。残酷な殺戮シーンでさえそうだということは、筆使いに人間肯定の思いが宿っているということか。


2014/02/17 (月) 昨日の日曜日

 昨日の午後は、福井市二の宮のN氏宅に行き、住宅改修の相談に乗っていた。N氏宅は私が設計した住宅だが、設計を終えたまさにその時に脳出血で倒れ入院を余儀なくされ工事監理不可能となった建物。
 以前、このブログで書いたことでもあるが、倒れた時に幽体離脱を経験し、さらには入院病棟での半年間にわたる重篤患者たちとの付き合いを通して人間関係の濃淡が全く変わってしまった境界の時の作品ということで印象深い。

 外壁の開口部をアルミサッシュとした以外は自然素材にこだわった。自然素材は工業製品とは違って呼吸をするので四季折々に多少の歪みを誘発する。汚れもつきやすく、N氏夫妻は建物のメンテのために注意深くならざるを得ない。
 考えてみると、住宅は人間の体と同じで幼少期・青壮年期・老年期を持ち、その間に怪我や病気をする。もしかしたら心の病気もしているのかもしれない。

 私の部屋の床材もコーテイングなしのムク杉材としたのだが。飲食の場となる頻度が多く汚れが目立つ。ひるがえってN氏宅床材に汚れはほとんどない。聞いてみると、米ぬか溶剤を塗ったとのこと。
 そして、私は一瓶を頂いた。

2014/02/16 (日) 日曜日の朝

 昨晩は芦原町某氏宅で男三人によるキムチ大鍋を囲んでのビール・清酒・焼酎飲み会。

 話のテーマは
①あわら市の福祉施策の至らぬ点について
②郷土の歴史に対する視点の見直しについて
③日中戦争の検証について
④牧田氏が女性達をひきつけるその男性的魅力について  くらいだったかな?
 
 それぞれがむつかしいテーマで、特に④について私が口をはさむ余地はなかった。

 実に久しぶりの外泊となったが、もうしばらくすると春の匂いに誘われて私は旅の人となる。
 シュラーフ片手の野宿旅なのでこのブログの毎日更新はむつかしくなるでしょう。
 十数人のご愛読者の皆さん、今後のご健康と家内安全を祈っております。

2014/02/15 (土) 羽生の金メダル獲得の瞬間を見終えて

 10数年前にこの日記を書き始めたのは、忘備録としての意味があったのだけれども、最近はそもそも昨日に自分のとった行動〔たとえば晩飯に何を食べたか、来客は誰であったか、自分はどこへ行ったか、何を見たか、何を聞いたか、何を話したか〕を思い出せないあるいは思い出すのに大変時間がかかるようになってきた。

 忘れるようになった原因のひとつに歳のせいがあるのは確かだが、それよりも、欝気分故に日々を
忘れてしまいたい気持ちの続いていることが理由として挙げられる。

 この欝気分を束の間でも吹き飛ばしてくれるものは、私の場合、明らかに本だ。特に江戸期を時代背景とした読み物を拡げていると感情移入がしやすく、所詮読み物の世界が現実の世界に思えてきて、本の中の喜怒哀楽が新鮮に映る。

読み終えたら欝気分が戻るのをどうしたらいいかというと、〔時間のある限り〕すぐに別の本を読むということ,、あるいは酒色におぼれるということだろう。

 あいにくと容貌のみすぼらしい私が女色に縁のあるはずはなく、酒だけにおぼれるということになるのだが、数年前に脳内出血で倒れた私がおぼれるまで飲むのは命にかかわることでもある。
 よって酒も適量に制限されている。世の中ままならないもんだ。


2014/02/14 (金) バッハを聴きながら昨日を振り返る

 昨日の朝は腰が痛くてベッドから起き上がれなかった。息をするたびにズキズキするのである。息を詰めてなんとかかんとか二の足で立つことができたが、普通の姿勢では到底歩けない。腰を大きくかがめてしか歩けない。
 「情けない体になったもんや。しかし、可能性は低いけれどもトレーニングに励めば元の体に戻るかもしれん」、ということで私はあきらめない。

