2014年06月

2014/06/30 (月) プリズンの満月

↓オープンカフェのガラス水槽内の金魚とニッポンザリガニを広い水槽に移し替えた。

↓私はニッポンザリガニをてっきりエビだと思っていたのだが、数日前に来訪した有識者(男性・推定年齢68歳)から「これはニッポンザリガニや」と指摘された。

 獰猛なアメリカザリガニならば金魚を食ってしまうところだが、ニッポンザリガニは優しく、金魚と見事に共生している。

 それはともかく
 吉村昭著「プリズンの満月」を読み終えた。題名から推察される通り、プリズンは巣鴨プリズンのことで、ここに収容された戦犯と彼らを監視する刑務官双方の胸中に絶望希望が互いに想起する。

・・・GHQはその年の十月三十日、巣鴨にある東京拘置所に対し四十八時間以内に立退くよう命じて接収し、それを巣鴨プリズンと改称して戦犯容疑者を移監した。
 容疑者の逮捕がつづき、それらはA級、B級、C級に分別された。A級は平和に対する罪として戦争の計画、準備開始または実行、もしくは右諸行為のいずれかを達成するための共通の計画、または共同謀議への参加にかかわった者。B級は通例の戦争犯罪、C級は人道に対する罪とされた。この逮捕と拘禁は、日本が無条件降伏によって受諾したポツダム宣言の第十条「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加へらるべし」という条項にもとづくものであった。
 A級の戦犯容疑者二十八名は、市ヶ谷の旧陸軍省内にもうけられた極東国際軍事裁判所に起訴され、審理の結果、昭和二十三年十一月十二日に七名に絞首刑、十六名に終身刑、二名に有期刑の判決を言い渡し、十二月二十三日に七名を処刑した。その間、B、C級戦犯は、横浜軍事法廷で裁判を受け、多くの者が絞首刑に処せられた。
 巣鴨プリズンには、死刑、終身刑、有期刑の判決を受けた者たちが収容され、武装した米軍将校が厳重な警備にあたっていた。むろん鶴岡も、巣鴨プリズンに多くの戦犯たちが拘禁され、絞首による処刑もおこなわれていることを、新聞報道によって知っていた。しかし、プリズンは米軍の占領政策によって管理され、収容されているのは日本人だが、所長以下監視にあたっているのは米軍の将兵で、日本の刑務所、拘置所とは全く無縁のアメリカの施設であった。
 そのようなプリズンに、なぜ、自分が勤務を命じられたのか。
 「朝鮮戦争で情勢が変化し、日本の刑務官が必要になったのだそうだ」
 所長は、鶴岡の懸念にこたえるように、管区長からの説明を口にした。
 朝鮮は、第二次大戦後、北緯三十八度線を境にソ連、アメリカのそれぞれ支援をうけた北朝鮮と韓国に二分され、国境紛争が続発していた。が、二か月前の六月二十五日午前四時頃、突然国境全域にわたって大規模な戦闘行動が起った。北朝鮮の軍事力は、ソ連の積極的な軍事指導と武器援助で韓国のそれをはるかに上廻っていて、北朝鮮軍はたちまち国境を突破して南進し、三日目には早くも首都ソウルを占領、韓国軍は総崩れとなった。
 アメリカはただちに国際連合に北朝鮮の軍事行動を非難する提議をおこない、それに賛成した加盟国の大半が、北朝鮮の武力攻撃撃退、韓国援助の決議案を採択した。これにもとづいてアメリカ大統領トルーマンは、陸海空軍に出撃命令を発し、七月一日にアメリカ陸軍部隊が釜山に上陸、国際連合はアメリカに国連軍指揮を依頼し、マッカーサー元帥が最高司令官となって司令部を東京に設置した。

2014/06/29 (日) 宴を考える

 硬派に転向してちょうど一年目となった一昨晩の四人飲み会は、私のかたくなな心を溶かしてくれる意義深いものとなった。

 理由その①
 二人の女性のたたずまいが優雅であったということ。フェミニストの私はどんな女性でも女性であるという一点で好きなのだが、優雅な女性に対しては特別に敬愛の念を抱いている。なんというか、彼女たちの声が琴の()のように聞こえ、傍らの私に至福の時間が訪れたのである。

 理由その②
 つまみが柔らかくおいしかったこと。入れ歯人間の私はすでに固いものが苦手だ。無理に口に入れると入れ歯と歯茎のあいだにカスがたまってしまう。そういう私に配慮してくれた結果としてのつまみ選定だったのである。

 理由その③
 テーブルの上の酒の種類が豊富だったこと。缶ビール、清酒、どぶろくエトセトラだった。酒を味わうことに対して入れ歯であることの影響はないのである。
 それはとともかく
 吉村昭著「プリズンの満月」が読了間近となった。


2014/06/28 (土)(うたげ)のあと

 昨晩の事務所は久しぶりに飲み会(男性二人+女性二人) の場となった。

2014/06/27 (金) あなたがいる場所

 沢木耕太郎 著「あなたがいる場所」読了。
 ロバート・キャパを追いかけている彼が、このようなアンソロジーを上梓していることは全然知らなかった。
 この本は九つのショートストーリー(銃を撃つ・迷子・虹の髪・ピアノのある場所・天使のおやつ・音符・白い鳩・自分の神様・クリスマスプレゼント)で成り立っている。そのなかの「天使のおやつ」を読んでいた時に涙が出て止まらなくなってしまった。涙が乾いた時、生きているのも悪くはないなと思った。

・・四十九日が過ぎ納骨も済ませた。妻はもうしばらく遺骨を手元に置いておきたいと主張したが、不意に悲しみが押し寄せ息もできなくなるとというようなことは起きなくなってきた。
 一月末の土曜日、木村はターミナル駅にあるデパートに香典返しの追加の名簿を届けにいった。同じ会社の社員には香典返しをしないという決まりがあったが、やはりかなりの額を包んでくれた何人かにはきちんとお返しをしておきたいと妻が言いだしたのだ。品物はすでに直接見て確かめてある。だから、名簿を送るのはファックスでもよかったが、すぐ近くの大型電機店でパソコンの付属品を買うついでがあり、車で出かけた。
 用事をすべて済ませ、家に向かっているときのことだった。→このあたりから、物語は急展開する。

2014/06/26 (木) 7月が近づいてきた

 一筆啓上賞・「忘れない。」をめくっていて、おもしろかったもののひとつが
「父ちゃんへ」
停電の夜、俺は大丈夫だ。
毎日が停電だからと
何事も明るく愉快な全盲の父をわすれない
 で、思い出したのが丸谷才一のエッセイ。

・・夏目漱石が東大で英文学の講義をしていた時、羽織袴姿で受講する一人の学生がいた。その学生は左手を羽織の袂から出していない。それに気付いた漱石が、「キミ、その恰好は真面目に受講する態度ではない。左手をちゃんと出しなさい」と叱責した途端、学生は真っ赤になった顔を隠すようにうつむいた。
 しばらくして臨席の学生が「先生、この人は左手が無いんです」と、言う。重ぐるしい沈黙が流れ始めた時、漱石はこう言った。
 「私はないアタマをしぼって講義をしているのです。キミも無い左手を出して受講しなさい」
 途端に和らいだ空気が教室に流れた、という。
 それはともかく
 ハーモニカの夕べ
のチケットを買ってくださったみなさんへ。
 昨日、演奏者本人と電話で話をしました。来月7日に病院との縁が切れるそうですので、8日にでも本人と会って、今後の打ち合わせをしてきます。予定が決まり次第、みなさんにご連絡申し上げます。いろいろご迷惑をかけて申し訳ありません。

2014/06/25 (水) 昨日の一日

昨日の午前は、丸岡文化財団へ。一筆啓上賞の仕掛け人として有名な大廻さんと四方山話をしていた。今年の日本一短い手紙・「わすれない。」の本を頂いたが、この賞も今年で21回目だそうだ。


 午後は温泉地区で住宅増築工事の設計打合せ。夕刻に打合せを終え、帰宅してからDVD「ゼロの焦点」を見た。今回が三度目だが飽きない。ぼくが見たなかではベストファイブに入ると思う。

2014/06/24 (火) 無題

巨木のふところ

 

2014/06/23 (月) 新しい週の始まり

 昨晩の突然の来訪客は糸川さんの政策秘書・Yさん。ドライプレミアム缶ビールを携えての登場だ。久しぶりだったので、話ははずんだ。

 明けて、今朝の来訪者は二人。そのうちのお一方が下の本を持ってきた。

 題名は「インダスの流れ」で、著者は高戸甚右ェ門氏。

 著者・発刊に際して
 「私たちは、今恵まれた窮めて便利な生活をしている反面、おもいやりの心がすたれて、「自分さえ良ければいい」という風潮がみなぎっているが、これは人間社会の貧困そのものではないだろうか。戦後日本は立派な製品を安い価格で世界に売り出し、めざましい発展をとげているにもかかわらず、「国民そのものに欠陥がある」と米国ハーバード大学のエズラヴォーゲル教授が指摘された通り、日本的考えがどこでも通用するような錯覚が目立つのではないだろうか。毎年沢山の人が海外旅行すると聞くが、海外へ行くにはパスポートが必要でありこれには外務大臣が相手国に対して行路の安全を依頼する文面がついている。ところが日本人であるとの国家意識を持たず、そのような教育を受けず、国策を無視した言論が横行し外国のジャパンパッシングに同調するなど国益を考えない人々が大手を振って歩いている国から出ていくから冷や汗ものであり、一国の繁栄だけを願うものではなく、世界の平和と繁栄を願い、地球の保全と人類の進歩を考えるとき他国の事情を知り、理解することが大切である。どの民族にも歴史と伝統があり、風俗、習慣、言語が異なるも、それぞれその環境で英知を重ねて生活がなされているのである。
 海外での生活を通して今改めて「豊かさ」とは何なのかと考えさせられるのである。
 二カ年のパキスタンでの生活と歴史の歴史を書きとどめたのは、帰国した昭和三十五年(一九八八)の暮れである。その後、会社に勤務し昭和六三年(一九八八)定年退職しても農業の傍ら公務を持ち多忙のため原稿を死蔵していたが七五才を迎え老人の郷愁から整理をすることにした。
 日進月歩は世の常。すでに四〇年を経て、かってのパキスタンは印パ戦争のあと一九七二年一月東パキスタンはバングラデシュとして分離独立し今日に至っている。パキスタンに於いても首都が「カラチ」から「イスラマバード」に移り、パキスタンも近代国家として繁栄、進歩をしていることであろう。
 一九五九年「チッタゴン(東パ)」からカルカッタに入り領事館で聞いた「ダライラマ亡命」のビッグニュースも昨日のことのように思われ、カルカッタのハウラー駅からブツダガヤ、アグラ、デリー、アムリツアー(インド領)、ラホール(4パキスタン領)への汽車の旅もなつかしい。ボンベイ、マドラス、スリランカのコロンボやベラデニヤ等も、TVで報道を聞く度に現地での思い出が四〇年前にタイムスリップして、脳裏をかすめる昨今である。  平成一二年三月

2014/06/22 (日) 雨の日曜日

 デジタルカメラを紛失して数週間が経った。そのあいだ、携帯で花鳥風月を撮っていたのだが、ぼくのパソコンのなかの受信メールの検索方法がわからないのでいちいち携帯内部のミニデイスクを取り出してリムーバルデイスクドライブにつながなくてはならない。これはいかにも面倒だ。