 ネバーギブアップの精神で午前中の仕事を11時45分に終え、熱々素うどんを食べていたら、Y氏が来訪。新しく民生委員になったとのことである。以下、対話。

 ・民生委員の仕事のひとつは、俺のような体が不具合になりつつある人間を注意深く見守ることにあるんだろう 
Y氏・そやけど、牧田さんは見た目は普通やぞ
 ・ちがう。本当はボロボロや。だけど人から同情されたくないので、懸命に普通を装っているんや
Y氏・そういやあ、以前の笑い顔がなくなったなあ
 ・うん、俺は三年前に心に決めたんや。笑顔と決別することに決めたんや。悲しみと憂いだけがこの世の友となったんや

 とかなんとか言っているうち午後になり来訪客は帰った。

 午後は某建築物完成現場へ。
 福井市建築指導課による竣工検査立会いのためだ。かつて、設計一途だった頃世話になったセクションだが、勿論、当時の人はひとりもいない。今の人たちは自分の息子のような世代だが、当時と比べると物腰が柔らかくなったような気がする。
 市長だか誰だかの「あなたたちは公僕です。サービス第一に笑顔を忘れず市民に応対してください」といった訓示の成果なんだろう。
 でも私には、みんなワンパターンで、真意を胸底に隠しているような気がしないでもない。斜め読みだろうか。

 竣工検査を終えて事務所に戻ると5時半を過ぎていた。ホームバーの酒瓶はほとんどがからっぽだ。かろうじて焼酎と白ワインが少しずつ残っていた。それぞれを一つのグラスに入れたらちょうど一杯になった。これを敢えて名づければ「焼酎のワイン割り」となる。味噌をツマミに飲んだが、思いのほか美味かった。要するにアルコールであればなんでも構わないのだ。

2014/02/13 (木) 熱々珈琲を飲みながら

 昨日の午前、集落営農に情熱をかけるOクンに頼まれて、市内の既存施設を一緒に見て回った。見終わってから、「居酒屋おまき」の設計コーナーでパソコンCADの平面図片手に建物の解説をした。解説をしながら、「俺の生活環境もずいぶんかわったなあ」と思った。

 昨年6月までの議員時代の自分は、やや声高にしゃべっていた。言い換えれば、声高が防御だった。今、その衣装を脱ぎ捨てた結果、「静かに語る自分」が存在する。
 建築設計が、思索を線で著わす行為だからそうなるのだろう。

 人間関係も極端に少なくなり、少数の肩のこらない人たちだけとの付き合いが残った。
 酒は無差別に飲む対象ではなくなり、銘柄を選別しひとり静かに味わうものとなった。
 世の中から色彩が影を潜め、薄墨色の世界が拡がっている。

 それはともかく
 未明のCAD作業に疲れて、BGMをジャズからテレビに切り替えたら、ソチ五輪は滑走競技の真っ最中。
 ほとんどの競技がサーカスかファッションショーみたいで点数算出の根拠がよくわからないなか、滑走だけは素人目にもよくわかる。小数点以下の秒差でしのぎを削るものすごいスピードの世界だ。

「男子の急斜面を滑り降りる迫力は満点やなあ」と思って見ていたら、じつは女子滑走だった。白銀の世界だからより一層そう思えるのかもしれないが、「ゴールに向かってはやく駆け抜けたものが勝ち」という意味では人生と同じだと思った。

2014/02/12 (水) ジャズを聴きながら

 昨日の午前9時、私は北潟地区のS氏宅に居た。トンボさん著「お寺のおばあちゃん」を携えて行ったのだが、その理由は、北潟が波松に隣接しS氏にも当時の記憶があるのではないかと思ったからだ。

 S氏宅を出た私は海へと車を走らせ、日本海を一望できる高台に車を留めた。数ヶ月ぶりに見る日本海は波が高く荒々しい。まさに冬の日本海だ。

 ラーク9mgにジッポーで火を点けた。海を見ながら吸う煙草は美味い。
 ハイライトから始まって、ピース→チェリー→ゲルベゾルテ→葉巻→セブンスター→禁煙→マイルドセブンと変遷してきた私の煙草人生もどうやらラークで終わる。