 そこで、思い切って中古デジタルカメラを購入した。¥四千五百エン(消費税別)。一千百万画素だからほりだしものといえる。・・昨日午後来訪の魅惑女性(推定年齢三十代中半)に我が身を撮ってもらった。

 65年の人生で身に付いたのだろう、メガネの奥の眼に光がある。加えて引き締まったくちもと。とても総入れ歯人間には見えない。
 それはともかく
 東京都議会で塩村都議が浴びた信じられないようなヤジで、浴びせた本人が名乗り出ないあるいは近隣席の都議が名乗り出させないということが、都議会の報酬泥棒的腐敗体質を物語っており、実態として言うならば、勿論都議会にとどまるものではないだろう。
 思い出したのが二週間ほど前、マスコミに載った「被爆者の語り部が<死にぞこない>などと中学生から罵声を浴びた。しかし引率教師は、それをただ黙って見ていただけだった」との記事。とった行為に対する説明責任は当然あるはずだ。思うに、仮に引率教師に説明の意志があったとしても、学校長が校名の発覚を恐れて制止したのかもしれないし、あるいはその上の教育委員会がコントロールの無能を指摘されるのが嫌で圧力をかけたのかもしれない。

 都議会発言といい、被爆者に対する発言といい、社会的ヒエラルキーの上層部に立つ人間を、ただそれだけで信じてはいけないということだ。

2014/06/21 (土) もう週末か

 いろいろ考えさせられることが多かった司馬遼太郎著「韃靼疾風録」を読み終えてから、昔控えたメモを開くと、ぼくは1992年にこの本を読んでいる。信じられないことだ。ぼくの認知症は順調に進んでいるみたいだ。
 
 それはともかく
 ぼくが司馬さんから連想するのは金達寿さん。30年ほど前、「季刊三千里」などで司馬さんとのつながりが深かったこの人が講演のために福井へ来た。その翌日、語り部ガイドの金さんは10人乗りのマイクロバスで今庄宿→気比神宮→白木地区を案内。「日本海側に根付く朝鮮文化」を骨子としてしゃべってくださったが、とにかく圧倒された。「プロの小説家とはこんなにも博覧強記なのか」と、圧倒された。

ウイキペデイアにはこう書かれている。
 「古代史に関する諸著作には『日本の中の朝鮮文化』シリーズや『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫)等がある。これらの著作は彼の小説作品の読者層を超えて影響を与え、司馬遼太郎らの文学者からも一定の理解を得、日本史の教科書で戦後も長年使われてきた用語「帰化人」が「渡来人」に書き換えられる大きな原動力となった。ただ、その主張には多くの日本語を朝鮮語由来と決め付けるなど荒唐無稽な韓国起源説もあり、発表当初から学術的批判にさらされ、井上光貞・関晃・平野邦雄らの日本史学界主流の歴史学者から厳しい反論を受けることになった。創作活動が1982年の『行基の時代』で終わったのに対し、この作業はライフワークとして晩年まで続けられた。」

2014/06/20 (金) 韃靼疾風録を読み終えて

 三千世界海中の泡一切の賢愚電ノ払フガ如シ
 (浮世の現象のすべては泡のごとくまた(いなずま)のようなもので、つかのまに消える) 

・・唐土にあっては、清という(えびす)が興って、華である明といれかわりつつある。この大変動について、唐通事たちは、「華夷変態」という大部の風説書を江戸へ書き送った。江戸においては林大学頭がこの読解と編集にあたり、かつ保管もした。
 これも想像だが、三十五巻におよぶこの風説書の作成にあたって、庄助も他の通事とともに参加したのではあるまいか。
 もし参加したとすれば、いっさいを知っている庄助が、なにも知らぬふりをして、入津(にゅうしん)する唐船の荷主や船長(ふなおさ)から風説の聞きとりをしている情景が浮かぶ。場所は当然、唐通事の会所であった。庄助の無愛想げな顔つきから陽ざしや畳の色まで目にうかぶようである。

 それはべつとして、庄助やアビアはいつ死んだのであろう。
 そのことを詮索する根気は、筆者においてはもはや尽きた。   (完)
 上下巻で1040頁にもなるこの本を読み切るのに疲れはしたが、爽快な気分が残った。
 桂庄助という名の松戸藩藩士が、韃靼から漂流してきたお姫様・アビアを故国に送り返す命をうけるところから始まるこの物語の時代背景は、徳川政権成立時である。
 そして清というが興って、華である明といれかわるという動乱期に庄助が大陸で見たものを一言でいうならば、三千世界海中の泡一切の賢愚電ノ払フガ如シということになるのだろう。
 それはともかく
 今年の夏に、この建物を緑の館にしたい。

2014/06/19 (木) あとがきから

 司馬遼太郎著「韃靼疾風録」  著者あとがきにかえて(昭和六十二年七月)
 ・・中国は漢以後、文明主義(つまり儒教)の国としてやってきた。このため周辺の異民族については、かれらは華(文明)ではない。と、ひとことで尽くされた。以前は辺彊の少数民族の文化をいやしみ、それらの文化を理解しようとはしなかった。(もともと小さな民族というものは、文化という、文明からみれば不合理なものだけで生きてきた。文化こそ小集団が暮らしてゆく上で最善のものと信じてきたのである。)
 文明というものは、それをどの民族にも押しひろげうるというシステムであるらしい。
 文化のようにこみ入ってはいない。また他からみれば理解しがたいほどに神秘的なものではなく、文明は 大きな投網(とあみ)のように大ざっぱなものである。儒教の場合も、服装を正しくして、長幼の序を重んじ両親に孝であればそれでいい。
大ざっぱであればこそ、諸文化の上を越えてひろびろとゆきわたることができ、そういう普遍的な機能をもって文明というのである。それだけのもので、それ以上のものではない。
 ところが、文明が爛熟すれば文明ボケして、人間が単純になってしまうらしい。文明人というのは<文明>という目の粗い大きな物差しをいつも持っていて、他民族の文化を計ろうとする。くりかえしいうが、文化は必ず特異で他に及ぼせば不合理なものであり、普遍性はない。ないからこそ、文化なのである。それを文明の尺度で測ろうとするのは、体重計で身長を計ろうとするのに似ている。

 そういう意味で、歴史上の多くの<文明人>は、爛熟期にはみずからの文明に恍惚とし、それを絶対化し、他の文化に接するとき、それが卑しく、きたなく、おろかで、おぞましく見えてきた。近代以前の中国人や朝鮮人が、辺彊の<夷狄>をみる態度は、ほぼそういうものであった。

 中国のながい歴史で、知識人にして少数民族の文化に対してあふれるような心を持ったのは東晋(とうしん)の田園詩人陶淵明(とうえんめい)(三六五?~四二七)ぐらいのものだったのではないか。
 かれの「桃花源記」によると、武陵の漁人が(たに)に沿ってさかのぼるところからはじまり、やがて一仙境にいたったというのである。
 そこの男女は衣着あまねく外人の如し、とあり、また良田美池が桑畑や竹林とともにそなわっていたというから稲作をする少数民族であったらしい。

 ほかに北宋の官吏で、宋代きっての詩人だった蘇東坡(そとうば)(一〇三六~一一〇一)も、晩年、異民族の境域ですごした経験を持った。場所は黐族やミャオ族の居住地である海南島だったし、かれの場合、自発的に行ったのではなく、そこに流された。

2014/06/18 (水) 夏の夜は 

夏の夜は まだ宵ながら明けぬるを 雲のいずこに 月宿るらむ  清原深養父

夏至が近づいています。起床時刻が午前二時の私は、宵のうちに何度かオープンカフェに出て月を眺めるのですが、最近は確かに「まだ宵ながら明けぬるを」です。この時刻に起きていて、小鳥の鳴き声を聞いたり新聞配達の車の音を聞いたり白山山麓からのまばゆい陽射しを浴びている時が、私にとっての至福の時間帯と言えそうです。
 それはともかく
 本日のMLB試合田中先発のトロントブルージェイズvsニューヨークヤンキースの実況中継アナウンサーが刈屋さんなので懐かしかった。30年ほど前にNHK福井支局の録音スタジオへ行った時に対応してくれたのが刈屋さんで、その後何年かして大相撲中継を長いあいだ務めていた。そして今度は大リーグ中継だ。当然のことながら相撲界にも野球界にも精通していなければならない。そのための勉強が大変だろう。ま、大変ではない仕事なんて無いのだけど・・。

2014/06/17 (火) 無題

 多賀谷左近三経の菩提寺・専教寺の境内に、
 
 坂村真民の「念ずれば花ひらく」の言葉を刻んだ石碑があって 見るたびに 歳をとるに連れて宗教的になってきている自分を感じます。

念ずれば花ひらく
念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった  坂村真民


 それはともかく
 仕事に疲れた私は、きょうの午後に、宮谷石切場跡 (写っている人物が私)を探検してきました。今回が五回目で、下の写真は同行女性が写したものですが、彼女は既に高齢者なので、このブログをご覧の女性のみなさんは、嫉妬を感じる必要がないと思います。


2014/06/16 (月) 朝顔水遣りを終えて
 

 司馬遼太郎著「韃靼(だったん)疾風録・下巻」より
 ・・ここでさらに余談に入る。
 庄助のこの時期より数年あとに、日本人が十五人もこの藩陽城(当時、盛京とも。さらにのちには奉天ともいう)に、女真役人に介護されつつやってくるのである。
 かれらは越前三国湊(みくにみなと)の船頭・水主(かこ)たちであった。寛永二十一年(1644)四月一日、三艘の船に乗ったかれらが松前(北海道)へゆくべく出帆し、途中、大風にあって漂流し六月十五日ごろ、琿春(こんしゅん)(現・ソ連領ポシェット湾)に漂着した。同地は当時、野人女真といわれた女真族の一派の居住区だった。かれらは、ほとんど農業をせず、狩猟と漁業で生きている部族だった。漁業をもたぬぶんだけ、朝鮮人や中央部の女真族からみて、未開とされていた。三艘の乗組員五十八人は上陸したが、上陸後、野人女真の詭計にかかって大半が殺され、十五人だけが生き残った。みな俘虜にされた。
 この不祥事を女真役人が知り、野人女真の集落からかれらを救いだした。役人はこの十五人を藩陽に護送し、清の宮廷はこれをよく待遇した。のち十五人は朝鮮を経て日本に送還され、諸役人のとりしらべをうけたあと、故郷の越前にもどることになる。かれらが江戸で陳述した内容は「韃靼漂流記」と名づけられて、多くのひとびとに筆写され、江戸後期、流布した。・・ということで、早速金津図書館へ行き、「韃靼漂流記」を借りてきました。
 それはともかく
 朝の陽ざしが強いので朝顔にたっぷりと水を遣った時に思い出したのが


 朝顔に つるべ取られて もらい水 加賀千代女 で

 千代女といえば
 起きてみつ 寝てみつ蚊帳の 広さかな で
 この句が江戸で評判になった時に流行った江戸川柳が
 お千代さん 蚊帳が広けりゃ 入ろうか で
 ぼくはこの川柳が一番好きです。

 〇〇〇さん 蚊帳が広けりゃ 入ろうか

2014/06/15 (日) 昨日の一日
 
 昨日の午前9時に、畝畦千坊跡視察のために、「ふるさと語ろう会」会員十数名が中央公民館駐車場に集合。
 私は、「夜半に雨がふっていたので、いけるかどうか心配でしたが、朝には青空が戻ってきてよかったです。これもひとえに会長(まきた)の日頃の心がけが良いせいだと思います」と、挨拶を簡単に終えて出発。