 目を閉じて潮騒を聴きながら、これからの人生を考えた。考えても答えがでないので、考えるのをやめた。

煙草の火を消してから車のエンジンをかけた。助手席に誰かが居たような気がする。いや、居なかったような気がする。なんせ私の人生は妄想の人生だ。
 それはともかく
 村上春樹の「雑文集」を読んでいたら、やたらとジャズの話が出てくる。私は40数年前を思い出した。

 私はY子と一緒に某ジャズ喫茶に居た。熱々珈琲を飲みながらサッチモなんかを聴いているうち、彼女の体が自然と私の体ににじり寄ってくる。「ハロー ドーリー」で気分がハイになっていたので、体はいよいよますますあつくなった。思わず私はY子を抱きしめあつい接吻を交わした。

 その時、喫茶店員が一枚のメモ紙を持ってきた。メモ紙にはこう書かれていた。
「ここはそういうことをする場所ではありません。精算をお願いします」と書かれていた。
 あわら市議会一の人格者と噂されていた昨今の私も、若い時はアホなことをやっていたのだ。

2014/02/11 (火) ソチ五輪

 ソチ五輪のスピードスケート男子500メートル。
 惜しくも5位にとどまりメダルを獲ることのできなかった加藤条冶の試合後インタビューがよかった。

 インタビュアーの質問に対しては、「わかりません」「悔しいです」と答えるのみで、唇を結んだ表情には悔しさがあふれている。言葉を繰り返さない。繰り返さないからこそ、表情が生きる。

 私が硬派宣言をしてから七ヶ月が経過した。女性たちに対して見向きもしなくなった私〔そのわりには女性にもてるらしい〕には、男の矜持がよくわかる。
 
 五輪種目に「敗者の弁」があったとしたら、彼が金メダリストになるだろうと、私は思った。

2014/02/09 (日) 放談読了

金子兜太〔当時91歳〕と半藤一利〔当時81歳〕の合わせて172歳のじいさん二人が2011年に出版した放談の記録が「今、日本人に知ってもらいたいこと」で、高名な俳人とか高名な編集者とかのレッテル〔本人たちには迷惑だろう〕をすっかり剥ぎ取って素〔す〕のまま二人が好き勝手にしゃべっている。

金子   ・・アメリカの海兵隊の中には、サイパン島の戦闘にも参加したなんていう連中がいて威張っているんだ。わたしなんか最初に会ったとき、「セイコーよこせ」なんて言われて、時計を取られちゃってね。サイン入りの日の丸旗を持ってないかって聞いてきたり、刀をよこせと言われたり、全部取られちゃった。
 やつらは若いくせに威張っているんですよ。朝なんて、我々が作業に行くでしょ。一緒に・・
 と、ここまでこの本の断片を見ながらキーボードを叩いてきて、その作業をやめた。
 キーボードの傍らに置く本の活字が、眼鏡をかけてもよく見えない。視力の衰えが甚だしいのである。かつては裸眼視力2.0を誇った私だが、今や0.5を割っているのではないだろうか。

 本を読む日々に変わってCDなどを使用しての「耳で本を聴く」日々が近づきつつあるのだろう。ものの本によると、五感のなかで最後まで残るのは聴力だそうだ。であれば、臨終で自分の意識が途絶える際、家族の声を冥土への土産とすることができる。旅の空での野垂れ死にであれば、小鳥の囀りや樹々のざわめきを土産とすることができる。
 第一、最後まで手話能力が残ることになる。
 それはともかく
 今朝、私はとんぼさんと一緒に波松の正賢寺へ学童疎開のことを聞きに行った。白越行子さんから聞いた諸々に思い当たるふしが沢山あって楽しかった。げに、お寺は歴史の宝庫である。



 疎開児たちは、境内から降りていくこの細道を歩いて波松国民学校へ通ったという。70年前と全く同じだそうだ。美しい。

2014/02/09 (日) 友あり遠方より来たる、また楽しからずや

 昨日の昼は 生涯学習館で原発学習会〔講師・児玉一八氏〕が開かれた。



 あいにくの雪のなか、一時間半の講演に予想以上の人が来てくれた。
 受付係り〔なんせ身体不能者の私に会場整備などの肉体労働は無理〕の私の背中をトントンと叩く新聞記者や友人たちに驚いたが、特に驚いたのが大野市から来てくれたYさん。

 「友あり遠方より来たる、また楽しからずや」なのである。15年前の福井県PTA連合会役員時代に大野市代表だったYさんとは何度も酒を飲み交わし全国を旅した。一瞬顔を合せただけで往時がよみがえってくる。心がやんわりしてくるのだ。
 偶にこういうことがあるから、生きていたくもない憂世を生きているのかもしれない、と私は思った。
 

 ということで児玉氏の話の結論に戻る。〔テキストはこれ

 「福島1号機建屋内の循環する汚染冷却水に、阿武隈山系からの毎日何百トンもの地下水が流れ込み、汚染水が増え続けている。トリチウムは水そのものとなっているので蒸発させることは大気汚染につながる。海洋に流せば風評被害で福島の漁業は壊滅だ。凍土壁による汚染水の囲い込みに信頼性は持てない。
 東電にとっての急務は、阿武隈山系から流れ込む地下水のブロックについて叡智を結集することだ。しかし東電の頭脳のかなりの部分は柏崎原発再稼動というアホなことに向いている。我々貧乏科学者にできることは、地道ではあっても市民ネットワークを拡げることである。云々・・」

 夕刻に学習会を終えて「居酒屋おまき」に戻り一息ついているところへ、「原発を考えるあわら市民の会」代表二人が来訪。
 「きょうはご苦労さん」と言って熱々珈琲を出し、私自身は焼酎を飲んだ。二人は車で来たのでアルコールを飲ませることはできないのだが、しかし、この差別化がなかなか楽しい。

注 児玉氏講演のDVDが欲しい方は、中野090-3292-9029までどうぞ。


 本日の福井新聞21面に「二十歳の原点」の著者・高野悦子のことが書かれている。
 私と同じ昭和24年1月生まれの彼女は、20歳の時列車に飛び込み自ら自身の生を閉じた。
 死の直前に書かれた遺書とも云うべき静謐な詩は、ずっと私の心に残り続けている。

旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく

大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根元に腰をおろして休もう

そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を吸おう

近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか

原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を吸おう

煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで
静かに休もう

原始林を暗やみが包み込む頃になったら
湖に小舟をうかべよう

衣服を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ

左手に笛をもって
湖の水面を暗やみの中に漂いながら
笛をふこう

小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
静かに眠ろう

そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう


2014/02/08 (土) 忙しくなりそうな土曜日

 夢をみることが常態化しているのは現実からの逃避の反映なのだろうが、じゃあどうしたらココロが安定するのか、私は昨日の午後にその処方箋を求めて某寺院を訪ねた。

 広い境内を窓外に一望できる6畳の執務室で老住職と対座した。輪島塗のお盆の上に乗った京都の高級和菓子は二つ。マンツーマンだから二つなのだけれども、つまんだらめっぽう美味い。酒飲みをも魅了するのが京都和菓子の真髄だ。美味い和菓子にコンパニオンは要らない。

 「住職・・もうひとつも食べていいですか?」と問うたら、にこやかに「どうぞどうぞ」と答える。二つ目を口にしながら、「老人ともなると心がおおらかになるのだ」と、私は思った。

 「住職・・、今の私は、自分が生きているのか死んでいるのかわからんのです。希望もなければ絶望もない。薄ぼんやりとした闇の中をあっちへふらふらこっちへふらふらなのです。このようにいいかげんな人間の私に生きていく価値があるのでしょうか」と問う私に対する住職の答えは、「牧田くん、人間の本質は「いいかげん」にあるのです。自分を「いいかげん」と思うことを忘れてはならない。政治家を見てごらんなさい。国会討論を聴いてごらんなさい。声高な有象無象たちは、信念の仮面をかぶった二枚舌ばかりです。胸底にみえるものは嫌らしさだけじゃありませんか」だった。

 一時間半の質疑応答を終えた。
 帰り際に、「住職・・私はある女性のことをいつも思っています。この歳になってもその思いから離れられない私に生きていく価値はあるのでしょうか」と私が問うと、住職は即答した。
「愛がすべてです」と住職は即答した。