 観音堂では坊守の中西さんが待ってくださっていた。

 説明役のYさんは燃えてしゃべった。まさにアジテーターだった。
 午後は、里帰りしてきた妹と一緒に北潟菖蒲園へ。

 でも、暑かったせいか、広大な菖蒲群はしおれていて、人間で言うなら後期高齢者群に見えた。
 それはともかく
 現在、トンボさんが「柿原越前郷 多賀谷一族の滅亡」を連載しています。バカな私はこのような史実を全然知りませんでした。みなさん、特に歴女(れきじょ)のみなさん、是非お読みください。

2014/06/14 (土) 昨日の一日
 昨日の午前10時、Sさんが20株ほどの朝顔の苗を持ってきた。「謝謝(しぇーしぇー)」と言って受け取ったぼくは午後一番で伊井工業団地のTくんのところへおすそわけと称して数株を持って行き、その帰りに時間が余ったのであわら市役所の本会議場へ寄った。6月議会一般質問が開かれていたためである。

入って行った時、ちょうどY議員が「市庁舎内は全面禁煙になっているが、愛煙家と嫌煙射家のすみわけを考慮すべきではないか」と質問をしていた。
 あわら市の煙草による税収は2億円近くあり、現にぼくも税収の一翼を「わかば」愛吸によって担っている。だからY議員の言うことはよくわかる。
 けれども、庁舎三階の議員控室横には喫煙室が存在する。つまり議員だけは庁内喫煙が許されているということであり、ぼくも議員でいる間はこの部屋をおおいに利用した。しかし、議員を辞めた現在、議員だけが許されるのはおかしいのではないか、と思う。ようするにぼくなんかがその典型だが、人間というものは、立場が変われば思いも変わる身勝手な存在ということだ。

2014/06/13 (金) きょうはあわら市議会一般質問
 城山三郎著「指揮官たちの特攻」から

 ・・そして、最後のものと思われる関からの手紙も紹介されていた。
 <〇〇空に着任したが、また転勤で戦地へ行く、あまり慌しいので、面喰ってゐる、服類も靴なにもいらぬ。永い間待望の戦地だ、思ふ存分頑張る覚悟だ、時局はいよいよ最終段階に入り、戦局はますます逼迫して来た、お前も自重自愛して働くやう、国の母にもよろしく>
 特攻の話が出る前と思われるのに、まるで遺書同然の手紙であった。
 サカエはそれらの新聞に幾度か目を通しはしたものの、感想などなど漏らすことはなかった。
 そして、栄光の嵐いうか大波が退いた後も、有縁無縁の人々が思い出したように訪れ、どこかへ招かれたり、呼ばれたりも。・・
 どうでもいいことだが
 「こんど入って来る二人乗りクルマの助手席に座る最初の女性は貴女(あいするひと)だよ」と何人かの女性に宣言したのだが、全く当てが外れ、最初に座った女性は後期高齢者だった。世の中ままならない。

14/06/12 (木) 阪神正念場

 昨晩は6時に仕事を終え、下腹にできた火傷を絆創膏で丁寧に治療したあと、「野菜揚げ」を左手に「白ワイン」を右手にテレビの前に座った。 
 選択したチャンネルは勿論「プロ野球・ロッテvs阪神」。しかし阪神の投手・藤浪が三回に突然崩れた。四球と安打でたちまち四点を失って負けた。これで阪神の貯金は1にまで減ってしまった。

 見ていて思ったのだが
 ボールの質は一級品でも、コーナーをつく大胆さがない。高校を卒業して二年目で、相手打者がみな目上なので仕方ないのかなあ。ここ数年のうちには江夏をしのぐつまり球界を代表するピッチャーになるんだろうが、その時には草葉の陰から拍手を送りたい。
 ぼくの手元に江夏語録がある。彼がノーヒットノーランを達成し、なおかつ彼のサヨナラホームランで阪神が勝利したあとの記者会見談話だ。
 「野球は一人でやるものだということがよおおくわかったぜ」というそのせりふは確かに傲岸不遜なんだけれども、卓越した投球術の持ち主だからこそだせるせりふだと思う。
 ということはともかく
 替えた車が入ってきた。今度は二人乗り用の車だが、メーカーに無頓着のぼくには、フランス製なのかドイツ製なのかそこのところはちょっとわからない。嬉しいのはクラッチ仕様の車であることで、考えてみれば、ぼくの車人生でノークラッチの期間はわずかだった。むかしに戻ったみたいで嬉しいのである。

2014/06/11 (水) ELV

 
 きょうの朝はJR芦原温泉駅でのビラまきに参加した。高架となっているこの駅で駅前と駅裏を往復するには、階段の昇り降りをしなければならない。

 
当然のことながら、(ぼくを含めて)四肢の萎えた人にとってこれはきつい。現に、足に障害をもっている人が喘ぎながら階段を昇っていった。

 二年ほど前の議員時代に、本会議一般質問でこの問題をとりあげたことがあったが、はやくエレベーターを設置すべきだ。 あの長い階段の昇り降りは高齢者にとってきついのである。
 高齢者といえば
 硬派に転じたぼくは妙齢の女性への興味を失い、人生の辛酸をなめた高齢者の話を聞くのだけが日々の楽しみとなっている。
 ところが、先日電話で話を依頼した高齢者(ふたりでともに90歳前後)は、入院中だった。快癒を祈るばかりだが、仮に快癒できなくてもやすらかな最後であってほしいと思う。
 

 ここにメモがある。
 「こんだけながいこと生きてきたけど、一日たりとも飛ばした日はなかった」
 これはぼくの友人の祖母のこの世での最後の言葉で、当たり前といえば当たり前なんだけど、心にしみるものがあります。


2014/06/10 (火) ちょっと思ったこと

 君が機影 ひたとわが上にさしたれば
        息もつまりて たちつくしたり  川口汐子

 どこでこの歌をいつ覚えたのかは忘れたが、戦争を考える時いつも浮かんでくるのがこの歌で、思うに、愛する(ひと)が飛行機乗りとして戦地に向かうその機影を、あらかじめ聞いていた飛行ルートの下で見上げた時の気持ちを、素朴に歌っている。
 「(つい)の別れ」を半ば覚悟したからこそ汐子さんの息はつまったんだろうし、たちつくしたんだろう。
 恋歌というものは、別れとか死を予感させるものほど美しいと思う。
 戦後生まれのぼくには、戦時下の雰囲気を、じいさんばあさんから聞くか本で読むかで感じるしかない。戦後世代の我々は、声高(こわだか)にでもヒソヒソにでも、銃後の戦争体験を老人から聞いていくべきだと思う。
 語りといえば
 きのうのニュースで、「被爆者の語り部が中学生から罵声を浴びた」との報道があった。
 「死にぞこない!」などと言われて、語り部おじさんはさぞや悲しかっただろう。むなしかっただろう。
 ぼくにわからないのは、引率の教師がただ黙って見ていただけだったということだ。何故、生徒を拳骨ではりたおさなかったのだろう。何故足蹴りにしなかったのだろう。そして、何故、学校側はおじさんからの抗議をうけるまで伏せて黙っていたのだろう。

 こういう教師に教えられている子どもは不幸である。いや、反面教師として子どもたちに臨もうとしているのかもしれないが・・。

2014/06/09 (月) 新しい週の始まり

昨晩から司馬遼太郎の「韃靼疾風録(だったんしっぷうろく)」を読み始めた。司馬が亡くなったのは、ぼくが47歳の時で、それまで彼の本を結構こまめに読んでいたのだが、亡くなってからはなんとなく読まなくなって、実に18年ぶりの再会だ。

 「竜馬がゆく」でも「坂の上の雲」でも司馬の描く登場人物はみんな明るくって、ほのぼの気分になった。当時は自分も単純なうわつき人間だったからそういう本を楽しく読めたのだろう。けれどあれから幾星霜で年輪を重ねたぼくは影のある暗い人間へと変わった。変わったぼくが再度彼の本を読んでどういう感想をもてるのか、ちょっとたのしみだ。

浅田次郎の「蒼穹」で初めて韃靼という言葉を知ったのだが、あとがきで作者は「題にこれを持ってきたのは、日本において江戸時代はこう呼んでいたからであり、越前の人が松前(北海道)に向かう途中、難船して韃靼(女真)の地に漂着し、清朝に手厚く保護されたことがあり、その時の見聞を著したのが「韃靼物語」または、「異国物語」とも「韃靼漂流記」とも言う」と書いていて、そういやあ三国湊の人から漂流の話を聞いたことがある。

2014/06/08 (日) 回顧

 昨晩は生涯学習館で平野治和さんの講演



 9時半に帰宅し、オープンカフェで芋焼酎を飲みながら、講演会を回顧した。

 ・・・・・・・・・
 6時に会場へ行った。みんなは椅子・机運びなど会場設営に懸命だが、四肢にマヒが残り紙より重いものを持てないひ弱な私は、受付係りの椅子に座っているだけだった。
 左肩の痛みを抑えるために三角筋のいでたちで座っていたのだが、来訪者は「まきちゃん、骨折したんか?」と、口々に言う。私は「いや、骨折ではないけどまあいろいろありまして」と普通に答えたのだが、一つわかったことがある。

 女性の来訪者に対しては、聞こえるか聞こえないかのか細い声で物憂げにそう答えると、相手は途端に眉を曇らし、「はやくよくなってくださいね」と、私を慰めてくださるのである。

2014/06/07 (土) ナンテンについて

 きょうは午前3時に目が覚めた。
 いつもより二時間も遅い寝覚めで、これは昨日の忙しさに因る疲れが原因と思われる。

 昨日は、朝6時から夕刻5時まで出ずっぱりで、いくつかの場所で打ち合わせをこなしていた。そのあいだにも携帯コールがかかってきて、「もうセミリタイア人間なのだから、携帯を手放し自転車族になろうか」と思っていたが、やっぱりそれは無理みたいだ。

 隣家のナンテンを見ているうち、十数年前のエピソードを思い出した。

 私は建築家の友人数名とともに、岐阜県の文化財建物(大名屋敷)を訪れていた。便所脇の手水鉢の横のナンテンの赤い実を眺めていた時、どこからともなく語り部おじさんが現れてきて、私たちにこう言った。

「大名の正妻は奥さまと呼ばれていました。そして大変に慎み深かったのです。庶民からみて雲の上の人でも夜の交合はあります。ご存じのように女性には生理というやっかいなものがあって、庶民ならば、「あんた、今晩のあたしは生理やからあかんよ」と言えば済みますが、大名家の場合、言葉での伝達はしません。はしたないからです。だから、ナンテンの赤い実を手水鉢に浮かべてのコミュニケーションとなります。赤い実が多ければ多いほど、生理の真っ最中という意味になるわけで、大名の奥様は慎み深かったというわけです」
 むかし読んだ鬼門関係の本に「ナンテンの語源について・・便所を鬼門の方向(東北東)につくってはならない。どうしてもつくらざるを得ない場合は手水鉢の横にナンテンを植える。なぜならばナン(難)をテンじる(転じる)からだ」と書いてあった。
多分他の語源説もあるだろうし、いろいろ虚実ないまぜの説があるほうが、面白いと思う。


城山三郎著「指揮官たちの特攻」から

 ・・「よくまあ倒れずに座っている、という印象でした」と、サカエの親戚筋にあたる大西伝一朗はいまなお思い出す。
ラジオや新聞が戦果をくり返し、二階級特進した関中佐を「軍神」と賛えたおかげで、我が子の死で
なくなってしまった。
サカエは一人っ子の死の悲しみに沈むよりも、「軍神の母」として振舞わねばならなくなった。それは女性の嗜みとして、僅かに着物の襟に爪楊枝をはさんでおくといった暮らしをしてきたサカエにとっては気の遠くなりそうな日々であった。
各紙はまた、サカエ自身の言葉を含めて関大佐の生前のエピソードを伝えていた。
 <模型飛行機が大好きな子で、その頃から兵隊になるんだと口ぐせ」にいってゐました。一人息子ながら食物の好き嫌いをいったことは一度もありません>・・