車での帰路、「某寺院に行ってよかった」と、私は思った。
 

2014/02/07 (金) 

 きょうは夢にうなされて目が覚めた。

 私は畳の間で、既に黄泉の国へ旅立った人と対座している。その人の顔が怒り顔になったり笑い顔になったりとめまぐるしく変転する。気がつくと私の横には一人の女性がいてあかちゃんのおしめをせっせと取り替えている。うなされるような悪夢ではないのだが、不思議な夢だった。目覚めたのが午前零時だったので、熱々珈琲を一杯飲んでから再び布団に入った。

 夕刻に私は山間の細道を歩いていた。向こうから白髪の老人が歩いてくる。すれ違いざま垣間見た彼の横顔には涙があふれている。振り返った彼は、「もしもし、旅のお方」と私を呼び止めた。そこのところで目が覚めたのだが、何故そのような夢を見たのかわからない。
ということはともかく
新しい仕事が入ってきたので、きょうはがんばろう。 

お知らせ
 
 原発問題講演会「どうなっている汚染水の問題 どうしたらいいのか」 
       講師 児玉一八氏

 東京電力福島第1原発で、汚染水が増え続け、廃炉作業の大きな「壁」になっています。
 安倍首相は昨年9月、東京オリンピックの招致演説で「汚染水は完全にコントロールされている」と胸を張りましたが、とんでもありません。国際原子力機関〔IAEA〕も「最大の課題」と指摘する事態で、事故は収束していません。
 原子力建屋に流れ込む前の地下水の海への放出も迫っています。
 福島第1原発の1~3号機では、溶けた燃料を冷却するために原子炉に水を注入し続けています。その水が燃料に触れた後、、放射性物質に汚染され原子炉建屋地下などに溜まっているのです。
 この水は循環させて再び冷却に使用するので、これだけで冷却水は増えませんが、問題は建屋地下に1日約400トンの地下水が流入しており、このため汚染水が増え続けているのです。
 汚染水対策が重要なのは、廃炉作業の鍵を握っているからです。溶融燃料の状態を把握するには、原子炉建屋内に溜まる汚染水を取り除かなくてはなりません。 
 現状はどうなっているのか、これからどうしたらいいのか、語っていただきます。
 ぜひ、お誘い合わせの上、ご参加ください。
●2月8日〔土〕PM2:00~ 
●IKOSSA〔金津図書館〕3階ホール あわら市春宮2-14-1 TEL73-1065 
●参加費500円
 主催 原発を考えるあわら市民の会 連絡先:中野090-3292-9029

2014/02/06 (木) 昨晩は、さほど降らなかった

 昨晩は男性5人が「居酒屋おまき」に集まった。


 話題のひとつが、もみいとかいう名前のNHK会長の発言及びなんとかかんとかかんとかなんとかという名前の経営委員たちの発言に関するものとなった。
 そして、4人の来訪有識者たちから細かい情報を聞かされた私は、「それはブラックジョークではないのか」と大変に驚いた。

 それはさておき
 今〔午後3時現在〕、作曲家・佐村河内のゴーストライター・新垣隆の意気消沈的記者会見をテレビで見ていて、三十数年前を思い出した。

 私は、某大手建設会社社員から、「牧田はん、ボクはHさんが好きで好きでたまらんのや。彼女にラブレターを書いてもらえんやろか」と頼まれたのだ。
 「報酬は豪華な晩飯や」につられてこころよく引き受けた。サービス精神旺盛な私はラブレターを持って、彼女が勤める某金融会社まで行った。
 彼女は幾分顔をあからめ、「この手紙が牧田さん本人の気持ちならすごく嬉しいのに」と答えながら、代筆ラブレターを胸にしまいこんだ。
 後年〔こうねん〕準ミス福井となった彼女のその時のとまどい顔は実に可愛いかった。

ということはさておき
 
 原発問題講演会「どうなっている汚染水の問題 どうしたらいいのか」 
       講師 児玉一八氏

 東京電力福島第1原発で、汚染水が増え続け、廃炉作業の大きな「壁」になっています。
 安倍首相は昨年9月、東京オリンピックの招致演説で「汚染水は完全にコントロールされている」と胸を張りましたが、とんでもありません。国際原子力機関〔IAEA〕も「最大の課題」と指摘する事態で、事故は収束していません。
 原子力建屋に流れ込む前の地下水の海への放出も迫っています。
 福島第1原発の1~3号機では、溶けた燃料を冷却するために原子炉に水を注入し続けています。その水が燃料に触れた後、、放射性物質に汚染され原子炉建屋地下などに溜まっているのです。
 この水は循環させて再び冷却に使用するので、これだけで冷却水は増えませんが、問題は建屋地下に1日約400トンの地下水が流入しており、このため汚染水が増え続けているのです。
 汚染水対策が重要なのは、廃炉作業の鍵を握っているからです。溶融燃料の状態を把握するには、原子炉建屋内に溜まる汚染水を取り除かなくてはなりません。 
 現状はどうなっているのか、これからどうしたらいいのか、語っていただきます。
 ぜひ、お誘い合わせの上、ご参加ください。
●2月8日〔土〕PM2:00~ 
●IKOSSA〔金津図書館〕3階ホール あわら市春宮2-14-1 TEL73-1065 
●参加費500円
 主催 原発を考えるあわら市民の会 連絡先:中野090-3292-9029

[講師経歴]

1960年福井県武生市(現・越前市)生まれ。1978年福井県立武生高等学校理数科卒業、1980年金沢大学理学部化学科在学中に第1種放射線取扱主任者国家免状を取得、1982年金沢大学理学部化学科卒業、1984年金沢大学大学院理学研究科修士課程修了、1988年金沢大学大学院医学研究科博士課程修了。医学博士、理学修士。

現在、日本科学者会議原子力問題研究委員会委員、核・エネルギー問題情報センター理事、原発問題住民運動全国連絡センター代表委員、原発問題住民運動石川県連絡センター事務局長。

著書に『活断層上の欠陥原子炉 志賀原発―はたして福島の事故は特別か』東洋書店、2013年。共著に『さし迫る原発の危険』リベルタ出版、1992年、『現在進行形の福島事故』本の泉社、2013年。


2014/02/05 (水) 早朝に雪かきを終えて

 池波正太郎著「火の国の城」読了。
 当時日本一の土木建築家と噂された加藤清正が築いた熊本城は、それから二百八十年を経て起こった西南戦争時に、熊本鎮台として西郷軍三万の兵をことごとく跳ね返したほどの戦争想定一点張りの実務型名城である。
 九歳の時から豊臣秀吉の正妻・ねねに可愛がられてそだった清正は関が原の戦いで徳川方につくが、それは豊臣家の存続をねがった故のものであり、もはや戦争をすべきではないという信念の下で活躍する。その清正を裏で支え暗躍するのが、この物語の主人公=しのびの達人・丹波大介である。

 私は現在、トリムパークでトレーニングにいそしんでいて、トレーナーから筋肉の動きについての理論を学びつつある。
 それで、しのびの大介が敵と戦う場面では、彼が繰り出す技、超人的な身のこなしについての筋肉理論が頭をめぐり、再三黙考した。
 ということはさておき
 昨日の午前中は、某市議宅で二時間を過ごした。市議を辞めて半年経つが、辞めてからのほうが議会について市民から問われることが多くなり、もはや議会に全く関心の無くなった私には答えることができず、このようにして現職市議を訪れることが、時々ある。 
ということもさておき
 昨晩「原発を考えるあわら市民の会」代表から、「今度の講演会についての詳細をブログに書いてほしい」との依頼をうけたので、以下列挙します。