2014/06/05 (木) 昨晩は久しぶりに熟睡
 

 車が壊れてしまって、悩んだ。
「飯は食えればいい、酒は飲めればいい、車は走ればいい」が私の生きるモットーだったが、この一年にあいだに自分の交友範囲がどんどん狭まり、あわら市から外へ出ることも殆んどなくなった私に車はもう不必要なのではないかと。
 

 車族から原付自転車族に変わろうか、と思った。 しかし「へなへな足での原付自転車はあぶない」と、妻から反対され廉価中古自動車へ乗り換えることにした。この世で最後の車になると思うので、メンテナンスを怠らずに乗っていきたいと思う。
 城山三郎著「指揮官たちの特攻」から

 ・・そして、どこをどう歩いて来たか、全くおぼえのないまま、家にたどり着き、へたへたと畳に座りこんだ。
 やがて、次から次へと人が訪ねてきた。
 隣り近所の人、知り合い、親戚、そして、見も知らぬ人たち。
 町の内外から、いや全国各地から、次々と弔問客や団体が訪ねてくる。
 手紙や弔電はもちろん、供花や線香や香典などが、小さな家に溢れ返り、客はもちろん、サカエ自身の身の置き場さえない。
 当時はまだテレビもなく、ラジオも日本放送協会というので、まだしもよかったが、さもなければ、三日と経たぬうちに、サカエは寝こんでしまうところであった。
 そして、慰められても、サカエの反応はただ一つ、放心したまま頭を下げ、さらに放心していく。

2014/06/05 (木) 朝からしとしと雨
 

 城山三郎著「指揮官たちの特攻」
・・昭和19年10月20日朝、出撃待ちの特攻隊員たちへの大西中将の訓示は、心をこめたものであった。「日本はまさに危機である。しかも、この危機を救いうるものは、大臣でも、大将でも、軍司令総長でもない。もちろん自分のような長官でもない。それは諸子のごとき純真にして気力に満ちた若い人々のみである。したがって、自分は一億国民に代わって、みなにお願いする。どうか成功を祈る」
命令するというより、頼む、お願いするという形で話しはじめ、「みなはすでに神である。神であるから欲望はないであろう。もしあるとすれば、それは自分の体当たりが無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。しかしみなはながい眠りにつくのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見とどけて、かならず上聞に達するようにするから、安心して行ってくれ」と結び、も一度、「しっかり頼む」とくり返した。・・

・・「天地がひっくり返る」という言葉がある。
 愛媛県西条で一人暮らしをする関行男大尉の母、46歳のサカエを見舞った運命がまさにそれであった。
 もっとも、それから1年余りで、サカエはもう一度、天地のひっくり返る手痛い思いをさせられることになるのだが。当時、 サカエの唯一つの楽しみは、映画を見に行くことであった。
 そして、唯一の生甲斐であった息子行男の死を報されたのが、その映画館の中であった。
 親類の小野勇太郎が駆けつけてきて、「いま、ラジオの臨時ニュースで、神風特攻隊が・・」その神風特攻隊が何なのか、どんなに晴れがましい死なのかなど関係なくサカエの耳に残ったのは、かけがえのない息子が戦死してしまった、という一事であった。
 サカエはよろめくように映画館を出た。

2014/06/04 (水) タイガース無惨
 
 6月に入って三頭の牛が坂ノ下区へやってきた。雑草を食べにやってきた。

 牛さん(ぎゅうさん・・そういえば私は金津小6年から金津中3年まで、女生徒たちから、ぎゅうさんと呼ばれていた。高村光太郎の詩「牛」に由来するものと思われる)、ことしもよろしく。

 城山三郎著「指揮官たちの特攻」を読むと、真珠湾攻撃が「経済力では桁外れに大きなアメリカが、情報戦も含め、準備万端待ち受けているところへ、日本側はほとんど素手も同然で飛び込んで行った行為」と見ることもできる。

 ハワイ攻撃直前の昭和16年11月15日、海軍兵学校を卒業した432名の中に、関行男と中都留達雄という若者が居た。このノンフィクションの主人公だ。
関と中都留は同年輩。同じような環境で育ち同じく指揮官となるのだが、性格は好対照。関が豪放磊落ややもすると尊大であるのに対して、中都留は沈着冷静。部下にやさしく、大西中将が発案したとされる特攻計画に批判的だった。しかし軍人にとって上司の命令は絶対で、二人とも特攻機で海の藻屑となる。
 ともに両親は教職への道を勧めたのだが、それを断固拒否し、兵学校への道を選んだ。
 昭和19年に入ってふたりとも結婚し子をもうける。死を宿命づけられていながら結婚したのでは、遺族の悲しみを増やすのではないかと、私などはおもうのだが、当時の社会は家中心で、家系存続が一番大切だったのである。
 霞が関で教官生活を続ける関は、教官であること自体に不満で、はやく前線に出て、航空兵として手柄をあげたいと思っていた。
 そして、台南航空隊で予科練出身の下士官・兵を対象に、後に「桜花(おうか)と呼ばれる開発中の人間ロケット弾の乗員募集が行われるに当たって、「ぜひ私にやらせてください」と応募したのである。
    ☆ちょっと休憩

 ついにひだり腕包帯吊り人間となってしまった。

 まあしかしこれも順調に老化している結果と思うしかない。

22014/06/03 (火) さあ きょうも頑張ろう

 入梅もまだなのに急に夏がきたような暑さで、昨晩の会議時には、今年初めてエアコンのスイッチを点けた。

 この季節に頭をよぎる百人一首が
 春過ぎて 夏来にけらし白妙の 衣干すてふ 天の香具山 (持統天皇)
 
 むかし新聞の短歌欄にこの歌がとりあげられ、「万葉集の原歌では衣干すてふではなくて衣干したりだった」という意味のことを読んだことがある。つまり持統天皇が眼前の景色を詠んだこの歌が、定家によって伝聞の歌にデフォルメされたということだが、確かにそうした方が、古(いにしえ)を偲ぶという浪漫チックな感情を味わうことができるのではないか。

 古(いにしえ)を偲ぶで思い出したのが下の写真。


 木綿のノレンを引き裂き、輪にしたもので首と左腕を連結させる。そうすれば腕の痛みが和らぐのである。
 かってぼくは「黄金の左腕を持つ男」と呼ばれた。
 美しい女性たちの肩に左の腕をまわし、女性たちのココロを溶かしたという意味での「黄金の左腕」なのだが、今のぼくにとっては古(いにしえ)を偲ぶ対象でしかない。しかし、偲んでいる時にシアワセを感じるのだから、シアワセに客観的な基準はないと思う。
 要は、そう感じるか感じないかだ。

2014/06/02 (月) 又新しい週が始まった

 この週末は、土曜日の夜に生涯学習館へ出向いたことを除いて一歩も外へ出ず家族以外誰とも話をせず、ひたすらCADに励み読書に励みMLBテレビ観戦に励んだ二日間だった。

 その合間での休憩の折にBS放送で見た「第一次世界大戦の記録」に登場したオランダ人の、「大戦で私は息子を失った。歳月の経過で心の傷が癒されるものではない。いや、癒されてはいけないと思うのです」という言葉が印象的だった。

 そして又ひとつぼくの記憶袋の引き出しに下の言葉が加わった。

 「今宵また 追憶の旅や 夢枕」  喜祐
 話は変わって、年金生活者に贅沢は許されない。
 ということで、愛用煙草を「ラーク」から「若葉」に変えた。ラーク・420エンー若葉・260エン=160エンで大幅な金銭節約となる。加えて「若葉」はまずい。まずいから吸う本数が減ったのだ。
 
 いつの日にかの禁煙につながるのだから、正しい戦略といえる。
 ということを妻に話したら、おおいに褒められた。
 それはともかく
 このところ僕は老人とばかり会っている。老人の定義はいろいろあって、65歳のぼくも一応その範疇に入る。しかしぼくが定義する老人とは現時点でおおむね80歳なかば以降。つまり太平洋戦争終結時に思春期を迎えた世代以上で、もうすぐ死んでいく人たちだ。彼等の価値観とぼくら団塊の世代の価値観との落差にいつも驚く。

2014/06/01 (日) 6月初日

 昨晩は6時から7時半までの一時間半、生涯学習館夜間玄関口に立っていた。ハーモニカコンサートが延期になり、チケットを購入していただいた方全員にその旨を連絡したのだけれども、もしかしてチケットを購入していない方が来るかもしれない、と思ったからだ。現に4人の方が来たので、「カクカクシカジカでご迷惑をかけてすみませんでした」と、予め考えていた口上を述べてお引き取りいただき、それはそれでよかったのだが、困ったことがひとつあった。 

 夜間玄関口は薄暗く、通りを歩く人たちにとって死角に位置する。そこに高校生のアベックがいて見つめ合いながら楽しく話している。ぼくは、仕方なくちょっと離れた場所に立って、コンサート目的の客を待っていたのだが、高校生アベックの目には変態のぞきおじさんに映ったのではないだろうか。本当に困った。

 デートは明るいところで堂々とするか、暗いところに行くかどちらかにすべきであって、薄暗い場所は選択すべきではないということだ。 
 朝倉喜祐著「知られざる抑留八年の記」後編を読み終えた。最後の部分を添えます。

 こうして私は故郷吉崎の地に戻った。その後、先輩友人、寺の門徒衆の温かい力添えで福井県で教職につくことができた。昭和三十一年、新聞の満州よりの引揚ニュースをみて、私たちの仲介毛利夫妻が帰国されることを知った。本名大塚有章氏(山口県出身)で共産党員 昭和七年の大森銀行襲撃事件の首謀者で、網走カンゴクで刑を終えて満州映画に勤務されていた。帰国を知って思想の相違は問題外、私たちの仲介でお世話になった方だったので舞鶴まで出迎えにいき、皽山でのお礼と帰国の喜びを申し上げた。その時、立命館大の総長をしておられた末川博氏がきておられたと思う。その後も上阪するとお宅へお伺いしたが、夫妻は常に笑顔でむかえ、幸せに暮らしていることを喜んでくださった。大塚夫妻は、私たちとの話合いの中で、河上肇博士が義弟であり、末川博博士が義兄であり、難波大助が従兄弟であることも、現在なさっている活動についても何一つ語ったことがなかった。ただ「未完の旅路」(三一書房出版)・大塚有章著を送本していただいて、はじめて主義に生き抜いた仲介夫妻の生きざまを知ることができ、頭がさがる思いがしたものだった。

 私は、昭和五十三年、県教育功労者としての表彰を受け、昭和五十五年定年退職した。
 思えば昭和二十年八月の終戦満州国の崩壊で、一度は死を覚悟した身でありながらこの年まで、私をとりまく方々の友情に支えられて、何とか生きさせていただいた事をつくづく有難いと思うこの頃である。抑留八年間、共に働き、共に苦しみ、共に励ましあい、共に祖国の土を踏むまではなんとしても生き抜いていこうと誓いあった友の内、その望みを果たせず大陸に骨を埋めた仲間の霊に対し、心より冥福を祈りこの文をとじる事とする。

今宵また 追憶の旅や 夢枕   喜祐201407