 原発問題講演会「どうなっている汚染水の問題 どうしたらいいのか」 
       講師 児玉一八氏

 東京電力福島第1原発で、汚染水が増え続け、廃炉作業の大きな「壁」になっています。
 安倍首相は昨年9月、東京オリンピックの招致演説で「汚染水は完全にコントロールされている」と胸を張りましたが、とんでもありません。国際原子力機関〔IAEA〕も「最大の課題」と指摘する事態で、事故は収束していません。
 原子力建屋に流れ込む前の地下水の海への放出も迫っています。
 福島第1原発の1~3号機では、溶けた燃料を冷却するために原子炉に水を注入し続けています。その水が燃料に触れた後、、放射性物質に汚染され原子炉建屋地下などに溜まっているのです。
 この水は循環させて再び冷却に使用するので、これだけで冷却水は増えませんが、問題は建屋地下に1日約400トンの地下水が流入しており、このため汚染水が増え続けているのです。
 汚染水対策が重要なのは、廃炉作業の鍵を握っているからです。溶融燃料の状態を把握するには、原子炉建屋内に溜まる汚染水を取り除かなくてはなりません。 
 現状はどうなっているのか、これからどうしたらいいのか、語っていただきます。
 ぜひ、お誘い合わせの上、ご参加ください。
●2月8日〔土〕PM2:00~ 
●IKOSSA〔金津図書館〕3階ホール あわら市春宮2-14-1 TEL73-1065 
●参加費500円
 主催 原発を考えるあわら市民の会 連絡先:中野090-3292-9029


2014/02/04 (火) 寒い寒い

 「わちらの会」を復活再開させたいという思いが強くなっている。
 この会は音楽や寸劇の廉価プロを旧金津町に呼んでお寺の本堂などでパフォーマンスしてもらうもので、入場料1000エンで観客を100人集めれば赤字にならなくて済んだ。
 十数年前の第一回目は特別企画で、「三国未来館」へゲール・ラジョーイを呼んでの「スノーフレーク」だった。この時は500人ほど集まったが、そのほかポルトガルから来た人形使い、九州から来た筑前琵琶師、メキシコで活躍する無言劇の人などが特に印象に残っていて、舞台終了後に開いたその人を囲んでの飲食的座談会も又楽しかった。

 幾星霜でいつのまにか途絶えてしまったが、当時のなつかしさはつのるばかりだ。昨日も、あわら市庁舎で某氏に呼び止められ、「君たちの「わちらの会」の活動は楽しくって素晴らしかった。是非継続すべきや」と、押し出しをくらってしまった。議員時代の手かせ足かせから開放され自由度のあがったことがこういう気分を増幅させているのだろう。加えて当時の仲間たちとの再会への希望もある。
 

2014/02/03 (月) 裃

節分豆まきということで、裃姿の私。生まれてはじめての経験だ。


700年間続いた武家政権下での大名たちの正装姿が裃。私は、江戸城・松の廊下で浅野内匠頭に切りかかられる吉良上野介になったような気分だ。

2014/02/02 (日) 屋根雪について

 本格的な降雪の無いままに一月は終わった。これから先の降雪が根雪になることはまず無いだろう。
暖冬化は確実に進んでいる。

 私はこれまでに数百の鉄骨造・鉄筋コンクリート造建物の構造計算をこなしてきた。
福井県の場合、海べりと山間の地域を除けば、屋根の積雪高は2.0m/㎡と設定されている。2.0m/㎡は300×2・0=600kg/㎡に換算される。これだけの負荷荷重が年がら年中屋根にのっかかっているという想定は、今や過剰設計だ。条例の見直しが必要なのではないかと思う。
「声の広場」の「もうじきおばあちゃん」さんへ。
 「・・ ところで、お願いですがこのお話をどこかでしていただけないでしょうか。文面で表せなかった出来事や、言葉による取材内容を是非聞きたいとおもいます。牧田さんにもご協力をお願いしてはどうでしょうか。私は、友達を誘い必ず聞きに行きますおねがいします。」という御要請についてですが、とんぼさんの 周囲で既に上がっています。
春先には、是非とも実現しなければならないと思います。

2014/02/01 (土) もう週末か

昨晩も、よく飲んでよく食べてよくしゃべって、みんな〔5人の男女〕が帰ったとき、柱時計は午前2時を過ぎていた。


目が覚めてからみんなが持ち寄ってきた飲食物を眺めている。
①極上のブリ大根大鍋
①極上の刺身大皿
①本格焼酎「勝り」
①熊本産本格焼酎
①フランスワイン「PRINCE DE BAO」
①缶ビール「プレミアム モルツ」

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